「クローバーフィールド/HAKAISHA」

 Cloverfield

 (2008/04/14)


  

見る前の予想

 この映画のウワサは、かなり前から耳にしていた。

 何でも最初はアメリカでもタイトルを発表せず、自由の女神の頭がぶっ飛んだビジュアルだけ出していたらしい。それで「アレは何だ?」と騒ぎになったとか。

 さらにこの映画、ネットを活用して何やら情報を流しているらしく、日本企業が関係しているとか、日本がネタ元だとか、あることないこと言われていた。その時点では一体どんな映画だか全く分からず、何やらSFホラーらしい…としか思っていなかった。つくったのがあのM:I:III(2006)を監督したJ. J. エイブラムスというのも、今ひとつ掴み所がない感じがする。

 しかしいよいよ予告編が上映され始めると、アレレレ…「国防省のデジタル資料の何号」だとか、「民間人なにがしのビデオカメラで撮影された映像」だとか、「貴重な資料映像」だとか、何となくコケ脅し的な文字がいきなり画面に出てくるではないか。

 そして出てきた本編の映像を見て、僕は直感的に「アレか!」とピンと来た。たぶんそう思ったのは僕だけではあるまい。

 こうなってくると、人から中身を聞く前に何としても実物を自分の目で見なくてはいけない。こういう映画には批判的な映画ファンは多いが、ハッキリ言って僕はこの手の「お祭り」映画ってキライじゃない。というか、ズバリ言って好きだ。それでなくてもSF映画などは好きなところに、この何ともナゾめいた仕掛けが嬉しいじゃないか。ハッタリ、大いに結構だ。

 公開初日には用事があって行けなかった僕だが、翌日の日曜日には待ちきれずに劇場に飛んでいった次第。

 

あらすじ

 これは合衆国国防省デジタル記録のうち、いわゆる「クローバーフィールド事件」の目撃例のひとつ。かつてセントラルパークと呼ばれた場所で発見された、民間人のビデオカメラに収録された映像である。

 映像は明け方のアパートの一室から始まる。カメラを持っているのはロブ・ホーキンス(マイケル・スタール=デヴィッド)という若い男。ベッドには恋人とおぼしき若い女性ベス(オデット・ヤストマン)がまどろんでいる。高層アパートの窓からはセントラルパークが一望だ。

 …と、突然映像が乱れて画面が変わる。どうやら先のアパートでの映像を録画したビデオに、上から新しい映像をかぶせて録画してしまったらしい。

 この新しい映像は先ほどのロブという若い男の「お別れパーティー」の模様を収録したもののようで、最初に撮影しているのはロブの兄のジェイソン(マイク・ヴォーゲル)。どうやらロブは日本企業の副社長という異例の出世を果たしたため、急遽、東京へと旅立つことになったようだ。このパーティーはそんなロブの送別会なのである。

 ジェイソンと恋人のリリー(ジェシカ・ルーカス)はロブのアパートの部屋を模様替えして、パーティーの準備に余念がない。だがジェイソンはビデオ撮りに飽きたのか、パーティー会場にうろついていた気のいい男ハッド(T・J・ミラー)にビデオ撮影を頼み込む。この男も調子のいい男で、パーティー客を全員撮影するというのを口実に、彼が前々から目を付けていたマレーナ(リジー・カプラン)ににじり寄ってはアレコレ話しかける。だが今ひとつ女心が分からないハッドは、マレーナに全然相手にされていない。

 そんなこんなで主役不在でいいかげん盛り上がったところで、当のロブ本人がいよいよご登場。

 「サプラ〜イズ!」

 聞いてなかったロブは大喜び。場はまた一段と盛り上がる。だが、それもパーティー会場にあのベスがやって来るまでのこと。しかも来るに事欠いて、ベスは別の男同伴でやって来るではないか。どうやら何とも訳ありの様子。ここでジェイソンとリリーの「ここだけの話」の中に、おじゃま虫のハッドのカメラが割り込む。

 どうやらロブはずっと前からベスに想いを寄せていて、ようやく彼女の心をつかんだところだったらしい。ところが運命の皮肉か、彼はそれからすぐに日本へ行くことになった。ならば彼女との付き合いをダラダラ続けても仕方がない。ここは男らしく想いを断ち切ろう…てな一人合点な「思いやり」で、ベスに別れを切り出したらしい。そうなれば彼女だって別の男の一人ぐらい連れて来たくなろうというものだ。

 しかし、いざそうなってみると、やっぱり未練たらたらのロブ。結局なんだかんだとベスに突っかかって、その場はたちまち険悪な雰囲気になってしまう。さすがに嫌気がさしたベスはパーティー会場を立ち去ってしまい、見かねたジェイソンたちはロブにアドバイスする。「彼女のもとに行ってやれよ、そして謝れ。このまま彼女と別れたら、オマエは絶対に後悔するぞ!」

 そうは言われても、ただ悶々とするばかりのロブ。

 ところが、そんな最中にいきなりド〜〜〜ン!と凄まじい爆発音。そして建物が激しく揺れたあげく、一時的に停電してしまうではないか。一体何があったのか。

 テレビを付けると、どうやら港の方でタンカー事故があったという話。しかし、今の音と揺れはそんなものじゃなかった。ロブ、ジェイソン、ハッドとパーティー客たちは、好奇心いっぱいでアパートの屋上へと上がっていく。

 外はすっかり日が暮れて夜。マンハッタンの明かりがまばゆいばかりだ。パーティー客はまるで今夜の余興のようにハシャいでいる。そんな最中…。

 ドッカ〜〜〜〜〜ン!!

 遙か彼方のマンハッタンのビル街から、激しい爆発音と火柱が立ち上るではないか。さすがにこれにはみんなビックリ。しかもその大爆発のあおりで、熱を持った破片が雨あられと降り注いでくる。たちまちロブ、ジェイソン、ハッドとパーティー客たちは、脱兎のごとき勢いで階段を駆け下りる。もう余興のような華やぎはカケラもない。みんな阿鼻叫喚、すっかり怯えきった様子でビルから逃げ出した。そしてビルの出口から外に出てみると…。

 激しい破壊音と共に、「何か」がこちらに目がけて飛んでくるではないか。

 ドッシャ〜〜〜ン!!

 その巨大な「何か」はビルから出てきた一同の目の前で着地し、凄まじい音を立てて何台かの車を破壊。大きくバウンドした後、ようやく道路のど真ん中で止まった。だが、ホッとしたのもつかの間。その「何か」を見たとたん、危うく命拾いした一同は思わずわが目を疑って愕然としてしまった。

 その「何か」とは、無惨に引きちぎられた「自由の女神」の頭部だったのだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供だましのジャンルにリアリティを吹き込む試み

 まず、僕が冒頭に書いた文章の、“直感的に「アレか!」とピンと来た。”…の「アレ」とは何か。おそらく、もうみなさんはお分かりだろう。配給のパラマウント・ピクチャーズも「注意」として、この映画の手ブレ画面の揺れの激しさを警告していた。その時点で、勘のいい人なら気づいていたはずだ。

 素人の手持ちビデオカメラによる記録映像みたいな、リアル仕立ての劇映画。つまりブレア・ウィッチ・プロジェクト(1999)もどきの映画なのだ。

 で、「ブレア」はどう考えてもイカサマ臭い「魔女」という題材を、ビデオによるリアル風映像で本物っぽく見せていた。ついでに言うと、「ブレア」の原型にあたるイタリアの「食人族」(1981)でも、まるで川口浩探検隊(今では藤岡弘か)で扱いそうな人食い人種の怪しげな生態を、いかにも本当にあったかのごとく描いていた。ただし「食人族」ではリアリティの徹底がイマイチ不十分だったため、「ブレア」ほどの成果を挙げることができなかったが…。

 では今回の「クローバーフィールド」は、一体何を本物臭く見せているのか。

 それは、伝統的な怪獣映画だ。

 この「クローバーフィールド」が怪獣映画であることは、誰が見たって間違いようがない。それは、単にビル街を破壊しながら動き回っている巨大生物だから「怪獣」…というだけの意味ではない。明らかにこの映画は、ジャンルとしての「怪獣映画」をめざして制作されている。

 何より、あくまでドキュメント映像風を頑なに崩さなかった映画が、エンディング・クレジットでいきなり延々と東宝怪獣映画風の勇ましい音楽を流し始めるあたりからして、「怪獣映画」ジャンルであることの証ではないか。

 映画の舞台がニューヨークのマンハッタンであることも、そういう意味では非常に重要だ。何しろニューヨークはあのキング・コング(1933)に始まり、「ゴジラ」(1954)の原型となったレイ・ハリーハウゼン原子怪獣現わる(1953)や、その「ゴジラ」のハリウッド・リメイク版(1998)など、映画史に残る怪獣たちがその足跡を遺した場所。モスラ(1961)でもニューカーク市と名前を変えながら登場していた、いわばアメリカにおける怪獣の「聖地」だ。ニューヨーク・マンハッタンを舞台としている点は、「クローバーフィールド」が「怪獣映画」であることを大いに意識している所以だ。

 作り手が“「怪獣映画」みたいな子供だましの粗悪品をつくるつもりはない”…なんて偽善的なことを一切考えていないことは、これでも明らかだ。むしろ、“大いに「怪獣映画」と見てもらって構わない”“意識的に「怪獣映画」たろうとしている”…ようにさえ思える。

 この映画の新味とは、そんな典型的「怪獣映画」を「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の方法論でつくったところ…ということになるわけだが、実はここで僕は思わず考え込んでしまった。確かにその方法論は「ブレア」の成功例を受けてのもので、それゆえ「怪獣映画」としては新しさを持った映像のように思える。だがよくよく考えてみると…むしろそれは「怪獣映画」の新味というよりも、王道…原点回帰をめざすものかもしれないのだ。

 それは「怪獣映画」がジャンルとして確立した、日本の「ゴジラ」に遡ってみてみればよく分かる。

 

元から「ブレア」的側面を持っていた「怪獣映画」

 これは以前から僕があちこちで書いてきた持論だが、良くできた怪獣映画というものは大抵何らかの大災害や大戦争などの忌まわしさのメタファーとして存在している。

 その筆頭に挙げるべきは、やっぱりわが日本の「ゴジラ」第一作目ということになるだろう。悲惨な敗戦からいまだ10年経っていない時点で制作されたこの作品に、戦争の悪夢を見いだすことは決して奇異なことではあるまい。ようやく復興の兆しが見えてきた東京が、大空襲以来またしても徹底的に破壊される。しかもこの恐るべき怪獣は、広島と長崎を壊滅させたあの原爆の落とし子なのだ。アメリカ版ではレイモンド・バーの出演場面を追加されて再編集されて公開されたが、そんなダメージを受けても作品の訴求力が損なわれなかった理由はそこにあるのではないか。日本を焦土と化したアメリカのレイモンド・バーの目から見た物語という語り口は、むしろ「ゴジラ」のリアリティを一種補強するかたちになったのかもしれないのだ。

 ともかくアメリカ版については異論もあるだろうが、当時の日本人が「ゴジラ」に戦争のメタファーを見て強烈なショックを受けたことは、想像に難くない。おそらく当時の日本人にとって、あの映画から圧倒的な破壊と災厄の恐怖を感じることは極めてたやすかったはずだ。

 実はこれとほぼ同じことが、韓国製怪獣映画大怪獣ヨンガリ(1967)にもいえる。何しろ南北の「休戦ライン」が確定したのが1953年。朝鮮戦争の記憶はまだ生々しすぎるくらい生々しかった。「北」からやって来た怪獣ヨンガリにメチャメチャに破壊されるソウルの街は、韓国の人々にとってまったくシャレになってなかったのではないか。それは、単なるモンスター映画としてはあまりにリアルすぎたかもしれない。日本における「ゴジラ」、韓国の「ヨンガリ」がそれぞれの国の映画史の中で揺るがぬポジションを占めている理由は、おそらくそうした「作品」以上の要素が大きく影響しているような気がする。

 そして日本の怪獣映画がアメリカのそれと違って特異な発展を遂げた理由も、根本にこうした戦争体験…それも国土が破壊される経験があったからだと考えるのは、決して無理な話ではないように思う。その意味では韓国映画でも怪獣映画は発展するべきだったのだろうが、やはり一種のスペクタクル映画である怪獣映画は制作費がかかる。しかも「ヨンガリ」は特撮のノウハウを日本の映画界に負っていたこともあって、次々と量産するわけにはいかなかったのだろう。こうして「怪獣映画」は、日本映画界の専売特許のようになっていったわけだ。

 このことは、もうひとつの角度からも検証することができる。アメリカ映画における「怪獣映画」が、なぜ日本映画のような発展を遂げられなかったか…という点についての検証だ。

 その例として挙げるべきは、日本未公開の死の大カマキリ(1957)という作品。北極の彼方から飛来するこの怪獣は、明らかに冷戦下の仮想敵国・ソ連を念頭に置いたものだろう。映画は怪獣映画のカタチを借りながら、アメリカ軍の「北」への守りを紹介していく。暗に国民に対してソ連の脅威への覚悟を植え付けさせるとともに、アメリカ軍の鉄壁の守りを意識させる作品として機能しているのだ。

 しかしアメリカには、本格的本土攻撃の経験がなかった。トラウマになりそうなほどの都市壊滅の記憶もなかった。それゆえ怪獣映画は、あくまでモンスター映画としてのお楽しみの域を出ず、圧倒的なリアリティや忌まわしさを獲得するには至らなかった。ゆえに「怪獣映画」ジャンルをつくり出すまでには至らなかったのだ。

 それは「キング・コング」を想起してもお分かりいただけるはずだ。あの映画の終盤、ニューヨークでの大暴れのくだりも、結局はコナン・ドイルのSF小説「失われた世界」とその映画化作品ロスト・ワールド(1925)からのイタダキに過ぎない。よくよく見ていただければお分かりのように、実はコングはニューヨークにおいて、大した破壊行為は行っていないのである。それゆえ、この作品は「怪獣映画」とは言い難いかもしれない。

 アメリカは「怪獣映画」ジャンルをつくり出すほどの壊滅体験を、幸運にも長い間手に入れることがなかった。そこが日本との違いだ。

 むろんこれだけが日本映画における「怪獣映画」ジャンル確立…そのジャンルの特異な発展の理由になったわけではあるまい。例えばロボットのような無機質なモノにも擬人的感覚を抱かずにいられない、 日本人ならではの感覚が生んだ「怪獣のキャラ立ち」という要素が、「怪獣映画」ジャンル確立に大いに貢献したことも忘れてはならないだろう。しかし、まず国土の壊滅…という他では代え難い経験が、怪獣被害に対する圧倒的リアリティを生み、それが「怪獣映画」ジャンルの形成の原動力となったことは間違いないような気がする。日本において怪獣とはファンタジーではなく、その原点においてはむしろリアルな恐怖を体現した存在だったように思うのだ。

 しかしそんな日本製「怪獣映画」のジャンルとしての「発展」も、量産されパターン化していく中でどんどん劣化が進んでいく。少なくとも、あのシリアスな怖さは確実に失われていったのではないか。それは日本が目覚ましい経済成長を遂げ、戦争の記憶が薄れていくのと完全に歩調を合わせていた。戦争のリアリティが失われた時、怪獣の破壊の恐ろしさもリアリティを失ったのだ。

 むろん特撮映画ファン、怪獣ファンにとっては、ここまで僕が書いてきたことにいろいろと異論もあるだろう。正直に言うと僕はSF映画ファンではあるが、まったくと言っていいほど日本製「怪獣映画」に対してシンパシーも愛着もない。だから、特撮映画ファンや怪獣ファンが熱く語るであろう「怪獣映画」の魅力とその善し悪しの基準が、まるで理解できないのだ。

 しかし一般の映画ファンにとっても、その点は同じようなものではないか。僕は正直言って日本の「怪獣映画」は、本来のSF映画やサスペンス映画、スペクタクル映画とは違う土俵に行ってしまったように感じる。それはもはや、本当の巨大モンスターが都市を破壊するSF映画や恐怖映画ではあり得ない。着ぐるみを身につけたキャラクターがミニチュア・セットで格闘する様子を見て楽しむ、きわめて特殊なジャンルになってしまったと思っている。そこにはまったくリアルさなどはない。もはや一部愛好家だけが自分たちのお約束の中だけで楽しむような、歌舞伎などと同じ一種の「伝統芸能」となってしまったものではないか…とさえ思っている。一時期「ゴジラ」の新作が発表されるたびに一部ファンが口からツバを飛ばしながら、「ああでもないこうでもない」と大騒ぎし、そうしたファン以外は何の事やらサッパリ…という状況が恒例となっていたが、それはおそらく一部の人たちの愛玩物となった「怪獣映画」を巡る、どこか不健全な構図から生まれてきたのではないだろうか。

 そんな日本「怪獣映画」の劣化は、「ゴジラ」1984年のリメイクとシリーズ再スタートでも歯止めがきかなかったようだ。ところが20世紀終わりに近付いて、「怪獣映画」は思わぬ新顔の登場で息を吹き返す。

 それが「ガメラ/大怪獣空中決戦」(1995)だ。

 この映画のことはあちこちで書いているから、ここではもうあまり繰り返すまい。ともかく今日の日本に実際に怪獣が現れたらどうなるか?…を、リアルなシミュレーションとして映画化した作品。太陽光の下にミニチュア・セットをつくっての撮影など、特撮のセンスも素晴らしい。この当たり前のことが、何で今まで出来なかったのか。

 中でも秀逸なのは、怪獣の激闘ぶりをカメラが捕らえる場合、地上から、ないしは建物ごしに撮影されていること。

 実は僕らは、こうした映像をすでにイヤというほど見ていた。それは同じ年の1月に起きた阪神・淡路大震災でのことだ。あの大地震のテレビ映像は、主に地上から、建物ごしに撮影されていたではないか。この映画は、明らかにこの未曾有の大災害の記憶を引きずっているのだ。だからリアリティが格段に違う。そしてこの「平成ガメラ」三部作は、その後も世紀末日本の忌まわしさを反映するカタチで制作されていく。

 続編「ガメラ2/レギオン襲来」(1996)の札幌市内の地下鉄駅の場面を見て、1995年の地下鉄サリン事件を想起しない人間はいないだろう。「ガメラ3/邪神<イリス>覚醒」(1999)は特定される出来事こそ特にないが、それまでは起こりえなかったような大事件・大災害が次々起こる当時の日本の世相を、我々に大いに意識させる内容だ。何より、燃え上がる京都の街を背景に、迫り来るギャオスの大群と戦おうとするガメラの悲壮な姿で暗澹と締めくくるエンディングは、スクリーンに映し出される「ガメラ1999」という文字と共に、見ている僕らを愕然とさせずにはおかなかった。現実にはそれ以来日本はあらゆる意味で「真っ逆さま」に転落の一途を辿っているから、あの「ガメラ3」が僕らに予感させたものはホンモノだったということになる。かの小泉氏が見た目ギャオスに何となく似ている点も、偶然としてもシャレにならないのだ(笑)。

 そしてここまで「怪獣映画」が進化すると、リアルなシミュレーション映画としての視点、そして社会不安の実感の反映としての視点がない作品はもはや成立し難くなってくる。

 そんな意味で「現代性を持った怪獣映画」を考えていくと、明らかに同系列に入れるべきなのがグエムル/漢江の怪物(2006)ではないだろうか。

 商業的成功と作品的実力を兼ね備え始めた韓国映画が、今改めて「怪獣映画」を放つのは不思議なことではない。ただ、韓国映画若手エースとモテはやされたポン・ジュノが、何でまたこんな「怪獣映画」をつくったのか。最初に話を聞いた時にはとにかくビックリしたが、出来上がった映画を見て再度ビックリ。どこを切ってもどう見ても、やっぱりポン・ジュノの映画になっているから大したものだ。

 実はこの映画、僕個人としては「才人、才に溺れる」的にやり過ぎちゃってるところがあるように思えるので、作品として決して好きではない。しかし、それでも大した作品であるのは間違いない。少なくとも、それまで見たことのない「怪獣映画」であることは明らかだ。

 では、この映画のどこが「社会不安の実感の反映」なのか? この映画の主な観客である韓国の人々にとって、「グエムル」のどこがリアリティのある恐怖なのか?

 そこはハッキリ言うと、僕にはしかとは分からない。だが、どうやらポン・ジュノは「アメリカの影響を受け、アメリカに支配される韓国」のイメージを、この「グエムル」に託していたように思える。グエムル誕生の直接原因になったのが米軍の垂れ流した廃液であり、その後のストーリー展開でも米軍が皮肉な視点であちこち登場するあたりに、それは強烈に感じられるのだ。グエムルが都市を破壊するような怪獣ではなく、むしろ人を貪り食い、人を蝕む存在であるあたりも象徴的だ。

 その後、韓国で反米感情がかなり露骨な感じで盛り上がったことを考えると、これはあながち間違っていないように思う。やはり良く出来た「怪獣映画」は、その時代のリアリティを持ったメタファーとして生まれ出る運命にあるのだ。そして「伝統芸能」と化した「怪獣映画」はむしろ傍系というべきで、本来はあくまで現実の忌まわしさの反映であるのがスジであるような気がする。「ブレア・ウィッチ」的アプローチは、「怪獣映画」にとってむしろ変化球ではなく直球勝負なのかもしれないのだ。

 では今回の「クローバーフィールド」は、一体どんな時代のメタファーを背負わされているのか?

 

見た後での感想

 そんなわけで、ようやく本題の「クローバーフィールド」だ。

 この映画が「ブレア・ウィッチ」方式によって無類のリアリティを獲得していることは、作品を一見してみれば分かる。

 しかも作り手の手口はなかなか巧妙だ。すでに劇場予告編やメディアへの少々の露出で、この映画がSFホラー・ジャンルに当たる作品だ…と観客はすでに薄々感づいている。そんな観客の目をはぐらかすために、作り手は主人公(というべきだろうか)のお別れパーティーの様子を延々ダラダラと見せていくのだ。

 自分に関わりのない他人のホームムービーを見せられた時の、面白くも何ともないあの感じ。観客の脳裏から予告編などの事前の刷り込みや先入観を消し去るためと、素人ビデオ的なリアリティを補強するために、この映画ではあえて退屈スレスレまでそんな「本筋」とは関係のないスケッチ的場面を見せていく。そして忍耐強くこれを延々続けていたから、この作品は他と比較できない程のリアリティと怖さを持つことができたのである。

 何しろ「素人ビデオ」だから、見たいところにカメラがなかなか向かない。たまに向いても建物ごしだったり、ホンのチラリとしか見えなかったりする。あげくの果てに無茶苦茶な手ブレだ。テレビなどから断片的な情報は入ってくるが、基本的には登場人物たちが得る以上の情報は僕らにももたらされない。だからもどかしいし苛立たしいが、それこそがリアリティなのである。

 そしてすでにお察しのいいみなさんならお分かりのように、この映画も現実の恐怖とリアリティを託されている。

 そうくれば、もう多くを説明するまでもあるまい。映画「クローバーフィールド」は、どうしたってあの「9・11」アメリカ同時多発テロ…特にマンハッタンを大混乱に陥れた、あのツインタワー・ビルの崩壊を象徴しているのだ。

 まぁ、昨今はアメリカ映画といえば何でも「9・11」をどこかにダブらせていると言われがちだ。僕自身も何本かの作品で同じようなことを言っている。そうなっちゃうと、まるで映画評論家の水野晴郎がテレビの洋画劇場で、作品解説のたびに「この作品は現代社会の不安を表現しているのではないでしょうか?」とか言ってたのと同じに思われちゃうかもしれない(笑)。正直言って「またかよ!」って感じだろう。

 しかし今までここで検証してきたように、「怪獣映画」が本来どこか時代の忌まわしさのメタファーとして機能するべきものだとしたら、やっぱり現在のニューヨークで「怪獣映画」をつくるにあたって、「9・11」はどこか意識せざるを得ないのではないか。

 それは「怪獣映画」ではないけれど、スティーブン・スピルバーグによるリメイク版宇宙戦争(2005)が、同じような「気分」を持っていたことからもうなずける。あるいは逆に、同じニューヨークを舞台にした怪獣映画をつくったにも関わらず、まったく緊迫したモノを持ち得なかったアメリカ版「ゴジラ」を思い起こせばもっと分かりやすいかもしれない。あれはあくまで、まだ自分の街の崩壊を経験していない作り手や観客の産物だ。だから単に巨大生物が暴れるスペクタクル・ショーでしかない。

 その点、ここではもの凄いリアリティで、本当に「怪獣」が襲って来たマンハッタンの阿鼻叫喚を再現されている。それが絵空事でないことは、すでにアメリカ人も他の国の人々も、十分すぎるくらい知っている。すでにニューヨークは、こいつ以上に恐ろしい「怪獣」に襲われているのだ。

 だからこの映画に半端じゃないリアリティが付加されたのは、「ブレア・ウィッチ」的な制作方針のおかげばかりではない。ニューヨークにまつわる「9・11」のおぞましい残像が、この映画を冗談や夢物語でなくしているのだ。

 ただ、映画としてはただ怪獣から逃げまどって身内を助けに行く話でしかない。しかも主人公たちの視界内、ビデオカメラに写る範囲内の世界で話をつづっていくというルールを決めてしまったので、お話的に発展性がなくなっている。そこを埋め合わせるのが、巨大怪獣がポロポロ産み落とすチビ「HAKAISHA」(笑)。このデカいサソリかザリガニみたいな奴のおかげで、お話が大味になることから一歩手前で免れている。結構荒っぽく作っているようで、細やかな神経が使われた脚本なのだ。

 で、監督はというと、J. J. エイブラムスの名前ばかり前面に出ているからこいつかと思いきや、実はエイブラムスはプロデューサーで監督はマット・リーブスという男。こいつがなかなかの語り口を持っているから見事だ。

 言ってしまえばハッタリが勝った作品ではあるが、何だかんだ文句を言うことはできても、実際にこれをやるってのは大変なことだ。やろうと思えばハイ・クオリティの特撮映像を見せることができるのに、あえてそれをノイズの入ったビデオ映像に落として見せる…クリアなスペクタクル映像を見せるよりも、それが何よりも贅沢なのだ。これを断行したあたり、大した度胸ではないか。そこは認めてあげなければいけないだろう。

 しかもアツアツ恋愛中の二人のビデオの上にかぶせて、この「クローバーフィールド事件」の実況を録画してしまった…という仕掛けがいい。時折消しきれなかった前のビデオの映像がチラチラ出てきて、現在の絶望的な状況に陥ってしまった恋人たちとの対象を見せる。エンディングなど、哀愁が漂っていて結構いい味出しているのである。これはなかなかニクいね。

 ともかく「コロンブスの卵」的作品ではあるが、それが何と言っても難しい。「してやられた」という気持ちは拭えないものの、やっぱりこの映画は大したものなのである。

 しかも、このアプローチって僕らはすでにどこかで知ってはいないか? いやいや、「ブレア・ウィッチ」のことを言っているのではない。そうではなくて、こうしたSF的なモンスターが襲いかかってくる状況を、まるで疑似ドキュメントのように体験させる手法のことだ。こんな作品の存在を、僕らはどこかで聞いたことはないか?

 そこで僕はハタと思い出した

 先にスピルバーグ版「宇宙戦争」を引き合いに出した時、何となく頭の片隅に浮かんだのだ。そうだ、「宇宙戦争」がそうだったではないか。

 といっても、1953年の映画化作品のことを言っているのではない。僕が言っているのは、1938年に放送されたラジオ・ドラマ版。オーソン・ウェルズが超リアルにニュース仕立てで演出したため、全米にパニックを引き起こしたと言われるあの伝説的バージョン。僕らは実際にそれを聞いたことがないが、誰もが有名なエピソードとして知っているあのバージョンだ。あれこそ、まさに「疑似ドキュメンタリー」そのものではないか。

 だから「クローバーフィールド」は決して奇異なことをやっているのでもなければ、目新しいことをやっているのでもない。むしろ「ブレア・ウィッチ」というより、オーソン・ウェルズのアプローチに学んだ手法を再現しているだけなのである。

 

見た後の付け足し

 そんなわけで疑似ドキュメンタリー映画として素晴らしい出来映えとあえて言いたいこの作品だが、公開前からネットで展開しているいろいろな事前情報の流布は、一体何だったのだろうか。

 ナントカいう日本企業の公式サイトだとかパーティー客の知られざるエピソードだとか、ゴチャゴチャいろいろ設定されているようだが、映画を見てもそれらとのつながりは一向に見えない。というより、正直言ってそれらの大半は、あまりこの映画とは関わって来ない。それらを知らなくても全く問題がない。知っていたからと言って、映画を補強するような情報でもないのだ。

 それじゃ一体アレは何だったのか…ということになるのだが、それってひょっとして、今後つくられる続編映画だとか、メディアミックスで何か売っていこうという試みなのだろうか。だとしたら、そっちの方がよっぽど得体の知れない「怪獣」もどきの商魂に思えるのだが…。

 

 

 

 

 

 to : Review 2008

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME