新作映画1000本ノック 2007年12月

Knocking on Movie Heven's Door


このページの作品

「アイ・アム・レジェンド」 「ユゴ/大統領有故」 「呉清源/極みの棋譜」 「ナンバー23」 「ボーン・アルティメイタム」 「モーテル」 「ディスタービア」

 

「アイ・アム・レジェンド」

 I Am Legend

Date:2007 / 12 / 31

みるまえ

 人類が絶滅した後の地球に、ただ一人残された男。タイトルが「アイ・アム・レジェンド」。このウィル・スミス主演のお正月映画の大作は、大分前から劇場で予告編が流されていた。そしてその予告編映像を見るや、僕はただちにこの映画が「あれ」であることに気づいた。それは僕が映画にハマった中学校時代の頃のこと。名画座で見てシビれて、三番館あたりまで追っかけて何度も見に行った僕にとっての「特別な映画」…チャールトン・ヘストン主演の「地球最後の男/オメガマン」(1971)のリメイク作品だ。詳しくは当サイト「Time Machine」のチャールトン・ヘストンの項をご参照いただきたいが、この映画に出てくる人類絶滅の風景…人っ子一人いないロサンゼルスの景色は圧倒的だった。僕のトラウマになったと言っていい。その後、「28日後…」(2002)を見た時なんざ、「オメガマン」のリメイクみたい…と思ったくらいだ。僕にとって人類が絶滅した地球のビジュアルとは、すなわち「オメガマン」のそれなのだ。だから、それがリメイクされるとなれば、これは絶対見なければいけない。しかも今回は、映画タイトルにもミソがあった。「オメガマン」の原作は僕の大好きなリチャード・マシスンだ。そのマシスン原作のタイトルが「I Am Legend」。実はこの小説はこれで3度目の映画化だが、小説タイトルそのままに映画題名が付けられたのは今回が初めて。それってマシスン原作に忠実な映画化ってことじゃないか。だとすると、エンディングに実に衝撃的な幕切れが待っているはず。これは楽しみと舌なめずりして待っていた次第。ところが今から何週間か前の頃、風の便りに聞いた話によると、日本への完成プリントの到着が遅れているという。何でも土壇場でエンディングが変更になって撮り直し、完成が大幅に遅れたと言うではないか。それってひょっとして、あの「衝撃のエンディング」のことなのだろうか? そんな間際で変更しちゃって映画の出来は大丈夫なのか? そんなこんなで、余計に作品の出来栄えが気になったわけだ。

ないよう

 テレビには、ガン撲滅を成し遂げた女性科学者クリッパー博士(エマ・トンプソン)が出演している。ニュース・ショーの司会者がその方法について訊ねると、博士は至極簡単にそのしくみを説明し始めた。いわく、普通、ウイルスは体内の血管を暴走する悪玉だ。しかるに今回の方法は、この悪玉を警官に変えたようなものだという。この結果、博士の療法の被験者は100パーセント治癒した。ついにガンは撲滅されたのだ…。そして3年後の2012年。ここニューヨーク・シティには真っ昼間というのに人っ子ひとりいない。いや、正確にはたった一台のクルマが走っていた。運転している男は、ロバート・ネビル(ウィル・スミス)。助手席から顔を出しているのは愛犬のサムだ。彼らがクルマで追いかけている相手は…何と鹿の群れだ。人けの全くない、荒れ果てたニューヨークの街。ペンペン草どころかあちこちに雑草が生い茂っている街中を、鹿の大群が我が物顔に駆け抜けていく。ネビルはこいつを獲物にしようと、ライフル片手に走り回っているわけだ。だが大群がトンネルの中に消えていくと、ネビルはなぜか追跡をやめた。彼はトンネルの暗がりに、何らかの危険を感じているようだ。やがて一頭のはぐれ鹿を見つけるや、再び追跡を始めるネビル。だが今度は、横からライオンが飛び出して獲物をかっさらった。こうなると人間の出る幕ではない。ちょうどネビルの腕時計がシグナルを鳴らした。見るとだいぶ太陽が傾いて来たようだ。ネビルはサムを連れて、自分の「城」へと引き揚げる。そこは戸締まりも厳重な4階建てのアパートメントだ。大好きなボブ・マーリーのレゲエを聴きながら、サムを相手に会話するネビル。だが、いよいよ日が落ちるや雨戸を閉め戸締まりをして、ネビルはサムを抱きかかえるようにして眠りにつく。周囲から聞こえて来るのは、一体何者のうなり声なのだろうか…。思い起こせば3年前のこと。軍服を着たネビルは慌てて妻子をクルマに乗せ、街はずれのブルックリンブリッジ方面へ急いでいた。何を急いでいるのかと訝しげな妻に、ネビルは本当の事を言わねばならない。大統領令で、ニューヨーク・マンハッタンが隔離されることになったのだ。いまやこのニューヨークを感染源として、正体不明のウイルスが猛威を振るっていた。大多数の感染者は死を遂げ、ごく少数の生き残った者も狂犬病のような発作を起こす。今も凶暴化した感染者が、ネビルたちのクルマに体当たりして死んだ。そのためニューヨークは隔離されることになり、非感染者が先を争って脱出しようとしていたのだ。ネビルは軍の研究者としてワクチン開発を続けなければならないが、妻子だけはここから脱出させねばならない…。そんなかつての夢から覚めたネビルは、今日も今日とて孤独な日課を続ける。寂しさに耐えかねたネビルは、マネキンをあちこちに立てては人間のように話しかける。この日は鹿狩りの続きを行ったが、鹿を深追いしたサムが建物の暗い入口に入ってしまった。「やめろ、サム! 戻って来い!」…慌てて叫ぶがもう遅い。仕方なくネビルは銃を構えながら、冷や汗脂汗で建物内部へと入って行く。中は当然真っ暗闇だ。銃に据え付けたライトを頼りに、ネビルは恐怖におののきながらビル内を探索。中には壁に向かってつっ立ったまま仮眠する、「かつて人間だった」連中のおぞましい姿もあった。ネビルが恐れていたのはこいつらだったのだ。彼は連中を起こさぬように注意深く進み、ようやくサムの怯えきった姿を見つける。だが同時に「奴ら」もネビルたちを見つけた。物凄いうなり声を上げて追いかけてくる「奴ら」。ネビルもサムと共に全速力で突っ走る。いよいよ追いつかれるというその時、ネビルは「そいつ」と共にガラス窓を蹴破り、いきなり路上へと飛び出した。突然もがき苦しむ「そいつ」。何と皮膚が日光で大やけどしているようだ。連中は日光に弱いため、日中は日陰に隠れているのだ。ネビルいわくこの「ダーク・シーカーズ」が、いまや地球を席巻していた。いまや地球に健常者は、ネビル知るところ彼ただ一人だ。彼はたまたまこのウイルスに免疫があった。ならば他にも健常者がいてもおかしくはない。だからネビルは、昼には崩壊したブルックリンブリッジの側でじっと誰かが来るのを待っている。彼は毎日AMラジオで、生きているかもしれない誰かに呼びかけているのだ。「これを聞いたら、訪ねて来て欲しい。僕は毎日正午にブルックリンブリッジの側の桟橋にいる」…だが、今日も誰も来なかった。それでもネビルは、人類の再興に望みをかける。地下の研究室で、毎日のようにネズミへのワクチン投与の結果を見る。ほとんどのネズミには効果が見られなかったが、一匹だけ効果が出たとおぼしきネズミがいた。これはいずれ「人体実験」をしなければならない。かくしてネビルは例のビルに仕掛けをして、自分の血をエサに「ダーク・シーカーズ」をおびき出すことにした。すると…早速「一匹」網にかかるではないか。ところがそんなネビルに向かって、皮膚がヤケドする危険を冒しながら憤怒の表情を見せる「ダーク・シーカーズ」がいた。あれは一体何なのだ? 身の危険が分からぬほど人間性を失い、退化してしまったのか? …そんな風に敵を侮っていたネビルは、後でそのツケを支払わされる事になるのだが…。そんなネビルの脳裏に甦るのは、やはりあの最後の日の妻子の姿だ。無事に彼女たちをヘリコプターに乗せ、待避させることが出来たネビルは一安心。だがここマンハッタンには、非難できなかった人々が溢れかえっている。そんなブルックリンブリッジに、空軍が攻撃を加えた。橋は落下し、島は閉鎖された。ところが破壊されたブリッジの煽りをくらって、ネビルの妻子を乗せたヘリが目の前で墜落していくではないか…。そんな悪夢に苛まれたネビルは、それでも気を取り直して捕獲した「ダーク・シーカーズ」にワクチン注射をする。だが、たちまち苦しみだして手が付けられない。やっぱりこのワクチンも人間には効かないのか。落胆したネビルは、またサムを連れて街に出る。すると…彼が置いておいたマネキンが、なぜか道のど真ん中に移動している。一体なぜ、一体誰が…あまりの事に当惑して思考を停止してしまったネビルは、思わずそこに仕掛けられていたワナに引っかかった。ワイヤーでいきなり宙づりにされるネビル。それは先日ネビル自身が「ダーク・シーカーズ」のために仕掛けたワナと同じ仕掛けだった。奴らは先日の復讐をしかけてきたのだ。だがネビルは、宙づりになったまま為す術もなく気絶してしまう。そして無情にも、陽は徐々に陰っていく…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 目の前に広がる人けのないニューヨーク。荒廃してペンペン草が生えているその光景は、何と言っても圧倒的な迫力がある。ここで感想を終わらせてもいいくらい。正直言ってこの映画は、すべてがそれに尽きる。正直に言うとチャールトン・ヘストンの「オメガマン」では、これをCGのない時代に全部ライブ・アクションでロサンゼルスでやっていた。それを考えれば…CGで何とでもなる今回は、いささかインパクトの点で「オメガマン」の後塵を拝すると言うべきだろう。しかし、それでもその光景は一見の価値がある。廃墟ファンなら絶対に見逃せない。やっぱりスゴイ。だがそんな僕の評価とは裏腹に、世間ではこの映画ってあまり評判がよくないらしい。でも、それはそれで何となく理由が分からないでもない。「インデペンデンス・デイ」(1996)のウィル・スミス主演によるSF超大作を期待した向きとしては、この静まりかえって淡々とした展開は退屈に思えてしまうのだろう。おまけにラストではしょんぼりしてしまうこと請け合い。おそらく撮り直したという意味もそういう事なんだろう。撮り直す前はどうだったのか想像がつかないが、もっと落ち込むエンディングだったのだろうか。ただし僕が当初していた原作通りのエンディングは、当初から狙っていなかったようだ。やっぱりアレはマズイのかなぁ。どんなエンディングか気になる人は、ハヤカワ文庫から出ている原作本を読んで欲しい。これはこれで面白いよ。

こうすれば

 何度も「オメガマン」を引き合いに出して悪いが、主人公のライフラインについても今回はちょっと雑な描写だった。チャールトン・ヘストンにはもっと自給自足の雰囲気が漂っていたが、こっちはまるで水道やガスがちゃんと通っている感じに見える。そのへんのところのリアルさは、ちょっと足りないと言わざるを得ない。また「ダーク・シーカーズ」たちが襲ってくる終盤のヤマ場でも、ビルをよじ登ってくる連中の描写にはついつい笑ってしまった。CGを使っているせいか、大群でチャッチャカ登ってくる様子が何だかテレビゲームのモンスターみたいなのだ。この安っぽさは何とかならなかったのか。あれって贔屓目で見ても、せいぜいジャングル活劇のチンパンジーかオランウータンみたいだ(笑)。それと、エンディングについてケチはつけるつもりはないが、正直言ってかなり気が滅入っちゃったことは白状しなくてはならない。お正月映画でこれはツライところかも。

みどころ

 ただし「ダーク・シーカーズ」そのものの描写の凄さは、「オメガマン」の比ではない。「オメガマン」では時代遅れのKKKみたいな集団でちっとも恐くなかったが、今回の「ダーク・シーカーズ」はかなりコワイ。ビルの暗がりに入っていくくだりは、気の弱い人ならまいってしまうのではないか。ライトに照らされた先に「ダーク・シーカーズ」たちが眠りながらつっ立っているショットが出てくるが、そいつらがどいつもこいつもみんな壁に向かって立っているあたりは、何だか「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)の気色悪い終盤のひとコマを思い出させる。何ともイヤ〜な気分になるショットだ。こうしたホラー風味の怖さは、「28日後…」(2002)や「バイオハザード」(2002)を通過してきただけに結構うまくいっている。それだけに、よじ登ってくるCGの「ダーク・シーカーズ」さえなければねぇ…。確かにお正月大作としてはいかがなものかって気がするが、この映画はそもそも信じられないほど広大な都市の廃墟と、孤独と戦うウィル・スミスを見せる映画なのだ。決して「お正月娯楽超大作」ではない。その作品の狙いさえ見誤らなければ、これはこれで僕は楽しめる映画だと思う。見た後しょんぼりしてしまうかもしれないが、元々この映画はそういう映画なのだ。ここは孤独な男を演じきったウィル・スミスの熱演と、それだけでお話を何とかもたせきった「コンスタンティン」(2005)のフランシス・ローレンスの腕前を認めてあげるべきかも。個人的に廃墟フェチにはたまらない映画だ…って、結局僕が気に入ったのはそこか(笑)。

さいごのひとこと

 ワーナーとしては「シャイニング」以来のミスマッチ正月映画。

 

「ユゴ/大統領有故」

 The President's Last Bang

Date:2007 / 12 / 31

みるまえ

 この映画のことは今から2年前、2005年の春ぐらいに本国・韓国でのプレスシートを見て知った。と言っても、別に僕は韓国に行ったわけじゃない。ちょうど当時、僕はキネカ大森で行われた「東南アジア映画講座」なる催しに参加していた。そのあたりの事情は、インドネシア映画「ビューティフル・デイズ」(2002)の感想文で触れているが、この催しの講師を勤めたアジア映画研究家の松岡環(たまき)さんからアジア映画のチラシを何種類か頂戴した。その中に、この「ユゴ」のプレスシートらしきモノも入っていたわけだ。ただし、その時には「ユゴ」なんてタイトルなのかどうか分からない。自慢じゃないが僕はハングルは判読不能で、どんな意味なのか発音はどうなのかも分かっちゃいない。ただ、なぜかその写真やら何やらを見ているうちに、これがどうやらパン・チョンヒ(朴正煕)大統領暗殺にまつわるアレコレを映画にしたものらしいと分かったのだ。しかも主演はどうやらあのハン・ソッキュ。ただし「シュリ」(1999)に始まった韓国映画大攻勢がいつの間にか「韓流」映画に取って変わり、それもまた萎んでしまった今となっては、映画ファンにとって「ハン・ソッキュって誰?」ってな事になっちゃってるかもしれない。かつては不敗神話さえあったこのスーパースターも、「韓流」イケメン映画全盛期には全くお呼びでなくなり、久々に復活した「スカーレット・レター」(2004)はスキャンダル絡みの話題ばかりで出来はお寒い限り。今さらこの人が出ているからって誰も喜びはしないかもしれない。それよりも注目すべきは、パク・チョンヒ暗殺秘話という点。あの素晴らしかった「大統領の理髪師」(2004)を見たばかりということもあって、僕はその内容に大いに興味をそそられた。しかし、プレスシートを眺めて「見たい」とは思ったものの、公開される韓国映画の内容が恋愛モノやら難病モノ、果てはホラーモノに偏っていった上にハン・ソッキュ神話の凋落もあって、日本公開は危ういかも…と内心思っていた。その予感は残念ながら的中。そのうち僕もこの作品のことを忘れ、そもそも韓国映画を見る本数も激減してしまった。そんな2007年のある日、僕は映画館のチラシ置き場にこの映画のチラシを見つけたのだった。「ユゴ」なるタイトルはまるで「カル」(1999)みたいな感じだが、これはホラーじゃない。間違いなく僕がプレスシートを手に入れたあの映画だ。そんなわけで公開を心待ちにしたのだが、またしてもその後はウワサを聞かなくなった。すると、ある日新聞にやけに小さい広告が出ているではないか。扱いが小さかろうと公開されることには違いない。これは何としても見なければ。でなければ、かつての韓国映画好きの名がすたる。

ないよう

 1979年10月26日、ソウル。韓国中央情報部(KCIA)のチュ課長(ハン・ソッキュ)は、朝っぱらから女たちがウロウロする館にいた。ここは大物たちがお忍びで遊びに来る場所。チュ課長は大統領の「お手つき」となった若い娘とその強欲な母親(ユン・ヨジュン)を前にして、いささかウンザリした表情。この娘と大統領との「手切れ」を穏便に済ませるのがチュ課長の仕事だが、母親は「娘と大統領は恋仲で引き離せない」と主張するアリサマ。思わず「呆れた母親だな!」と声を荒げたチュ課長は、この母娘を連行して少々手荒に脅かしてやることにした。そんな「汚れ仕事」が続く毎日に、チュ課長の士気も低下する一方だ。その頃、当の大統領(ソン・ジェホ)はヘリコプターで視察から戻ってくる途中。ヘリに同乗しているのは、大統領の側近中の側近であるヤン大統領秘書室長(クォン・ビョンギル)とチャ大統領警護室長(チョン・ウォンジュン)の二人。彼らはヘリの機内でそれぞれ大統領へのオベンチャラを競っていた。実は側近にはもう一人、例のチュ課長の上司たるキム中央情報部長(ペク・ユンシク)もいるのだが、彼はなぜかヘリの乗員からはじき出された様子。そのキムKCIA部長はどこにいるかと言えば、ちょうど医者による診察中だ。彼は最近、大統領に急接近するチャ大統領警護室長にすっかり「押され気味」。大統領への忠誠心では負けないつもりだったキム部長は、そんな心労が祟ったのか肝臓を患っていた。さて、官邸に戻った大統領は、今夜「例の宴会」をやろうと思いつく。「例の宴会」とは大統領が気を許せる側近と、キレイどころを何人か揃えて開かれる飲み会のこと。仕切りはKCIAの管轄で、そのための専用宴会場も準備されていた。そんな「宴会」は最近やけに頻繁に行われるので、振り回されるKCIA側は正直ウンザリ。だがキム部長としては、今夜は何やら胸に期するものがあるようだ。キム部長は早速、「宴会」手配のために腹心のチュ課長とミン大佐(キム・ウンス)に連絡をとる。さて恩義ある上司キム部長からの命令とあれば仕方がないものの、いいかげんこんな仕事にはイヤ気が差していたチュ課長は、いつものようにチューインガムをクチャクチャやりながら思い切りやる気がない素振りで「キレイどころ」を調達。一人は人気歌手のシム(キム・ユナ)で、もう一人は奔放な女子大生のチョ(チョ・ウンジ)だ。さらにキム部長は、なぜか大統領には無断で軍の参謀総長もこの宴会場に呼ぶ。果たしてキム部長の意図はどこにあるのか? こうして錚々たるメンバーが、問題の宴会場に集結する。宴会場には一切を取り仕切る執事が待ち構えていて、そこに大統領と側近一同、「キレイどころ」にKCIAスタッフと警護室メンバーが集まった。さらに大統領たちは知らなかったものの、キム部長が単独で呼んだ軍参謀総長も到着。参謀総長は別室で特別料理に舌鼓を打つことになった。こうして宴会が始まったが、まずは大統領から米国のカーター大統領への恨み節がこぼれる。「何かと言えば民主化民主化…ピーナツ農家出の田舎者に何が分かる!」…そんなこんなの話題の中で、チャ大統領警護室長はすかさずキムKCIA部長をコキ下ろすチャンスを逃さない。そんなチャ大統領警護室長の罵倒にまんまと煽られ、大統領も一緒になってキム部長を叱責する。「不平分子など恐怖で抑えつけるのが情報部じゃないか!」…すっかり面目をつぶされたキム部長は頭を冷やすために別室へと消えるが、そこで拳銃を取り出すと絞り出すような声で日本語の叫びを上げる。「コロシテヤル!」…何とキム部長は、ここで一丁積年の恨みを晴らそうと考えていたのだった。やがて女たちを連れてチュ課長がやって来る。そんなチュ課長を傲慢にも罵倒し、かつ辱めを与えるかのように痛めつけるチャ大統領警護室長。ジッと耐えるチュ課長の腹の中にも、いつもに増してドス黒い炎が燃えさかるのだった。そんな人々の思いをよそに、宴会場の広間でシムの歌う日本の演歌に聴き惚れている大統領たち。ひそかに宴会場の片隅にチュ課長とミン大佐を呼びつけたキム部長は、二人に驚愕の計画を持ち出すのだった。「今夜やる。チャの野郎を殺す」「本当にやるんですか? オヤジは?」…彼らの言う「オヤジ」とは大統領のこと。だがこうなったら、大統領も仕留めなければ収まりがつかない。「オレの銃声を合図に他の連中の始末をつけろ。民主化のために立ち上がれ!」…と、何となくいつの間にか私恨が「民主化運動」の一環みたいにすり替えられてしまったが、とにかくキム部長は「本気」だった。事をすべて終えた後でうまいこと参謀総長と行動を共にしていれば、軍もこちらの味方についてくれるだろう。ならばクーデターは成功だ。そんな突然の持ちかけに愕然とはしたものの、腹心としてキム部長の命を全うしようと決意するチュ課長とミン大佐。特にチュ課長はそれまでの鬱屈した思いもあったので、「クーデター、結構じゃないか」という気持ちもあっただろう。だがそんな彼の悩みは、彼が抑えることになった警護室メンバー二人のこと。その一方である警護主任のシンは、チュ課長の長年の親友だったのだ。彼は何とか親友を殺さずに済まないかと、暗澹たる表情で「決行」を待つ。一方ミン大佐はと言えば、全くモチベーションが上がらない部下たちをこの計画に参加させるので必死。キム部長の方は用意万端整ったと判断し、意を決して拳銃片手に大広間に乗り込んだ…。

みたあと

 実は僕は「大統領の理髪師」を見た後で、パク・チョンヒ暗殺の真相も見たかった…と内心思っていた。だから、それを映画でちゃんと真正面から見れることにまずは満足。大統領周辺の警備のものものしさやら宴会場の豪華さなど、ちゃんと分厚いゴージャスな感じが画面に現れていることにも満足だ。大統領をあまり似ていると思えないオッチャン風の俳優…「殺人の追憶」(2003)の田舎の捜査課長を演じていたソン・ジェホを起用したのは、この場合はキャラクターとして威厳よりも親しみやすさをとったと考えるべきだろう。それによって、「暗殺されて当然の悪人」には見せないという作り手の方針も伺える。近視眼的な単純さで独裁者を断罪するために卑小な表現をしたらブチ壊しだが、そういう厚みのある描き方なら歓迎だ。実は映画館に来るまで知らなかったのだが、この作品の監督は「ディナーの後に」(1998)、「浮気な家族」(2003)のイム・サンスと聞いて二度ビックリ。こんな政治サスペンスを撮るとは意外も意外だが、よくよく考えてみればこの人ほどこんな題材に適任者はいないかも…と考え直した。「ディナーの後に」も「浮気な家族」も、セックスの扱いを含めてスキャンダラスで大胆な題材・演出を全く恐れていない。そういう映画作家でなければ、禁じられた題材=大統領暗殺の真相など扱えるわけもないだろう。僕は「浮気な家族」はイマイチだったが、「ディナーの後に」はキライじゃない。その理由についてはそれぞれの感想を読んでいただきたいが、この監督がつくる映画なら大いに関心がある。「韓国本国でカットされた場面も復元した世界初無修正版公開!」なんて売り文句にはあまり心も動かないが、韓国映画に関心を持ってきた僕としては、この映画は見なくちゃならない映画だったわけだ。

みどころ

 先に挙げた「大統領の理髪師」でもチラリと描かれていたが、ここでも中央情報部長と大統領警護室長の対立が生々しく描かれていたのは興味深かった。国を完全に掌握しきっていた独裁者が、こんなほとんど「私恨」のようなちっぽけな事で暗殺されてしまったのも驚いたが、それからの現場の右往左往ぶりにもビックリ。劇中で主要人物たちがやたらと日本語を使い、大統領が歌手に「北の宿から」など演歌を歌わせるあたえいも興味津々。どこまで「真実」かは別にして、事件の渦中に僕らを立ち会わせてくれる面白さは、まさに映画ならではのものだろう。権謀術数を巡らし思惑入り乱れる男たちの世界を、その権力構造の分厚さまで感じさせて描き出す映画というのは、やっぱり見ていてワクワクするもの。イム・サンス監督自らパンフの中で言っている「ゴッドファーザー」(1972)みたいにやってみた…という言葉は、ちょっとヴァイオレンス味が入っているところからも言い得て妙かも。あるいは、先日公開されたジョニー・トーの「エレクション」(2005)あたりからスタイリッシュな部分を抜いた感じ(笑)とでも言おうか。いわゆる「男騒ぎ」の映画になっているのである。しかも皮肉なユーモアもある。大統領の全裸の遺体を前にした軍の上層部の人物が、思わずその股間を自分の帽子で隠すくだりなど傑作だ。そんな中で、あのハン・ソッキュは「スカーレット・レター」に引き続きワルの雰囲気を持った男を演じているが、これが最近の彼のテーマなのだろうか? 「スカーレット・レター」の時にはちょっと柄に合ってない感じがしたが、今回は無理もなく好演と言っていいかもしれない。

こうすれば

 ただしこれが真実だとすると、大統領暗殺という一大事があまりにズサンに始まり、あまりにズサンに進められてしまったことに愕然としてしまう。映画を見る限りでは首謀者たる中央情報部長はその場の勢いで事を始めてしまい、その後にどう展開しようとしていたのか全く見通しがなかったように思える。劇中で参謀総長さえ押さえりゃ何とかなる…的な発言はしているが、本当のところ参謀総長を押さえるための方策はほとんど取っていない。少なくとも、取っているようには描かれていない。あまりに無為無策で唖然呆然としてしまう。ところが困った事に…そのズサンさが首謀者たちのズサンさなのか、それとも映画の作者たちの語り口のズサンさなのか、いささか判別し難く思えてしまう。むろん実話だから首謀者のズサンさに間違いないのだが、今何がどうなっているのか?…がスッキリ描かれていないので、観客にはそのあたりが判断できない。彼らのズサンさを描くならそれを意識的に批評する語り方が必要だったのに、そういう事は何もやっていない。ただ彼らがオロオロする姿を描くだけで、なぜそうなったのか、そもそも彼らはどうするつもりだったのか、どうするつもりも計画もなかったのか…さえ分からない。ズサンなのは分かるが、どこがズサンなのかもハッキリしないのだ。正直言ってこれでは焦点がボケまくりだろう。だからこの映画は、一体何を描きたかったのかが分からない。パク・チョンヒ暗殺を再現するのはいい。再現してどうしたかったのか…が分からないのだ。結局見ていて、最後に「だから何なのだ?」が残ってしまうのが残念だ。

さいごのひとこと

 こんな計画で暗殺されちゃ浮かばれない。

 

「呉清源/極みの棋譜」

 呉清源 (The Go Master)

Date:2007 / 12 / 31

みるまえ

 ティエン・チュアンチュアン監督の新作が、戦前・戦中・戦後にかけて日本で活躍した中国人の囲碁の名人の話と知って、興味を持たない人はいないだろう。ティエン・チュアンチュアン監督その人はチャン・イーモウやチェン・カイコーなどの「巨匠」連中ほどの知名度を持たないが、中国ニューウェーブが騒がれ始めた頃、同じように名前が出てきた人。だが前述の二人と比べて決定的なヒット作がないところに来て、かつて不幸なアクシデントに見舞われたことも仇となった。東京国際映画祭に出品されグランプリを受賞した「青い凧」(1993)が、文革当時の中国共産党の腐敗を描いていたため当局に睨まれ、以来ずっと不運な境遇を強いられていたのだ。そこらへんが北京オリンピックの開会式総監督に就任して、すっかりお上に気に入られた御用監督風情のチャン某とか某イーモウとは違うところだが(笑)、残念ながらこの人の復帰作「春の惑い」(2002)は今ひとつ気が乗らず見逃してしまった。だが今回は、何と日本のお話。それも…戦前の微妙な時代の日本というのは、実は今の僕にとって最大の関心事なのだ。囲碁については全くの無知ゆえになかなか踏ん切りがつかなかったものの、公開後かなり経ってから何とか劇場に駆けつけた次第。

ないよう

 今も90歳を超えた高齢ながら、元気に存命中の呉清源。果たして、彼の波乱の半生とは…? 1914(大正3)年に中国に生まれた呉清源は幼い頃から囲碁を学び、たちまち「天才」と呼ばれるに至る。そんな彼の存在を知った日本囲碁の重鎮・瀬越憲作(柄本明)は、呉清源を当時囲碁のレベルが中国より高かった日本に呼び寄せようとする。こうして1928(昭和3)年に、 呉清源(チャン・チェン)は母(シルビア・チャン)らと共に日本へと渡った。案の定、呉清源はたちまち日本の囲碁界で頭角を現し、最高段位の本因坊秀哉名人に挑戦するまでになる。新聞はこれを「日中対決」と書き立てて煽り、折からの日中の不穏な情勢もあって呉清源の立場は微妙なものとなる。女流棋士の大御所・喜多文子(松坂慶子)はそんな新聞のやり方に苦言を呈したりもしたのだが、当の呉清源は周囲の状況に至って無関心なように見えた。そんなこんなで、呉清源を物心両面から支えた大物・西園寺公毅(米倉斉加年)は、彼に日本に帰化するように持ちかける。しかしそんな西園寺は、1935(昭和10)年に突然この世を去った。いきなり精神的支柱を失い、動転して号泣する呉清源。さらに追い打ちをかけるように、結核の病魔が彼を襲う。富士見療養所で闘病中の呉清源の元へは、喜多文子や川端康成(野村宏信)らが見舞いに訪れた。だがある日、興奮して歌い踊る人々の輪に飛び込んで浮かれているうちに、日本が自分の母国・中国を蹂躙している事実に改めて思い至る呉清源。時はまさに日中戦争が火蓋を切った時代であった。病癒えた呉清源は、再び囲碁の世界で圧倒的強さを見せる。いまや呉清源と彼の盟友にしてライバルの木谷実(仁科貴)は、日本囲碁界の頂点に立っていた。二人の対決による「打ち込み十番碁」が企画されるが、日中情勢の悪化から呉清源の家には脅迫文が送られるようになる。これには呉清源の母や妹も、居たたまれないモノを感じずにはいられない。そんな折り、宗教に傾倒し始めた呉清源は、同じ道場に通う中原和子(伊藤歩)を紹介される。二人は徐々に親しさを増していくが、戦時色が濃くなる一方の日本には、もはや呉清源の母と妹の居場所はなかった。家族が帰国したった一人日本に残った呉清源は、和子と結婚式を挙げるのだった。やがて兵役検査を受けるが、かつての肺病のおかげで徴兵を免れる呉清源。戦争はますます激しさを増し、瀬越たちも疎開を決めるが、呉清源は東京を離れない。それどころか呉清源は囲碁を捨てると言い放ち、瀬越の怒りを買う呉清源。しかし、もはや呉清源の関心は、妻と共に信心する新興宗教にしかなかった…。

みたあと

 正直に白状すると、この映画を見た時には体調も悪く、正直言って前半部分あたりでは眠くて眠くて仕方がなかった。何しろこの映画は、極端に説明的描写がない。だから今何が呉清源の身に起きているのか、画面だけ見ていたら決して分かりやすいとは言えない。さらに呉清源という人物そのものが、寡黙で静的で表情も乏しいキャラクターなので、ますます展開が分かりにくくなっていく。じ〜っと黙っていてつっ立っているような場面の連続で、ほとんど怒りや悲しみを見せない。やっている事がそもそも囲碁だから、これまたじ〜っと黙って考え込む描写ばかり。突然キレて暴れる場面があっても、それがなぜだか分からなくてキョトンとしてしまったりする。キレた理由は彼を支えて来た有力な恩人が死んだからだ…などということも、僕は後でよくよく考えてやっと分かったと告白しなくてはいけない。勘のいい観客なら察したのかもしれないが、僕にはそれがあまりに唐突なので何だか分からなかったりしたのだ。そんなこともあって前半は睡魔に苦しめられたものの、呉清源が結核の療養に行かされた直後あたりからグイグイと引き込まれた。言うまでもなく、戦争が泥沼化して呉清源の人生が混迷の度を増していくからだ。寡黙で静的な男の生涯にも、外的要因でドラマティックな波乱が起き始めるからである。

こうすれば

 先に述べたように、この作品は説明が極端に少ない映画だ。劇中に字幕で呉清源の人生についての説明が語られているが、それがあっても話の展開が分かりにくいほどの説明の少なさ。だからウカウカしていると、呉清源と彼の妻になる中原和子が通っているのが新興宗教の道場だ…なんて事が分からなかったりする。実際のところ、字幕で説明されているような呉清源の生涯に関する情報は、元々のフィルムに含まれているモノなのだろうか? 「日本語の字幕」という形で入っているということは、ひょっとしてあれは日本版のみに入っている要素でしかなく、中国本国でのオリジナル版はそれすらも入っていないのだろうか? それで日本の昭和という特異な時代(例えばみんながカーキ色の国民服を着て窓ガラスには空襲に備えてテープが貼られるという描写だけ見ても、我々日本人は太平洋戦争の敗色が濃くなった時期を自動的に連想するが、他国の人々にはそれだけでは何が何やら分かるまい)…しかも囲碁という特殊な世界での物語が、本国である中国の観客に伝わるとは思えない。あの「字幕」は一応、自国を舞台にした物語なのでそういう情報を知りたがるであろう…あるいは呉清源という人物について多少は知っているであろう、日本の観客に向けてのサービスに過ぎないのではないか。だとしたら作り手のティエン・チュアンチュアンは、もはや呉清源の生涯に関する詳細部分を観客に知らせようという意図はないと思わざるを得ない。

みどころ

 だが、呉清源という人物についての情報が説明されていないからといって、「映画」として分からないか…と言えば、それは全く違う話だ。睡魔に襲われたのは事実で、それが体調の悪さのせいばかりでないことを考慮に入れても、見終わった今となれば僕はこの映画をつまらないとは思わなかった。矛盾するようだが、それは事実だ。大体、呉清源という人物を見つめていくために、「1936(昭和11)年、孤独から新興宗教に入信」などという正確な「情報」が必要かと言えば、必ずしもそうではないだろう。何となく追いつめられた彼というモノが表現できていれば、それで足りているのではないか。その意味では、この映画では徹底的ミニマライズ=最小化・極小化が描写として試みられていると言える。そして見ているうちに…そんな作り手の姿勢や語り口こそが、呉清源その人のスタンスであり、かつ「囲碁」というものの本質のように思えてくるのだ。一貫して無用な贅肉や雑音が退けられた、黒と白との一種デジタルな世界。正直に言うと、僕もそんなシェイプアップされたこの映画の語り口に魅せられた。もっとも、時代色の再現にCGを使おうという発想もティエン・チュアンチュアンには当初からなさそうだし、かつCGを制作するにもセットを建設するにも予算が足りなかったはずだ。そんな中で「昭和」を忠実に再現しようとすれば、どうしたってミニマライズされた世界を構築せざるを得ないのも事実。だからそんな徹底的にダイエットされた極小化表現は、ほとんど全編を昭和の日本を舞台に描かざるを得ないこの作品では、選択されたものと言うより必然だったと言える。だが、それにしたって…この映画の切りつめられた表現の見事さには驚かされる。寡黙を徹底的に押し通したチャン・チェンの演技も見事だ。妻と共に焼け跡になった自宅に戻った呉清源が、妻が一生懸命倒れた戸棚を起こそうとしているのに何も手助けせずボ〜ッと試作に耽っている様子など、もはやナンセンス・ギャグの域にまで達してしまっている(笑)。俗事に疎いというより、むしろ一切の雑事に関わりたくないという姿勢の一貫さには呆れつつも感心させられてしまうが、そんな彼でも心の安定を保つのは並大抵ではなかった…としているところがこの作品のミソだろう。そこに作り手たるティエン・チュアンチュアンの意図があったかどうかは分からないが、僕には20世紀前半という過酷な時代と、そんな中でも心の平安を保とうとした主人公の生涯には大いに惹きつけられた。個人的にも戦前の日本という時代に強い関心を持っている僕は、その点からも興味深く見ることができた。そして決して潤沢な資金があったわけでもないのに、これだけ見事に当時の時代色を表現したこと…それを外国の映画人が描ききったことにすっかり感心した。日本側のキャスティングもなかなか豪華で見応えがあるが、中でも驚いたのは川端康成役の野村宏伸。「いかにも」の感じをうまく出していて、すっかり見直してしまった。

さいごのひとこと

 オセロゲームではありません。

 

「ナンバー23」

 The Number 23

Date:2007 / 12 / 17

みるまえ

 実のところ、かつてはジム・キャリーは苦手役者の一人で、そのアクに辟易してロクに出演作を見ていなかった。しかし「ブルース・オールマイティ」(2004)あたりでアレルギーがなくなり、次の「エターナル・サンシャイン」(2004)では完全にノックアウト。そんな彼の新作がスリラーだとチラシで知って、実は心秘かに楽しみにしていたのだ。そして予告編でもチラチラ出てきた、「ナンバー23」にまつわるアレコレ。やれ「ジュリアス・シーザーは暗殺の時に23回刺された」だの、「天地創造は紀元前4004年10月23日」だの、「テンプル騎士団の歴代総長は23人」だの、「血液が人間の体全体をめぐるのに必要な時間は23秒」だの、「ヒトの生殖細胞に含まれる染色体は23本」だの、 「古代マヤ人が信じた世界の終末は2012年12月23日」だの…というハッタリ感溢れる「23づくし」の数々を見ていたら、こいつは面白そうだとワクワクしてきた。こりゃあひょっとして…こぢんまりしたお話がいつの間にか人類の歴史レベルの大風呂敷になっているという、クリスティーナ・リッチ主演の「ギャザリング」(2002)以来の拾いモノじゃないのか。さてはジム・キャリーが人類の滅亡回避のために戦う、“裏”「ブルース・オールマイティ」みたいな話なのではないかと期待は膨らむ。監督はジョエル・シューマカー。この人何でも屋って感じでいろいろなスタイルの作品を手がけてはいるが、その出来栄えも玉石混交。「セント・エルモス・ファイアー」(1985)や「依頼人」(1994)、「フォーン・ブース」(2002)のような佳作がある一方で「バットマン・フォーエヴァー」(1995)、「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」(1997)などの愚作も連発。ハッキリ言って掴み所のない監督だ。それでもスリラーなら、ソコソコ見せるのではないか。そんな事を思って劇場に駆けつけたが、まさにスクリーンと対峙しようとしていたその時、不意にシューマカーのある作品が思い出されて来るではないか。そうだ、シューマカーでサスペンスと言えば、何ともどんよりと後味の悪い「8mm」(1999)って映画があったではないか…。

ないよう

 それは運命の2月3日に始まった。その日は動物管理局職員ウォルター・スパロウ(ジム・キャリー)の誕生日。仕事を終えて帰宅しようとしたその時にいきなり仕事を入れられ、大いにボヤきながら現場に駆けつける。それは野良犬の捕獲の仕事だ。やっとの事で捕らえたその犬は、首輪から「ネッド」という名前と分かった。ところが、いきなりウォルターの腕に噛みついて逃げ出す始末。慌ててウォルターが追いかけると、犬は墓場でピタリと止まった。そして、ある墓石の前で姿を消した。その墓碑銘は「ローラ・トーリンズ」。それが後に大きな意味を持つとは、まだこの時点のウォルターは気づいていない。さて、一方ウォルターの妻アガサ(ヴァージニア・マドセン)は、夫との待ち合わせ場所で時間をつぶしていた。そこに古本屋があったのも、これはこれで一つの運命か。彼女はそこでたまたま一冊の本を見つけ、ウォルターへのプレゼントとして購入した。その本のタイトルを「ナンバー23」という「妄想小説」だ。最初は読みたくもなかったこの本だが、ひょんな事からページをめくり始めたウォルターは、その内容にギョッとする。小説の主人公フィンガリングの生い立ちが、あまりに自分と似ていたからだ。そんなウォルターの話を全く相手にしないアガサだったが、ウォルターはこの小説にすっかり夢中になるばかり。さらにのめり込んで本にかじりつくようになった。本の中では、大人になった主人公フィンガリング(ジム・キャリー二役)は、やさぐれた私立探偵になっていた。恋人ファブリツィア(ヴァージニア・マドセン二役)は色っぽい女。そんなフィンガリングは自殺願望の女を止める仕事をもらって、そのブロンド美人(リン・コリンズ)のアパートに出向く。死のうとしているブロンド美女を説得するため、とりあえず彼女の話を聞くフィンガリングであったが、この女は「23」という数字に取り憑かれている女だった。彼女いわく父親が「23」という数字に取り憑かれて自殺、今度は自分にその呪いが乗り移った…とのこと。何でもかんでも目に付くモノ思いつくモノが「23」という数字に関連している…と思い込んでいる彼女。それでも何とか説得して死ぬだけは思いとどまらせたと思いきや、フィンガリングが彼女のアパートを出たとたん、上の階から彼女がいきなり降ってくるではないか。やっぱり彼女は「23」の呪い…と自分で思い込んでいるモノ…から逃れられなかったのか。ところがこの事件以来、今度は「23」の呪いはフィンガリングに取り憑いてしまう。何でもかんでも「23」だ…と思い詰め始めたフィンガリングは徐々に精神に異常を来たし、恋人ファブリツィアはそんな彼についていけなくなっていく…。そんな物語を読みふけるウォルターもまた、いつの間にか「23」という数字の虜になっていた。「あれ」も「これ」も、「それ」も全部みんなよくよく考えてみたら「23」に関連している…ほとんどこじつけみたいな考えにのめり込んだウォルターを心配したアガサは、それを単なる思いこみだと片づける。しかしウォルターの「23」熱は一向に収まらない。それどころか、ますます本の主人公フィンガリングと自分を同一視していくのだった。やがて本の中では恋人ファブリツィアがフィンガリングに愛想を尽かして浮気。それに気づいたフィンガリングは、彼女を殺してしまうのだった。事ここに及んで、フィンガリングとの同一化が極まって来たウォルターは、自分が妻アガサを手にかけるのではないか…という恐怖に取り憑かれる。追いつめられたウォルターは、アガサを置いて家を出るが…。

みたあと

 先にも述べたように、僕はこの映画の「23」にまつわるハッタリが、壮大なスケールで展開していくものと思っていた。一人の平凡な男がたまたま古本屋で見つけた一冊の小説から、人類史を揺るがす驚愕の事実が明らかに…な〜んて話を期待しちゃったのだ。冒頭で例に挙げた「ギャザリング」って作品がまさにそんな作品で、大した事ないショボい話だと思っていたら、人類の歴史に関わるすごいスケールのお話に発展。そのハッタリ感と想定外の話の膨れあがり方に、すっかり嬉しくなった記憶がある。今回も映画のオープニング・タイトルでそんな「23」のアレコレをチャカチャカ見せてくれるので、こりゃあ「23」にまつわる人類誕生の秘密とか、あるいは人類滅亡の兆しとか…そんな大上段から振りかぶった大風呂敷な話を見せてくれるものと大期待。何しろ「ジュリアス・シーザー」だの「天地創造」だの「テンプル騎士団」だの…って大げさぶりが尋常ではない。そして本の物語に取り憑かれた主人公ウォルターも、早速この「23」の法則に取り憑かれる。すごいハイテンションぶりで「この世の中のモノは、何でもかんでも23の法則で成り立っている!」とまくし立てる。おお〜、いよいよ「23」のナゾ解きが始まったゾ。なになに?…「とにかく何でもかんでも23なんだ、例えばアレとコレとを足したら23になる」…はぁ? なんじゃこりゃ? 「タイタニック号の沈没は1912年4月15日で1+9+1+2+4+1+5=23」だの、「ヒトラー自殺は1945年4月で1+9+4+5+4=23」だの、「原爆が落とされたのは8時15分で8+15=23」だの…シーザーの刺された回数が23回…とかなら納得できるけど、この「アレ」と「コレ」の数字を足したら「23」とかってのは、果たして「法則」と言えるのか。ヒトラー自殺の場合、日にちは関係ないの(笑)? 例えば僕の生年月日の数字を前述の「タイタニック沈没」みたいに全部バラして足してみたら、何と合計が「24」ではないか。これからわずか「1」を引いたら「23」だ(笑)! これは偶然とは思えない(笑)!…って、もう何を言ってるんだか。ここでジム・キャリー扮する主人公が言ってるのは、そうしたバカげたこじつけにしか思えないのだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 そんな無理のある「法則」に取り憑かれていく主人公も主人公だが、それでも「ギャザリング」みたいに人類史規模で展開する秘密や陰謀やらが出てくるなら、いくらボロボロなツジツマ合わせでも僕は満足しただろう。少なくとも笑って水に流したはずだ(笑)。そして無理矢理にでも壮大な話に持っていこうとした作り手に、感謝や感動を覚えたかもしれない(笑)。ところがここでは、話の展開が僕の期待の真逆を行く。あくまで「23」の秘密を暴く方向ではなく、「23に取り憑かれた男」の秘密を暴く方向へと矮小化していくのだ。当然お話の規模も大幅に期待よりスケールダウン。「23」の数字を汚い安ホテルの一室に籠もって壁に書き殴る主人公…な〜んて絵柄は以前も似たようなイメージを何度か他の作品で見てきたが、お話はこの主人公のショボい個人史から一歩も出ていかない。そして導き出される結論は…オー・ノー! 思いっ切り無理のある驚愕と悲劇のドンデン返し…ってあたり、その何とも後味の悪すぎる「真相」も含めて、何だか「4人の食卓」(2003)や「箪笥」(2003)…あたりの「韓流」ホラー、「韓流」スリラーを彷彿とさせないだろうか。今ではすっかり下火になった「韓流」映画ではあるが、一時期日本の市場に氾濫したその手の映画群といえば、ホラーやスリラー・ジャンルの作品のみならずどれもこれも…何しろプラトニックな悲恋映画「永遠の片想い」(2003)ですらラストに「驚愕のエンディング」が待っているというあざとさ(笑)。さすがにあれほどどれもこれも「驚愕のエンディング」で、それのほとんどが後味が悪〜い幕切れとなれば、いささか鼻につかない方がおかしい。で、そんな「韓流」映画の潮が思いっ切り退いてしまった昨今、ウンザリするほど繰り返された「驚愕のエンディング」のリフレインを僕らがすっかり忘れ去った頃になって、唐突にあの後味の悪さを思い出させてくれる一作(笑)…それがこの「ナンバー23」とでも言うべきだろうか。ここまで一連の「韓流」映画をコキ下ろすのは、韓国映画をこよなく愛していた僕としては心苦しい点も少なくないのだが…そしてジム・キャリー主演作の感想文なのに何で韓国映画の話をしているのかよく分からないのだが(笑)…それはともかく、何となくそんな事を思い出させるムードがこの映画には濃厚なのだ。ラストにはとってつけたように、自殺を思いとどまった主人公に希望を託し、「運命は自分で選択できる」的メッセージを打ち出してはいるが、このネタでそんな事を言われたってシラジラしいだけだろう。やっぱりジョエル・シューマカー作品としては「8mm」並みの救いのなさ、後味の悪さに変わりはない。そもそもジム・キャリー演じる主人公からして、「23」に取り憑かれておかしくなる以前から、友だち一人もいない社交性ゼロの男っていう時点で、全然見ていて好きになれないし共感できないキャラクターなのだ。これじゃこいつが狂おうが破滅しようが、どうなったっていいって事にはならないだろうか。それによくよく考えてみると、ウォルターの妻がたまたま古本屋で例の本を購入する…とか、犬がウォルターを墓地まで引っ張っていく…とか、こうした部分は「偶然」なのか、それとも「必然」なのか。これって、この映画が「ホラー」なのか「サスペンス」なのか、「リアル」な物語なのか「超自然的」物語なのか…という、ジャンルの根幹にも関わる大事な部分ではないか。それがその都度、作り手の都合でいいかげんに設定されているから、映画としてもだらしない出来栄えになったのではないか。それもこれも、ガタガタの脚本のせいとしか言いようがない気がする。

みどころ

 そんなわけでいいとこナシの映画みたいな言い方をしてしまったが、キャリーの妻を演じるヴァージニア・マドセンだけは、「サイドウェイ」(2004)での好演を彷彿とさせる暖かみのある女性像を演じていて好感が持てる。だがそれだけに、なおさらこんな魅力的な女性が友だちもいないジム・キャリーの妻になっていて、しかも彼を救おうと奮闘する…というシチュエーションが納得できないのだ。

さいごのひとこと

 「8」とか「23」とかシューマカー作品で数字題名はヤバイ。

 

「ボーン・アルティメイタム」

 The Bourne Ultimatum

Date:2007 / 12 / 10

みるまえ

 マット・デイモンがスパイ・アクションに出るということで、ちょっと注目していた「ボーン・アイデンティティー」(2002)。しかし今だから白状すれば、僕の最大の関心は「ラン・ローラ・ラン」(1998)のフランカ・ポテンテ初のハリウッド出演という一点に絞られていた。実物に接してみたら、CGを多用する昨今の空疎なハリウッド映画とは一線を画して、きっちりアクションを見せる作品になっていて好感が持てた。その硬質な感触に「やるじゃないか」と感心した覚えがある。ところがこの作品に続編ができるとは…正直言って僕も驚いた。その作品「ボーン・スプレマシー」(2004)に接したら、さらに二度ビックリ。僕がこの作品に寄せていた最大の関心事…フランカ・ポテンテが開巻まもなく死んじゃうではないか。あちゃ〜…どうなっちゃうの? ところが作品は1作目とは明らかに変質を遂げていて、とにかく臨場感たっぷりの猛烈アクションの連打。何しろ手持ちカメラがブレることブレること。往年の深作欣二も真っ青。後半部分のカーアクションなどは乗り物酔いしそうなほど。歳をとって動体視力の弱ってきた僕には、少々キツかったのが正直なところだ。ただし、主人公が「殺さない」と誓うあたり、そして自らの犯した罪の「贖罪の旅」に出るあたりが、この映画を単なる娯楽アクション映画「以上」のモノにしていた。そんなマット・デイモンの「ボーン」シリーズが帰ってきた。しかも今回は三部作完結編。監督は「スプレマシー」で僕らを目まいさせたポール・グリーングラスだ。やっぱり気になるではないか。

ないよう

 ロシア・モスクワでの大立ち回りの後、負傷して警官隊に追われていたジェイソン・ボーン(マット・デイモン)。潜入した病院で一人キズの手当てをしながら、脳裏に浮かんで来たのは…ある施設での記憶。そこにやって来たジェイソンは、二人のエラそうな男たちによって拷問まがいの目に遭い、究極の暗殺マシーンに仕立てられたのだ。黒幕はこいつらだったのか…自分をこんな目に遭わせた奴らを探すジェイソンの旅は、いよいよ終点に近づいていた。さてその頃イタリアのミラノでは、イギリスの新聞「ガーディアン」の記者ロス(パディ・コンシダイン)がある人物と接触し、ジェイソン・ボーンと彼が関わっている「トレッドストーン作戦」、さらにその発展型である「ブラックライアー作戦」について取材していた。だが、そこはそれ天下のCIA。全世界に張り巡らされた盗聴システムによって、それはニューヨークCIA支局のヴォーゼン(デビッド・ストラザーン)の知るところとなる。ボーンも「トレッドストーン作戦」も「ブラックライアー作戦」も、当然のことながら世間に知られてはマズイ話。CIA本部のクレイマー長官(スコット・グレン)と連絡を取り合ったヴォーゼンは、ロス記者の身柄を拘束しようと乗り出す。同じ頃、ボーンはパリにいた。死んだマリーの兄(ダニエル・ブリュール)に彼女の死を知らせたボーンは、そこでガーディアン紙上の問題の記事を発見。この記者が何か秘密を知っているはず…と、ロンドンまで会いに行く決意をする。ボーンに呼び出され、ロンドンのウォータールー駅までやって来るロス。そんなロスの周囲には、CIAのスタッフが張り込んでいた。そんな状況を一瞬のうちに察知するボーン。彼は次々と敵の目をくらまし、ロスを安全な場所へと誘導する。それをニューヨークから指示を出しながら見ていたヴォーゼンは、突然のボーンその人の出現に唖然。ためらいなく暗殺者の投入を決意する。こうしてすったもんだのあげく、暗殺者の銃弾に倒れるロス。しかしボーンはまたしても人混みに紛れて消えた。さて、事態が一筋縄ではなくなったと感じたヴォーゼンは、かつてヨーロッパでボーンの捜査に携わったパメラ(ジョアン・アレン)をチームに招聘する。スゴ腕の彼女は、やって来るや否やいきなりスタッフに喝を入れた。「何を指示待ちしているの? あなた方が相手にしているのはタダモノではないわ、あのジェイソン・ボーンなのよ!」…一方、ボーンはロスの手帳から取材先を特定。どうやらCIAマドリード支局のダニエルズという男が情報源らしい。だが、ボーンがマドリード入りした時には、すでにダニエルズは高飛びした後。しかも同じくダニエルズを調べに来た、CIAの工作員と鉢合わせ。もちろんアッという間に敵を撃退したボーンだが、次の瞬間思いもかけぬ人物が現れたのにはビックリだ。「あ、あなたは!」…何とそれはかつてパメラの下でボーン捜索に携わっていたニッキー(ジュリア・スタイルズ)ではないか。彼女はその後このマドリードに配置換えになり、ダニエルズの下で働いていたのだ。行きがかり上、彼女と共にその場を逃れるボーン。二人はダニエルズが逃げた先、モロッコのタンジールへと飛んだ。その途中、ニッキーとの会話の中で知ったのは…かつてボーンと彼女がただならぬ関係にあったこと。ニッキーがついにCIAを裏切ってボーンの側についたのも、そんなかつての思い出ゆえなのか。しかしヴォーゼン率いるCIAは、タンジールに暗殺者を送り込んだ。それも最強の殺し屋であるデッシュ(ジョーイ・アンサー)。この男のおかげでダニエルズは爆殺。今やCIAの裏切り者であるニッキーも命を狙われ、デッシュに追いかけられる。慌ててニッキーを救うべく追いかけるボーン。そんな三つ巴の追いつ追われつは、タンジールの密集した住宅街の一角で決着がついた。その後、髪を染めショートにして変装したニッキーと別れを告げ、ボーンは一気に決着を付けるべくニューヨーク入りする。一方ニューヨークでは、ボーンの背後に何かの事情があるにも関わらず、自分の元部下であるニッキーまで巻き添えにして抹殺しようとするヴォーゼンに、パメラはどうしても納得できないものを感じていた。逆にヴォーゼンは、そんなパメラの身辺を見張るべく部下に命じる。それは、まさに図に当たった。CIAニューヨーク支局内のパメラの元に、こともあろうにボーンその人から電話がかかってきたのだ!

みたあと

 面白い。確かに面白い。マット・デイモンも最初はイモなアンチャンのイメージが強く、これで大丈夫なんだろうかと思わされたが、ある程度の年齢に達して安定感も出てきた。スターとしての華も出て来て、娯楽大作を背負って立つムードが自然とにじみ出てきたから不思議なものだ。今回、第2作「スプレマシー」のポール・グリーングラス監督が再登板しており、映画づくりのコンセプトもほぼ同じ。手持ちカメラを終始駆使して徹底的にドキュメンタリー手法で撮影している点で共通している。もっともこのグリーングラスという監督、途中に挟まった「9・11」映画「ユナイテッド93」(2006)でもこれを多用していたから、これがこの人の芸風ということなのだろう。とにかく画面が四六時中ブレまくって慌ただしいことおびただしいが、確かに息もつかせぬ緊迫感はみなぎっている。

こうすれば

 この激しい手ブレ演出…アクション場面を徹底的にリアルにスピーディーに表現しているという点ではすごいと思うが、先にも述べたように動体視力の衰えている僕にとってはますますキツさが増したのも事実。良いアクション映画の絶対条件である、全体の状況設定・主人公と敵対する者との位置関係・そこで起きている出来事のプロセス説明…がキチンと出来ているかという点でも、ちょっと疑問が残る。イマドキの観客はそのスピード感と臨場感で一気に乗せられてしまって「スゴイ!」ということになっちゃうのかもしれないが、それって娯楽アクション大作の緊迫感や爽快感とはちょっと違うモノなんじゃないだろうか。ただ、それにも理由があるという気はしていて…すでに一作目、二作目で、僕らはマット・デイモンのジェイソン・ボーンの知性・肉体両面の無敵ぶりを知っている。誰がどんな作戦を立ててもボーンは常にその上をいく策士で、なおかつ想定外の事態にも臨機応変に機転が利く男で、しかも身体能力も比類ないほどズバ抜けているから、どんな敵がかかって来ようが負けっこない。どんな危機からも脱出できる。それを2作にわたって見せられている僕らからすれば、ボーンの陥る危機やボーンが見せるアクションはもはや「安心して見ていられる」領域にまで達しているのだ。だが、サスペンス溢れるスパイ・アクション映画で、ボンド・シリーズみたいにヒーローの魅力で見せていく作品というわけでなければ、この「安定感」はマズイんじゃないだろうか。そうなると…「ボーンが無敵である」というシチュエーションは変えようがないので、とにかく躍動感溢れるカメラワークでボーンの危機突破の鮮やかさをスピーディーに目にも止まらぬ素早さで見せるしかない。そんな理由からの、あの手ぶれアクション演出では…と思ったりもしたのである。本当はボーンがやられちゃいそうなほどのヤバイ状況や最強の敵を用意するべきだと思うのだが、そうはいかなかったのだろうか? さらにこのシリーズは物語としても苦しい部分があって、実はジェイソン・ボーンのお話って基本的には「記憶喪失に遭った男がどうやら無類の暗殺技術を身につけたスパイだったらしく、その秘密を闇に葬りたい組織が次々に襲ってくるが、男は身に備わった能力で危機突破しながら“自分探し”をしていく」…ってお話でしかなくて、それは一作目も二作目もこの三作目も変わりはないのだ。もう分かっちゃってるし十分物語られちゃってるお話なのである。だから、よくよく考えてみると繰り返す意味があまりない。今回もラストにアルバート・フィニーなんて大物を持ってくるような悪の黒幕暴露の趣向はあるが、それだって…その黒幕がボーンの親しい人物、ボーンの味方の人物、あるいはボーンの予想もしなかった人物っていうなら改めて語る意味もあるのだが、それまで出てこなかった人物がいきなり出てきても観客としては「だから何なの?」って言うしかない。ショックも驚きもない。一応アルバート・フィニーという大物を出してきて意味ありげな雰囲気はつくっているが、別にビックリするような話ではないのだ。だから、よくよく考えるとお話が2つも続く必然性すら怪しくなってしまう。そんな作劇上のホコロビを観客に見ている間は感じさせない、考えさせないための、あのチャカチャカした慌ただしさなのか…と邪推したくなるところだ。

みどころ

 ただし作り手はそれを薄々気づいていて、傷口を見破られないための工夫をいろいろ行っているようだ。一例を挙げれば、ロンドンのウォータールー駅での見せ場。CIAの面々が追いかけているのはボーンではなく記者ロス(パディ・コンシダイン)の方。そんなロスを助けようとボーンが奔走するという「変化球」を使っていることにご注目いただきたい。ボーン単独ならCIAの雑魚など赤子の手をひねるようにとっ散らかせるだろうが、ど素人のロスをどうやって救うか(結局救いきれなかったが)が見どころとなるわけだ。もう一例を挙げれば、モロッコのタンジールでの活劇も同様。暗殺者は無敵のジェイソン・ボーンを…ではなく、彼の協力者となったニッキー(ジュリア・スタイルズ)を追いかけてくる。それに気づいたボーンが、ニッキーと暗殺者を追いかけるという設定だ。ボーン対暗殺者なら結果は見えているが、ボーンが追いつく前にニッキーが暗殺者にやられるかもしれない。こうしたアクロバティカルな設定の妙によって、今回の映画はサスペンスを補強しているのである。これは実に巧みな脚本だ。しかも,IT時代を反映してインターネットや通信網を駆使しての攻防戦を繰り広げる一方、前述のタンジール場面での狭い場所に建て込まれたアパートからアパートへ、窓から窓へと飛び移るような肉体的アクションも展開。ちゃんと「活劇」として見せてくれるあたりはさすがだ。この点については、本作を積極的に評価したい。ラスト、ボーンが撃ち殺されたと見せて…ニュースでその事を知ったニッキーが事情を察してニヤリ。すると水の中に落ちて動かなくなったと見えたボーンが、再び動き出す…というエンディングに、「やっぱりな」と思っていても嬉しくなった。爽快で気持ちがいい、カッコイイ幕切れである。この粋なエンディングだけでも見る価値はあるかも。なお余談だが、「グッバイ、レーニン!」(2003)、「ベルリン、僕らの革命」(2004)などのダニエル・ブリュールがマリーの兄として出てきたのにはビックリ!

さいごのひとこと

 アルバート・フィニーより老けてたスコット・グレン。

 

「モーテル」

 Vacancy

Date:2007 / 12 / 10

みるまえ

 この映画の存在は、公開直前に新聞に載った小さい広告で知った。「モーテル」…コピーは「宿泊料、イノチ」。もうこれだけで、どんな映画か分かったようなもの。大して見る気にもならず見過ごす寸前で、ふとこの映画のキャストに目をやると…主演はケイト・ベッキンセールにルーク・ウィルソン。別にベッキンセールのファンというわけでもないが、この顔ぶれでは凡百のチープな血みどろホラーという訳でもなさそうだ。よくとく目をとめてみると、田舎のモーテルという設定だって何となくイヤ〜な感じで面白くなりそう。それに、小品のホラー映画では時々「クライモリ」(2003)とか「レス」(2003)なんて拾いモノの佳作にブチ当たることもある。そんな訳で、すっかり気持ちは一変。ぜひ見たいって気分になってきた。ところがこの映画、僕のホームグラウンドの新宿ではやっていない。それでズルズルと見るのが遅くなっていたのだが…。

ないよう

 辺鄙な真夜中の山道を、一台のクルマが走っている。ハンドルを握っているのはデビッドという男(ルーク・ウィルソン)。ところが危うく路上のアライグマを轢きそうになって急ブレーキ。クルマは派手にスピンして何とか事なきを得た。これで助手席で眠っていた妻のエイミー(ケイト・ベッキンセール)が目を覚ます。「何で高速を降りたのよ」…彼女が目覚めるや否やイヤミを連発し始めたのは、寝起きの不機嫌さのせいでもなければ、危うく事故りそうになったせいでもないようだ。とにかくデビッドとエイミーの間には、何とも冷ややかなものが流れていた。そしてデビッドがひとたび「チャーリー」という名前を口にするや、エイミーの不機嫌さはさらに加熱するばかり。実はチャーリーとは二人の間に生まれた息子のこと。その息子の死が引き金となって、二人の関係は修復不可能なところまで来ていたのだった。そんな状況にウンザリしているデビッドに追い打ちをかけるように、クルマのエンジン音におかしなノイズが混じり出す。こんな人けもなければ店もなさそうな山道で、もしクルマがイカれたら…デビッドがそんなイヤな予感を抱き始めたちょうどその時、目の前に一軒のガソリンスタンドが見えてきた。もっけの幸いとクルマを停めるが、がらんとして誰も出てこない。すると…いきなり出てきた店員にホラー映画ばりに驚かされる二人ではあったが、この男(イーサン・エンブリー)がエンジンの調子まで見てくれたので、地獄に仏の気分になった。さて、気持ちを入れ替えて再出発。クルマは再び快調に走り出す…と思いきや、今度こそエンジンが本格的にイカれてきた。こうして真っ暗な路上でストップという最悪のパターン。そこにもう止まらないエイミーの恨み言が重なって、デビッドはもうボヤく気持ちもなくなった。ともかくここでジッとしていても仕方がない。携帯もつながらない山の中だ。ブツくさ文句を言いながら、ともかく二人は例のスタンドまで戻ることにした。だがスタンドには今度こそ人がいない。客もいないこんな夜だから、もうあの店員も帰ってしまったらしい。困り果てた二人が目を向けたのは、隣接している古ぼけたモーテルの建物だった。これがまた何とも人けのないシロモノ。しかもフロントには誰もいないだけでなく、どこからともなく女の悲鳴が聞こえて来るではないか。エイミーはイヤがって立ち去ろうとするが、そうなるとデビッドも意地になってフロントを呼び出す。中から出てきたのは、メガネの中年男メイソン(フランク・ホエーリー)。女の悲鳴は彼が見ていたホラー・ビデオによるものらしいと分かったが、事態はそれ以上好転しない。近くに修理屋はいないし、翌朝まで誰も電話には出ないという。困り切った二人の思いを見透かすように、メイソンは得意満面で言い放つ。「空き部屋ありまっせ!」…空き部屋ありますどころか、塞がっている部屋がない。これまたイヤがるエイミーを押し切り、渋々モーテルに部屋をとるデビッドであった。ところがこの部屋が、素晴らしいほど汚く古い部屋。ベッドは湿って汚れ放題。洗面所は汚水しか出てこないし、デカいゴキブリが這い回る。ますますイヤミの応酬をするしかないデビッドとエイミー。だが、そんな冷戦は長くは続かなかった。突然電話のベルが鳴ったのだ。ところが受話器を取っても誰も出ない。次に、バカでかい音のノックが鳴り響く。驚いてドアを開けるデビッドだが、外には誰もいない。ところがまたしてもデカいノックの音が繰り返される。どうも叩いているのはドアではなく、隣の部屋の壁らしい。そしてまたしても無言電話。さすがに肝を冷やしたデビッドとエイミーは、この状況に尋常ならざるものを感じずにはいられない。思い余ったデビッドはフロントへと駆け込んだ。「隣が壁を叩いてうるさくてかなわん。何とかしてくれ!」…そんなデビッドの剣幕にも、「おかしいな、今日はあんた方の他には客はいないんだが」とカエルのツラにションベンのメイソン。ともかく調べてみると言って、フロントに置いてある銃に手を伸ばす。言うだけ言って部屋に戻ったデビッドは、何とか気まずさを紛らわそうとテレビをつける。しかしどのチャンネルも受信不可。仕方なくその場に無造作に置かれた汚いビデオテープを、ビデオデッキの中に突っ込んだ。すると画面に映りだしたのは、いかにも…なホラー映画の一幕。どこかの部屋で、男女が覆面の一団に惨殺されている映像だ。「これならポルノの方がまだマシだ」…憮然とするデビッドではあったが、見ているうちに妙な事に気がついた。どのビデオテープも同じような殺戮場面だが、撮影場所がどうも同じようなのだ。しかも部屋のレイアウトは、どこかで見覚えのあるような気がする。「おい、こいつを見てくれ!」…気分が滅入りっぱなしで疲れ切ったエイミーは、最初はとてもデビッドの相手をする気分じゃなかった。ところが彼の口調にただならぬものを感じて、渋々画面を見つめていると…何と、ビデオ映像に収録された殺戮場所は、自分たちが今いるこのモーテルの部屋ではないか! 慌てて撮影アングルとおぼしき場所に目をやると、確かにそこには隠しカメラが仕込んであった。どうやらこのビデオはホラー映画なんかじゃない。ホンモノの殺人現場を撮影したもので…それは隠しカメラから、まさに「この部屋」で撮影されたようなのだ。ここに至ってデビッドもエイミーも、自分たちが置かれた状況を把握できた。「このままでは殺されてしまう」…。

みたあと

 単刀直入にズバリ言わせてもらう。恐い、スゴイ、面白い。これぞ映画だ。これだけで感想を終わらせてしまってもいいくらいだが、それじゃさすがに気が退ける。そうなると、ここから先は延々ホメ言葉を並べるしかないだろう。まずはオープニング・タイトル場面にご注目。凝ったクレジット文字のデザインで緊迫感溢れる音楽は、明らかに往年のヒッチコック・スリラー…分けても「モーテル映画」として不動の位置を占める「サイコ」(1960)を連想させようとするものだろう。「サイコ」では泊まった客ジェネット・リーはアッサリ殺されてしまうから、それを考えるとますます油断がならなくなる…という何ともシャレた導入部。実際の作品は「サイコ」だけでなく、僕が以前「フライト・プラン」の感想文で言及した、リチャード・マシスン脚本のテレビ・ムービー「恐怖のレストラン」(1973)などともどこか似ている。いやいや、「悪魔のいけにえ」(1974)と「悪魔の沼」(1976)のトビー・フーパー初期2作品に出てくる、アメリカの田舎の得体の知れなさをうまく活かした設定だ。ただし冒頭のヒッチコック風味のオープニング・タイトルは、作り手が「この映画は凡百のホラー映画とは違って、ヒッチコックばりに正統派でいくぜ」…と観客に宣言しているとも言える。実際、この映画は題材こそ殺人ビデオ撮影を趣味とする快楽殺人者が出てくるネタだが、例えば「8mm」(1999)みたいなイヤ〜な感じの話にはならない。猟奇味はあくまでネタでしかなくて、例えば血が登場するショットもわずか数カットしかない。そのうち1カットは、ケイト・ベッキンセールがリンゴを食べてナイフで指をキズつけた時の血…という徹底ぶりだ。ストレートに恐いモノはほとんど画面に登場せず、演出と演技と編集で怖さを醸し出す作戦。だからこの映画は、ホラー映画ではなくサスペンス・スリラー映画と言うべきだ。先に挙げた「恐怖のレストラン」つながりで言えば、同じリチャード・マシスン脚本の「激突!」(1972)にも似た、山椒は小粒でもピリリと辛いサスペンス・スリラーなのである。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

 見立て通り、こういう映画に出すとケイト・ベッキンセールは実にいい。映画が始まってからしばらくの間、彼女は実に不愉快な女なのだが、これも実にハマってる(笑)。そして恐怖のつるべ打ちの後、彼女がついに一人で立ち上がらねばならなくなるや…いよいよ「アンダーワールド」(2003)や「ヴァン・ヘルシング」(2004)などの本領発揮。彼女の暴れっぷりの方が犯人たちよりずっと残酷ってのもおかしいが、その反撃ぶりにもう拍手拍手。そして「チャーリーズ・エンジェル」(2000)、「あなたにも書ける恋愛小説」(2003)、「Gガール/破壊的な彼女」(2006)と、いつもホンワカしたムードの善人ぶりを発揮していたルーク・ウィルソンが、ここではその凡人っぽさをリアルな共感に活かしてこれまた好演。今回もやっぱり強い女がお相手…というのも嬉しい(笑)。ジェニファー・コネリー共演の「恋の時給は4ドル44セント」(1990)やモスクワ・ロケのサスペンス「バック・イン・ザ・USSR」(1992)でクセ者青春スターぶりを発揮していたフランク・ホエーリーが、そのクセ者ぶりが高じてこんなサイコ野郎になってしまったのには心が痛んだが、ここは素直に役へのハマりっぷりを楽しむべきだろう。とにかくすばらしいのは、この映画の全く緩みのない緊張感。話が本題に入るまでのイヤ〜な気分の盛り上げ方。一旦、本題に入るや否や、一瞬たりともサスペンスが止まらない。本当にコワイ。一時も安心できない。この心細さというか居たたまれなさは尋常ではない。主人公たちに完全に感情移入して、ヤバイヤバイと恐れおののく状態が上映中ノンストップで続くのだ。ただこのタイトな構成とノンストップの疾走感は、コワイ映画というより…最近では「フォーン・ブース」(2002)や「セルラー」(2004)を例えに出したら適切だろうか。何と上映時間が1時間半を切るという、まったく贅肉のない構成には脱帽だ。ただし、出てくるのはこのモーテルだけ。出てくる人々も両手の指で数えられる数しか出てこない…という設定で、この1時間半をフルに緊張感を緩めず展開できるというのは驚異的。しかもフロントに置いてある拳銃などをとっても分かるように、出てきたモノはすべてちゃんと後で活かし切っているという目配りの良さ。しかも映画の始まりには最悪の状況だった主人公夫婦の絆が、極限状況で危機突破していくうちに見事に回復していくあたりの語り口の見事さ。それは決して「単なるスリラーでなく人間ドラマもやってみました」的に、「芸術的必然性があれば脱ぎます」などとホザく女優みたいな勘違いな高級感でもなければ、内容を無理に増量させようとして「取って付けた」ようなサービスでもない。そんな「人間ドラマ」など、スリラーに無理にねじ込もうとしたら緊張感がその都度途切れてしまう。この「モーテル」における主人公夫婦の心の描かれ方は、いわゆる「蛇足」な要素ではない。危機また危機の展開が主人公たちの心の動きにつながり、彼らの心情が観客の共感を呼んでさらに怖さが真に迫るという、主人公夫婦の心情とストーリー展開が不可分に絡まり合った巧みさ…なのだ。強引に言うなれば、限定された空間の中に閉じこめられた主人公が、その等身大の活躍で観客の共感を呼びつつ、あの手この手で限られた手段を用いながら脱出と局面打開を図る…という点で、「ダイ・ハード」(1988)が恐くて低予算になったような映画なのだ(笑)。ラストにはもう一発脅しが来るか…と思ったので、ただ電話をかけるだけで終わったのが肩すかしだったが、助けを呼んでハッピーエンド…と風呂敷をキチンと最後まで縛るような締めくくりにしたのは好感が持てる。ともかくここまで楽しませてくれれば、もう何も文句は言えない。脚本のマーク・L・スミス、監督のニムロッド・アーントル…この二人には今後大いに注目すべきだろう。

さいごのひとこと

 モーテルにいたゴキブリのデカさまでコワイ。

 

「ディスタービア」

 Disturbia

Date:2007 / 12 / 03

みるまえ

 まるっきり子供向けのSFアクション映画と言われた今年の夏休み映画「トランスフォーマー」(2007)だが、実は見に行ったら2つの想定外の驚きがあったことを白状しなくてはなるまい。その一つは冒頭部分の緊迫感あるサスペンスで、意外にも「マイケル・ベイなかなかやるじゃないか」と思わされた。ただし、デカいロボットが出てきた時点ですべてブチ壊しだったが(笑)。そしてもう一つは、主演をつとめた全くの新人シャイア・ラブーフくんの好演ぶりだ。この映画の滑り出しは、何が起きるか分からないサスペンスとこのラブーフくんが出てくるご近所の童貞高校生の話で、両者の落差も含めてなかなか楽しめるのだ。それがあのデカいロボットのおかげで…とボヤくのはもうよそう(笑)。あのロボットが出なければ「トランスフォーマー」という映画そのものが成立しないのだから。それはともかく、まったく無印だったラブーフは掘り出しモノ。彼とジョン・ボイトやジョン・タトゥーロのおかげで、何とかラストまでシラけずに見れたようなものだ。そんな彼のSFX抜きの主演作が来ると聞けば、それは見なけりゃウソだろう。今回の映画もドリームワークスの作品で、次には何と「インディ・ジョーンズ4」が控えるというラブーフは、どうやらスピルバーグにも気に入られている様子。今回は「覗き」をテーマにしたサスペンスと聞けば、ますます興味が湧いてくるではないか。

ないよう

 田舎の川でフライ・フィッシングを楽しむ父子。高校生の男の子ケール(シャイア・ラブーフ)は、父親の久々の休日に、一緒に釣り糸を垂らして楽しんでいる。そんな楽しい時間がすぐに悪夢に変わってしまおうとは。その帰り道、二人は交通事故に遭った。自らハンドルを握っていた際の事故に、ケールの衝撃は大きかった。学校でも授業は上の空。それを教師にとがめられ、ひょんな事から不用意な一言を投げかけられたのがマズかった。「親不孝者が!」…これにキレたケールは教師にパンチ。その場で取り押さえられたケールは、裁判所の世話になるハメになった。判決は、3ヶ月の自宅軟禁処分というもの。自宅から半径30メートルを超えると警察に通報されるように、足首にセンサーを取り付けられる情けないケールだった。自宅から出られないため、たちまち自堕落な生活に陥るケール。テレビでは赤毛の若い女が失そうした事件を大々的に報道していたが、彼はそれよりもっぱら俗悪番組がお好みだ。これにはさすがに母親(キャリー=アン・モス)もキレる。こうしてテレビのケーブルは切られ、ゲームなどの有料のネット・サービスも切られるハメになったケールは、あまりの退屈さに悶絶寸前だ。おまけに近所の悪ガキがいたずらをしてくる。思わず怒って飛び出したはいいが、たちまち足のセンサーが安全エリアの緑からエリア外の赤に変わった。慌てて自宅に戻ったがすでに遅い。パトカーでやって来たのは、例の教師の従兄という警官。ここぞとばかりに、近所の住民の前で手錠をかけられる情けないザマだ。そして、そんなケールの様子を遠巻きに見ていた人々の中に、「彼女」もいた。つい先日、隣に引っ越して来たばかりの可愛い女の子だ。よりによってこんなところを見られて落ち込むケールだが、彼女を見かけてから退屈な毎日がちょっと変わった。やがてダチのロニー(アーロン・ヨー)がケールを訪ねて来たが、意外にもあまり煮詰まっているように見えないのに驚く。それもそのはず、ケールはこの家の中で、ちょっとした「お楽しみ」を見つけたのだ。それは「のぞき」。この家からも、周囲の家の様子はいろいろ見えてくる。例の悪ガキどもが親の留守をいいことにポルノを見ていること。近所の家の女房が出かけた後に、亭主が戻ってきてお手伝いさんとよろしくやっていること。隣の家に一人で暮らす中年男が、あまりに規則的かつ神経質に庭の手入れをすること。そしてもちろん、その反対側の隣の家に住む例の女の子が、親とはあまりうまくいっていないらしいこと。本当は彼女の着替えやプールでのビキニ姿目当てだったのだが、いつの間にか彼女の私生活に興味を持つケールだった。そして興味と言えばもう一つ。それはテレビで話題の赤毛失踪事件。消えた娘はいまだに発見されていないが、犯人のクルマは目撃されている。それはマスタングで車体の一部がへこんでいるというのだが、実は隣に住む中年男ターナー(デビッド・モース)もマスタングを持っていて、その車体がへこんでいたのだ! この事件がかつての連続猟奇殺人との関連をウワサされるに至って、ケールとロニーは隣のターナーに大いに注目せずにいられない。そんなこんなでケールとロニーが覗きに熱中していると、プールでビキニ姿になった例の女の子がギロリと睨んでくるではないか。まさかこっちを見ていないよな…と思いきや、この女の子アシュリー(サラ・ローマー)が玄関に回って、ドアの呼び鈴を押すではないか。ええい、ままよ。もちろんお近づきになりたい気持ちで一杯のケールではあるが、それがこんなカタチで実現して欲しくはなかった。大慌てしながら彼女を恭しく家に迎え入れるケールとロニーは、身もフタもない言い訳に終始する。いやいや、これは決して「覗き」じゃなくって…実は隣の中年男ターナーがどうも臭い。今、話題になってる赤毛失踪事件と絡んでいると睨んでいるわけ…などなどとペラペラ。ところがそんなお喋りをしているうちに、問題のターナーがガレージからクルマを出している。何と、確かにあったはずの車体のキズがない! 何でそんなに慌てて修理したのか? 皮肉にも事ここに及んで初めて、ケールとロニーは中年男ターナーを本気で怪しいと思い始めた。そして二人の男の子たちのただならぬ表情に、アシュリーもまたコレが単なる冗談じゃないらしいと思い始める。こうして3人のターナーへの「張り込み」が始まった。その過程で、徐々にお互いに惹かれ合っていくケールとアシュリー。ところがある晩のこと、ロニーもアシュリーも帰った後でケールがビデオカメラ片手にターナーの家を監視していると、ターナーが一人の女を引っ張り込んでいるではないか!

みたあと

 この映画の元ネタがヒッチコックの「裏窓」(1954)なのは、どこの誰が見たって明白な事実だ。監督のD・J・カルーソは劇場パンフのインタビューであまり影響を受けていないような事を言っているが、これほど真っ赤なウソもない。「裏窓」を現代の青春版としてリメイクしたことが、この映画の最大のミソなのは明白。何より主役が片やジェームズ・スチュアート、片やシャイア・ラブーフと、ハンサムでもタフガイでもない人の良さそうなナイーブ派という点も一致するではないか。その意味で、ジェームズ・スチュアートに与えられた骨折で動けないというハンデを、こちらでは自宅から半径30メートルを超えると警察に通報される足首のセンサーというカタチで表現したアイディアが秀逸だ。

こうすれば

 しかしながら、ミステリーとしてはいささか食い足りないと言わざるを得ない。ここでの「容疑者」役をデビッド・モースが演じているのは、善人イメージを持ちながら「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000)以降は悪役もやれるという点を買われての起用だろう。しかし、この映画にはデビッド・モース以外の「容疑者」めいた登場人物が出てこないため、そんな配慮もほとんど意味がなくなってしまっている。そして、どんな事情があるとしても、主人公たちのやっていることが覗きから住居不法侵入にエスカレートすると、あまりに疑う根拠が脆弱なだけに主人公を応援しづらくなっていく。いかに足首のセンサーのせいで動けないとはいえ、友人ロニーにばかり危険な役を押しつけているあたりもイヤな感じだ。

みどころ

 そんな応援しづらい主人公が何とかかんとか観客の共感を失わずに済んでいるのは、ひとえにそれを「イイ奴」シャイア・ラブーフが演じているからだろう。彼が演じているから、何とかこのキャラクターはイヤな奴になる一歩手前で踏みとどまった。そして見事なのは、この映画の「徹底的に映像で説明をしてやろう」という姿勢だ。主人公がどのあたりまで家を離れたらセンサーが働くのか…実験した上で、そこに目印をつくっていくあたり、実に巧みな設定ではないか。主人公の限られた行動範囲を、視覚的に一発で見せていく見事な描写だ。また、久々に訪ねて来たロニーに主人公が近所の様子を説明するくだりも、窓を通して近所の家を見せつつ「絵解き」していく手法が、まるで黒澤明「用心棒」(1961)の冒頭近くの演出を連想させる。居酒屋の窓から周囲の状況を見せつつ、店の主人(東野英治郎)が素浪人・三十郎(三船敏郎)に町の事情を説明していく…あのくだりの描写によく似ているのだ。このように、この作品は古今東西のいろいろな映画からヒントを得ている。そしてそれらを貪欲に取り入れているあたりが、何より観客として好感の持てる点なのだ。

さいごのひとこと

 最大のショックは、早くも母親役のキャリー=アン・モス。

 

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