新作映画1000本ノック 2007年04月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「13/ザメッティ」 「サンシャイン2057」 「プロジェクトBB」 「ブラッド・ダイヤモンド」 「素粒子」 「黒い眼のオペラ」

 

「13/ザメッティ」

 13 Tzameti

Date:2007 / 04 / 30

みるまえ

 一体どんな映画だか分からない。「13/ザメッティ」の第一印象は、正直そんなところだろう。ミニシアター系の劇場に出現したそのチラシをチラ見しただけでも、何となく内容がユニークらしいことは見てとれた。どうも新人の作品で低予算、出演者も無名らしい。タイトルからしてメジャーな作品ではあり得ない。「13/ザメッティ」は、「アサシン(ズ)」以来もっともヘンテコな映画タイトルのように僕には思えた。そのうちアンダーグラウンドなロシアン・ルーレット・ゲームに巻き込まれた男…というお話のコンセプトが伝わって来て、しかも珍しいモノクロ映画であると分かってくるや、これはかなり興味をそそる作品だと感じられた。ロシアン・ルーレットと聞くと「見ちゃおれないほど緊迫した場面の連続」みたいな気がして、最近めっきり精神力の弱くなった僕など見ていられる自信が萎えてくるのだが、それでもハードでシンプルな映画なら久々に見てみたい。先に見た人たちの好評も徐々に伝わってくると、ますます見逃したくない気になってくる。見れる作品の数が限られてくる中でも、これは見なくちゃいけない映画って感じがするのだ。

ないよう

 フランスの地方都市に暮らす若者セバスチャン(ギオルギ・バブルアニ)は、今日も今日とて屋根修理の仕事に精を出す。兄も痛めた足を庇いながら働いているが、得られる収入はごくわずかだ。兄弟と父母に妹という彼の家族の暮らし向きは、決して楽にはならない。東欧からの移民である彼らにとって、豊かな生活は夢のまた夢だ。そんなセバスチャンが屋根の修理のため通う家には、なぜか男が一日中クルマで張り込んで見張っていた。彼はこの家の郵便受けに注目しているらしい。そのうち、ジャンキーでヨレヨレのこの家の主ゴドン(フィリップ・パッソン)が一人の客を招き入れる。セバスチャンは修理をしながら、屋根に開いた穴を通して二人の会話を聞いてしまった。どうやらゴドンは現在スッカラカンながら、近々デカいカネをつくる当てがあるらしい。ただしそれはかなりヤバめの仕事であり、その事を考えるとただでさえ暗いゴドンの顔がなお一層暗くなるようなアブなさらしいのだ。その仕事の知らせは郵便で一方的に伝えてくるらしいのだが、どんな「仕事」かは全くその場では語られることがなかった。やがて問題の便りが郵便受けに届き、ゴドンは封を切って複雑な表情を見せる。そんな彼と彼の表情を、外で見張っている男が見逃すはずはなかった。やがてゴドンは妻クリスティーヌ(オルガ・ルグラン)に「デカい稼ぎの仕事」の話をするが、彼女はヨタ話と決めてかかるばかり。この「仕事」を不審に思ったクリスティーヌは、ゴドンがバスルームに立った後で封筒を確かめてみた。すると、パリ行きの列車の切符とホテルの予約券が入っているばかり。ますますアヤシイと思った彼女がゴドンに問いつめようとすると、バスルームから水があふれ出てくるではないか。クリスティーヌがセバスチャンを呼んでバスルームのドアを破ってみると、そこには麻薬を過度に摂取して絶命したゴドンの姿があった。かくして屋根修理の仕事もここまで。一人残されたクリスティーヌは、セバスチャンにこれまでの作業代も払えないと口走るばかり。まさに踏んだり蹴ったりのセバスチャンだった。だからそんな彼がたまたま風で飛ばされてきた例の封筒を拾い、ゴドンになり代わって「デカい稼ぎの仕事」をしようと考えたからといって誰が責められよう。母親に散髪してもらいなけなしの貧しい服から精一杯の「一張羅」を着込んで、セバスチャンは一路パリへと列車に乗り込んだ。これから何が待っているのか、列車の中でも緊張が解けないセバスチャン。指定されたパリのホテルの部屋にチェックインしたセバスチャンが呆然としていると、いきなり電話がかかって来るではないか。それは明日の彼の行動を指示する電話だった。その指示通りにコインロッカーに行くと新たな指示があり、また列車に乗るセバスチャン。だが彼は何も気づいていなかったが、彼の動向は逐一警察に監視されていた。連日のゴドン宅の張り込みと、封筒が紛失したことでゴドンの妻クリスティーヌが警察に通報したことで、セバスチャンが一気に捜査線上に浮かんだのだ。しかしセバスチャンへの指示は巧妙で、買った切符の行き先の一つ手前の駅で降りるなどの手口で警察を翻弄。タクシーを拾って指示された場所に行くと、そこは何もない郊外の道の真っ直中。やがて、そんな彼を迎えに一台のクルマがやって来る。コインロッカーで手に入れた「13」と書いたコースターを掲げると、セバスチャンはクルマに乗せられて深い森の中へ…途中で有無を言わせぬ身体検査や着替えがあり、さすがにセバスチャンもこれは相当ヤバそうだと気づいたが、今となっては成り行きに任せるしかない。さらに彼が連れて行かれたのは、森の中の一軒の屋敷。そこにはこんな辺鄙な場所にも関わらず大勢の連中が待ち構えていて、何やら不気味な活気に満ちているではないか。ところがセバスチャンがその屋敷の小部屋に連れて行かれると、やって来た初老の男アラン(フレッド・ユリス)が驚いて叫ぶ。「オマエは誰だ?」…当然このアランという男は、死んだゴドンがやって来るものと思っていたから、まったく知らない若者セバスチャンの出現に驚いたわけだ。この時点でかなり腰が退けて来たセバスチャンは、今までの成り行きを語って今すぐここを立ち去りたいと告げた。だが、セバスチャンはいささか甘かった。アランは静かに…そして断固としてセバスチャンにこう告げるのだった。「もう帰ることはできない」…案の定セバスチャンには世話役兼見張り役がつけられ、どうしてもここから逃げ出すことができない。そしていよいよセバスチャンの出番。広間に連れて行かれたセバスチャンは、そこで自分と同じTシャツを着せられた12人の男たちと合流する。みんなTシャツに数字が付けられていて、何かのゲームのゼッケンであることが分かる。セバスチャンのゼッケンは、シャレになってない「13」番だ。Tシャツの男たちの周囲を異様な熱気で目をギラギラさせた大勢の男たちが取り囲んでおり、あたかもプレイヤーと観客の様相を呈している。司会進行役の男(パスカル・ボンガール)が開会を宣言すると、何とプレイヤーたちに拳銃と1発の弾丸が配られるではないか。ここに来てセバスチャンは、やっと自分が何に巻き込まれたか分かった。プレイヤーの男たちは円をつくって並ばされ、それぞれ隣の男の頭に銃を突きつけて待機させられた。何とこれは、アンダーグラウンドなロシアン・ルーレットのゲームだったのだ。進行役の男は興奮を煽るように絶叫する。「弾倉を回せ、回せ、回せ!…よ〜し、そしたらお互いの頭を狙って待て。あの天井の電球が光ったら、みんな一斉に引き金を引くんだ!」…今さら後戻りが出来ないとはいえ、まったく心の準備もないままに命のやりとりの現場に飛び込んでしまったセバスチャン。何が何やら分からないまま知らない男の頭に銃を構え、自分の頭も誰かの銃口にさらされている。何でこんな事になってしまったのかと、今さら悔やんでももう遅い。極度の沈黙と緊張がはしる中、一同はじっと一個の電球に目を凝らしていた…。

みたあと

 やっぱり見る前の予感はホンモノだった。硬質のモノクロ画面で展開する、異色のサスペンス。いや、これを「サスペンス映画」などという既存のジャンル映画に括っていいのかどうか。ともかく殺風景で寒々とした光景が展開する中で、主人公が不可思議な状況へと巻き込まれていく。だが、そこまでの展開には全くムリはない。主人公が陥る状況が不条理かつ異常なものであることはもちろんだが、先に何が待っているか分からない段階でも、すでに巻き込まれていく過程そのものがどこか奇妙で不条理だ。だが、そこまでのプロセスでは力業やムチャなロジックを全く用いず、運命としか思えないどうしようもない必然で貫かれている。この語り口は見事だ。僕はすでにチラシの段階でアンダーグラウンドなロシアン・ルーレット・ゲームに巻き込まれると知っていたのに、それでも「これから主人公はどうなるのか?」と目を凝らさずにいられなかった。主人公が後戻り出来ないところまで来た段階で、「どうも何やらヤバイところに来ちゃったみたいだ」と感じるあたりの描き方も秀逸。まだ何も描いていないのに、ただならぬ雰囲気を醸し出すあたりの話術が何とも見事だ。実はスゴイことが何も起きていないのに、とてつもなくスゴイ事が起きそうな気がする。こんな映画は確かに今まで見たことない。こうしてロシアン・ルーレットの場面に持ち込まれるのだが、その時には見ている僕らも主人公同様なんとも不安な気分にならざるを得ないのだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 で、お目当てのロシアン・ルーレットは…確かに緊張感溢れる場面で見事なのだが、実はこんな事を言ってはいけないのかもしれないが、実際のこの場面を見る前の方がドキドキの緊迫感は大きかった。ここまで主人公を追い込んでいく過程では、どんな事が主人公を待ち構えているか全く語っていないのに…そして見ている僕の方はすでにチラシでそれを知っているのに、ハラハラして手に汗にぎってしまった。それはむしろ、画面で全く見せていないし語っていないからこそドキドキものだったのだろう。ところがいざ「それ」が画面に出てみると、やっぱり人間の想像力以上のモノってのはなかなか作れないものなのだろう。僕は「それ」を目に出来たことで妙に安心したのか、ホッとしてゆったり見ていられたのが本当のところ。もちろん電球の球を一同でジッと見上げながら合図を待つあたりの緊迫感は相当なものだが、映画を見る前に予想していたような「見ていられない程の緊迫感」は感じなかった。まぁ、これほどドキドキハラハラさせてもらいながらこの言い草もないものだが、僕としては「問題の」ロシアン・ルーレットが居たたまれない程コワイものでなかったのが救いというもの。逆に言うと、それほどの研ぎ澄まされた緊迫感を期待していた人には、実はちょっとモノ足りないものが残ったのではないか。そういう声がどこからも聞かれないのは、おそらく硬質なモノクロ画面で展開するシンプルさに酔わされて、観客が見る前に期待していたモノを忘れさせられているからかもしれない。ただ確実に…ここまで主人公と一体化していた観客の心理は、徐々に主人公から剥離していく。言っては悪いが、「人ごと」になっていくのだ。実は、これほどシンプルかつストレートで異色の題材の映画なら、ひょっとしてこのロシアン・ルーレットだけで話が終わるのではないか…と勝手に僕は思っていた。だから「…それでは、一体どうやって話を終わらせるのだ?」とか「それで話がもつのか?」と期待半分不安半分で映画を見ていたわけだ。だが、さすがにそれは作者も出来なかったのだろう。映画はロシアン・ルーレットだけで終わるわけもなく、その後もお話が続いて、それなりの結末がついて終わる。元々、ロシアン・ルーレットだけで終わる不条理でハード・コアでエッジの尖ったお話…など、僕がテメエ勝手に期待していたことだ。作者としてはそうならなかった…と文句を言われても迷惑千万なだけ。だが、見る側の僕にそれを期待させるだけ、超ユニークでのめり込まされる展開だったということも確かだ。それだけに、だんだん見ている側が距離を持てるようになり、余裕を持って見れる「普通」の展開に近づいていく終盤は、僕個人としては少々惜しかった気がする。「ないものねだり」とは分かっているのだが、そこまでスゴイ、ムチャクチャで非凡な映画を期待させるものがあったのだ。

みどころ

 それでもこの映画は、他の凡百の作品を蹴散らすだけの破壊力がある。短い上映時間なのに内容が充実している。主人公をはじめとする登場人物のセリフが異常に寡黙で、その背景もそれぞれの事情もほとんど語られず、余計な事情が全く描かれない。おまけに画面はシネマスコープの大型画面なのにも関わらず、どこかストイックなモノクロだ。まるでジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンドの初期のアルバム「ジョンの魂」みたいに、削ぎ落とせるところまで削ぎ落とし、硬質に尖った印象が強い。この作品の製作・脚本・監督を手がけたのは、ゲラ・バブルアニという男。グルジアからフランスへの移民という背景を持つが、同じフランスへの移民でも、「中国、わがいたみ」(1989)のダイ・シジエとか「青いパパイアの香り」(1993)のトラン・アン・ユンのようには自らのルーツを引きずっていないのが異色だ。もうひとつ特筆したいのはこの監督のキャスティング・センスで、特にロシアン・ルーレット選手として出てくる13人の男たちのツラ構えがどれもこれも何とも味がある。だから何も言わずとも、その「訳アリ」な事情がにじみ出てくるのだ。語らなくても…いや、むしろ語らない方が雄弁だというのが、おそらくこのバブルアニ監督のモットーなのだろう。

さいごのひとこと

 言わぬが花。

 

「サンシャイン2057」

 Sunshine

Date:2007 / 04 / 30

みるまえ

 ダニー・ボイルと言えば、ちょっと前にイギリス映画が元気だった時、「トレインスポッティング」(1996)の大成功でガ〜ンと名前を売った人。しかしいまやあの頃のイギリス映画の栄光は、落日の一途を辿っている。ダニー・ボイルも一時危うい時期があって、ハリウッドに行った時点で葬られかねない状況だった。レオナルド・ディカプリオ主演の「ザ・ビーチ」(1999)に殺到した大不評がそれだ。僕はこの映画をそんなクソミソに言われるような作品だとは思っていない。だがその一方で、この作品がボイルの「会心の作品」とは思えないのも正直なところだった。そんなボイルが帰って来たのは、意外にも「らしくない」SF映画というジャンルでのこと。一見ゾンビ映画の外見を持った「28日後…」(2002)は、久々にこの人の実力を発揮した作品となっていた。そんなボイルの新作がまたまたSF映画、それも「28日後…」でも組んだアレックス・ガーランドの脚本による作品と聞けば、期待しない訳にいかないだろう。おまけに日本から、「PROMISE/プロミス」(2006)、「上海の伯爵夫人」(2006)など海外出演相次ぐ真田広之も参加と来れば、気にならないはずがない。だが、それで万事万々歳とはいかないのが世の常。この作品は何となく、過去にあったさまざまなSF映画のアレコレを連想させずにいられない。その「いかにも」な感じが、いささか僕を不安にさせるのだ。おまけに太陽を救うミッションってあたりからして、バブル期に日本の出資によって生まれた「某作品」を彷彿とさせるではないか。ひょっとしてあんな出来栄えだったらどうしよう。そんなこんなで、コワゴワ見に行った僕だったが…。

ないよう

 その眩しい光は、フィルターに守られた宇宙船の窓から室内に溢れていた。特殊な防御スクリーンで覆われた窓の外には、視界全体に広がる巨大な天体…太陽が、その荒れ狂う表面を見せている。室内には宇宙船のクルーの一人・精神科医のサール(クリフ・カーティス)が座っていて、その太陽のエネルギーに畏敬の念を抱くように見つめている。この宇宙船は「イカロス2号」。巨大な皿のようなシールドを太陽方向に向けてその激しい高熱を防ぎながら、他ならぬ太陽それ自体を目的地に飛行中だ。それというのも、太陽が急速に死に向かいつつあったから。太陽の衰弱によって地球は凍り付き始め、人類は滅亡の危機に直面することになった。その状況を打開すべく大量の核爆弾を太陽に投じて復活させようというのが、「イカロス2号」のミッションだった。ちなみに「2号」のクルーは先のサールの他に、船長カネダ(真田広之)、核爆弾のエキスパートである物理学者のキャパ(キリアン・マーフィー)、エンジニアのメイス(クリス・エバンス)、パイロットのキャシー(ローズ・バーン)、生物学者のコラゾン(ミシェル・ヨー)、通信士のハーヴェイ(トロイ・ギャリティ)、航海士のトレイ(ベネディクト・ウォン)といった顔ぶれ。だが崇高な任務に就く彼らとて、いつも抜群のチームワークという訳ではない。今日も地球への通信の件で、キャパとメイスが掴み合いの大喧嘩を演じるアリサマ。確かにシビアなミッションとは言え、彼らはなぜか漠然とした不安に苛立っているように見えた。それもそのはず。実は「イカロス2号」と言うからには、その前に「1号」もあった。その「イカロス1号」も「2号」と同じく太陽に核爆弾を投下するために接近しながら、途中で消息を絶ってしまっていたのだ。連絡を絶つ直前に送信された「1号」船長ピンバッカー(マーク・ストロング)からの映像は、しかし「イカロス2号」クルーに何も教えてはくれない。そのことがミッションの困難さ以上に、「2号」クルーに重苦しくのしかかっているのだった。だが彼らが水星の近くまでやって来た時、予想外の事態が起きる。何と消息を絶って7年も経っている「イカロス1号」から、救難信号が発せられているではないか。場所はより太陽表面に近い位置だが、そこに立ち寄るのはちょっとした「寄り道」だ。もちろん何らかの危険を伴う。「イカロス1号」に立ち寄るべきかミッションを優先すべきか、カンカンガクガクの議論を戦わせるクルー。そこでカネダ船長は、核爆弾の専門家キャパの意見を訊ねた。実は「2号」搭載の核爆弾1個で作戦が成功するかどうか、どこにも確固たる保証はない。ならば「1号」にある核爆弾も一緒にして投下した方が、さらに成功率は高まる…そんな理由から、キャパは「1号」への接触に賛同した。かくして「イカロス2号」は、「1号」遭難現場へと軌道修正することにする。ところがそんな矢先、「2号」全体に騒々しい警報が鳴り響いた。何と方向転換した際にシールド操作の修正を怠ってしまったため、大事なシールドがダメージを受けてしまったのだ。軌道計算をしたトレイは責任を感じて半狂乱。パニクるクルーを何とか落ち着かせたカネダ船長は、キャパと共に船外に出てシールド修理をすることになった。ところが悪い事は重なるもの。船外作業のために若干シールドを傾ける必要が出てきて、宇宙船の通信塔が太陽光線の直射によって消失することになったのだ。それだけなら致し方ないと言えるのだが、実際には予想外の事態が起きてしまった。消失した通信塔の先端から太陽光線が反射、「イカロス2号」を直撃して植物栽培棟で火災が発生したのだ。すぐに消火しなければ宇宙船が危ないが、消火するためには宇宙船の角度を元に戻さねばならない。角度を元に戻すということは、シールド上で作業中のカネダ船長とキャパに身の危険が迫るということだ。おまけに植物栽培棟の猛火は、放水だけでは消えそうもない。さぁ、どうなる…!?

みたあと

 まずは「みるまえ」で僕が触れていた「バブル期に日本の出資によって生まれた某作品」という類似作品について言及しなくてはなるまい。実はこれについては、すでに多くの人が思い当たっているのではないか。その昔、NHKや学研が出資したハリウッド製日本映画。何と別所哲也がチャールトン・ヘストンなどと伍して出演する怪作「クライシス2050」(1990)というのがそれだ。何せ太陽へのミッションという設定、宇宙船クルーの重要人物が日本人、何より邦題が酷似しているのが気になるではないか。そして「2050」は、アメリカでは監督のリチャード・サラフィアンが実名をクレジットすることを拒んだのではないか。確か最終的には「アラン・スミシー」という架空監督名義になっていたという話を聞いたことがある。まぁ、それほどの底抜け作品ということだ(笑)。だから「まさか」…とは思ったものの、昨今のハリウッドでのリメイクばやりを考えると、「サンシャイン2057」って「クライシス2050」のリメイクではないかと思わず考えてしまったのだ。そこで最初に断っておくと、さすがにダニー・ボイルもそこまでカスはつかんでいない(笑)。その代わり…映画が始まってすぐに別の作品の残像がチラついてくるから、これはこれで見ていて穏やかでない気になってくる。それは木星軌道上で遭難した宇宙船を救助に向かったクルーたちの、恐怖の体験を描いた傑作SFホラー。ポール・W・S・アンダーソン監督の「イベント・ホライゾン」(1997)だ。お話が動き出すや否や、あの「イベント〜」のイヤ〜な感じが甦る。この作品が大好きな僕としては、俄然「サンシャイン2057」への期待度が増してきた。「イカロス1号」救援に向かったとたん、主人公たちに不幸がつるべ打ち的に襲ってくるくだりも手に汗にぎる。そもそもこの映画って最初から、自分が焼けこげかねないほどの太陽光線を浴びようとするクルーが出てくるなど、ヤバイ雰囲気が漂っている。油断できない緊張感が漂っているのだ。宇宙人が出るか異常生物が現れるか何が飛び出すかはともかく、SFホラー、SFサスペンス映画としてこれ以上興奮させられる設定はない。ついつい期待しちゃう僕だったのだが…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みどころ

  そんなヤバイ雰囲気は、お話が進むうちにどんどん現実になっていく。とにかくお話の中でクルーは痛い目にあったり熱い目にあったり苦しい目にあったり冷たい目にあったり…とにかく見ていてイテテテ、アッチチチ…などの生理的苦痛を味わう場面が続出。地球を離れた宇宙空間がいかに危険で苦痛に満ちているかを、理屈抜きで描き尽くしてくれる。おまけにクルーは次から次へと小競り合いの連続。一番沈着冷静なのは真田広之の船長だが、そのせいか真っ先に退場させられるというお気の毒ぶりだ。そんな「地球を一歩離れるとこれほどヤバイ」という描写の連続を見ているうちに、これは「かけがえのない地球」と「にも関わらずケチな争いを続ける人類」の比喩だな…と察しがついてくる。それだけなら…あまりに図式的で手垢のついたような「宇宙船地球号」的発想に陥ってしまうところだが、さすがにそうは単純に映画をつくらないのがダニー・ボイルのダニー・ボイルたるゆえん。今回もボイルの視線は、「ザ・ビーチ」で自由な理想郷が偏狭な独裁の島に変貌していく様子をシビアに見つめていたように、あるいは「28日後…」でゾンビ化した感染者たちよりピンピンしてる健常者の方がよっぽど凶暴で危険であると描いていたように、あくまで皮肉で辛らつ。酸素も足りるか足りないかでヒヤヒヤしていたはずなのに、つまらない言い争いで取っ組み合いのケンカをしてゼイゼイ言ってる男どもとそれをシラジラした表情で見る女たち…とか、植物が焼き尽くされる事にはギャーギャー騒ぐくせに、人間の犠牲者が出ようが誰かを殺す算段をしようが動じないミシェル・ヨーとか、SFアドベンチャーの定石をハズしまくって皮肉たっぷりなのだ。中でも「イカロス1号」の船長が太陽に抱く畏敬の念が勢い余って、とんでもない災厄を次々招いてしまうあたりは、どう見ても宗教が人間を幸福にしていない今の世の中の現状を表しているのではないか。何でもこのように理屈をつけて見てしまっては興ざめだが、これは見ていてかなりハッキリ打ち出されているから間違いないはず。たまたま「イベント・ホライゾン」が連想されたからそのついでに言えば、「イベント〜」は地獄の釜のフタを開けて悪魔と出会う物語なら、こちらは太陽という「神」と出会おうとして、愚かな諍いを続ける人間たちの物語なのだ。

こうすれば

 しかし、そんな高尚なテーマが明らかになっていくにしたがって、それで映画として面白くなるかと言えば…正直言ってそれはまた別の問題だと言わねばならないだろう。宇宙人でも怪物でもなく、ただ「1号」船長が狂って次から次へと手に負えない事をしでかした…ってことになってしまうと、正直言ってSFホラー映画としてはこれほどつまらない結論はない。これならチャチでもいいからモンスターでも出してくれた方が救いだ。船長が狂うに至る理由にしても「人類が太陽サマに手を出すなどもってのほか」…なんて江戸時代の水飲み百姓並みの発想では正直言って興ざめだ。テーマはリッパなのだが、それをこうまで大仕掛けな映画でやられてはミもフタもないのである。おまけにダニー・ボイルは、そんな狂った船長を全身焼けただれた「異形」の人物にして、まるで一見モンスターのように見せかけようとしているから始末に負えない。しかもその焼けただれた船長を画面に出す時にも、妙にレンズにフィルターをかけてボケボケにして出すという、何だか素人のつくった前衛映画みたいな手法を使っているからイライラする。せっかく立派な風格で出てきた真田広之が、まことに呆気なく画面から消えてしまう事も含めて、ガッカリさせられる事の方が多い映画になってしまった。これをSF映画だと思うからダメなのだろうか。SF映画じゃないの(笑)?「プルートで朝食を」(2005)などで好演のキリアン・マーフィー、「セルラー」(2004)でのナイスガイぶりが印象的だったクリス・エバンスなどキャストが充実しているだけに、残念だとしか言いようがない。

さいごのひとこと

 「2050」から7年経っても進歩なし。

 

「プロジェクトBB」

 寶貝計劃 (Rob-B-Hood)

Date:2007 / 04 / 23

みるまえ

 ハリウッド進出を果たし、さらに香港に戻って「香港国際警察」(2003)を発表したジャッキー・チェンは、明らかに新たな時代に突入したように見える。つくる作品つくる作品のスケールが大幅にアップしたし、キャスティングなども確実に以前とは異なる傾向を見せている。そんなジャッキーの新作は何と泥棒役! しかも赤ちゃんに振り回される泥棒だ。どちらも「ジャッキー映画として新味を出しながら、従来のジャッキー・イメージも大事にする」…という、「香港国際警察」や「THE MYTH/神話」(2005)と同様の傾向を示している。まず、この企画がいい。コーエン兄弟の「赤ちゃん泥棒」(1987)や「スリーメン&ベビー」(1987)とその元ネタのフランス映画「赤ちゃんに乾杯!」(1985)あたりを彷彿とさせる…というより、モロにパクった題材(笑)ではあるが、これをジャッキーがやるとなったら大いに期待できるではないか。しかもしかも、何と往年の「ミスター・ブー!」シリーズで名を挙げたマイケル・ホイが共演とは! そこにまたユン・ピョウも加わるとあっては…1970年代から映画を見て来た人間としては、さすがに興奮を隠しきれないのが本音。僕は当時ジャッキー・ファンでも香港映画ファンでもなかったけれど、それでも彼らは大スターでよく知っていた。そんな彼らの共演だけでもこの映画には価値がある。見なければ。

ないよう

 夜に紛れて「仕事」に精を出す2人の男たち。一人は賭け事というと目がないサンダル(ジャッキー・チェン)。本来好きこそモノの上手なれとは言うものの、サンダルと来たら賭けても賭けてもボロ負けの博才のなさ。にも関わらず「稼ぎ」があれば注ぎ込んでしまう哀しさ。だから常にフトコロはピーピーだ。もう一人の若い男フリーパス(ルイス・クー)は、若い頃に結婚したせいか女遊びに狂いっぱなし。そして女と来ればカネがかかるのが世の常だ。そんな2人が忍び込んだのは、大病院の金庫室。しかし残念ながら収穫はわずか。仕方なくクスリなどをしこたま盗み出したこの2人は、白衣を着て医者に化けて逃げ出そうという魂胆。しかしあちこちにクスリをギューヅメしていては、目立ってしまうのも致し方ない。たちまち警備員に見つかって、追いかけ回される間の悪さだ。ところがこの日はツイてるのか、途中で警備員が2人を追いかけ回すのをやめてしまった。一体なぜか? 実は思いっ切り神経ブチ切れた男が病院内に突入して、いきなり生まれたばかりの赤ちゃんをかっさらったのだ。どうやらこの男は赤ちゃんのママの元恋人で、彼女がこの男を捨てて別の男と結婚したのでおかしくなったらしい。病院内は上を下への大騒ぎ。サンダルとフリーパスはこれ幸いにと逃げろや逃げろだ。その頃失恋男は赤ちゃんを手にしたまま、病院の中央にある階段に追いつめられた。往生際悪く赤ちゃんのママに「やりなおそう」とわめくこの男、トチ狂ったあげく足をすべらせたからたまらない。男がもんどり打って下に墜落したのは自業自得だが、赤ちゃんも空中に放り出されたのは何たる不運。ところが…神様はよくしたもの。その真下の階段にサンダルとフリーパスが居合わせたのは、果たして偶然だったのか天の配剤か。間一髪で赤ちゃんに巻き付けた布の端を捕まえたサンダル。フリーパスはそんなサンダルの身体を支えて、抜群のチームワークを見せる。しかし赤ちゃんはその布からスルスルと滑り落ちてしまう…と、これまた抜群のタイミングで下で医師たちがキャッチしてくれたから、赤ちゃんは危うく難を逃れることができた。さて赤ちゃんの無事を見届けるやドサクサに紛れて病院を逃れたサンダルとフリーパスだが、実はその場に一人の若いナース・メロディ(カオ・ユェンユェン)が居合わせていたことを忘れてはなるまい。そんな彼女は2人に感謝の声をかけようとしたが、脱兎のごとく逃げていく姿に呆気にとられるばかりだった。さて、この2人にはもう一人仲間がいた。それがクルマで彼らを待っていた大家(マイケル・ホイ)。こうしてともかく、今夜もこの3人は何とか無事に「仕事」を終えることが出来たわけだ。そんな3人に、しかし現実は厳しかった。サンダルは手みやげを持って実家に帰宅してみたものの、喜んでもらえるかと思えばシラ〜ッとした雰囲気。それもそのはず、サンダルの父親(クー・フェン)はヤクザな息子のご帰還にカンカンだ。せっかくの土産も「どうせロクな稼ぎではあるまい」と投げ捨てる。思わずカッとなったサンダルは、捨てゼリフを吐いて家を立ち去るしかない。立ち寄った賭場でも、負けの借金がかさんで危うく命を落とすところ。たまたま幼なじみのモク警部(ユン・ピョウ)が通りかかったから助かったものの、今度はモク警部に目をつけられる弱り目に祟り目のサンダルであった。またフリーパスは、若い女房(シャーリーン・チョイ)が妊娠したにも関わらず家を放りっぱなし。女房が鳥の着ぐるみなんぞ着てバイトに汗を流しているのに、金持ち女のお相手で大散財を繰り返す。たちまち稼ぎなどパーだ。そして大家はと言えば、少しボケの入った妻との老後の蓄えに…と、今までの稼ぎをしっかり貯め込んでいたのがアダとなった。空き巣に入られ、すべてが水の泡。さすがに冷静さを失い、心の隙から目先の儲け話に飛びついてしまった。それはサンダルもフリーパスも同じこと。それぞれ目の前の苦境を脱出すべく、手っとり早い金儲けに走らないわけにいかない。法外な分け前の金額を聞いて、サンダルもフリーパスも大家から仕事の内容を訊ねようとも思わなかった。こうしてありついた稼ぎのイイ仕事とは、とある立派なお屋敷に忍び込むこと。奇妙な事に、今夜に限って大家も中に同行するという。ところが何だか分からないままサンダルとフリーパスが屋敷内をウロウロしていると、大家が子供部屋に入り込んでいるではないか。何と大家はこの赤ん坊を抱えて、外に連れ出そうとしているから驚いた。「冗談じゃない」ともみ合うサンダル、フリーパスと大家だったが、そのうち彼らが忍び込んだことを気づかれ大騒ぎ。そのドサクサに、大家は赤ちゃんを抱えて去ってしまった。慌ててサンダルとフリーパスも屋敷を逃げ出さざるを得ない。こうして何とか逃げおおせた3人だが、サンダルとフリーパスは「誘拐」には断固反対だった。「殺しと誘拐はやらない約束だろ!」…だが大家に言わせると、これは誘拐ではないと言う。これは赤ちゃんの実の祖父からの依頼だというのだ。それでも納得しかねるサンダルだったが、大家はここでたまらず真情を吐露。老後の蓄えが消えてなくなったショックを涙ながらに訴えられては、さすがにサンダルもフリーパスも反論できなくなった。それに、実の祖父に引き渡すというなら…。ところが、事はそう簡単にいかなくなった。計算違い行き違いがあって、大家はクルマの事故で警察に逮捕。仕方なくサンダルとフリーパスは、依頼主に引き渡すまで赤ちゃんの面倒を見るハメになったのだが…。

みたあと

 先にも述べたように、「香港国際警察」以来ジャッキーの作品はスケールをさらに増した。それはいろいろな部分で言えることだ。まず、従来のジャッキー・イメージを踏襲しつつ新味のある役柄に挑戦しつつあること。「香港国際警察」の酒浸りでヨレヨレになるジャッキー、「THE MYTH/神話」のヒロイックな愛に生きる古代の武士ジャッキーなどがそれだが、今回もバクチ好きの泥棒という全く新しい役に挑戦だ。もっとも、泥棒と言っても悪役をやるわけではないから、そこはあくまで従来のジャッキー・イメージを崩すわけではない。それにしたってバクチ好きの親不孝なんて役は今までやったことがないはずだ。まず、それが作品の鮮度を高くしているのは確かだろう。さらにアクションの鮮度についても同じことが言える。ジャッキーが演じるような身体を使ったアクロバティックなアクションは、ヘタするとマンネリ化を免れない。今回の赤ちゃん絡みのアクションの数々は、ジャッキーのアクションを活性化する素晴らしいアイディアなのだ。さらにかつてのワンマン映画のスタイルを一変しての、ジャッキーを中心としたオールスター…演技アンサンブルを見せる作品づくり。今回は「エレクション」(2005)でインテリ・ヤクザを演じたルイス・クーを新たに迎え、一方でジャッキー・ファミリーとも言えるアイドル・グループ「ツインズ」のシャーリーン・チョイを「香港国際警察」に引き続いてまたまた起用。そういえば「香港国際警察」からはニコラス・ツェーとダニエル・ウーが小さい役でゲスト出演しているのも嬉しい。中国女優カオ・ユェンユェンの起用にも注目だが、何と彼女はあの中国ニューウェーブ映画「スパイシー・ラブスープ」(1998)の主演者だと知って二度ビックリ。だが特筆すべきは「ミスター・ブー」ことマイケル・ホイの共演、さらに懐かしのユン・ピョウの共演だろう。

みどころ

 このうちマイケル・ホイについては実は出番は極端に少なく、がっぷり四つに組んでの共演とは言い難いのが残念。しかしジャッキーとしては、若手ルイス・クーとの共演を大幅に取り入れて「若さ」の注入を図りたかったという気持ちも分かる。ともかく1970年代からの映画ファンとしては、ジャッキーとマイケル・ホイというあの時代の2大巨頭の揃い踏みが実現しただけでも涙モノだ。もちろんユン・ピョウとの顔合わせも懐かしいところ。さらに驚くなかれ、ジャッキーの父親役には「毒龍潭」(1968)、「英雄十三傑」(1970)、「空中必殺・雪原の血闘」(1971)、「北京原人の逆襲」(1977)…と往年のショウ・ブラザース映画で悪役を中心に活躍してきたクー・フェンが起用されているのに狂喜乱舞。どっこいこのオッサンまだ生きてたんだねぇ。そして何より問題の赤ちゃん…マシュー・メドヴェデフちゃんの可愛さにはマイッタ。そんなわけで相変わらずのジャッキー・アクションも素晴らしいのだが、こうした共演陣の顔ぶれも大いに楽しませてくれるのだ。

こうすれば

 ただし、万事いいことずくめとはいかないのがツライところ。例えば赤ちゃん絡みの軽業アクションの連続で笑わせてくれる中盤までの軽快さからすると、後半のもたつき方はちょっと残念。特に終盤に向かっての悲壮な展開には、いささかついていけない方は少なくないのではないか。凍死寸前の赤ちゃんを目覚めさせようと、クルマのバッテリーからとった電気を自分の身体を通して、電気ショックを与えるジャッキーの姿には…かなり泣かせどころではあるのだが、いささかエグすぎ泥臭さが強すぎクドすぎで辟易しそうになる。あの軽快さのままいけなかったのか…とグチりたくもなるのだ。監督が「香港国際警察」のベニー・チャンだけに、悲壮なジャッキーを見せたくなっちゃったのか。ただし、実はそれも最後のドンデン返しの伏線だと思えば、許せないでもないから複雑。そのエンディングは、実にベタながらなかなかうまくやったなと僕も嬉しくなった。いかにもフランク・キャプラ・タッチが好きな、ジャッキーらしい好エンディングだ。

さいごのひとこと

 「赤子の手をひねる」のも難しいもの。

 

「ブラッド・ダイヤモンド」

 Blood Diamond

Date:2007 / 04 / 23

みるまえ

 今年のアカデミー賞ではとうとうマーティン・スコセッシ監督が「ディパーテッド」(2006)でオスカーに輝いたが、残念ながら最近タッグを組んでいるレオナルド・ディカプリオには栄冠は輝かなかった。ただし、彼は今年「ディパーテッド」で候補になったわけではなかった。レオが候補に挙がった映画、それがこの「ブラッド・ダイヤモンド」だ。予告やチラシを見ると、アフリカを舞台にした内戦モノらしい。アフリカ、内戦と来れば、「ホテル・ルワンダ」(2004)、「ナイロビの蜂」(2005)、「ルワンダの涙」(2005)、「輝く夜明けに向かって」(2006)、「ラストキング・オブ・スコットランド」(2006)…など同種の映画が、昨今洪水のように押し寄せてくる。こんな「一山いくら」的な言い方は適切ではないかもしれないが、正直言って受け取る方としてはそんな感じだ。どれもこれも社会的なテーマを持って戦慄させられる現実を描いているが、実際のところこれだけ押し寄せて来られると、そのうちマヒしてどれもこれも同じみたいに凡庸に感じられないか心配になる。この「ブラッド・ダイヤモンド」の場合はどうだっただろうか?

ないよう

 1999年、アフリカのシエラレオネ。この国ではダイヤの利権に絡んで、殺伐とした内戦が長年続いていた。そんなシエラレオネのある漁村では、ソロモン(ジャイモン・フンスー)という男が幼い息子ディア(カギソ・クイパーズ)を起こしている最中。眠い眼をこすりながら、まだ明け方の暗い海を遠い場所にある学校まで向かうディア。このディアと二人の娘と妻が、平凡な男ソロモンの財産だった。だが、そんな争いとは無縁なように見える静かな漁村にも、やがて災厄が降りかかって来ようとは。ある日、ソロモンの村に反政府ゲリラ「RUF」の連中が押し掛け、情け容赦ない虐殺を繰り広げる。阿鼻叫喚の中、何とか妻子を逃がしたソロモンだが、彼自身は「RUF」に捕らえられてしまった。だが「RUF」のリーダーは屈強なソロモンの身体に眼をつけた。こうして彼はかろうじて命を助けられたものの、「RUF」が制圧した水辺のダイア採掘所に連れて行かれる。ここには同じように「RUF」に拉致されて来た人々が働いており、来る日も来る日も劣悪な状況でダイヤ採りに従事させられていた。もし秘かにダイヤを発見してガメようものなら、その場で人々を監視している「RUF」兵士たちに速攻で射殺されるところだ。一方、こんなヤバい国に白人のくせにウロウロしているのは、元傭兵の無精ヒゲ男ダニー(レオナルド・ディカプリオ)。彼は「RUF」に武器を供給しては、代わりにダイヤを手に入れる密輸業者だ。だが汚い商売で稼ぐ彼も悪運尽きたか、政府軍の兵士に捕らえられてしまう。ちょうどそんな頃、ダイヤ採掘所で働かされていたソロモンにも、幸運か悪運か分からないが運が舞い込んだ。彼はたまたまビックリするほどの特大ダイヤの原石を発見。「URF」兵士に見つからぬように足の指に挟んで、「便所に行く」と偽ってそれを持ち出すのに成功。…と思いきや、「URF」兵士もそこまでついてきていて、ソロモンがダイヤを取り出したところを目撃したからたまらない。「テメエ、何やってやがるんだ!」…ところがちょうどその時に天の助け。政府軍の攻撃が始まったからソロモンも悪運が強い。おまけに近くで炸裂した爆弾のおかげで、兵士は目をキズつけて悶絶。ソロモンはその隙に無事ダイヤを埋めおおせたものの、政府軍に「RUF」もろとも捕まってしまう。こうしてソロモンは刑務所に連行されたが、それは偶然にもダニーが捕らえられた刑務所だった。当然そこにはソロモンがダイヤを持っていたところを目撃した兵士も収容され、こいつはソロモンを見ると「コノヤローはダイヤを持ち逃げしやがった!」と大騒ぎ。だがソロモンも今度は負けていない。「オレは知らない、見てみろ、オレは何も持っていない。もう何もない。オレは家族も家も、何もかも奪われたんだぞ!」…てな調子でドサクサ紛れに「URF」への恨み辛みをブチまけるものだから、さすがの兵士も二の句が付けなくなる。だがそんなソロモンと兵士のやりとりを、あのこすっからいダニーが見逃すはずもない。彼は一足先にシャバに出ると、アレコレと手を使ってソロモンを刑務所から出そうと画策する。もちろんダニーの狙いは彼のダイヤだ。そんな折りもおり、ダニーは酒場に出入りする女性ジャーナリストの一人マディ(ジェニファー・コネリー)と知り合う。付け焼き刃の知識でダイヤ密輸業者の罪を責めるマディにダニーはウンザリ。彼女の指摘が図星でもあるだけに、ダニーの気分はさらに苦り切る。だからと言ってマディに協力して、ヨーロッパの大企業との結びつきを暴露する気などチャンチャラあるわけのないダニーではあった。またシャバに出て以来、ダニーの周囲に傭兵時代に世話になった「将軍」の配下の人間が暗躍しているのも気になっていた。それでもオイシイ話は絶対手放さないダニー。彼はやっと釈放されたソロモンに近づくと、例のダイヤの話を聞き出そうとする。だが胡散臭い狙いがミエミエのダニーに、ソロモンは渋い顔だ。家族を一緒に探してやるなんて言われても、信用できるはずもない。ところがそんなこんなしているうちに、たちまち事情が変わって来た。「URF」軍が進撃を続け、首都目前に迫っていたのだ。焦りを感じたダニーは、ソロモンをしきりにせっつくが、相変わらず色よい返事は返って来ない。早くもあちこちから爆音や銃声が聞こえて来る中、ダニーはソロモンに激しく迫った。「どうした、今すぐ決断しろ。オレの話に乗るか、どうするか」…ソロモンが返事をするかしないかのうちに、「URF」軍が首都になだれ込んで来た。たちまち巻き起こる大殺戮と破壊の嵐。逃げまどう群衆の阿鼻叫喚のなか、ダニーとソロモンの決死の逃避行が始まった…!

みたあと

 こんなことを言ったらバチ当たりなのは百も承知。だが映画ファンとしての本音を言えば、僕はいわゆる「内戦モノ」の映画が好きだ。コスタ=ガブラスの「ミッシング」(1982)からオリバー・ストーンの「サルバドル/遙かなる日々」(1986)、そしてニック・ノルティ主演の「アンダー・ファイア」(1983)など、このジャンルには傑作が多い。で、かつては南米がその主な舞台だったが、最近はすっかりそれがアフリカに移動してしまった観がある。むろんこの作品もそんな作品群の一環というわけだ。しかしこの映画は一方で、「グローリー」(1989)、「ラストサムライ」(2003)などのエドワード・ズウィック監督らしい作品でもある。この2本だけがズウィックの作品であるわけではないが、おそらく彼の作品の典型的な部分を占めているのだろう。実は今回の「ブラッド・ダイヤモンド」は、この過去の2作のズウィック作品とかなり重なる部分を持っている。特に後者「ラストサムライ」は、完全に焼き直しと言っていい。主人公が過去からドロップアウトした人物であること、舞台がアメリカ人にとってのまったくの異境であること、主人公が現地と一体化したサブ・キャラクターによって浄化されていくこと…などがその一致点だ。それぞれの作品でサブ・キャラクターを演じた「グローリー」のデンゼル・ワシントン、「ラストサムライ」の渡辺謙、そして今回のジャイモン・フンスーがそれぞれ主人公とは「異人種」であることもさることながら、それぞれオスカー助演男優賞を受賞したりノミネートされたりしている「儲け役」なのは、おそらく偶然ではあるまい。

みどころ

 ハッキリ言ってレオナルド・ディカプリオが、「スーパースター化」してからの出演作の中で最高。この最高という意味は、演技的にもスターの魅力としても最高という意味だ。例えば「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002)あたりから、ヒヨッコのイメージを脱しようと体重を増やしたりヒゲを生やしたりしていたが、それらはムリしているようにしか見えなかった。それが今回は、実にピタリと役にハマってる。コッケイに見えずに、ちゃんと幅のある人間像に見えるから素晴らしい。しかも英語をしゃべらない日本人の僕にも、今回の彼のセリフが汚いイントネーションやスラングで満たされていることぐらい分かる。それらがちゃんと馴染んでいるから、みっともなく感じられないのだ。つまり男性スターとしてのボリュームが出てきたということか。そして「男のスター」としての華が増してきたからこそ、終盤のヒロイズムが生きてくる。ソロモンを裏切るのか正義に生きるのか分からない油断のならなさも、最後の悲壮な幕切れも生きてくる。こういう役柄は、本当の男臭さが出て来なきゃダメなものだ。同じことがジェニファー・コネリーにも言えて、僕はこの人がハードな女性ジャーナリスト役なんか演じられるとは思わなかった。それでいて大人の女の色気もある。「ビューティフル・マインド」(2001)以来の彼女の化けっぷりには正直ビックリだ。そして何より中盤以降の激烈な戦闘場面のリアルさ。昨今のハリウッド映画での戦闘シーンは、どれもこれも特殊技術の向上からすごくリアルになっているが、今回も銃弾飛び交うヤバさは十分感じられた。いきなり都市が戦場と化すくだりなど、悪夢としか思えない。この恐ろしさこそが「内戦モノ」の醍醐味なのだが…。

こうすれば

 ただしレオナルド・ディカプリオの素晴らしさが、同時にこの映画のウィーク・ポイントをも露呈してしまう。終盤近くの猛烈な空爆シーンで猛然と突っ走るレオは実にカッコイイのだが、そのあまりの「不死身」ぶり(実は不死身でなかった事が後に語られるものの)が際だち過ぎていて、完全に彼がスーパーヒーローになってしまうという…リアルな戦場と人物像を描きたいという狙いと実際との矛盾が生じてしまっているのだ。さらにレオが悲壮感たっぷりに画面から退場した後にも、ダラダラとエピソードが続くだらしなさ。これって何とかならなかったのだろうか。あの時点でその後どうなるかは、観客の誰もが何となく感じることだろう。それならレオの退場で映画を終わらせても良かったのではないか。アレでソロモンは救われて国も平和になった…じゃ、ちっともアフリカのシビアな現実を伝えているとは言えない。あまりに作り手としておめでた過ぎる気がする。そこまでが素晴らしいだけに、ラストで一気にブチ壊しになったみたいな気がするのだ。あと多少ケチをつけるとすれば…あまりに単純素朴過ぎてバカみたいなジャイモン・フンスーのキャラに、アメリカ人の「純粋で汚れのないアフリカ人」という先入観とそれと裏腹の見下したような偏見を感じないわけでもないが…。ともかくこの映画最大のキズは、ダラダラと余計なラストを付け加えたところ。レオがいなくなった後は、映画も終わりでいいではないか。

さいごのひとこと

 「蛇足」の教訓、アフリカでも活かされず。

 

「素粒子」

 Elementarteilchen (The Elementary Particle)

Date:2007 / 04 / 16

みるまえ

 「素粒子」である(笑)。決して「もと・つぶこ」ではない(笑)。正直言ってこのタイトルを見たら、かなり頭デッカチな映画だと想像がつく。どうせ大した事もない話を、えらくクソマジメかつ深刻に描いているんだろう。だって「素粒子」だぜ(笑)。SF映画でもなきゃ、絶対に屁理屈が勝ってるに決まってる。ただ…あの「ラン・ローラ・ラン」(1998)の主演二人、モーリッツ・ブライプトロイとフランカ・ポテンテが久々に顔を揃えているではないか。先日、同じ「ラン・ローラ・ラン」のトム・ティクヴァ監督の新作「パフューム/ある人殺しの物語」(2006)を見たばかりとあって、どうもこいつも押さえておいた方がいいって気になった。ご贔屓のフランカ・ポテンテに再会できるだけでも良しとするか。

ないよう

 メガネをかけたいかにもインテリのミヒャエル(クリスティアン・ウルメン)は、勤めている研究所を辞める決心をした。かつて手がけていながら中断した、ある研究に立ち戻るためだ。それはセックスによらない人口生殖の研究。ともかく真実は素粒子に似ている。それ以上小さくすることができないからだ。そんなミヒャエルは同僚にも尊敬される偉大なる知性の持ち主だが、飼っているインコが死ぬと何の感慨もなく生ごみとして捨ててしまうような、どこか感性の乏しい男でもあった。そんなミヒャエルは、久々に「兄」と会って近況報告をする。その「兄」ブルーノ(モーリッツ・ブライプトロイ)は、高校の教師だ。だが、最近ブルーノは冴えない。その日も詩の授業を進めながら、何となく落ち着きがない。最前列に陣取る女子高生がお色気過剰で、彼に熱っぽい視線を投げかけているからだ。実はこの男、女房に逃げられ「溜まっている」状態。手慰みに書いたエッセイも、かなりバランスを崩した危ない内容だ。すっかり煮詰まったブルーノは、授業後に彼女と二人きりになると「いいだろ?」とばかりに露骨に迫る。それが彼女をすっかり退かせてしまったのは言うまでもない。するとあまりのみっともなさに耐えられなかったのか、ブルーノは精神的パニックに陥って病院に駆け込む。ここで精神科医相手に始まるブルーノの身の上話。彼の母親はヒッピーかぶれでインドへトンズラ。幼い彼は祖父夫婦に引き取られた。だが祖父はすぐに山で事故死。祖母も頭から煮立ったスープをかぶって死んだ。仕方なく寄宿学校に入れられたブルーノは、そこで連日陰湿なイジメに遭う始末。そんな彼のもとに、夏だけは母親(ニーナ・ホス)も帰って来た。母は彼をヒッピー・コミューンのヌーディスト村へと連れて行く。そんな母に、性的妄想を抱くブルーノ。ある日、母はブルーノを「弟」に会わせると言い出した。それがメガネの異父兄弟ミヒャエルだった。いきなり対面させられ、話が盛り上がるわけもない二人。ミヒャエルの幼なじみの女の子アナベルともども気まずそうにするしかなかった…。そんなこんなで、あまりに悲惨なブルーノの告白に、精神科医も聞くに堪えないという様子だ。一方、ミヒャエルは祖母の墓を移転する必要が出てきたので、久々に郷里に戻ってきた。そこで再会したのは、これまた美しく成長したアナベル(フランカ・ポテンテ)。彼女と昔話に話を咲かせているうちに、かつてのミヒャエルの過去が甦る。あまりに内気だったため彼女への思いを抑え込んでしまったミヒャエル。それに失望したアナベルは、愛してもいない男にはしって散々な目にあっていた。今改めてお互いの気持ちに触れた二人。何とミヒャエルがいまだに誰とも性的経験を持っていないと聞いて、アナベルは過去をやり直すかのようにミヒャエルを抱きしめる。こうしてアナベルと結ばれたミヒャエルは、再会を誓って研究のためにアイルランドに向かうのだが…。一方、ブルーノは「下心」まんまんでヒッピーのヌーディスト村へと乗り込むが、どうもエロい気持ちだけが空回りするばかり。そんなこんなでヤケクソになった彼は、バスタブで男とセックスしている一人の女と知り合う。この女クリスティアーネ(マルティナ・ゲデック)も夜な夜な男漁りをしながら、自らの男運の悪さを嘆いているところだった。かくしてこのクリスティアーネと意気投合したブルーノは、一緒に奔放なセックスに身を投じながら満ち足りた幸福感を感じ始めたのだが…。

みたあと

 いやぁ、まさに「素粒子」だった(笑)。何と言ったらいいんだろう。事前に「どうせ大した事もない話を、えらくクソマジメかつ深刻に描いているんだろう。」…とは言ったものの、本当にズバリそんな映画にしか思えなかった。おそらく僕が分かってないだけなんだろうが、くだらない事を深刻に言ってるようにしか思えない。主人公である兄弟の…特に兄ブルーノと来たひには、頭にセックスしかないみたいな人物。それがやることなすことトホホな案配なのだ。例えばこの映画におけるブルーノの登場のくだりを例にとれば…“教え子の女子高生の思わせぶりな態度にすっかり熱くなるブルーノ。実はブルーノは彼女の作文とそこに添えてあった水着写真で、すでに一本も二本も「ヌイて」いた。それでも何とか動揺を隠して授業を終えると、教室の外で自販機からコンドームを買う別の女子高生を発見。またまた妄想をたくましくして立ちつくしてしまう。そんなドキドキぶりを例の女子高生に気取られたかと、ついつい心配になる小心者ブルーノ。ところがある日授業を終えた後、他の生徒が出ていっても例の女子高生が一人教室に居座るではないか。もうカンベンたまらないブルーノは彼女ににじり寄り、テメエのアレでカペカペに乾いた彼女の作文を返す。それだけでも鬱陶しいのに、「いいだろ?」とばかりに彼女の膝に手を置くブルーノ。これには彼女もやんわりと…しかしキッパリと拒絶。まだテメエの置かれた状況が分かってないブルーノは、さらによせばいいのにズボンのチャックを開けてイチモツをご開チン。これには彼女も思いっ切り退いて、憮然と去って行った。恥の上塗りもいいとこのブルーノは、あまりのみっともなさにひ〜ひ〜悶えるしかない。”…って、この展開はまるで青春筆下ろしコメディと五十歩百歩。昔1970年代あたりに、イスラエルの「やりたい盛り」のガキどもが右往左往するお下劣コメディ…「グローイング・アップ」シリーズという泥臭い青春エロ映画群があったが、やってることはそれと全然変わってない。しかもこっちは大人(笑)。しかもしかも…それをお笑い草にするならともかく、苦悶する主人公が大マジで病院に駆け込んでしまうという超シリアスな展開。描いている側も、まるでコメディをやってるつもりはなさそうだ。これは困っちゃうよねぇ。いくら深刻に言われても、こいつのやってることはアホなお笑い以外の何者でもない。その後ヌーディスト村に乗り込んでのアレコレも、どれもこれもトホホなお笑いエピソードばかり。ところが当人も作り手も観客を笑わそうなんて気はこれっぽっちもなく、あくまでムッツリとして深刻そのものの雰囲気なのだ。ブルーノを演じるモーリッツ・ブライプトロイも、元々がどこか暑苦しくてヌメっとしたキャラクター。だから何とも鬱陶しくて仕方がない。それにしても、何でこんなアホ話を大真面目に深刻に描いているのか。向こうでは名の知れた映画作家で、この作品が日本初紹介になるオスカー・レーラーって監督の真意を疑いたくなってくる。たぶん僕が分かってないだけなんだろう…と自分に言い聞かせながらも、こりゃ何なんだ?と呆れずにはいられなかった。ただそうはいいながら、観客である僕はこの映画を見放す気になれなかったから不思議。それはまず第一に、冒頭から「ある仕掛け」が僕を楽しませてくれたから。この「仕掛け」については最後に詳しく述べる。そしてアホな登場人物とその言動を「くだらない」と一蹴することをためらわせる、ある「もう一つの理由」があったからだ。

みどころ

 確かにいい歳してバカもいいとこの主人公を大真面目に深刻に描くのは、「映画として不毛そのもの」という気がしてくる。だが、それと同時に…そんなアホそのもののブルーノの言動を見せつけられているうちに、情けなくなってくる自分の「本音」にも気づいてくる。実は「下心いっぱいでスケベ根性だらけで、だけど小心でテメエ可愛さが勝ってしまう情けない男」…っていうのは、見ている僕らの本音部分だと気づかされてくる。自分のことだから…しかも隠しておきたくて忘れてしまいたい自分の本当の部分だから、見せられるとシャレにならずイヤになってくるのだ。そう思い当たってみると、この映画の男どもはどれもこれも「痛い」だけに身につまされるところがある。素直になれずに自分の気持ちをオモテに出せず、もっと早く理想の相手と結ばれるはずが何十年も遠回りしてしまう弟ミヒャエルも、実は兄ブルーノと五十歩百歩。そして彼女といざ結ばれた時には…実はもう手遅れだったりする。アナベルが前の男の子供を堕胎した事で子宮をキズつけたことも、ブルーノがやっと知り合った「理想の相手」を結局失ってしまうことも…みんな男たちが愛に臆病だから…いや、もっとハッキリ言うと自分可愛さに保身に回ったから…と言えるのではないか。そこには、「男の愛」に対する深い絶望感が漂っている。…もっとも、正直言って僕はこの映画が「分かった」とは言い難い。だから僕のこの映画の感想は非常に偏った見方だとは思うが、オスカー・レーラーの言いたいことも、どうもそのへんにあるように思われるのだ。そしてさらに非凡なのは…愛への絶望で画面を埋め尽くしはするが、結局ある種の達観の下で「希望」のようなものを見せていることだ。確かに悲惨ではあるし絶望的でもあるが、弟ミヒャエルはすっかり望んだように満足な結末とはいかずとも愛する相手を得られたし、兄ブルーノは「心の中で」真の愛を手に入れ、ついに心の平安を得ることができた。人生思った通り、望んだ通りにはいかないが、それでも何らかの幸福を手に入れることは可能だと言っているのだ。おそらくこの映画の「見方」としては的はずれなのだろうが、僕はそこにこの作品なりのささやかな「希望」を見つけた。みなさんはいかがだろうか?

もうひとつのみどころ

 そんな「素粒子」な映画(笑)ではあるが、そもそも単なる頭デッカチ映画になり得ないのは…製作があの大プロデューサーのベルント・アイヒンガーだから。新作「パフューム/ある人殺しの物語」(2006)の感想文でも語ったように、イイ意味でも悪い意味でもヨーロッパ発の大作を連発する彼がそんなひ弱な映画をつくるはずがない。今回もいかにも「田舎の映研」ふうの屁理屈映画になると見せかけて…冒頭でいきなりT・レックスの「ゲット・イット・オン」をガンガン流す。それだけでなく全編これ1970年代ロックのオンパレードというサービスぶりだ。だから僕もアホな映画と思いつつ、ノリノリの音楽につられて途中で放り出さず付き合うことができた。それだけでも、この映画は見る価値があると言っていい。

さいごのひとこと

 どう理屈をつけてもスケベはスケベ。

 

「黒い眼のオペラ」

 黒眼圏 (I Don't Want to Sleep Alone)

Date:2007 / 04 / 09

みるまえ

 しばらく新作がやって来なかったのに、昨年後半いきなり「楽日」(2003)、「西瓜」(2005)と怒濤のごとく作品が公開されたツァイ・ミンリャン。その最新作が、早くも日本上陸だ。ツァイ・ミンリャンと来れば毎度おなじみ、グンゼの白いブリーフが似合う不景気なツラの兄ちゃんリー・カンションと、可憐な顔してやる時はやる女優チェン・シアンチーの主演だろうと想像がつく。しかし前作「西瓜」が結構「行くところまで行っちゃった」作品だったので、今回の映画はどうなっているのか興味は尽きない。何でもツァイ・ミンリャン本来の出身地であるマレーシアを舞台にしているとのことだが…。

ないよう

 暑苦しく雑然としたマレーシアの街。そんな裏町で、男たちに怪しげな占いをしてやっている輩がいた。「絶対に賭けで勝てる数字」を男たちに授け、その代金としてカネを巻きあげるという手口だが、そこに何やら分からずたまたま一人の中国系の男シャオカン(リー・カンション)が居合わせたからマズかった。この男、彼らと言葉が通じない。おまけにカネも持っていない。たちまち険悪になるその場の雰囲気。さてその一方で、夜の街をマットレスを担いで歩いている数人のマレー系の男たちがいた。そんな彼らは、たまたま袋叩きにあってうめいているシャオカンと出くわす。最初は見捨てて通り過ぎようとしたが、その中の一人ラワン(ノーマン・アトン)は、彼を助けようと提案。担いでいたマットレスでシャオカンを巻いて、彼らが住む狭苦しく汚いアパートへと連れてくる。身動きもできぬほど弱っているシャオカンを、必死に看護するラワン。そんなラワンは街の一角に打ち捨てられたような工事途中のビルの中で、敷地に溜まった水をポンプでくみ出す仕事をしていた。いや、それは果たして仕事なのか、それともラワンが勝手にやっていることなのか…。さらにこの街に、一人の女が暮らしていた。その女シアンチー(チェン・シアンチー)は食堂の住み込みウエイトレスとして働き、その店の屋根裏に小さな部屋をあてがわれていた。しかも、店の主人である年増女(パーリー・チュア)には意識もなく寝たきりの息子(リー・カンション二役)がいるのだが、この身の回りの世話までシアンチーの仕事なのだ。さすがに朝から晩までの激務で、夜にはグッタリのシアンチーだった。相変わらずラワンは甲斐甲斐しくシャオカンを看護し、メシを食わせ、用を足す手伝いまでする始末。そんな看護のおかげか、みるみるうちに回復を見せるシャオカン。それでもラワンとシャオカンは寝床を共にし続け、ついにはマットレスを例の工事途上のビルの廃墟に運び込んで一層親密さを増すことになる。その一方でシアンチーに目を付けたシャオカンは彼女にチョッカイを出し、何とか彼女と二人きりになろうとする。その一方で、食堂の女主人も欲望をたたえた目でシャオカンを見つめ始めた。インドネシアで発生した山火事のため奇妙な煙が街中に立ちこめる中、各人の思惑はそれぞれ複雑に交錯するのだった…。

みたあと

 正直に言うと、僕はこの映画の前半部分でうつらうつらしていた(笑)。何しろ弁解になるが体調も悪かったし疲れてもいた。だからこの映画の感想なんて書く資格がないのかもしれない。だが、お話が前述した程度だろうということは分かる。そもそもセリフが極端に少なく、異常なまでの長回しが連続するこの映画、ちょっと目を離したくらいでストーリーが読めなくなるはずもない。ただ別の意味で、この映画は言っていることが読めなくなることしばしばではあった。で、実は眠くなったのも体調のせいなどではなく、この映画に原因があるのではないか…と思うのだ。

こうすれば

 僕は今までツァイ・ミンリャンの映画を、デビュー作「青春神話」(1992)を除いて長編は全部見ていることになる。しかしそれらの作品に取っつきにくさや大衆性の乏しさを感じても、「分からない」と感じたものはなかったように思う。「河」(1997)は好きな映画じゃないし煮詰まった感じがしたが、作者が言いたいことが分からない…とは思わなかった。作風が一転した「hole」(1998)にも驚きはしたが、言いたいことはちゃんと伝わって来た。…というより、この作品でさらにツァイ・ミンリャンの言いたいことは鮮明になっていったんじゃないだろうか。先に述べた「楽日」にしても「西瓜」にしても、ツァイ・ミンリャンの狙いは明快だ。決して難しい映画など撮っていない。そういう意味で言えば、唯一フランスで撮った「ふたつの時、ふたりの時間」(2001)だけは、何となく回りくどい作品だったかもしれない。かもしれない…というのは、今ではこの作品のことをほとんど覚えていないからだ。見た当初は面白いと思ったのかもしれないが、それでもすぐには頭に入って来なかった気もする。実は今回の「黒い眼のオペラ」も、見ていてまったく頭に入って来ない作品なのだ。何だか高尚な映画なんだろうなと思いながらも、いつものようにストレートに映画に入り込むことができない。神棚の上に上がってるというか、どうにも敷居が高い印象が強いのだ。これは一体どうした事なのだろう。パンフを見ると、再三出てくるマットレスにはマレーシアの政情が反映しているとか書いてあるが、それを知らないと分からない映画って事はないだろう。何だかそこら中に思わせぶりな記号ばかりあって、ピンと来ないことおびただしい。少なくとも、今までのツァイ・ミンリャンの映画にはそんな回りくどい仕掛けはなかった。何でここへ来て急に、そんな気取ったことをやり始めたのか。何だか映画の内容もテーマも語り口もまるっきり違うけれど、ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」(1997)を見た時のような印象を拭えない。すなわち…「なぁ〜に気取ってんだよオマエ!」(笑)。フランスで撮った「ふたつの時、ふたりの時間」といい、これといい、ツァイ・ミンリャンは外国で撮るといいとこ見せようとしちゃうのか(笑)。もっともマレーシアは彼の故郷との事なのでそんなことはないんだろうが、こうも敷居が高い作品を撮られてしまうとそんな意地悪な見方もしたくなろうというもの。むしろスクリーンをブチ破ってこっちに迫ってくる勢いがあったツァイ・ミンリャン映画だっただけに、この取り澄ましたようなハイブロウぶりにシラジラしたものを感じてしまった。たぶん世間じゃこの映画を「傑作だ」とか評するんだろうが、明らかにツァイ・ミンリャンは後退してるし、つまんなくなってるんじゃないだろうか。映画見た後、周りの人間にどう思うか聞いてみたくなった。みんなホントにこの映画が分かってんの?って。

みどころ

 確かにマレーシアの街並みや建物などの汚らしくも得体の知れない様子には、ビジュアルとして心惹かれるものがある。中でも中心的な舞台になる建設途上のビルの廃墟は、圧倒的な存在感だ。ラストで主役の三人が眠るマットレスが水の上に揺れて、そこにチャップリンの「ライムライト」のテーマ曲が流れるあたりのセンスも、確かに余人をもって代え難いものがある。だが、映画全体としてはいかがなものか。「西瓜」で「あそこ」まで行っちゃったツァイ・ミンリャンだけに、今回はいささか失望したというのが正直なところだ。

さいごのひとこと

 今さら気取ってどうするの。

 

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