新作映画1000本ノック 2007年01月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「マリー・アントワネット」 「エレクション」 「ラッキーナンバー7」 「リトル・ミス・サンシャイン」

 

「マリー・アントワネット」

 Marie Antoinette

Date:2007 / 01 / 29

みるまえ

 「ロスト・イン・トランスレーション」(2003)の素晴らしさは、今さら僕がここで繰り返し述べることもないだろう。この一作で、僕の中のソフィア・コッポラ株は急上昇した。それまでの僕のソフィア観と来たら…セレブであることをいいことに映画に出しゃばってくる不細工ねえちゃん(笑)。もちろんそれは「ゴッドファーザーPART III」(1990)によせばいいのに出演したのが発端だ。それからフォトグラファーだのデザイナーだのと彼女が小賢しいマネをするたびに、この手のただ「有名人の娘」ってだけの女じゃなくて才能があるけど知られてない「民間人」にチャンスを与えろ!…とムシャクシャした。どこかの会社にでも入って、地道に真面目に働けよって言いたくなった。それが今度は監督かい?…と聞いてますますウンザリさせられた「ヴァージン・スーサイズ」(1999)は、思ったより悪くなかった。だが何かっていうといちいち「ガーリー、ガーリー」って「スシ食いねえ」じゃねえんだ…ってのは、もう一回使い古したギャグだった(笑)。そんなわけで100パーセント期待してなかったソフィア監督2作目の「ロスト〜」だが、その出来栄えの素晴らしさには完全にノックアウトされてしまった。そのソフィアの新作?…待ってました!と言いたいところだが、出来あがったのがキルスティン・ダンスト主演「マリー・アントワネット」と聞いて、いささか心配にならざるを得ない。しかもフランスはカンヌから聞こえてくるこの映画の話題は、ハッキリ言ってロクなモノがなかった。ブーイングの嵐だとか幼稚な出来だとか…中でも劇中に現代のロック・ミュージックを流すと聞いて、イヤ〜な予感は倍増。そりゃ歴史劇にロックを流してどこが悪い?…とか、そういう新しい試みをケナすなんて保守的…とか、あまり考えないでモノを言う人は安易に思ってしまうかもしれない。だけど、やっぱりこういうのってのは難しいよ。同じようなモノを狙った作品もいくつかあるが、成功例はブライアン・ヘルゲランドの「ロック・ユー!」(2001)などごくわずか。ヘタをすると…昔どこかのテレビでやってた武田鉄也主演の幕末青春ものドラマで、意味もなくがんがんサイモンとガーファンクルとか流していたヤツみたいな、思い切り痛いセンスの作品が出来あがってしまう。ハッキリ言って趣味悪いぜ。大丈夫なのか、ソフィア?

ないよう

 オーストラリアの王女マリー・アントワネット(キルスティン・ダンスト)は、ある日突然フランス王太子に嫁ぐことになった。まだねんねで子犬を抱いて眠るような彼女は、母君(マリアンヌ・フェイスフル)に別れを告げ、馬車に乗って一路フランスへ。しかし国境のテントの中で顔見知りと離ればなれになるだけでなく、故国から持って来たものはすべて置いていくハメになる。服も、持ち物も、愛する子犬まで…口うるさい世話係のノアイユ伯爵夫人(ジュディ・デイビス)に取り上げられ、身体ひとつでフランスの地を踏むことになる。こうして単身やって来たヴェルサイユは、聞きしにまさる壮大な宮殿だった。国王ルイ15世(リップ・トーン)は彼女を大歓迎。しかしその息子…マリーの夫となるルイ・オーギュスト(ジェイソン・シュワルツマン)は、何ともオドオドした青年だった。結婚式を挙げて夫と妻になっても、ルイのオドオドぶりは変わらない。ロクにマリーの方を向こうともしないし、ましてや話しかけても来ない。新婚初夜になっても、指一本触れようとしないルイに、戸惑うばかりのマリーだった。しかもヴェルサイユでの生活は窮屈しごく。周囲は常に人に取り囲まれており、着替えも食事も多くの人の前で行われる始末。やたらにしゃちこばってくだらない慣習ばかりの生活をバカバカしく思うマリーだが、周囲の人々にはそれが重大なようだ。そんな空疎な毎日を送るマリーは、「世継ぎ」を待ち望む周囲の声に徐々に押しつぶされていく。マリーの相談役となっているオーストラリア大使・メルシー伯爵(スティーブ・クーガン)は、「このままではあなたの立場も危うい」と「同盟」としての結婚の不安定さをマリーに語る。そうは言っても、夫のルイがあれでは彼女とてどうにもならない。そんな空疎な気持ちと焦燥感を持てあましたマリーは、お菓子や服や宝石など…派手な浪費に明け暮れる生活に溺れていく…。

みたあと

 映画が始まっていきなりロック・ミュージックが流れ、明らかにセックス・ピストルズのアルバムを模したタイトル・ロゴ・デザインが画面に出てくる。たちまち見る前のイヤ〜な懸念が脳裏に浮かんで来るが、実はおおっと思ったのはこの冒頭ぐらい。それから後ずっとのべつまくなしロックが流れるのか…と観念したが、実はそうはならなかった。意外なまでにそっちの路線は控えめで、お話はあくまでたった一人で外国のヴェルサイユ宮殿に閉じこめられる少女アントワネットの描写に徹する。そう…またしても、「たった一人で異文化の外国にいる」というお話。「ロスト・イン・トランスレーション」の物語なのだ!

みどころ

 見ているうちに、この映画が何でカンヌでコキ下ろされたか分かる気がした。フランスの伝統と文化のバカげた部分が、思いっきりカリカチュアライズされているからだ。その意味で、「ロスト〜」で日本のギョーカイ人がバカにされていたのと同じ。あれも日本人がバカにされている…と怒っていた連中がいたからね。でも、日本のギョーカイ人ってホントにあのくらいバカなのだ(笑)。それと同じように、当時のフランス王室もかなりバカげていたのだろう。だが、それをアメリカ人に…しかも大々的にヴェルサイユ・ロケまでされて言われたくないのがフランス人気質というものか。この批判はハッキリ言って的はずれと見た。そして孤立無援の状態に置かれたアントワネットが、空疎な心をバカ騒ぎに費やさずにいられない心境も分かる。悪名高いマリー・アントワネットをこうした角度から取り上げたのは、もちろんソフィア・コッポラが自分の「ロスト・イン・トランスレーション」体験から彼女に共感したからに違いあるまい。本人が望んだ訳でもないのに異文化に一人放り出され、傍からは羨まれるセレブ生活の中で孤独と不安に苛まれる。そこにはリアルなヒロインの孤独感が表現されなければならないから、前作でホンモノの東京・新宿ロケを行ったようにヴェルサイユ・ロケが必要だった。ヴェルサイユの華麗で壮大な空疎さは、前作の未来都市のようにシュールな東京描写にピッタリ呼応する。前半は手持ちカメラがヒロインに寄り添うがごとくオズオズと動くのも、そんな不安感を表現するためだ。なおかつ当時の心境が今の観客には分かりにくいから、彼女を現代のティーン・エイジャーのごとく描こうとする。実はこのあたりで画面にやたら登場するケーキがどれもこれも強烈なピンク色なので、「洋菓子って当時からあんな派手なんだ」と無知な僕は感心していたが、アレは本当のところ当時にはないモノらしい。つまりヒロインの真実味ある孤独感を表現した「リアル」な前半から、別モードに入ったということなのだろう。慣れぬフランスの習慣と夫ルイとの結婚生活の行き詰まりで孤立の極に達したヒロインが、ついに逆ギレして「やりたいようにやる」ことを決心する。それまで控えめだったロック・ミュージックがガンガン流れ始め、彼女の享楽的な生活がまるで現代の大学生の乱痴気騒ぎのように描き出される。とかく問題視されるヒロインの浪費癖も、結局現代の若者のやんちゃで愛すべきバカ騒ぎと大して変わりないではないか…という視点は、確かにかなりフレッシュで挑発的だ。僕はこの映画、言われているほど悪いとは思わない。

こうすれば

 かなりゲテ趣味の出来損ない劇になりかねない手法を選択したにも関わらず、堂々たる女の一代記に仕立て上げた手腕は大したもの。最後、ヴェルサイユを去るヒロインの表情や、たったワン・カットでズバッと表現される打ち壊されたヴェルサイユの内部には、そこはかとない寂寥感が漂う。そこには安易にロック・ミュージックを使って「青春してます」と言いたげな、稚拙でお手軽な発想は見られない。あくまでシビアで冷静な、大人の映画作家としての演出ぶりだ。…ただし、正直言ってソフィアの計算がすべてうまくいったかと言えば、少々危うげなところもない訳ではない。ロック・ミュージック使用も明らかに浮いてしまった部分がいくつかあるし、何より「ロスト〜」の時の共感とは別の何かが混入してしまった…感が強い。それはおそらく…ソフィア自身はアントワネットに100パーセント共感できたかもしれないが、それが「ロスト〜」のように僕らにも100パーセント共感できるようなモノにはなり得なかったからではないか。確かに「不安なストレンジャー」感は僕らも共有できる。学生のバカ騒ぎ気分も理解できる。だが結局はソフィアのマリー・アントワネット理解の土台にあるものが…「私も彼女も同じセレブ」という一点に集約されるとしたら、そこまではシモジモの我々には付き合いかねるというのが正直なところではないか。確かにあの立場ではムリがない、ああなっても仕方ない、彼女は悪くない、むしろ気持ちはよく分かるし、一般市民が飢えて食えない最中にアレはないだろう…と問うのはあまりに酷だ。しかし「酷だ」と分かってはいても、見ていてだんだん気になってくる。それは、この映画のヒロイン=アントワネットと監督ソフィアには幸福な合意が成されたように見えるが、観客である我々はどこか置いてけぼりをくったような気がしてしまうからだろう。確かに親父がセレブだからアート・シーンにドップリ浸かっていられるし、「自分探し」の一環としてど素人のくせにデザイナーにもフォトグラファーにもなるだろう。それを世に出してくれる人だっているだろう。だがソフィア・コッポラには、そのことが歯を食いしばって頑張ってもコネも運もなくて芽が出ない一般の才能のある人間のチャンスをどれだけ奪っているか分からないし、それがどれほど彼らの神経を逆なでしているか分かっていない。どれほど彼らを踏みつけにしているかに気づいていない。たぶん一生そんなことに気づく事もなく生きていくのだろう。だがソフィアに「“私たち”セレブはツライのよ」と言われても、そんなものを理解する余裕なんぞ我々にはない。「はぁ、そうですか」と言うのが精一杯なのだ。どうもソフィア・コッポラは、肝心のそこのところを読み違えている気がしてならない。不細工(笑)とかそういう問題じゃなくて、何か心の中の基本的なモノサシが狂っているとしか言いようがないのだ。この作品を見る限りにおいては、残念ながらそれが真実ではないだろうか。

さいごのひとこと

 ハダカの女王様になっちゃマズイ。

 

「エレクション」

 黒社會 (Election)

Date:2007 / 01 / 29

みるまえ

 ジョニー・トーの新作…と聞けば、胸をときめかさずにいられない。むろんトーの作品の守備範囲は幅広い。だから必ずしも期待した傾向の作品かどうかは分からない。だが「ザ・ミッション/非情の掟」(1999)系列のクールでスタイリッシュなアクションであれば、まずは言うことナシ。仮にそうでないお金稼ぎのための娯楽映画でも、トーのショーマンシップのおかげでたっぷり楽しめる出来栄えに違いない。幸い、今回はどうやら大いに待たれていたトー本来の世界=サスペンス・アクションのジャンルの作品だ。ならばこれは見ない訳にはいかないだろう。見るべし!

ないよう

 昼間から室内で麻雀に興じる男たち。むろんこれは親戚の寄り合いなどではない。みんな何気ない素振りで振る舞っているオッサンたちに見えるが、実はみんな「その筋」の男たちばかりだ。そこでの話題は、間近に迫る会長選挙のこと。香港最大の犯罪組織「和連勝合」が、新しい会長を選ぶ選挙を行うのだ。そこで名前が出ているのは、ロクとディーという二人の名前だ。「ディーは度胸もあるしみんなを稼がせてくれる」と誰かが言えば、「ロクは仲間思いで義侠心に富んでいる」という声も飛ぶ。この二人、実力伯仲でありながら、何とも対照的な存在なのだ。ディー(レオン・カーファイ)はと言えばギンギラど派手なスーツで威圧的な態度。仲間内に容赦なく札束攻勢をかけ、手段を選ばずに会長の座を狙う。対するロク(サイモン・ヤム)はと言えば落ち着いた色合いのスーツで沈着冷静。何が起きても幼い一人息子との時間を大切にし、熱くなる側近をなだめる落ち着きぶりだ。だがディーはムチャな運動ぶりが仇となった。仲間を買収すべく実弾をバラまいたが、バラまくはずのカネを賭けでスッてしまう手下も出た。あげく自分に対する買収資金が少ない…とディーの側に就くのを拒む者も出る始末。それが祟った訳でもないだろうが、幹部たちが集まっての「選挙」は、ロクの圧勝で終わってしまった。支持者はディーに買収されたのがミエミエだったし、人望の点でディーはロクの敵ではなかった。何より長きに渡って「和連勝合」に君臨してきた、超肥満体の前会長タン(ウォン・ティンラム)はロクを信頼していた。ゆえに幹部会ではスンナリ事が決まり、ロクが次期会長に就任することになったわけだ。これにはディーが納得するはずがない。それでなくてもキレやすい性格のディーは、選挙資金を使い込んだヤツと彼の側になびかなかったヤツを二人とも木箱に詰め、山のてっぺんから何度も何度も蹴落として拷問にかけた。ところで、実はこれだけでは会長就任…とはいかない。「和連勝合」は古来からの伝統に則った組織でもある。会長の座に座った者は、そのパワーの象徴たる「竜頭棍」なるシロモノを手に入れねばならないのだ。むろんそれに気づかぬディーではない。彼は「竜頭棍」の在処を知っている男を押さえて、ロクの手に「竜頭棍」が渡らぬように画策した。だが組織とディーの板挟みになったこの男は、困惑したあげく「竜頭棍」を中国本土に送ってしまう。もちろんディーは手下を中国にやって「竜頭棍」奪取に血道を上げるし、ロクもそんなディーの動きを読まない訳がない。先手を打ってダイタウ(ラム・シュー)らを中国に派遣し、「竜頭棍」奪回を目論んだ。そんな「和連勝合」の足並みの乱れを見越したか、香港警察のホイ警視(デビッド・チャン)は「和連勝合」の幹部たちの一斉検挙に踏み切る。兄貴分をディーに殺されたインテリやくざのジミー(ルイス・クー)なども絡んで、権力闘争と内部抗争はさらに余談の許さない状況に陥っていくが…。

みたあと

 「ザ・ミッション」も「PTU」(2003)も「ブレイキング・ニュース」(2004)も、見応えがあって血が騒ぐ映画だった。むろん、これもそんなジョニー・トー印の映画だ。思わず見とれてしまった。「ゴッドファーザー」(1972)のようなスケール感…なんて言っても陳腐だし、困った。書きにくい。実は何を書いても虚しい。言えることは、これはもはや巨匠の作品だという事ぐらいではないだろうか。今回の感想はごく短くなってしまうけど、それは映画の出来が悪いからではない。出来が良くて何も言えないことだってあるのだ。でも、僕が陳腐ながらも「ゴッドファーザー」を引き合いに出したのは、結構間違ってはいない気がする。ジェームズ・カーンのソニーみたいなレオン・カーファイのキレやすいヤクザ。対するサイモン・ヤムは、ぐっと冷徹で「良き家庭人」的な面も見せるあたり、アル・パチーノのマイケルとでも言うべき存在だ。そして組織は遙か昔の中国本土での抵抗の記憶に裏付けられたもので、会長の座を後継に委ねる際に伝統的で重々しい継承儀式が行われるのも、「ゴッドファーザー」が常に根っこにシチリアの風土と伝統をチラつかせているのに似ている。この中国の伝統を強烈に印象づけたことが、作品の格を決定的に引き揚げた。そして「ゴッドファーザー」での組織が伝統のシチリアから現代アメリカに移って、時代の推移と世代交代を行った結果、厚い情の世界が冷酷な資本主義的害毒に犯されていったように…中国の「義」の伝統もまた香港の商業主義に汚染されていく。本来は同志の助け合いと義侠心で連帯した高潔さが、欲望に絡めとられて汚れていく。しかも本来は穏健なロク=サイモン・ヤムが、その汚染を自ら手を汚して推進させてしまう皮肉さ。その手を汚している現場を、最愛の息子の目の前で演じなければならない悲劇。そのあたりが…本来は理想主義者であるはずなのに、身内まで手にかけて妻子からも見放されるハメになるマイケル=アル・パチーノとピッタリ符号して来るではないか。この「エレクション」は二部作で制作されているということだが、そのあたりを考えてみても、ジョニー・トーはマジメに今回「ゴッドファーザー」を意識しているのではないだろうか。香港映画マニアやジョニー・トー支持者にはヒンシュクを買うかもしれないが、ここまで見ていくと僕は真剣にそれを感じずにはいられない。むろん「ゴッドファーザー」との単純な符号ばかりではない。先に述べた「古来からの義侠心が欲望に取り込まれて堕落していく」ことの意味は、単に犯罪組織のそれだけでなく、徐々に唯物主義や個人主義、物質文明や不寛容に取り憑かれ犯されている現代中国人の姿の比喩なのだろう。そして、それは中国人だけではない。僕ら日本人も含めたアジア人、ひいては「現代人」そのものの姿なのだ。

みどころ

 そんな「ゴッドファーザー」との共通性は置いておいても…例えば裏切った者を木箱に詰めて、山の上から蹴り転がす拷問場面やら、寝返ると見せかけ店のシャッターを閉めた後で敵をブチのめす場面など…殺しや暴力場面にひとつも凡庸なモノがないあたりは、さすがジョニー・トーと言うべきなのだろうか。冒頭近くに出てくる…レオン・カーファイをじっと眼光鋭く見つめながら、瀬戸物のレンゲをバリボリと喰らうヤクザの不敵なツラ構えなど、張りつめた緊張感がたまらない。特に素晴らしいのは、これらの場面がいずれも非凡で強烈な印象を持った場面であると同時に「映画的」な表現となっていること。例えば前述の山から木箱を蹴落とす場面などは、「お山の大将」になりたがっているレオン・カーフェイの心境をそのまま見せていると共に、超望遠レンズで距離感なしにとらえられていることから、それがどこか狭っ苦しい人物としての「小ささ」をも表現していて秀逸だ。これはもはや名人芸の域かも。レオン・カーファイの他はサイモン・ヤム、ラム・シュー、マギー・シュウなど、今までジョニー・トー作品を彩ってきた俳優たちがズラリと顔を揃えているが、僕が注目したのは、香港警察の警視を演じているデビッド・チャン。「英雄十三傑」(1970)などショウ・ブラザースのアクション映画で一世を風靡したあの男ではないか! にわか香港映画ファンとしては、この再会にはちょっと嬉しかった。

さいごのひとこと

 先代のボスが超肥満なのもマーロン・ブランドを意識したか。

 

「ラッキーナンバー7」

 Lucky Number Slevin

Date:2007 / 01 / 22

みるまえ

 この映画、新進スターのジョシュ・ハートネットを筆頭に、なぜか実力あるスターがキラ星のごとく共演しているのが売り。事前の話題や宣伝は乏しかったが、いざ公開されるとなったらその豪華共演陣が気になって初日に見に行った次第。確かに映画ファンなら気になるわな。それでサスペンスものと来れば、かなり油断も隙もない作品になるのではないか? いや〜、これは期待が膨らむ。ただ、正直に言うと…これだけのメンバーが顔を揃えていながら、なぜか理由はまったく分からないながらも、作品全体にどこか安っぽい雰囲気が漂っているように思われるのは、僕一人だろうか? いや、安っぽいというのは適切ではないな。どこか何かがうまくいっていない作品特有の「あの感じ」とでも言えばいいだろうか…。

ないよう

 何から話せばいいだろうか。まずは殺風景な駐車場で、一人の男が銃で撃たれたところから始めようか。あるいは、用心棒風の男二人に挟まれて、若い男がある部屋に入ってくるところから始めようか。この若い男を迎えるのは、分厚い帳簿を抱え込んだ初老の男。だが若い男はアッという間に両側の用心棒を片付け、帳簿を持った男を一撃のもとに絶命させる…。いやいや、ここから話を始めよう。人けのない空港ロビーで、椅子に座って飛行機を待っている無精ヒゲの男がいる。そこにやって来たのは車椅子の男(ブルース・ウィリス)。彼はいきなり無精ヒゲの男に声をかけた。「時があった」…誰に語るともつかない口調で、車椅子の男は無精ヒゲの男に昔話を語りだした。いきなり話しかけられた無精ヒゲはさすがに驚くが、すぐにその話の不思議さ、特異さに惹き込まれる。「それは20年前から仕組まれていたことだ」…そう、20年前のこと、ある八百長レースが仕組まれた。馬に興奮剤を注射するという素朴な方法で、手を下した獣医はついついお相手の娼婦にそのことをバラしてしまう。娼婦はそれを顔見知りにしゃべり、顔見知りはそれを知り合いにしゃべり、たまたまそれを立ち聞きしたウェイターは、親戚のツイてない甥にそのことを伝えた。絶対儲かる話だと。苦しい生活に汲々としていた甥のマックスは、妻と子にいい生活をさせてやりたい一心で、生涯最大のバクチを打つ。だが、それは裏目に出た。ゴール間際に問題の馬が転倒してしまったのだ。こうして賭けはパー。それだけではない。実は止せばいいのに、マックスはノミ屋から2万ドルも借金して賭けていたのだ。たちまちマックスの前に現れる「そのスジの人たち」。見せしめのためマックスはリンチに遭ったあげく殺され、マックスの妻は射殺され、マックスの幼い息子の前にも銃口が…。そんな陰惨な話の展開に気を取られている隙に、無精ヒゲ男は車椅子男に殺されてしまう。念のために言えば、車椅子男は車椅子なんて必要としていなかった。この男、その名をグッドキャット(ブルース・ウィリス)という殺し屋なのだが、それは後の話。ともかくある朝のこと、アパートの一室にスレヴンという若い男(ジョシュ・ハートネット)がやって来たところから本題に入る。実はここは他人の部屋なのだが、彼が勝手にシャワーを使っていると、たまたまお隣さんのリンジー(ルーシー・リュー)がモノを借りにやって来るではないか。こうしてスレヴンは、自分の境遇をリンジーに話し始める。職を失い女も失うツキの無さを変えたくて、友人ニックを頼ってこのアパートへやって来たと語るスレヴン。だがこの街に着いていきなり強盗に殴られ、待っているはずのニックは不在…という話を真に受ける限りでは、どうも彼はいまだにツキがなさそうだ。それを裏付けるような出来事は、リンジーが立ち去った後に起きた。いきなり黒人ギャング二人組が部屋にやって来て、スレヴンをとあるビルに引っ張っていったのだ。実はこの黒人ギャングたち、スレヴンを部屋の主ニックと勘違いしていた。そして、ビルの最上階に連れて行かれてビックリ。そこには街を二分するギャングの「ボス」(モーガン・フリーマン)がいた。何でもニックはこのギャングから、巨額のカネを借りているという。スレヴンが自分の事じゃないと言い張っても、聞いてくれる雰囲気ではない。進退窮まったスレヴンだが、そこで「ボス」からのご提案。それは「ボス」の組織と対立して街を牛耳るギャングの親玉「ラビ」の息子を消して欲しい…という頼み事だった。実はつい最近、「ボス」の息子が何者かに殺された。おそらく殺したのは、対立する「ラビ」の組織に違いない。かといって、自分たちではこの際どい力の均衡を破るような事はできない。そこでスレヴンに敵討ちを頼もうというわけだ。「ボス」はスレヴンがこの頼みを聞けば、借金をチャラにしてやるという。むろんスレヴンがこれを断れなかったのは言うまでもない。仕方なく条件をのんだスレヴンが立ち去った後、「ボス」の前に意味ありげに姿を現したのは、あの殺し屋グッドキャットではないか…。さて、散々な目に遭って再びアパートに戻って来たスレヴンだが、今度はユダヤ人ギャング二人組に脅されて、またしてもあるビルに連れて行かれる。このビルは、例の「ボス」がいたビルの真っ正面に建っていた。何の事はない、スレヴンは今度は対立する組織の本部へと連れて行かれたわけだ。またまた最上階に連れて行かれると、そこには親玉の「ラビ」(ベン・キングズレー)がいる。何と呆れたことに、ニックという男はこいつにも借金をしていたらしい。スレヴンはまたまた勘違いされて、早急に借金の返済を迫られた。ツキがないにも程がある。もはや弁解の気力もなく、サバサバした表情で立ち去るスレヴン。すると「ラビ」の前に現れたのは、またしてもあの殺し屋グッドキャットだ。果たしてこのグッドキャットなる男、「ボス」と「ラビ」の両方に立ち回って、一体何を企んでいるのか…?

みたあと

 まず最初にお断りしておくが、この映画のタイトルは本当のところ「ラッキーナンバー7」なんぞではない。原題は、実際のところ「ラッキーナンバー・スレヴン」と表記されている。では、何でこんな変なタイトルを付けたのか?…と考えてみたが、おそらくこの映画の日本での配給会社が、ビッグスターの大量起用、引っかけダマしドンデン返しのこの作品の趣向…から、ヒット作「オーシャンズ12」(2004)みたいに見せかけようとしてやらかしたのではないか。パンフのデザインを見ていたら、何となくそんな気がしてきた。だとしたら、これだけの顔ぶれが揃ったA級作品にも関わらず、作品周辺に漂う安っぽい雰囲気も理解できないわけではない。もうちょっと宣伝を何とかできなかったのかねぇ。作品そのものは…いきなり意表を突いた始まり方をして、一体これからどうなっていくのか?…と観客の予想を思いっきりはぐらかして進んでいくのが素晴らしい。何かと観客の想定内に収まってしまう映画が多い中、これだけ観客の思惑を超えた展開を見せる作品は近年極めて珍しいのではないか。それだけでも、この映画は評価する価値がある。

みどころ

 これだけの豪華な顔ぶれ、しかも観客の予想を小気味よく裏切っていくお話、どことなく漂うユーモアといい、これはなかなかの作品だ。ヤケにこぢんまり公開されているのが不思議。見に行ったこっちとしては、何となく拾いモノをしてトクをした気分になる。本当の主役ジョシュ・ハートネットが出てきて、さらにコミカルな味が強まるのもワクワクするし、今までツリ目のねえちゃん(笑)としてしか認識していなかったルーシー・リューが、意外にもチャーミングに見えてくるのも大きな収穫だ。さらにハートネットが対立する二つのギャングの両方から目を付けられるに至って、血の巡りの悪い僕でも“ははぁ、こりゃあ黒澤明の「用心棒」をやろうって訳だな”と合点がいった。だとすれば、この映画ってますますワクワクものではないか。

こうすれば

 ただし見終わった後の感想は…というと、実は見始めた時ほどスッキリしていない。思ってた以上に陰惨な復讐劇の印象が残る幕切れに、ちょっと納得できないところもあるのだ。まぁ、陰惨な復讐劇でも本来は悪くはない。だが、何しろ前半の軽妙で痛快で楽しげなユーモアに大いに期待しただけに、ちょっとそれがはぐらかされた感じがある。ハートネットとルーシー・リューとのやりとりが楽しげだっただけに、その軽〜いタッチを維持して欲しかったのだが…その点が個人的には惜しかった。だが、リメイク、パート2、ビギニングにマンガやテレビの映画化…ばっかりのハリウッド映画の中で、こういう企画を実現した意気込みは大いに買える。 ジェイソン・スマイロヴィックという脚本家のことは知らないが、監督ポール・マクグガンはフランス製サスペンス映画の傑作「アパートメント」(1996)をハリウッド・リメイクした「ホワイト・ライズ」(2004)…をつくった人。この手のミステリアスなサスペンス映画が得意なのだろうか。今後に大いに期待したいところだ。

さいごのひとこと

 ルーシー・リューがいつ日本刀持ち出すかハラハラした。

 

「リトル・ミス・サンシャイン」

 Little Miss Sunshine

Date:2007 / 01 / 08

みるまえ

 またしても、機能不全に陥った家族の再生ドラマだ。そんな題材といい、オフビートな笑いに包んだらしい雰囲気といい、インディーズ系っぽいスタンスといい、先日見たばかりの「イカとクジラ」(2005)を思い出す。ただし「イカとクジラ」があくまで東海岸のインテリ系の臭いが濃厚なら、こっちは題名に「サンシャイン」とあるように太陽サンサン西海岸版という趣。「成功論」に取り憑かれた家長をはじめ、みんなそれぞれに「負け犬」な一家の珍道中モノ。それがお話のヨコ糸ならば、タテ糸は一家のアイドルである女の子のミスコン出場と来る。何となく見る前から内容が想像つきそうなのが難点ではあるが、顔ぶれはそれなりに興味深いので見ていて退屈はしまい。そんなわけで、僕はこの映画にまったく期待しないで見に行くことにした。

ないよう

 アリゾナ州のある街に住むフーバー家は、ちょっとばかり風変わりな一家だった。家長のリチャード(グレッグ・キニア)は彼独自の「成功論」を編み出しており、その「9ステップス理論」を引っ提げて一躍自分も成功者に躍り出ようと思っていた。要は「成功は気の持ちよう。勝ち組になるには自らの成功を疑うな」…とお題目を並べるような例のヤツだ。だが、今日もセミナーの客はチョボチョボ。そんな彼がメゲずに何とかやっていられるのは、彼の理論をまとめた本の出版が予定されているからだ。ただし、彼に出版を確約した担当者が、最近電話でパッタリつかまらなくなってしまった事が気がかりだが…。その妻シェリル(トニ・コレット)は夫リチャードを叱咤激励しながら、何とかバラバラの一家を束ねようとしている毎日。そんな彼女にとっての新たな悩みは…自称全米ナンバーワンのプルースト学者という実弟のフランク(スティーブ・カレル)。自身より格オチと思っていたプルースト学者がにわかに脚光を集めただけでなく、その学者に自分のカレシを奪われるというショックから自殺未遂を起こすテイタラク。この一連のゴタゴタで職を失ったこともあり、妹シェリルが彼を引き取ることになったわけだ。だが、フーバー家はなかなかのツワモノ揃い。長男で空軍パイロットをめざすドウェイン(ポール・ダノ)ときたら、家族と口もききたくないのか全くしゃべらない。どうしてもコミュニケーションをとる時には、筆談に頼るという徹底ぶりだ。そして祖父(アラン・アーキン)は粗野で下品な言動が目に余る不良老人。コカイン常用がバレて老人ホームを叩き出された彼は、自殺未遂の痛手から立ち直り切っていないフランクを「ホモ」呼ばわりする無神経さだ。もっとも無神経ではリチャードも負けていない。自らの「9ステップス理論」を信奉するあまり、フランクを「負け犬」扱いすることに何の疑いも持っていない。最初は無言を決め込むドウェインを「変人」と感じたフランクだが、てんやわんやの一家の食卓を経験した今なら、そんなドウェインの気持ちも理解できようというもの。ドウェインもフランクに向けて、紙に書いたメッセージを見せる。「僕はみんな大っキライだ。もちろん家族も!」…そんなアクの強い一家のアイドルとも言えるのが、メガネをかけた幼い長女オリーブ(アビゲイル・ブレスリン)。お腹がポッコリ出ている典型的幼児体型ながら、なぜか彼女の夢はミス・コンのチャンピオンだ。そんな彼女が予選の優勝者の辞退から、カリフォルニアで開かれる「リトル・ミス・サンシャイン」の本選に出る資格を得たから大変。狂喜乱舞するオリーブだが、本選の期日は今度の日曜日。果たして彼女をどうやってカリフォルニアまで連れていく? 飛行機のカネはない、かといってアレほど喜んでいるオリーブを出場させない訳にいかない、しかしいつまた手首を切るか分からないフランクを置いてはいけない…などなど、諸般の事情が絡みに絡まって議論は紛糾。結局出かけるのをシブるドウェインまで無理矢理引きずりだしたあげく、一家総出でちっちゃな黄色いバスに乗ってカリフォルニアまで出かけることになったが…。

みたあと

 この映画、インディーズの登竜門で有名なサンダンス映画祭で絶賛を博したらしい。わが東京国際映画祭でもいろいろ受賞しているようだ。何よりこの映画、ロード・ムービーに仕立てたあたりが正解だ。アメリカ映画と来ればロード・ムービー撮らせればピカイチ。一応それなりに面白いものには仕上がるはず。そこに一癖ある芸達者を何人もブチ込んで撮っているのだ。ソコソコ面白い映画になるに決まってる。監督は元々がミュージック・ビデオ上がりで、これが劇映画一作目というジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファリスという夫婦監督。彼らの演出ぶりが良かったのか悪かったのか分からないが、見ていて好感の持てる作品には仕上がっている。

こうすれば

 ただし冒頭にも述べているように、この映画の物語は何となく最初から底が割れている。「勝ち組理論」を振り回す家長を中心に、どこか世の中からズッコけちゃった連中ばかりの家族たち。彼らが幼い娘のために、アメリカ的「勝ち組」の象徴であるミスコン出場をめざす…ってあたりで、映画の狙いはおろか行き着く先までミエミエに見えちゃう。要は「勝ち組が何だ」「勝ち組じゃなくたっていいだろう」ってお話にしかなりようがない。ダメな同志がお互いのダメを容認し合って、何とかやっていこうとする話にしかなる訳がない。ロード・ムービーだからその道中の山有り谷有りの中で、反目し合っていた「家族」が和解と結束を果たすのだろう…ということは初めっから分かっている。全く意外性も驚きもない。問題はそれをどういう語り口で見せるかということなのだが、実はここにあまり「あの手この手」の工夫が感じられない。おまけに家族の和解と結束は、結構早い段階で形成されてしまう。クラッチの故障でバスをみんなで押しながら乗り込むくだりなど、「絵」として「家族」というバスに乗り込む登場人物たちがズバリ描かれて、映画的にオイシイと言えばオイシイ趣向。だが、あまりに図式的であざといと言えばあざといとも言える。あまりに分かりやすすぎて驚きが全くないという一点においては、「エラゴン/遺志を継ぐ者」(2006)とイイ勝負かもしれない(笑)。

みどころ

 では、この映画はダメな映画なのか…というと、必ずしもそうはならないから映画ってのは面白い。まずはマイケル・アーントの脚本は独創性や意外性には思い切り欠けているものの、「家族」というものの厄介さや鬱陶しさの描き方に本物の「実感」が充満している。これがあるからこそ、見ている側は映画に共感できるのだ。また芸達者揃いの出演者たちの好演が功を奏してか、凡庸になりかねないストーリーもこれでなかなか楽しめる。鳥肌が立つほど感激したり、涙が出るほどオカシイ瞬間は全くないが、何となくまったりと楽しくなってくる。傑作だなんて口が裂けても言えないが、好感の持てる愛すべき作品になっている。いろいろあったがすべて「想定内」のハプニングばかりの珍道中が終わり、問題のミスコン会場に舞台が移った後…幼い女の子のお下劣ダンス場面に至ってその真価が分かる。孤立無援で客たちの冷たい視線にさらされた娘の窮地を救うため、一家総出でステージに突入。イイ大人までが腰をフリフリ必死にお下劣ダンスに興じるこの場面は、一つ間違うとかなり寒々しいモノになりかねない。いや…少々イタイ瞬間もない訳ではない。だが危ういところで…いずれも演技巧者揃いのキャストの面々の大奮闘のおかげもあってか、そのバカバカしい腰振りダンスの頑張りについつい感激してしまう。これはもう演出とか完成度を超えたものではないか。出演者では自殺未遂のプルースト学者を演じるスティーブ・カレルが、その仏頂面も含めて絶品。「オレは全米一のプルースト学者」と自慢していたインテリの彼が、大真面目な顔はそのままに下品に腰を振りまくるダンス場面には心底感動してしまった。これは「ラブ・アクチュアリー」(2003)でポインター・シスターズの「ジャンプ」を踊りまくっていたヒュー・グラント以来の「腰の振りっぷり」ではないか(笑)。そしてオーストラリアでの「ミュリエルの結婚」(1994)以来、ハリウッドに来ても「コニー&カーラ」(2004)以外イマイチ元気がなかったトニ・コレットが、地味な役どころながら久々にイイ味出しているのも嬉しかった。

さいごのひとこと

 映画だってすべて勝ち組でなくていい。

 

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