「エンジェル」

  Angel

 (2007/12/31)


  

自分で創り上げて来た人物

 ユーモアを解する人物…こう思われることがとても苦痛だ。

 僕は確かにユーモラスな事を言う。おどけたマネもする。人に笑われることを何とも思わない。それは確かにその通りだ。だが、何か面白い事を言ったりやったりすることを人から期待されるのは困る。「面白い事を言ってくれ」と言われて閉口したことも何度かある。

 あるいは人と二人きりになった時、意外にも僕が面白いことを言わないのに驚かれたりする。それは僕だって、四六時中面白い事を言っているわけではないよ。

 もっとハッキリ言うと、僕がコッケイな事を言ったりやったりしているのは、自然に行っている訳ではない。僕なりに考えて意識的にやっている事だ。僕自身が面白いわけでもなければ、面白いことが好きなわけでもない。

 僕自身はむしろつまらない人間だろうと思う。

 いくつの頃だろうか、それはおそらく小学生の頃だろうと思うが、僕は自分が人間として魅力のない人物だと分かってしまった。何より「面白み」のない人間だと悟ってしまった。人間というものはそれぞれに個性があり魅力や持ち味がある…ということは人生相談の先生や教師の言いそうなことだし、それはそれで正論だとは思う。大多数の人はその説明の範疇に入って、それでオッケーなんだろうが、そこに入らない人間だっているのだ。

 いや…ハッキリ言えば、「人それぞれに個性があり魅力や持ち味がある」なんて説明は、「いつか国境がなくなり世界中が平和になる」ってな理想論に近い。確かに無口だろうと見た目のスマートさや面白さがなくても、人を惹きつけられる人間はいくらでもいる。その逆に、特にどこという欠陥がなくても、人を惹きつける何かを持ち合わせない人間だっているのだ。

 とにかく僕は人を惹きつけるものを持っていなかった。それは「モテる」とか「モテない」とかではない。小学生にそんなモノはお呼びでない(笑)。そうでなくて、知らず知らずのうちに同性異性を問わず人を近づける力とでも言おうか。あるいはその場における自分のポジションを作り出す力とでも言おうか。ところが僕には友だちはおろか、教師にすら疎んじられ軽視されている気がした。

 もし僕が「素のまま」でいたとしたら、僕の発言には誰も耳を傾けない。どこにも僕の居場所はない。僕に声をかけてくれる人もいなければ、そもそも僕がそこにいる事を知る人もいない。僕には生まれながらにして、「人間的魅力」というものが決定的に欠けているのである。

 それは、例えば先天的に内臓に欠陥を持っているとか、身体能力に問題があるとか、ほとんどそういう事に近い。

 ただ僕の場合は、他の「人間的魅力」に欠けている人々と違って、そのことに早くから気づいていた。どうして自分は他の子より貧乏クジを引かされるのだろう…とか、どうして自分は孤立無援の状況に陥るのだろう…とか、どうして自分はいつも浮きまくって居たたまれなくなるのだろう…とか、子供のうちから人生の不条理を感じるうちに、どうもこれは自分に問題があるからじゃないか…と思わざるを得なくなった。そして、自分には「何か」が欠けているのだと気づいたのだ。

 そして意識的に、「人を楽しませる自分」を作り出した。

 「ない」ものを嘆いても仕方がない。「ない」なら自分で「作る」のだ。「人間的魅力」を完全に創造するのは不可能だが、少しは面白い事を言って場を和ませることなら何とか出来そうだ。それは「人間的魅力」とは微妙に違うが、それでも「ない」よりはマシだろう。

 だから、この場では、このタイミングでは、こういう言動が必要だ…と頭で考え、それを実行している。それはほとんど無意識の域に近づいているが、だからと言って完全に無意識でやっているわけではない。一生懸命頭で考えて、状況を見計らった上でやっているのだ。それは僕なりの努力の賜物だ。

 だが普通の人々は、それをいとも簡単に何も考えないで実現できる

 羨んだ時もあるし妬ましく思ったこともある。だが今では、それはどうしようもない事だと諦めている。人間はみな平等ではないのだ。

 逆に、僕は「人間的魅力」が乏しいまま何の努力もしない人間や、その事にあまりに無自覚な人間が嫌いだ。それは一種の怠慢に思えてしまう。為す術もないまま呆然としている人間を見ると、忘れてしまいたい自分を思い出すようでウンザリする。僕も何とか一生懸命やって、それでようやく人の世に受け入れられている。その努力もせずに、世の不条理を嘆かないで欲しい。

 だから、僕に「楽しい人」を期待されても困る。

 普段、人の目を気にせずボ〜ッとしている時は、僕は恐ろしいほど面白くない。なぜなら、それが僕の本性だからだ。人に面白い事をやられたり言われたりしても、僕は一瞬戸惑って凍り付いてしまうことがある。実は僕にはユーモアが通じない。シャレが分からない。だから、どうしていいか困ってしまうのだ。

 では、本当の自分はどんな人間だと言われても、ただ「つまらない男」としか言えない。キャラクターというものは、それを見る人がいて初めて言えるものだと思うが、僕はもうこのキャラクターを人前で何十年も通してきて、もう元々の素というものを忘れてしまった。一人ぼっちになった時には本来の自分が出ているんだろうが、そんな時にはそれを意識などしていない。

 僕は自分という人間を、自分で創り上げて来た。それは僕にとって、その言葉以上の意味を持っている。他の人がこの言葉を使う時とは、おのずから意味が違っている。

 すべては、僕が一から自分で創造した人物なのだ。

 

見る前の予想

 いまやフランス映画で確固たる地位を築いた、フランソワ・オゾンの新作が早くも登場。この人の精力的な作品発表ペースには驚くばかりだが、今年もきっちり新作がやって来たわけだ。

 しかも今回の作品は、予告編を見る限りでは「若くして成功を掴んだ女性作家の栄光と挫折」…を描いた作品らしい。となると、僕としてはピクピクと食指を動かさずにはいられない。やはり女性作家を主人公にした、スイミング・プール(2003)との関連が想像できるではないか。どちらのヒロインもイギリス人で、どちらにもシャーロット・ランプリングが出演しているという点も共通している。

 だとすると、今回の作品は注目すべき作品なのではないか。実は僕は、「スイミング・プール」にオゾンの一種の「転機」のようなモノを感じていたのだ。それが4年の歳月をかけて一つの帰結を見せたのだろうか。

 いずれにせよ、どちらの作品にもフランソワ・オゾンというクセモノ映画作家の「本音」が見えているような気がするのだ。これは見ずにはいられないだろう。

 

持って生まれた「格」というもの

 僕には「人間的魅力」がない…ということを、まだ子供のうちから自覚させられるというのはツライものだ。

 いや、実は僕はもっとハッキリした形で、自分の置かれた立場に気づいていたのだ。それは自分が「三流」の人間であるということだ。

 人間は平等ではない…と先に述べたが、それは本当だ。それは何もカースト制度とか士農工商とかそんな社会的階層の事ではない。家系も関係なければ世襲もされない。財産も学歴も関係ない。国籍も性別も無縁だ。

 人間には生まれながらにして、目に見えない自分の「人間的階層」を持っている。僕には子供の頃からずっとそんな気がしていた。

 貧しかろうが教養がなかろうが、「こいつは一流だ」と思わせる人物がいる。繰り返すが、カネとか地位とか名誉とか学などとは関係ない。それは、その人が漂わせる「人間的魅力」と関係がある。こう言っては申し訳ないかもしれないが、おそらく路上で寝泊まりしている人などの中にも「一流」の人物はいるだろう。

 そこには、周りの人々に一目置かせる何かがある。いつの間にか周囲から押し出されて、意見を言っていたりする。何かというと前面に立たされる。そこまでいかなくても、常に「あいつを誘おうか」という話になったりする。あるいは、とにかくなぜか無視できない存在感とでも言おうか。それは人間の持って生まれた「格」のようなものだろうか。

 そんなものがある訳はない…とおっしゃる人がいるなら、あえてハッキリ言おう。それはあなたがそれを気にする必要がない「格」を持っている人間だからか、あるいはそれに気づかないくらい鈍感だからだ。

 人間にはどうしようもないくらい「格」がある。僕は宗教など信じないが、おそらくそれは神が決めたことだろう。人間にはどうすることもできない。

 ただ、それは努力で埋め合わせが効かない訳ではない。「格」と衝突しない程度なら、僕のように「格」が低い人間でも何とかできる余地が残されている。だから僕は、自分なりに出来る範囲内で頑張って来たつもりだ。

 その時に僕が常に気を付けてきたのが、「身の丈」ということだ。

 僕もいろいろ人を見て来たが、一番みっともないのが「自分を大きく見せよう」とする人ではないか。賢くないのに利口そうに「自分も分かっている」「自分も知っている」と言いたがる。だが本人の思惑をよそに、大概が周囲には「分かっていない」ことがバレている。余計愚かに見える。あれは実に見苦しい。

 テメエに品のない人間が、自分より分をわきまえた人間を「下品」とせせら笑う時の醜さ。とてもじゃないが見ていられない。自分じゃそのみっともなさが分かっているのか。

 自分を「大物」然と見せて余裕で高笑いしてみせても、そもそもそんな器でないのはバレバレ。「小物」臭が何とも鼻を突く。

 それを言えば…僕も確かに面白い人間でもないのに、面白く見せかけて来た。それもある意味で「大きく見せる」ことなのかもしれない。だが僕はそんな自分をでっち上げるにあたって、たった一つだけ自分の中で規範を作り上げ、それをずっと実行してきた。

 それは、絶対に自分を偉く見せないということだ。

 所詮は「三流」の人間なのだ。その域を超えることはしない。自分の人間的「格」が低いことは潔く認めよう。だから自分の器や身の丈をわきまえて、「一流」ぶろうなどと思わず生きていこうと考えた。なぜなら、そうでない人々の見苦しさを十分見せられて来て、すっかりゲンナリしていたからだ。あんなみっともない生き方はしたくない。

 そんな自分の器は、成長するに従ってますます明らかになってきた。

 自分が人の上に立てる人間じゃないと分かったのも、その頃のことだろうか。人の上に立つということは、一種の冷酷さを伴うものだ。自分が楽をして他人に酷な役割を押しつけたりする。あるいは、自分が出来もしない事を他人に「出来て当然」とやらせる事もある。それが出来なければ人の上には立てない。そんな残酷さや鈍感さがなければ、人の上に立ってはいけないのだ。

 あるいは…人の上に立った時、人は必ず腐敗する。そんな自分の腐敗に耐えられる人でなければ出来ない。つまりそれに自覚がなければ、あるいは徹底的に無自覚にならなければ、人の上に立ってはいけない。

 それが「一流」の「格」の人間でなければ、事態は耐え難いものになる。

 僕はそんな例を、それこそイヤになるほど見てきた。だから条件反射的に、「エラそうな人物」を見ると嫌悪感がはしる。そういう人物は見たくないし、出来れば人の上から引きずり下さねばと思う。実際にそれを実行したこともある。そうしなければ下の人々が迷惑するし、システムが破綻するからだ。

 「政治家」や「役人」になるべきでない奴、「上司」や「先輩」になっちゃいけない奴、人を雇ってはいけない奴、カネを持たせちゃいけない奴、「夫」や「妻」や「親」になる資格のない奴…そんな連中が世の中に溢れている。そして無自覚にデカいツラをしている。僕は、ああはなりたくない。僕は、自分の分は守りたい、身の丈はわきまえたいといつも思っているのだ。

 それがどこまで出来たか…については、いささか心許ない部分もない訳ではない。そんな事をしないで素のままで済んでいる他の人々を、羨ましく思わないと言えばウソになる。

 それに実のところは…そう何でもかんでもシャチこばって考える自分の生き方が、いささか窮屈だと思えなくもない。

 正直に白状すると、自分で思っているようには人生は動かない。自分でこうするべきだ、こうあるべきだ…と考えている生き方を、自分で完全に実践はできない。どうしてもどこかで挫けてしまう。「分をわきまえた生き方」や「器に見合った生き方」を完璧に実践はできないから、そんな自分をダメだと思ってしまう。だから、人に向かって、自信を持って自分を押し出せない。

 何となく堅苦しくて窮屈で融通が利かない人生だとは思う。そんな自分がいささか偏狭だとも思える。それでも、今さら自分の流儀を変えようがない。

 それに、自分を自分で創り上げてきたという点では、それなりの自負がない訳でもないのだ。

 

あらすじ

 1900年代初頭のイギリス。学校に向かって歩いていく少女の一団から、一人の娘が離れて横道へと走っていく。その娘は巨大なお屋敷の門にしがみつくと、広大な敷地全体をウットリとして眺める。その屋敷は名前を「パラダイス」という。

 ある日のこと、例の娘が大幅に遅刻をして学校にやって来る。イヤミを言う教師の口振りからすると、彼女がズル休みをしたのは一日や二日ではないらしい。彼女の名前はエンジェル・デヴェレル(ロモーラ・ガライ)。それでも彼女は宿題の作文を取り出すと、クラスメートの前で堂々と読み始めた。それは昨日彼女が眺めていたあのお屋敷の事に他ならない。だが教師は、そんな彼女の作文に冷ややかな評価しか与えない。

 それもそのはず。この日の宿題のテーマは「私の家」。エンジェルの家といえば、彼女の母(ジャクリーン・トン)が女手一つで切り回している食料品店の二階でしかない。それでもあの広大な「パラダイス」の屋敷に住む自分を主張するエンジェルは、それをいつの日にか現実にする確信があった。いや、それは思い込みと言うべきか。

 彼女は自分が紡ぎ出す文章の力で、それは可能になると信じていた。

 学校はズル休みする。かといって家業はイヤがって手伝わない。やることと言えば、自室に閉じこもっての「創作活動」。母親に女中のごとく食事を運ばせて、自分はひたすら夢のような事を考えて執筆三昧を続ける。それはあるヒロインの、波瀾万丈の物語だ。

 ある日など、あまりエンジェルが「パラダイス」屋敷への夢を力説するので、伯母が彼女の「パラダイス」屋敷住み込み女中の話を持ってきた。そんな周囲の厚意にも、この娘は毛ほどの感謝も感じない。自身も「パラダイス」の女中である伯母に対して、女中の仕事などクソ食らえと言い放つエンジェルは、全く自分の立場が分かってないクソ生意気なバカ娘でしかなかった。

 ところがこの娘のヨタ話が、現実になってしまったから世の中分からない。処女作「レディ・イレニア」の原稿を出版社に送ったところ、エンジェルの元に採用の知らせが送られてきたのだ。

 こうして得意満面で、単身ロンドンの出版社に赴くエンジェル。発行人のセオ・ギルブライト(サム・ニール)は、エンジェルの予想外の若さに驚愕。しかも下調べひとつせず、すべてを頭の中だけでつくっていると知って二度ビックリした。と、同時に…原稿の初歩的ミスも指摘し始めるセオ。それを聞いていたエンジェルの表情は、たちまち雲行きが怪しくなる。

 「単語ひとつ、コンマひとつ変える気はありません!」

 実力もコネも見通しも何もないが、自信と気位だけは異常に高いエンジェルは、いきなりハッタリをかますとギルブライトのオフィスを飛び出す。

 そうは言っても、それは単なる虚勢でしかなかった。さすがに気落ちしてベソをかくエンジェル。ところがそんなところに、困り切って後を追ってきたギルブライトがやって来るではないか。こうしてエンジェルは高飛車な態度を変えぬまま、自分の小説を手を加えず出版することに成功する。

 その夜、セオの家に招かれるエンジェル。しかし彼女は、セオの妻ハーマイオニー(シャーロット・ランプリング)に対しても持ち前の無礼かつ非常識な態度を遺憾なく発揮。元々高い身分の婦人であるハーマイオニーもまた、そんなエンジェルに見合った態度で接した。「想像力だけの未熟な描写が多いわね」

 だが厚顔無恥を絵に描いたようなエンジェルは、そんな当てこすりにメゲるようなタマではなかった。

 その後の「レディ・イレニア」の成り行きは、エンジェルのツラの皮をさらに厚くさせるような展開となった。本はたちまちベストセラー。次々に出した本もバカ売れ。サイン会には長蛇の列ができる。文壇でも高く評価され、彼女はたちまち人気作家の仲間入りだ。こうなると、やる事なす事がことごとくうまくいく

 そんな彼女にとって、キャリアのハイライトとでも言うべき夜が来た。「レディ・イレニア」は舞台劇化され、観客たちから万雷の拍手を受けることになったのだ。劇の打ち上げのパーティーでも、やって来たゲストの面々から賛辞の嵐。これではエンジェルならずとも増長するなと言うのが無理な相談だ。

 そんなゲストの中に、ノーリー卿の姪のノラ・ハウ=ネヴィンソン(ルーシー・ラッセル)がいた。自身も作家・詩人であるというノラは、しかし「自分の才能などエンジェルと比べるべくもない」と謙遜しきり。そもそもそんな押しの弱さこそが創作者としては致命的なのだが、彼女はエンジェルの熱狂的信者であると主張することを躊躇わなかった。

 だがエンジェルにとってはノラよりも、彼女が連れてきた弟のエスメ(マイケル・ファスベンダー)の方が強烈なインパクトを持っていた。画家であるエスメはエンジェルの作品に登場する絵画作品について、思い切り辛辣な感想を口にする。しかし、そんな事は関係ない。エンジェルには彼の言葉など耳に入っていない。なかなかのイケメンであるエスメに、一目で惹かれてしまったのだ

 そんな夜、セオが運転する車に同乗していたエンジェルは、偶然にあの「パラダイス」屋敷を通りかかる。今は元々の持ち主が手放し、空き家になっていた「パラダイス」。これは長年の夢を実現するチャンスだった。こうしてエンジェルは「パラダイス」屋敷の女主人となり、母親もここに呼び寄せる。

 やがてそんなエンジェルに、あのノラが「個人秘書として仕えたい」と申し出た。エンジェルの作品への崇拝が勢い余ったか、ノラはエンジェルの創作活動以外の雑事は自分が処理すると宣言したのだ。実は正直言って、エンジェルはそれほどマネージメントの必要性は感じていなかった。しかし彼女の弟エスメへの興味を隠しきれないエンジェルは、彼女を個人秘書として雇うことにする。

 しかしノラから聞いた弟エスメの実態とは、エンジェルにとっていささかショッキングなものだった。ハッキリ言って女たらし。おまけに甲斐性なしで無責任。画家としての評価もイマイチ。それでもエンジェルは、エスメへの思いを断つことが出来なかった。結局、エスメの狭苦しいアトリエを突然訪れたエンジェルは、彼に無理矢理、自分の肖像画を依頼するのだった。

 そんなある日、エンジェルの母が亡くなる。これにはメチャクチャに気落ちするエンジェル。珍しく気弱な一面を見せて、彼女は泣きの涙に暮れる。ところが取材に訪れた地元新聞の記者に対しては、真顔で母親が英国有数のピアニストだったと語るから始末に負えない。それでもエンジェルには、必ずしもウソをついているつもりはなさそうだ。それは彼女にとって「かくあるべき」真実のつもりだったのか。記者に対して語る「真相」は、語るに従ってさらにエスカレートの一途を辿る。「私はおそらく本来は貴族の出です。もっとも母の死で真相は闇へと葬られることになりましたが…」

 そんなこんなで新作小説の発表パーティの日。派手にドレスアップしたエンジェルは、早くも母の死から立ち直っていた。さらに、そのパーティをエスメ作の肖像画発表の場にするエンジェル。だが自分に相談無しにすべてを決めたエンジェルに、エスメはついにキレた。怒って会場を飛び出すエスメを追いかけるエンジェル。突然降り注ぐ土砂降りの雨の中で、エンジェルはいきなりエスメに結婚を申し込んだ

 「それは男から申し込むものだろ」

 「初めて会った時からずっと愛してる」

 熱い抱擁を交わした二人は、晴れて夫婦となった。イタリアからエジプトへと出かけた楽しい新婚旅行の末、エンジェルとエスメはやっと「パラダイス」屋敷へと戻ってくる。するとそこには、夫エスメのための立派なアトリエが用意されていた。

 すべてが実現した。夢はすべて叶えられた。手に入れられないモノは何一つなかった。それらをすべて、エンジェルは腕一つで成し遂げて来たのだ。徐々に迫り来る戦争の予感も、彼女を不安にすることはなかった。

 エスメと屋敷で過ごす最初の夜。あまりの自らの幸福に、思わずペンを走らせるエンジェル。まさに全く欠けたところのない満月のような一夜。

 だが、それがエンジェルにとっての「頂点」だった…。

 

人は僕を愛さないが、僕の創り上げたモノは愛する

 僕に「人間的魅力」が欠けていると気づいた時は、前述した通りに確かにツラかった。

 人は誰でも人に好かれたいし尊敬されたい。人より上に行って得意な気分に浸りたい。勝利の美酒を味わいたいと思うものだ。だが僕は、これを人生のかなり早い時点で諦めねばならなかった。常にかすんで見える自分を変えることなど不可能だ。それは確かに一抹の寂しさを伴うものだった。

 しかし、それが耐え難いほどのものだったかと言えば、実はそうでもなかった。

 それは、自分が文を書いたり絵を描いたりすることが好きだったからだ。

 自分がないがしろにされていた時期でも、僕がつくった文章や絵は人を楽しませた。僕を追いつめて苦しめた連中も、なぜか僕が創るモノは好んだ。不思議なのだが、それらが僕をしばしば救ってくれた。そんな経験から、僕はある事実に気づいたのだ。

 人は僕を愛さないが、僕の創り上げたモノは愛する。

 その年齢と状況に応じて、僕の創ろうとしたものは違っていた。だが、常にそれは周囲の人々を楽しませた。彼らは僕を好いてはくれないが、僕の創ったモノは必ず気に入ってくれた。

 確かに自分には「人間的魅力」が欠けていて「三流」の人間かもしれない。だが自分の創るモノには、ひょっとしたら「魅力」があるのではないか?

 それが僕の生きる希望になっていた。

 大学に入ってヘタクソな8ミリ映画をつくってみたのも、そんな思いが行き着いた果てのことだ。だが僕は、それを生きる糧にするための術を知らなかった。そのためのノウハウもなかった。それに映画という集団作業の中で、自分が「人の上に立てない」という現実を徹底的に思い知らされてしまった。そんなこんなで僕は、すべてを諦めて「シャバの生活」に身を投じようと思ったわけだ。

 だが結局のところ、僕は最低の営業マンでしかなかった。こうして遠回りをしたあげく、僕はコピーライターとして職を得ることになったわけだ。そして、生まれて初めて水を得た魚のような気分を味わった。

 この時は、たぶん僕の人生の中で初めて…そして望むべくは最後にしたいところだが…増長し思い上がった時期ではなかったろうか。自分はすっかりひとかどの男になったような気がしていた。発言も知らず知らずのうちにどこかエラそうになっていたかもしれない。

 だが、そんな僕の思い上がりは、すぐに冷水を浴びせられることになる。

 ハッキリ言ってライターとしての僕の能力など、タカが知れている。この程度の仕事をする人間なら、それこそ掃いて捨てるほどいるのだ。僕自身そう思ったし、実際そのように面と向かって言われたこともある。僕の創り上げたモノなど、愛されるとしてもせいぜい「ご町内」レベルのものだった。

 時はちょうどバブル崩壊の頃。僕は自分の実力とやらをさんざ思い知らされる事になる。恥ずかしい話だが、見栄を張っても仕方がない。僕は大した事のない、泡沫の三文クリエイターでしかなかった。こうしてあちこちの職場を転々とし、落ち着かない日々が続いた。

 そんな仕事をするのもままならない時期、僕はこの映画サイトを始めたわけだ。

 仕事の面ではおそらく最悪の時期。そんな時、僕はそんな生活とは裏腹に、このサイトで大いに気を吐いていた。それまで映画の事を文章に書くこともなかったから、初めての経験で大いに新鮮だった。時はネット創世記…と言っていいのではないか。どこかで聞いた話だが、1999年は素人サイトが雨後の竹の子のようにあちこちに生まれた、日本のネット史上でも画期的な年のようだ。僕もたまたま偶然にその波に乗っていたのである。

 自分の書いた拙い文章に、直に反応が返ってくる。それも最初の頃は好評ばっかりだったから、すぐに有頂天になった。ホームページを持つということは、自分の出版社や放送局を持つようなものだと思った。ならば、それこそ自分が夢見たことではなかったか。

 おかしな話だが、私生活では仕事が暗礁に乗り上げつつあったのに、ネット上では僕は人生初めての「成功」を味わいつつあったのだ。この程度で「成功」もないだろうと言われる向きもあるだろうが、情けない話だが、それまでこの程度の「成功」さえつかめなかった僕なのだ。

 サイトを通じて知り合いも増えたし、白状すれば自分としては大恋愛もした。多少デカい口も叩けるようになったし、チヤホヤもされた。

 こうなるとまたしても危うく自分を見失うところ。だが、今回ばかりは何とか崖っぷちで踏みとどまった。それというのも、一方で自分の職業人としての人生が破綻を来していたからだろう。いい仕事にありつけず食うや食わずの状況にいるのが現実の自分では、いくらネット上でいい顔をしても虚しいだけだ。それが怪我の功名というべきだろうか、ともかく僕は最後まで何とか現実感覚を失わずに来られた気がする。

 また、ネット上には顔も見えず匿名であることをいいことに、不愉快な物言いをつけて来る輩もいる。それらには心底ウンザリさせられてきたが、おかげで僕は否が応でも現実というものを思い起こさないではいられなかった。

 こんな映画サイトでデカい事を言っていると、何となく自分が映画業界でブイブイいわせてる妄想に囚われるものだ。実際にそんな錯覚をしている向きもあるように見える。だが、結局は素人のお遊び。自分の本当の仕事とプライベートがあったればこそのシロモノだ。映画サイトは所詮は趣味の範疇、いいとこ旦那芸に過ぎないのだ。

 こうして僕も、長年続けて来た「何かを創る」という行為と自分の実際の仕事との間で、ようやくバランスがとれるようになった気がする。このサイトを見てくださるみなさんには申し訳ないが、僕はこれを人生の最重要課題とは思っていない。無理しない程度に続けていきたいと思う。

 それが本当の意味で「身の丈にあった」人生を創り上げることだと思うのだ。

 

見た後での感想

 先程から映画「エンジェル」に関する文章と、僕自身についてのプライベートなエピソードが交互に出てきて戸惑われた向きも多いかと思う。そこに出てくる僕自身についての文章も、「エンジェル」の内容と絡まり合っているような部分もあれば、逆に全く矛盾した噛み合わない部分もある。どうしてまたこんな分かったような分からないような危うい構成にしたのかと、訝しげに思われる方もいらっしゃるだろう。それについてはまことに申し訳ないが、僕が書く「エンジェル」についての感想文はこうした構成をとらざるを得なかった…としか言いようがない。

 ともかく「エンジェル」という映画を見ていた僕の脳裏には、まず映画への感想の前にこうした自分のことについての思いが浮かんでいたと白状しなくてはならない。「エンジェル」という作品は、僕に改めて自分の人生について考えさせた映画なのだ。

 ただしこの「エンジェル」という作品、外見上はそんな内省的な思いとは裏腹な作品に見える。

 一見、コテコテな「文芸大作」風の構え。大げさな演出も演技もティピカルなメロドラマ臭を隠さない。ドラマチックな音楽が、何よりそんなイメージを増幅する。そしてカラフルで厚ぼったいそのビジュアル・コンセプト。この作品は明らかに、オゾン作品では8人の女たち(2002)と同系列のルックを持っている。クラシックなハリウッド娯楽映画…例えば往年のMGM映画のようなゴージャスさが、画面全体に被さっているのだ。

 それはまた、劇中で使われる「これみよがし」な技法にも感じられることだ。例えばエンジェルが成功の会談を急速に駆け上っていくくだり。彼女が宣伝用写真のためにポーズを撮る映像の傍らに、彼女がつくった本の表紙の数々がコラージュされる。そのどこかキッチュなタッチは、確かに懐かしのハリウッド娯楽大作の雰囲気が充満していて「8人の女たち」と共通する手触りだ。

 そんな傾向は、エンジェルがセオに連れられ馬車でロンドン市内を見物する場面や、エンジェルとエスメがイタリアからエジプトにかけて出かける新婚旅行の場面にも見られる。彼らの背景はあまりにミエミエの合成画面で処理されているが、イマドキこんな「合成でございます」というテクニックなど普通は使わない。確かにこれは一種の回顧趣味であり、キッチュな味を出そうとしているのだろう。ただし、そこには「作り物」という記号をあえて刻印している印象もある。エンジェルの人生を、あえて作り物っぽく表現する意図が感じられるのである。

 そんなわけで、誰が見ても「8人の女たち」的ハリウッド風外見を持つ「エンジェル」。しかしその内容はと言うと、非常にパーソナルでこぢんまりとした世界を表現したものだ。それは予想通り、「スイミング・プール」との深い関連性を持った作品だった。

 僕は「スイミング・プール」の感想文で、この作品のヒロインがクリエイターである事に注目した。そして、それまで登場人物(と、そこに透けて見える観客たち)をひたすら辛辣に冷笑的に描いてきたフランソワ・オゾンが、初めて登場人物を「人ごと」としてではなく、内省的な視点で描いたのではないか…とも語った。主人公がクリエイターなのは、すなわち自画像ではないか…そう思ったのだ。

 そして、だからこそ…「エンジェル」もその延長線上ではないかと思った。

 で、今回の作品の劇場パンフを見てみると、オゾンがインタビューでそれを完全に認めているではないか。やっぱり「スイミング・プール」と「エンジェル」は深い関連性を持ち、両者ともオゾンのパーソナルな思いの反映であると認めているのだ。

 では、なぜオゾンは突然自画像的ヒロインを描きはじめ、人の本性を暴き立てるような冷たい視点から、内省的でどこか謙虚な視点へと変わっていったのか。

 それがまず「スイミング・プール」の時点で出てきたというのが、この場合は重要だと思う。

 前にもオゾン作品の感想文で再三再四言って来たように、僕は最初オゾンなんて映画作家はアートシアターでチマッと扱うような、一部映画マニアの愛玩物だろうと思っていた。正直に言って「ホームドラマ」(1998)なんて作品あたりを見る限りでは、どう考えても一般受けしそうもない雰囲気だった。だから突然誰も彼もがオゾン、オゾンと騒ぎ出すようになった時、戸惑いを感じずにはいられなかったのだ。

 それはまぼろし(2001)が公開された頃だろうか。まるで映画ファンはみんな生まれた時から知っていたかのように「あのオゾンね」などと言い出した。僕も一緒になって「うん、そのオゾン」などと調子は合わせてみたものの、あのオゾンもそのオゾンも、そんな有名なオゾンなど知っちゃいなかった。実はみんなもああは言っていたが、僕と五十歩百歩だったんじゃないか。そんなに「クリミナル・ラヴァーズ」(1999)とか「焼け石に水」(2000)とかを見た人が多かったとは、どう考えても思えない。

 ともかく「まぼろし」の時点で、オゾンはすでに「巨匠」のごとき扱いだった。そして次に「8人の女たち」だ。批評的にも興行的にも頂点。まさに向かうところ敵なし。僕でさえ「あのオゾン」と言ってはばからなかった。

 しかし、それが本人には落とし穴に思えたのではないか。

 実は「頂点」とは、それ以上ないという事を意味する。つまり、後は落ちるだけなのだ。

 実際に現代のクリエイターがアブラの乗った仕事を続けられるのは、5年から10年という短いスパンであることが多い。才能が枯渇するということもあれば、良い仕事環境を維持できなくなるということもあるだろう。あるいは時代とうまく折り合いを付けてきたものが、突然波長が合わなくなってくることもある。奢りや増長によって感性がニブっていくこともあるだろう。ともかく満月の欠けたところのない状態が、オゾンには一種の危機と思えたのかもしれない。

 そして、それが現実のモノだったのではないか…と思われるのが、「ふたりの5つの分かれ路」(2004)だ。実は僕はこの映画を、どうしても見る気がしなかった。オゾンの創作上の衰弱の証拠を、スクリーンから確認してしまうことになるんじゃないかと思ったからだ。何より…僕はこの映画の内容を聞いて、どうやら2本の映画をパクってつなぎ合わせたものだと察してしまった。だとすると、これはかなりマズイんじゃないだろうか。

 実際の作品を後日DVDで見て、その疑いは完全に現実のものとなった。それが何だったのか、もうこの場で明かしてしまってもいいだろう。

 その2本の映画とは、関連性も何もない極北に立つ作品…イングマル・ベルイマンの「ある結婚の風景」(1974)と韓国映画のペパーミント・キャンディ(1999)だ。

 この場合、ベルイマンの「ある結婚の風景」は、誰もが指摘するところだと思う。実際に物語の関連性も多い。別にそれだけならどうって事はない。近年に結婚崩壊劇を撮って、この映画に影響されていない作品なんて数えるほどしかないだろう。そもそもオゾンは先に挙げた「8人の女たち」のように、オマージュや引用を好む映画作家だ。「ある結婚の風景」にインスパイアされていても、ちっともおかしいことはない。

 問題はもう1本のほう。「ペパーミント・キャンディ」についてだ。

 果たしてフランソワ・オゾンが「ペパーミント・キャンディ」に影響されたのか、そもそもこの映画を見たのかどうか…については、疑う向きも少なくないだろう。オゾンが韓国映画なんて見るはずないと言われれば、正直、僕もあまり自信がない。しかし「ふたりの5つの分かれ路」の実物を見ると、どう考えてもオゾンが「ペパーミント・キャンディ」を見ていたとしか思えない展開になっているのだ。

 それは物語をいくつかのエピソードにブッた切り、それぞれを逆に接続。時系列を逆回転させて見せていく…というユニークな手法だけの事を言っているわけではない。それだけなら、僕もこんなに気にしたりはしない。本来的には絶望的状況で収束するお話なのに、あたかも希望に満ちた結論で終わらせるような奇跡的ウルトラCを成し遂げている点で、この両者は共通している。これは非常に興味深い事実だ。

 もう一歩踏み込んで言うと…「ペパーミント・キャンディ」では人生のすべてを失った主人公が鉄道自殺を行おうとする時点でスタートし、時系列を遡ることで「人生は美しい」という全く矛盾するような結論へと辿り着く。「ふたりの5つの分かれ路」では惨憺たる離婚の成立から時系列を遡り、最終的に「一度でも光り輝く瞬間さえあれば、その愛は真実であり価値があるものだ」という結論へと至る。その結論の持っていき具合において、両者は極めて酷似したものを持っている。これは偶然とは言えまい。

 ならば、それってさすがにマズイんじゃないか。「ある結婚の風景」と「ペパーミント・キャンディ」をうまく貼り合わせると、うまいこと新しい映画がつくれるぜ…ってのは完全にパクりだし、元ネタがそのユニークさで売っているだけに、まるでホメられた話ではないだろう。何よりクリエイターとしての衰弱を如実に表しているではないか。

 そして、その次作がさらに意味深長だ。先立つ「スイミング・プール」で内省的になったオゾン、「ふたりの5つの分かれ路」で作家的危機感を感じ始めたと思われるオゾンが、次に発表したのは「死を迎える男」の話。ぼくを葬る(2005)がそれだ。あの時には「何を唐突にこんな題材を映画にしたのか」と思ったが、こうした時系列に組み込んでみたらよく分かる。「人生の岐路」に立つ人なら、これは誰でも考えることではないか。ここでの主人公が写真家…またしてもクリエイターであることにご注目いただきたい。

 そしてこの「エンジェル」は、傲慢さに溺れたクリエイターの自滅の生涯を描いた作品。このように近年の5作のオゾン作品を振り返ってみると、そこには実に興味深い軌跡が描かれていることが分かる。そしてフランソワ・オゾンその人の本音も、そこから透けて見えてくるのだ。

 

見た後の付け足し

 今回、オゾンがヒロインに選んだエンジェルなる娘は、正直言ってあまり好きになれない人物だ。

 最初から「何様」態度で周囲を見下す。何の根拠があるのか知らないが、自信たっぷりで言いたい放題。まだ小便臭いど素人の小娘の分際で、いきなりロンドンの出版社でタンカを切る身の程知らず。

 「単語ひとつ、コンマひとつ変える気はありません!」

 成功を手にするや、そのふんぞり返りぶりは増長の一途を辿る。何でも誰でも自分の思うがままに出来ると考えている勘違い娘だ。

 そんなエンジェルの思い上がりぶりと無知で下品な勘違いぶりを、フランソワ・オゾンは余すところなく観客に見せつける。その辛辣ぶりたるや、これまでも観客が感情移入すべき主人公さえ冷ややかに描いてきたオゾンらしいところ。いや、むしろ主人公こそそのゲスぶりをトコトン暴き出されてしまうのがオゾン流。例えば「スイミング・プール」でも、天下のシャーロット・ランプリングに冷蔵庫の中に他人の食い物をガツガツ漁る…という、何ともエゲツない芝居をさせる徹底ぶりだった。

 そんな意味ではいかにもオゾン・イズムの延長線上とも言えるヒロインであるエンジェルだが、実は今回のオゾンの真骨頂は、そんなエンジェルの増長「以後」にこそ発揮されている。

 まるでそれまでの人生のツケが一気に返って来たかのように、ツキが落ち始める。

 愛する夫と新婚旅行から帰宅した最初の夜。「素晴らしい夜だわ」と彼女が感嘆の声を漏らし、思わず創作欲を刺激されて全裸で原稿を書き始めるその夜を頂点として、彼女の完璧な人生は緩やかに下降線を辿り始めるのだ

 実は従来だったら、オゾンはさらに露悪的な描写を緩めず、情け容赦なくヒロインの愚かさや醜さを暴き立てただろう。あるいは落ち目となりもがき苦しむヒロインを、嘲笑の嵐に叩き落としただろう。そして自らも彼女を冷笑して、みじめに踏みにじったに違いない。このあたりの人間洞察力はスゴイと思いながら、そんな血の通ってないオゾンの態度に、僕は何とも釈然としないものを感じていたはずだ。それはまるで…確か「スイミング・プール」感想文にも書いたと思うが、観客も含めた人間全体をバカにして、自分だけは火の見櫓の上に上がってみんなを見下しているような態度だったと思う。

 しかし…みなさんはここで何か気づかないだろうか?

 「観客も含めた人間全体をバカにして、自分だけは火の見櫓の上に上がってみんなを見下しているような態度」…とは、他ならぬエンジェルその人のキャラクターではないか?

 しかも人間を冷笑しながら出す作品出す作品がすべてうまくいき、商業的にも作品的にも成功を収めた「まぼろし」「8人の女たち」の頃のオゾンを考えると、これまた絶頂時のエンジェルのポジションと大差ないことが分かる。もちろんエンジェルは「作家=クリエイター」だ。先にも述べたように、これは間違いなくオゾンの自画像としてのメタファーなのだ。

 そして「スイミング・プール」の時のシャーロット・ランプリング演じる作家の例を挙げるまでもなく、自画像には多分に「反省」の思いが込められているものだ。こうなって来るとエンジェルの作品が、結局は単なる時代の徒花でしかなかったことも意味深く思われる。

 批評家にもホメられ大ヒットを続ける自分の作品だが、それってそれほどのモノだったのだろうか? そして今でこそ時代とシンクロして当たっている自分だが、それもいつかは限界がやって来るのではないか?

 その不安を最初に形にしたのが、先に挙げた「スイミング・プール」だったのだろう。そこではオゾンは初めて内省的な一面を見せ、作家と創作の秘密に踏み込もうとした。それは、それまで「作ればどれも好評」の波に乗っていたオゾンが、初めて自分の創作力に不安を持った瞬間だったからではないか? 不安を感じたからこそ、「自分ってどうやって創作してたんだっけ?」と振り返りたくなったのではないか?

 それを裏書きするように、「ふたりの5つの分かれ路」では創作力の限界を露呈。決して本人は明かさないだろうが、これはオゾンの最初のスランプだと思う。作品的には悪くないが、発想の根本に問題があった。これを作ろうとした時点で彼には「創作力の不安」があったはずだ。あるいは、そんな不安こそが彼を金縛りにしてしまったのか?

 そうなると、次に彼を襲うのは人生への疑念か諦念か。創作に行き詰まり現在の名声や成功を手放すことは、オゾンにとって耐え難いことのはずだ。どこかのインタビューでオゾンは「エンジェルと違って、僕は成功などどうでもいい」なんて発言していたが、ことさらにそう言ってること自体すこぶる怪しい。人間、一度手に入れたスーパーパワーは手放せない。手放すことは耐え難い。死にたいと思うかもしれない。あるいは、作品を生み出せなくなった自分は、すでに死なのかもしれない。では、死を覚悟せざるを得なかったら、自分は果たしてどうするか。

 そんな問いへの回答が「ぼくを葬る」だとすると、ちゃんとすべてのツジツマが合う。

 ここ数年のオゾン作品を再び反芻してみたのは、「エンジェル」という作品を通じてオゾンがいかに自分をヒロインに投影しているか、改めて検証してみたかったからだ。そして近年のオゾン自身を仮託する形で描かれるエンジェルは、だから以前のように徹底的に冷血に意地悪く描かれはしない

 確かにミジメにボロボロにはなる。勘違いぶりも相変わらずだ。決して甘やかしも同情もしないけれど…以前のような見下すような冷笑ぶりもまた、そこには存在しない。それは確かに見下せる訳がない。エンジェルはオゾンその人なのだから。

 それが証拠に、一番最初にエンジェルを辛辣に酷評した人物が、物語の後半に意味深な発言をしているではないか。「私はあの娘の小説なんてひとつもいいと思わないけれど、あの娘の生き方には感嘆する」…それを発言しているのが、「まぼろし」「スイミング・プール」に続き3度も組んでオゾンの盟友ともいえるポジションのシャーロット・ランプリングというのも、非常に重要なポイントだと思われる。

 イヤな奴だし作ったモノもロクでもないが、生き方はアッパレだった。

 ウディ・アレンのタロットカード殺人事件(2006)にも出演していたロモーラ・ガライ扮するエンジェルは、実にイヤな女なのにどこかキライになれない。救いがたい愚かさなのに見捨てられない。拭い去りがたいチャーミングさを持っている。そのスレスレぶりにほとほと感心させられるが、ここに今回のオゾンの狙いが隠されている。

 死の床に伏せたエンジェルが彼女に忠実なノラに対して最後の言葉を語るくだりは、その意味でも実に興味深い。深刻な大芝居で演じられるこのくだりは、実はエンジェルの処女作のエンディングにウリ二つ。ハッキリ言って笑っちゃう話なのだが、それだけにそのバカバカしさが突き抜けて感動の域にまで達してしまう。先に出てきたミエミエ合成画面が、ここへ来てグッと活きてくる。彼女にとっては、人生すら自分の作品だ。だから最後の最後まで人生を自分の「創作物」としてクリエイトし切ったエンジェルを、「これはこれでアッパレ」な人生だと肯定できてしまうのだ。

 どこまでも徹底してやり尽くしたら、それはそれで認めざるを得ないではないか。

 そして、それはまたオゾンの到達したひとつの覚悟のようにも思える。

 人生はどうなるか分からない。成功も失敗も、ちょっとした運命の気まぐれでしかない。何も保証されているものなどない。ならばいっそ徹頭徹尾、自分の思いをトコトン極めてみるのも人生ではないか。

 そこまでやれば、人は悔いなどないのではないか

 

やり直しはきかないから、人生は美しい

 今では僕も編集の仕事に転じ、あれこれ本を作る側に回った。

 この仕事に就くにあたっては、それなりに覚悟もあった。きれい事ではなく年齢的な限界もあった。もう身の程知らずな事をやるつもりもない。僕もいいかげん歳をとったのだ。

 先に僕は、長年続けて来た「何かを創る」という行為と自分の実際の仕事との間で、ようやくバランスがとれるようになった…と書いた。それと同時に最近の僕は、何でも杓子定規に見る融通のきかない考え方を多少改めようかという気持ちにもなってきた。

 「分をわきまえろ」「身の程を知れ」…なんて事を考えていたらキリがない。「自分は三流」だの「誰に一流の資格がある」だの、どこにそんな明確な線引きがあろう。それに、そんな線引きをして誰がトクをするというのだ

 そんな堅苦しい考え方を少々緩めてみたら、自分の至らなさも許せる気がしてきた。気楽になった。

 さらに、他人にも大らかな気持ちになってきたから世の中分からない。みんなやりたいようにやってくれ。多少ヘンだと思うことがあっても、世の中なんて完全なモノじゃない。僕に火の粉がかからない範囲なら、誰が何をやろうが自由ではないか…。

 こんな年齢になって何を今頃…と言われても仕方がないが、実際にこれだけかかったのだから返す言葉がない。もっと早く理解できていれば良かったかもしれないし、そもそも最初から分かっていれば苦労はなかった。人によっては飲み込みのいい人もいるのかもしれないが、僕は本当にそれだけの時間をかけなければ分からなかったのだ。

 実際のところ、人間が本当に腹の底から何かを理解するまでには、長い時間と多くの苦しい経験を積まなければならないのではないだろうか

 人生にやり直しはきかない。それは本当に残念なことだ。だが今では、一回きりだからこそ美しいと思うようになった。

 間違っていても自分を全う出来たなら、そこには悔いはないのだから。

 

 

 

 

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