「ジェシー・ジェームズの暗殺」

  The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford

 (2008/01/28)


  

映画館主・Fの由来

 このサイトでも何度か話題にしたかと思うが、1999年は日本における素人サイト元年だったそうだ。

 Windows 95の発売によってパソコンが急速に普及し、インターネットも爆発的に利用されるようになった。そこで自分も情報発信したい…と雨後の竹の子のようにサイトが立ち上がったのが1999年。実は僕もたまたまそこに居合わせることになった一人なのだが、日本におけるネット事情というのは、どうもそういう事のようなのだ。

 その最初の頃の楽しさは、僕もよく覚えている。というか、これまたこのサイトで繰り返し書いて来たような気がする。掲示板やらリンクやらを辿って、最初はオズオズと…そのうち大胆に、さまざまな人々と関わりを持っていった。その当時、2ちゃんねるなんてシロモノがあったかどうか知らないが、少なくともネット・ビギナーの僕にはネガティブな部分は見えなかった。何よりネット上では、社会的地位や学歴や経済的豊かさ貧しさは関係なかった。自分より年上の上品なご婦人ともまだ高校生のお嬢さんとも、対等に話せたし親しくなれた。札幌の人とだって福岡の人とだって、いやいや海外にいる人とだってやりとりが出来た。稚拙ではあっても英語でメールを書けば、そこに何がしかのコミュニケーションが生まれた。

 当時の僕は、長いこと仕事がうまくいっていなかった。そのハケ口をネットに求めたと言っていい。好きな映画の話を好きなだけ、自分のサイトに書きつづっていた。それが苦痛でなかった。そのうちに映画の感想文が自分の日記かプライバシーの発表の場のようになってしまったのは、一体どのへんからだろうか。確かに映画の感想をリアルに伝えようと思った時、そういう感想を持った根拠を書く必要を感じたのだった。だからと言って、どこの誰もがそんな事をしようと思ったわけではあるまい。おそらく僕はものすごくネットに対して不用心だったのだろうし、また時代も当時は良き時代だったのだ。

 みんながみんな手探りでネットに触れていったあの時代は、それぞれが個人が不特定多数に発信する経験を持つ最初の時代だった。そういう段階を徐々に踏んでいったから、ひどい大ヤケドをせずに済んだ。今の人たちはいきなりブログでネットにデビューし、覚悟もなければ配慮もないまま不特定多数に発信してしまう。実は僕らもそんな覚悟はなかったが、順序を踏み段階を踏む時間があったから何とか慣れていけた。いきなり不用意に発信してボコボコにされてしまう昨今の人たちは、まことにお気の毒と言わねばならない。また、世間も当時よりずっとタチが悪くなったということだろう。

 実際、自分の発言がどんな影響を持つのかなんて、実は普通のありふれた凡人に分かるはずもないのだ。うちのサイトで最初の一週間にやって来た人数は72人。全部知人ばかりだ。それが3ヶ月後にやっと100を越えた。200を越えたのはその年の暮れだろうか。その翌年の暮れには、500を越えるに至っていた。

 そんな数は大したことがない…と、イマドキのブログやSNSをやっている人は思うだろう。もっと多くの読者や仲間や信者を抱えているブロガーやネット発信者は、今ではザラにいる。だが考えていただきたい。タレントでも作家でもアーティストでもない一介の素人…そのインパクトも影響力も意識したことがない人間に、一週間200人のアクセスっていうのは、実はすでに多すぎる

 実は僕にとってもすでに200人を突破した2000年の時点で、自分のサイトをどんな人がどんな気持ちで見ているのかは完全に分からなくなっていた。

 それでも次から次へと見て来た映画の感想をアップする楽しさに、そんな事まで気に掛けているヒマはなかった。うちのサイトが毎週更新だったことも、そんな立ち止まる余裕を持たなかった理由だ。気にせず何も考えず、更新をこなしていくしかなかった。そういう事になると、マイペースよりも目標をクリアしていく事に夢中になるタチだった。それに幸運な事に、僕はごく初期の段階は悪質な「荒らし」に遭っていなかった。だから懲りずにやってこれたという事もあったのだ。

 だからすべては無意識的にやっていたのだろうが、そのうち僕はネット上の自分と実際の自分が、どこか剥離してきたことを感じずにはいられなかった。

 前述したように、僕は映画の感想文の中にちょっぴり自分の思い出や私生活について語っていた。それはブログなどの日記にも似たものだったろうか。それは僕がネット上で使っている「映画館主・F」というキャラクターとして、見ている人には認知されていったようだ。

 元々、「映画館主・F」とはその場でいいかげんに付けた「ハンドルネーム」だった。当初そんなものが必要とは知らなかった僕は、人の掲示板に書き込む時にやむなく場当たり的な名前を付けた。そんな恥ずかしい名前が今に至るまで自分のネットでの通り名となるとは、その時の僕は夢にも思わなかったのだ。

 だから「映画館主・F」とは僕の事である。僕も僕のこととして書いている。それなのに…なぜかそれが僕の実態と剥離し始めたのだ。

 毎週毎週、自分の身にかつて起きたことや自分の考え、最近の自分の生活について書いている。それはウソではない。本当のことだ。だが、何となく微妙にニュアンスがズレている

 それはそうだ。本当に本当の事を書いたらヤバイ。書くに書けない事情もある。それに現実ってのは複雑で一言で語れないモノだから、何かを切り捨てたり誇張したりせざるを得ない。もうその時点で、ウソではないが真実そのものでもなくなっているだろう。それに…本当は「かくありたかった」自分も混入してくる。

 そうなった時、「映画館主・F」は僕とは別に一人歩きし始めたのだ

 お恥ずかしい話だが…わずか何百のアクセスごときで何を大げさなとおっしゃるかもしれないが、これは実に奇妙な体験だった。この何百倍何千倍のインパクトで、これと同じ事をスターとか有名人は体験しているに違いない。自分が軽い気持ちで書いた意見に、えらく熱い勢いで何人もの賛同者の反応が返ってくる。その時、僕は有頂天になりながらも「えらい事になった」と恐ろしくもなった。おそらくヒトラーも同じ経験をしたはずだ。ビートルズも力道山もそうだろう。ただその規模が、太陽と砂粒ほども違うだけのことだ。実際にメディアに登場する有名人は、どれくらい激しいプレッシャーを感じているのか想像も出来ない。

 ただ、自分としては過大な支持を得ている人物「映画館主・F」は、決して僕自身ではなかった

 ちょうどその頃、僕はネット上で知り合った人々のオフ会に頻繁に引っ張り出され、試写会にも呼ばれていた。そこでも通り名は「F」だ。

 私事ついでに言えば、当時付き合っていた女性もネット上での関わりで知り合った人だった。だが、やはり実際の人付き合いはネット上のイメージとは違う。むろん実物に会ってから惹かれた僕ではあったが、付き合いだしてからのイメージの誤差は、向こうにとってもこちらにとっても隠しようがなかった。お互い少なからず失望を味わったのは間違いないだろう。

 そんなこんなで僕は、現実の自分とネット上の「F」との間で、徐々にアンビヴァレントに引き裂かれる思いを経験していたのだ。

 

ロバート・フォードの憧憬

 西部の伝説としてその名を知らぬ者はいない人物、その名はジェシー・ジェームズ(ブラッド・ピット)。

 数多くの強盗を繰り返し、何人もの命を奪ってきたこの男は、まぎれもなく悪党だ。しかしながらその一面で、彼を「英雄」と崇める人々も数多くいた。彼に関する本も多数出版され、その中ではヒロイックで超人的な姿が描き出された。

 確かに彼は南北戦争中に南軍兵士として戦っていたし、そのことが彼を「反逆者」にしたことは言うまでもない。だがその伝説のすべてが真実かと言えば、いささか怪しい面がないわけでもないのだ。

 時は1881年。そろそろ無法者稼業にも疲れが見え始めていたジェシーは、妻ジー(メアリー=ルイーズ・パーカー)と子を連れて街から街へと転々としていた。そうして居着いた街では、彼はまったく自分がジェシーであるような素振りを見せない。ひとかどの人物であるかのように振る舞い、まるで名士のように人々と付き合っていた。だから子供ですら、自分の父親の本名が何であるかを知らなかった

 だが「一仕事」終えたり追っ手が自分の背後に迫ってきたと気づくや、ある日忽然と姿を消す。それがジェシーのやり方だった。

 いまや30代の半ばになろうとしていたジェシー。彼は伝説上の人物であることを楽しみながら、そろそろそれを持て余し始めていたようにも見える。そんな折りもおり…。

 街はずれの小高い丘の上、ジェシーは気の置けない「南部のお仲間」たちと一緒に、久々にくつろいでいるように見えた。ジェシーのいとこウッド・ハイト(ジェレミー・レナー)をはじめ、ディック・リディル(ポール・シュナイダー)やエド・ミラー(ギャレット・ディラハント)ら古くからの仲間に新たに新入りを加え、また「仕事」が始まるのだ。

 そんな連中に、兄チャーリー・フォード(サム・ロックウェル)と共に加わろうとしていた「新入り」志願のロバート・フォード(ケイシー・アフレック)もいた。

 ロバートは楽しげに語らう一同から離れ、ぽつんと離れた場所に立つジェシーの兄フランク(サム・シェパード)に近付く。だが一人孤高を守るようなフランクは、ロバートを歓迎しているようには見えなかった。

 「僕はみんなに軽く見られているけど、本当は違うんだ。仲間に入れてくれ。そうしたら、僕に度胸があるってところを見せるよ

 被っているボロボロのシルクハットも間抜けなこの青年、どう見てもどこかトロそうな印象しかない。だが本人は、ジェシー・ジェームズたちへの憧れを通り越して「自分もどこか似ている」とまで思い込む無邪気な男。発揮したこともない「実力」をアピールする、身の程知らずぶりも痛々しかった。

 いやいや、そもそもその無理なアピールぶりからして、実は自分がいかに周囲からナメられ軽視されているか、今までイヤというほど痛感させられてきたから…なのは明らか。そこから脱したいとの望みは十分伝わるものの、それは彼のウツワでは無理な相談だ。それが、見ている方までツラくさせる。正直言ってフランクが一番嫌なタイプの若者だ。そうなると、脅して早々に退散させるに限る。

 だがロバートは懲りない。今度はジェシー本人に厚かましく売り込みだ。だがジェシーはフランクと違って、自分に素朴な憧れを持って接してくるこの青年に、悪い気はしないようだった。こうしてフランクは渋い顔だったが、チャーリーと共にロバートの参加が認められる

 彼らの今回の「仕事」は、真夜中の列車強盗だった。線路上にバリケードを築いて、やって来る列車を待ち伏せる。夜の闇を照らす列車のライトに、待ち構えるジェシーのシルエットが浮かび上がる。その姿はまさしく伝説上の英雄だ。

 列車が停まったら、もはや彼らの天下。客車に乗り込んで、いかにも豊かそうな乗客から金品を奪い取る。だが彼らの本当のお目当てはそんなところにはない。現金輸送用の車両が彼らの狙いだ。

 その日もいつものように、呆然とする警備員たちを横目に荒々しく押し入るジェシーたち一味。だがこの日は思ったほどカネが積まれていない。これだけなのか? 他に隠していないのか?

 ジェシーは若い警備員を脅すが、彼はひるまない。

 「ひざまづけ!」

 だが言うことを聞かず毅然とした態度の警備員に、ジェシーはついにキレる。拳銃で彼を殴り付け、さらに痛めつけたあげく殺そうとする。そのあまりの剣幕に無駄な殺生を嫌がる仲間が思わず止めに入るが、それすらジェシーは気に入らない。

 「オレに命令するな!」

 伝説の英雄とはあまりに隔たりのありすぎる、あまりにキャパの狭そうな振る舞い。その瞬間ジェシーという人物の実像がかいま見えていたことを、初めて列車強盗に参加して気分が高揚していたロバートはまだ気づいていなかった…。

 

映画館主・Fの必然

 どこの親でもそうだろうが、うちの親も親馬鹿だったのだろう。もう数年前に捨てられてしまったが、それまでは僕がまだ物心つく前に、スケッチブックに描いていたイタズラ書きをずっと保存していた。

 僕はクレヨンだとか色鉛筆だとかボールペンだとか、とにかく「描く」モノがあればご満足だったらしい。もっとも、それはどこの幼児でも同じなのだろうか。また…これは決して自慢でも何でもないが、親に言わせると「立体」を描くのも他の子供たちより早かったとか。まぁ、これは話半分に聞いた方がいいだろう。

 だから僕は幼稚園や学校に通うようになると、早速熱心に絵を描くようになった。それがうまかったかどうかは、どうか問わないでいただきたい。何しろまだ10歳にもならない頃の話だ。とても才能云々の話ではない。むしろそこで「才能」とは認知されなかったのだから、僕は最初から凡人だったのだろう。

 また、僕はそこで興味の対象を別に移してしまったということもある。

 当時は空前のマンガ・ブームだった。ご多分に漏れず、僕はマンガをむさぼり読んで、「これなら自分でも描ける」と思い込んでしまったのだ。

 今でも分からないのだが、どうして僕は「これなら自分にも出来る」と思い込んでしまうのか。確かに僕は世間に流通するさまざまな「作品」を見ると、いつもそれがどのように創られたのか、分かる気がしてならなかった。実際にはそんなに事情は簡単ではないのだが、少なくとも僕にはそう思えてしまうから始末に困る。あげくの果てに、自分でもそれをやりだしてしまうという訳だ。

 いや、それは単に「何かを創る楽しみ」だけのものではなかった。ハッキリ言ってしまえば、それは「逃避」だった

 僕は子供の頃から、自分がどこか人から軽視される存在だと気づいていた。何人かで話をしていても、相手の視線は僕ではなく他の人間に向かっていた。それはたぶん意識的なモノでなく、知らず知らずのうちにそうなってしまうものなのだろう。僕には生まれながらにして、人を惹きつける「何か」に欠けていた

 しかし周囲の人々はなぜか、僕が創り出すものは受け入れた。子供の頃からずっと、それは変わらなかった。僕の生みだしたモノは、いつも僕よりもずっと人に喜ばれて来たのだ。それが僕の救いともなった。だから僕は、常に「何か」を創り続けて来たし、それをやめることが出来なかったのだ。

 ただし白状しなくてはいけないが、僕はそこで一番大切なことをすっ飛ばしてしまう。マンガならこういう紙を使ってこういう大きさに切って、コマはこう作ってこういうペンで描かねばならない…という、もっとも大事な「基本」の部分を飛ばしてしまうのだ。

 元より、そんなところに何の関心もない。そもそものモチベーションがモチベーションなだけに、そこには「創る」楽しみと、周囲の人々に「見せる」楽しみしかない。地味な努力なんてお呼びではないのだ

 それでいて、一応ソコソコのものは我流で出来てしまうから始末が悪い。だから、実は大したクオリティのモノにはならない。せいぜい仲間内レベルやご町内レベルのシロモノどまり。少なくとも「作品」として世間に堂々と出せるモノには至らないのだった。

 小学校が中学校になり、さらに高校になるにつれて、僕の興味の対象は小説になり、さらに映画に変わった。そこでも事情は変わらない。僕はまたしても「これなら自分にもできる」と傲慢にも思い込んで、勝手に「創作」活動を始めてしまう。全くモノにもならない事に、やたらに夢中になってしまうのだ。

 これが本当のプロを目指した行動だったなら、僕はもっと早く自分の道を見つけていたし、もっと幸せになれただろう

 だが僕は、我流で事を押し通した。そこで「自分の作品」を作る喜びだけに浸り、それで認められる夢想に耽ってはいたが…。

 なぜか、それが「現実」のモノとなるとは思っていなかった

 それまで狂ってはいなかった…というべきだったのか、それとも最初から自分で「お遊び」限定と限っていたのか。そんなモノが世間に受け入れられるほど甘くないとは思っていたし、事実それを実現しようともしなかった。絵を描くことも中学になったらすっかり止めてしまったし、8ミリ・カメラを振り回しての映画づくりも、趣味の領域から逸脱させることはなかった。

 そんな調子だから、基礎からちゃんと勉強しようなどという謙虚な気持ちがなかったわけだ。大学を卒業したら普通のサラリーマンになる…と、僕は何の疑いもなくそう思っていた。

 僕は馬鹿だった。

 「普通」のサラリーマンは甘くなかった。僕の就職当時が「買い手市場」だった事もあるが、就職にはえらく苦労した。だが、元々「好きな仕事」なんてなかったし、好きな事を職業に出来るわけもないと思っていた。それほど世の中甘くはない。それが僕なりの現実的な考え方、リアリストぶった姿勢だった。

 確かに、自分のやりたい事を仕事に出来るほど世の中甘くはない。…しかし、僕はもっと大事なことを分かっていなかった。やりたくもない事を職業にしてソコソコやっていけるほどの甘さも、この世の中にはなかったのだ(笑)。

 営業の仕事をこなすサラリーマンとして、僕は全く使い物にならなかった

 自慢じゃないが、ひどいものだった。やる気もなければ向上心もない。どうすればうまくいくのか考える余裕もないし、おそらく考えたくもなかったのだ。あれでは客も会社も、仕事そのものも気の毒だ。普通、転職を重ねる人間は自分がいた会社の悪口を並べるものだが、僕に限ってはそれはできない。僕はつくづく、「やりたくもない」仕事で身を立てていく事の限界を悟ってしまった。僕は甘かったのだ。傲慢で幼稚で無知で馬鹿だったのだ。

 それで「創り手」の側に転身してからの経緯は、僕が何度もこのサイトで書いて来た通りだ。

 確かに、「やりたくもない」仕事よりは格段違う。僕は偶然や幸運にも助けられ、バブルの末期という時代背景もあって、それなりにイイ思いもした。何となく、自分がいっぱしのクリエイターになったような誇らしい気分。増長しまくった僕は、周囲の人間とちょっとした「ギョーカイごっこ」を演じていた。それが勢い余ったところに、運悪くバブルも終わってしまった。それなのに「自分はいっぱしのクリエイター」だと勘違いした僕は、あっちこっちを転々としながらキャリアをドブに捨て続けることになってしまう。

 さすがにこれにはまいった。自分を信じ続けられなくなった。実際には「信じられる自分」なんてどこにもなかった。幸運で手に入れられたポジションに、身の程を知ってしがみついていれば良かったのだ。

 実際には、その職場はその後ムチャクチャになってしまって、現在は当時の同僚は誰もいない。その意味では、確かに僕も先見の明があったのかもしれない。だがハッキリ言って、それは偶然の産物でしかない。大げさに言えば神が気まぐれで僕を救ってくれたのであって、僕はお釈迦様の手の平の悟空…いや、せいぜいが飼い慣らされたチンパンジーがいいところだろう。それで僕の愚かさが中和される訳ではないのだ。

 そんなこんなですっかり刹那的な気分になった僕の前に、ネットが扉を開いてみせてくれた

 あんなに情報発信したくても諦めていた僕に、突然その道が開けた。実際に情報発信してみたら、意外にも支持を得られた。アクセス数も増えていった。恥ずかしい事だが、生まれて始めて僕が手がけた事がうまくいった。こんな程度のちっぽけなシロモノでも、人生最大にして唯一の成功がこのサイトだった。

 そこでの「映画館主・F」は、僕個人よりも好感を持たれ、信頼されている。発言力も影響力もある。この気持ちを何と言ったらいいのだろう。僕という人間そのものよりも、明らかに「映画館主・F」の方が大きい存在なのだ。この複雑な心境を理解していただけるだろうか。僕の言うことになど人は鼻も引っかけない。しかし「F」の言うことなら、みんな耳を傾けるのである。

 しかも不特定多数に自分が発信した情報が受け入れられる時は、必ずしも意図していた通りではなくなる事がある。そしてしばしば、僕が知らず知らずに…あるいは意識的につくった虚構や誤解の方を、むしろ人は好んで受け入れるのである。

 一時期、僕はサイト上で「映画館主・F」と自分は違うと再三発言していたが、それはそんなジレンマに耐えかねていたからだ。しかし、それが本当の意味で人々に理解された事はなかった。人々もそれを望んではいなかったのだろう。

 次に僕がやった事は、評判のいい「映画館主・F」であることを楽しむことだった。「F」でいる事は楽しい経験だった。ちょうどオフ会などに呼ばれる機会も増えていった。そこでの「F」は試写会などに出没しては、まるで「業界人」みたいな感じで映画について語っていた。何だか羽振りがよくなった気がした。

 しかし、それは単なる「ごっこ」でしかない。何となくコッケイだよなと薄々感じてはいたが、もはや自分でも止められなかった。ハッキリ言って悪い気分じゃないからね。

 でも、そのうち何となく気持ちが晴れなくなっていった。放っておくと、虚像の「F」が実像を凌駕して飲み込んでしまう。だが冴えない自分の実態を考えた時、それは大きな皮肉にしかなっていなかった。また、周囲も僕本人などはお呼びではなかったのだ。

 それに、一緒に「ギョーカイごっこ」をしていた人たちの本当の私生活が見えてきちゃったことも、僕を寒々しい気持にさせた一因だった。中には本当に自分が映画関係者であるかのような錯覚に陥り、実際の「ギョーカイ人」たちに接近していく人たちもいたが、それも見ていて痛々しかった。所詮はすべて旦那芸。身の程を知らない人間は、見ていてみっともいいもんじゃない。大体、本当の自分の置かれた状況はどうなんだ?

 「F」であることは甘い誘惑だった。だがそれと同時に、裏腹の痛みを伴うものでもあった。それは、いつかは目を覚まさなくてはならない幻だった。

 それを感じることができただけでも、僕にはまだどこか救いがあったのかもしれないのだ。

 

ジェシー・ジェームズの正体

 その夜の列車強盗は、ジェシー・ジェームズ一味がはたらいた最後の列車強盗だった。

 事を終えた後で、フランクに「一味への正式な加入」を申し出るロバートの兄チャーリー。「オレたちを入れてくれれば損はないぜ。度胸があるところを見せてやるよ」

 「ふん。また“度胸”か!」

 ロバートと同じ言い草にウンザリするフランクは、もう強盗稼業にいいかげん疲れていた。彼はこの仕事を期にジェシーに別れを告げて去っていったが、果たしてこの兄弟の間にどのような感情のやりとりがあったのか。ともかく兄フランクはその後生きているジェシーに会うことはなかった。

 ジェシーのいとこウッド・ハイトやディック・リディル、エド・ミラーも去っていった。次の「仕事」があるまで、しばらく一味は解散だ。

 しかし、なぜかロバートはジェシーに呼び止められた

 「ひと仕事」終えたらズラかる。それがジェシーの流儀だった。それはこの時も同じだった。ロバートはその引っ越しの手伝いを頼まれたに過ぎない。だから他の連中は、ジェシーに呼び止められたことで有頂天になっているロバートをバカにしていた。どうせ「パシリ」として使われるだけだ…。

 だが引っ越しが終わっても、ロバートはまだ「お別れ」と言われていなかった。憧れのジェシーを間近に見る毎日。いつも周囲から軽く見られバカにされていると自覚するロバートにとっては、ジェシーが他の誰でもなく「自分」を指名してくれたことだけで天にも昇る気分だった。

 だからロバートは、自分がいかに「ジェシー伝説」に夢中だったかを本人に熱く語る。何しろそこには英雄ジェシーその人がいるのだ。そんな憧れムキ出しのロバートの態度を微笑ましく見つめるジェシーだったが、彼は冷ややかにこう告げるのも忘れなかった。「あれはみんな作り話さ…」

 やがてジェシー一味の隠れ家とでもいうべき家に身を寄せるロバート。そこはドロシー(ズーイー・デシャネル)なる未亡人が切り盛りする家だった。この未亡人を巡ってのウッド・ハイトとディック・リディルのやりとりもあったようだが、まずは全員ジェシーのシンパということで何とかやっていたわけだ。

 だがジェシー「ご指名」のロバートは、それを彼らに大いにからかわれることになる。兄チャーリーにオチョクられるのはいいとして、ウッド・ハイトにまで馬鹿にされるのは我慢ならない。それも、大切にしていたジェシーに関する本や切り抜きまでさらし者にされた。さすがにキレたロバートだが、「オレはジェシーのいとこ」…を鼻にかけるウッド・ハイトに脅される始末。さすがにぺーぺーのロバートは、ここはじっと我慢するしかなかった。

 やがてウッド・ハイトとディック・リディルは、ハイトの年老いた父の家に落ち着くことにする。この父には若い後妻がいて、欲求不満が爆発寸前なのはアリアリ。ハイトは「絶対に手を出すな」と威嚇したが、リディルがこの後妻に火を付けるのは、もはや時間の問題だった。

 その一方で、ジェシー・ジェームズは強い強迫観念に囚われ始めていた

 「英雄」であることをどこか楽しんでもいたジェシー。しかし「有名」であることは、いまや彼にとって高くつきはじめていた。彼を必死で追うピンカートン探偵社の追及が、さらに厳しさを増していたのだ。これがそこらの凡百の無法者だったら、これほど敵の追撃も厳しくはあるまい。おまけに、他の無法者たちからジェシー・ファミリーのメンバーへの誘いもあった。

 自分の仲間が、自分を裏切ろうとしている。

 それはある意味で正しい読みだった。確かに疑心暗鬼になるのも無理はなかったが、そんなジェシーの危ない焦燥感が、周囲の人間を退かせてもいたのだ。

 まずは旧知の仲間だったエド・ミラーをわざわざ自宅まで訪ねて、荒野の真っ直中で殺す。それ以後もハイな気分とウツとを交互に見せながら、仲間への不信感を顕わにし始めるジェシーだった。

 その頃、ロバートも思わぬ事件に巻き込まれる。例の父親の後妻に手を付けた怒りで、ウッド・ハイトがディック・リディルを追ってドロシーの家にやって来たのだ。リディルはハイトの実家を逃げ出し、一足先にドロシーの家の二階に転がり込んでいた。そこにウッド・ハイトが飛び込んできた。だがその二階には、リディルと一緒にロバートもいたのだ。

 今にもリディルを仕留めようとしていたウッド・ハイトをロバートが撃ち殺したのは、果たしてその場のはずみだったのだろうか? それともジェシー狂ぶりを馬鹿にされ脅された時の怒りが、心のどこかに残っていたからか。

 しかし、殺したのは腐っても「ジェシーのいとこ」だ。この事実は何としても隠さねばならない。ウッド・ハイトの遺体は雪の中に捨てられ、彼がドロシーの家に来たこと自体がモミ消された。

 ところがそんな一同の思惑を知ってか知らずか、しばらくしてドロシーの家にヒョッコリとジェシーその人が現れるではないか。

 一同が引きつった笑いでその場を乗り切ろうと焦る中、ジェシーはすべてを知っているのか何も知らないのか…意味ありげな不敵な笑みを浮かべるだけ。何とか気まずい空気を打開すべくチャーリーが持ち出したのは、弟ロバートがいかにジェシーの英雄伝説に夢中かという話だ。

 それでなくても、常にロバートをからかう時にサカナにされる話。ましてこんな緊迫感が漂う状況下で、ロバートはそんな話を持ち出されたくはない。しかし兄チャーリーにさんざ促された以上、自分からも話を始めざるを得ない。

 「僕とジェシーはいっぱい共通点があるんだ」

 自分もジェシーも兄弟の弟のほうだ。自分もジェシーも靴のサイズが同じ。…それらは他愛のない共通点でしかないし、他人から見れば馬鹿げたお笑い草だろう。だが、それらはかすかではあっても英雄ジェシーと凡人の自分とを結びつける絆だったし、ロバートは確かにそれを支えに生きてきたところもあったのだ。それをこんな時に引っ張り出されて、まるでなぶり者にされるように笑われたくはない。

 まして…それを当のジェシーその人に笑われたい訳はないだろう

 自分の気持ちを分かってくれているはずの、そして分かっていて欲しい相手であるジェシーからの、まるで侮蔑のような笑い。こんな緊迫感溢れる場面ではあったが…そしてジェシーの前にも関わらず、気分を害したロバートは思わず怒りを顕わにしてしまうのだった。

 そんなこんなが…いつの間にかロバートの心の中に澱のように溜まっていったのだろうか。彼はいつの間にか、ジェシーを裏切る側に身を置くことになるのだが…。

 

映画館主・Fの当惑

 何だかんだ言って、あれだけ好き勝手なことを書き続けながらこれといった問題が起きなかったということは、ネットを取り巻く環境がまだ健全であったという時代背景もあっただろうが、何より僕が幸運だったということに尽きるだろう。

 何かと悪名高い2ちゃんねるにも、幸か不幸かほとんど縁がなかった。正確にはここに1度か2度うちのサイトが取り上げられたこともあったが…その時にはたまたま見かけた人がそれを知らせてくれたので、どんな書かれ方をしているのか見に行ったことがある程度だった。

 幸いなことに、それはホメ言葉だった。正直言ってかなり心配したので、それは予想外の驚きだった。そうであれば、それが2ちゃんであろうとなかろうと悪い気はしない。頼まれもしないのにホメてくれた人がいたということに、僕は奇妙な感動をおぼえたりもした。だが、それもつかの間。そこに書かれたホメ言葉を「自作自演」だと決めつける書き込みが出て来るや否や、あとは何が書かれても見苦しいケナしで埋め尽くされていく…。

 誓って言うが、僕はこれまでただの一度も2ちゃんに書き込みをしたことなどない。もちろんそのホメ言葉も、僕が書いたものなどではない。だが知らない間に書き込まれたうちのサイトへの賞賛は、これまた知らない間に「自作自演」と決め付けられていく。するとそこでの全体の論調も、アッという間にケナしへと変わっていく。なるほど、これが2ちゃんねるというものか。

 その間、当の管理人である僕は何もしていないし、書き込まれていく事に対してどうすることもできない。ただ知らないうちにホメちぎられて、それが勝手に「自作自演」と決め付けられて、これまた一斉に一方的に否定されていく。頭に来るとか悲しいとか感じるよりも、ただただ自分とは関係のないところで自分にはどうする事も出来ない力が働いているような、それはひたすら奇妙な経験だった。それ以来、2ちゃんを熱心に見たことはない。

 その他については、時折言いがかりをつけてくるような人間がいたぐらいで至って平穏無事。よそではいろいろ悪質な例を耳にしていたが、幸いなことに、僕はそんな輩に出会うことはなかった。サイトを開設してからの4年間というものは…。

 「その人物」がうちの掲示板にやって来たのは、一体いかなるキッカケからだろうか。ともかく最初は、僕の書いたモノに対する圧倒的賛同の長い長い書き込みから始まったことを覚えている。

 それがいかなる経緯からトラブルに発展していったかについて、理由はあるがここでは詳しくは語らない。ともかく少々困った状況になって、僕は「この人物」にさりげなくある「お願い」を込めたレスを付けたのだった。

 すると「この人物」は、僕からのレスに敏感に反応した。それはかなり遠回しなメッセージだったのだが、それでも「この人物」は意味を「理解」した。

 しかし、それで「納得」をしたかといえば、それはまた別の話だ。

 それから一週間も経たないうちに、僕のサイトに次から次へと奇妙なハンドルネームの奇妙な書き込みが相次いだ。それは最初は単なる冗談のようでもあったが、すぐにタチの悪い攻撃の様相を呈してきたのだ。毎回のように別のハンドルネームで次々書き込まれる嫌がらせ。そして奇妙なハンドルネーム同士での掲示板上での口論。むろんそれは、一人の人間が掲示板を荒らすためにやっているのは間違いない。掲示板に来ていたお客は、すぐに異常事態に気づいた。

 そして僕もそれが「あの人物」の仕業だと、すぐに本能的に気づいていた。案の定、僕の言い方に怒りをおぼえたのだろう。何日間かの執拗な嫌がらせの嵐の後、その書き込みはサーッと潮が引くように掲示板から消えていった。

 これで終わった…と僕も思った。やるだけやって、いいかげん気が済んだのだろう。ともかく収束したと判断した僕は、その一件についてシモーヌという映画の感想文の中で触れたわけだ。

 すると「その人物」から、いきなりメールが届いた。それがYahooメールとかでなく、「その人物」が本来持っているアドレスから届いたことからして予想外の事態だったが、おそらく「その人物」は、自分のやっていることが悪いことだとは思っていなかったのだろう。

 メールの内容は…といえば、それは「この人物」が当初書き込んでいたことと通じる内容だった。「この人物」は、僕の書いた文章の内容に「心の傾向が似ている」とか「自分の代弁をしてくれている」ような感情を抱いていたと書いていたのだ。ところがそれに僕が応えなかったため「報復」することにした…。

 正直言って悪い夢のような内容だった。それと同時に、こんな事が自分のようなちっぽけな存在にも起こってしまうことに、愕然とせざるを得なかった。

 こんな事を言ったら大げさ過ぎて笑われてしまうが、これってまるでジョン・レノンの身に起きたことみたいじゃないか。

 誤解してもらっちゃ困るが、別に僕がジョン・レノンほどの人物だなんて思っているわけではいない。レノンと比べれば、こっちは発言力もインパクトも象とノミほど違う。レノンほどカネも稼いでいないし、いい思いだってしていない(笑)。それなのに、僕なんかがやっている取るに足らないサイトのつまらない文章が、まさかこんな影響を与えているとは驚いた。

 しかも、それは僕が招こうとして招いたわけでもないし、避けようもなかった。「心の傾向が似ている」とか「自分の代弁をしてくれている」と思うのは、見ている人の勝手だから止めようがない。そして僕がいつも自分を支持してくれる人の期待通りに発言できるかと言えば、それは無理と言わざるを得ない

 今さらながらに、虚像の「F」の忌まわしさを感じずにはいられなかった。

 まぁ、それでも納得したならいいか。そう思った僕が馬鹿だった。一月ほどして、また「この人物」は戻ってきた。やっぱり止められなかったのだろうか。おそらく「この人物」の中で何かが変わってしまったのだろう。

 そこから次々起こったことについては思い出したくもないし、ここで事細かく述べたくもない。僕は今はどうする気もないし、どうすることも出来ないのが実際のところだ。ともかく…その後も紆余曲折がありながら、断続的に攻撃は続いた。今は落ち着いているように見えるが、それで終わりかどうかは分からない。

 せいぜい僕から言えることといえば、ネット上には僕みたいに甘チャンばかりがいる訳ではない…といったところだろうか。しかし「その人物」はそれに気づかないだろうし、僕にもそれを気づいてもらおうという気はない。

 僕は、もうどうでもいい。

 行き掛かり上、しかるべき所にこの問題の解決を頼んだこともあったが、それは他の人々を巻き込んでしまったからだ。今はもう関わりたくない。

 その代わりに、もう気遣いする気もない

 今までは、事を荒立てないように沈黙を守ってきた。相手の神経を逆なでするといけないと、できるだけ何もなかったかのように振る舞ってきた。でも、自分が言いたいことも自由に言えないサイトなど、やっている意味はないだろう。ならばいっそ、やめてしまった方がいい。

 それに僕はもうそんな余裕もヒマもない。父親の体調に一喜一憂せざるを得ない日々の中では、正直言ってネットだけに構っていられない。ついでに言えば、僕にはいくらも持ち時間はない。

 だから、もう、どうでもいい。

 ここまでの内容について、「あの人物」から見れば僕の言い分ばかりで不当だと思うかも知れない。また「偽善」と思うかもしれない。だが結局のところ、僕は僕の側からでしか発言することはできない。少なくとも「この人物」が一方的なのと同じぐらいに、僕の言い分も一方的にしかならない。例えそれが気に入らなくても、人は他人のために生きているわけではない。人間とはそういうものだろう。

 ともかく、もうどうでもいいよ。

 ただここまでの経緯を見ていると、どこか苦みにも似たものを感じる。

 あの一連の行為は、「あの人物」にとっての「表現」のつもりだったのだろうか。

 結局、僕も「表現」をしたいと思いながら、それをどこか突き詰めてこなかった。まだ社会に出る前に、「表現者」になるための精進や努力をしてこなかった。それが自分の人生を、大きく遠回りさせる結果になってしまった。

 それを思う時、「この人物」の存在もまた、僕の「身から出たサビ」のように思えるのだ。

 

映画「ジェシー・ジェームズの暗殺」の感想

 この映画については、昨年(2006年)の末頃から劇場で流れている予告編を見て、何となく気にはなっていた。

 アメリカ西部史に名を残す無法者ジェシー・ジェームズがタイトルに出ていて、ブラピ主演。どう見ても「英雄」ジェシー・ジェームズをブラピが演じる企画だ。何となくナルシスティックなイメージも漂い出す。なるほど、そういう映画か。

 ただ予告編の映像を見ていると、そんな単純な英雄物語ではない感じがする。いわゆる「西部劇」というには、あまりにリアルな映像なのだ。そしてタイトルにも「暗殺」とあるように、暗殺者との関わりがミソの物語のようだ。そしてその暗殺者を演じるのが、ブラピとは例のオーシャンズ11(2001)、12(2004)、13(2007)…のシリーズで顔を合わせているケイシー・アフレックというのも不思議な組合せ…。

 そもそも「英雄」ジェシー・ジェームズといってもどんな奴だったのか、パッと出てくるほど西部の歴史に詳しくない僕だ。どこかミステリアスな雰囲気のある予告編に魅せられて、早速公開直後に見に行った次第だ。

 見て、驚いた。

 素晴らしい。見終わった後、言葉もないくらいだ。本当に素晴らしい。予告編を見た時によさそうな予感はあったが、まさかこれほどとは思わなかった。完全に予想以上の出来映えだ。

 それなのに、ネット上ではこの映画の評判はあまりよろしくない。「長すぎる」だの「エンターテインメント性に欠ける」だの、なぜか好意的な評価は得られていない。おいおい、それってホントなのか?

 「登場人物がよく分からない」という話も多くて、確かにアメリカでの知名度ほど「ジェシー・ジェームズ」という人物と彼に関するエピソードは、この日本では知られていないはずだ。かく言う僕自身も、決して詳しいとは言えない。ジェシー・ジェームズの出てくる映画といえば、ウォルター・ヒル「ロング・ライダーズ」(1980)ぐらいしかちゃんと見た覚えがない。そこでは問題の「暗殺」場面も扱われているが、僕はすっかり忘れていた。少なくとも、それは「ロング・ライダーズ」では本筋ではない。

 だから僕も登場人物をあまり分からないままに見ていたが、それはあまり問題なかったとしか言いようがない。こいつはジェシー側の人間か、そうじゃないか…ぐらいが分かれば、後は別に問題ないんじゃないだろうか。

 僕にはこの作品、まさしく傑作としか見えない。

 カナダでロケーションした当時のアメリカ西部の光景が、目にしみるほど美しい。控えめで必要なところにだけ最小限に流れる音楽も、その素朴さが心に残る。その他、セットや小道具のリアリティやら、見る者を集中させるゆったりした編集の妙やら、ホメたいことはいくらでもある。

 だが、そんな「映画的」美点を満載した作品ではあるが、この映画の真の素晴らしさはほぼ3点に集約される。それはむろん、演技と脚本と演出についてだ。

 ジリジリとした時間の流れの中で、登場人物たちの心の中が少しずつ…しかし外見からは想像できないほど激しく、揺れ動いていく

 それは、伝説中の人物であり、自らもそんな人物であることを楽しんでいたカリスマとしてのジェシー・ジェームズが、そんな「有名税」を支払わざるを得なくなってきて、どんどん追い込まれていく圧迫感である。また仲間内の中で抜群の統率力と存在感を誇っていた彼が、その求心力の低下を身をもって実感していく焦燥感でもある。あるいは、そんなジェシーの変貌ぶりに神経を尖らせ、彼との距離感を計りながらおっかなびっくりつき合っている周囲の仲間たちの恐怖心でもある。

 さらにもっと複雑な、ロバート・フォードの心境の変化がある。最初に彼が見せる、ジェシーへの無条件で無防備な憧憬。それがいくつかの偶然が重なり、ジェシーへの失望も重なって、いつの間にか彼を裏切る方向へと転がっていく。彼のいとこを殺したことを、すでに悟られているのかもしれないという恐怖心もある。しかも、元々ジェシーに惹かれて仲間に転がり込んだ動機も、それで「一旗揚げられる」という気持ちがなきにしもあらずだったはず。だとすれば、裏切ったら裏切ったで「一旗揚げられる」と単純に思う部分があったとしても当然だろう。

 このあたり、実際に「英雄」に接してみたら失望でしかなかった…というだけの、そんな単純な構図としては描かれていない。それならもっとストレートで、しかし底の浅い作品になっただろう。もっとデリケートな要因が積み重なって、どうしようもない運命のいたずらが働いて、やむにやまれぬ形で「暗殺」が行われてしまう。そのあたりの話の運びかたが、実に非凡なのだ。

 この映画の脚本・監督を手がけたのは、ニュージーランド出身のアンドリュー・ドミニクという男。これがハリウッド・デビューとなるらしいが、早くも「巨匠」のような堂々たる描きっぷりには正直感嘆の声しか出ない。何でもこの人のニュージーランド時代の作品「チョッパー・リード/史上最凶の殺人鬼」(2000)なる作品を見たブラピによる大抜擢とかで、実はエリック・バナもこの「チョッパー・リード〜」に出演していたのをブラピに見い出され、トロイ(2004)に起用されたと聞く。それが本当だとすると、ブラピもなかなか人を見る目があるではないか。

 ともかく各人の錯綜した心理が入り乱れて、映画の後半は…その一見静かな展開とは裏腹に…緊迫した状況が持続しっぱなしなのだ。

 演じる主演者たちも特筆もの。特にブラッド・ピットには本当に驚かされた。こっちはナルシスティックに「英雄」ジェシー・ジェームズを演じるつもりだろうとタカをくくっていたので、意外なまでの鬼気迫る熱演にビックリ。列車強盗の最中にいきなりキレたり、少年の口を無理矢理割らせようとブチのめしたり…という場面で見せる人間的なキャパの狭さや卑しさを感じさせる演技は、ブラピとしては「らしからぬ」芝居だろう。でも、これがないとこの映画は成り立たない。

 キレ演技は「12モンキーズ」(1995)でも見せていたが、アレは少々無理してる感じが濃厚だったし、実際あの時は演技者として背伸びしていたのだろう。しかし、今回はバッチリとキマった。単にエキセントリックな一面を出すだけでなく、ちゃんとそれが血が通っている人間に見えているのである。

 そして一方で、ちゃんと「伝説」の人物であるオーラも見せなければならない。そこには彼本来のスターとしての華も活かされているのだ。これはブラピじゃないとなかなか出来ない役だ。今回プロデューサーを兼ねてノリにノッての好演ぶりは、僕も素直にホメたいと思う。

 気の毒なのは、この作品にブラピが主演したことでメジャーなエンターテインメント映画と思われてしまったこと。「オーシャンズ」ほど娯楽に徹しているとは思わなくても、これほどデリケートな作品とは思っていないで見に来たお客さんも多いだろう。そんな従来のブラピ・ファンや娯楽映画ファンには、この作品は少々口に合わないかもしれない。例のさまざまな不評も、そんなところから出てきたのではないか。

 一方、ハリウッド・スターのブラピが主演ということで、この種の映画が本来獲得すべきアート系の作品のファンが、一斉にそっぽを向いてしまった可能性も大きいのではないか。この作品がロードショー系の劇場ではなく、ミニシアターでかかっていたら果たしてどうだったのだろうか? 僕はそのあたりが残念でならない。この作品は、本来来てもらえるはずのお客さんを逃してしまっているのだ。

 ブラピの好演ぶりが目立つだけに、それがマイナスに働いてしまったことを気の毒に思う。

 そして、そんなブラピを上回る…と言っては語弊があるが…凄みのある演技を見せるのが、ブラピとは「オーシャンズ」仲間のケイシー・アフレック。ただし僕もベン・アフレックの弟…ぐらいにしか知らなくて、正直言ってどうでもいい存在だった。顔すら覚えていなかったと言っていい。

 しかしここでは、そんな「イマイチ」感が実に役にハマっている。

 最初にボロボロの間抜けなシルクハットをかぶって登場した時の、何とも冴えないもっさり感。見るからに口ばかりでアホっぽくて、だけど「思い上がり」だけは人並みにあるキャラクターを、リアリティたっぷりに好演した。

 このケイシー・アフレック演じるロバート・フォードのキャラクターは、実は誰しも心の中に大なり小なり持っているものだ。

 誰しも自分が小物だなんて思いたくもないだろう。人から軽視されているなどと考えたくもないだろう。ナメられて割を食うなんて目にも遭いたくないだろう。だが、世の中でゴマンといる人間の中で、賞賛を浴びるチャンスを手に入れるのはほんの一握り。人に注目され愛される人物も、そう多くはない。成功を勝ち取りオイシイ思いをする人間など、限られた人々しかいない。

 あとの人々は…実は指をくわえているしかない

 実は人はそれぞれ、その人の身に合ったその人なりの「成功」や「注目」を手に入れているのかもしれない。しかしそれは…大抵の場合、人が自分に対して抱いている評価よりも大きく下回るものだ。だからどんな人間でも、常に満たされない思いや失望を味わう。

 ただし、そこからは人によって対処が違う。「自分」という自我を守るために、それをすぐに忘れてしまったり、別のモノにすり替えて誤魔化したりする人もいるだろう。慰めになる何かを見付ける人もいるだろう。見て見ぬふりをする人もいるだろう。

 だが、その痛みを片時も忘れられない人間も、この世の中には存在するのだ。

 こんなはずじゃないと悔しさを噛み殺し、「何でオレが」という怒りも押さえ込んで、毎日を悶々と暮らしている。そして、理不尽な立場に置かれた自分に満足できず、何とかしたい…と心の底で思い続ける。

 それは確かに誰もが持ってはいるけれども…それを人に知られたくないし、そもそも自分でも自覚したくない部分。最初から「なかったことにしたい」部分なのだ。

 そんな誰しも自分の中に「それ」を感じながら、素直に認めることがなかなか出来ないダーク・サイドを、ケイシー・アフレックは見ているこっちが痛くなるようなリアリティで演じきっている。

 結局、英雄ジェシー・ジェームズの「卑怯な暗殺者」として歴史に名を残すことになってしまったロバート・フォードは、結局それゆえに人生を大きくねじ曲げてしまう。後年ようやく自分を理解してくれる女に巡り会ったロバートは、暗殺に至った動機をおずおずとこの女にだけは白状するのだが、そのセリフが実に秀逸だ。

 最初に挙げた動機は、「怖かったから」だ。この時点では半分人間が壊れてしまっていたジェシーに、いつ殺されるか分からない。それゆえ、恐怖から引き金を引いたという言葉にウソはないだろう。

 だがロバートは、それからすぐに第二の動機を挙げた。「賞金が魅力だったから」…これも本音だろう。天下のジェシーを仕留めた賞金だ。その金額たるや莫大なもののはずだ。それを手に入れる機会があるのは、ほんの一握りの人間だけ。ならばそれを逃さず手に入れたいと思って、何の不思議があろう。

 しかしロバートは、一番最後に…ためらいがちに第三の動機を口にするのだ。

 「賞賛されたかったから」

 最後の最後まで隠していただけに、おそらくこれが「本音中の本音」なのだろうと思わせる動機。それは身の安全よりもカネよりも、自分が浴びるべき「賞賛」の言葉だった。これが何よりロバートの悲痛なところではないか。結果的に彼は賞賛を浴びるどころか、その正反対の罵倒を浴び続けた。それだけでなく、ジェシー信者の恨みを買い、結果的にそれが命取りになるハメになってしまった。

 皮肉なことに…実際には彼に失望を与える存在でしかなかったジェシーは、ロバートによる「暗殺」という行為によって、なぜかさらに「英雄」として実体からかけ離れた偶像にされる。そして「賞賛されたい」「賞賛されるべきだ」と願ったロバート自身は、不名誉と銃弾だけを得るハメになってしまう。これはロバートにとっては、何とも理不尽な結果だろう。

 だが、思い出していただきたい。片やジェシー・ジェームズは確かに英雄としての名声を欲しいままにしていたし、無法者としてやりたい放題をしていた。仲間内でも大いに幅を利かせていたけれども…彼とても決して思い通りに人生が運んでいたわけではないのだ。

 過度の実体を伴わない名声が、彼の虚勢を大きくしてしまった。それがいつの間にかに、兄フランクとの絆や仲間内の信頼を失うことにもなっただろう。あまりにその名前が巨大化してしまったから、法の番人側もジェシーを単なる無法者の一人として放置しておくことが出来なくなったはずだ。それが執拗な捜査につながって、ジェシーは片時も心が安らぐヒマがなくなってしまう。

 何よりその名声が、熱烈な信者であり「未来の暗殺者」たるロバートを引き寄せてしまう。そして信者であるロバートを一転暗殺者に変えてしまうのも、ジェシーの「英雄」としての慢心ゆえ…だ。

 そして逆にもう一度ロバートを振り返ってみれば…彼はこの一件に絡んで兄を失い、周囲からは卑怯者と罵倒され続けながら…たった一人ではあるが、理解者になってくれる女を手に入れている。だとしたら、まるっきり失ったモノばかりでもないのではないか。

 確かに第三者的にみれば、ジェシーは英雄で大物だ。ロバートは卑怯者で小物。歴史に名を残すのはジェシーで、ハッキリ勝負はあった

 だが…周囲から見られていた自分と本当の自分とのギャップを埋められないことで、その人なりのダメージやリスクを背負っていたことでは、この両者に何ら違いはない。そのインパクトの大小は関係ない。それによって人生を大きく歪められたこと、それを自分で招こうとして招いた訳でもなければ、自分ではどうすることも出来なかったこと…これらの点においては、両者には変わりはないのではないか。

 実際に長い間人間をやっていると、そんな気持ちになってくるものだ。人を羨んでみても、逆に優越感に浸ってみてもあまり意味はない。

 人生っていうものは良くも悪くも、それなりに帳尻は合って来ちゃうもののような気がするのだ。

 

映画館主・Fの諦観

 結局、「あの人物」からの攻撃は、それから何年も続いた。

 ここのところは落ち着いているが、また思い出したように始まるのかもしれない。その様子を見ているみなさんも不愉快なようだし僕も決して楽しくはないが、前述のように僕はもう諦めてしまって半ばどうでもよくなってしまった。

 その他にも…かつては映画の感想文のイントロに世間話やら時事的な話を入れたりしていたものだが、それらに対しても何度か別の人たちから物言いがつき始めた。そんなところにまで文句がつくなら、いっそ面倒くさいからやめてしまえ…。そんなわけで、僕はしばらく映画の話以外の余計なことはあまり書かなくなった

 それを、以前と比べてつまらなくなった…と思われたら、申し訳ないとは思う。だがそれは、増殖するに従って僕のコントロールが効かなくなっていったこのサイトを、もう一度僕の手の中に取り戻すためのプロセスだったような気もする。

 実際に手の中に取り戻せたかどうかは分からない。たぶん、それはこれからも出来ないだろう。ただ、肥大した「F」の姿はかつてほど目立たなくはなった。そのぶん、かつてほど支持されることもなくなったかもしれないが、それでいいのかもしれない。

 僕の見苦しい天狗の鼻も、これ以上伸びずに済むのだ。

 みなさんもご存知のように…そして僕自身が認めているように、「F」の実態である僕は決して「善人」などではない。

 掲示板に現れて繰り返し狼藉を働いてきた「あの人物」の指摘通り「偽善者」なのだろうし、あるいは「冷血」で「許し難い」人間なのかもしれない。たぶんそうだろう。ここは100歩譲って、「あの人物」の主張は100パーセント正しいと認めてもいい。

 僕は「悪人」である。

 「あの人物」もそれをネットで暴き立て、罰を与えたいと思ったのだろう。そのために手段は選ばない。しかし…ネット上に表面化した部分だけを見る限りでは、結果的に「あの人物」にとっていささか不本意な役割を演じることになってしまったのではないか。

 だが「この人物」がネット上の「個人情報保護」と「匿名」を盾にしている限り、それを免れることはできない。

 「この人物」はかつてメールで「詫びるつもりはない」と言っていたことからも分かる通り、自分の方が「正しい」し「善人」だ。そして「F」の方が、圧倒的に汚くて悪い人間なのだ。「F」さえ悪い人間でなければ、自分もこんな手段は用いなかった。悪いのは全部「F」なのだ。自分は悪くない。

 むしろ悪人である「F」に罰を与える自分は、ひょっとしたらネット上で「賞賛」されるに値するかもしれない。実は内心そう思っていたのではないか? いや、仮に賞賛されないにしても、非難され蔑まれる筋合いはないだろう。それなのに、なぜ?…おそらくそんな思いが、「この人物」にネット上の攻撃を繰り返させる原因だったのではないか。

 だが「あの人物」には、それをどうすることもできない。

 誤解してもらっては困るが、僕はこれを決して勝ち誇った意味で言っているのではない。「この人物」に対して、勝負は最初から見えている。僕は終止やられっぱなしでまったくの無力だ。

 だが僕が「この人物」からの攻撃を止めようがないことや、自分の分身である「F」をコントロールできないのと同じように、「この人物」もまた一度自分に決定づけられてしまった役割はもはや変えようがない。どこの誰にも、どうすることもできないのだ。

 「その人物」も…そしてこの僕も、他の誰でも同じ事だ。自分がどのように位置づけられるか…を、自分でコントロールするのは不可能だ。自分のあるがままを提示することは出来そうで出来ないし、確固たる意識もなく提示してしまった「自分」は、一度人目に出したらそうそう引っ込めることは出来ない。

 そしていつの間にか虚像が実像を飲み込み、実像そのものになってしまうことだってある。

 むろん僕もその例外ではない。他人の人生を好きにすることが出来ない以上に、自分の人生の行く末を思うがままに操るなんて、どこの誰にも出来っこないのである。

 

 

関連する感想文:あの頃ペニー・レインと(2001/04/16)、エンジェル(2007/12/31)、スパニッシュ・アパートメント(2004/04/26)

 

 

 

 

 

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