新作映画1000本ノック 2007年09月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「レミーのおいしいレストラン」 「ラッシュアワー3」 「プロヴァンスの贈り物」 「インランド・エンパイア」

 

「レミーのおいしいレストラン」

 Ratatouille

Date:2007 / 09 / 17

みるまえ

 ピクサーの新作…と来れば「見なければ」と条件反射的に思ってしまう。そのくらい、僕のピクサー・アニメに対する信頼度は高い。スピルバーグだってこんなに安心できない。ピクサーはアメリカ映画の信頼のブランドなのだ。しかし予告編で見たその新作は、タイトルからしてパッとしなかった。「レミーのおいしいレストラン」。「トイ・ストーリー」(1995)、「ファインディング・ニモ」(2003)、「Mr. インクレディブル」(2004)…などなど、ビシャッと決まったタイトルに引き替え、「レミーのおいしいレストラン」…ってのはどうも「東海漬物・キューリのキューちゃん」みたいな(笑)「商品」めいた名前に聞こえる。何だかヒットしなさそう。おまけに料理下手のレストランの下っ端とシェフになりたいネズミがタッグを組んで…というお話自体も、「ふ〜〜ん」ってな気分にしかならない。ピクサーはディズニーに買収されて早々、ついに「やっちゃった」のではないか? しかしよくよく考えてみると、僕はピクサーの新作がやってくるたびに最初は違和感を感じていたのではなかったか? 「ファインディング・ニモ」…魚の親子のお話ねぇ、「カーズ」(2006)…クルマの街のお話って「きかんしゃトーマス」じゃねえだろ(笑)。ところが実物の作品に接するや見る前の予想を撤回。毎回毎回絶賛という繰り返しだった。最初から期待していたのって「Mr. インクレディブル」ぐらいのもんじゃないの? そう考えてみると、今回だって見てみないと分からないぞ。しかもしかも…今回の監督は「Mr. インクレディブル」のブラッド・バード再登板ではないか。この男が関わっていて、ただの凡作で済むはずがない。

ないよう

 レミー(パットン・オズワルト)は田舎の一軒家に住むネズミ。だが彼は、ネズミとしてはいささか味覚・嗅覚が発達しすぎ。そんな「特技」を父ジャンゴに認められネズミ一族の「毒味役」とさせられたものの、彼にとってそれは宝の持ち腐れだった。レミーはおいしい料理のために才能を使いたかった。立ち入りを禁じられている家の厨房や居間に出入りしては、豪華な料理本を読みふける。それは有名な名シェフ・グストー(ブラッド・ギャレット)が書いた「誰でも名シェフ」という本だ。「誰でも名シェフになれる、勇気さえあれば」…そんな言葉に勇気づけられるレミー。そんなある日、彼は気のいい兄貴エミール(ピーター・ソーン)を連れて家の中に入り、衝撃的なテレビのニュースを見てしまう。何と尊敬するシェフのグストーが自殺したというのだ。実はグストーの「誰でも名シェフ」という主張を快く思わない料理評論家イーゴ(ピーター・オトゥール) が、グストーを敵視するあまり彼の料理を酷評。それが引き金になってグストーの評価は急落してし、世をはかなんだグストーは死を選んでしまった…。そんなニュースにショックを受けたレミーは、自分の姿を家のおばあさんに見られたのを気づかなかった。悲鳴と共にいきなりライフルをブッ放し始めたおばあさんは、壁や天井やあちこちから次々とネズミの大群が出てくるのに激怒。ジャンゴをリーダーとするネズミたちは、以前から川のほとりに用意していた「船」に乗って川を下っていく。慌ててその後を追いかけるレミーは、例のグストー本をイカダ代わりに川に出た。しかし川から下水官へと進んでいくうち、水の流れはどんどん急になるばかり。レミーは仲間たちの「船」を見失ったばかりでなく、本のイカダと共にどこまでも流されてしまった。ようやく見知らぬ下水の底に辿りついたものの、すっかり落ち込んでしまう独りぼっちのレミー。だがどこからともなくグストーの幻影が現れ、レミーを叱咤激励するではないか。グストーの言葉に励まされてどんどん上へ上へと登っていくと…何とここは花の都・パリ。しかもたまたまたどり着いたのは、今は亡きグストーのレストラン。これは何かのお導きか? そんなレミーの見ている前で、一人の青年がレストランの門を叩く。その青年ラングイニ(ルー・ロマーノ)は、かつてグストーの知人だった女性の忘れ形見だという。その紹介状を見た現在の料理長スキナー(イアン・ホルム)は、嫌々ながらラングイニを下働きをして雇う。だが、この青年は何とも要領が悪い。戦場のような厨房では、紅一点のコレット(ジャニーン・ガロファロ)ですら取り付くシマもない様子。明らかに浮いているラングイニは、レミーが見ている前で早速スープの鍋をひっくり返すというチョンボをやらかした。焦った青年はそこらにある食材をデタラメにブチ込み、水で薄めてごまかそうとするが、そんな事をやったらレストランとしては致命的だ。たまたま見ていたレミーは気が気ではない。「スープが、スープが!」…そんなレミーの背中を押したのは、またしてもグストーの幻影。かくしてレミーは何と厨房に降りたって、ひどい味付けになったスープにアレコレと香料や調味料を加え、彼なりの味に作り直す。そんなレミーをラングイニが見つけたからマズかった。ラングイニはレミーをお椀で捕まえたが、そんな時、たまたま注文が入ってスープが客席に運ばれてしまう。しかもラングイニがスープに手を入れたことがスキニーにバレて絶体絶命! ところが客はスープを大絶賛したから世の中分からない。苦虫噛みつぶしたような顔のスキニーだったが、何とかラングイニは首の皮一枚で助かった。だがスキニーは、ラングイニに明日同じスープをもう一度作ってみろと無理難題を命じる。おまけに逃げようとしたレミーがスキニーに見つかって、ラングイニが彼を殺して捨てるように命じられる間の悪さだ。真っ暗なセーヌ川のほとり、レミーを瓶に閉じこめて放り投げようとするラングイニ。だが元よりそんな殺生など柄にもないラングイニは、ついついレミーに料理なんぞ作れもしない我が身を嘆く。だがそんな彼の言葉をレミーは理解しているようだ…と気づくラングイニは、溺れる者はワラをもつかむのコトワザ通りに、レミーに助ける代わりに協力を…と申し出るではないか。こうしてラングイニは瓶からレミーを解放するが、瓶から出るやレミーは一目散に逃げる逃げる。「信じたオレがバカだった」…ネズミにまでバカにされて、さらに一層うなだれるラングイニ。だが、そんな彼の前に…あのレミーがおずおずと戻ってくるではないか!

みたあと

 やっぱりピクサー、やっぱりブラッド・バード! ただで済むはずがなかった。またまた傑作だ! 毎度毎度のことながら頭が下がる。しかも今回は料理界のお話。シビアな料理評論家と格付けに自殺したシェフまで出てくる…って、こりゃどう考えても子供向きにはなりっこないではないか。奇想天外なネズミと人間の共生関係から、陰謀やら気のいい青年の増長やら…アメリカ映画の王道を今回も突っ走る素晴らしい脚本。しかも今回は、ネズミの料理…という一見バカげた題材を使って、洋の東西を問わず全世界のクリエイターに必要な心意気を描いているところが何とも非凡だ。「誰でも名シェフになれる、勇気さえあれば」とは、料理を別のクリエイティブな何か…絵画でも音楽でも映画でも、へたをすれば文化芸術に限らないどんな事にでも当てはまる名言ではないか。考えてみればあまりに真っ当すぎてイマドキ誰も言わないようなことだが、それをテレずに真っ正面から主張するあたり、「Mr. インクレディブル」…いや、傑作「アイアン・ジャイアント」(1999)のブラッド・バード節はまたまた全開だ。そして最後に冷酷な料理評論家イーゴが語るナレーションの感動的なこと。「我々評論家は、何を言っても常にリスクを負うことはない、そして批判することは最もたやすいことだ」…この長ゼリフほどクリエイティブであるということはどんな事なのかを言い当てている言葉はない。そして家庭料理ラタトゥーユを一口食べた時の、イーゴの驚きを表現したあの数十秒間はまさに圧巻。「誰でも名シェフになれる」という言葉が体現しているモノを、ほんの一瞬で見事に見る者に鮮烈に伝えているのだ。そんなこんなも含めて…子供っぽいどころか、あまりにテーマがハイブロウすぎるのではないか。

みどころ

 いつもいつもピクサーのCGアニメは、CGでつくることの必然性をちゃんと踏まえてつくってある。今回はリアルで本当においしそうな料理を見せるために、CGの質感が必要だったと分かるのだ。しかも背景として登場する、パリの街の本物らしさ。本当のパリは知らないが、少なくとも見ている限りは本物らしく見える。セーヌ川を舞台にレミーがスキナーに追いかけ回される追跡シーンは、そんなパリのリアルさとアニメのスピード感が合体して、アクション演出としてもかなりの達成度だ。それでいてレミーに「操縦」されて厨房でアクロバットのような動きを見せるラングイニのアクションは、あくまでアニメの「それ」として作られている。世間のCGアニメが誰も彼も競うようにモーション・キャプチャーでリアルな動きを表現しようと血道を上げる中で、一人ピクサーだけが孤高を守って「マンガ」の動きを表現しているのは、見ていていっそ気持ちがいい。彼らには「表現」とは何かということが分かっているのだ。だが、最も素晴らしいのは…何と言ってもピーター・オトゥールが演じるイーゴの声。このキャラクターを単純な悪役にしなかったブラッド・バードは大したものだが、それを見事に表現したオトゥールもまた非凡。終盤の味わい深いナレーションは名優オトゥールだからこそと言い切りたい。

さいごのひとこと

 ピクサーはもはや老舗の味。

 

「ラッシュアワー3」

 Rush Hour 3

Date:2007 / 09 / 10

みるまえ

 「ラッシュアワー」の3作目がつくられるとは…。今更これを見てもなぁ…という気分が正直なところ。確かに「ラッシュアワー」1作目(1998)はそれなりに楽しく見た。生粋のジャッキー・ファンや香港映画ファンにはカンに障る映画だろうが、僕としてはジャッキーがハリウッドで堂々主演映画を撮っていることに感慨を感じていた。今でこそ東洋系スターのハリウッド主演も珍しくなくなったが、それ以前はブルース・リーの「燃えよドラゴン」(1973)があったきり。それ以来の快挙なんだから、昨今の東洋スターのハリウッド主演とは「価値」が違うのだ。だが好評に応えて登場の「2」(2001)は、すでに少々見ていてカッタルいシロモノだった。元々ジャッキーの相方を務めるクリス・タッカーが相当目障り耳障りだったのだが、ここではそれがいいかげん鼻について来た。しかも、その後ジャッキーは香港に戻って「香港国際警察」(2003)など力のこもった仕事を再開した。こうなっちゃうと、もう「ラッシュアワー」どころじゃない…というのが万人の意見が一致するところだろう。…ところがこの「3」に、最近海外での活躍が目立つ真田広之が出ている…と聞くと、ちょっと見たくなってもくる。真田の前作「サンシャイン2057」(2007)はかなりトホホな役柄だったのでイヤな予感もするのだが、映画ファンとしてはやっぱり見届けたいところなのだ。

ないよう

 今日も今日とてロサンゼルスのハイウェイは大混雑。ただし混雑はこの男が起こしているのかもしれない。どうやら失態で格下げされたらしく、カーター刑事(クリス・タッカー)が巡査として交通整理しているのだ。案の定、この男真面目にやる気なんてない。ちょうどそんな時、彼と「迷コンビ」ぶりを見せた香港刑事リー(ジャッキー・チェン)は、ハン大使(ツィ・マー)の護衛についてロサンゼルスにいた。今回ハン大使は、このロサンゼルスで行われる国際犯罪法廷の総会に出席することになっていたのだ。国際犯罪法廷の委員長レナード(マックス・フォン・シドー)がスピーチで高らかに宣言したのは、全世界にはびこるチャイニーズ・マフィアの撲滅。そのカギを握るマフィアの親玉たちのリストを、このハン大使が手に入れたというのだ。ところがいよいよ発表というその瞬間、ハン大使は会議場で狙撃された。阿鼻叫喚の中をかいくぐったリーは、狙撃がこの会議場のビルの向かい側のビルから行われたのに気づく。しかもその向かい側のビルからは、何者かが慌てて降りて来るではないか。リーは持ち前の運動神経で向かい側のビルへと駆けつけるが、不審な男は街中をどんどん逃げて行く。何とかどん詰まりに追いつめて銃を構えるリーだったが、その男は慌てず騒がずゆっくりリーの方に振り返った。「久しぶりだったな」…その男はどうやらリーの旧知の人物だったらしい。それが証拠に、その男ケンジ(真田広之)はリーに挑発的な態度をとり始める。「オマエにはオレを殺せまい」…ちょうどそこにカーターがクルマで突っ込んで来たため、ケンジはまんまとその場を逃れた。リーを助けるため…というカーターの助太刀は大きなお世話でしかないが、正直それで救われた気分にもなったリーだった。一方ハン大使は一命をとりとめたものの、意識不明の状態が続く。駆けつけた大使の娘スーヤン(チャン・チンチュー)に「犯人を捕まえると約束して!」と言われては、リーもカーターも何とかしない訳にいかない。どうもハン大使は事前にスーヤンにそのリストを渡していたようで、カンフー道場にあるスーヤンのロッカーにしまわれているらしい。ところが悪漢たちは一足先にそれを奪ったあげく、スーヤンとハン大使の命も狙っていた。こうして病院で大立ち回りを演じるリーとカーターだったが、捕らえた悪漢は中国人のくせになぜかフランス語ばかりしゃべるアリサマ。しかも無理矢理吐かせたキーワードは、どうやらパリの住所らしい。フランス領事館でスーヤンの身柄をレナード委員長に託したリーとカーターだが、ここフランス領事館すら爆弾で襲われるに至っては…どうやらフランスに事件のカギはあるらしい。こうしてリーとカーターは、一路フランスはパリへと旅だった。ところが空港に着いたとたんにパリ警視庁のレヴィ警視(ロマン・ポランスキー)に捕まり、「フランスでは余計な事をするな」と手痛い歓迎を受ける二人。それでもめげずに空港からタクシーを拾って捜査を開始しようとすると、この運ちゃんジョルジュ(イヴァン・アタル)はガチガチの反米思想の持ち主と来る。そんなこんなで散々な始まり方をしたパリでの捜査だったが…。

みたあと

 1作目がロサンゼルス、2作目が香港と来れば、3作目は…どこかヨーロッパっていうのは確かに悪い手じゃない。おまけに今回のゲストが真田広之というのもお楽しみだが、見始めて気づいたのだが今回は…工藤夕貴はともかくとして…マックス・フォン・シドーやらロマン・ポランスキー(!)やら…おまけに僕のご贔屓イヴァン・アタルまで登場するとあっては、予想していなかっただけに得した気分になってしまった。こうなってくると、とりあえず彼らの顔ぶれが見れるだけでも許そうという気分になってこようというもの。どうせ内容はいつもの通りなんだし、気楽に楽しませてくれれば言うことはないのだ。

こうすれば

 それにしても何で出てきたんだろう、工藤夕貴。一時期は「国際女優」然としていたけど、「ヒマラヤ杉に降る雪」(1998)以降はしばらく見てなかった。久しぶりに顔を見たと思ったら、何だか中国人だか日本人だか分からないナゾの怪しい東洋女役とは。その哀れな最後も含めて、何だか見ていて痛々しくなってしまった。真田広之が一応日本人らしき役名を与えられているのと比べると、彼女の現在置かれたポジションが悲しい。それとロマン・ポランスキーの使われ方と来たら…彼、一体なぜこの映画に出ちゃったんだろう。ジャッキーのファンなんだろうか? スキャンダルと悲劇の臭いも引きずるこの世界的映画監督が、最後に主演二人にブン殴られてオシマイってのも…。だが一番困ったのはやっぱりクリス・タッカー。とにかくうるさい。イライラする。おまけにこいつのキャラが厚かましくて無能。こいつのおかげで余計な手間ばかり増える。これで笑えると思っているんだろうか? しかも今回はもっと問題なことがある。主役二人がパリ空港に降りたってすぐにパリ警察に捕まって拷問を受けたり…ちょっとブレット・ラトナーのフランス観には問題がありすぎる。おまけにいきなりイヴァン・アタルのタクシー運転手がケンカをふっかけてくるのもいかがなものかとは思うが、それをクリス・タッカーが銃で脅すってのはもっと問題だ。あげくアメリカ国歌を無理矢理歌わせるって展開で、気持ちよく笑えるのはアホなアメリカ人だけだ。そんなイヴァン・アタルがだんだんアメリカイズムに心酔してくるってのもてんでイタダケない。「ザ・インタープリター」(2005)、「ミュンヘン」(2005)と最近のアタルはアメリカ映画づいているみたいだが、よくこんな役で出たなと驚く。それにしてもアメリカ人の思い上がりというか増長というか単純バカというか、ブレット・ラトナーってちょっと頭良くないんじゃないか?

みどころ

 そうは言っても、ジャッキー・チェンをエッフェル塔で大暴れさせるというコンセプト自体はアッパレだ。これを実行に移しただけで価値があるんじゃないか。また真田広之の出番が少ないと怒る向きもあるかもしれないが、「サンシャイン2057」のアレを考えれば許せる。何よりジャッキー・チェンとの対決があるだけでも儲けモノだ。昔はやたらめったら出まくっていたマックス・フォン・シドーの顔を、久々にアメリカ映画で拝めたのも嬉しい。考えてみればブレット・ラトナー監督は、「2」でもチャン・ツィイーのハリウッド・デビューとジャッキー・チェンとの初顔合わせを実現していた。かつてエリック・ロシャン作品の常連だった頃からのファンだったイヴァン・アタルを、大きな役で起用してくれたのも個人的には嬉しい。その使い方は前述のようにいささか問題だが…。そういう生粋の映画ファン的な発想は、素直に評価したいところだ。

さいごのひとこと

 パリのアメリカ人ならぬ東洋人は国籍不明。

 

「プロヴァンスの贈り物」

 A Good Year

Date:2007 / 09 / 10

みるまえ

 都会のワーカホリックがおフランスはプロヴァンス地方へ出かけて、本当の人生の意味を知る。スローライフのススメ。何とまぁ、日本のアホバカ女向け雑誌の特集みたいな陳腐な映画だろう。これがハリウッドの十人並み監督による作品だったり、フランス映画でジャン・レノ主演とかだったらハッキリ言ってパスだ。今はそんなのを観ているヒマがない。プロヴァンスには出かける気もなければ映画を見る気もない。第一、この手の映画は見る前から結論が決まってる。都会はクソ、田舎サイコー。結構じゃないか、みんなサッサと出て行ってくれたら東京も空いて何かと楽になる。ともかく、この手の題材は反論の余地がない。「海は青い」などと同じ手合いのシロモノだ。何の驚きもない。改めてお金を払って観るシロモノじゃない。…と思っていたが、これがリドリー・スコットの新作と聞いて思わずビックリだ。何でリドリーがこんなつまらない題材を? しかもあの骨太大作「キングダム・オブ・ヘブン」(2005)以来の新作と来るからさらに驚く。さらにさらに、今回の主役はラッセル・クロウと聞いて二度ビックリだ。リドリー・スコットとは二度目の顔合わせ。それも暑苦しくも男臭い「グラディエーター」(2000)以来のコンビと来る。それがおフランスでプロヴァンス?

ないよう

 それは今から何十年か前のこと。南仏プロヴァンスの田舎屋敷で賢そうな少年マックス(フレディ・ハイモア)とヘンリーおじさん(アルバート・フィニー)は楽しい日々を過ごしていた。ブドウ畑に囲まれた屋敷での生活は、マックス少年にかけがえのない思い出を残したが、それもすべては「人生を楽しむ達人」たるヘンリーおじさんがいたから。おじさんはくだけた会話の中で、マックスにさりげなく人生の含蓄に満ちた言葉を語って聞かせた。それから幾年月。マックス(ラッセル・クロウ)は大人となり、大都会ロンドンの金融最前線にいた。株のトレーダーとして、強気の商売を繰り広げる毎日。合法非合法スレスレのやり口も辞さないマックスは、常に周囲に多くの敵をつくっている人物。それでも勝者であり続けていれさえすればいい…。「勝ち組」であることに最大の価値を見出す今のマックスに、少年時代の面影は全く見られなかった。ところが、そんなマックスの元に一通の訃報が…。それは何とあのヘンリーおじさんの死の知らせだった。ならばあの屋敷を売り払ってカネに替えなくてはならない…と、そんな発想しか出て来ないところが今のマックスの悲しいところ。折からちょうど強気の取り引きが災いして尻に火がついたマックスは、ほとぼりを冷ます意味でもロンドンを離れる必要があった。こうして単身フランスへと降り立ったマックスは、秘書が手配したえらく窮屈な小型車に悪戦苦闘しながら、一路懐かしのプロヴァンスへと走る。道に迷いながらやって来た問題の屋敷は、主を失ってヒッソリとしている。一瞬郷愁に囚われながらも、次の瞬間にはロンドンでの商売と屋敷の売却へと考えが戻ってしまうマックス。彼は屋敷とブドウ園の面倒を見てきたデュフロ(ディディエ・ブルドン)と妻リュディヴィーヌ(イゼベル・カンディエ)に暖かく歓迎されるが、そんな彼らの気持ちもマックスには届かない。そんな彼は携帯でしゃべりながら運転して、気づかぬうちに途中で自転車に乗った若い女性ファニー(マリオン・コティヤール)をひき殺しそうになる。路肩にひっくり返るハメになった彼女は、去っていく小型車に向かっていつの日かのリベンジを誓うのだった。そんな恨みを買っているとは知らないマックスは、公証人(ヴァレリア=ブルーニ・テデスキ)と商談を進めてゴキゲン。知人の不動産屋チャーリー(トム・ホランダー)のアドバイスで屋敷の写真をデジカメで撮り始めるが、つい迂闊にも水のないプールの底に落っこちてしまう。幸か不幸かそこに通りかかったのが…彼にひき殺されかかったファニー。彼女はプールに水を放水して、マックスをずぶ濡れにして溜飲を下げる。しかも悪いことは続くもので、ロンドンでは彼の強引な手口が問題になって停職となり、そのためにマックスはここプロヴァンスに居残ることになってしまった。しかし…そうなればそうなったで、屋敷とプロヴァンスの魅力を徐々に思い出すマックス。しかもマックスは、最悪の出会い方をしたファニーにも惹かれていく。そんな折りもおり、何と「ヘンリーおじさんの隠し子」と自称するアメリカ娘クリスティ(アビー・コーニッシュ)まで現れて…。

みたあと

 勇壮な超大作「グラディエーター」のコンビ、リドリー・スコット監督とラッセル・クロウの二人の再度の顔合わせ映画が、こんな軽量級の作品だとは思いもしなかった。おまけに「ブラックホーク・ダウン」(2001)や「キングダム・オブ・ヘブン」などの作品もいかにも重量級なので、この映画はちょっとリドリー・スコットとしては「柄にもない」作品に見えてしまう。だが忘れちゃいけないのは、リドリー・スコットが一作ごとにまるっきり違った顔を見せて、まるっきり違うジャンルの作品に挑戦していること。最初の頃こそ、スモークと逆光という「映像のスタイリスト」ぶりで独自の意匠を見せていたものの、昨今の作品ではそんなわざとらしい「スタイル」すら見せなくなってしまった。しかもリドリー・スコットには、近作に「マッチスティック・メン」(2003)という小品佳作があったではないか。この作品には「マッチスティック・メン」にあった愛すべき小粒な味わいが生きているのだ。

みどころ

 正直言って「素晴らしい南仏プロヴァンス」とか「スロー・ライフのススメ」とか言われても、イマドキ手垢が付きまくったイメージでしかない。都会より田舎がいい、のんびり人生の方がいい…とか言われても、「じゃあどうしてみんなそうしないの?」と言いたくなる。あまりにワン・パターンで空疎なメッセージ。「とにかく反論は許さない」的な「タバコ有害論」とか「大本営発表」などと同じ、思考停止しちゃった奴の発想みたいで、どうも僕なんぞは胡散臭く感じられてならないのだ(ただし告白すると、僕も今はタバコは吸っていないが)。ところが映画巧者のリドリー・スコットは、同じメッセージを掲げてもそんな愚にも付かない映画はつくらない。結局は同じことを言っているのに、なぜか受ける印象は180度違うから不思議なのだ。しかも「映像のスタイリスト」であることをやめたリドリー・スコットの映画は、近年その素晴らしさを増していると同時に、その「素晴らしさの秘密」…どうしてこのような素晴らしい出来栄えになったのか…を見る者に分からせてくれなくなった。素晴らしいんだけど、なぜ素晴らしいのか分からない。確かにラッセル・クロウが屋敷に辿り着いて、思わず囓ったトマトの汁がビチャッと仕立ての良さそうなワイシャツに付着する…そこに端を発して、ついには彼が汚いプールの中で水浸しになるまで、ラッセル・クロウの金融マンとしての衣裳であるスーツはどんどんグチャグチャになっていく。それと同時に彼の中の少年時代の心が甦っていく…という趣向は分かるのだが、それだけではこれほど説得力ある映画にはなるまい。この作品は「スロー・ライフのススメ」的映画の中では、「ローカル・ヒーロー/夢に生きた男」(1983)のレベルに達した作品だ。あとこのジャンルの成功作としては、強いて言うなればピクサーのCGアニメ「カーズ」(2006)ぐらいであろうか。そのくらい味わい深く素晴らしい作品だが、その理由はうまく説明できない。ひょっとして「なぜ素晴らしいのか分からなくなった」というのは、リドリー・スコットが小手先のテクニックを弄さなくなって映画作家として円熟してきたということかもしれない。ここはただ、リドリー・スコットが前述の作品に加えて「ブレードランナー」(1982)や「ブラック・レイン」(1989)などでも繰り返し訴えているように、終始一貫「人間は変われるのだ」と言い続けていること、そして僕がこの映画の中で一番気に入っているのが、ハリー・ニルソンの「ジャンプ・イントゥ・ザ・ファイア」をBGMに繰り広げられるラッセル・クロウとディディエ・ブルドンのテニス対決場面だ…ということを挙げるにとどめたい。

さいごのひとこと

 ワインばかりでいつものうどんが出ない。

 

「インランド・エンパイア」

 Inland Empire

Date:2007 / 09 / 03

みるまえ

 デビッド・リンチである。この人の映画なら、何が起きてもおかしくないから不思議。ダーレン・アロノフスキーの「ファウンテン/永遠につづく愛」(2006)より変な事が画面で起こっていても、誰も何も驚きはしない。ハッキリ言って僕はこの人の映画は分からない。実は、分かろうとも思っていない(笑)。ただ、この人の前作「マルホランド・ドライブ」(2001)では、よく分からないながらも妙な感銘を受けた。だからこの久々の作品に、秘かに期待を持っていたことも事実だ。ただ…イヤな予感を持たせる点もないではなかった。まずはこの映画、3時間もあるということ。これは正直言って生理的にキツイ。リンチ映画だとこのキツさが2倍になりかねない。そしてチラシに書いてあった誰かのコメントが…「この作品も誰でも観られるかといえば、選ばれた人間だけ、リンチ的センスを持つタイプに限るとも言うべきか」…などと妙にエラソーなのも気に障った。「選ばれた人間」ねぇ。さらにイヤなのは、この作品がデジタル・ビデオ撮影されたということ。デジタル・ハイビジョン・カメラで…ではない。一時期のラース・フォン・トリアー提唱の「ドグマ」みたいに、市販のデジタルビデオ・カメラで撮影されているのだ。それを聞いて、僕のイヤな予感は最高潮に達した…。

ないよう

 それはホテルへの女の出張サービスであろうか。顔はよく見えないが、やって来た女と部屋にいる男とのやりとりは、そんな雰囲気を醸し出していた。そんな一方で…豪華ではあるが現実感のない別の部屋には、明らかに東欧系の女(カロリーナ・グルシュツカ)が、やたら深刻な表情でテレビを観ている。そこに映っているのは…先程の出張サービスの女だったり、あるいは妙ちきりんなウサギの着ぐるみの人々が織りなすコメディ・ショー。ところでロサンゼルス郊外の立派なお屋敷に、今ひとりのオバサン(グレイサス・ザブリスキー)がおっかない顔してやって来たところ。がらんとデカいお屋敷でオバサンを迎えたのは、この家に住む映画女優のニッキー(ローラ・ダーン)。オバサンは近所に引っ越して来たので挨拶に来たと言う。そのへんまではマトモな話だったが、だんだん言ってることがおかしくなって…そんな会話の中で、最近女優としては不遇のニッキーが久々に大役にありつきそうなことが語られる。するとオバサンはさらにおっかない顔で、「その役は取れます!」…何でオバサンがそんな事を知っているのか。そんな奇妙なやりとりを、陰に隠れて固唾を飲んで聞き耳を立てているニッキーの夫(ピーター・J・ルーカス)…。オバサンの予言通り出演が決まった映画は、「暗い明日の空の上で」なる作品。顔合わせのミーティングで喜びを隠しきれないニッキー。監督のキングスリー(ジェレミー・アイアンズ)、助監督(ハリー・ディーン・スタントン)、さらに相手役のデヴォン(ジャスティン・セロー)もニコヤカに笑って華やいだ雰囲気だ。「これでキミは返り咲きも夢じゃない!」…そんなニッキーの「帰還」はテレビのセレブ・ショーでも取り上げられる。ただし、あくまでゴシップ興味絡みではあるが…。「暗い明日の空の上で」は、それぞれが相手ある身の男女の不倫の物語なのだ。司会者(ダイアン・ラッド)は番組に出演したニッキーとデヴォンに盛んにカマをかけるので、二人は内心辟易。そんなトホホな内容の番組も、一応外見上はキレイにまとめるアナウンサー(ウィリアム・H・メイシー)のナレーション。「ハリウッドではスターは夢、夢はスターなのです」…。そんなある日、スタジオに建て込まれた「1950年代風」住宅のセットの片隅でリハーサルしようと待ち構えていたニッキーとデヴォンは、やって来た監督キングスリーと助監督の表情が浮かないことに気づく。問いつめてみると…そのサエない表情の理由は、この映画の成り立ちにあった。実はこの「暗い明日の空の上で」は、オリジナルではなかった。ハリウッドお得意のリメイク作品…それもポーランド映画で未完のまま終わった「47」なる奇妙な作品のリメイクらしいのだ。そして二人が浮かないのは、何もリメイクだったからではない。「47」が未完に終わったのは主演の二人が殺されたから…というのがその最大の理由だ。誰が口にするともなく、何となく「呪われた作品」というムードが漂い出す。ちょうどその時、作りかけのセットの中に誰かが潜んでいる気配がする。慌ててセットに駆け寄り人影を追うデヴォンだが、残念ながらその人物を取り逃がしてしまう。果たしてその人影とは…。そんなこんなで始まったこの映画の制作だが、何と例のセレブ・ショーの司会者の言葉は徐々に現実のものとなっていく。主演の二人ニッキーとデヴォンは、不倫の関係に陥っていくのだ。そんなこんなで、ニッキーには映画と現実がだんだん区別つかなくなっていく。そんな折りもおり、白いシャツの女(ジュリア・オーモンド)が警察の取調室にいる。妙に興奮状態の女は、刑事に「ドライバーで人を殺した」とか「催眠術をかけられた」とか話しているが、何だか脈絡がない。ところがその腹には…ドライバーが突き刺さっているではないか…!

みたあと

 映画サイトの管理人がコレ言っちゃっていいのかと思うけど…この映画、まったく分かりませんでした(笑)。まぁ、デビッド・リンチの映画が分からないのは今始まったことじゃない。「ロスト・ハイウェイ」(1997)なんかチンプンカンプンだったけど、それでも全編に漂うただならぬ雰囲気に前のめりで見た記憶がある。冒頭に流れるデビッド・ボウイの歌も大好きになった。連発する気持ちワル〜いイメージにも妙に惹かれた。あの映画に眠気は全く感じなかったのだ。途中、あまりにも分かりやすいリンチとしては異色作の「ストレイト・ストーリー」(1999)を放ってファンを驚かせたものの、続く「マルホランド・ドライブ」はまたまたお得意のダークな路線に復帰。この作品、口が裂けても「分かった」とは言えないまでも、何となくその言わんとしている事は理解できた気がする。ハリウッドで夢破れた女の哀れが浮かび上がって来て、この映画は個人的にはすごく好きだ。逆に、訳分からないリンチ映画のファンには、これは少々理に落ち過ぎていてモノ足りないかもしれない。ともかく、その分かる分からないはともかく…リンチの暗くて奔放なイメージには、僕も一目置かずにはいられなかったのだ。そういう意味で言えば、今回も典型的なリンチ映画と言えるのかもしれない。分からない。謎めいている。そしてドス黒い悪夢のようなイメージの乱舞…。しかも今回も「マルホランド・ドライブ」と同じく、一種の映画人残酷物語らしい。ただ、今回ばかりは僕にとってちょっと違う点がある。…僕はこの映画、眠くて眠くて仕方なかったのだ…。

こうすれば

 分からないからつまらないのか。いや、「ロスト・ハイウェイ」はちっとも分からなかったけれど、スクリーンに目がクギづけになった覚えがある。なのに、何で今回だけはつまらなかったのか。これを白状しちゃったらリンチが分からないダメな感性の持ち主…と決めつけられてしまいそうだが、分かってもいないのに分かってるフリする今野某みたいなブザマなことはやりたくない。誰かがネコに鈴をつけなきゃならないなら、思い切ってここで僕がつけよう。僕にとってはこの映画、ハッキリ言って退屈そのものだった。確かに「マルホランド・ドライブ」みたいに「手がかり」らしきモノは散見できる。ローラ・ダーン演じる女優にしても、本当はあんなにデカい屋敷に住むほど恵まれたポジションにはいないんじゃないか? 役が決まった時の狂ったような喜びぶりを見ているうちに、何となくそんな気分にもなる。ただ、そこから先はよく分からないし…実は分からなくてもどうでもいいという気分になってしまった。正直言ってカッタルかった。僕はリンチ作品に限らず、「分かった」から面白い「分からない」からつまらないとは思わないようにしている。実際、「ロスト・ハイウェイ」はちっとも分からないけれど面白い。実際に楽しめた。逆に言うと、この映画がつまらないとしても、それは「分からない」からではない。単に「つまらない」からだ。それは…こう言っては語弊があるかもしれないが、今回の「闇」がフィルムの真のドス黒い「闇」ではなく、安っぽい一般用デジタルビデオの「闇」だったからではないか。どうも全編見ていて映画の「絵」の魅力を感じない。狭いアパートの廊下みたいなところを行ったり来たりしている場面の連続みたい。デジタル・ビデオだから、画面も深みがなく薄っぺらい映像だ。イメージとして狭っ苦しくて楽しめない。何よりダークな「豊かさ」がない。いいかげん飽きちゃったよ。おまけにデジタル・ビデオの使用は、「手軽さ」の反面「お手軽さ」を生み出してしまう。制作予算の小ささや段取りの簡単さのために、作り手は気軽に映画がつくれる気がする。その気軽さが勢い余って、どうしてもマスターベーション的な作品を生みだしかねないのだ。むろんデジタル・ビデオをうまく活用している映画作家もいる。ダニー・ボイルの「28日後…」(2002)などはその好例だ。だが、逆に作り手が悪ノリしてダラダラと内輪ウケ映像を垂れ流しする作品も、残念ながら少なくない。それがすべてデジタル・ビデオのせいとは言わないまでも、デジタル・ビデオがお気軽に安易に映画をつくるキッカケになっている気がしてならない。そもそもいつも2時間半以下の映画をつくってきたリンチが、今回ばかりは3時間の作品をつくってしまった時点で、内容が引き締まってないということは言えるのではないか。その「引き締まらなさ」は、映画の終盤にやってくる一場面を見ても伺える。実は劇中に、なぜかテレビ画面を深刻な顔をして見つめる東欧女性(カロリーナ・グルシュツカ)が何度も出てくる。それがローラ・ダーンの主演している映画の元ネタであるポーランド映画「47」の主演女優らしいこと、彼女は愛欲の中で命を落として…日本的に言うと成仏できないでいるとでも言おうか(笑)…ともかくどこかに囚われたままの無限地獄のような状態にいるようなのだが、終盤でローラ・ダーンが彼女の元に現れ、二人は堅く抱き合う。それによって東欧女は「解放」されるようなのだが…これは実物を一見していただければ分かると思うが、ローラ・ダーンがやって来て抱き合ったら東欧女が解放される…という描写自体が、どうにも一昔前の学生映画というか素人映画みたいな陳腐さなのだ。本当に昔のアマチュア8ミリ映画などには、こんな描写がよくあった。これなどはちょっと安易な出来栄えではないだろうか。あの一場面だけでも、この映画は「分からない」からつまらないのではなく、単につまらないのだと断言できる。

みどころ

 個人的にはピーター・ボグダノビッチの「マスク」(1985)からスピルバーグの「ジュラシック・パーク」(1993)に至るまで僕のご贔屓だったローラ・ダーンが、全編大活躍していることが嬉しかった。ただ…オバチャンになる前にもっと主役をやって欲しかったというのが正直なところだが。

さいごのひとこと

 つまらないのを客のせいにしちゃダメ。

 

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