「魔法にかけられて」

  Enchanted

 (2008/03/31)


  

見る前の予想

 この映画については劇場予告編を見て知った。いかにも典型的コテコテなディズニーのおとぎ話的プリンセスが、魔女の魔法でとんでもない地獄みたいなところに落っことされる。それは唯物主義と人間不信渦巻く現代のニューヨークであった…。

 「魔法にかけられて」というタイトルのセンスは最悪ながら、内容はなかなか面白そうではないか。というより、イマドキではすっかり俗悪にしか見えなくなった「ディズニーランド」的おとぎ話を、ディズニー自らがオチョクるという構造が面白そうだ。典型的ディズニー的世界をアニメ、ニューヨークを実写という発想がイイ。主演女優は見たことないけど、何となくいい感じ出している雰囲気がする。これはちょっと見てみたい気がする。

 そもそもここんとこのディズニーは、パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち(2003)などの実写映画はともかく、本業のアニメではすっかりダメになっているではないか。一時は復活したに見えたディズニー・アニメはまたまた失墜。ピクサーのCGアニメにすっかり水を空けられる始末だ。ここは一発、自分をオチョクるぐらいじゃないとダメかもしれない。これは一見の価値があるのではないか。

 

あらすじ

 昔むかし、おとぎの国アンダレーシアに一人のお姫様がいた。その名はジゼル。今日も今日とて仲良しの動物たちと歌をうたいながら、「私の王子さまはどこに?」などと夢見ている。むろん運命の王子さまと出会ったならば、すぐに恋に落ちて結婚することは言うまでもない。その決め手のなるのは、もちろん「運命のキス」だ。

 その頃アンダレーシアの森では、エドワード王子が従者のナサニエルを連れて巨人狩りの真っ最中。ところがどこからともなく聞こえてくるジゼルの「どこかで私の王子様が〜」という歌声が、エドワードをたちまちトリコにする。エドワードもまた「運命のお姫様」との出会いを心待ちにしていたのだ。

 しかし歌声のトリコになったのは、エドワードばかりではない。彼に捕らえられていた巨人も彼女の歌声にゾッコンで、たまらずに森の中のジゼルのお家に突進だ。

 これにはジゼルもビックリ。窓から覗き込んだ巨人は、泣き叫ぶジゼルを鷲掴みにしようと四苦八苦。そこに駆けつけたエドワードは、ジゼルと「運命的出会い」を果たす。

 「心配するな、今すぐ私があなたを助けよう!」

 こうして巨人は倒され、ジゼルとエドワードは手に手を取ってお互いを見つめ合い、「これが運命」と結婚を誓うのであった

 めでたしめでたし。

 …と言いたいところだが、みんながみんなこの縁組みに大賛成というわけではなかった。エドワード王子の義母であり、実はその正体は魔女であるナリッサ女王が、二人の様子をジッと監視していたのだ。

 彼女は王子が「運命の人」と出会って結婚したら、自分の王座を奪われてしまうと邪推。それを何とか妨害しようと画策し、従者のナサニエルを抱き込んでいたのだ。

 しかし、今やそんな努力も水泡に帰そうとしている。かくなる上は…と王子とジゼルの仲を裂くべく、ナリッサ女王自ら乗り出すことになった。

 そんな事とはツユ知らず、天真爛漫にエドワードの待つお城にやって来るジゼルとお仲間のリスのピップ、そして動物たち。ところがジゼルがお城に一歩足を踏み入れたとたん門が閉まって、ピップや動物たちと切り離されてしまう。

 これはおかしいと慌てて塀をよじ登るピップ。見ればジゼルはいきなり妙ちきりんな婆さんに捕まって、「望みが叶う井戸」へと引っ張られて行くではないか。むろん婆さんはナリッサ女王の変装で、「望みが叶う井戸」などウソっぱち。彼女を「夢も希望もない世界」へ突き落としてしまったのだった。

 こうして暗黒の中を手探りしてジゼル(エイミー・アダムス)が飛び出したのは、現代のニューヨーク、マンハッタンのど真ん中タイムズスクエア

 この場でど派手なウェディングドレスは場違いもいいところ。おまけに「お城はどこ?」などと聞いたところで、誰も相手にしてくれるわけもない。何が何だか分からないわ心細いわ助けてくれる人はいないわ、おまけに雨が降ってきてズブ濡れだわと最悪の状況のジゼルは、もはや看板に描かれた虚構の「お城」にすがりつくしかない

 そこにたまたまタクシーに乗って通りかかったのが、弁護士のロバート(パトリック・デンプシー)と一人娘のモーガン(レイチェル・コヴィー)。こうしてロバートは行き掛かり上ジゼルを助けることになる。

 とはいえ、ロバートは女房に逃げられ結婚生活の辛酸をなめ尽くし、仕事も離婚問題専門の弁護とあって夢も希望もない毎日。娘にも「おとぎ話」など信じさせないという教育方針の男だ。夢…というよりほとんど妄想スレスレのジゼルの言動には、いささか眉をひそめずにはいられない。

 しかしジゼルはニューヨークでもマイペース。そんなわけで、まった人生観の異なるロバートは終始きりきり舞いさせられ、5年の交際の末ゴールイン間近だった婚約者ナンシー(イディナ・メンゼル)との仲もこじれにこじれる。

 一方、そんなジゼルの危機をピップから知らされた王子エドワードは、慌てて「望みが叶う井戸」へとまっしぐら。ジゼルを救うべく、エドワード(ジェームズ・マースデン)とピップもまたタイムズスクエアに降り立つことになる。だがエドワードとて、ここでは浮きまくる存在だ。

 おまけにそれでも足りぬ…とばかり、ニューヨークでもエドワードとジゼルの仲を裂くべくナサニエル(ティモシー・スポール)までやって来る始末。さらに業を煮やしたナリッサ女王(スーザン・サランドン)自らまでがニューヨークに出現するに至って、事態はますます大騒動に発展するのだが…。

 

見た後での感想

 予想通りの出来栄えだ、やっぱり面白い!

 夢の国を十年一日のごとく唱えて来たディズニーが、自らをからかいのネタにしてつくった作品だ。何よりその着想が優れている。夢と希望の「おとぎの国」の対極にある夢も希望もない場所が現代ニューヨークというのも笑える。

 リスのキャラクターであるピップがニューヨークではしゃべれないために、必死に身振りで意志を伝えようとするくだりが、まるでテレビのジェスチャー番組みたいなのも良いアイディアだ。またおとぎの国ではヒロインを助けるのが森の動物たちなら、ニューヨークではハトとネズミとハエとゴキブリ(!)というのもおかしい。楽しそうに歌っているゴキブリを、横にいたハトがゴリッと食べてしまうくだりなど、今までのディズニーにないブラックユーモアだ。

 この映画には、そんなナイスなアイディアが全編に満ちあふれている。例えばディズニー作品「メリー・ポピンズ」(1964)でアニメ実写混在作品経験済み、品行方正が服着て歩いているようなジュリー・アンドリューズにナレーションをやらせるなど、センスの良さが際だった作品なのだ。

 というわけで、正直言うとそれだけで済ませてもいいくらいだが、実はディズニーの「おとぎの国」と言っても決して「一枚岩」のように揺るぎないモノではない。それは一度大きな方向転換をして今日に至っていたからだ。

 実はその「方向転換」は、今回の「魔法にかけられて」にも少なからず影を落としているのである…。

 

一旦屈折を通過したディズニーおとぎの世界

 このあたりの事情については、うちのサイトの特集ピクサーはカネで買えるか または、当世聖林アニメ・ルートマップを読んでいただければお分かりいただけると思うが、この映画の冒頭約10分間に登場してくるような典型的おとぎ話的ディズニー世界は、実はとっくの昔に一度死滅してしまっているのだ。

 それが「白雪姫」(1937)や「シンデレラ」(1950)などの「名作ディズニー・アニメ」を指すであろうことは、あえて言うまでもない。これらの作品が見せる「いかにもディズニー」なおとぎ話の世界は、まさしくこの「魔法にかけられて」の冒頭10分アニメ場面が象徴するような世界。みんな「ディズニー」と言えばアレを連想するに違いないだろうが、実はそれはすでに何十年も前に廃れてしまった世界観なのである。

 それがいつ頃からか…と言われるとしかと答えるのは難しいが、おそらく1960年代あたりがその「ディズニーの伝統」が完全に分断された時ではなかったか。映画が斜陽化し、ビートルズが出現して価値観が変わり、ベトナム戦争が激化した1960年代こそ、ディズニー・イズムが最もシラジラしくなった時に違いない。このあたりでディズニー・アニメは、およそ古色蒼然としたシロモノ扱いされたのだった。以後、ディズニーと言えば長らくディズニーランドのアトラクションのことを指すようなアリサマになってしまった。

 そんな状況にカツを入れたのが、「リトル・マーメイド」(1989)ということになるのだろうか。

 ここから先の話になると、おそらく僕よりもみなさんの方が詳しいのではないか。「美女と野獣」(1991)、「アラジン」(1992)…と続く新しいスタイルのディズニー・アニメは、一気に多くの観客を魅了した。それが子供だけでなかったのは、それらの興業成績がウナギ登りに上がったこと、これらのアニメの成功がハリウッドのアニメ市場を開拓したこと、「美女と野獣」がアニメ映画史上初めて(そして、おそらく絶後の)アカデミー作品賞ノミネートを果たしたこと…を見てもお分かりいただけると思う。今でこそハリウッド映画の重要ジャンルのひとつとなったアニメ作品だが、1990年代以前は単なるお子さま向けの添え物に過ぎなかった。いかにこれらの新しいディズニー・アニメが大きな影響力を持っていたか、この事だけ見てもハッキリすると思う。

 では、これらの新しい…「リトル・マーメイド」以降の…新しいディズニー・アニメに一貫する特徴とは、一体どのようなものだろうか。

 CG技術の導入や映画スターの声優起用、さらにポップ・スターが歌うヒット性の高い主題歌…など、現在のハリウッド・アニメ作品に共通する要素も多々あるが…実はいろいろな事情で問題が多いヒット作「ライオン・キング」(1994)を除けば、その最大の特徴にして共通点は「世界名作」を次々映画化するということと、ヒロインに「女の自立」をうたわせることだろうか。

 そして、これこそがディズニー・アニメが復活した最大の要因だったのだ。

 アニメ作品としての質の高さは、「白雪姫」や「シンデレラ」の時代から定評がある。そんなディズニー作品が凋落した最大の理由は、作品に流れる時代錯誤なおめでたさだろう。「王子さま」だの「お姫さま」だの「永遠のキス」だのという過去のディズニー・アニメを彩るアイコンは、いかんせん時代遅れだし幼稚だ。元々がホンモノの「おとぎ話」なのだから仕方がない一面があるとはいえ、ディズニーはそれを完全にお子さま向けに脱臭脱色してしまったために、あるいはアメリカナイズして単細胞なものに変えてしまったために、時代の流れから完全に取り残されてしまった。

 ところが「リトル・マーメイド」では、ここに今風のテイストを盛り込んだ。

 ベースはあくまで名作童話の域を出ないが、イマドキのフェミニズム的視点やジェンダー的な発想のドラマトゥルギーを持ち込んだために、古色蒼然としたディズニー・アニメが物凄く現代的でリアルなモノになったような気がしたのだ。

 ここだけの話、フェミニズムだジェンダーだと言ったところで、それはせいぜいNHKの朝の連続テレビ小説のヒロイン並みの「自立」に過ぎない。それでも保守本流を絵に描いたような「あのディズニー」だからこそ、そんなささやかな変化で激しい改革に見えた。こうしてディズニー・アニメのヒロインたちは王子さまを受け身で待ったり守ってもらったりするのではなく、向上心と向学心を持ち、常に前向きで努力家、大胆で勇気がある自立した存在に生まれ変わったのである。

 …って、まぁ、そういうわけで…やれやれ

 いやいや。これは何も僕が男でフェミニズム嫌いだからというわけではない。…ではないとは言い切れないけれど(笑)、決してそれだけではない。

 だってアータ、“向上心と向学心を持ち、常に前向きで努力家、大胆で勇気がある自立した存在”…って、これが例え女だろうと男だろうと、こんな奴が歌をうたいながら最後に勝利する話ばっか見せられてごらんなさいよ。ハッキリ言ってムカムカ胸焼けしてこないか? イヤミな存在だよねぇ?

 僕も「美女と野獣」には感心させられたし、その後もディズニー・アニメを心待ちにしていった。しかし、毎度毎度十年一日の如く「女の自立アニメ」ばかり見せられるに至って、それがだんだん鼻についてきたのは否めない。僕はこの新しいディズニー・アニメの質的頂点を「ムーラン」(1998)であると思っているが、そこに至る前にディズニー新路線は下降線を下り始めていたし、その後はイッキに奈落に落ちていったような印象がある。

 そもそもディズニーの成功を横目で見て参入したハリウッドの他社便乗組まで、ワーナー・ブラザースの「キャメロット」(1998)や20世紀フォックスの「アナスタシア」(1997)などバカのひとつ覚えの「女の自立アニメ」と来れば、これは鮮度が落ちるのも無理はない。そもそも昔の「おとぎ話」モノは長い伝統があったから古びるまで時間がかかったが、こういう今風のコロモを着せたシロモノは風化がどうしても早い。こうして「女の自立アニメ」はアッという間に賞味期限切れとなって、各社共倒れの様相を呈したのであった。

 そんな中でもディズニーが生き延びたのは、CGアニメの雄ピクサーを抱き込んでいたからだし、ジェリー・ブラッカイマーらを起用しての実写映画が成功していたからだろう。しかし本業のアニメがイマイチでは嬉しさも中くらいなりと言ったところ。そんな最中に登場してきたのが、この「魔法にかけられて」というわけなのだ。

 

斬新さが陳腐になる一歩手前で

 正直言って、もうかつてのディズニー「おとぎ話」アニメが通用するほど世の中甘くないということは、当のディズニーそのものがイタイほどよく分かっている。

 それが分かっていたからこそ一時は「女の自立アニメ」を連発したわけだし、その方法論は間違っていなかった。しかしあまりに「そればっかり」では鼻にもつくし飽きられる。おまけに不幸にもCGアニメ時代の到来という革命が起きて、足下をすくわれた格好のディズニー・アニメは体勢を持ち直すキッカケを失った。今回この「魔法にかけられて」の冒頭アニメ部分をつくるにあたって、ディズニー本体にはすでに手描きアニメ・スタッフがいなくなっていたから外注に出した(!)という話だが、そこらあたりからもディズニーを取り巻くシビアーな状況は透けて見えてくる。

 こうして仕方なくディズニーランドのアトラクションを切り売りするという捨て身の戦法に出て、かろうじて「パイレーツ・オブ・カリビアン」はうまくいったものの、「ホーンテッドマンション」(2003)は大コケという痛し痒しの状態となったわけだ。

 正直言って、もうディズニーには後がない

 昔ながらの世界名作童話にジェンダー味をふりかけて新味を出すなんてことでは、もはやどうにもならないところまで来てしまった。ついにディズニーがディズニーをコケにするという思い切った作戦に出たのが、この「魔法にかけられて」ということなのだろう。

 そして、これが見事に功を奏した

 正直言ってこの映画の監督ケヴィン・リマの作品は、アニメの「ターザン」(1999)も実写の「102」(2000)も大して感心しない出来栄えだった。しかし、やっぱりカルチャーギャップを題材にした痛快作タイムトラベラー/きのうから来た恋人(1999)のビル・ケリーの脚本が絶妙だったのか、今回はまさに天晴れな快作となった。

 ハッキリ言って夢と希望のおとぎ話をコキ下ろすのは、楽しいけれどもサジ加減を間違うとイヤミにもなりかねない。ディズニーがやるならば、パロディでオチョクリになりながらも、どこかそうした過去の作品にリスペクトする部分がなければウソになってしまう。そのあたりのキワキワ、スレスレのセンを何とか綱渡りでやり遂げている感じ。実は見ていてフッと現実に戻りそうな瞬間がないわけではないが、それらを何とかつなぎ止めて最後まで持ち込んでいるのだから、これは素直に認めてあげなければいけないだろう。

 その最大の功労者こそ、ヒロイン役のエイミー・アダムスだ。

 この人、今まで見たことないと思っていたら、キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)にウブで純情な看護婦役で出ていたというではないか。あぁ、そう言えばそうだった。確かにあの役には今回の役の片鱗が見えていた。芸風はあの頃から全く同じ(笑)。

 ともかくこの「魔法にかけられて」のアダムスは、見事としか言いようがない。彼女一人でこの作品を支えている。一緒に「おとぎ話」パートから抜け出てくるジェームズ・マースデンは、少々カリカチュアライズの方向に傾いた役どころだ。だがエイミー・アダムス演じるヒロインは、実に際どいバランスでおとぎ話と現実の両方に足をかけている

 ここで彼女の演技にホコロビが見えてしまったり、照れやためらいが見えてしまったらブチ壊しになるところを、彼女はまったく何のわだかまりもなく「おとぎ話」を体現している。あそこまで照れずに徹底的にできるとなると、もはや素晴らしいとしか言いようがない。この映画の成功の最大の理由は、このエイミー・アダムスの起用にあると言っても過言ではないのだ。

 ついでに言えば、「キャント・バイ・ミー・ラブ」(1987)の青春スターであるパトリック・デンプシーも、控えめではあるがイイ味を出している。例えば昔で言うとマイケル・オントキーンとか、最近ではモーテル(2007)のルーク・ウィルソンあたりにも共通する、誠実でごく普通なアメリカ男性をていねいに演じて好感が持てる。この人はこれから面白くなるかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが物語が進むに従って…この際どいバランスはますます難しい方向に傾いていく。

 現実的なニューヨーカーのロバートが、「永遠の愛」を信じてもいいかもと思い始めると同時に、ジゼルは「運命のキス」で会ってすぐに結婚…なんておかしいと気づく。そのうちに「運命は自分で切り開かなくてはならない」と感じ、わざわざニューヨークまでやって来たエドワード王子とも気持ちはすれ違い…。

 もうお気づきだろう。お話はたちまちちょっと前のディズニー・アニメの方程式…もはやとっくに賞味期限の切れた「女の自立」モノに傾いていくのである。

 アナタ、それのどこが気に入らないのよ!

 いやいや…フェミニズム派のみなさんのお説まったくごもっとも。それを気に入らないというのは男のエゴでございます…と無条件降伏したいところだが、実はこれってそんな話ではない。

 自分で決意し、自分で道を切り開く、積極的で勇気を持つ人間像…って大変ご立派で素晴らしいとは思う。だが、それも最初は鮮度が高かったものの、ディズニー・アニメの世界ではすでに手垢の付きまくったモノになり下がっている。しかも、それってあまりにもご立派なので、繰り返し見せられると人のぬくもりが感じられなくなってしまう。何分にもご立派すぎ正論すぎて、どうにもこうにも敷居が高すぎる。そこが最大の問題なのだ。

 かつては単なる受け身で大人しいだけの娘…ばっかりだったディズニー・ヒロイン。それは、今となっては血が通っていない存在でしかない。この「魔法にかけられて」でも、そんなヒロイン像、世界観を一旦はからかって否定している。それは間違いではない。

 しかしそれが積極的で前向きで自立したヒロインに転じてみたら…最初こそ新鮮だったものの、今度は毎回それの繰り返しになってしまった。そうなると…毎度毎度お見事に自立するヒロインばかりとなって、徐々にルーティン化、パターン化してしまった。しかも、それらはあまりに「立派過ぎ」でもある。言ってることも「正論」は「正論」なのだが、「正論」過ぎてシラジラしい。まるで昔のソ連のプロパガンダ映画みたいだ。

 つまり新たなヒロイン像も一種の「幻影」と化して、かつての「おとぎ話」と五十歩百歩ということになってしまったのだ。こうして一時は血が通ったかに見えたヒロイン像は、パターン化されることで逆にリアルさを失ってしまった。

 こうなると、それって面白くも何ともないだろう。そういうヒロインが「いてもいい」けど、「そればっかり」はいかがなものだろうか。アホな奴とかカッコ悪い奴とか弱い奴がいたっていいんじゃないか?

 今回もヒロインが王子より弁護士をとるくだりから、お話は急速に「そっち」の方向へと傾いていく。あげくドラゴンに襲われた男をヒロインが単身助けに行く…となると、フェミニズム派の人たちが主張するような、「男の子にこそ赤いランドセルを」というメッセージにも似たものを感じてしまう。それはそれで勝手にやってくれて結構だし、僕は別にどっちでもいい。助けてもらえるならそっちの方がラクそうだ。(笑)。だが、いわゆる「政治的に正しい表現」とやらに配慮して、またまたこういう展開…となってくると、結局それはかつての「おとぎ話のヒロイン」と同じで、ワンパターンで血が通っていない陳腐な存在でしかなくなる

 「またこれかよ!」

 これは僕が男だから…ではないと信じる。おそらくそう思う人は、男だけでなく女でも多いのではないか。毎回「女がお飾り」って設定が陳腐だとしたら、毎回その逆…っていうのも同じくらい陳腐なはずだ。それに思い至らないフェミニズム派の人は、何でチベット人が怒ってるのか全く理解できない中国共産党の発想に近い(笑)。それでは物語はえらく硬直したモノになっちまうのである。

 で、それは当のディズニーも先刻ご承知のようだ。

 ドラゴンに変身したスーザン・サランドンのナリッサ女王がそんなこっちの思いを見透かしたように、わざと挑発的にヒロインと弁護士ロバートにこう言うのだ。「(ヒロインに向かって)おやおや、勇ましいこった。(ロバートに向かって)じゃあオマエがお姫さまってわけだね!

 おそらくこのセリフは、「男の子にこそ赤いランドセルを」みたいなものを感じるであろう観客に向かって先回りして言っている言葉に違いない。そういう「政治的配慮」みたいなものにシラケる人々に対して、「分かっていますよ」とメッセージを発している言葉なのだ。それが証拠に、映画はエンディングに意外なオマケを付ける。ニューヨークのキャリアウーマン然としたロバートの婚約者ナンシーを、逆におとぎ話に夢中にさせて「向こう」の世界へと連れていってしまうのだ。

 この結末の是非については、それこそ「政治的」(笑)な立場によって受け取り方が異なるだろう。そして、まるで「自立」させた「おとぎ話」のヒロインと「交換トレード」させたかのようにキャリアウーマンをおとぎの国に連れて行ってしまったあたりの、あまりに「図式的」なバランス感覚にも賛否両論ありそうなことは、容易に想像できる。おとぎの国でアニメ画面となって王子さまとキャリアウーマンが結婚するくだりを、彼女の携帯電話がらみのギャグで笑ってごまかそうとしていることで、ディズニー側もそんな苦しさを承知していることが透けて見えてくる。

 だが、それによって何を意図したのかについては、ここまでのディズニー・アニメの歩みを見てくれば容易に想像がつく。一度は陳腐化したことで脱皮しなければならなかった砂糖菓子的「ディズニーおとぎ話」の世界。しかし、実はその後にもう一段階、これまたすぐに陳腐化してしまったワンパターンな「女の自立アニメ」が存在していた。この映画ではそれらを一旦はからかってオチョクリつつ、どこかでリスペクトするという絶妙なバランス感覚が要求されたのだ。

 正直言って、単に「過去のディズニー=おとぎの国」対「現実のニューヨーク」という構図だけなら、そんなにこの作品に感心もしないし大変とも思わないだろう。今回は一旦否定された「おとぎ話」の世界からすでに色褪せた「女の自立アニメ」をも通過して、なおかつそれらにリスペクトを払いつつ新たな段階に行く…という、アクロバットのようなバランス感覚の離れ業を見せたところが、この「魔法にかけられて」の最も興味深い点なのである。

 

見た後の付け足し

 ただし今回のこの作品、実はディズニーにとっては劇薬に近い部分があるように感じる。

 それまでのディズニーをからかいつつリスペクトという芸当を、当のディズニーがやってのける…というのは、何より抜群のアイディアだ。だが、それはかなり強烈なカンフル注射ではあるが、同時に副作用も強いように思われる。

 何より、その手はたった一度しか使えないはずだ。

 それまでやった事のない技だからこそ、それは大きな効果を持つのである。しかも帰り道は、すでに焼き捨てて来てしまった。もうこの映画がこの世に存在する以上、ディズニーは「それ以前」には戻れないのだ。ある意味で「魔法にかけられて」という作品は、ディズニーにとって魔法使いのバアサンが差し出した毒リンゴ並みの劇薬なのである。

 何でもこの映画は好評に応えて続編が計画されていると聞いているが、それって一体どうなんだろう? 続編がつくれるようなモノなのだろうか?

 それよりリスペクト混じりとは言え自らオチョクることで、一度はご破算にしてしまったディズニーの「おとぎ話」世界は、今後どのような方向を向くべきなのだろうか?

 もはや「後がない」状況だったとは言え、「禁断の果実」に手を付けてしまったディズニーは、今後どうすればいいのだろうか?

 その答えは、案外「魔法にかけられて」続編が握っているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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