「ラスト、コーション」

  色・戒 (Lust, Caution)

 (2008/02/25)


  

*この感想文はアレクサンドル・デプラ作曲の「ワン・チアチーのテーマ」(「ラスト、コーション」サウンドトラックCD収録)を聞きながらお読みください。

*最後の「2008年、日本・東京」という段落に入ると、物語のラストが書かれています。映画をまだ見ていない方は、そこで引き返してください。

 

 

2005年、日本・東京

 あれはもう何年前になるだろうか。もうすべては忘却の彼方で、今では曖昧なことしか思い出せない。僕と一時、ちょっとした付き合いがあった女の子のことだ。

 いやいや、何となくそんな事を書くと僕がモテている男みたいな感じだが、僕は正直言ってモテるようなタマではない。いいかげんイイ歳こいてるし、この年齢の中でも「チョイ悪」なんていって若い娘にモテはやされるタイプでもない。どらちかと言えば冴えないオッサンだ。

 でも、そんな男にもたまには神様が気まぐれなボーナスをくれる。彼女も僕には不似合いな、そんな娘だった。

 それに先ほど「付き合いがあった」と書いてはみたものの、あれが「付き合い」だったのかどうか僕には自信がない。たしかにある意味で「付き合っていた」とも言えなくもないが、決して「恋人」ではなかった。第一、そんな間柄になれるわけもなかった。年齢差もあったし、住んでいる世界も違った。彼女がどんな生活をしているかはよく知らなかったが、実直な生活をしていたとは思えない。どこか根無し草みたいに暮らしていたはずだ。

 彼女は、肩にちっちゃいタトゥーを入れていた。タトゥーったってそんなコワモテなシロモノではない。ごくごく小さい可愛らしいシロモノだ。僕自身そんなタトゥーぐらいでビビりもしなかったが、確かに僕の住む世界にはタトゥーを入れた女の子なんてのはいない。お互いの世界は全く違うだろうし、それが一緒になる可能性もこれから先、全くあるとは思えなかった。

 彼女とはほんの偶然から知り合い、会っていて楽しいから関わりを持った。何となくウマが合うというのか、気を許せるとは感じていたものの、僕は彼女と「付き合ってる」つもりはなかった。向こうだって僕と「付き合ってる」つもりはないだろうと思っていた。いつもカネがなくてピーピーいっていた彼女、会うたびにメシをおごってくれるから、こんなオッサンにもくっついてくるんだろうと思っていた。何しろどこから見ても僕とは釣り合う訳もない。どっち側から見たって無理がある。

 そもそも彼女とでなくても、僕はもう女と真面目につき合おうなんて気はなかったのだ。それはもう僕とは無縁の世界の話だ。僕には向いていない。それに僕はもうこんな年齢だ。それなりの相手とそれなりの結果を覚悟しないとうまくいかないだろう。

 それにしては、今の僕にはカネだってない。かつて僕はそこまで思っていなかったが、結局のところ良くも悪くも女にはカネがかかるもの…とイヤというほど思い知らされてしまっていた。ある女に「お嫁さんに来て欲しければ、まずお金」とアッケラカンと言われて、すっかり気勢が削がれたのも事実だ。おまけに、それなりの授業料も払わされていいかげん懲りた。だから結婚なんてものはもうあり得ない。

 それでも他人から彼女と「付き合っている」はずだと指摘されるならば、確かにそれは男女関係だったことは間違いない。それを男のエゴとか都合のいい言い訳とか言われれば、弁護の余地はない。しかし僕は、少なくとも彼女とは暗黙の了解で「分かっている」と思っていたのだ。お互い割り切った関係だと思っていた。向こうだって、仮に僕にマジになられたって困るだろう。それは僕と彼女の両方にとって、分かっているけど口に出さない「言わない約束」の事柄だったはずだ。

 そんなある日、彼女が意外な一言を口走ったのだ。

 「ねえ、私と付き合わない?

 その時、僕が瞬間的にどう思ったか、今となっては思い出す術がない。覚えているのは、その時にすごく戸惑いを覚えたということだ。それは僕の反応に如実に現れた。僕は一瞬躊躇した後で、とってつけたような答えを発したのだった。「悪くないねえ…」

 あの時、僕は一体何を思ったのだろう。心の準備が出来ていなかったと言えば、聞こえがいいだろう。実際のところ、彼女が本気で僕なんかにそう言っていたとは思えない。僕もこのフーテンのような娘と真面目に付き合う気などなかった。気のいい女の子ではあったが、やっぱり不釣り合いだ。そんなこんなを瞬間的に頭の中でぐるんぐるんと考えたのだろうか。ともかく最高にシラジラしい答えを発した僕だった。

 彼女は、それに答えなかった。

 僕もそれ以上、深く考えなかった。何しろ彼女とはすべて気楽で疲れないのがよかったのだ。僕はそんな事はすっかり忘れてしまっていた。

 それから1ヶ月ほど、仕事や私事が忙しかったせいで、僕は彼女と会っていなかった。すると久々に会った彼女は、僕に極めて「らしくない」言葉を放ったのだった。

 「もう捨てられちゃったかと思った」

 およそそんな「捨てられた」なんて演歌みたいな言葉が似合わない彼女。おまけに、この冴えない僕が彼女を「捨てる」って? そもそも「捨てる」「捨てられる」なんて日本海みたいにマイナーな言葉が、どうにもイマドキの男女関係にはそぐわない。違和感ありすぎで、僕はまたまた当惑してしまった。そのあげく、またしてもとってつけたような言葉を吐いてしまう。「そんなわけないじゃないか」

 そして、僕はすぐに話題を変えてしまった。それは、彼女の「捨てる」という言葉の重みをどう判断していいか分からなかったからか? それもあるだろう。もしヘビーな関係への発展を期待されたら困る? それもあるだろう。だが何よりも、まるで最高にサバけちゃってる彼女が冴えない僕などに「捨てられる」って思っているらしいことの違和感と、ともすればそんな仮定に「いい気」になりそうな自分を戒めたい…うまく言えないがそんな気分…が、僕にその彼女の発言を「なかったことにさせた」原因だったように思う。

 そりゃ男だから、女からそんな事を言われれば悪い気はしない。だが、それでいい気になったらバカを見るに決まってる。もし彼女が冴えない僕などに「捨てられる」って思っているなんて、それは何かの間違いか、僕の思い過ごしか、彼女がウソをついているかのどれかに違いない。

 それに、そんな事を言われたって僕にはどうすることもできやしない。所詮、僕と彼女とはそういう間柄だ。それ以上ではない。彼女だってそれは分かっているはずだ。

 僕は勝手にそう結論づけて、その場をやり過ごした。彼女も何も言わなかった。その時に彼女は、「それを言っちゃオシマイ」の言葉を言ってしまったと瞬間的に思ったのだろうか。

 それから、また何週間かが経った。

 ある日、僕は彼女と連絡がつかなくなった事に気づいた。

 彼女の住んでいた部屋には、もう別の住人が入っていた。思い起こしてみると、僕は彼女の個人的な情報は何も知らないことに気が付いた。もう彼女の行き先を知る方法はない。ある日突然、彼女は僕の人生から永遠に姿を消したのだった。

 それは、別に彼女が発した「あの発言」と何の関係もない出来事だったのかもしれない。彼女のことだ、金銭上のトラブルが発生したのかもしれない。サバを食べてアレルギーになったとか言っていたくらいだ、カラダを壊して故郷に帰ったのかもしれない。あるいは、もっとちゃんとした男が現れたのかもしれない。

 むろん過ぎた事について、いちいち「タラレバ」を言っても始まらない。実際、僕は彼女と真面目に付き合う気なんてなかったし、それはたぶん出来なかった。間違ってやってみたところで、きっとうまくはいかなかっただろう。お互い住んでいる世界が違うのだ。

 僕はいつもそう考えて、何となく自分を納得させてきたのだった。

 それでも時々彼女のことを思い出すと…今さらながらに僕は、あの言葉の真意を知りたいと思わずにはいられない。

 いや、それは違う。本当は、真意を知りたいなどと思ってはいない。なぜなら僕は、すでにそれを知っていたのではないか

 それは言葉でも理屈でもない。すべてを分かち合った者同士だけが知る「実感」ではないか。

 

1942年、中国・上海

 それは見るからに立派なお屋敷の一室。4人のチャイナドレスの婦人たちが、麻雀卓を囲んでゲームに興じていた。その場を仕切っているのは、屋敷の女主人イー夫人(ジョアン・チェン)。さらにマー夫人、リャン夫人、そしてこの中で最も若いマイ夫人(タン・ウェイ)。彼女たちは麻雀を楽しみながら、他愛のない世間話に興じている。だが時折そんな会話の中で、女たちの視線がチラリチラリと微妙に交錯している瞬間があった。中でもさりげないながらも鋭く視線を走らせているのが、最年少のマイ夫人だ。

 そんな女たちの思惑が入り乱れる中、この屋敷の主が戻ってきた。それはダンディな紳士イー(トニー・レオン)だ。たちまちパッとその場が華やぐが、マイ夫人は用事を思い出したので帰ると言い出す。突然のゲームからの離脱に恨み言を聞かされながらも、イー邸を後にするマイ夫人。

 彼女は街のメインストリートにやって来ると、ハイカラなカフェに入る。そこからどこかに電話を入れたが、どうもそれは何かの暗号か合言葉のようでもあった。

 カフェの窓から外をボンヤリと見つめるマイ夫人。いや、実はマイ夫人という名前は世を忍ぶ仮の姿。本当の名をワン・チアチーという。時は1942年、ここは日本占領下の上海である。

 そんなこの物語の発端は、今から4年前に遡る。

 1938年の中国。日本軍の侵略の手を逃れて逃げていく人々の中に、まだ表情に初々しさを残したうら若いワン・チアチーの姿もあった。彼女にはイギリス在住の父もいたが、運悪くこうして逃げるタイミングを逸してしまった。仕方なく彼女は、香港へと避難していくところだった。

 そんな思いをして辿り着いた香港は、彼女につかの間の青春の喜びを味合わせてくれた。編入された香港大学で、親友ライ(チュウ・チーイン)と楽しい語らい。そんな時にライの知人であるクァン(ワン・リーホン)とう青年が、彼女たちに話しかけて来た。

 「抗日演劇をやっているんだ、キミたちも参加しないか?」

 友人のライは、どうやらクァンに夢中のようだ。だがクァンに初めて話しかけられたワンも、爽やかで男らしいクァンにポーッとなった。

 香港にいる我々も、安穏としていてはいけない。本土の同胞を支援する意味でも…。

 しかし、そんなクァンの熱っぽい言葉は耳に入らないまま、いつの間にか抗日演劇の「同士」となっていたワンだった。

 それは楽しい経験だった。仲間たちと一から作り出す手作りの芝居。クァンの高邁な理想はともかく、ワンたちにとっては輝かしい青春の日々だった。そして演劇の発表会がやってきた。芝居のヒロインを務めるのは、他ならぬワンだ。芝居のラストを締めるのも、彼女の決めゼリフだ。

 「祖国を殺させるな!」

 すると客席から、このセリフに唱和する声が次々と挙がるではないか。

 「祖国を殺させるな!」「祖国を殺させるな!」

 芝居は大成功。終わってからのクァン、ライ、オウヤン(ジョンソン・イェン)、リャン(クー・ユールン)、ホァン(ガァオ・インシュアン)ら仲間たちとの飲み会も、気分は高揚して最高の気分。そんなワンの傍らに、秘かに憧れていたクァンがやって来る。そんな二人の様子を見て、やはり陰ながらクァンへの想いをつのらせていたライは、心中穏やかではない。そんな各人の思惑が交錯しながらも、美しい青春のひとコマのような一夜が更けていった。

 そこで終わっていればよかったのだが…。

 抗日演劇が予想以上の盛り上がりを見せたことに気をよくしたクァンは、さらに英雄的な試みを模索した。人けのない舞台にワンが呼び出されたのは、そんなある日のこと。見ると、桟敷の客席にクァン、ライ、オウヤン、リャン、ホァンの仲間たちが集まって、何やら深刻な顔をして話し合っているではないか。「一体何だ」と上がってみると、クァンは自分で考えたとっておきの「計画」を披露していた。今度こそヌルい芝居なんかじゃない、正真正銘「抗日」ゲリラの計画だ。

 幼なじみのツァオ(チェン・ガーロウ)が、日本の傀儡政権の要人イーの下で働いていると知ったクァンは、このチャンスを逃さずに本格的抗日行動に出ようと決意したのだ。それは、恐怖で人々を締め上げるスパイ組織の最高責任者イーの暗殺だ。

 それでなくても、先日の抗日演劇の大成功で意気上がる一同。しかも愛国ゆえの行動とまで言われては、いくらクァンが「決して無理強いはしない」などと言っても歯止めが利くわけもあるまい。そもそもクァンのその言葉だって「とりあえず」言った言葉に違いない。ましてそんなクァンに淡い感情を抱いていたワンが、彼の意見に賛同しないわけがない。こうして彼らは、それとは気づかぬうちに踏み越えてはいけない一歩を踏み出してしまったのだが…。

 計画はこうだ。ワンがマイ夫人という貿易会社社長夫人に扮して、香港にやって来たばかりのイー夫妻に接近。うまくイーをおびき出したところを暗殺…。話してみれば、ごく単純な計画に思えた。大学が夏休みのうちに、事を運べればいい。そんな「夏休み合宿」のような甘っちょろい考えの一同だった。

 早速、クァンの幼なじみツァオを通じてイー夫妻とつなぎを付ける一同。マイ夫人に扮したワンはまもなくイー夫人の信頼を勝ち取り、香港に不慣れなイー夫妻の面倒を見るようになる。そしてある日、イーのスーツを新調するのに付き合ったワンは、彼にレストランでの食事を誘われる。早くも千編一隅のチャンスだ。

 2ヶ月間だけ借りた大きな屋敷まで送らせ、イーを誘うワン。屋敷の中には、クァンたちが武器を持って待ちかまえていた。しかし、あくまで用心深いイーは中へは入らない。こうして一触即発の事態は、幸か不幸か避けられた。

 だが、次はいよいよワンも、イーの誘惑を避けることはできないはずだ。この期に及んでワンは、自分が抜き差しならない状況に陥ったことに気づいた。すると、仲間の男連中はみなわざとらしく席を立つではないか。そして風向きがおかしくなったと気づいた時、ライがワンにあっけらかんとこう聞いてきた。

 「あなた、男とした事はないわよね?」

 何と彼らはワン抜きで、こんな微妙な問題についてすでに結論を出していたのだ。「人妻」ワンが処女ではシャレにならない。イーを誘惑するには「経験者」でなければならない。そして仲間うちの間では、女との経験があるのは商売女を抱いているリャンしかいない…。

 誰もがみな、それが「当然のこと」という態度だ。ワンはようやく、自分がどうにもならない罠にハマってしまった事に気づいた。クァンに対する淡い感情も、もはやどうすることも出来ない夢だったと悟った。そこにライの「女としての残酷な感情」があることも、ワンには分かっていた。仲間たちの無言の圧力…そしてすでにイーを引っ張り出してしまったという抜き差しならない状況。選択の余地はない。

 ワンはその夜、自分の心を押し殺してリャンと愛のない関係を結んだ。それは彼女にとって、初めての経験だった。

 翌朝、ワンが目覚めて部屋を出てくると、それまで和やかに話していた一同が凍り付く。仲間たちのために、仲間たちの暗黙のプレッシャーで自らを犠牲にしたワンだったのに、一同の彼女を見る目は明らかに「汚れた女」。あのクァンですら、もはや彼女に対して無言の壁をつくっていた。そんな空気を敏感に察知したワンは、その瞬間から一同に対して心を閉ざした。そして刹那的にリャンと繰り返し関係して、「人妻」として誘惑できる自分を作り出そうとしたのだった。

 ところが、青天の霹靂のような出来事が起こった。突然のイーの任務の変更で、イー夫妻がすぐに香港を引き払わなければならなくなったのだ。それを電話で聞いて激しいショックと落胆を覚えるワン。

 私が自分を汚してまで犠牲になったのは、一体何のためだったのか…。

 他の連中は何だかんだ言って、殺しに手を染めずに済んでホッとしている様子。完全に夏休み合宿を引き払うような気楽さを見せ始めた。そんな連中を見るにつけ、ワンはどうしても割り切れないものを感じるばかりだった。だから彼女は仲間たちと一緒に片付けをする気にもなれず、かつては吸えなかったタバコを吸いながらボンヤリとしていた。

 ところが、事はそれで終わりではなかったのだ。そんな片付けの最中に、あのクァンの幼なじみのツァオが飛び込んで来たのだ。ツァオはその場の状況から、彼らが何をしようとしていたのかを理解した。ツァオの表情にドス黒いものが広がる。「見てろよ! オマエたち一人残らず、イーに突き出してやる!」

 そうはいかなかった。

 それからの部屋の中の阿鼻叫喚は、その場の誰もが予想できないものだった。それまで「殺し」を真剣に考えていなかった彼らは、ようやく自分の命に関わると自覚して初めて、自分たちの手を汚す気になったのだった。一人また一人と、鋭利な刃物でツァオを刺し貫く彼ら。しかし、それでもしぶといツァオは、なかなか息の根を止めない。そんな彼をやっとの思いで仕留めたのは、鬼のような形相のクァンだった。

 その地獄絵図に、それまで耐えに耐えていたワンの感情はついに振り切れた。彼女は激しく絶叫すると屋敷を飛び出し、仲間たちを捨てて夜の街へと消えて行くのだった。

 それから2年が経った。

 ここは日本占領下の上海。ワンは今は叔母の家に身をおきながら、いまだに学生として勉強を続けていた。その顔に、かつての溌剌とした娘らしい面影はない

 それでも何とか学ぶことだけは続けたいと通っている学校でも、やりたくもない傲慢な日本語授業を受けさせられる。せめてつかの間の楽しみのために映画館に入ると、そこでもアメリカ映画と途中でぶった切って、偉そうな日本のニュース映画が罷り通る。すべてを諦観したようなワンでも、時々こんな状況に耐え難い思いを抱いていた。

 ところがそんな彼女の姿を、目ざとく見付けていた人物が一人。かつての彼女の仲間、ライであった。

 ライは早速クァンに連絡。何と彼らはいまだにツルんでいたのだ。そしてクァンは、ワンの自宅前で彼女を待ちかまえていた。

 苦い苦い再会。

 「自分が悪かった、自分が甘かった」と言うクァンに、もはや冷めた視線しか投げかけられないワン。クァンが言うには、実はあの時の彼らの行動は、逐一抗日ゲリラの連中に観察されていたとのこと。ワンがあの夜、屋敷から消えた直後に、その抗日ゲリラが乗り込んできたというのだ。そして、その日以来…彼らは素人ゲリラとしてではなく、ホンモノの抗日ゲリラとして活動してきた。

 「で、あなたは私に謝るためにここに来たの?」

 そんなワンの問いに対して、クァンはようやく話の本題に入っていった。クァンはいまだに、未遂に終わったイー暗殺計画を諦めていなかった。そしてワンに再びマイ夫人に扮して、イーに接近して欲しい…と頼み込んだのだ。

 自分が悪かった…の舌の根も乾かぬうちにこの言葉

 本来だったらワンは、冗談じゃないと突っぱねたかもしれない。しかし彼女は、上海での今の生活に虚ろさしか感じてはいなかった。それに、自分が続けようとしている勉強やささやかな楽しみである映画までも台無しにする、無粋な日本の侵略者に対する憤りも感じていた。しかし、それより何より…自分の身を汚してまでやり遂げようとして、結局は未遂に終わった「仕事」を何とか成就させることで、この空虚さを少しでも埋め合わせたいと思ったのだろうか。ワンは自分から進んで、クァンの抗日活動に協力することを申し出た。

 しかしクァンが紹介してくれた新しいボスのウー(トゥオ・ツォンファ)は、ワンにまず猛毒の丸薬を渡した。もし捕まったら、仲間を敵に売ることなく自害せよ。ウーはワンの協力に感謝するどころか、一時が万事この調子で、まるで将棋の駒のように扱うのだった

 こうして、再びワンはマイ夫人になりすますことになった。今回はクァンの「夏休み合宿」みたいなわけではなかった。ある意味で、ゲリラ活動のプロの仕事。ワンはその活動にのめり込む中で、刹那的で疲れ切っていた気持ちが妙にイキイキしてくるのを感じずにはいられなかった。

 こうして、ワンは再びイー夫人に連絡を取った。彼女は夫から離れて、単身上海にやってきた設定だ。そんな彼女を、イー夫人は自宅の一室に住まわせるのだった。

 そしてワンと思いがけず再会することになったイーは、人知れず彼女に熱い視線を送る

 それはある日のこと、ワンが映画館に行く…と出かけた時のことだった。何とイーがクルマを寄こして、彼女を送るように手配してくれていた。ところがワンがクルマに乗り込むと、クルマは映画街とは違う方向へと走っていくではないか。そこはイーが借りていたアパートだった。彼女が上がっていくと、部屋にはすでにイーが待ち構えている。

 いよいよ…そしてついに…ワンによる誘惑の時が始まるのか

 彼女が意を決して彼の気を惹こうとしたその時、イーはそれまでの冷静さをいきなりかなぐり捨て、ワンに暴力的に襲いかかった。思わず最悪の結果を疑って身構えるワンだが、イーにはもはや何の計算も深慮もなかった。

 「オレをじらしているつもりか!」

 服を脱がせるのももどかしげに、ワンを組み伏すイー。下着を引きちぎり、むりやり身体の奥に入り込む。そして嵐のように去っていく。

 しかし、それはワンとイーの宿命的な関係における、単なる幕開けに過ぎなかった…。

 

2000年、日本・某地方都市

 先に「たまには神様が気まぐれなボーナスをくれる」と書いたが、考えてみれば僕は結構そのボーナスをもらっているような気がする。

 どう見たって冴えないご面相だ。若い頃はスポーツも全然ダメだしかっこいいわけでもなかったから、シミジミとモテなかった(笑)。その後だって出世もしなけりゃカネとも無縁。女の気持ちをつかむトークも苦手とくるから、大してモテる訳がない。だがそんな僕でも時としてそんな機会が巡ってくるのだから、世の中たで食う虫も好きずきとはよく言ったものだ。僕が言っちゃいけないのだろうが、女にもいろんなタイプがいるんだろう(笑)。

 もっとも僕がコトそっちの関係でうまくいかなかったのは、冴えないご面相とカネのなさのせいばかりでもなかった。

 僕は自分で言うのも何だが、ホントに人を信用しないのだ。心底腹を割ることができない。何かあるとすぐに疑ってしまう。これは悪い癖だと分かっているが仕方がない。そしていつも最悪のケースを想定する。

 だが、それは理由がないわけではない。なぜなら、大抵は僕が想定した「最悪のケース」が現実のものになるからだ。

 人間というのは醜いものだ。結局は自分のことしか考えないし、損得にしか目がいかない。別に他人だけをつるし上げるつもりはない。僕だってそうだ。やっぱりテメエが一番可愛いのだ。

 だが、僕は子供の頃は本当に苦い思いをした。友達と思った者にはウソをつかれ裏切られ、すっかり利用されたあげく、陰で悪口まで言われた。恩師と思った人物はとんでもない見かけ倒しの奴だった。人は信じるものじゃないし、お人好しに振る舞うものじゃないとイヤというほど痛感させられた。そんなこんなで、すっかり僕は懲りてしまった。

 しかし、それでもみんなこの世の中でうまくやっているのなら、それが出来ない僕の方が悪いのだろう。子供心に僕はこう考えた。どうやらこの世のルールはそう決まっていて、「汚い仕事」こそ人間の本分。これは初めからそういうゲームなのだ。そのゲームでプレイする以上、僕もそのルールでやらねばなるまい。

 だから、僕は人を信じるのをやめた

 人に期待もしない。裏切られても失望させられても、怒ってはいけない。誰も僕に期待してくれなんて言ってないではないか。期待する方が悪い。そうだ。だから最初から期待はしない。人も世の中もそんなもんだと思えばいい。ダマし、裏をかき、踏み台にするのがこの世のルールなのだ。すべては自分が得をするためだ。

 仕事だって、みんな好きな仕事ばかりやっているわけではない。この世の中のみんなはやりたくもない事を我慢してやっているのだ。だから多くを期待せず妥協しろ。仕事など適当にやって、後はプライベートで発散すればいい。僕はみんながそうしているものと勝手に思っていた。それがこの世のリアリティだと思っていた。社会に出てすぐにそれにしっぺ返しされたのは言うまでもないが、それでも僕にはそれがこの世のルールと思っていた。

 女だってそうだ。好きだった女もいたが、本当に好きかと言われればよく分からなかった。だがある程度の年齢になれば女と付き合うのが当たり前。そしてそんなに都合よく、絶対に自分のタイプの女が目の前にやってくるわけもなく、ましてそれが自分になびいてくれる訳もない。ならば、とりあえず手っとり早く手近な女で妥協しよう…。

 むろんその時、僕がそこまで意識していたとは思わない。でも、今考えてみると、心のどこかにそういう気持ちがあったような気がしてならない。誰だって、そうそう理想のタイプを手に入れているわけはない。きっと妥協だ。それでいいんだ。

 だがそんな気持ちは、やっぱり相手に見透かされてしまうのだろう。女との関係はうまくいかなかったし、うまくいってもすぐに壊れてしまう。それはそうだ、女より自分が大事…という僕の無意識が、彼女たちにはすぐに分かってしまったはずだ。それが分からない女などいない。そして、そんな男と付き合いたい女などいるわけがない。

 それでも稀に僕が惚れ込むケースもあるにはあったが、やっぱり彼女たちはすぐに僕に愛想を尽かした。それは、僕がどうしても彼女たちを心の底で信用できないからだった。

 女たちが僕に愛想よくすると、僕は居心地悪いのだ。それってウソではないのか。女の媚びや甘えを感じると、心のどこかで警戒してしまう。何かよくないことが起きるような気がしてしまう。この世のルールからいけば、他人は自分の利益のために人を踏み台にしてもいいと思っているような連中ばかりだ。女もその例外ではない。ならば、こいつが媚び甘えているのにも訳があるはずだ。この世に無償の愛や思いやりなどない。

 むしろ愛想がなく、冷ややかな態度で接してくる女ほど僕にはリアリティがあった。少なくとも、その態度は本音だ。根性が悪く口のきき方を知らず、テメエ勝手で自分の利益だけ考えている…これこそ本当の女というものだろう。そんな女たちにムカつきながらも、心の底では安らぎを覚える。それが僕だった。

 だがそんな女たちが僕に気を許して甘い言葉でもかけて来ようものなら、僕はもう信用できないのだ。そんな僕が、マトモな男女関係など築けるはずもない。

 ところが、またしても「神様が気まぐれなボーナスを」くれた。

 それは、先に語ったタトゥーの彼女との関係に先立つこと2〜3年前。僕は生涯でたった一度、「理想のタイプ」の女と巡り会ったのだ。

 それまで僕は、本当の意味で「理想のタイプ」という女を口説いたことがなかった。その理由は前述の通りで、「世の中そううまい話はない」と自分の中でふるいにかけてしまっていたところもあったのだ。そんな理想を追うなどリアリティがないと思っていたし…正直言って男としてまったく冴えない僕では、とてもじゃないが望むべくもないと思っていたからだ。

 いやいや、それだけでは説明になっていない。僕が彼女と初めて会った時の、あの衝撃を語っていることにならない。どうしてそれまでと彼女がこうも違ったかと言えば、何より…ここまで「理想のタイプ」だった女に、それまで巡り会ったことがなかったからだろう。

 僕は今でも、彼女が初めて僕の目の前に現れた瞬間を思い出せる。

 そして彼女に会ってまだ何日も経っていないうちに、僕は彼女を猛烈に口説いていたのだった。そんな事は自慢じゃないが今までしたことがない。とにかくそうすべきだと思っていたし、そうせずにはおれなかった。とびきりの美人だったが、そんなことは関係ない。あの時は僕はハッキリと思っていた。「これはオレの女だ!」と…。

 彼女は僕からの口説きにビックリして困った様子だったが、僕はまるで関係なかった。そもそもうまくいかないなんて考えてもいなかった。やりとりをしているうちに、彼女が現在気の毒な境遇にいることも分かって、僕はますます入れ込んでいった。あの時の僕の迷いのなさは、人生で最初で最後のものだったろう。ともかくそれくらい、僕はズケズケズバズバと彼女に迫っていった。あの勢いにはイタリア男だって負けたはずだ。そんな奮闘努力の甲斐あってか…数ヶ月後、僕はようやく彼女の気持ちを勝ち取ったのだった

 しかし、そうなって初めて僕は不安を覚えた。

 確かに彼女は「僕を愛している」とは言っていた。だが、それって本当に信用していいのだろうか?

 

1992年〜2008年、台湾〜イギリス〜アメリカ〜中国

 アン・リーという映画作家のイメージを、みなさんはどのように抱いているのだろうか。

 それというのもこの台湾出身の映画監督の生みだした作品群が、あまりにバラエティに富んでいるからだ。いや、「バラエティに富んでいる」なんて言い方は、かなり控えめだと言わなくてはなるまい。アン・リーの作品群は、むしろ「とっ散らかっちゃっている」(笑)とでも表現した方がいい。そのくらい、振り幅の激しさを見せて洋の東西、内容の硬軟の極端から極端へと揺れ動いている。それは彼のフィルモグラフィーの上っ面を、サッとなでてみるだけでも分かる。

 残念ながら出世作の「ウェディング・バンケット」(1993)を見る機会はなかったが、監督デビュー作の「推手」(1992)から「恋人たちの食卓」(1994)までは、この台湾人監督に抱く我々のイメージとしては「想定内」の作品群。それらはかなり優れた作品ではあるが、都会のアートシアター系で上映されるぶんには驚くにあたらない作品群だ。

 ところが次にアン・リーは、「いつか晴れた日に」(1995)でジェーン・オースティンの世界に挑戦。いきなり19世紀イギリスを舞台にした映画を完璧に創り上げた。考えてみると、ジョン・ウーなど「越境したアジア映画人」の先陣を切っていたのが、アン・リーだとも言えるだろう。

 しかしアン・リーのすごいところは、単にアジア映画人が欧米映画も撮れるというレベルにとどまらない。

 明らかに作家映画である「恋人たちの食卓」から、往年のショウ・ブラザースの武侠映画を思わせるグリーン・デスティニー(2000)まで作ってしまうし、かつ、それを商業的にもアメリカ・マーケットで当てた上で、アカデミー賞を何部門ももらってしまう。アメリカ中流家庭の崩壊劇「アイス・ストーム」(1997)から南北戦争時代の青春群像劇楽園をください(1999)を創るのは想像できても、アメコミ・アクション大作ハルク(2003)を制作するってのは予想もしなかったはずだ。しかもこれが「グリーン・デスティニー」に続く作品と聞いたら二度ビックリだろう。

 ちっちゃいミニシアターにかかるアート系の作品からアメコミ原作によるハリウッド・メジャーの大作娯楽映画まで、ジェーン・オースティンの小説世界からショウ・ブラザースやキン・フーの武侠映画世界まで。守備範囲が広いなんて表現では収まりがつかない、乱暴な言い方が許されるのなら、「発狂しちゃった」のかと思うくらいムチャクチャなラインナップなのが、アン・リーの作品群なのである。

 しかも、それに続くのが西部を舞台にしたセンシティブな同性恋愛劇ブロークバック・マウンテン(2005)と来る。ここまで落差の激しいフィルモグラフィーが続くと、むしろ「ブロークバック・マウンテン」からこの抗日サスペンス映画のカタチをとった愛欲劇「ラスト、コーション」への展開は、あまり変化がないくらいに思えてしまう。

 実際のところ、作品のたびにビックリさせられ通しのアン・リーのフィルモグラフィーの中では、今回の「ラスト、コーション」と最も共通するテイストを持っているのが「ブロークバック・マウンテン」ではないだろうか。取り返しのつかない苦いメモワールを描いた作品という点でも、禁じられた愛を描いた作品という意味でも、「ラスト、コーション」と「ブロークバック・マウンテン」は双子の兄弟のような作品だといえる。

 そして、それはかつての「魔都」上海を再現したものだ。

 中国映画がかつての上海を描く時、そこには不思議なノスタルジーが立ちこめる。それはツイ・ハークの「上海ブルース」(1984)にもチャン・ツィイー主演のジャスミンの花開く(2004)にも、あのチャウ・シンチーのカンフーハッスル(2004)にも同様に感じられるのだから尋常ではない。ここで生半可なことを言うと、中国語圏映画にはマニアックなファンも多いので血祭りに上げられそう。だからごくごく控えめに言わせてもらうと、どうも戦前に繁栄を誇った「上海映画」が中国映画の原体験的な記憶らしきモノのようで、中国の映画人たちは自らの中のDNA的にかつての「上海映画」へのノスタルジーみたいなものを忍び込ませずにはいられないようなのだ。

 当然、この「ラスト、コーション」もそうした「上海映画」の記憶の再生産のような色を帯びている。ひょっとしたら「グリーン・デスティニー」が香港武侠映画の残像をアン・リーなりに再生産して作品であったように、今回の作品も、どこかにそうした「中国語圏映画」の共通の記憶をアン・リーなりに辿るような意図があったのかもしれない。

 そしてさらに注目したいのは、この映画の原作がアイリーン・チャンの小説だったこと。

 な〜んて言うと、さも僕がそういう中国語圏の文化に詳しいみたいな言い方だが、正直言ってそれほどのもんじゃない。お恥ずかしい話だがアイリーン・チャンが原作者だと知ったのも、この映画の劇場パンフレットを読んでから。しかも、確かに僕はアイリーン・チャンという作家兼シナリオライターの存在を知ってはいたが、それはあくまで…当サイトではマンボ・ガール(1957)でご紹介したグレース・チャン主演のラブコメ「ジューン・ブライド(六月新娘/June Bride)」(1960)や、ホノルル・東京・香港(1963)で紹介したユー・ミン主演のホームドラマ「家族(「香港映画の黄金時代 I」における上映題名)(小兒女/Father Takes A Bride)」(1963)などの脚本を書いた人物として認知していただけのこと。

 ところがこれまた劇場パンフを読んでみると、何とアン・ホイ監督の「傾城之恋」(1984)やイム・ホー監督の「レッドダスト」(1990)の原作者でもあるというではないか。ならば僕としては知らん顔はしていられない。その後のアジア映画の激しい世代交代のために、監督したアン・ホイもイム・ホーもすっかり「過去の人」となってしまい、作品そのものも忘れられた映画になってしまった(特に「レッドダスト」は東京でも極端に小さい映画館1〜2館だけで、あっという間に上映打ち切りになったように記憶している)ものの、この2本はどちらも僕にとっては忘れがたい作品だ。決して無視すべき作品ではないと思う。

 この中でも「レッドダスト」の方は、香港映画にしては特異な内容だったので僕にとってもひときわ印象深い作品だ。ブリジット・リンが演じる主人公は女性作家で確か物語の冒頭で何らかの父親の怒りをかって、自宅軟禁状態になったりする。しかし本当に特異なのはその後の展開で、主人公は対日協力者の男と愛人関係になってしまうのだ。今では大御所然としてしまったマギー・チャンがまだ爽やかなお嬢さんぶりを見せていたこの作品だが、何より対日協力者という中国人にとっての「売国奴」をヒロインの恋人として設定しているあたり、他の中国語圏映画とは一線を画するユニークな味わいを見せている。何しろ中国語圏映画では、大陸中国、台湾、香港…とそれぞれ若干の温度差こそあれ、基本的に侵略者日本には情け容赦ないからだ。

 ところが驚いたことに…「ラスト、コーション」劇場パンフによれば、この物語はほとんどアイリーン・チャンの自伝に等しいらしい

 どうもアイリーン・チャンという人、日本軍占領下の上海で売れっ子作家になりながら、日本の傀儡政権における要人とかなり親しい関係になっていたようなのだ。それでよく戦後無事に済んだものだと、レニ・リーフェンシュタールの末路などと比べても驚かされるのだが、ともかく彼女と日本軍による侵略との間には、かなり微妙な関係があるらしい。

 なるほどそう考えてみると、アン・ホイの「傾城之恋」も中国語圏映画とは異例の内容と言えなくもない。悪く言えばいわゆる「出戻り」の娘とプレイボーイの男の恋物語なのだが、その背景に日本軍による香港占領が描かれる。本来ならば「それっきり」で終わるはずだった二人の恋が、図らずも日本軍の侵略のおかげでめでたく結ばれることになる…と、見ようによっては見れなくもない微妙なお話。最初はアン・ホイが中国人の父と日本人の母との間に生まれたハーフであることから、このようなデリケートな作品が生まれたのだと思っていたが…そして、それは後の「客途秋恨」(1990)を見ても確かに間違ってはいないのだが…元々のアイリーン・チャンの原作に、すでにそんな微妙なニュアンスは含まれていたのだ。

 だからと言って、これをもってアイリーン・チャンが「親日」的な作家だなどと言うつもりはない。

 そもそも「反日」だの「親日」だのと、イマドキはあまりに安易にレッテルを貼りすぎる。要は何かというと躍起になって敵だ味方だと決めつけたくて必死なのだろうが、それって戦中に「貴様ァ、この売国奴が!」と都合の悪い意見を踏みつけていった愚劣な狼藉を、ちょっと分からないように21世紀バージョンに焼き直しただけに過ぎない。またあんな事がやりたいのかねぇ。昨今特にネットで見られるこの手の単細胞的決めつけには、正直言って僕はウンザリしている。人間っていうものは、そんなステレオタイプで単純なものではないだろう。

 つまりは…良くも悪くもそういうステレオタイプでは語れない人間の在り方を描いてきたのが、このアイリーン・チャンという作家なのではないだろうか。

 で、そうした「善と悪」、「正と邪」、「虚と実」…の狭間というか、それらのグレー・ゾーンに落ち込んだ人間たちを描き続けたのが、他ならぬアン・リーなのである。

 テーブルを囲んで食事を楽しむ父親と娘たち…彼女たちの表面に出ている部分と内面の葛藤を描いた「恋人たちの食卓」、ジェーン・オースティンの他の作品と同様に、恋をした時の男女の本音と建て前、エゴと情熱のせめぎ合いが描いた「いつか晴れた日に」…いやいや、腹芸的な世界がモノを言う「グリーン・デスティニー」にしても、秘められた秘密を持つヒーローの「ハルク」にしても…何より男同士の「忍ぶ恋」を描いた「ブロークバック・マウンテン」がそうではないか。アン・リーの映画では、登場人物がステレオタイプに描かれることはあり得ない。ショウ・ブラザース風剣劇映画でもアメコミ原作映画でもそうなのだから、そのポリシーは一貫している。彼はむしろ人間のグレー・ゾーン、感情のファジーな部分こそを見つめようとしている監督だ。ならばアイリーン・チャン、そして彼女の小説の映画化「ラスト、コーション」こそ、意外でも何でもなくて最もアン・リー的世界とは言えまいか。

 そして今回は、起用された二人の主演俳優が素晴らしい

 まずはトニー・レオンだ。元々素晴らしい役者だとは思っていたが、例えばウォン・カーウァイ作品に出てくる時の彼と比べると、今回の素晴らしさは格段に違う。こう言っちゃ何だが、カーウァイ作品あたりのトニー・レオンは「かっこいい」自分を意識した役作りだ。それを悪いとは言わないが、今回の作品でそれをやったらかなりシラケただろう。ポマードべったりで髪をオールバックに持ってきてるあたり、外見上は「花様年華」(2000)あたりを彷彿とさせるが、その辛い味わいが違うのである。いつものナルシスティックなてらいは消えている。

 そして、そのトニー・レオンを迎え撃つ新人女優タン・ウェイ。巷では今回の映画のセックス描写の強烈さばかりが話題になって、妙な騒がれ方をしてしまっているが、彼女の注目すべき点はそこではない。マイ夫人を「演じて」いる時のちょっと古風な「中華美人」らしさが素晴らしいのである。

 僕はひと頃1950〜1960年代の香港映画に大いに凝っていたが…実は今でも決して飽きたわけではなく、何しろ忙しくなってしまったので作品を漁れなくなってしまったのだが…この時代の香港映画は基本的にヒロイン映画優勢で、キラ星のごとくゴージャスなスター女優たちがひしめいていた。僕が入れ込んでいたロー・ティ(樂蒂/Betty Loh Tih, a.k.a. Betty Le Di)もそんな一人だったが、そんな女優たちをはじめ戦後間もなくの香港映画を支えたのは、多くは上海から逃れて来た映画人たちだったという。

 そんなかつての香港スター女優たちの多くが、なぜか自殺という末路を辿ってしまうという悲劇性は今回の話とは関係ないものの、このタン・ウェイの出で立ちにはそんな1950〜1960年代香港女優…さらにはそこから透けて見える1920〜1930年代上海映画女優のニオイが立ちこめているのは間違いない。最初にスチール写真で見た時には大して魅力的には見えなかった彼女が、スクリーンで動き出してみると実に素晴らしいのである。特に日本風お座敷で彼女が歌いながら舞うくだりは絶品というしかない。

 またスッピンで女学生姿を見せる時の彼女の可憐さも、「イノセンスの喪失」が大きな意味を持つこの映画にとっては、必要な条件だったに違いない。そういう意味で、タン・ウェイというこの新人女優、大いに注目したいと思うのだ。

 脇のワン・リーホンなんてのはどうでもいいが、いい気になってガキのお遊びみたいなゲリラ戦に友だちを巻き込むハタ迷惑ぶり、その時の「無理なら参加しなくてもいいぞ」なんて…本当はこれっぽっちも思ってやしない言いぐさも含めて、いかにも中身カラッポなイケメンの若造に演じさせたあたりが秀逸(笑)。ハッキリ言って僕みたいな冴えないオッサンからすると、イケメンで若い男ってだけで殴りたくなるのが本音だ(笑)。おまけにここでは有言不実行の口先チンカス童貞坊主と来るから念が入っている。ここまでクソ生意気な若造を叩いてくれれば、オヤジとしては大満足だ。クソガキがデカいツラするんじゃねえ。

 ともかく僕はこの映画を見ながら、ふと成瀬巳喜男の浮雲(1955)をアン・リー監督、トニー・レオン、タン・ウェイ主演でリメイクしたらどうだろう…と夢想してしまった。これってなかなかイケてる企画だと我ながら思ってしまったよ。それくらい、彼らの成し遂げた成果はすごいのだ。

 ところで余談だが、先ほど述べていたアイリーン・チャンがらみの作品も含めて…上海、日本軍の侵略、ヒロイン映画…といったキーワードをあれこれ考えていたら、それらがそっくり出てくる映画を思い出してしまった。あまり話題にはならなかったが、チャン・ツィイーと仲村トオル主演のパープル・バタフライ(2003)という作品がそれだ。しかもこの映画は、題材的にもテーマ的にも、かなりこの「ラスト、コーション」と共通するものを持っているのだ。果たしてそれは偶然なのか、それともアイリーン・チャンがらみ、あるいはアン・リーが本作を制作するにあたって、どこか参考にした事実はないのか? 「パープル・バタフライ」がなかなかの佳作だけに、ちょっとそのへんが気になってはいるのだが…。

 

2000年〜2003年、日本・某地方都市

 彼女と想いを通じ合わせたはずでも、そして再会の日を指折り数えて再び顔を合わせても、そしてそのまま彼女と夜まで過ごしてみても…僕の心のどこかに、彼女の気持ちを信じ切れない部分が残っていた。

 そんなバカなと思われるかもしれないが、いつどこで誰かがテレビの「どっきりカメラ」みたいに僕と彼女の間に割って入ってきて、「信じてたのか、バ〜カ!」と言ってくるだろうか…と、そんな気分がどうしても拭い去れない。何となく、すべてうますぎる気がしていた。ひょっとしたら、途中で北朝鮮に連れて行かれるハメになってしまったりするかも…いや、むしろその方が彼女とうまくいっている今のこの状況よりも、よっぽど僕を納得させてくれるような気がした。

 そしたら僕もピョンヤン行きのボートの上で、鼻高々でこう言えただろう。「ほ〜ら、やっぱりね! オレには最初から全部分かってたんだ

 女も男も老いも若きも、それまでこの世の他人という他人は、僕を裏切りダマすために存在していると思っていた。他人は僕を傷つけ踏みにじるのが当たり前だった。その例外はホンの数えるほどしかなかった。それで当然…と、僕もそんな世の中を受け入れてきた。

 それなのにこの美しい女は、僕の愛に応えてくれた。両手を広げて僕を抱き留めてくれたのだ。そして耳元で「愛してる」と囁き、そして…そして、それ以上のことをしてくれた。

 そんな彼女が僕の心の奥底を見通したのは、一体なぜだろう?

 僕は「彼女を信じ切れない」自分を、ひとかけらも彼女に悟らせなかったつもりだ。いつだって幸せ一杯の顔をしていたし、それはあながちウソではなかった。ただ心のどこかに、100パーセント幸せにドップリ浸りきれない自分がいたというだけだ。

 だが、彼女は感づいていた

 それはたぶん…やはり理屈を超えたところ、すべてを分かち合った者だけが知る「実感」なのだろうか。とにかく彼女は、僕が完全に気を許してはいないことを知っていたのだった。

 ある夜、二人きりの部屋で、彼女はいつになく思い詰めた表情で僕にこう言ったのだった。

 「私があなたをどんなに愛しているか、あなたに分からせてあげる」

 その夜の彼女は大胆だった。そして言葉よりも雄弁に、理屈よりも強烈に…一生忘れられないような形で、彼女は僕の中に刻印を残したのだった。その時の彼女の挑発するような声を、僕は決して忘れることができない。

 「分かるでしょう? 私があなたを本当に愛しているって分かったでしょう?」

 その夜を境に、僕は彼女との間に築いた心の垣根を完全に取っ払ったのだった。

 しかし…皮肉なものだ。僕が完全に彼女に対して無防備になってしばらくすると、今度は彼女が僕にウソをつくようになっていた

 いや、実はそれは何年にもわたる話だし、起きたことはもっと複雑な出来事だった。それをこんなところで舌っ足らずに綴ってみたところで、僕らの真実を語れるわけではないだろう。

 だが、僕には終わりが近付いていることが分かっていた

 分かってはいたが…終わらせられる勇気も踏ん切りもなかったし、できればこの甘い日々を、一日でも長く味わっていたいと思っていた。それが本音だった。せっかくやっとの思いで心を許した相手、自分の身内だと思った相手を、ここで無為に失いたくはなかった。だがそれは同時に、僕にとっては胴体をゆっくりとノコギリで切り裂かれるような苦痛でもあった。

 僕に「愛している」と絶叫した彼女、離ればなれになる時に名残惜しくて涙を流していた彼女が、まるで別人のような顔を見せ始めた。

 しかし、それはむしろ彼女の「本来の顔」でもあった。僕と会った当初の彼女は、不遇で気の毒な状況にあった。それゆえ彼女は内省的な思いにかられ、人生に対して後悔と反省の気持ちを持っていた。それは彼女にとって、おそらく人生で初めての経験だったのだ。

 そんな時に彼女に惹かれた僕は、実は彼女の本当の姿を知らなかった。だから、幸福を取り戻すと同時に見せ始めた「彼女本来の顔」に戸惑ったのだ。

 そして彼女もまた、僕という男が本当に自分が求めていた選択肢ではないと気づいた。だから彼女が「別の可能性」を探そうとするのは時間の問題だったのだ。問題は彼女が僕という男の存在を完全に隠して、もう一人の男との未来を模索し始めたことだ。それは確かに僕に対する裏切りではあったが、彼女にとっては何とか安定した暮らしを確保しておきたいという切実な願いの現れだった。 彼女にとって若さの季節は、すでに残り少なくなっていると思えたのだろう。

 もはや僕が彼女と別れるのは時間の問題だった。彼女は家庭に入って安定した生活を送ることを望んでいた。だが経済的にも将来性からいっても、僕は彼女に「豊かな未来」を約束できなかったのだ。「幸せになりたい」と願う彼女を、どうして僕が責められよう。すべては「幸せ」を用意できなかった、不甲斐ない僕が悪かったのだ。

 そんな僕と彼女の関係の最末期は、ある意味でドロドロとしたおぞましさの中にあった。言葉のやりとりはトゲトゲしくなる一方。夜になるとまるで闘犬のように、お互い思いの丈を激しくブチまけ合った。

 僕はハッキリと白状すると、そんな快楽を少しでも先延ばしにしたかったのは事実だ。おそらく彼女はそんな僕の思惑を知りつつ、万事丸く収めて僕が納得して身を退くのをジッと待っていたのだろう。「幸せ」を手に入れるため、ここは堪え忍んだに違いない。

 そんなこんなで迎えた本当の別れは、正直言って正真正銘の悲惨な結末となった。そして悲惨だからこそ、僕も踏ん切りがついた。彼女に対する未練や美しい思い出が影も形もなく消え失せてしまうような、それは情け容赦のない決裂だったのだ。

 ただ今になって振り返ると、最後の頃の彼女には僕とつきあい始めた頃の感情がカケラもなくなっていたのかどうか…時々疑問に思う時もある。

 むろん最後の頃の僕らの関係はひどいものだった。男と女の醜い部分がむき出しになったような状態だった。彼女にも僕にも、すでに自分の事しか見えてなかった。だが、もし彼女が僕をバッサリ切ろうとすれば、できないことはなかったはずだ。僕と彼女の間には、物理的にもかなりの距離があった。やってできないことはあるまい。なぜ、彼女はそうしなかったのか。その代わりに、なぜ僕とあの男の間であんな不安定な時期を長く過ごしたのか。

 おそらく今では彼女自身にも、説明することはできまい。男と女の間にはどこか理屈を超えた部分があるとしか言えない。ただ最初の頃の情熱が、何もかも消え失せてしまっていたとも思えない。ドス黒い思いに流されながら、互いに傷つけ合った時間も愛なのだろうか。僕にはあの思いの丈をブチまけたような最後の頃の何夜かが、まったくのまやかしだったとは思えないのだ。

 おめでたいと笑うのなら、笑ってくれて結構。真実は僕らだけが知っている。

 それこそが…すべてを分かち合った者だけが知る「実感」だと、今の僕には思えるのである。

 

2008年、日本・東京

(映画未見の方はここから引き返してください。)

 人間感情のグレー・ゾーンを描いてきたアン・リーらしさと共に、戦前上海映画を中心にした中国語圏映画の流れまでが見てとれる「ラスト、コーション」。もちろんそうした映画史的な面白さ、娯楽映画としてのゴージャスさに夢中にさせられたのももちろんだが、僕にとってこの映画はそれだけには終わらない。

 この映画は、僕のためにある映画だ。

 別にアン・リーは僕の注文に応えてつくったはずもない。そんなバカな事を考えるほど、僕もモウロクしたわけではない。だが、それでも…僕はこの映画を見ていて、ある場面に至ったところで確信してしまった。これが僕のために作られた映画だと思わずにはいられなくなった。

 それは…前半の香港での回想部分、「夏休みの抗日合宿」のくだりだ。

 トニー・レオン扮するイーを誘惑してアジトまで引っ張って来たはいいが、用心深い彼は罠に引っかからずおとなしく帰っていった。さて、そうなると…今度は本当にタン・ウェイ演じるワン・チーチンが、カラダを張ってイーを誘惑しなければならなくなった。

 すると男どもはわざとらしく席をはずし、ワンの友だちだったはずのライが、まるで「人ごと」みたいにこう言って来る。「あなた、男とした事はないわよね?」

 人ごと…まさに人ごとである

 テメエのことじゃないから、無責任にあんなひどい事を強いることができる。しかもその前提には「国のため」「抗日」などという反論しがたい大義名分がある。実はこのライという女、自分が惚れていたイケメン男を危うくワンに取られそうになったため、その秘かな仕返し…しかもこの一件でワンを決定的に汚してしまうことで、永久にイケメン男を彼女から奪い返せるというドス黒い下心も間違いなくあった。むろん…繰り返すが、上辺では「国のため」だし「抗日」でもある

 しかも男たちも、そんな大義名分に意義を申し立てない。結局は自分がひどい目に合うわけじゃない。絶対に反論できないなら、それは正論だし間違ってはいないだろう。自分は関係ないし蚊帳の外だと大手を振って言える時には、人間はとてつもなくひどい事が出来るのだ。

 しかも翌朝、彼女が現れた時の一同のシラッとした態度。「汚れちゃった」忌まわしい存在として、どこかで距離を置こうとしている。明らかに軽蔑している。むろん自分たちは汚れていない。キレイなものだ。自分たちが彼女に無言で強いた結果こうなったなんて、これぽっちも思っていない。

 あれには、僕も何度も覚えがある

 いざとなると人間なんてあんなものだ。自分のことじゃなければ平気で他人にひどい事も言えるし、ひどい事もさせる。そこに大義名分があれば、もはや申し分はない。文句でも言おうものなら、逆にそいつを責めるのもヘイチャラだ。自分たちが理不尽でひどいことをやっているなんて、これぽっちも思わない。手を汚しているなんて自覚はない。それどころか「オレたちは正しいのだ、文句があるか」と開き直って怒鳴り散らすことだってやりかねない。

 これが人間だ。

 繰り返す。これが人間というものだ。僕はこれを経験で言っている。人間とは汚い生き物なのだ。そこにただひとつの例外もない。

 だからこの瞬間、もうタン・ウェイ演じるワン・チアチーは他人ではなくなった。彼女は、僕が何度も味わったのと同じ思いを味わっている。そうなったら、もうこの映画は冷静に見れなくなった。僕は何度あの悲しい思いを味わったことか。何度あの怒りを味わったものか。

 その時ほど、身内だの仲間だのという言葉の空しさを感じたことはない。

 不思議なもので、僕にひどい事をやってくるのは決まって身内たちだ。学校でも職場でもプライベートでも、僕が心を許した相手ほどひどい仕打ちをしてきた。「身内」にこそ、ゆめゆめ心を許してはならないのだ。心さえ許さなければ、安らかに暮らせる。

 むしろそれならば、まだ敵の方がナンボかいい

 「ラスト、コーション」に描かれる登場人物の感情の動きは、いちいち僕にとってはリアリティがあった。ワンがなぜイーと抜き差しならない関係に陥るのか、その一部始終が手に取るように分かった

 例え敵であり売国奴であり悪党であろうとも、あんな形とはいえ肌を交えたイーのほうが、その愛し合った「実感」のほうが、彼女にはリアルだったはずではないか。

 しかも「売国奴」で「悪党」というイーの評価は、あくまで世間が言っていることであり、抗日ゲリラの仲間が言葉で言っていることでしかない。ワンはその「悪行」の現場を直接見たわけではないし、ましてそれを身をもって体験したわけでもない。

 一方でその抗日ゲリラの「仲間」がワンにやって来たことといえば、彼女を汚し踏みにじり利用し裏切ることだけだ。無理難題を押しつけておいて礼や詫びの一つもない。それどころか、「オレたちを売るな」と毒薬を渡す厚顔無恥ぶり。もっともらしい事を言って誠実ぶっている抗日演劇リーダーのクァンですら、「自分が悪かった」と言いながら、すぐにワンをゲリラに勧誘する図々しさ。悪いなんて本当は骨の髄まで思ってやしない。人を利用することしか考えていない。

 翻って、イーは何かワンに悪いことをしただろうか。

 いや、何一つ悪いことはしていない

 むしろ彼女を愛し、庇護し、指輪までくれた。誰にも心を許さないこの男が、ワンにだけはその心を開いてみせた。なのに、そのどこが「悪人」であろうか

 パーソナルなレベルでいえば、ワンにとって果たしてどっちが「悪」なのか

 確かに彼女のお仲間は「国」を守るなどと高邁な理想を持っているかもしれないが、女一人幸せにするどころか、自分たちは火の見櫓の上に上がったあげく逆にいいように使い捨てにすることしかしていない。そんな「国」になど、果たしてどんな価値があるのだろう。

 この映画の内容について、日本人である僕がこう言ってはいささか語弊があるかもしれない。しかし、ここで描かれていることを一般的に普遍化された概念と捉え直して、あえてこう言わずにはいられない。

 「愛国」と、いかにももっともらしく人は言う。その言葉を、まるで錦の御旗のように振りかざす。しかしその「国」は、果たして人に「愛」で応えてくれたか。人に「愛」されるに値する「国」であったのか。

 大義名分、既成概念、主義主張、タテマエにイデオロギー…言葉ではいろいろあるだろうが、例えそのどれに当たろうとも、「お題目」とはそんなものではないか。どこまでも「個人」の「実感」で考えた時、ご立派な理想が何の意味を持つだろう。「世間」や「常識」が何の足しになるだろう。

 そんなもの、クソの役にも立ちはしない。

 それよりも直接の肌の交わりの方が、どれだけ人間にとってリアリティがあるか

 その一方で僕は、トニー・レオン演じるイーにも尋常ならざる真実味を感じていた。

 誰にも恐れられる秘密警察のボス。自分がやっている事を誰より自分が知っているから、いったん形勢が逆転したら自分がどんな仕打ちを受けるかもよく分かっているし、待ち受ける運命も薄々感づいている。だからこそ一片の情けもかけてはならないし、容赦なく徹底的に悪と恐怖を極めなければならない。否、極めるしかない。中途半端はあり得ない。

 そんな自分がどんな忌まわしい状況に陥っているのかを、誰よりも知っているのがイーなのである。それは彼が日本風料亭にワンを誘うくだりで、最も明確に描かれている。

 元々は…本当のところは、イーはイーなりの理想なり正義を持って、かつてはその実現のために奔走していたのだろう。それが、どこからか誤った道に迷い込んでしまった。今やっていることが間違っていると気づいているし、どこかで間違ったとも分かっているが、今さら引き返すことはできない。行けるところまで目をつぶって全うして突っ走るしかない。その危うさは、誰よりも自分がよく知っている。

 だからイーは日本軍人が歩いて来た時に、サッと顔を下げて見つからないようにした。日本軍人の前での自分を、愛する女に見られたくはないからだ。そんな自分が汚らわしく恥ずべき存在だと、イーはイヤというほど分かっているのだ。そしてチャイナドレスに身を包んだ女が聞かせてくれる中国の唄に、思わず涙を流してしまう。

 そんな主人公たちを待ち受ける運命は、あまりに皮肉で過酷なものだ。

 イーの秘めた愛情を一身に受け、その象徴である指輪を受け取った時、ワンは自分に対して常に献身的で愛情を注いでいたのが誰だったのか、改めて見つめ直さずにはいられない。イーに「逃げて」と言ったのは、彼女のそんな思いからだ。だがそれが、ワン自身を絶対的な破滅に追い込んでしまう。

 イーにとっては、初めて自分の真心を注いだ女…その女がそれまでの偽りではなく真の意味でイーに対する愛を表明した瞬間こそが、皮肉なことにそれまでが虚構だった事を彼に悟らせる瞬間でもあるのだ。そしてイーはそれをひとたび知るや、今こそ彼女が本当にイーを愛しているということが証明されたのに、その愛を自らの手で永久に手放さなければならなくなる。その何たる皮肉。

 だが、ワンの表情は晴れ晴れしている

 仲間たちと処刑場である岩山に連れて行かれたワンは、まるで達観したように冷静だ。同じく逮捕された仲間たちは、往生際悪く泣きわめいている。連中はもっともらしい事は言っていたが、結局何の覚悟もなければ、自らリスクを引き受ける気持ちもなかったのだ。

 だが、ワンは動じない。むしろ何かを自分で成し遂げたような、満足感さえ感じているように見える。

 なぜなら、彼女は正しい行いをしたからだ

 確かに「世間」的には、あるいは「常識」的には、彼女のやったことは「悪」だろう。「売国奴」を助け、仲間を売り渡したのだ。第三者的には、それはそうにしか見えない。

 だがワンという個人にとっては、彼女のやったことは正しい

 「仲間」たちは彼女にずっと屈辱を与え、恐怖を与え、何ら謝罪も感謝も捧げようとはしなかった。彼女にあれだけ危ない橋を渡らせ犠牲を払わせながら、自分たちは全くリスクを払わず高みの見物だった。それどころか、まるで使い捨てのように利用するだけ利用した。それだけの仕打ちをしておきながら、いざとなったら彼女に「死ね」と言った。そんな連中こそ、いくら立派なお題目があろうとも、彼女個人の中ではまぎれもない「悪」だろう。それを裁かずして誰を裁くのだ。

 一方、そんな彼女に愛と心を捧げた男を救うのは、彼女「個人」から見れば何ら矛盾も間違いもない。それが自らを滅ぼすとしても、あえてそれに殉じることが愛ではないか。それのどこが間違っているのだ。

 悪しき行いをした者にはその報いを、愛を与えてくれた者には無償の愛を。それは、むしろ正しい行いをしたとは言えないか。

 

 なぜなら、彼女はこの世でただひとつ確かと言えるもの…すべてを分かち合った者だけが知る「実感」に従っただけなのだから。

 

 

 

 

 

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