新作映画1000本ノック 2007年07月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「マルチェロ・マストロヤンニ/甘い追想」 「街のあかり」 「ラッキー・ユー」 「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」 「イラク/狼の谷」 「ハリウッドランド」

 

「マルチェロ・マストロヤンニ/甘い追想」

 Marcello, Una vita dolce

Date:2007 / 07 / 30

みるまえ

 以前、ドキュメンタリー映画に興味はないなどと書いたことがあるが、実はキライなわけじゃない。実際、ミュージシャンや映画人についてのドキュメンタリーはすごく好きで、大分前に公開されたレニ・リーフェンシュタールのドキュメント「レニ」(1993)などはドキドキしながら見た。ちょっと前に見た「永遠のモータウン」(2002)も圧巻だった。実はここ最近もブライアン・ジョーンズに関するドキュメンタリーなどがあって、大いに興味をそそったものの…残念ながら忙しくてそうそう見ることのできない状況に陥ってしまった。やっぱり見る機会が限られてしまうと、どうしても劇映画の方が優先順位が高くなるのか。そんな状況の僕も、この映画だけは見たかった。イタリアきっての名優にして大スター、マルチェロ・マストロヤンニを振り返る映画とくれば、見ない訳にはいかないだろう。特に僕は1970年代からかろうじて映画を見始めた映画ファンで、しかも日本ではその1970年代はヨーロッパ映画不毛の時期だったと来る。マストロヤンニの映画史におけるプレゼンスの大きさやその魅力を知らないわけではないが、その全貌まではつかめていない。ならばこの映画で、この稀代のイタリア役者バカのすべてをおさらいしておくのもいいだろう。限られた時間をやりくり付けて、何とか劇場に足を運んだわけだ。

ないよう

 モノクロ画面に、クルマを運転するマルチェロ・マストロヤンニが登場。1965年当時、彼は41歳。イタリアで最も有名で最も高いギャラをとる俳優だ。「有名? それほどでもないさ。カネが大事だと思ったこともない」…この映画ではこの41歳の時のマストロヤンニやその周辺のフェリーニ、ヴィスコンティ、ソフィア・ローレンなどの映画人へのインタビュー映像、そしてマストロヤンニの二人の娘…バルバラとキアラへのインタビュー映像を中心に、彼とゆかりの数多くの映画人へのインタビュー映像やかつての記録映像、そしてその出演作のフィルム・クリップを交えて構成される。

みたあと

 前述の「ないよう」を読んで「何と素っ気ない内容紹介だ」と思われるかもしれないが、これ以上書きようがないんだから仕方がない。これ以上書くとしたら、内容を逐一再録する以外に書きようがない。これはそういう映画なのだ。構成についてもうちょっと詳しく書くと、映画の根本になっているのは1964年にアントネッロ・ブランカという人物が撮影したというマストロヤンニへのインタビュー映像で、これが全編のうちかなりの分量で登場。その次に多いのが二人の娘のインタビュー映像で、これは今回新しくデジタル・ビデオで撮影された素材となっている。その他のエットーレ・スコーラやジュゼッペ・ロトゥンノ、ジュゼッペ・トルナトーレ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、トニーノ・グエッラ、フィリップ・ノワレ、リナ・ウェルトミューラー、リリアーナ・カヴァーニ、サンドリーヌ・ポネール…などの映画人へのインタビューも、デジタル・ビデオによる新撮影。そこに「赤いアモーレ」(2004)のセルジョ・カステリットによるナレーションが入るという布陣だ。こうした豪華な顔ぶれを見ているだけで、映画ファンなら楽しめてしまうだろう。

みどころ

 むろんマストロヤンニの過去の作品の断片なども収録されているので、彼の魅力が大いに味わえるのは間違いない。マストロヤンニへのインタビュー映像やフェリーニのコメントなど、そのエピソードひとつひとつがマストロヤンニの主演映画みたいだ。やっぱり稀代の名優は、稀代のキャラクターの持ち主だったと感心させられもする。そしてお楽しみの大きな部分は、やっぱり新撮影による豪華な映画人のコメンタリー場面だろう。中でも衝撃だったのは、クラウディア・カルディナーレの現在の姿。かなりな年齢になっているだろうと想像はつくから、おばあちゃんになっているだろうと察しはついていた。しかしここに出てきた彼女の顔には正直ビックリ。おばあちゃん通り越して何だかお化けみたいな顔になっちゃっているのだ(笑)。カルディナーレと言えば、その出演作を最後に見たのは「ラ・スクムーン」(1972)あたりか「フィツカラルド」(1982)だろうか。昔の彼女の美しさや可愛さを知っている僕としてはただただショック。やはりこの映画にコメントを寄せているアヌーク・エーメが、老いたりとはいえ往年の可愛らしさとチャームをどこか留めているのを見ると、この「8 1/2」出演の2大女優の対照的な末路にしばし愕然としたりする。このあたりは、さすがに映像の力だろう。

こうすれば

 しかし見ているうちに、何となくスッキリしない気分を感じてくる。いろいろなコメントが寄せられ、さまざまなエピソードが紹介されはするものの、それでマストロヤンニの実像や知られざる姿が浮き彫りになってくる訳ではない。どんな人間だったのかが分かる訳でもない。伝わって来るのは、僕ら映画ファンがマストロヤンニに対して抱いているイメージそのもの。マストロヤンニは僕らが映画で見ていた通りの奴だった…という結論を語りたいのならそれもいいだろうが、それにしてはマストロヤンニはさまざまな役を演じてきた俳優だ。そしてマストロヤンニは映画のまんまだった…ということを、この映画の作者…監督のマリオ・カナーレとアンナローザ・モッリは特に語りたい訳でもないようだ。では、そうしてそういう印象になるかと言えば、ハッキリ言ってこの映画の作者たちの突っ込みが浅すぎるからだ…としか言いようがない。まずは映画の中心に据えた1964年撮影のインタビュー映像に、あまりに頼りすぎているのではないか。例えばフェリーニ、ヴィスコンティ、ピエトロ・ジェルミなどのコメントも出てくるものの、どうもこれらも1964年の同じフィルムからの抜粋らしい。特にフェリーニは特別な存在だけに、他に何か素材を見つけることは出来なかったのか。これらの人物たちは亡くなってしまったから仕方ないにしても、まだ生きているソフィア・ローレンまでこの映像からの抜粋というのは、さすがにいただけないのではないか。名コンビとして何作も代表作を放ったローレンに新撮影インタビューを試みなかったのは、正直言って怠慢としか思えない。おまけに一時期同棲していたカトリーヌ・ドヌーブやフェイ・ダナウェイに至っては、資料映像すら出てこない。むろんこれらの女優たちが必ずしも喜んで協力するとは思わない。ひょっとしたら断られたかもしれない。しかし資料映像すら入れないというのはいかがなものだろう。元々作り手の気持ちに怠慢さがあったことを伺わせる事実ではないか。さらに、晩年は世界の巨匠たちと組んでの映画作りに精力的に取り組んでいたマストロヤンニだ(確か1970年代には市川崑にも誘いをかけたはずだ)。ニキータ・ミハルコフ、テオ・アンゲロプロス、マヌエル・ド・オリヴェイラ…なども完全に無視しちゃうのはどうなんだろう。もちろんこの手の映画は、あれを入れてないこっちを入れれば良かったと…ないものねだりを言い出したらキリがない。それでも今回のこの作品は、あまりに入ってなきゃいけない「マスト・アイテム」が欠けすぎている。おまけにマストロヤンニ作品の断片映像の集め方ですら貧弱だ。彼の名演・名場面があまりに入っていない。せいぜい「昨日・今日・明日」(1963)でのローレンのストリップ場面ぐらいではあまりに寂しい。そんなこんなから伺えるのは、この映画の制作者の「安く早くつくっちまおうぜ」という態度ではないか。確かに映画ファンには楽しい映画だが、その楽しさはマストロヤンニという俳優が本来持つ魅力ゆえのもの。この映画の出来がいいからではないのだ。

さいごのひとこと

 ローレンに取材なしのマストロヤンニ映画なんて。

 

「街のあかり」

 Laitakaupungin valot (Lights in the Dusk)

Date:2007 / 07 / 30

みるまえ

 アキ・カウリスマキの新作…と聞いて胸がときめいたのは、一体いつ頃までだっただろうか。かつてはあんなに衝撃的だったこの人の映画も、近年はすっかりマンネリなイメージがある。公開されれば世評では大絶賛だろうしミニシアターではヒットするんだろうが、以前のこの人の映画ってこんなもんじゃなかったんだよ。とはいえ、近作「過去のない男」(2002)はここんとこのカウリスマキ映画では出色の出来だった。さらに、次いで発表した巨匠監督たちのオムニバス「10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス」(2003)のトップを切って登場する「結婚は10分で決める」ときたら…たった10分の短編ながら「過去のない男」の出来栄えを遙かにしのぐ快調な一作ではないか。これってここ何年かのカウリスマキ映画の中でもピカイチかも。そんなわけで、今回公開される「街のあかり」にも期待がかかるところ。ただし…タイトルが何となく「浮き雲」(1996)みたいなショボいイメージなのが気にかかる。

ないよう

 大都会ヘルシンキ。真夜中に警備員の制服に身を包み、黙々と街を歩く男がいる。この男コイスティネン(ヤンネ・フーティアイネン)は、無口・不器用・無愛想の三重苦と来る。だからコイスティネンが夜警の見回りから会社に戻っても、上司は「口のきき方を知らねえ奴」と彼を毛嫌いするし、同僚も思いっ切りあからさまに無視する。バーに行って女に声をかけても、連れの男に脅される始末。情けない。ところがそんなコイスティネンの姿を、ある男がしっかり目を付けていたのだが…。結局コイスティネンの居場所はどこにもなく、空き地でショボく店を開いている軽食スタンドに立ち寄るしかない。そこで地味な女アイラ(マリア・ヘイスカネン)が焼くソーセージを注文して、「このままで終わるつもりはない。いつか起業して見返してやる」とホザくコイスティネンだが、彼の言葉を聞いてやるのはこのアイラだけだ。そんなコイスティネンの前に、一人の女が現れる。喫茶店でボケッとしていた彼の向いの席に、その女ミルヤ(マリア・ヤルヴェンヘルミ)が座ったのだ。「あなたが寂しそうだった」…そんなミルヤに惹かれたコイスティネンは、言われるがままに彼女をデートに誘う。だが、映画を見に行ってもコイスティネンの目はスクリーンではなく彼女にクギ付け。ディスコに連れて行けば、踊れないコイスティネンは別の男にミルヤをさらわれてしまう。それでも次のデートの約束をとりつけるコイスティネン。当然の事ながら、世の中にそんなうまい話はない。ミルヤはギャング(イルッカ・コイヴラ)の情婦で、この男の命令でコイスティネンに近づいていたのだ。一方、コイスティネンから「恋人ができた」と知らされた軽食スタンドのアイラは、早々と店じまいして一人で暗く落ち込むのだった。さて、その夜も巡回に出発するコイスティネン。ところが今夜はなぜかミルヤが途中でやって来た。「仕事ぶりが見たい」と言う彼女に、就業規則通り「部外者は入れない」などと杓子定規な言葉を言うことなんて出来ない。コイスティネンが宝石店の電子ロックを解除する際に、ミルヤは暗証番号を目を皿のようにして見つめていたが、むろんそんな事に気づくコイスティネンではない。そして、ついに彼の部屋にミルヤがやって来る日。用意してあるのがパンばかりというのが野暮なこの男らしいところだが、ミルヤは「母が病気で実家に帰らないと」とサッサと立ち去ってしまう。むろん洋の東西を問わず、これは女が男をソデにする時の常套手段だ。コイスティネンはヤケ酒をあおり泥酔。そんな彼を介抱したのは、あの地味な女アイラだった。ところがミルヤは、再びコイスティネンの前に姿を見せる。それも彼が巡回を終えたちょうどその時だ。ミルヤは「話がある」と彼を連れ出し、まんまと眠り薬入りのコーヒーを飲ませることに成功。コイスティネンが眠りこけているうちに、彼女は警備用の合い鍵を持ち出した。それからまもなく、ギャングたちがこの合い鍵を使って宝石店に押し入ったのは言うまでもない。当然のことながら、真っ先に疑われたのがコイスティネンだ。それでもコイスティネンは知らぬ存ぜぬを押し通す。ダマされたと分かってはいても、彼はミルヤの名を明かそうとはしなかった。結局、証拠不十分で釈放されるコイスティネン。しかし警備会社が彼をクビにするには、逮捕されたという事実だけで十分だった。近所のスーパーで買い物をしても、店員(カティ・オウティネン)は愛想ひとつ返さなくなった。ところがそんなコイスティネンの部屋に、またしてもあのミルヤが訪ねてくる…。

みたあと

 徹底的に救いのない物語。一度落ちるところまで落ちた主人公を、それでは足りなくてさらに突き落とす徹底ぶり。まさに純度100パーセントの冷たさ。研ぎ澄まされた感じ。それは、従来のカウリスマキ映画だったらそこはかとなく漂っていたはずのオフビートなユーモアが、今回はほとんどと言っていいほど見られなかったことでも明らかだ。確かに近年そのヌルさが目立っていたカウリスマキ作品が、久々に鋭さを取り戻したという印象がある。

みどころ

 そんな今回の作品は、スットボけたユーモア以外の今までのカウリスマキ作品の特徴を、従来以上に際だたせているかのように見える。例えば、そのクールさ。僕が初めてカウリスマキ作品に触れた作品は「マッチ工場の少女」(1990)だが、あれもかなり殺伐たるお話だった。今回はあのシビアさが久々に帰って来た感じ。いや…むしろその冷え冷えとしたタッチ、情け容赦なさはこっちの方がダントツだ。安易なセンチメンタリズムや感情移入に流れないのがアキ・カウリスマキ流ながら、今回ほどそれを突き詰めた作品はないかも。夢も希望もない。悪人たちは主人公をこれでもかと翻弄し、自分たちは私腹を肥やして罰せられることもなくのうのうとしている。そしてもはや自分たちの利益とは関係なくなっても、さらに主人公を踏みにじる。主人公はお話の出発点からして希望などないのに、さらに奪われはぎ取られむしり取られ…もはや何もないところまで追いつめられる。ここまでやるか…と思ってしまう酷薄さだ。そして映画技法的なことでも、従来のカウリスマキ・イズムをさらに追求。特に、人物の正面からのバストアップ・ショットを連発している点に注目だ。登場人物がまるで記念写真みたいにカメラを真正面から向いて会話する…あのショットだ。元から小津との関連性を云々されていたカウリスマキだが、まるでそのパロディみたいに小津っぽいショットを多用している。さらに「白い花びら」(1998)で実際にサイレント映画をつくったカウリスマキは、今回もそのサイレント的傾向を顕著に押し出している。それでなくても無口な主人公だから、放っておいても映画がサイレント化するところ。特に映画前半における音楽の使い方が、サイレント映画における伴奏音楽の「それ」と酷似しているあたりも注目に値するところだ。だから今回の作品はある意味で、カウリスマキ映画の集大成的なものを目指したフシがあるように思える。チョイ役にも関わらずカウリスマキ映画常連のカティ・オウティネンがわざわざ顔を見せているあたり、そんな雰囲気が濃厚だ。

こうすれば

 確かにそんな意味でここ数作のカウリスマキ作品よりも緊張感と純度が高く、映画的には水準が高いと思われる今回の作品。昨今の作品に忍び寄っていたマンネリも打破できたかに見える。ただし、それが好きになれるかと言うと、僕は否だ。この素晴らしさが分からないのか…と言われても、好きになれないものは仕方がない。その予感は、映画を見る前に劇場パンフを買って冒頭の文章を読んだ時から感じていた。そこにはアキ・カウリスマキ自身による今回の映画の紹介文みたいなものが載っていたのだが、そこに「主人公にとって幸いだったのは、この映画の監督が心優しい老人だったということです」…などと寝ぼけた一文が書いてあったのだ。テメエでテメエのことを「心優しい老人」などとホザく輩にロクな奴はいない。少なくとも、これは僕が知っていたアキ・カウリスマキの言うような言葉ではない。ここで感じた猛烈な違和感と失望は、映画を見て感じた違和感と失望に完全に合致する。主人公を窮地に追い込むのはいいとして、途中から主人公をただ追いつめるだけのために追いつめている…手段が目的と化してしまったようなのが気になった。これを説明するのは難しいが、劇的必然性もなしにただ主人公を痛めつけているだけ…とでも言おうか。ハッキリ言って、劇中の悪漢が皿洗いして働いている主人公の職を奪うところまでやる必要はない。それは単に橋田寿賀子ドラマみたいな悪趣味でしかない。まるで「グエムル/漢江の怪物」(2006)のラストで殺す必要もない登場人物を殺したような…作り手の性根に奢りみたいなイヤ〜なものを感じるのだ。心底悔しい思いをした人間に、こんな映画はつくれない。ラストに「救いがある」なんて言われても、あんなモノで誰が救いになるのか。そんな事を思えるのは、アキ・カウリスマキが数々の映画祭で受賞をして、世界各国で作品が上映される著名な映画監督だからだ。これを楽しく見れる人間は、本当にイヤな思いもしたことのないハッピーな奴だろう。僕は見ていてすごく気が滅入ってしまった。

さいごのひとこと

 そこまでやるかカウリスマキ。

 

「ラッキー・ユー」

 Lucky You

Date:2007 / 07 / 23

みるまえ

 ラスベガスのギャンブラーのお話。「L.A.コンフィデンシャル」(1997)のカーティス・ハンソン監督…と聞いてもピンと来ない。正直言ってこの人の映画にはなぜかあまり縁がない。「ゆりかごを揺らす手」(1992)、「8 Miles」(2002)、「イン・ハー・シューズ」(2005)も見逃してしまった。かつ、数少ない見た作品にも特に共感などは抱かなかったので、「だから何なんだ」といったところだ。主演はエリック・バナ…と聞いても、「ハルク」(2003)、「トロイ」(2004)、「ミュンヘン」(2005)と続いた主演作での彼に、それほど感心したわけでもなかった。ただし、相手役がドリュー・バリモアと来れば、これは話が別。ドリュー・バリモアでギャンブラーの話で「ラッキー・ユー」。見るしかないではないか(笑)。これはハッキリ言って理屈抜きだ。もう一つそこに上乗せすれば、主人公の父親でこれまたギャンブラーの役に渋すぎるロバート・デュバル。やはり見るしかないだろう。

ないよう

 2003年、ラスベガス。一人の青年が質屋の門をくぐる。青年の名はハック(エリック・バナ)。彼はそこで一個の指輪を質草にカネを得ようとするが、それは彼の母親の形見だった。ただし、ハックはただでは転ばない男だ。質屋の女主人にアレコレと話しかけながら、彼一流の儲けの極意を伝授する。それはハックの人生哲学にも通じていた。人生は駆け引きだ。ハックは自らを、その「駆け引き」の天才だと自負していた。女主人もそんなハックのトークにホレこみ、彼に渡す金額をアップ。またもハックは小さな「賭け」に勝ったのだ。そんな彼は、ラスベガスのカジノを根城にするプロのギャンブラー。ある時はお上りさんをカモにしてしこたま稼ぎ、ある時は油断のならない同業者たちと丁々発止のやり合いをする。取ったり取られたりは覚悟の上。それでもハックは自分を天才と思っていたし、手も常に強気一辺倒だ。そんな彼は、近々開かれるポーカー世界大会への参加をめざし、参加のための軍資金を必要としていた。資金を提供しようと持ちかけるロイ(チャールズ・マーティン・スミス)もいるにはいるが、こいつはハイエナのように分け前を要求するエゲつない男だ。ハックが大事な母の形見まで質草にしたのは、そんなわけだった。しかしそんなハックにも、たった一人「鬼門」とも言える相手がいた。それは彼の実の父親で、伝説的なポーカー・プレイヤーのLC(ロバート・デュバル)。かつては教師だったLCはポーカーにのめり込み、妻の財産を食いつぶしたあげく捨てた。そんな父親LCを、ハックが許せる訳がない。そうは言っても今ハックがポーカーでメシを食っているのは、明らかにこの父親の「血」がなせる業だろう。そんなこんなでLCを前にするとつい冷静さを失い、ムチャな勝負で墓穴を掘りがちなハックであった。そんなハックは、ある晩しつこく男に言い寄られている若い女ビリー(ドリュー・バリモア)を見かけた。そこに割って入って女を救い出したハックは、今度は自ら彼女に甘い誘惑のワナをしかける。しかし…その場に、ハックのやり口は先刻御承知のスーザン(デブラ・メッシング)が登場。ビリーはスーザンの妹で、歌手として働くため今日ベガスに来たばかりだったのだ。ジャマが入ったハックは、サッサとシッポを巻いて退散だ。ハックはこっちの道でも「やり手」で、今まで2晩付き合った女はいない。ヤリ捨てで深入りはしないのがモットーだ。スーザンはそんな彼の流儀を知っているから、妹ビリーに彼だけはやめておけと忠告する。だがそんなハックに、ビリーは何となく好ましい印象を感じていた。だから彼女は、ハックと再び会った時に彼の誘いに乗った。ハックは彼女への歓迎のしるしとばかり、カジノのポーカー・テーブルへと連れていく。そこで早速ポーカーの勝負だ。そこでのハックの華麗な読みや巧みな駆け引きを、大いに楽しむビリー。こうしてビリーは、ごく自然にハックと一夜を共にしてしまう。ところがハックは、翌朝ビリーのなけなしのカネを持って去った。これを元手に世界大会の軍資金を稼ごうという魂胆だが、これにはビリーは怒りに怒る。何とかカネをつくってビリーに返すと平謝りのハックは、初めてポーカーのことになると見境い無しの自分に懐疑的な気分になった。そもそも一人の女に2日と関わらないはずのハックが、ビリーにだけは何だかんだと会っていること自体が異例だ。自分でも、そんな変化に気づかずにはいられないハックだった。とKろおが、そんなこんなしているうちにも世界大会は迫る。手持ちのカネは一進一退で、ちっとも貯まらない。LCがそんなハックの窮状を見かねて援助を申し出るが、もちろんハックがそんなものを受け取れるはずもない。ついつい不利な条件のロイのカネを借りることにしたハックだったが…。

みたあと

 前述したように、僕はカーティス・ハンソンに何ら思い入れもなければ、確固たる印象もない。だから当然のことながら、見ていて「ハンソンならではだなぁ」とも「ハンソンらしくないなぁ」とも思うわけもない。映画としてはラスベガスのギャンブラーの世界という「閉ざされた物語」。派手なアクションも豪華さもない、終始テーブルの上での勝負を描き続ける地味な映画だ。ロバート・デュバルの存在が代表するように「イイ味」出してる作品ではあるが、それ以上でも以下でもない点は否めない。チャールズ・マーティン・スミスやロバート・ダウニー・ジュニアなど気になる役者が出てくるのも嬉しいが、その人選すら「通好み」な感じ。どこかチマッとした感じがするのは致し方ないところだろうか。例えば週末に夜更かししている時にテレビ東京などでこの作品が放映されていれば、ついつい最後まで見ちゃってトクした気分になるような映画。そしたら僕も他の映画ファンなんかに「アレ見たか? 傑作だよ傑作!」などと言いそうな気がする。でも大きな期待を持って映画館まで見に行ったら、ちょっと拍子抜けしそうな…そんな映画だ。あくまで「ちょっとイイ」映画なのである。

みどころ

 そんなわけでハッキリ言ってボケッと見ていたのだが、今までどこがいいのかサッパリ分からなかったエリック・バナについては、その「持ち味」らしきものが分かった気がする。この男、自分で自分の抑えがきかなくなる…自分のコントロールができなくなる役柄には、無類のイイ味を発揮するようなのだ。今回のエリック・バナは最初から最後まで抑えがきかなくなりっぱなし。天才的プレイヤーを自認する割には、親父が出てくると熱くなる。自己過信して強気一点張りの手ばかり張りたがる。軍資金欲しさに女のなけなしのカネまで手をつけて、しまいには気に入らない男にまでカネの無心をする。あげくまたまた親父に挑発されて、折角のカネを巻きあげられる始末。そのくせ「女とは一夜限り」がモットーのくせに、ドリュー・バリモアだけにはそのモットーさえ崩してしまう。このグズグズグダグダぶりが見もの。そう考えれば、「ハルク」も「ミュンヘン」も、彼が抑えがきかなくなるあたりが見どころだったっけ。これはこの人の芸風なのか。相手役のドリュー・バリモアも、彼女本来の「無防備な人の良さ」が120パーセント活かされて適役好演。しかしコテコテのハリウッド・コメディでもこの作品みたいにリアルな感触のシリアス作品でも、演技の質から個性が「まんま」というのはドリュー・バリモアぐらいのものではないだろうか。ドキュメンタリーとの触れ込みの「デート・ウィズ・ドリュー」(2004)を見た後では、彼女っていつも演技してなくて地なんじゃないかと思えてくるほどだ。ただし気になるのは「ラブソングができるまで」(2007)といいコレといい、なぜか彼女が脇に回って引き立て役になっていること。欲がないにも程があるのではないか?

もうひとつのみどころ

 冒頭の質屋でのやりとりは絶品で、正直言って僕はアレがこの映画の最高の場面だと思っている。そこには主人公の「人生は駆け引きだ」「人生は勝負だ」という独自の哲学が打ち出されている。実はこの僕も、どこかで同じように「人生は勝負だ」と思っていた。勝負だから、勝ち負けにこだわった。勝ち組と負け組、損と得があると思っていた。ただし、人生はそんなに単純なモノではない。損と思っていたモノが得だったり、勝ったと思っていたことが負けだったこともしばしば。結局死ぬまで分からないのが人生だ。そもそも勝ち負けがあるかどうかも分からない。それなのに、「人生は勝負」だから「テクニックによれば勝てる」と思っていた。自分の人生がうまくいかない理由を、「駆け引きがヘタだから」と思い込んでいた。「もっと計算づくでやらねば」と思い詰めていた。しかしすべてが「計算づく」でうまくいくほど人生は簡単ではない。というより、そもそも人間が頭で考えられることには限界がある。時には考えるのをやめなければ、その限界は乗り越えられないのだ。そんな意味で言えば、この映画のテーマは僕の最近考えていることとピッタリ重なる思いがした。この映画の主人公のように「計算づく」で勝てると思っているうちは、ひとつ上にはいけないのである。

さいごのひとこと

 「デート・ウィズ・ドリュー」で彼女のあげまんぶりは証明済み。

 

「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」

 Pirates of the Caribbean - at World's End

Date:2007 / 07 / 23

みるまえ

 今頃「パイレーツ〜」の感想なんて…と言われても仕方がないが、最近、これほど見る気が起きなかった話題作もなかった。いやいや、一作目「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)はかなり楽しい作品だった。それまでしかめっ面の気取った映画ばかり出ていたジョニー・デップを、こんなバカバカしい役で使ったセンスも素晴らしかった。当然2作目「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」(2005)に期待がかかる…と言いたいところだが、正直言ってこのネタで2本はキツイ。しかもこの時点で3本目も同時に制作されていると聞いていたから、「え〜っ、まだあるの?」って気になっていた。案の定、見ていてそれなりに楽しめるものの、やたら長いしゴチャゴチャした話で、胸焼けしてきたのも事実だった。今度の「ワールド・エンド」も上映時間は3時間近く。お話についていくのも2作目あたりで息切れしていたし、今さらチョウ・ユンファが加入すると言われてもねぇ。それでも2作目まで見ちゃった以上、最後まで物語を見届けるためにかなり遅れて劇場にやって来た次第。やれやれ…。

ないよう

 海賊たちが自由を謳歌する時代は、終わりを告げようとしていた。東インド貿易会社を率いるベケット卿(トム・ホランダー)は、海賊たちに情け容赦ない弾圧を繰り返す。自らの「心臓」を押さえられた「深海の亡者」デイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)とその「フライング・ダッチマン」号は、海賊たちを捕らえるためのベケット卿の手下として操られていた。捕らえられた海賊とその協力者たちには、一人の例外もなしに縛り首の刑が待っていた。そんな弾圧の犠牲になった海賊少年の歌声が、海賊の最後の抵抗精神をかき立てる…。その頃シンガポールでは、甦ったバルボッサ船長(ジェフリー・ラッシュ)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)が、とある怪しげな巣窟へと招かれるところ。同時にあのジャック・スパロウの配下の者たちも、地下からこの巣窟に忍び込みつつあった。一体彼らは誰に会い、何をしようとしているのか。そこは東洋の海を制圧する海賊の頭サオ・フェン(チョウ・ユンファ)の根城だったのだ。バルボッサとエリザベスはサオ・フェンの持っている「この世の果て」への海図を手に入れ、そこで怪物クラーケンの犠牲となったジャック・スパロウを救い出そうとしていたのだ。またその一方で、サオ・フェンに海賊の危機を解決すべく「評議会」を開くことを提案する目的もあった。サオ・フェンもバルボッサも9人のメンバーからなる「海賊評議会」の一員であり、あのジャック・スパロウもその一人だったのだ。しかしすでにサオ・フェンは、そんな彼らの狙いに気づいていた。しかもマズイことに、彼の海図を盗みに入ったウィル(オーランド・ブルーム)を捕らえていたのだ。万事窮す…となった一触即発状態を打開したのは、皮肉にもベケット卿の軍勢の攻撃。ここでとりあえず海賊として一丸となって戦った一同。特にサオ・フェンとウィルは何やら密談を交わしたが、果たしてその内容とは? ともかくサオ・フェンから海図を借りた一同は、ブラックパール号で「世界の果て」をめざす。酷寒の海を越えてやって来たそこは、何と海がしぶきを上げてなだれ落ちる奈落。ブラックパール号はなすすべもなく落ちていくのだが…。その頃ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)は、白い大地になぜか一隻ポツンと置かれた帆船に乗って、奇妙な妄想に捕らわれながら日々を過ごしていた。そんな彼のもとに、あのブラックパール号の面々がやって来る。「助けに来た」と語るバルボッサ、ウィル、エリザベス、ディア・ダルマ(ナオミ・ハリス)に対して、ジャックは「オレを殺そうとしていた連中を信用できるか」と素っ気ない。それでも「死の国」を脱出するためには団結しないわけにいかず、ジャックは彼らと共にブラックパール号で出発した。途中、「この世」に生還できなくなりかかる危険もあったものの、そこはジャックの機転で何とか脱出。しかし無事に戻って来た「この世」では、ジャックとバルボッサ、ウィルとエリザベス、さらにサオ・フェンらの思惑がさまざまに錯綜。それぞれの不信感も手伝って、裏切りに次ぐ裏切りが展開する…。

みたあと

 まず、やっぱり今回も長かった。そして2作目の時にも思ったことだが、前作までのあらすじをスッカリ忘れてる。前作は1作目だけだからまだ良かったが、今回は1作目と2作目の2本分忘れていることになる。こうなると、さすがにお話も見えない部分が多い。何だか分からないまま見ているという状態のまま、お話が勝手にどんどん進行しているという情けなさだ。実際このお話、いまだにどうなってるのか僕はよく分かっていない。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 そりゃあもちろん、僕の物忘れがひどくなった事も災いしてるだろう。それにしたってドッカンバッカンチャンチャンバラバラと派手な見せ場の連続だから、見てて退屈はしない。退屈はしないながらも、何でそうなっているのか、物語は分からないままなのだ。それには理由もある、2作目の時にも指摘したと思うが、やたらとゴチャゴチャ決まり事が多すぎるのだ。デイヴィー・ジョーンズが出てきて以来、こいつの心臓がどうとか、こいつに魂を売り渡したらどうたらとか、こいつが10年のうち1日だけ陸に上がれてなんちゃらとか…ゴチャゴチャとお約束が並べられる。それが3作目にはさらに倍増。海賊の評議会が何だとかカリプソって女神がどうだとか…大体いつからあの女がカリプソってことになっていたのだ。で、それがドラマにどう影響するのかと言えば、ハッキリ言ってあまり意味がない。公開にそれぞれ2年も間が空く三部作で、こんな約束事ばかりアレコレあったら戸惑うのが当たり前だろう。しかも出てくる主要人物のすべてが相手を出し抜こうと裏切りに次ぐ裏切り。立場の逆転また逆転。このあたり、新東宝映画「女奴隷船」(1959)もビックリの逆転の連続だが、当然のことながらこれはホメ言葉ではない。こちらもお約束のあまりの多さのせいか、誰がどう裏切っているのか、何のために裏切っているのか、そもそも今裏切っている状態なのか…すら分からなくなる。というより、あまりクドくて面倒くさくなってどうでも良くなってしまうのだ。物語を面白くさせようとつくった仕掛けが、面倒くさくてどうでもいいモノにしかなっていない。裏切りが発覚したように見えるその後でも、それが裏切りかどうか判別できない裏切りって、娯楽映画としてどうなんだろう。そもそもお話は単純な楽しさを狙ったものなのだから、もうちょっとスッキリさせることは出来なかったのか。そして今回の売り物のひとつ、チョウ・ユンファの役のつまんなさにはガクゼン。東洋人をバカにしたような役だ…なんてどうでもいいことは構わない。役そのものがなくてもいいモノだから驚いたのだ。こんな役をやっていながらジョン・ウーの新作を蹴ったチョウ・ユンファってどうよ? だがこの映画でもっともマズかったのは、人の生き死にがすごく安易に扱われていること。簡単に言うと、あまりに死んだ人間が生き返りすぎるのだ。前作のエンディングにバルボッサが唐突に甦り、それについては説明がロクにないまま。ジャック・スパロウも甦り、ついでに終盤にもう一人甦る展開になる。それぞれ分かったような説明はつくのだろうが、こうも死人が甦っちゃ緊迫感ゼロだろう。何でもアリの展開になったら、もはやそこにスリルを感じるのは無理な相談だ。何だったら、この際ついでにチョウ・ユンファも甦らせた方が良かったんじゃないの?

みどころ

 ジョニー・デップの好演だけは、見ていて楽しい。他の映画でもこれくらい肩の力を抜いてやってもらいたいものだが、正直言ってこれも3本見ればもういいか。そしてビックリ、キース・リチャーズのゲスト出演。確かキースが出るというウワサはあったが、結局出ないことになったのではないか。キースの「ディズニー映画に出るわけないだろ」的発言も読んだ覚えがあるが、アレは一体何だったのか。僕はキースは出なかったもんだと思っていたので、これにはマジで驚いた。出ないと言いながら立候補したヤンキー先生みたい(笑)にダマされた感じがしないでもないが、期待してなかったのでちょっとだけ得した気分になったね。もっとも見どころはコレしかないんだけど。

さいごのひとこと

 キース主演で「ビギニング」だけはやめて。

 

「イラク/狼の谷」

 Kurtlar vadisi : Irak (Valley of the Wolves : Iraq)

Date:2007 / 07 / 09

みるまえ

 この映画の存在は、海外ニュースか何かで知ったはず。何でもイスラム諸国で大ヒットの反米映画という触れ込みだ。それだけならあまり見たいと思わない。反米だろうと親米だろうと関係ない。どうせ田舎臭いプロパガンダ映画を見せられるだけだろうから、死ぬほど退屈な2時間を味合わされるハメになるだけだ。ところがこの映画、仇役のアメリカ側人物にビリー・ゼインとゲイリー・ビジーという生粋のハリウッド役者を起用しているというではないか。ならばこの映画、確かにプロパガンダではあるだろうが、いきり立って青筋立てるだけの生硬な政治的偏見映画って訳でもないんじゃないか。ここにハリウッド役者を持って来ようという心意気が、ちょっとばかり映画ファン心をくすぐるのだ。しかもこの映画はイラン映画でも他のアラブ系諸国の映画でもない。イラク問題と反米…という点から考えて、いささか疑問を感じてしまうトルコの映画。何故にトルコ映画でイラク? 何故に反米? このトルコ映画としての微妙な立ち位置も、今回大いに気になった次第。これはぜひ見なくては。

ないよう

 2003年、イラク北部クルド人自治区。トルコ軍の基地になぜかアメリカ軍の軍勢が押し寄せる。同盟軍なのに、なぜ? もっとオカシイのは、米軍の指揮官を務めている男が軍服ではなく私服の「民間人」として振る舞っていること。だが、この指揮官サム・マーシャル(ビリー・ゼイン)の権限は絶対らしい。トルコ軍の将校スレイマン(タイフン・エラスラン)は本国に慌てて連絡をとるが、答えは一向に要領を得ない。ならばいっそ戦って死にたいと直訴するが、本国は無抵抗しか指示しない。かくしてトルコ軍の兵士たちは不本意ながら投降し、頭から袋を被せられて写真を撮られるハメになる。そんな屈辱に耐えきれず、スレイマンは無念な想いを友への手紙に託し、ピストル自殺してしまうのだった。それから間もなく、イラク国内を3人の男を乗せて走る一台のクルマがあった。乗っている3人の男とは、精悍な顔つきのポラット・アレムダル(ネジャーティ・シャシュマズ)とその部下らしきメナティ(ギュルカン・ウユグン)、アブデュレー(ケナン・チョバン)という面々。この男たちは訳アリらしく、前方に検問があると気づくや表情が険しくなる。そんな怪しさは検問にいたクルド人の自警団も察したらしく、いきなり彼らをクルマから降ろすと、銃を突きつけて脅し始める。だが役者はポラットの方が一枚も二枚も上手。アッという間にナイフで切り裂かれて絶命。他の検問の自警団も、たちまちこの3人に倒されてしまった。はてさて、この3人の正体はいかなるものなのか? 一方、イラクのある村では…今まさに一組の幸せなカップル誕生を祝って、盛大な結婚の宴が催されようとしていた。ところがそんな村を遠くから眺めている不穏な連中が…彼らは泣く子も黙るアメリカ軍の連中だ。指揮を執るのは御存知サム・マーシャル。彼らがジッと待っているものは何か。やがて結婚式に参列している村人たちが、祝砲代わりに自動小銃を空に向けて発射。その銃声を聞きつけると、待機中のアメリカ軍が一斉に村へとなだれ込んだ。いきなり武装した軍隊が乗り込んで来て、狼狽する結婚式の客たち。そんな客たちにアメリカ軍側は、「テロリストを匿った疑いで全員拘束」と来る。不幸にもそんな最中に、アメリカ兵の銃が幼い男の子の命を奪った。たちまち結婚式場に巻き起こる阿鼻叫喚。相手構わず銃を撃ちまくるアメリカ軍に、家族を奪われ泣き叫ぶ村人たち。そんな騒ぎの最中、結婚式の花婿までが命を奪われた。目の前で新婚の夫の死を目撃した新妻レイラ(ベルギュザル・コレル)は号泣し駆け寄るが、アメリカ兵にブチのめされる。そんなこんなで乱暴狼藉を働いたアメリカ軍は、その場にいた人々を次々とトラックに収容して連行していった。行き着いた先は悪名高いアブグレイブ刑務所と怪しげな医療施設。刑務所では収容した政治犯を虐待し放題。そして医療施設では、生きた捕虜から勝手に臓器を切除する手術を行っていた。切除した臓器は、移植用に西欧諸国やイスラエルへ空輸。執刀している医師(ゲイリー・ビジー)は、結婚式場から連れて来られた捕虜たちを見て激怒する。「殺すなと言ったろ! 死んだら臓器が摘出出来ない!」…ちょうどその頃、ここは高級ホテルのレストラン。食事中の例のポラットたち3人に対して、クルド人自警団の連中が出頭を求める。だがポラットは一向に動じず、平然とこの命令を拒否。自警団の連中にいきなり爆破装置のリモコンを見せつける。何とポラットたちは、このホテルに爆弾を仕掛けたというのだ。あげくホテルの支配人を呼びつけ、客の全員待避とアメリカ軍指揮官マーシャルとの会見を要求するポラット。ちょうど「一仕事」終えたマーシャルは、アメリカ軍に包囲された「厳戒態勢」のホテルにやって来る。マーシャルと初めて向き合ったポラットは、彼と米兵全員に「頭から袋をかぶれ」と要求した。「ははぁ、あのトルコ軍の報復のつもりだな?」…マーシャルが察した通り、元トルコ諜報部員のポラットはアメリカ軍に拘束され屈辱を味わったスレイマン以下トルコ軍の恨みを晴らしにやって来たのだ。しかしマーシャルもさるもの、そう簡単に屈服するようなタマではなかった…。

みたあと

 まず最初に白状しておくと、僕が今まで見たトルコ映画はたったの2本しかない。まずはユルマズ・ギュネイ作品の「路(みち)」(1982)。圧政に苦しむトルコの政治犯たちの悲劇を描く作品だが、実際のところはスイス資本でつくられた作品であり、自身も政治犯として獄中にいた「監督」ユルマズ・ギュネイが、スタッフに詳細な指示を与えて撮影された作品(後に脱獄して自ら完成)。カンヌ映画祭のパルムドールを受賞するなど西欧では評判が高いものの、これは普通のトルコ映画とは少々言いかねるシロモノかもしれない。あとは異色のサスペンス映画「エレベーター」(1999)。テレビの人気キャスターがあるアパートのエレベーターに閉じこめられてしまう話で、こちらはトルコという国の国情やローカル色とは全く無縁で、むしろ見た目はまったく西欧化した作品に仕上がっていた。ただしサスペンス映画としては、いささか野暮てんな出来栄えなのはご愛敬。今となってみると、何でこんな作品が日本に上陸したのか、かなり疑問の残る作品だ。この2本で云々するのはいささか無理があることを承知の上で、トルコで一般の人々が見る映画はどちらかといえば…前者のギュネイ作品(実際に「路」はトルコ国内では公開できなかったはずだ)よりは後者の「エレベーター」の方なんだろう。で、今回の「イラク/狼の谷」も明らかに後者…一般向け大衆娯楽作品として制作されたのは一目瞭然だ。映画は案の定、アメリカ軍がイラクで働く乱暴狼藉の数々を描く作品。そこに乗り込んでトルコ軍やイラク人たちの恨みを晴らす「必殺仕事人」が今回のヒーロー、ポラットという男だ。だから当然のことながら、かなりムチャクチャ強引な語り口でアメリカ軍が悪役として描かれる。そこがプロパガンダ映画たる所以。しかしそこで描かれるエピソードの数々は、すでに僕らが報道で目にしたアメリカ軍の乱暴狼藉の「それ」。実は今さら驚くような事ではないし、それらはかなりの部分で実際に起こった事でもある。だから一方的な悪意に塗り固められたプロパガンダ映画という印象は、意外にも思いの外少ない。驚くべき事に、アメリカ軍がそれくらい悪いって事など「先刻承知している」ような気になってくるから不思議だ。かなりアメリカ軍が一方的な「ワル」に描かれているのに、作り手の独善ぶり偏見ぶりに辟易する訳でもなく、あるいは作り手の手中にハマってアメリカ軍への怒りがこみ上げてくる訳でもなく、ただただ冷静に「実際アメリカ軍ってこんなもんだろう」ってな感じに見えてしまうという、実に不思議な「プロパガンダ映画」になっているのだ。これは奇妙な体験だった。実際何でこんな風に見えてしまうかと言えば、これがアラブ諸国ではなくトルコでつくられた映画だから…という事に尽きるのではないか。トルコは他のイスラム諸国とは違って、NATOに加盟しEU加盟をもめざしている「西寄り」の国。そんな政治的立場もさることながら、西欧風に洗練(…というのは言い過ぎかもしれないが)されたセンスが、この映画を青筋立てた政治スローガン映画に陥ることから救っているのかもしれない。確かにムチャはムチャながら、そのムチャぶりも…例えばアメリカ映画「ザ・シューター/極大射程」(2007)の終盤程度のムチャで留まっている。一方的に相手を糾弾して自分を正当化していることは間違いないのに、なぜかその種の映画にありがちなクサみが少ないプロパガンダ映画なのだ。それは…こんな風に言われても仕方がないくらい、アメリカ軍は実際に「ワル」だからかもしれない。

こうすれば

 そうは言っても、この映画にはどこか無理があるのは間違いない。まずは冒頭のアメリカ軍によるトルコ軍基地襲撃事件が、何で起きたのかが分からない。これは実際に起きた事をモデルにしているらしいが、少なくともこの映画の中だけは納得できる説明が欲しい。そんな事をやってアメリカ軍にどんなトクがあったのか、見ている僕らには全く分からないのだ。そしてその屈辱を晴らすためだけに主人公がイラクに乗り込むというのも、何だか分かったようで分からない動機だ。それがいつの間にか「アメリカ軍の横暴からイラクを解放する」…みたいに、主人公の目的がすり替わっているのも無理がある。元々、トルコ人の主人公がイラクでアメリカと戦うヒーローになる必然性がないから、無理矢理つくり上げた設定なのだろう。このへんに、イスラム教徒の国なのに親米…というトルコの複雑な事情が見てとれるのかもしれない。この映画自体が、イスラム諸国へのトルコの「言い訳」であるかのように見えてくるのだ。この映画を見ていて気になるのは、アラブ人、クルド人、トルコ人が三つ巴で利害が対立していて、それをけしかけているのがアメリカである…という構図だ。これってホントにそんなに単純な問題なのだろうか? それはともかく…もう一つ困ったのは、どこか往年の本郷功次郎にも似たネジャーティ・シャシュマズ扮するジェームズ・ボンド的ヒーロー=ポラットの行動。何でも本国ではテレビ・シリーズの主人公らしく、今回の映画は「踊る大捜査線」みたいに「THE MOVIE」みたいな拡大版として制作されたらしい。ところがこの男、頭も切れるし腕もたつというヒーローのはずだが、どうも周囲に迷惑をかけ通しのように見える。ちょいと思慮に欠けるんじゃないの?

みどころ

 とはいえ、これが血管ブチ切れそうな悲壮なメッセージを一方的に訴える映画や、見ていて恥ずかしくなるほど幼稚な馬鹿力映画にまで陥っていないのは、監督セルダル・アカルや脚本のラージ・シャシュマズ、バハドゥル・オズデネルのお手柄だろう。単にアメリカ軍が本当に悪党…だからそう見えるのかもしれないが(笑)、この作品は気持ちの悪くなるような短絡的映画にはなっていない。大衆映画として面白くつくろうという気持ちの方が、メッセージ性より勝っている作品になっているのだ。でなければ、ハリウッドからビリー・ゼインやゲイリー・ビジーを連れて来ようという発想は出ないだろう。「タイタニック」(1997)で世界中に「悪」と認知されたビリー・ゼインをイラクに連れて来ようというあたりが、非常に映画ファン的発想なのだ。そして、そんな大衆娯楽映画としての心意気もさることながら、この映画にはもっと注目すべき点がある。劇中で結婚式をブチ壊され新郎を殺された新妻レイラが、米軍相手の自爆テロを思い詰めるくだり。そんなレイラに、彼女の養父である「導師」ケルクーキが語る言葉が実に圧巻だ。「自ら死ぬことは神の望むところではない。そして罪もない人々を巻き添えにするなど言語道断。愚か者が人々をそそのかしてそんな事をさせるかもしれないが、それは正しい道ではない」…ここでこの導師は、彼女に自爆テロの愚かさを語って戒める。西欧が(そして我々が)持つイスラムへの偏見に反論しながら、イスラム内の短絡的な発想をも戒めるこの台詞は、正直言って全編ユルくてガサツなこの映画の中で唯一キラリと輝く一瞬だ。この導師を演じている俳優こそ、リドリー・スコット監督の「キングダム・オブ・ヘブン」(2005)で花も実もあるサラセンの王サラディンを圧倒的な風格で演じたハッサン・マスード。名優・スター居並ぶ「キングダム・オブ・ヘブン」の中でも、一際目立っていた男だ。今回もメチャクチャ輝いているこの名優の名は、今後覚えていた方が良さそうだ。

さいごのひとこと

 タイタニックでもイラクでも一貫してワルとはアッパレ。

 

「ハリウッドランド」

 Hollywoodland

Date:2007 / 07 / 02

みるまえ

 タイトルからして僕好みの題名だ。「ハリウッドランド」。僕は映画業界の楽屋落ち的なお話が好きだ。おまけにこれは、テレビの「スーパーマン」で知られるジョージ・リーブスの死の疑惑に迫る内容と来るではないか。「ブロンドと柩の謎」(2001)などこの手の映画に目がない僕にはご馳走だ。顔ぶれも「戦場のピアニスト」(2002)で売れ出したエイドリアン・ブロディ、しばらく不遇だったが最近大人の女優としていい味出してるダイアン・レイン、そしてボブ・ホスキンスにベン・アフレックという布陣。見ようによっちゃ豪華だし見ようによっちゃ地味とも言えるキャスティングが、この映画の佇まいにあってる。しかも一時は飛ぶ鳥落とす勢いのアフレックが、いつの間にか落日の雰囲気漂わせてきたな…と思いきやジョージ・リーブス役というのがハマりすぎててシャレにならない。アフレックがこんなこぢんまりした映画で…しかもトップの序列でないところが、いろんな意味で見逃せないところ。「スパイダーマン3」とか「パイレーツ・オブ・カリビアン」三作目とかが派手な話題を振りまく中、ほとんど宣伝もされずにひっそり公開されるこの映画、僕としては絶対見ておきたい作品だ。

ないよう

 1959年6月、ロサンゼルス。しがない私立探偵のルイス・シモ(エイドリアン・ブロディ)は、今日も今日とてつまらない仕事で食いつなぐ日々。その仕事たるや、異常なまでに嫉妬深い男からの女房の浮気調査の依頼というシロモノ。実はいくら調べたって、「事実」は出てきやしない。その「浮気」は単に男の妄想でしかないのだ。それでも食っていくためには仕事は選べない。かつてはそれなりの大手探偵事務所に所属していたが、「スタンドプレー」が祟って追い出された。そんなこんなで妻とも別居。愛する幼い息子ともなかなか会えない。そんなシモは食うために手段を選ばず、かつての同僚たちがタムロするダイナーへと向かう。冷ややかな視線を浴びせるかつての同僚たちの中で、元・相棒だけは彼の相手をしてくれるのだ。そして、時には仕事のおこぼれを頂戴できる事もある。もちろん大手探偵事務所に持ち込まれても、引き受けられないような仕事だ。マトモな仕事、キレイな仕事の訳がない。今回ありついた仕事も奇妙なモノだった。それは自宅で「自殺」した、「スーパーマン」役者ジョージ・リーブスの死因の再調査だ。早速、ホテルに投宿しているリーブスの母親(ロイス・スミス)に話を聞くが、母親は自殺を頑強に否定し、自殺と断定した警察への不満を漏らした。ともかくシモには久々にオイシイ仕事だ。たっぷりなギャラもさることながら、「スーパーマン役者の調査」という派手さがシモを奮い立たせる。うまく派手に立ち回れば、いい目を見れるかもしれないのだ。検死担当医を買収して、リーブスの死体を見聞。すると身体に打撲傷があるではないか。リーブスの遺品を見てみると、「T・M」とイニシャル入りの腕時計があった。これは一体誰だ? それは長年リーブスの愛人だった、ある女の名前だったのだ。それは今に先立つこと数年前の、ロサンゼルスのレストランでのことだった。うまくスターに遭遇したら、そこで一緒に写真に写って顔を売ろう…というのがリーブス(ベン・アフレック)の魂胆だった。そんな彼が、たまたまトニー(ダイアン・レイン)という裕福そうな女と出会う。一目で惹かれ合った二人はそのまま一夜を過ごすが、翌朝リーブスは彼女の正体を知って愕然とした。トニーはMGMの重役エディ・マニックス(ボブ・ホスキンス)の妻だったのだ。しかしトニーいわく、マニックスは彼女に男がいても一向に嫉妬などしないと言う。こんなわけで、リーブスとトニーの愛人関係が始まった…。一方、マスコミ相手に「スタンドプレー」を繰り広げながら注目を集めようとするシモ。確かに注目を集めるのには成功していたが、私生活はボロボロ。妻の気持ちは離れていく一方だし、愛する息子が「スーパーマンの死」にショックを受けているのに、愚かにもその神経を逆なでして心に垣根をつくるアリサマ。そんなこんなで、シモはリーブスの調査にのめり込まざるを得なかった。しかしそのリーブスは、「スーパーマン役者」であることに煮詰まっていたのだ。そして次の飛躍が出来ない事に焦っていた。リーブスがトニーと別れたのは、彼がスーパーマン役を離れた直後のことだった。そしてリーブスは、若い派手好きの女エレノア(ロビン・タニー)と婚約する。果たしてリーブスは、これらの誰かの手で殺されたのだろうか…?

みたあと

 前述したように、僕はハリウッド裏面史みたいな話が好きだ。この映画では一方でそんなハリウッドの実話をミステリアスに描く側面があり、もう一方でアメリカ伝統のハードボイルド探偵モノの味わいも出しているという欲張りな構造だ。どっちも僕は好きだから、これには嬉しくなった。役者たちもなかなかに充実していて、ダイアン・レインの映画会社重役夫人なんか、かなり感じを出している。ボブ・ホスキンスのヤクザまがいの映画会社重役などは、この人ならお手のものだ。そんな中で予想以上に良かったのはエイドリアン・ブロディで、「戦場のピアニスト」以降売れ出したこの男、ハードボイルド探偵モノにはちょい線が細いかと思いきや意外にも辛い味が出ている。グズグズなダメ男ぶりが板についている。とてもハードボイルドな役など柄じゃないと思っていたから、これには驚いた。

みどころ

 しかしながらこの映画の最大の見どころは、何と言ってもベン・アフレックに尽きる。ジョージ・リーブスのスターとして男としての魅力は、そのままベン・アフレックのスター的要素に当てはまる。しかもそのスターとしての限界や「安さ」に至るまで、アフレックは兼ね備えているのだ。元々が超カリスマでもなければ個性が強烈な訳でもない、貫禄もスケール感もないし…おまけに芝居がうまいわけでもない。そんなアフレックのスターとしての「安さ」が、結局はスーパーマンどまりというジョージ・リーブスにピタリとハマった。現在必ずしもスターとして成功してるわけでもないし、実は少々落ち目というところまでリーブスと合致するから、もはやこれは尋常な一致ではない。こんな調子で役にぴったりと言われてもアフレックは嬉しくないだろうが、悲しいほど彼はこの役に合っているのだ。何とかスーパーマンから脱皮しようともがいて、それでもうまくいかない焦りが、今のアフレックではシャレにならない。実は…これは僕が前から気づいていたことだが、元々アフレックという俳優は陽気なアンチャン風に見える一方で、何となく暗い目つきをしてドス黒さを漂わせてもいたのだ。それが今回最大限に効いている。しかし正直言って、それって俳優としては素晴らしいことだが、スターとしてのアフレックにとっては喜んでばかりもいられないかもしれない。それでも今回、ベン・アフレックが並々ならぬ意欲でこの役と取り組んだのは間違いないだろう。とにかく芝居の凄みが違うのだ。だからこそ、心配になっちゃうくらい真に迫ってたのかもしれない。

もうひとつのみどころ

 この映画では一方の主役であるエイドリアン・ブロディの私立探偵の行動も描かれるが、これがまた秀逸。彼なりにハリウッドの探偵として目立とうと派手なパフォーマンスを繰り広げるが、そんな野心満々の姿がリーブスのスターとしての「虚業」と二重写しになる。何とかいい目見たくて必死こいてるが、必ずしもいい結果を収めていないところまで同じだ。結局この映画ではリーブスの死の真相については語られない。愛人が殺したのか、その夫が殺したのか、それとも婚約者だったのか…それぞれ怪しいとは描かれるし、そのへんで「ハリウッド・バビロン」的興味はわくが、実は作者はそんなことを言いたいわけではない。リーブスを公私ともに支えたエージェントの老紳士は言う。「あそこで満足していれば彼は幸せだったのに」…一応の名声と経済的ゆとりは得られたのだ。なぜスーパーマンで満足できなかったのか。その言葉を胸に刻んだ私立探偵は、それまでないがしろにしていた家庭に戻るのだ。「なぜ満足できないのか?」…確かにそうなのだが、それが当人には分からない。頭で薄々分かっていても心が分かろうとしない。ホントは目標の5割でも達成できれば人生なんて上々なのに、100パーセントでなければゼロと同じ…などとバカな事を考えてしまう。あげくつまらない賭けに出て、すべてをスッてしまったりするのだ。そして一度スッたらその分も取り戻そうとムチャな賭けをするから、さらに負けが込んでしまう。かつての僕がそうだった。「本当の僕はこんなものではない」などと思って、すべてチャラにして無謀なバクチを打ち、大見得を切ったりした。それがいかにバカバカしい事だったかは、この年齢になって初めて分かることだ。だからそんなジョージ・リーブス=ベン・アフレックの姿を見ているのは、僕にはツラかった。正直言って人ごととは思えなかったのだ。

さいごのひとこと

 「デアデビル」がシリーズ化してなくてよかった。

 

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