新作映画1000本ノック 2007年02月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「Gガール/破壊的な彼女」 「輝く夜明けに向かって」 「墨攻」 「フリーダムランド」

 

「Gガール/破壊的な彼女」

 My Super Ex-Girlfriend

Date:2007 / 02 / 26

みるまえ

 ユマ・サーマンが女スーパーヒーロー(って、スーパーヒロインっていうべきか?)の役を演じる。たまたまそんな彼女と付き合ってしまった男の悲喜劇…という趣向。全然宣伝してないし何となく安っぽい雰囲気もあるけど、この手の映画はソコソコ楽しめそうな気がする。「キル・ビルVol.1」(2003)と「Vol.2」(2004)で、すっかり「分かってる女」ぶりを見せてくれたユマ・サーマンなら、凡百の女優たちのようにセコく気取ったことをせずに開き直ってやってくれるはずだ。これは僕が見るべき映画だろう。

ないよう

 ここは大都会ニューヨーク。今日も今日とて宝石店が犯罪者たちによって襲撃され、連中はクルマで逃走した。…と思ったら、クルマが空中に浮遊しているではないか。唖然とする犯罪者を乗せたクルマは、そのまま警察署の前に投げ出される。そのクルマを担いでいたのは…。「Gガールだ!」腰のバックルに付けた「G」のロゴも輝かしい、長身で金髪のカッコいいスーパーヒロイン・Gガール(ユマ・サーマン)がその正体。クルマから逃げ出した犯罪者が彼女に銃弾を浴びせるが、そんなものGガールには屁でもない。逆に銃を取り上げられグニャリと曲げられたあげく、ブチのめされるのがオチ。ニューヨーク市民の喝采を浴びて、颯爽と空に飛び去るGガールではあった。一方、ここに設計事務所に勤める男が一人。その男マット(ルーク・ウィルソン)は半年前に恋人と別れて以来、何ともパッとしない日々を過ごしていた。可愛い同僚の女の子ハンナ(アンナ・ファリス)に激励されてもショボくれたまま。頭ん中が「ソレ」ばっかしみたいな悪友のヴォーン(レイン・ウィルソン)も、毎日のように「女を口説け」とマットをそそのかす。その日もマットは帰宅途中の地下鉄の中で、ヴォーンに「あの女はどうだ」「この女にキメろ」とうるさく言われていたわけだが、たまたまマットがある一人の女の乗客に目をとめたのが運の尽き。その乗客は、メガネをかけてお堅い雰囲気の背の高い女ジェニー。早速マットは熱心にジェニーを口説き始めるが、どうも彼女は難攻不落の様子。すると突然ひったくりがジェニーのバッグを盗んで、地下鉄から走り去ってしまう。行きがかり上、マットが電車を飛び降りて泥棒を追っていくことになった。するとこの泥棒は、途中でバッグを捨てて去っていく。ここでよせばいいのに、マットが柄にもなくイキがったのがマズかった。「ケッ、口ほどにもない奴だ。バ〜カ!」…ところがそれを聞きつけるや、泥棒はいきなりマットの方にとって返すではないか。慌てて逃げ出し近くのゴミ箱の中に避難するマットだが、泥棒はそんな隠れ場所など先刻承知とばかりに迫ってくる。思わず痛い目に遭うのを覚悟したマットだが、ゴミ箱のフタを開けて飛び出してみると…そこに立っていたのは例のメガネ美女ジェニー。しかもこの一件でガラリと態度が豹変。マットとのデートの誘いにオーケーするではないか。降ってわいた幸運にゴキゲンなマットにとって、例の泥棒が果たしてどうなったのか考えが及ばなかったのも当然かもしれない。実はあの泥棒は…。さて、問題のデートの日。レストランで食事の真っ最中に突然ジェニーの様子がおかしくなる。やがてトイレに立ったジェニーは、そこで出で立ちを一変させて空に飛翔した。実はジェニーがあのG・ガールだったのだ。彼女はたまたま食事中にブロードウェイの火災を聞きつけ、慌てて現場に駆けつけた。そして野次馬が見ている前で、アッという間に鎮火してみせるG・ガールことジェニーであった。そんなこんなでとりあえずデートは成功。次に「第2段階」というわけで、マットのアパートでベッドに入ることとなる。ところがジェニーはベッドでも本領発揮。激しいテクニックでベッドをブチ壊してしまうアリサマだ。シンドイけど、こりゃサイコー。だが好事魔多し。ある日、マットはベッドラム教授(エディ・イザード)とその手下に拉致され、乱暴狼藉を加えられる。何でこんな事をされるのか身に覚えがないが、どうもこの連中はジェニーに関心があるようだ。その理由は、次の「ベッド・イン」の時に分かった。ジェニーがマットに自分の正体を明かすとともに、ベッドラム教授の素性も教えたからだ。何とジェニーとベッドラムは、高校時代のクラスメートだった。その頃はお互いサエない者同士で、二人はカップルだった。ところがあるデートの晩、突然隕石が落ちてきた。その隕石に誤って触れてから、ジェニーの身体が変わったのだ。スーパーウーマンに変わったジェニーは、あふれ出る自信を隠しきれなかった。サエないままで取り残されたベッドラムは、冷たくなったジェニーを憎み、いまや「悪の化身」となったわけだ。そんな経緯を聞いたあげく、「自分の彼女がG・ガール」と知ってゴキゲンのマット。だが、それで喜ぶのはいかにも甘かった。ジェニーが思った以上にキレやすく、嫉妬深いことに気づいた時には遅かった。こうなるとスーパーウーマンもアブない女に過ぎない。どんどん鬱陶しくなってきたマットは、どうしたって彼女から心が離れざるを得ない。思いあまってジェニーに別れを切り出すと、彼女は案の定逆ギレして天井に穴を開けて飛び去って行った。だが、事はそれでは済まないからタチが悪い。次から次へと度を超したイヤがらせが続く。しまいには社運をかけたプレゼンの日に、いきなり顧客の前で素っ裸にひんむかれる始末だ。これで決定的に会社の信用を失ってクビ。そんなこんなで意気消沈するマットに、何とあの可愛い同僚ハンナが何かと気遣いをしてくれるではないか。今さらながらにして、自分にはハンナの方がお似合いだと悟るマット。だが、それはG・ガール=ジェニーの新たな攻撃を誘う結果となった…。

みたあと

 何とチケットを買って映画館に入る直前、僕はこの映画がアイバン・ライトマンの新作だとようやく気が付いた。おおっ、こりゃ我ながら勘がいい。この作品は見ておかなきゃいけない映画だ。ライトマンの映画は大好きな作品が多いのだ。だがそれにしても、僕は何でこの映画がライトマン作品だと事前に気づかなかったのだろう。何となく扱いも小さいし…。扱いがあまりに寂しいではないか。お話はバカバカしいマンガみたいな話。この映画がちゃんと成立しているのは、「キル・ビル」二部作で徹底的にやってくれたユマ・サーマンが演じているからこそだろう。くだらないと言えばくだらないお話を、彼女はまったく照れずに大真面目にやってのけているのだ。これには頭が下がる。受けて立つルーク・ウィルソンも実にいい感じで、「チャーリーズ・エンジェル」(2000)や「あなたにも書ける恋愛小説」(2003)でも見せてくれた、どこか素朴なお人柄を感じさせる個性がピッタリ。もっと素敵なのは想定外の好演ぶりのアンナ・ファリスで、どんな男も彼女には心惹かれてしまうのではないだろうか。そんな適役好演の役者たちが好感の持てるキャラクターを演じている映画なのだから、見ていて楽しくならないはずがない。他愛のない話だが、とても見ていて気持ちのいい映画なのだ。

アイバン・ライトマンについて

 そもそもアイバン・ライトマン監督といえば、あの「ゴーストバスターズ」(1984)で有名になった人。だが僕が好きになったのは、むしろその次の「夜霧のマンハッタン」(1986)以降の作品からだ。実は「ゴーストバスターズ」って別に好きでも何でもない(笑)。「夜霧のマンハッタン」は昔のハリウッドのロマンティック・コメディにサスペンス味を混ぜたようないい感じ。絵に描いたような色男のロバート・レッドフォードと男まさりの頑張り屋デブラ・ウィンガーのカップルは、いかにも戦前のハリウッド喜劇みたいではないか。なるほどここは単にスターというだけでなく、ハンサム・スターのレッドフォードが必要だったわけだ。続く「ツインズ」(1988)ではいよいよ真価を発揮という感じ。そこで描かれているのは純粋無垢なアーノルド・シュワルツェネッガーを通して描かれる現代アメリカ家族愛物語。シュワとダニー・デビートが双子という一見バカバカしいコロモを着せてはいるが、描いているのは人間の善意の賛歌なのだ。さらにこの路線を押し進めた「キンダーガートン・コップ」(1990)もイイ出来だった。その次の「デーヴ」(1993)はケビン・クライン演じるアメリカ大統領そっくりさん物語を通して、政治風刺を展開。ここまで来ればハッキリ分かる。アイバン・ライトマンは明らかにフランク・キャプラの復権を目指しているのだ。世の中が世知辛くなってなかなかあの理想主義が受け入れがたくなってきている中で、あえてハンサム・レッドフォードを持ってきたり、シュワとデビートの双子とか暴力刑事の幼稚園潜入捜査とか大統領の影武者とか、バカバカしさの極地へとお話を持っていったりする。だがその根本には、意外や意外にも真摯で誠実なメッセージが隠れているのだ。フランス映画をリメイクした「ファーザーズ・デイ」(1997)も、ロビン・ウィリアムズとビリー・クリスタルの豪華共演が楽しかった。ただ、毎回作品を重ねるうちに徐々に地味な印象になってきているのが気になっていた。すると…イヤな予感が的中したか、久々の大作ハリソン・フォード主演の「6デイズ/7ナイツ」(1998)が興行的に大失敗してしまう。これに焦ったのかライトマンが次に発表した「エボリューション」(2001)は、明らかに「ゴーストバスターズ」のSFバージョンみたいな作品だったが、メガヒット作品の焼き直しみたいな事をやって確実に当たれば苦労はない。これが無惨な出来栄えとなったために、ライトマンはしばらく鳴りを潜めていることになったわけだろう。なるほど、道理でしばらくその名前を聞かなかったわけだ。ともかくこの人は根本的にフランク・キャプラの現代的再生産がやりたい訳だから、主役の選び方も一貫している。レッドフォードはそのおっとりとした上品さと二枚目ぶりが、イマドキの男性スターにない…つまり往年のハリウッド・スターのような味わいだと起用されたに違いない。そしてそれ以外の主役の多くは…人を疑うことを知らない双子の片割れのシュワも、暴力刑事だったが幼稚園では無力なシュワも、さらに大統領の影武者にされたケビン・クラインも、いずれも一種の「素朴さ」では一致している。つまり、やっぱりフランク・キャプラ映画の常連俳優、ゲーリー・クーパーやらジェームズ・スチュワートを意識しているのだ。ビル・マーレイ主演の「ゴーストバスターズ」は、彼の作品系譜から考えるとむしろ異色だ。失敗作として終わった「エボリューション」の主役デビッド・デュカブニーも、どっちかといえばクーパーやジェームズ・スチュワートの系統だろう。そう考えていくと、アイバン・ライトマン映画主役の系譜に、今回のルーク・ウィルソンもピッタリ収まるわけだ。なるほどうまい配役だ。

みどころ

 映画は終始一貫バカバカしくもおめでたいものの、そこで描かれているのは力関係が微妙になってきた男と女の関係についてのだ。女が強くなってきたことが、残念ながら男と女の関係を複雑なものにしている。それは女が強いからマズイというわけでなく、おそらく男が常に強くなければならないという固定観念にさらされているからだ。でも、そうでない男がいても何の不思議もないはずだ。まぁ、そうは言ってもねぇ…。そんな時代の新しい男と女の関係について、アイバン・ライトマンは実にさりげなく提案を行っているのだ。男が上じゃなくてもいいじゃないか…とは言うものの、現実問題として何かと男は強くなきゃいけないし偉くなければならない。そんな窮屈さからの脱皮を、フェミニズムみたいに押しつけがましく攻撃的な口調ではなく、誰にも受け入れやすい語り口で描いているのが…理想主義を堅苦しくなく描いていたフランク・キャプラ的思想なのだ。そして、これぞアイバン・ライトマンらしい発想なのである。このお話のテーマがそんな新しい男女関係に関する言及であることは、主人公ルーク・ウィルソンの新しい恋人になるアンナ・ファリスもまたスーパーウーマンになることで明らかだ。ユマ・サーマンのG・ガールではなく手の届く範囲で自分を凌駕しない女を選んだ…という印象を、観客に与えないための設定なのである。そんなこの映画は、一方でG・ガールに男の純情を捧げているベッドラム教授なる人物も設定している。これがまた「ツインズ」のダニー・デビートあたりを彷彿とさせるような、実にフランク・キャプラ的泣かせるキャラクターで好感が持てる。僕はこういう好ましい人物を作品に登場させるアイバン・ライトマンが好きだ。だから映画のラストで事件解決のために「出勤」する女たちを見送って、「そこで一杯やりながら待ちますか」と去って行く主人公とベッドラム教授の男二人の描き方に、とっても嬉しい気持ちになって映画を見終わった。そこには頭でっかちな発想で考えたわけではない、新しい男女関係の理想が描かれているのである。

さいごのひとこと

 これがホントのドリームガールズだ。

 

「輝く夜明けに向かって」

 Catch a Fire

Date:2007 / 02 / 12

みるまえ

 こんな映画があるとは全く知らなかったのだが、いきなり新聞を見たらアフリカを題材にした映画が2本。こんな分け方も乱暴極まりないが、何しろ情報不足で僕にはそうとしか分からない。1本は「ルワンダの涙」でジョン・ハートが出ている。もう一本がティム・ロビンスの出ているこの「輝く夜明けに向かって」だ。忙しくてなかなか映画を見る時間を捻出はできないが、それでもこの2本は気になった。例の話題沸騰した「ホテル・ルワンダ」(2004)は見れなかった僕だ。何とかこれらの作品は見たいところ。だが、どうも2本両方見るのは難しそうだ。とりあえずどっちを見るか…と調べてみると、「ルワンダの涙」は僕が好きなマイケル・ケイトン・ジョーンズの監督だ。もう片方のタイトルがイマイチ(アフリカだと何でも「夜明け」とか入れればいいと思ってるのかい)なこともあって、こりゃ「ルワンダの涙」だな…と心が動きかかる。ところがそこで「輝く夜明けに向かって」の監督が誰かを知って、僕は180度選択を切り替えてしまった。フィリップ・ノイス監督。前作の「愛の落日」(2002)は僕の大好きな作品だ。しかも同系統の骨太社会派作品ではないか。ケイトン・ジョーンズには申し訳ないが、これならやっぱりノイスだ。これは見るしかない。僕は慌てて劇場に飛んで行ったわけ。

ないよう

 ここは南アフリカ、1980年。平凡な黒人男パトリック・チャムーソ(デレク・ルーク)は、日々の糧が得られれば満足。出過ぎたマネをせず、平穏無事に過ごせればいいと毎日思っていた。幸い勤勉な彼は石油精製所のあるセクションで監督を務めるまでに出世。そこそこの暮らしをすることができた。そんな彼は妻のプレシャス(ボニー・ヘナ)と2人の娘、そして母親をクルマに乗せて、知人の結婚式へと出かける。歌って踊ってみんなで和気藹々といいたいところだが、パトリックが女と楽しげにしていると、たちまち嫁さんプレシャスの目が険しくなるのが気になるところ。フテって外に出ていったプレシャスを、追いかけたパトリックがナントカなだめすかしてイチャつく。ところがそんな折り、近くで爆発の音が聞こえる。実はそれは、テロリストによる鉄道の爆破だったのだが…。案の定、翌朝クルマで自宅に戻る途中のパトリックは、厳しい白人警官たちの検問に引っかかる。大人しく無抵抗なパトリックだったが、屈辱的な仕打ちにやりきれない気持ち。しかも、その場で射殺されている者を目撃し、心の中に澱のようなものが残った。それでも日常に戻って、前のように暮らそうとするパトリック。母親が反骨精神を発揮してゲリラ放送をラジオで聞いていると、「オレを逮捕させたいのか?」とスイッチを切るパトリックだった。一方、南アフリカ公安部テロ対策班のニック・フォス大佐という男(ティム・ロビンス)は、パトリックと対照的な人生を送っていた。長身の白人。大きな家を持ち豊かな暮らしを送る彼は、家族思いで教養もある男だ。決して反動的な男でも狂信的な男でもない。だが現在の豊かな暮らしと社会の秩序を守るためには、「断固とした態度」が必要だと固く信じていた。この交差するはずもない二人の男の人生が深く関わり合うことになろうとは、一体誰が予想できたろう。ある日、自身がコーチを勤める少年サッカー・チームの遠征試合のため、仕事を休んで同行したパトリック。試合が快勝に終わったその夜、パトリックはある掘っ建て小屋を訪れていた。そこにはパトリックの古い愛人ミリアム(テリー・フェト)がいた。なるほど、妻のプレシャスがやたら嫉妬深いのも、これが原因だったのだ。パトリックも浮気がバレてミリアムと手を切ると言ったものの、切るに切れない訳があった。プレシャスには内緒だったが、ミリアムにはパトリックとの間の息子がいたのだ。そこでこのように、隙を見計らってコソコソ会いに来るパトリックだった。ところが夜中に帰る途中、石油精製所で爆発が起きた。むろんテロリストの仕業だ。これがパトリックの運命を180度変えることになる。実はパトリックは、会社に仮病の診断書を出してサッカー・チームの遠征に同行していたのだ。これがバレて、突然捕まってしまうパトリック。例のニック・フォス大佐率いるテロ対策班に連れてこられたのは、テロリストを尋問するための施設だ。ここで拷問・監禁何でもござれの迫害を受けたあげく、時にはフォスの気まぐれで彼の自宅に招待されたりもする。硬軟自在のテクニックで、何が何でも自白させようというフォスだった。さすがにまいったパトリックは愛人の存在を暴露。しかし、それでもフォスは納得しない。ついには妻プレシャスまで逮捕し拷問するに至って、パトリックはついに偽りの自白をすることにした。「分かった、分かった!オレが石油精製所に乗り込んで爆破した!」…だがその言葉を聞いたとたん、フォスはパトリックが「シロ」であると気づいたのだった。かくしてボロボロになって釈放されるパトリック。しかし、もはや彼は以前の彼ではなかった。パトリックは気まずくなってしまった妻には何も告げず、一人で家を出ていってしまう。彼がめざしたのは、解放運動を行っているANC(アフリカ民族会議)の本部だった…。

みたあと

 何で今さら南アフリカ? アパルトヘイト?…な〜んて疑問は、映画が始まってすぐに氷解する。理不尽に人々を弾圧する白人と虐げられる黒人…という構図、テロ行為を行っている者が「悪」でそれを叩く側が「善」」だとなぜ言い切れるのか?…という主張は、誰がどう考えても現在のアメリカとイラクの問題に結びついて見えてしまうだろう。だが、実はこの映画ってそれにとどまらない。もっと大きな話に見えてくるから不思議だ。監督がオーストラリア出身のフィリップ・ノイスというのも大きな驚きだった。フィリップ・ノイスといえば、ハリウッドでシャロン・ストーン主演のエロ・サスペンス「硝子の塔」(1993)とか撮ってる人という印象しかなくて、最初はアホ映画の監督と思っていた。やがて「ボーン・コレクター」(1999)を撮るに至って「そう腕が悪くもないかも」…と思い始めてはいたが、それでもサスペンス映画の職人ぐらいにしか思っていなかったわけ。そんな評価がガラリと変わってしまったのが、「裸足の1500マイル」(2002)を見てから。さらに「愛の落日」(2002)を見てまたまた感心。すっかり僕のご贔屓監督に昇格したわけだ。で、ここでも「裸足の1500マイル」と「愛の落日」に通じるテーマが打ち出されている。支配する側とされる側の問題に、改めてスポットが当てられているのだ。これはノイス監督の何かのオブセッションなのだろうか?

みどころ

 何より見事なのは、この映画がこの手の「社会派告発モノ」のルーティンから逸脱していること。「悪」と「善」をワンパターンで描かないという方針が隅々まで徹底していることだ。これって当たり前のように言われていることだが、それでいてなかなか出来ない。イマドキの良心的映画はみんなこれをめざしているが、なかなかここまで徹底できてない。実はこの映画には、「悪」も「善」も出て来ないからスゴイのだ。まずは「悪」なはずのテロ対策班のボス、ティム・ロビンス。どことなく憎めないその風貌が最大限に生かされ、時には愛すべき人間にすら見えるから驚く。常識人であり家庭人であり、良心も持ち合わせている。日曜日には監禁している囚人である主人公デレク・ルークを自宅に招いて、人間的触れ合いを持とうともする。「アパルトヘイトなんて長いことは続かない」とも分かっているし、同僚がデレク・ルークの苦し紛れの自供で罪に陥れようとすると、「奴は犯人じゃない!」と断言するだけのフェアな神経も持っている。だから僕らはともすれば彼を善人と見なしてしまいそうになるが…あるいは本当に善人といえるのかもしれないが、そんなデレク・ルークを監禁して拷問を命じるのも同じティム・ロビンスなら、何と妻まで拷問してしまう手段を選ばぬ男でもあるのだ。これはどう見ても「善人」とは言えまい。実はこの得体の知れなさは主人公デレク・ルークにも言えて、妻の目を盗んでチャッカリ愛人とシッポリやってるあたりは、意外に狡猾さすら感じさせる。そんな彼が解放運動のために立ち上がるのは、もちろん自分たちに降りかかってきた理不尽さへの怒りゆえだが…それってよくよく見ていると、不倫がバレて妻と一緒に家にいるのが居たたまれなくなったから出て来ちゃったと見えなくもないではないか。まるでリッパでないことおびただしい。志の高さから勇敢に闘士にをめざした…とかいう英雄伝説の対極をゆく展開。これが何とも非凡だ。これを見る限りではティム・ロビンスも「悪」ではないしデレク・ルークも「善」ではない。むろんだからと言ってロビンスが「善」でもルークが「悪」でもあり得ない。そういえば、ここでは本来文句なく「善」に回るはずの主人公の妻やサッカー少年までが、主人公を裏切る側に立っている。「銃はキライ」と良心的な事を言っていたティム・ロビンスの娘も、黒人テロリストを銃で射殺する。誰一人としてスッキリしている人物は存在せず、みんな何かしらダークだ。ならば彼らは一体何なのか? 彼らは「普通」で、ありふれた平凡な連中だと言っているのだ。つまり、我々と同じような人間だと言っているのだ。我々だってこういう目に遭うかもしれないし、こういう事をやってしまってるかもしれない。これがこの映画の訴求力をグッと増した点だろう。だからこそ、ラストで主人公が憎しみの連鎖を断つくだりが感動を呼ぶ。それも一切ドラマティックな描写抜きでアッサリ描写。このあたりが、フィリップ・ノイスの非凡なところだろう。

さいごのひとこと

 分かってる大人の映画。

 

「墨攻」

 墨攻 (A Battle of Wits)

Date:2007 / 02 / 12

みるまえ

 次々とアジア発歴史娯楽大作がやってくる中で、またまた期待の大作が来る。僕は知らなかったのだが、これって日本のマンガが原作だという。かなりの大作でCGなども多用しているようだが、主演がアンディ・ラウとはなかなか豪華。しかもしかも、敵の将軍役にアン・ソンギ!!!ご覧の通り、ビックリ・マークが3つである(笑)。このミスター韓国映画ともいえるビッグスターが出てくれるなら、この映画は中国だとか香港だとかいったワクを軽く飛び越える、アジア発国際大作の決定版になるに違いない。アンディ・ラウVSアン・ソンギという激突を見るためだけでも、入場料は高くない気がする。

ないよう

 紀元前370年頃の中国は、戦乱の世であった。当時、「趙」の軍は「燕」に攻め込もうとしており、「趙」と「燕」に国境で接していた小国「梁」が、まず手始めに「趙」の軍勢に攻撃されるのは必至だった。「梁」のすぐそばまで押し寄せて来た「趙」の軍勢は約10万。これに対して城塞国家「梁」の住民はたかだか4千人。しかも「趙」の軍勢を率いる将軍(アン・ソンギ)は百戦錬磨の強者として知られていた。そこで「梁」の王(ワン・チーウェン)は、「墨家」に救援を頼み込む。「墨家」とは一種の思想集団で、「不戦」を解き大国による小国侵略を厳しく糾弾していた。時に侵略されんとする小国に加勢し、勇猛果敢に戦って守り通してしまうと言われる「墨家」は、小国から大いに当てにされる存在だった。しかしながら今回の場合、「趙」の軍勢はもう目と鼻の先にいた。とても「墨家」の救援部隊が間に合うとは思えない。慌てた梁王は腹心(ウー・マ)の助言に乗って、「趙」の軍勢に降伏の文書を送ったりもする。しかしその使者は残酷にも踏みにじられてしまう。そんなこんなでてんやわんやの城塞の外に、まるで僧侶のような格好で一人歩いてくる男がいた。これぞ「墨家」よりの使者・革離(アンディ・ラウ)だ。しかし「墨家」とはいえ得体の知れない奴であることは確か。王子・梁適(チェ・シウォン)をはじめ「梁」側の人々も、革離の実力のほどを図りかねていた。そこに早速駆けつける「趙」の先遣隊。早くも訪れる危機に緊張がはしるが、革離は慌てず騒がずたった一本の矢を細工することで敵の隊長を撃退。先遣隊を見事に退却させた。これで一気に「梁」の人々の信頼を勝ち取って…となれば苦労はないが、梁王の腹心は狡猾にも敵に革離を差し出せば征服は免れるかも…などと要らぬ入れ知恵をする始末。しかしひとまず梁王は、この場を革離に委ねる決心をした。かくして「梁」軍の全権をこの革離が握ることとなる。こうして指揮を振るうことになった革離は、まず弓隊の隊長を一平卒の子団(ウー・チーロン)に任せる。これに王子・梁適は猛反発するが、革離は彼を実力で認めさせた。そんな風雲急を告げる「梁」から逃げ出す農民たちもいたが、彼らはまんまと「趙」の軍勢に捕らえられ、情報を引き出されてしまう。やがて城壁の外から「趙」の将軍の誘いが…何と革離の存在に気づいた敵将軍が、彼に興味を抱き面会を申し入れたのだ。単身、近くの小高い丘の上に乗り込んだ革離は、そこで敵将軍と初めて対面。敵将軍は革離に、将棋のような盤上の戦いを挑む。盤を挟んで睨み合うこと数時間、敵将軍は革離を好敵手と認め、戦場での再会を誓って去って行った。そんな革離に「梁」側からも熱い視線を送る人物が一人…女だてらの騎馬隊長・逸悦(ファン・ビンビン)がそれだ。彼女は沈着冷静でストイックな革離の様子に、知らず知らずのうちに惹かれていく。だが革離のほうは、近々訪れるであろう「趙」軍の襲撃に備え、準備に余念がなかった…。

みたあと

 「グリーン・デスティニー」(2000)、「HERO/英雄」(2002)あたりから続々と制作される中国時代劇アクション大作は、元々が中国本国と香港・台湾を巻き込んだものだったが、徐々に日本や韓国までも巻き込んでスケールアップしていった。これら一連の大作に呼応するかのように、韓国からもチャン・ツィイーを招いた「MUSA/武士」(2001)が登場したのがその何よりの証。今回は原作が日本のマンガで中国・香港・台湾の主要キャストで固めたところに、何とミスター韓国映画アン・ソンギ御大が堂々参加となった。いや、この人が出てくるとなれば別格。アンディ・ラウとのビッグスター同士の激突も、いやが上にも盛り上がる。次から次へと登場してどれもこれも同じような印象になってきた中国時代劇アクション大作路線も、このアン・ソンギの投入で一気に鮮度アップだ。

みどころ

 とにかくこの映画、予想以上にメチャクチャに超大作だった。城塞国家(の少なくとも一部)を巨大なセットとして建造しちゃったのもスゴければ、ものすごい数のエキストラを動員した戦闘場面もスゴイ。エキストラは明らかにCGで埋め合わせはしているのだろうが、それにしたって実際にも相当数が動員されているのは間違いない。そこで単に雲霞のごとき軍勢同士がぶつかり合うだけ…だったら、正直言って凡百のスペクタクル史劇映画同様の見せ場で、正直言って大味であまり面白くはない。だがこの映画は圧倒的多数の軍勢の攻撃をあきらかに少数非力な連中がかわす…というあたりがミソ。そのあの手この手の攻防戦が面白いのだ。そう聞くと、みなさんはひょっとしてリドリー・スコットの「キングダム・オブ・ヘブン」(2005)でオーランド・ブルームが知力を尽くして見せた、徹底的な「守り」の戦いを連想されるかもしれない。おそらく作り手の脳裏にあったのも「アレ」だと思う。しかし、残念ながらこの映画はそこまでは至らないのが正直なところ。その理由について詳しくは後述する。また、僕が大期待したアンディ・ラウ対アン・ソンギの激突は、あまり対面する場面がないため、さほどのものでもない。ただし…やっぱり共演場面はこの二人だけあって見応えあり。そうはめったに共演できない顔合わせとあって、何だか見ていてトクした気分になった。また、この映画のテーマであり「墨家」の思想として描かれる「不戦」は、今の世の中だからこそタイムリー。結果的に大戦闘シーンが血沸き肉躍る描写で描かれてしまうのが矛盾と言えば矛盾だが、描こうとしている志やよし。アンディ・ラウの持ち味もあって、見終えた後に清々しい主人公の人間像が残るのだ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 しかしながら前述のように、多勢を相手に少数側が知力を総動員しての攻防戦…となっているはずなのに、そういう爽快感には乏しいこの作品。その原因は、この城塞がどのような構造になっていて、今どんな状態になっているのか、どこに弱点があってどこが強いのか…そういう肝心な情報を、観客に一切与えていないからではないだろうか。だから主人公がいろいろ考えて工夫しているのに、その見事さ巧みさが分からない。危機突破しても「なるほど、そうきたか」と観客は感心できないし、そもそもどう危機が迫っているのか、いや…それがどう危機なのかもちゃんと理解できない。それは「キングダム・オブ・ヘブン」や「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」(2002)などにはあった、両軍側の位置関係や戦いの状況を一望で見せる俯瞰ショットがないということもあるが、最大の理由は事前に地図か模型でこの城塞の様子を説明しなかったこと。黒澤明なら冒頭に必ずそれをやっていたはず。今回だってアンディ・ラウがこの城塞の模型を見つめて作戦を練る場面があったのだから、そこで観客への説明ができたはずだ。このへん、ジェイコブ・チャンはイマイチ演出の工夫に乏しい。せっかく大作をスケールでっかく描く力はあるのに、基本的な部分で残念なことをしてしまった。そしてジェイコブ・チャンの演出については、アンディ・ラウを愛した女騎馬隊長ファン・ビンビンの処理に対しても疑問を感じた。何でも彼女は原作にないキャラとのことなので、物語の最後にアンディ・ラウが彼女と一緒に去っていく結末にしたくないのは分かる。だが…だからといって、あまりにあざとく彼女を殺すのはいかがなものか。彼女のノドを切り裂いて声が出なくするのも、アンディ・ラウが水攻め戦法を用いるのも、すべて彼女を最後に殺すための伏線になってしまっている。これは何とも見ていて気分が悪い。「そうまでしてこの女を殺したいのかね?」と作り手に問いたくなる。もうちょっと、さりげなく退場させることだってできただろう。悲壮感を強めたいのかもしれないが、せっかく清々しい印象の映画を汚したという感じは否めない。

さいごのひとこと

 デカいところだけでなく細部も見て。

 

「フリーダムランド」

 Freedomland

Date:2007 / 02 / 05

みるまえ

 この作品を知ったのは、劇場で予告編を見た時が最初。サミュエル・L・ジャクソンとジュリアン・ムーア主演のミステリーもの。子供がさらわれ、サミュエルが刑事として乗り出す。子供をさらわれた母親はジュリアン・ムーアだ。サミュエルはとにかく何かが引っかかっている様子。謎が謎を呼ぶ内容…となると、サミュエルが出てるという意味でも「閉ざされた森」(2003)の謎また謎のミステリアスな内容が思い出される。こりゃ面白そうだと思っていると、途中で黒人街の暴動なども絡んでくるではないか。…となると、サミュエルの出演作でも法廷ミステリーが人種問題につながっていく、「評決のとき」(1996)みたいな路線の作品なのか? そう思っていたら、今度は途中から舞台はフリーダムランドと称する児童養護施設跡に移る。すると…これは猟奇サスペンスなのか? はたまたミステリかと思っていたが、実は「TATARI」(1999)みたいにホラーなのか? まさか…とまんざら一笑に付せないのは、何しろあの「フォーガットン」(2004)にも出ているジュリアン・ムーアの出演作だから。彼女が出ているとなると、もはや「何でもアリ」の可能性がある(笑)。こうなると、面白かろうが面白くなかろうがどうでもいい(笑)。果たしてこの映画がどんな映画なのか…それを見極めるだけのためにも見たくなるではないか。

ないよう

 夜の街をフラフラと歩く、一人の白人女のシルエットが見える。ここはデンプシー市の黒人街アームストロング団地。バスケに興じる若者がいたりオバサンが歩いていたりするが、誰一人としてこの白人女に目をとめない。逆に白人女の方も、何かに取り憑かれたかのように呆然と歩き続ける。彼女は黒人街からはずれると、救急病院の中に入っていく。病室の中に入ってきた白人女は、ようやく周囲の注目を集めることとなった。それと言うのも…その女ブレンダ(ジュリアン・ムーア)の両手は血で真っ赤だったからだ。その頃、例のアームストロング街に巡回にやって来たのが、この地区の担当刑事ロレンゾ(サミュエル・L・ジャクソン)。彼は地元住民と憎まれ口を叩き叩かれながら、結構ここの人々に好かれていた。ロレンゾもまた、この地区の人々のために彼なりに働いているような男だった。そんな男だから、彼に相談を持ちかける住民も多い。今日も今日とて、夫ビリー(アンソニー・マッキー)から暴力を振るわれたとフェリシアという女(アーンジャニュー・エリス)が訴えかけてくる。だがロレンゾもそんなにヒマではない。この日は麻薬所持で逮捕状が出ているラフィクという若者を捜しに来たのだ。だが、そんな彼に呼び出しがかかる。病院に「クルマを盗まれた」と駆け込んで来た女がいるというのだ。何とか病院に駆けつけたロレンゾを待っていたのは、例の手をケガしていた女ブレンダだった。彼女は例のアームストロング団地内にクルマで入り、ちょっとした隙に黒人男にクルマを奪われてしまったと言うのだ。それだけかと思っていたら…いきなりそのクルマに子供が乗っていたと言い出すではないか。つまり子供ごとクルマを盗まれてしまったと言うのか? とたんに泣き出し冷静さを失うブレンダだが、それを聞いたロレンゾ自身が「落ち着け!落ち着け!」とわめきつつ一番慌てふためいていた。元々ぜんそく持ちのロレンゾは、薬をとりつつ本署と連絡。子供を乗せたままのクルマの手配を頼む。さらに事情を聞き出そうと焦るロレンゾだが、ブレンダは何やら頑なになって口を開かない。やがてロレンゾの連絡でやって来たのは、彼女の兄で警官のダニー(ロン・エルダート)。だが、見るからに頭に血が上るタイプのダニーを見て、ロレンゾは真っ先にイヤな予感がした。そしてイヤな予感は的中するものだ。ダニーが怒り心頭でかき集めたのか市警全体の方針か、アームストロング団地はたちまち閉鎖されてしまった。さらに出られなくなった住民が苛立つ中、あちこちで警官によるムチャな尋問が始まる。これにはアームストロング団地内もたちまち暴動寸前に怒りは沸騰するばかり。そんなロレンゾをじっと尾行するクルマが…実はこのクルマに乗っていたのは、「ミッシング・チルドレン」を探すボランティア団体のリーダー・カレン(イーディ・ファルコ)。彼女はロレンゾに手を貸そうと提案するが、ロレンゾは丁重に…しかしキッパリと辞退した。さて、翌日になっても封鎖は解けない。むろんクルマも子供も出てこない。何とかしなければ、本当に暴動が起きてしまう。焦るロレンゾは再びブレンダをアームストロング団地に連れ出し、改めて昨夜の顛末を聞き出そうとする。だがイヤがるブレンダは自暴自棄気味にわめき散らすだけだ。「誰も私なんか気にしない。人が私を注目するのは、私がヘマをした時だけだわ!」…そんな子供をさらわれた母親らしからぬ挙動に、ロレンゾは納得できないものを感じ始めるのだが…。

みたあと

 映画が始まってすぐにアブな〜い感じでジュリアン・ムーアが登場。言動も行き当たりバッタリな感じで、そんな彼女の言葉で「事件」が語られるから絶対アヤシイ感じが濃厚。対するサミュエル刑事はジュリアン・ムーアの供述がいきなりエスカレートすると、「落ち着け!落ち着け!」と言いながら自分がパニクって呼吸困難に陥る。こりゃあ何かありそうな気配。一方、冒頭から黒人街の一触即発なムードも強調されているから、お話はどうやら社会派サスペンスの方向でいくらしいと察しがつく。だがそうは言っても、何しろジュリアン・ムーアが怪しすぎる。単なるミステリーの引っかけでは収まらないくらいアヤシイ。サミュエルじゃなくても見ている僕らだってオカシイと気づく。こうもオカシイと、観客をミスリードするためだけとは思えなくなる。そこに唐突に出てくる「フリーダムランド」なる昔の児童擁護施設跡。「さらわれた」とされる子供を捜すためにここに大捜索をかけることになるが、この施設跡がまたかなりインパクト大な舞台なのだ。この施設にまつわる忌まわしい過去が、何か今回の事件と関係があるのではないか。スゴイ変質者でも出てくるのか、はたまた施設にまつわる怨霊か。いやいや、ジュリアン・ムーアのことだ油断はできない。ひょっとしたら宇宙人の仕業じゃないか(笑)?

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 ジュリアン・ムーアは最初からアヤシイ。出てきたとたんからアヤシイのだ。その人物がやっぱりオカシイというのは、まったく意外性でも何でもない。ミステリなら、実はウソっぽくない人間が一番ウソをついているものだ。しかし、ウソをついていそうな人間が「やっぱりウソをついてました」(笑)では、どこが面白いんだか分からない。唐突に出てくるインパクト大な「フリーダムランド」も思わせぶりなだけで、物語の本筋とは全く関係ない。その施設で大勢の子供が虐待された…なんて過去が語られても、まったく意味がない。一方で、黒人街の暴動がものすごい比重で描かれているので、「この話って一体どうなっちゃうの?」って、見ている側は当惑させられてしまう。確かに、これで怨霊や宇宙人のせいにされてもバカバカしくてドッチラケな話ではある。しかし、ウソをついていそうな人間がやっぱりウソをついていて、実は殺しも陰謀もなくてケチくさい母親の過失の話でしかない…という幕切れでは、さすがに一番つまらない展開になっちゃったなという印象しかない。これで怨霊や宇宙人の仕業なら、まだバカバカしさに笑って土産話にできるものを、笑うことさえできない。要は「フリーダムランド」という児童養護施設での虐待話はひとつの「象徴」で、黒人街での虐待と幼い頃からないがしろにされてきたジュリアン・ムーアがすべて同一線上でつながる、「虐げられてきた者たち」の悲しい思いの爆発…を描きたいんだろう。それは分かるのだが、それをただゴロリと提示されても観客にはピンと来ない。それに、それって「まんま」では同一線上で語れない話じゃないのか。あまりに乱暴な気がする。結局サミュエルの発作も活かされないし、何だか意味ありげな設定ばかりが出てきて使い捨てにされてしまう印象だ。

みどころ

 というわけで、サスペンス映画としては最もつまらない結末に落ち着く作品だが、それでも見ていられるのはサミュエルの人間的魅力とでも言おうか、安心して見ていられる暖かみのおかげ。役者としての安定感とスケール感が素晴らしい。サミュエルのおかげで映画として何とか成り立ってる感じだ。それにしてもジュリアン・ムーアはヤバいんじゃないか。こんな役ばかりやってるとアヤシげなイメージが定着してしまう。もう彼女が出てきただけで信用できない。

さいごのひとこと

 大山鳴動ネズミ一匹。

 

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