観客は判ってくれない
あるいはスタローンとロッキーが受けた重たい400発

The 400 Blows against ROCKY

含・「ロッキー・ザ・ファイナル」感想文
featuring : Review of "Rocky Balboa"


 

クリエイターとして初めて真価を見せたスタローン

 

 今回の「ザ・ファイナル」全編には、まるでイイ脚本のお手本みたいな名台詞があちこち散りばめられている。

 「挑戦しようとする人間を止める権利が誰にあるんだ!」「人生ほど重いパンチはない」「自分の弱さを人のせいになどするんじゃない。それは卑怯者のすることだ!」…などなど、いちいちうなずかされるし、耳が痛いセリフの連打だ。これは正直言ってテクニックで書けるものではないだろう。あんまり精神論的な話は好きではないが、これらはどう考えてもスタローンの本音の部分だと思えてくる。でなければ、あれほどヒドイ脚本を書き殴っていたスタローンが、これほど素晴らしい映画をつくれるとは思えない。気合いの入り方が違うのである。

 さらに今回はエイドリアンの不在を補うべく新たな女性マリーが登場するが、その扱いには慎重の上にも慎重を重ねている。ドラマを盛り上げるために新たな恋愛要素を注入するという愚には陥らず、極めて慎ましやかに控えめに仄めかすだけだ。ラストは念には念を入れて、エイドリアンの墓でのロッキーの言葉で締めくくる。「オレたちは勝った!」…あくまで前5作を支えたエイドリアンの存在とファンの感情を尊重して、この映画とシリーズを終わらせているのである。こんなデリケートな脚本が書けるとは、正直言って僕は驚いた。スタローンは確かに進歩したのではないか。

 しかも興味深いことに、今回の基本コンセプトはすでに「5」の中に存在したものだ。

 今回は幸か不幸か「5」を踏襲しているから、最初からシモジモの世界で話を始められた。 だがロッキーを市井の人に戻そうという「原点復帰」発想は、そもそも「5」のものだ。それ自体は間違っていなかった。「5」ではそれを「転落」という力業でやったから、わざとらしく無理な展開になった。今回はそれをしないで済むだけ有利なのだ。

 ずっと若いボクサーと戦わねばならないという命題も「5」と同じ。だが、そこに至る道のりは全く違う。今回は戦いのモチベーションは怒りや因果ではない。単に「自分を試したい」という気持ちだけだ。だから引き分けに終わっても満足できる。これはまさに、一作目と同じ結末なのだ。つまり「原点復帰」だ。

 さらに今回の若いボクサーのディクソン、新たな女性マリーの連れ子、そして実の息子の3人の「息子」たちを結果的に育て導いている。前作「5」では失敗した後継者育成に、今回は見事成功しているのだ。

 このあたりのさまざまな要素を考えていくと、今回の「ザ・ファイナル」はあくまで「5」での失敗を十分に分析して、その反省の下に生まれたものであることが分かる。スタローンは決して馬鹿力や勢いでなく、かなり熟考した上で脚本・監督を行っていることが分かるのだ。

 だから今回の「ザ・ファイナル」は、どっちかというと「5」の続編としての「6」というより、イマドキ流行りの言い方で言えば「ロッキー5.1」などと呼ぶべき作品のように思える。あくまで「5」の改良版、ヴァージョン・アップ版としての作品なのだ。いや、今となっては「ロッキー5」の方がベータ版というべきだろうか(笑)。

 さらに驚かされるのが、スタローンの監督としての意外な力量だ。

 それまで「監督」としてのスタローンなどまったく評価したこともないし、評価しようとも思わなかった。実際、彼が監督に専念した「ステイン・アライブ」などは、「演出」以前のシロモノ。とてもじゃないが評価しようがないような出来栄えだった。これでは評価できる訳がない。

 だが今回は、スタローンは明らかに何らかの計算を持って演出に取り組んでいる。

 今回、かなり意識的なのは手持ちカメラのブレまくるカメラワークと逆光のライティング。ちょっとフィルターかけ過ぎじゃないかとは思うが、何かというとブレるカメラと逆光。おそらくこれは整ったキチンとした撮影ではなく、ドキュメンタリーのようなリアルな荒々しさを狙ったものだろう。今までも試みてきたものだろうが、今回ほど露骨なものはなかったのではないか。空気中に浮遊するホコリまで微細にとらえる逆光ライティングは、どう考えても意識的なものだ。おそらくスタローンは、生々しいまでのリアルさを出したかったんだと思う。

 で、監督スタローンがそれに気づいていたかどうかは分からないが、その「リアル」さこそが彼の「人生記録」感を深めている。

 それがさらにハッキリするのは、後半の試合場面だ。

 ここでは画面を見れば分かる通り、今流行のデジタル・ハイビジョン・カメラが使用されている。だがスター・ウォーズ/エピソード3:シスの復讐(2005)よりも、あるいはマイアミ・バイス(2006)よりも、この「ロッキー・ザ・ファイナル」でのデジタル・ハイビジョン・カメラの導入は意味がある。

 もちろん最大の理由は、撮影現場ですぐプレイバックできるという利点が、監督兼主演のスタローンに都合良かったというのが真相だろう。さらに、デジタル・ハイビジョンならではの画質の「生々しさ」を狙ったということもあるだろう。だがそれ以上に、デジタル・ハイビジョン導入に意識的な理由がもうひとつある。

 よくご覧になっていただければ分かるが、舞台がラスベガスに飛んでデジタル・ハイビジョン撮影に変わると同時に、ショットごとの転換のスタイルが一変しているのだ。それまではショットとショットの間をバッサリとカットしてつなぐ普通の映画フィルムのつなぎ方をしているのに、この場面以降はショットとショットの間を極端に素早いオーバーラップで処理している。つまり典型的テレビ=ビデオ映像…テレビのボクシング中継そのままの絵づくりをしているのだ。画質よりも何よりも、この処理こそが「リアル」な効果を挙げている。これは絶対に意識していなければ行われていないはずのテクニックだ。

 さらにもう一つついでに言えば、スタローンがここで自らの肉体で演じているということを注目すべきだろう。「そんなことは今までと同じ」などと言うなかれ。実は先日、スタローンの新企画として「ランボー4」が発表されていた。正直言って「ザ・ファイナル」に感激した僕もさすがにコレには付き合えないと思っているが、それはまた別の話。問題はスタローンがこの「ランボー4」でスタントマンを使うと宣言していることだ。「ランボー」ではスタントも致し方ないと思っているスタローンが、「ロッキー」は生身でなければいけないと思っていたという事が重要だ。ここでは老いたスタローンの肉体が、あえてそのまま画面に出てくることが重要なのだ。

 「ロッキー」は「リアル」であること、「人生記録」であることが必然なのである。

 このように「ザ・ファイナル」では、スタローンはただ映画を馬鹿力的に撮ってはいない。あの「ステイン・アライブ」がウソのように、かなり周到なプランと発想に基づいて全体を構成しているのだ。

 これは決して僕の買いかぶりではなく、明らかにクリエイターとしてのスタローンの成熟であると思われるのだが、みなさんはいかがだろうか?

 

 

 次ページへつづく

 To Be Continued...

 

  


 

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