新作映画1000本ノック 2007年10月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「パーフェクト・ストレンジャー」 「アーサーとミニモイの不思議な国」

 

「パーフェクト・ストレンジャー」

 Perfect Stranger

Date:2007 / 10 / 29

みるまえ

 ハル・ベリーとブルース・ウィリス主演のサスペンス映画。いかにも「2大スター共演!!!」という感じ。逆に言うと、それ以外何も感じられない。そもそもハル・ベリーとブルース・ウィリスって、相性としてはどうなんだろう? 両者ともこの手のジャンルの作品は嫌いじゃないみたいだが、果たして組んだらどうかは想像がつかない。何となくウィリスがかつて「愛人/ラマン」(1992)のジェーン・マーチと共演した「薔薇の素顔」(1994)みたいな映画じゃないかって予感もある。とりあえずサスペンス映画なら退屈しないとは思うが…。

ないよう

 ロウィーナ(ハル・ベリー)は特ダネ新聞記者。今日も上院議員のオフィスに乗り込み、いきなりスキャンダルを暴き立てる。しかも思わず発した上院議員の不用意な一言を電波で飛ばし、コンピュータに強い同僚マイルズ(ジョバンニ・リビシ)にキャッチしてもらって、決定的なスクープをモノにする腕利きぶりだ。そんなこんなでロウィーナとマイルズがバーで祝杯を挙げていると、社の上司がそこにやって来るではないか。何と社の上層部に圧力がかかり、せっかくの特ダネはボツになったという。それを聞いたロウィーナはいきなりブチギレ。「辞めてやる!」の捨て台詞でその場を立ち去るのだった。そんな散々な気分の帰宅途中、ロウィーナを呼び止める声がする。それはロウィーナの幼なじみグレース(ニッキー・エイコックス)だった。何でも彼女はつい最近、あるセレブとオンライン・チャットで知り合ったという。それは広告会社社長ハリソン・ヒル(ブルース・ウィリス)だ。そして不倫関係になったものの、結局捨てられてしまった。腹に据えかねた彼女は、彼との関係を世間にブチまけようとしていたのだ。そして、ロウィーナにその片棒を担がせようとも考えていた。明らかに迷惑顔で憮然とするロウィーナだったが、グレースは全くお構いなしにこう言い放って別れた。「犯した罪はずっと消えないのよ」…ところがそれからしばらくして、ロウィーナの元に一本の電話がかかる。何とグレースが遺体となって発見されたというではないか。警察に遺体確認に出かけたロウィーナは、そこでかつて近所付き合いをしていたグレースの母親と会う。悲しみに暮れるグレースの母親を見て何かを決意したのか、ロウィーナは例の元同僚マイルズの力を借りて、ハリソン・ヒルの身辺を洗い始めた。むろん、ハリソン・ヒルがグレースを殺したのでは?…という前提に基づいて、だ。まずはコンピュータに強いマイルズの得意技を使って、大量に残されたグレースのメールのやりとりを洗い直す。そこで、どうもハリソン・ヒルらしいと思われるメール相手を探し出した。さらにハリソン・ヒルの会社の求人情報をキャッチして、派遣社員としてロウィーナ自身を送り込むことに成功した。こうしてハリソン・ヒルのお膝元で働くことになったロウィーナ。すると、ハリソン・ヒルに関する新たな情報がどんどん集まって来る。金持ちの妻(ポーラ・ミランダ)のおかげでのし上がったため、その妻にいまだに頭が上がらないこと。その反面、羽根を伸ばしたいのか女癖が悪いこと。そんなハリソン・ヒルの身辺を文字通り取り仕切っている大女(ダニエラ・ヴァン・グラス)の存在…。ロウィーナは派遣社員としてハリソン・ヒルを探りながら、その女の魅力で彼の気を惹こうとする。案の定、ハリソン・ヒルの方もロウィーナに関心を持ち始めたようだ。それはしばしば薄氷を踏むような危険な状況を作り出したが、コンピュータの天才であるマイルズの協力で何とかかんとか乗り切っていくロウィーナ。マイルズはロウィーナに協力しながら、元々抱いていた彼女への想いをさらに募らせていく。だが、ロウィーナからは「いい人」としか受け止めてもらえないマイルズは、どこか片想い男の悲哀を噛みしめてもいた。そしてロウィーナも…人知れず心の中に幼ない日の虐待の忌まわしいトラウマを抱えていたのだが…。

みたあと

 ズバリ言うと…たぶんこの映画を見た人は全員、ちょっとモノ足りない気分になるのではないか。この映画の売り方を見ていると、どう見たってハル・ベリーとブルース・ウィリスの正面衝突を期待してしまう。ビッグ・スター二人の四つに組んだ共演が見られると思ってしまう。ところがこの映画のウィリスは、単なる脇の人物に過ぎない。確かに怪しい人物ではあるし、ハル・ベリーと親密ムードにもなるのだが…それは大して発展しないし、すぐに底が割れてしまう。そもそもウィリスの演じた人物は、ドラマの「核心」には関係ない人物なのだ。まぁ、ウィリスという大物をここに持ってきたこと自体がこの映画のトリックと言えば確かにそうなのだが、ちょっとイヤな意味でダマされた気分になってしまうのが正直なところ。第一、ウィリスの役がつまらなすぎる。よくウィリスもこんな役で出演する気になったものだ。彼って作品を選ばないのか?

こうすれば

 上記のウィリスの役柄がとってつけたようであることを筆頭に、この映画のお話や設定には無理が多すぎる。お話の主眼は「人間には誰にも影の顔がある」とか「人間には誰でも秘密がある」とかいうものなんだろうが、だからと言って無理矢理どいつもこいつもわざとらしい「裏」があるのはいかがなものか。要するに観客をミスリードするため、別の奴を疑わせて「実は真犯人は…」とやりたいがための設定ばかりで、どう考えても設定やお話が不自然なのだ。だから登場人物の一人として、生きている人間としての「リアルさ」を持っていない。強いて言うなれば唯一ジョバンニ・リビシの役だけはキャラが生きているように見えるが、それはリビシその人の演技力によるものではないだろうか。脚本上はどう考えても無茶でわざとらしい出来映えなのだ。ところがそれほどに意外性やら「オモテとウラ」やらを強調してわざとらしくお話を展開させているにも関わらず、奇妙にも演出ではドッキリビックリで観客を翻弄するというわけでもないから不思議。例えばハル・ベリーが見られちゃマズイ画像をディスプレイに写したところでコンピュータがフリーズ。電源も落とせずビビッているところにブルース・ウィリス登場…とか、ハル・ベリーがブルース・ウィリスのオフィスでコソコソとパソコンのメールを探ってるところにウィリス登場…とか、この映画にもサスペンス映画の定石通りに絶体絶命の危機が何回かある。ところが…本当なら最高にハラハラドキドキの場面になりそうなのに、なぜか何のケレンもハッタリもなく信じられないほどアッサリと主人公は危機回避してしまうのだ。あげく「正体」がバレたハル・ベリーがウィリスにどやされる一幕も…本来なら緊張感あふれる場面のはずなのに…単にハル・ベリーが罵倒されるだけでアッサリ終わってしまう。確かにお話としてはそれでいいのかもしれないが、見ているこっちとしては力が入らないことおびただしい。何とも盛り上げどころがない映画なのだ。これっておそらく脚本を書いたトッド・コマーニキと監督のジェームズ・フォーリーの、それぞれの持ち味や作品に対する考え方の違いから来るものではないか。僕がそれまで見たジェームズ・フォーリー作品は、ショーン・ペン主演の「ロンリー・ブラッド」(1986)やマドンナ主演の「フーズ・ザット・ガール」(1987)、さらにチョウ・ユンファとマーク・ウォールバーグ主演の「NYPD15分署」(1999)ぐらいのもの。こんなわずかな本数と振り幅の大きいバラバラな作品群で「作風」を云々するのはいかがなものかとは思うが、それでも限られたフィルモグラフィーから彷彿とされるのは、少なくともケレンやハッタリが得意な映画作家ではないだろう…ということ。脚本はビックリ・ドッキリでつくっていたのかもしれないが演出はハッタリ拒否で、内容的にその両者が剥離してしまったのではないかと思うのだ。そんなわけで…無茶な設定をコッテリ楽しむ映画としても、地味にシリアスに見せるサスペンス映画としても、どっちつかずで中途半端な出来映えとなってしまった。だがそんな事よりもっと問題なのが、ヒロインであるハル・ベリーのキャラクター。これも「裏」があるが故とはいえ、いくら何でも…のエリカ様も裸足で逃げ出すイヤな女ぶりなのだ。自分に惚れてるジョバンニ・リビシを利用し放題利用したあげく、ちょっとトラブルがあると当たり散らす始末。そりゃリビシにだって都合ってモノがあるよ。あれだけパシリ扱いするハル・ベリーって何様?…ってイヤ〜な気分になってくる。あげく自分をオカズにしたリビシの「秘密の部屋」を発見したハル・ベリーが、手のひら返したように彼を忌み嫌うってのもどんなもんだろう。元々、彼が自分に惚れていたことは分かっているんだから、そんな事ぐらいで変態扱いするな…と言いたくなる。徹頭徹尾、ハル・ベリーの身勝手さにウンザリさせられるのだ。ラストで「驚愕の事実」が明るみになって、それまで「いい人」キャラだったリビシがハル・ベリーに高圧的に出てくるくだりでも、映画としては彼の「悪」の面を描きたいんだろうが、僕としては「お〜、やったれやったれ。そんなオンナ、天狗の鼻を思いっきりへし折って奴隷みたいにコキ使ってやれ!」と思わず応援したくなった。ホント、ジョバンニ・リビシの「勝利」で終わったら、この映画どんなにすっきりしたことか。そんなわけで、とにかく見ている間イライラさせられるクソ女ぶりのハル・ベリーだが、実は観客に感情移入させるべきサスペンス映画のヒロインがこれじゃ、やっぱりマズイだろう。逆に言うと、「こんな女は悪党に殺されちまっても構わない」…と思われちゃったら、ちっとも見ていてハラハラしないではないか(笑)。そんなわけで、実はジェームズ・フォーリーの監督としての資質もさることながら、そもそも脚本におけるハル・ベリーの性格設定にこそ問題があったのかもしれない。

みどころ

 そんなわけで、あまりオススメしたい点のない映画だが、個人的には一カ所驚いた部分があった。ただし、それは映画の出来とは何ら関係ない。 派遣社員としてブルース・ウィリスの会社に入ったハル・ベリーの、上司にあたる人物として…懐かしやパティ・ダーバンビルが出ていたということだ。かつてデビッド・ハミルトンが監督した「ビリティス」(1977)で少女体型のヌードを見せたり、「ビッグ・ウェンズデー」(1978)でウィリアム・カットの恋人役を演じて、可憐な姿を見せていた彼女。あの儚げな美少女が久々に再会したら貫禄十分なオババンに変身していたのには、さすがにちょっとショックを受けた。オレもトシとった。

さいごのひとこと

 イヤな奴がどんな目に遭おうと自業自得ってのが正直なところ。

 

「アーサーとミニモイの不思議な国」

 Arthur and the Minimoys (Arthur et les Minimoys)

Date:2007 / 10 / 22

みるまえ

 リュック・ベッソンの新作である。その前の「アンジェラ」(2005)が何しろ「ジャンヌ・ダルク」(1999)から6年ぶりの作品ということもあって、何だかヤケにすぐにやって来た気がする。そして今回はCGアニメを交えたファンタジー映画だと聞いて、いかにもベッソンがやりそうな題材だなと思ってしまう。その理由は後述するが、この男の作品は近年どんどんファンタジー的な方向に傾倒していったし、どんどん子供っぽさを露呈してきていた。100パーセントのファンタジーを撮ったところで、何の不思議があろう。だが、わが国における「アンジェラ」の興業が思い切り熱のないものだったのと同様に、この映画もまるで話題になっていない。玉石混交で粗製濫造されてきた「リュック・ベッソン・プレゼンツ」作品の弊害か、ベッソンといえば「バカ映画」という印象があまりに強くなりすぎて、今さら監督作を持ってこられても、みんな昔のように「期待」なんか抱けなくなっていたのだ。実際の話、すでに先行ロードショーをやっていたとはいえ…新宿のロードショー館に公開初日の朝2回目の上映を見に行って、あまりの観客の少なさに僕は呆然としてしまった。ベッソン作品の「客の少なさ」としては、記録的な不入りとしていまや語りぐさの「グレート・ブルー」(1988)初公開時に匹敵するのではないか。しかもベッソン、今回のコレで監督業から足を洗うなんて言ってるらしいし…。

ないよう

 少年アーサー(フレディ・ハイモア)は、アメリカのとある田舎町の一軒家に住んでいた。彼のおばあちゃん(ミア・ファロー)と二人暮らし。以前はおじいちゃんもいたのだが何年か前に失踪してしまい、それ以来姿を見せていない。そんなアーサーにも両親は一応いる。だが二人とも出稼ぎに行ったきりで、今ではアーサーの誕生日も満足に覚えていないアリサマ。だがアーサーには、おばあちゃんがいるから寂しくない。ついでに言うと、おじいちゃんが長年書き溜めていた日記や書物が屋根裏に積んであって、それを読むのに忙しかったというのが本当のところだ。それは冒険家であり探検家、さらに発明家で科学者だったおじいちゃんの、豊富な知識と驚くべき経験が記されたものだった。特にアーサーの興味を惹いたのは、おじいちゃんのアフリカでの冒険。勇敢な部族との交流のくだりを読みながら、アーサーはおじいちゃんが羨ましくて仕方なくなった。しかもおじいちゃんはこのアフリカでの冒険談の中で、信じがたいエピソードを披露していたのだ。それは「ミニモイ」という特殊な部族との交流だ。何しろ彼らはただの「部族」ではない。身の丈2ミリほどの大きさで、ちゃんと地下に彼らなりの社会を築いているというのだ。おじいちゃんは彼らと親交を深め、ルビーのカタマリまでプレゼントされたらしい。しかしおじいちゃんは突如消えてしまい、ルビーのカタマリも消えた。アーサーはおじいちゃんの本から発明をパクって、庭の花のために潅漑設備をつくったりしたが、何となくまだモノ足りなかった。「ミニモイ」に会いたい!…特におじいちゃんがスケッチしていた「ミニモイ」の王女の姿は、アーサーを「その気」にさせるのに十分だった。しかもアーサーとおばあちゃんは借金の取り立てにあい、このままでは二人が住んでいるこの一軒家を失ってしまう状況に追い込まれてしまう。そんなこんなで、アーサーはおじいちゃんが屋根裏のどこかに隠した「ミニモイの世界」に入り込むための情報を、何とか見つけなくては…と引っかき回す。すると、その方法は見つかるには見つかったが…「ミニモイの世界」に入り込めるのは何年に1回だけしかない満月の今日の、夜中の12時キッカリしかない! 夜中に眠りに就いたおばあちゃんの隙を見計らって、アーサーは慌てて月光に照らされた庭に飛び出す。「ミニモイの世界」に入り込むためには、まず望遠鏡が必要だ。えっちらおっちら望遠鏡を運んで来ると、なぜかどこからともなくマサイ族の戦士たちが現れるではないか。ビックリ仰天のアーサーだったが、彼らはアーサーを脅かしに来たのではない。彼が「ミニモイの国」に入り込むための「儀式」の手伝いをしようとやってきたのだ。こうして月夜の庭に立てた望遠鏡を覗くアーサー。すると、あ〜ら不思議。どんどんどんどんアーサーの背丈が小さくなっていく。こうして気づいてみたら彼の背丈は2ミリ程度に縮み、姿かたちもいわゆる「ミニモイ」のそれに変わっていた!

みたあと

 これから…というところでお話を端折って申し訳ない。ただし正直言ってこの映画、具体的にストーリーをつづっていこうとすると、何だかよく分からない曖昧な部分が多いのだ。字幕がヘタなせいか元々の脚本に難があるのか、はたまた僕の理解力が衰えているのか…決して難しいお話ではないのだが、ディティールによく分からない点がいっぱいある。だからこれ以上のストーリー紹介は困難と判断したわけだ。実際にこの後の展開はというと…「ミニモイ」に変身したアーサーは、望遠鏡を逆から覗いていた「ミニモイ」のベタメッシュ(ジミー・ファロン)に連れられて、庭の地底にある「ミニモイ」の王国へ。そこでは「ミニモイ」の国の王様(ロバート・デニーロ)と勝ち気な王女セレニア(マドンナ)が待っていた。ついでに言うと、例のベタメッシュはセレニアの弟だった。そんなところにモスキート(蚊)にまたがった敵が来襲。何だか訳が分からない向こう見ずさで、アーサーがこいつら相手に大活躍。こうして王様に気に入られたアーサーは、セレニア、ベタメッシュと一緒に敵の本拠地に乗り込むことになる。そのうち、アーサーとセレニアが仲良くなったりして…一方、敵であるマルタザール(デビッド・ボウイ)の一派は、洪水を起こして「ミニモイの国」を滅亡させようとたくらんでいた…ってな案配。途中もいろいろあるんだけど、今思い返してみるとお話として説明つかない部分がいくつもある。単純な話ではあるので難解だということは全くないのだが、お話の決まり事や約束事のうち、キチンと説明されてないことがあまりに多い気がするのだ。だからこうやって後で具体的に説明するのが難しいのではないか。

こうすれば

 「ミニモイの国」に行ける限られたチャンスが、たまたまアーサーが方法を見つけたちょうどその夜だったというのは出来すぎだが、そいつは…まぁ目をつぶってもいい程度の「ご都合主義」だ。だが、その場にどこからともなくマサイ族が現れるのはどうなっちゃってんの? ファンタジーだから…っていうのでは説明つかないんじゃないだろうか? この手の映画を理詰めで考えるべきではないとは理解しているつもりだが、少なくともCG抜きの現実パートの場面でアレをやっちゃいかんでしょう。大体、おじいちゃんが失踪したのもミニモイの国があったのもアフリカでの話…と思っていたので、それが全部アメリカの家の庭でのことになっちゃったのは驚いた。これって劇中でちゃんと説明されていたっけ? それと、映画を見ている限りでは何となく「ミニモイ」とマルタザールは対立していて、何となく攻撃してくるみたいにしか見えない。何のためにやってるのか劇中で説明されていたのかもしれないが、僕には分からなかった。もっとマズイのは、結局マルタザールの攻撃って本当にやる意味があったのかってこと。洪水を起こして「ミニモイの国」を壊滅させようとしていたはずだが、元から「ミニモイの国」の入口に据え付けられていた扉でこれを防げたということは、そもそもやっても無意味な攻撃だったということになる。僕の見方が間違っているのか自信がない(まさかそんなザルな脚本ってことはないと思えてしまう) のだが、どうも映画を見ている限りではそうとしか思えないのだ。だから、王様に「国を救った英雄」みたいにアーサーが持ち上げられるのも理解不能。アーサーがいなくとも、彼らの冒険がなくても一向に構わないように思えてならない。これってお話として破綻してやしないだろうか。それとも字幕に問題があってよく分からなかったのか、はたまた僕が何か見逃していたんだろうか。

みどころ

 そうは言っても、ミニサイズの一向が庭で繰り広げる冒険はなかなか面白い。かつてディズニーがつくった「ミクロキッズ」(1989)とどこか共通する楽しさがある。ここんところのリュック・ベッソン映画は本人の幼稚さが露呈しているくせに、妙に大家ぶって気取ったりもったいつけたりしてばかりの映画だった。今回はそんなベッソンの幼稚さをストレートに「子供っぽさ」として提示しているので、映画としてイヤミが少ないのだ。正直言って変身してからのアーサーのキャラが可愛くないとか、声の上では母子並みの年齢差のフレディ・ハイモアとマドンナが恋人同士で気持ち悪いとか、わざわざデニーロが声をアテるまでもない王様役とか、いろいろ言いたいことはある。アーサーが地面に刺さってる剣を抜いてしまう「アーサー王と円卓の騎士」伝説の芸のないモロ引用とか、「ミニモイ」たちがLPレコード盤上で踊る場面に「ステイン・アライブ」が流れるとか…さすが「パルプ・フィクション」(1994)で発掘されたマイナーなサーフィン・ソングを「TAXI」シリーズのテーマ曲みたいにそのまんま使っちゃったリュック・ベッソン(笑)…とセンスの悪さをアレコレ指摘できなくもない。それでも何かと言えば大げさに偉そうに見せていたベッソンが、ガキっぽさをガキのまんま見せた態度は悪くない。この映画がベッソン監督作品として最後…と言われているが、それもちっとも惜しくないしね(笑)。

さいごのひとこと

 北の湖と亀田父に見習わせたいベッソンの辞めっぷり。

 

 to : Review 2007

 to : Classics Index 

 to : HOME