「王妃の紋章」

 満城尽帯黄金甲 (Curse of the Golden Flower)

 (2008/05/05)


  

今回のマクラ

 今年3月のチベット自治区・ラサで起こった騒乱を発端に、一連の混乱が続いている。これが、折りから始まった北京オリンピックの聖火リレーにも「飛び火」。世界各国で聖火争奪戦の様相を呈するという、オリンピック史上でも例を見ない事態が起こっている。みなさんも新聞、テレビなどで連日報道されているから、イヤでも耳にしていることと思う。

 これについては多くの人々が、それぞれ持論・異論・反論あれこれ持っておられるだろう。それらの東西南北・前後左右すべての立場の人々にはどちらにもそれぞれ言い分があるんだろうが、どちらにも同じくらい矛盾や大きな声で言えない部分もあるような気がする。さらにもっと言えば、どちらの側も実際に言っていることと何か別のことが本音にはあるようにも思われる。

 だが、それらはともかくとして、人々の声を力でねじ伏せたり、都合の悪いことは「臭いモノにはフタ」でダンマリを決め込んだり、よその国にコワモテの警備隊を派遣したり、やたら身内に動員をかけて沿道をデカい旗と人の群れで埋め尽くして相手を威嚇したり…こうもあまりにあんまりなやり口ばかりを見せつけられると、いかがなものかと思ってしまうのが普通の感覚だろう。ギョーザもウヤムヤのまま環境汚染も放ったらかしで、何かあると一方的な被害者意識ばかりを前面に出すというのでは、さすがに誰でもその主張を素直に受け入れがたいのではないだろうか。

 僕は中国の人には悪い感情を持っていない。個人的には大変世話になったことがあるし恩義を感じている人もいる。だが、ここ最近の動向を見ていると、国としての中国のやっていることにはいささか無理があるような気がしてならない。そんな無理を承知でゴリ押ししているから、余計見苦しく感じられてしまうのだ。

 これはどこかで読んだことの受け売りだし、それがどんな立場や主張の人によって言われたことか分からないのであまり大きな声では言えないのだが…何でもアヤ付きのオリンピックを開催した強権体質の国は、それから10年前後で崩壊しているのだという。

 ヒトラーのプロパガンダに終始した1936年のベルリン五輪から、ナチス・ドイツは10年ももたなかった。アフガン侵攻への抗議で西側諸国にボイコットされた1980年のモスクワ五輪から11年後、1991年にはソ連は解体されていた。そういえば1940年に東京五輪をやろうとした日本も、結局五輪は開催できずに1945年には国土は焼け野原になっていた。これも開催決定の1936年から勘定したら9年後だ。

 目一杯気張って背伸びして、無理しているようにしか見えない今回の北京五輪。聖火リレーでこの状態では、本番になったら一体どうなってしまうのか。仮に何とか上辺だけは取り繕えたとしても、その後タダで済むのだろうか。突っ張って突っ張って突っ張り通したところで、いずれそんな虚勢は行き詰まるのではないか。オリンピックや万博や月ロケットの前に、やらなきゃいけないことがあるんじゃないか。

 そういえば戦前の日本も、オリンピックと万博を同時にやろうと無理していたっけ。その時の日本は世界の一等国に追いつけ追い越せ、何とか自分の存在を先進国に認めさせたくて、無理に無理を重ねていた。結果どうなったかは、みなさんすでにご承知の通りだ。それが今のあの国の姿に、どこかダブって見えてこないだろうか。

 繁栄と発展の陰で、目に見えない何かが忍び寄っている。

 あまり軽率なことは言いたくないし、誰かの尻馬に乗るようなこともしたくない。人の国のことをゴチャゴチャ言うのが失礼千万とは百も承知。それでも、少しはそんな心配をしたほうがいいんじゃないのかと、人ごとながら言いたくもなるのである。

 

見る前の予想

 この作品、その存在はかなり前から伝わってきたのだが、なかなか日本に公開されなかった。

 一時はお蔵入りとのウワサまで流れたので、さすがにその時には「カンベンしろよ」と言いたくなった。だって天下のチャン・イーモウの新作でしょう? おまけにチョウ・ユンファが主演。このチャン・イーモウ&チョウ・ユンファの「夢の顔合わせ」だけでも映画ファン的にはオイシイ。おまけにかつてのチャン・イーモウの「ミューズ」コン・リーが復帰と来る。これで期待しない映画ファンはいない。何でこれをお蔵入りにするの?…と思わず言いたくなってしまった。

 ただ、これで公開されると決まってみると…人間ってのは現金なもので、いろいろと疑問がムクムクと鎌首をもたげてきたのだ。

 HERO/英雄(2002)、LOVERS/謀(2004)と続いたチャン・イーモウの豪華エンターテインメント路線。しかし高倉健の起用による単騎、千里を走る。(2004)の発表によって、そのエンターテインメント路線はすでに終止符を打たれたはずではないか。ところが、またしても中国語圏のスーパースターを起用しての豪華エンターテインメント大作。予告編を見ても、またしても贅を尽くした映画づくりを実行しているようだ。金がかかっているのは高倉健の飛行機代とデジタルビデオカメラ代ぐらいにしか見えない「単騎、千里を走る。」とはえらい違い。…というより、これはまた元の路線に一歩後退としか見えないではないか。ひょっとしてお蔵入り寸前だったというのは、そのへんの事情も何となく絡んでいるのだろうか?

 そんなこんなで何となくこの作品のイメージは、僕の中では決して良くなかった。おまけに予告で繰り返される壮大な画面…広大な宮殿に敷き詰められた無数の菊の花、宮殿に雲霞の如く殺到する無数の軍勢…そのあまりに途方もない「壮大」さに驚き感嘆しながらも、何となく空しさも感じていたのが正直なところなのだ。

 確かにさすが「白髪三千丈」のお国柄。やる時は徹底しているのは分かっているが、何となくこんな超大作ばかりやられてもシラける。しかも高倉健との意欲的な異色作の後にこれだ。カネかけりゃいいってもんじゃないだろう。

 おまけにチャン・イーモウが国の御用監督として北京オリンピックの開会式の演出を手がけるという話も聞いていたから、ますますシラケが加速する。これって北京五輪の開会式みたいなもんか。今じゃすっかり国の御用監督。壮大で豪華絢爛で…しかし、どこか虚しく空疎だ。

 見なければ…と思いつつ劇場に足は運んだものの、僕の気分は今ひとつ晴れないのだった。

 

あらすじ

 中国、唐の時代の末期。

 早朝、その荘厳で華麗な王宮の中では、また新たな一日が始まろうとしていた。特殊な打楽器を打ち続けながら、侍女たちが別の侍女たちを目覚めさせている。早速、身支度を済ませた侍女たちは、三々五々散ってそれぞれの持ち場に就く。

 そんな中、長らく遠征に出かけていた王が、この王宮に戻ってくるという知らせが飛び込む。お付きの者を従えて、王妃(コン・リー)も動き出した。しかし王妃は誰も見ていない時に、こっそりと顔を苦痛にゆがませる。彼女を苦しませているものは一体何か?

 そんな王妃が訪れたのは、皇太子(リウ・イェ)の部屋。皇太子が王宮を出て外地に行くことを希望していると聞き、その真意を質すためにやって来た。

 実は皇太子は前・王妃の子で、今の王妃にとっては義理の息子。そんな皇太子と王妃は、人知れず不倫の関係を何年も続けていた。しかしさすがにマズイと感じた皇太子は王宮を離れて関係の清算を目論み、それを察した王妃が彼にクギを刺すためにやって来たわけだ。だが、父王の怒りを買うのを恐れた皇太子は、もぅすっかり腰が退けている。そんな彼の態度に、王妃は失望をおぼえずにはいられなかった。

 そんな王妃には、もうひとつ思うに任せぬことがあった。新たな時刻が告げられるたびに、お付きの者より一杯の薬を飲まされることになっていたのだ。だが王妃は、この薬に本能的に不信感を抱いていた。

 それはともかく、王宮の中庭に出てきて、王の帰りを出迎えようとする王妃、皇太子、そしてまだ年若い第三王子(チン・ジュンジエ)。だが彼らを待っていたのは、王が王宮には直接帰らず、一旦、王宮の外にある砦に寄ってから帰る…という知らせだった。

 その砦には、第二王子である傑(ジェイ・チョウ)が派遣され、王国の護りを任されていたのだ。そんな王の突然の来訪に、正直言って戸惑う第二王子。王はいきなり第二王子と剣を交えて、その圧倒的強さを思い知らせる。その上で、もっとも伝えたかったであろうメッセージを伝えるのだった。「わしが与えるモノ以上のモノを奪おうとするなよ」

 そんなこんなで父子揃って王宮に戻ってきたが、第二王子は母親である王妃の異様なやつれぶりに、さすがに心配にならざるを得ない。久しぶりに王家が全員揃った食卓でまたぞろ例の薬が差し出されると、王妃は飲みたくないとこれを断固として拒んだ。しかし、これは王妃の病を治すべくわざわざ王が調合した薬。王子たちも為す術もなく、王妃も憮然としながら結局黙ってこれを飲むしかなかった。

 実はこの薬、王の命令で彼の腹心である宮廷医のジャン・イールー(ニー・ターホン)に調合させたもの。その中身とは、飲んでいるうちに身体が徐々に犯されていくトリカブトの毒入りだ。医師のジャンはこれを侍女として王宮に奉公している娘のジャン・チャン(リー・マン)に持たせて、毎日、時が告げられるたびに王妃に飲ませていたというわけだ。むろん王は、王妃の不貞に気づいていないわけがなかった。

 そして、そのことは王妃本人も薄々感づいていたのだ。しかし王の命令とあらば受け入れざるを得ない。そんな彼女は訳ありの女…かつてその顔に「罪」の刻印を押されたジェン・シー(チェン・ジン)を自分の側に引き入れ、それとなく様子をうかがっていたのだ。

 そんなジャン・シーは、実は宮廷医ジャン・イールーの妻。悲惨な境遇に陥れられたらしい彼女を黙って受け入れたのがジャン・イールーで、二人の間に生まれた娘がジャン・チャンというわけだ。そんなジャン・シーは、王に何やら深い恨みを抱いているらしい。

 ところがジャン・シーが宮廷内を探っていると、不運にも皇太子に気づかれて捕らえられてしまう。密偵を捕らえたと聞いて見に来た王は、そこにジャン・シーの姿を見て唖然呆然。思わず言葉を失った。果たしてこの二人の過去の因縁とは一体…。

 その一方で皇太子は例の宮廷医の娘ジャン・チャンに惹かれ、秘かに情を交わしていた。だから皇太子はこの王宮を去り、王妃からも離れようと思ったのだ。それに気づいた王妃はまたしても逆上する。

 表面上は何もないかのように振る舞いながら、内面ではドロドロの愛憎が渦巻く。そんな一家の様子に、ひとり無邪気な表情の第三王子ですら、何か不吉なものを感づかずにはいられなかった。

 そして、王妃は徐々に衰えていく身体にムチ打ちながら、夜な夜な「菊」の花の刺繍を縫い続ける。何から何まで「菊」「菊」「菊」のオンパレード。それは来たる9月9日の「菊の節句」、王家の人々が一堂に会する祝祭をめざしてのこと。その、まるで何かに憑かれたような王妃の姿に、第二王子は心配にならずにはいられない。

 しかし彼女の「菊」の花には、実は驚愕の意図が隠されていた…。

 

いまや国民的映画監督、チャン・イーモウの内憂外患

 思えばチャン・イーモウが「紅いコーリャン」(1987)で国際舞台に鮮烈に登場したのは、もう今から20年以上前のことになる。

 最初は「黄色い大地」(1984)のカメラマンだった…という肩書きが付いて、同作で頭角を現したチェン・カイコーを追う好敵手としての位置づけだった。後にチャン・イーモウのコメントによれば、「黄色い大地」は自分たちがチェン・カイコーに「撮らせてやった」作品…とすっかり上から目線の発言をしていたが(笑)。

 以来、あの子を探して(1999)や初恋のきた道(1999)など、当初はいかにもアートシアターにこそ似つかわしい作品をつくりつつ、いつの間にか幅広い観客にもアピールする映画話術のうまさを磨き上げて来た。そしてそれまでの素朴・純朴路線を急旋回させて、いきなりエンターテインメント大作「HERO/英雄」「LOVERS/謀」を発表。文字通り中国映画の頂点に君臨するに至ったわけだ。

 それまでは共に中国映画ニューウェーブの旗手として、まるで1960年代のビートルズとローリング・ストーンズみたいに競り合いながら作品を発表してきたチャン・イーモウとチェン・カイコーだったが、ちょうどチェン・カイコーがもたついている隙のこのエンターテイナーへの変身ぶりで、チャン・イーモウはイッキにかつてのライバルを引き離した。チェン・カイコーが豪華エンターテインメント路線に転じてPROMISE/プロミス(2005)を発表するのは、そのチェン・カイコーがまたまた激しい路線変更をした「単騎、千里を走る。」(2004)とほぼ同時期だから、いかにチェン・カイコーが彼の後塵を拝してしまったかが分かる。

 その「単騎、千里を走る。」は、ある意味でそのチェン・カイコーの「PROMISE/プロミス」とどこか映画作りの姿勢や方法論で相通じるところを持っていながら、それまでのチェン・カイコーとは大きく変わった方向性を見せていただけに、今後に大きな期待と興味を持たせる作品だった。何しろ日本の高倉健と組むなんて、正直言ってまったく予想していなかった。だから「HERO/英雄」、「LOVERS/謀」と続いて早くも行き詰まった感のあるチャン・イーモウ娯楽大作路線が、ここで新たな突破口を発見したような気がしたわけだ。

 ところがここへ来て、またしても中国豪華時代劇大作への回帰とは…チャン・イーモウが一体何をやりたいのか全く分からない。

 しかも…僕は一部の映画ファンのように、「清貧主義」にかぶれた人間ではないつもりだ。だから映画に大金を投じようがCGを使おうが、それだけで作品をケナすような輩とは、断固として一線を画している。大型資本を投じたエンターテインメント大作大いに結構。あの「PROMISE/プロミス」だってかなり楽しんだクチなので、今度の映画が大金を使ったことだって、それ自体はまったく問題にする気もない。

 ただ…な〜んとなく違和感があるのは否めない。

 いつまでも農村を舞台に純朴で野太い作品をつくっていればいいってもんじゃない。ジェット・リーやらトニー・レオンなどスターを使っての娯楽映画も大いに結構だ。そうは思っていたのだが、これほどまでにあまりにこれみよがしな「壮大」さを強調されるといかがなものだろうか。今度の新作「王妃の紋章」の度を超した豪華絢爛ぶりには、ちょっと鼻につくものを感じないではいられなかった。

 まぁ、人は変わるし立場も変わる。僕だって昔同様ではあり得ない。だが、かつては農村に下放されたのが「売り」で文革恨み節をうたってきたような男が、今じゃキンキラ豪華映画の巨匠でしかも北京オリンピック開会式総合演出となると、正直言って「なんだかな〜」って気がしないわけではない。

 しかもかつての好敵手(とチャン・イーモウは思っていないらしいが)チェン・カイコーと比べても、どこか小器用に立ち回っている感じが強い。だから余計僕の中でのチャン・イーモウ観は、あまりイイものになっていなかったわけだ。何となく男らしくない、セコい、計算高い、世渡り上手、女に汚い(笑)、いつの間にか長いモノに巻かれてるヤツという感じだ。映画づくりはうまいけど…いや、なまじっか半端じゃなくうまいだけに、そこがイヤらしくも感じられるわけだ。

 ただ、実はこの男、活きる(1994)のカンヌ出品での一件では、当局にかなりイヤな思いもさせられている。それゆえの屈折した思いもあるようで、だから「よりしたたかに振る舞わねば」と思っているフシもあるようなのだ。

 「敵を凌駕するには、まず敵を手中に収めねば。そのためには敵のフトコロに入れねば。」…と思ったか思わなかったか。

 だから何かというと「チャン・イーモウは日和見」という印象が強い僕も、実はその内面で腹にイチモツ的に何か考えているのでは…と思ったりもする。いや、思いたいのだ。あれだけしたたかな映画をつくって来た男…ワンパターンの抗日映画から脱して「酒に小便をブッ込んだらいい味になっちゃう」なんてことをヌケヌケと語った男、アートシアター向けに中国の純朴初恋映画をつくるふりをしてジェームズ・キャメロンの「タイタニック」(1997)にライバル心ムキ出しに挑戦した男…そんな男がお上にすっかり飼い慣らされて、オリンピック開会式を任せられて見たまんまゴロニャンするはずがないではないか。

 見たまんまなら、確かに飼い慣らされて御用監督で、作品は無駄に豪華で空疎だ。だが、本当にそうだろうか? 見たまんま、感じたまんまが実体なのだろうか?

 まぁ、どこの世界でもそうだが、「そのまんま」ほど疑ってかからねばならないものはない(笑)。

 それはともかく…映画の世界は「見て分かる」世界である。だからこそ、「そのまんま」では芸がない。そこであえて何かを伝えようとする時には、見たまんま「以上」か「以外」か、何かサプライズが付加されている場合が多い。

 ここはあえて見たまんまを疑うのが、映画の見方としてはむしろ正解なのではないか?

 

見た後での感想

 で、肝心の映画だが、実は「巨匠」チャン・イーモウ作品としては、世評はあまり芳しくない

 僕が思っているようなことをみんな思ったのか、大体同じようなところを指摘している。いわく壮大だけど壮大すぎて空疎。一見スケールでかく思えるが、実は家族の中でチマチマ展開する陰湿で発展性のないドラマ…。

 まったくその通りである。

 セットはどれもこれもキンキンキラキラ。おまけに無駄にデカい。そんな王宮の広大な中庭に、菊の花をびっしり敷き詰めるあたりの無駄さ加減ったらない。

 もっと無駄になるのは人の命で、コロコロバタバタと倒れていく。この王宮の庭にはまるで「風雲たけし城」みたいな仕掛けがあって、そこで兵士たちが山ほど串刺しになって何十人何百人と倒れていく。これほどの無駄はない。

 しかもそれらの繰り広げる戦いがまたすごくて、王側の警護兵が反乱軍に数で圧倒されあっという間に蹴散らかされたかと思いきや、次の瞬間にもっと多い軍勢がドッと現れて反乱軍をたちまち鎮圧。さらにさらに、それらの屍を片づける王宮の下働きの人々がアリンコみたいにもっと多い数現れて、反乱軍の遺体はたちまち消えてなくなる。そこに水がブチまけられて血は洗い流され、さらに大量の菊の花がまき散らされて…ついさっきまでの激しい戦闘の様子は、微塵もなくなってしまうのだ。これには驚いた。

 この壮大な無駄。

 しかも王家の人々のいがみ合いは、確かにドロドロではあるが、実はそれほど大した話でもない。要は国王の傲慢さ冷酷さが招いたしょうもない話でしかない。「人間とは何と悲しいものよ!」と万人が天に向かって嘆き悲しみたくなるような、誰しもが共感し逃れられないものと感じる「人間の原罪」みたいなものではないのだ。そんなギリシャ神話的な高級なものではない。もっと下世話でしょうもない話なのである。言ってしまえばくっだらない話だ。つまりは「親父がクソ」なのである。僕らがそこから何かを学ぶわけでもなければ、我が事のように思い当たるフシもあまり感じられない。まるで人ごとのようだ。しかも、結局はすべての反乱は鎮圧され、そのクソいまいましい親父が勝利してしまう

 そして「親父がクソ」になった原因も描かれなければ、そうなってしまった経緯も何も語られない。そもそも王家の家族とその宮廷医の家族ぐらいしか描かれなくて、話の普遍性もスケール感も感じられない。それでいてあの物量と無駄。なんじゃこりゃあ?…と思われても仕方がない。いきなり末っ子王子がキレるのも、あまりに唐突だ。

 一体どうなっちゃってるの?…と言いたくもなるが、実はそのあたりで僕は、ここ最近のチャン・イーモウの映画作りの話法に思い当たった。

 そういや「LOVERS/謀」も「単騎、千里を走る。」も、脚本としては緻密どころか破綻が少なからずあって、乱暴ですらある。それを抜群の演出力でねじ伏せることで、圧倒的パワーを獲得してきたのがチャン・イーモウだ。どうしてもチマッと整った映画づくりをしがちな彼が、映画のパワーを創出するためにあえてドラマトゥルギーを破綻させたんじゃないかと、その時は思ってもみた。

 実は今回も、僕は語り口に同じような印象を持った

 ひょっとしてモチーフとしては黒澤明の「蜘蛛巣城」(1957)を下敷きにしているのかもしれない。本来そのウツワでない男が王になった…というシチュエーション(チョウ・ユンファ王がムキになって末っ子王子を叩き殺す大人げなさを思い出していただきたい)、裏切りが原動力となるドラマ展開、壮大なスペクタクルで矢がドシャ降り雨のように降り注ぐトゥマッチ感…など、「HERO/英雄」に「羅生門」(1950)を引用した黒澤マニアのチャン・イーモウなら、おそらくそのはずだ。そして「蜘蛛巣城」の引用さえ出来ていれば、もうわざわざチョウ・ユンファの王のキャラクタースタディをすることもないと思ったのかもしれない。

 そして話の大枠が決まったら、あとは持ち前のパワフルな演出力で、すべてをなぎ倒す勢いで語り倒してしまおう。そうすることで、キチキチ作り込んだ話にはないダイナミズムが生まれるのではないか。そんなことを考えたようにも思える。

 しかし、それにしても…のあまりにザルで大まかな脚本だ。王妃の心の動きもあまり丁重に描かれているようには思えない。というか、主人公クラスの人々の心情を描こうとはしていない。まるでこれは、作り手が「本当は王家の人々のお話なんか言いたいんじゃない」…と思っているかのようだ。

 いや、確かに「王家の人々のお話なんか言いたいんじゃない」んじゃないか?

 

中国文化の担い手チャン・イーモウの苦渋

 何を今頃コン・リー起用…と思ったが、映画本編を見てよく分かった。この映画の脚本は、まるで書き込まれていない。ここでコン・リーぐらいボリュームのある女優が出てこなければ、とてもお話がもたないと思っていたのではないか。チョウ・ユンファもそのボリューム感と貫禄「のみ」を買われての登板だ。さらに皇太子役のリウ・イェパープル・バタフライ(2003)、ジャスミンの花開く(2004)、そして「PROMISE/プロミス」と、最近すっかりアブない役ばかり回って来て今後が心配になってくるが…これもまた「いつものキャラクター」で起用されたのは明らかだろう。

 つまり、役者はみんな「格」で使われているのである。

 となると、人間のドラマはスターの「格」でもたせりゃいい…それくらいの重要度でしかなかったことが分かる。それではチャン・イーモウは一体何を描きたかったのか?

 イマドキあっちこっちで騒がれている北京五輪がらみの話に、僕は便乗したいとは思わない。それにこの映画が実際に制作公開されたのはずっと前で、今のタイミングに合ってしまったのは日本公開における単なる偶然だ。しかし少なくとも僕は、今この映画を見る限り…この映画が「それ」と無縁であるとは思えない。

 粛々と迎えつつある国家の祝祭の日。それは決まりであり、チョウ・ユンファ王いわくの「規範」だ。だからどんな矛盾や不満、不手際があろうとも、いかなる犠牲を払おうとも、それらは必ずやり遂げられなければならない

 だが、そんな祝祭の背後では「おめでたさ」どころか着々と腐敗や不正が進行している。そしてそれらは祝祭を呑み込まんばかりだ。そこにタイミングを合わせて、何かが起きることだってあり得るのだ。

 ただ…確かに何だかんだ言っても、それらは厳然と押さえつけられてしまうかもしれない

 そして押さえつけた後には、まるで何もなかったかのように整然とした祝祭が続行されるかもしれない。あの大殺戮の後の迅速な片づけと菊の花散らしは、そうとでも受け取らないと理解できないではないか。

 しかしそのように不穏な動きを押さえつけ、その痕跡すらとどめないように消し去ろうとも、それですべて無事とは限らない。確かに結果はチョウ・ユンファ王一人勝ちだが、王妃の心は完全に離れ、世継ぎと頼る子供たちは一人残らず消えた。後に残った王も、もはやただ死を待つ運命である。もうこの王国に明日はないのだ。

 これが「それ」を描いているのでないとすれば、一体何を描いているというのだ?

 突然前触れもなくキレる末っ子王子など、調子に乗ってそそのかせてたら、フランスのスーパーに怒鳴り込んで今さらコントロールがきかないイマドキの若者たちみたいではないか。何でもかんでも政治的メタファーと受け取るのはあまり好きではないが、この映画ばかりはそう受け取るのが自然に思える。

 北京オリンピック開会式総合演出のチャン・イーモウなのにも関わらず…いや、それだからこそ…「それ」が言いたくもなるし、実際に彼ならば言える。彼にはちゃんと見えているのではないか、「それ」の実体と行き着く先が

 それが100パーセント万々歳なものでないくらい、分からない彼ではないだろう。だからこそ彼は、この作品に託して自分の思いを秘かに伝えているのではないか。本来だったら1910年代を舞台にしたという「雷雨」なる戯曲をネタにしながら、わざわざこんな唐王朝に時代と舞台を移したのには意味があるはずだ。この壮大さと国家的規模こそが、彼は欲しかったのではないか。チャン・イーモウは飼い慣らされたと見えて、どっこいチャッカリ言いたいことは言っているのである。

 ならば、彼はなぜそこから逃げないのか?

 ヘタをすれば、後世で彼はベルリン五輪に荷担したレニ・リーフェンシュタールみたいに扱われかねない。「それ」の危険性をこれだけ分かっているチャン・イーモウに、そうなることが分からないはずがない。彼なりに言いたいこともいろいろあるだろうし、100パーセント賛同しているはずなんかない。ならば、なぜ、あえて在野でいようとしないのだ?

 しかし、そこが僕はチャン・イーモウのチャン・イーモウたる所以ではないかと思う。

 確かにこの「王妃の紋章」という映画の美術は、壮大かつ無駄で空疎だ。デカすぎて空しい。それを「空しい」と描きたいのだから当然のことながら、それにしたって不毛な豪華さだ。

 しかし不毛ではあっても、そこに中国の文化と美学の粋があることだけは、どこの誰から見ても間違いないだろう。

 空疎で無駄であろうとも…矛盾かもしれないが、そこに無視できない…否定しきれない素晴らしさ・美しさがあるのは間違いない。そして、それは確かに中国オリジナルのものだ。そこに、チャン・イーモウの真意が隠されているような気がする。

 国家的スケールの巨大な祭典。そこに潜む矛盾やそれを支える体制の腐敗、さらに深々と刻まれつつある亀裂に、知性派のチャン・イーモウが気づかないわけもない。それに荷担することの危険や愚劣さも、十分すぎるくらい分かっているはずだ。

 しかしそうであろうとも…それが中国四千年の果てに辿り着いたひとつの到達点ともいうべき、エポックメイキングなイベントであろうことは、これまた否定することができない。外国人ならばその実現に疑問を抱いたり意義を唱えたり、ボイコットと叫ぶこともできよう。だが自らが中国人である彼は、それはしたくない…否、できない。なぜなら彼はその重要性を分かりすぎるくらい分かっているし、それに高揚し陶酔する自分も、そこには否定しがたく存在しているからだ。これはおそらく僕らヨソ者には分からない。

 おそらくチャン・イーモウは、中国文化・中国芸術・中国美学の担い手として、誰にも負けない自負心を持っているはず。ならばそこにいかなる汚辱や災厄があろうとも、「それ」から逃れ否定することなどは出来ないのだろう。中国文化の正当な継承者たる彼には、そんな選択肢はあり得ないのだ。

 いかに冷静にそのネガティブな部分に気づいていても、最終的に中国文化そのものは否定できない。ならば例えどんなことがあろうと自分にはこれしかない、これから逃げることなど出来ない、これで世間に分かってもらうしか他にはない。

 そして一度荷担すると決めたら、もはや中途半端はあり得ない

 こうなったら自分はむしろ「それ」と徹底的に向き合い、中国文化の粋をトコトン極めて、どこまでも地獄の果てまで全うするしかない。彼はそれが自分の「逃れられない運命」と、心底そう思い詰めたのではないだろうか。

 これって僕の考えすぎだろうか?

 確かにあまりにドンブリが大きすぎて、そこに入れる料理が大味すぎてしまったようなこの映画。でも、底には何か理由があるように思えてならない。そんな風に見てみると、チャン・イーモウのやむにやまれぬ思いが、そこには感じられるのである。

 

見た後の付け足し

 そんなギトギトで陰惨な家庭崩壊劇の果てに、この映画は唐突に幕を下ろす。そんなこの映画の終幕は、なぜか主演者のひとりジェイ・チョウの歌で締めくくられるのだ。

 ジェイ・チョウといえばあの快作頭文字<イニシャル>D(2005)での爽やかな主演ぶりが忘れられない。この映画でも全編ギトギトな中で唯一爽やかな清涼剤的役柄で、ますます好感度がアップ。しかしこれほど重厚なギトギトドラマの幕切れに主題歌とは…ちょっとこれはいかがなものかと瞬間的に思ってしまった。確かにジェイ・チョウは人気歌手が本業なのだろうが、それってちょっと安易な営利主義ではないのか。チャン・イーモウにしては、それってちょっとヌルくないか?

 しかしエンド・クレジットに流れるジェイ・チョウのどこかセンチメンタルな歌を聴いているうちに、僕の考えはちょっと変わって来た。

 この映画のエンディングは、先にも述べたように暗澹たるものだ。未来を託すべき若者は、みな悲惨に命を落とした。愛を語るべきだったはずの王妃は、すべて憎しみだけを抱いて災いを招き寄せた。一人勝ちしたはずの王も、もはや何も持っていない。恐ろしく孤独で、恐ろしく希望がない。この王国にも、たぶん明日はないはずだ。思い出していただきたい、このドラマの時代設定は「唐の末期」の設定なのである。

 まるで、すべては滅んでしまうかのようだ

 だがそこにジェイ・チョウの歌声は、まるでセンチメンタルすぎるくらいのテイストで流れていく。

 それは確かにセンチで甘っちょろくも聞こえるが、一方で純朴で人のぬくもりを感じさせるようにも聞こえる。「自分しか愛せないし信じない」国王、「憎しみしか抱かない」王妃、「明日に希望がもてない」王子たち…そんな中で唯一、「王座が欲しいわけでなく母親を救いたいがため」だけに反乱を起こした第三王子役、ジェイ・チョウその人がこの歌をうたっていることを思い出していただきたい。

 そこにこそ、実はチャン・イーモウの本音が隠されているのではないか。

 例え巨大な祭典を遂行できたとしても、その後に待っているのは暗澹たる未来かもしれない。おそらくタダで済むとは思えない。都合良くすべてが無傷でいられるわけがない。洞察力の鋭いチャン・イーモウならば、そんな不吉な前兆を感じていないわけがない。

 だが、そうは分かっていたとしても、未来への希望は捨てられない。人間への信頼は忘れたくない

 ならばこそ徹底的にシビアな現実感覚や人間不信などより、「甘っちょろ」くて「センチ」かもしれないが、「善良」な「純朴さ」こそをとりたいではないか。

 ドラマのあまりの救いのない陰惨さに辟易とした僕らに、まるで恵みの雨のように降り注ぐジェイ・チョウの歌は、そんなチャン・イーモウの「願い」「祈り」のように感じられるのである。

 

 

 

 

 

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