「椿三十郎」(リメイク版)

  Tsubaki Sanjuro

 (2007/12/24)


  

今回のマクラ・その1

 誰が言い出したか知らないが、今年は何とも妙な言葉があちこちではびこっていた。

 昨今の流行り言葉の常でどうせおバカな女子高生あたりが言い出した言葉なんだろうが、アッという間に新聞やテレビでもモテはやされた言葉。流行語大賞か何かになったのかどうかは知らないが、個人的には今年最も目にした流行り言葉だと思う、「KY」なる言葉だ。

 「KY」、すなわち「空気が読めない」んだそうである。

 空気が読めない人間はイタイ。確かに周囲にいたたまれない思いをさせる。それを略して「KY」と言うんだそうであるが、それが世間でこうまで大きく取り上げられるってのは果たしていかがなものだろうか。

 実は、僕はこの「KY」なる言葉、出てきた最初の頃からキライだった

 そうは言っても、この言葉の言わんとしている意味は理解しないでもない。僕だって場をわきまえない発言や座をシラけさせる発言ってのは好ましいと思わない。自分がやらかしたら恥ずかしいと思うし、人がやっているのを見るのもイヤだ。そういう場面も少なからずあるから、確かに困ってしまう。

 だから意味としては理解はするが、それが「流行語」として、まるで勝ち誇ったように使われるってのはどうなんだろう。何となく違和感を感じずにはいられない。

 そもそも、「空気を読む」ってことが大して良いことに思えない。

 何となくその場の風向きに合わせて、調子よく立ち回っているようにしか思えない。それって大勢に逆らわずに勝ち馬に乗ってしまえってことなのか。そんな奴が果たしてエライのか。要は「空気の読める」奴ってのは、単にセコく立ち回る中味カラッポの奴でしかないんじゃないか。イマドキはそんな奴の方がモテはやされ、そうでない奴は「KY」として血祭りに上げられるのか。小器用にウロチョロする小賢しい連中に、ただ不器用な奴の方がバカにされるのか。

 それがイマドキの「空気」だったら、僕はそんなもの読みたくはない。そりゃ全くロクなもんじゃない。国中でみんながみんな空気を読んだあげく、それに合わせて立ち回って思い切り墓穴を掘った過去が思い出されるではないか。

 それよりも…「空気」なんかより読むべきものがあるんじゃないのか。ちょっと自分の身の回りを見ても、本来だったらもっと気を配ったり考えなきゃならないところに気が回ってない状況はザラにある。新聞やテレビを見ても、「読めてない」状況は他にいろいろある気がしてくる。

 「KY」なんてバカな言葉がもてはやされてる事自体が、その事を裏書きしているように思える。賢明な奴はこんな事は言うまい。むしろ、みんな本当は「もっと読まなきゃいけないもの」が読めてないんじゃないか。

 

今回のマクラ・その2

 昨今、日本映画が活況なんだそうである。

 ちょっと突き放した言い方をしてしまうのは、元々があまり日本映画について詳しくない僕なのでお許しいただきたいが、本来邦画を中心にしたサイトを運営していた人や熱烈な邦画ファンならいざ知らず、元々があまり邦画を見ていないとおぼしき人まで「今は邦画が来てます!」と口からツバを飛ばして言っているのは、正直言って僕から見るとそれこそ少々「痛い」気がしてならない。それも、どう見たって僕以上に邦画を見ていなかったと思われる人まで、「いかに自分は前々から邦画に注目していたか」を力説するに至っては、さすがに戦争に負けて一夜明けたらたちまち民主主義のお国柄だなぁ…と苦笑せずにはいられない。

 確かに、昨今は邦画にいいムードが漂いつつあるかもしれない。

 「いい意味」で洋画コンプレックスがなく、それらの方法論を何のてらいもなく受け入れている若手映画人が、ハリウッド・イズムを自然に邦画に持ち込んで来た。これが邦画の娯楽映画の質的向上に結びついていることは確かだ。例えばちょっと前のスウィング・ガールズ(2004)で出演者が本当に楽器を演奏していること。これなどは、ハリウッドの映画では当たり前のことなんである。その当たり前のことを、1950年代の巨匠の作品などではなく、ようやく普通の娯楽映画でちゃんとやるようになった。情けない話だが、これは日本映画ではひどく目新しい話なのだ。

 そしてミニシアターやらシネコンやらと映画館にバラエティに富んで来たことで、作品に見合った「器」を選べる余地が出てきたこと、さらにケーブルテレビだ衛星テレビだ、さらにはDVDだ…という二次使用・三次使用の可能性が出てくることで、作品発表の場や資金回収の道が増えていったという点も見逃せないだろう。

 だが、僕はそんな昨今の邦画に、いささか意地悪なまなざしを投げずにはいられない。

 その理由のひとつが、イマドキ日本映画に見られるリメイク・ブームだ。

 ちょいと前には「丹下左膳 百萬兩の壺」(2004)がつくられ、日本沈没(2006)もリメイク。「時をかける少女」(2006)はアニメ化というウルトラCに出たが、何と市川崑は「犬神家の一族」(2006)で、大林宣彦は「転校生/さよならあなた」(2007)で、それぞれ自らの過去の作品のセルフ・リメイクをやらかすというアリサマ。このうち市川崑はすでに「ビルマの竪琴」(1985)でもセルフ・リメイクを発表しているし、本来が日本映画は「伊豆の踊子」やら「忠臣蔵」を死ぬほど繰り返し作って来た伝統があるので、リメイク云々は今始まったことではない。しかもリメイクでいえば、ハリウッドの方がもっと重傷だ。

 だが…それにしたって最近の邦画リメイクは多い。それにいくつかの例外を除いては、あまり芳しい成果を挙げられていないように思う。それなのにこうもリメイクが後を絶たないのは、日本映画もハリウッド並みにネタ切れ状態ということなのだろうか。

 まぁ、それについては、映画会社ではなくいわゆる「制作委員会」方式で映画をつくる方法が主体になってきたということ…つまり映画のシロウトで脚本の読み方も満足に分からない人間が、カネを出して決定権を握る時代になってきたからだ…と、映画ギョーカイに詳しくない僕なんかでも思ってしまう。その詳しい理由については僕のインファナル・アフェア(2000)感想文の冒頭を読んでいただきたいのだが…ともかく日本映画もハリウッドと同じく、嘆かわしい現象が起きてきたのではないかと思う。

 だとすると、これはかなりヤバイのではないか?

 邦画が当たっている、邦画がオモシロイ。そいつは大変結構だが、そんな「邦画上げ潮ムード」は本当に揺るぎない傾向として、映画の質・量・成績すべてに起きていることなんだろうか。ちゃんとした潮流として、今後も続いていくものなのだろうか。

 あんなに一時期活況を呈していた韓国映画も、今はすっかり大人しくなってしまっている。

 それこそ質も量もしっかりしていたし、とても一過性のモノとは思えなかった。人材もどんどん輩出していたし、実際に作品も面白かった。むろんそれまでも韓国映画は地道にやってきていたのだが、あのあたりから一気にダイナミックに変貌したのは間違いない。コアなファンには及ばないながら少しは過去の韓国映画をかじってきた僕でも、そのあたりのことは感じられた。何しろあの当時は、ちょっとでもヨン様をオチョクったら、たちまちオバチャンのファンから怒りのメールを頂戴したりしたものだ。

 ところが今では、そんな活気は望むべくもない

 そういえばあの当時は、それまでアジア映画もロクに見ていなかった人たちまでが、「これからは韓国映画ですよ!」とがなり立てていたっけ(笑)。それは大抵、今「日本映画が来てる!」と吹聴しているのと同じ人たちだ。

 それが、あのテイタラク。

 ウカウカしていると、日本映画も韓流映画ブームの二の舞。僕は何となく、そんなイヤな予感を感じているんだよね。これが杞憂であることを祈ってはいるが、果たしてどうなんだろう。

 

見る前の予想

 で、そんな邦画リメイクの中でも一際注目され一際危惧されていたのが、この「椿三十郎」じゃないかと思う。そして危惧…と言えば、これほど危惧されていた作品もないはずだ。

 そもそも、何でリメイク?…という疑問に答えることが出来まい。

 例えば「日本沈没」リメイクなら「CG技術の発達」なんてリメイクの必然性を語ることも出来るだろう(実際には「日本沈没」リメイクは、それほど特撮技術の向上を売りにする作品ではなかった)が、「椿三十郎」はそうはいかない。むしろ近年のテレビや映画における時代劇退潮減少から考えると、逆にますます作りにくくなっているジャンルの作品だ。

 それより何より問題なのは、天下の黒澤明作品だということだ。

 オリジナル椿三十郎(1962)は他の黒澤作品と同じく、日本映画としても異例なほど国際的認知度の高い作品。一種の「古典」の領域に入っている作品。誰がどう見たって「ワン・アンド・オンリー」の作品だ。それだけで二の足を踏む人間がいるだろう。

 僕は映画に「神聖にして犯すべからざる領域がある」とまでは考えていないし、そういう言動をするマニアや信奉者に賛同したいとは思わない。しかし、それにしたって…何も黒澤「三十郎」を再映画化しなくたっていいだろう。ついでに言えば、どうして「用心棒」じゃないの?…というつまんない事まで気になって来る。

 いや、カッコつけずに正直に本音を言おう。僕はやっぱり「神聖にして犯すべからざる領域がある」とは思う。

 黒澤作品は好きだ。ハッキリ言うと僕は黒澤明の大ファンだ。単によく出来た映画、オモシロイ映画以上のものを感じる。黒澤を巨匠と呼ぶ人は多いが、パーソナルな部分で共感する人って少ないんじゃないだろうか。だが僕は黒澤作品を見ると、そのモノの考え方にものすごく共感してしまうのだ。ダメな部分もなぜダメになったのかが分かる気がする。これは初めて告白すると思うが、僕にはそれくらい黒澤作品に入れ込んでいるところがあるのだ。

 むろんオリジナル「椿三十郎」も大いに楽しんで見た。素晴らしいとも思っている。だから、あれを作り直そうなんて無謀としか思えない。

 これが不思議なモノで、ハリウッドでリメイクするというなら気にもならない。「荒野の七人」(1960)だって「荒野の用心棒」(1964)だって、「ラストマン・スタンディング」(1996)だって興味深く見た。今も進行中のドリームワークス版「生きる」だってマーティン・スコセッシが撮る「酔いどれ天使」だって、何だかんだ言って見に行ってしまうだろう。チャン・ツィイー主演の「七人の侍」リメイクだって見てもいいと思っている。もう、そうなっちゃったら別モノって気がしてくるから、僕としてはどうでもいい。

 だが、日本映画で「椿三十郎」となると、話がまた別というものだ。

 主演が「踊る大捜査線」(1998)などで当たりをとった織田裕二というのもねぇ。僕は「踊る〜」ファンでも何でもないから、やっぱりあの作品でも織田はクサかったというのが正直なところ(笑)。それを、事もあろうに三船敏郎の超当たり役「三十郎」に持ってくるとは。

 それなら誰ならいいのか?…と問われると、そりゃあ確かに困ってしまう。そのくらい、三十郎は「三船のモノ」なのだ。リメイクするための唯一の方法としてはデジタル・サンプリング処理で三船敏郎のCGをつくってしまうことしかないが、それもポーラー・エクスプレス(2004)みたいな事になるのなら願い下げだ(…と思ってたら、「ポーラー〜」の監督ロバート・ゼメキスはまたフルCG映画に挑戦して、今度は見事モノにしてしまったから驚いた)。これらを偏見・先入観だと言われても、やっぱり僕としては抵抗があるのだ。いやぁ、世界中の大半の人がイヤでしょう。

 しかも三船だけじゃない。仲代達矢もいなけりゃ加山雄三もいない。田中邦衛も小林桂樹も志村喬も藤原鎌足もいない。誰を持って来るにしても、圧倒的に人材が手薄に見えるのではないか。

 それと、リメイクするからには独自性を…と分かったようなことを言いながらつまらない改変を試みて、映画そのものを台無しにされるのも耐えられない。いずれ手練れの菊島隆三、小国英雄、黒澤明の3人が練りに練った脚本を、ちょいと思いつきで勝手に直されていい結果になろうはずがない。あの樋口真嗣版「日本沈没」の無惨な結果を思い出して欲しい。あれこそ愚かな振る舞いと言うべきだろう。

 そんな心配をしていると、どうやらリメイク「椿三十郎」は、黒澤作品のオリジナルシナリオをそのまま使うらしいとの情報が入って来た。おお、それならある程度の面白さは最低限確保されたようなものではないか。少なくとも、やはりリメイクが伝えられる「隠し砦の三悪人」(しかも、最悪なことに樋口真嗣の監督!)よりはいくらかマシだろう。

 とは言え、それって何だか俳優を変えてカラーにしただけ、あとはオリジナルと寸分違わないガス・ヴァン・ザント版「サイコ」(1998)みたいな感じがする。あれって一体何のためにつくったのか、まったく分からない作品だった。今度の「三十郎」だってリメイクの必然性がよく分からなくなるんじゃないだろうか。あっちが立てばこっちが立たずで、どっちに転んでも微妙なのがこのリメイクなのだ。

 おまけにダメ押し的に言えば、監督が森田芳光というのも微妙だ。森田が「家族ゲーム」(1983)、「それから」(1985)などで絶好調だった頃ならともかく、近年だと「黒い家」(1999)とか「模倣犯」(2002)などと危うい評判の作品がゴロゴロ並ぶ。そこに、それでなくてもリスクの高い「椿三十郎」の森田によるリメイクは、あまりに危険過ぎやしないか

 そんな訳で、黒澤ファンだからこそ…このリメイクを無視するなんて出来ない。見ないわけにはいかない。それも、人にアレコレ言われる前に、自分のこの目で確かめたいと思ったわけだ。

 

あらすじ

 鬱蒼たる杉木立。その中をよくよく見てみると、大勢の男たちが続々と殺到している。この男たちは、果たして何故にこの木立の中を集結しているのか?

 そんな杉木立の中にぽつんと建つ古い神社。今その中で、9人の若い侍たちが何やら思い詰めた表情で相談をしている真っ最中だ。

 「とにかく、叔父は話にならん!」

 そう語るのは一同のリーダー格である井坂伊織(松山ケンイチ)。実は彼らは藩のお偉方の汚職に気づき、それを告発しようと血気にはやっているところ。そこで井坂言うところの「叔父」こと城代家老の睦田を後ろ盾にして、この汚職を暴こうと思い立ったわけだ。

 だがこの睦田は人は良さそうだが昼行灯のような人物で、いかにも万事に疎そうだ。井坂はまず汚職を告発しようという若侍たちの意見書をこの睦田に見せたが、睦田は意見書をビリビリっと破ると、とんでもない事を口走るのだった。

 「人は見かけによらないよ、危ない危ない。第一、一番悪い奴はとんでもない所にいる、危ない危ない」

 そんなわけで叔父が頼りにならないと分かった井坂は、今度は大目付の菊井の元にこの話を持ち込んだ。菊井は若侍たちにも人望のある、見るからに立派な人物だ。井坂から事の次第を一切合切聞いた菊井は、「よろしい、若い人たちと一緒に立ちましょう!」と快諾。それを聞いた若侍たちも「さすが菊井さんだ!」「これで千人力だ!」と大ハシャギ。井坂からここまでの経緯を聞いた若侍たちは、この寂れた神社の建物の中で思わずワッハッハッハと大笑いだ。

 「ちょっと待ちな!」

 突然デカい声が聞こえて来て、思わずギョッとする若侍たち。奥の暗がりから彼らの前に現れたのは、一人の無精ヒゲの素浪人(織田裕二)だ。

 これまでの話を聞かれたか…と一触即発ビリビリの若侍たちだが、素浪人は頭から湯気を立てそうな若侍たちを、まずは「馬鹿野郎」と一喝して冷水を浴びせる。さらに余裕で大あくびをかますと、何ともカッタルそうな様子で話し始めた。「いいか、オレはその城代家老も菊井って奴のツラも知らねえ。しかし知らねえから見た目で惑わされることもねえ。オレに言わせりゃ城代家老はなかなかのタマだぜ。そして…早い話が、大目付の菊井って奴が黒幕かもしれねえぜ」

 何とも不愉快な指摘をされて、思わずいきり立つ若侍たち。だが素浪人は平然として言葉を続ける。「人は見かけによらねえぜ、危ねえ危ねえ」

 そう、確かに城代家老の睦田はそう言っていた。しかも「一番悪い奴はとんでもない所にいる」とさえ言っていたのだ。こう指摘されてしまうと、さすがの若侍もグウの音も出ない。結局、素浪人の言い分に納得せざるを得なくなるが、そうなると改めて自分たちの抜き差しならない状況に気づく若侍たちだった。

 「しかし、大目付とは今夜ここで話し合うことにしてきたんです」

 これには素浪人も、思わず目をむかずにはいられない。「な〜にぃい?」

 慌てて立ち上がった素浪人は、建物の壁に駆け寄って節穴から外を覗く。案の定だった。外には大目付が放った刺客たちがワンサカ集結中。若侍たちも素浪人にならって建物の壁に耳を押し当てると、外にウジャウジャ人が集まっている様子が聞き取れた。さらに素浪人は建物の四方を見てみたが、すでに神社は完全に取り巻かれた状態だ。「すっかり取り囲みやがった、アリの這い出る隙間もねえや」

 こうなると思い詰めた若侍たちは一斉に刀を抜いて、悲壮感タップリに戦うことしか頭にない。これにはさすがに素浪人も見かねて、声を荒らげずにはいられない。「まだバカな事をし足りねえのか! まぁ、せいぜいみんなくたばって、菊井の奴を喜ばせるこったな」

 すっかり困惑する井坂は、まるで指示を仰ぐかのように素浪人の顔を見る。「しかし、こうも取り囲まれてしまっては…」

 すると素浪人は、若侍たちにこう言い放つのだった。「ここはオレに任せな」

 古い神社の周辺は、二重三重に追っ手が取り囲んでいた。建物の中の様子を伺っていたこの連中は、意を決すると大声を張り上げる。

 「大目付菊井殿の手の者である。神妙にしろっ!」

 すると、建物の扉がゆっくりと開くではないか。のっそり姿を現したのは、もちろん例の素浪人だ。

 「うるせえな! 何でえ!」

 その様子を見て、おっかなびっくりながら建物に入って行く敵の手下たち。だがそんな連中を、素浪人は機嫌悪そうにつまみ出す。「オメエたち、人の寝ぐらに土足で入り込む奴があるか!」

 こうしてアッという間に連中を建物から放っぽり出した素浪人に、手下たちは剣を抜いて応戦しようとする。それを見るや素浪人は建物からずんずんと乗り出し、周囲に向かって言い放った。

 「面白え、やる気か。だが気を付けろ、今オレは、寝入りばなを起こされ機嫌が悪いんだっ!」

 こうして始まった大立ち回り。この素浪人の強いこと強いこと。次々飛びかかってくる敵の手下たちを、バッタバッタとなぎ倒す。たちまち叩きのめされた手下たちが、ゴロゴロとそのへんに転がるアリサマだ。

 「退けっ、退け退け〜いっ!」

 突然割って入った鋭い声に、その場の緊張が一気に解ける。その場に現れた声の主は、周囲の連中とは一線を画する殺気みなぎる一人の男(豊川悦司)だ。「この男を倒すには、かなり手間がかかるぞ」

 だが素浪人を見つめるこの男の表情は決して憎々しげなそれではなく、どこか不敵な笑みを浮かべていた。それはどこか一種の共感のようなものさえ漂わせていたのだった。「仕官の望みがあるなら、オレを訪ねて来い。…オレの名は、室戸半兵衛!」

 こうして連中は、まるで潮が引くように引き揚げて行った。素浪人は連中が立ち去る様子をしばらく見送ってから、建物の扉を閉じて奥の部屋へと入って行く。「もう、出てきてもいいぞ!」

 そう言いながら、いたずらっぽい表情で床を足で踏みしめる素浪人。すると床板が、下から持ち上げられようとしているではないか。だが上に素浪人が乗っているので、床板は上がらない。そんなこんなでからかわれたあげく、やっとこ床下から出てきた9人の若侍たち。しかしからかわれようと命の恩人は恩人、多少面白くない気持ちは感じていても、この得体の知れない素浪人に頭を下げない訳にはいかない若侍たちだった。

 「何とお礼を言っていいやら…」

 「礼なんかいいから、少しカネをくれねえか」

 それまで堂々と不敵に振る舞っていた素浪人だったが、さすがにカネの無心は気が退けたか、妙にこっ恥ずかそうな態度を見せる。それでも素浪人はカネをいくらか頂戴すると建物を立ち去ろうとするが、何か気になるところがあったか、扉の手前でふと立ち止まった。「しかしオメエたち、これからどうする気だ?」

 さすがに井坂たちは、先程の出来事でいいかげん目を覚ましていた。早速、城代家老の睦田に詫びを入れて、指図を仰ぐつもり…と速攻で答える。これには素浪人もご満悦だ。「聞き分けがいいな、いい子だ!」

 こうして今度こそその場を立ち去ろうとした素浪人だったが、またまた何か気になったのか歩みを止めると、若侍たちの方に向き直った。「いけねえ…そうなると、その城代家老が危ねえぞ!」

 どうも本当の黒幕らしい菊井は、すでに井坂が城代家老の睦田の元に直訴したことを知っている。しかも菊井は、この睦田が「一番悪い奴はとんでもない所にいる」と図星を指したことまで聞いているのだ。ならば菊井は睦田の身柄を押さえるに決まっている。それに気づいた井坂は歯ぎしりすると、自らの愚かさを責めさいなんだ。だが、他の仲間たちとて同じようなもの。「こうなったら、死ぬも生きるも我々9人!」

 すると、そんな若侍たちのやりとりを苦虫噛みつぶしたような表情で聞いていた素浪人は、ついにたまりかねて吠えた。

 「…10人だっ! テメエたちのやるこたぁ、危なくて見ておれねえや!」

 

見た後での感想

 まずは実際の映画にかなり忠実に、冒頭のシークエンスを再現してみた。今さらながら黒澤作品の脚本の巧みさにはビックリだが、冒頭のここまでで映画の設定はすべて語られているし、出てこない主要人物も…実際には悪党連中はさほど重要ではないから、あとは睦田の奥方(中村玉緒)と娘の千鳥(鈴木杏)、さらに押入れに押し込められる侍(佐々木蔵之介)ぐらいのものだろうか。ストーリーもお馴染みのあまりに有名なものなので、あえてここまでで紹介は切り上げさせていただいた。その代わり、映画のニュアンスについては今まで以上にデリケートに書かせていただいたつもりだ。

 さて、今回の「三十郎」だが、実は森田芳光がこのリメイク版をつくるにあたって旧来の黒澤脚本をそのまま使用すると聞いた時、僕は正直言って「これは快挙だ」と思った。「快挙」は言い過ぎだとすれば、賢明な判断だと思った…とでも言おうか。少なくとも今回のリメイクにあたって、ヘタに「自分のオリジナリティ」なんてシロモノを「三十郎」に持ち込もうとしなかっただけ、森田芳光はエライと本気で思ったよ。

 「リメイクするんだから、独自性がなければ」…なんてもっともらしい屁理屈のワナにハマって、今まで一体どれだけの映画監督…有能な者も無能な者も含めて…が、飽きもせず墓穴を掘ってきたことか。その最新の墓標には当然「日本沈没」が並んでいると思うべきだろうが、ともかくああいうくだらない事ならやらない方がマシ。よせばいいのに、ちょっとした思いつきでいじくり倒してみても、ちゃんと考え抜かれて実績を残した作品を台無しにするのがオチ。元々が読んでも面白い黒澤脚本だ、そのままただ撮ってみてもソコソコそれなりに面白くなるはず。これで少なくとも、愚作をもう1本つくる危険だけは免れたわけだ。

 ただしそうなっちゃうともう一方の危険…「サイコ」リメイクの二の舞という恐れもないわけではないが、さすがに森田はガス・ヴァン・ザントみたいな偏執狂的凝り性ではあるまい。ならばあそこまで…アングルからカットから同じで、単に役者を変えてカラー化しただけの「サイコ」リメイク版ほど…オリジナルと寸分違わぬ徒労としか思えないリメイクをこしらえる訳もないはずだ。これも一安心。

 ついでに言えば、同じ脚本で撮るならリメイクする意味がない…という意見にも多少賛同するところがない訳でもないが、それはあえて今回は指摘するまい。今の役者でカラー化して撮ることで、昔の映画を見なくなったイマドキのファンに「三十郎」を体験させるため…という制作側の苦しい言い訳を、ある程度真に受けてあげてもいい。「単に面白い映画になってりゃいい」くらいにしか思っていなかったから、実際のところ、僕にとってはリメイクの意義なんてどうでもよかったのだ。だってこう言っちゃ何だが…大半の場合、リメイクなんてしないで済めばその方がいいんだから。

 それに僕にとっては、今回のリメイクは、映画というものを考える上での興味深い実験のようにも思えていたのだ。常日頃より映画の感想なりレビューなりを書いたり読んだりしていると、必ずぶつかる問題…それに対する一種の回答をもたらしてくれるかもしれないからだ。

 それは、映画作品のどこまでが「演出」でどこまでが「脚本」か…という問題だ。

 そんなの映画を見てれば分かる…と誰もが言うだろう。だが実際にあちこちに書かれた感想やレビューを読むと、どう考えてもそれらが混同されていると思われるものばかりが目に付く。いやいや、人のことは言えない。自分の感想だってそうだ。僕も大昔にはヘタクソながら脚本を見よう見まねで書いたり、演出の真似事らしきこともやらせてもらった。いやいや、あれを「やらせてもらった」などというのはとても恥ずかしくて言えない。せいぜい赤子の落書きのようなモノだろう。だがそんなモノでも多少は手をつけてみたから、その大変さがいくらかは分かる。どこが手が届きにくくて大変かも想像がつくのだ。

 だから何となくそのへんは分かっている気にはなっているが、いつもそこに厳密な線引きを行っているかと言うと、正直言って心許ない。ふと自分が書いたものを読んでも、そのへんが分からなかったか、それとも勇み足かで、演出と脚本の線引きが出来てない書き方をしてしまっている。あえて面倒くさくて両者を混同して書いちゃってる場合だってある。これは、得てして監督が脚本にまでタッチしていることがあるから…ということもあるが、結構みんなやらかしている危うさではないだろうか。

 だが今回は、オリジナルと同じ脚本を使っているという。それもいつ見れるか分からない大昔の作品ではない。多くの人がすでに見たことのある、かの有名な作品だ。好都合なことに難解な芸術作品ではなく、シンプルな内容の娯楽作品というのも比較には好都合。しかも見直そうと思えば、ビデオもDVDも手に入る。見直しは簡単に可能だ。「演出」と「脚本」の線引きというテーマを考える時、これほど格好の素材はないだろう。これは実際、かなり興味深い実験だと思うのだ。

 だから今回の感想文のストーリー紹介でも、オリジナルと異なる部分は太字の色違いで表示することにした。そのあたりを見ながら、微妙なニュアンスの違いを感じて欲しいからだ。

 さて今回の「三十郎」だが…ズバリ言って、見終わった瞬間まずはどこが違うと思ったか。

 長くなった。

 これは本当である。上映時間は長くなっている。何しろオリジナル版は、黄金期の黒澤映画としては「羅生門」(1950)の88分以来久々に100分を切る短さの「椿三十郎」だ。だから余計目立ってしまう。ともかく今回のあと2分で2時間という上映時間は、「椿三十郎」という作品としては妙に長い気がするのだ。

 実際のところ、僕は見ている間にも何となく妙な間の延び方を感じていた。オモシロイけど長い。妙にスローテンポ。これは見ている間、実際に意識していた。残念ながら、オリジナルのあのタイトな緊張感はここにはない。果たして、それはなぜなのか?

 その理由はオリジナルを見直して分かった

 当時の黒澤作品のトレードマークだった場面転換のテクニック、「ワイプ」を今回は使っていないからだ。

 「ワイプ」とは右から左、あるいは左から右というように、まるで画面を雑巾か何かで拭いてぬぐい去るかのように場面転換を行うこと。実はこの技法は今日あまり使われておらず(というより、現在ではオーバーラップなどの場面転換テクニックもほとんど使われず、大概が単なるカット処理で済ませている)、唯一の例外はあの「スター・ウォーズ」サーガのみ。それがジョージ・ルーカスの熱狂的黒澤フリークゆえのことであることは、みなさんもお察しの通りである。

 黄金期の黒澤映画は、この「ワイプ」技法を用いて巧みに場面転換をしていた。巧みに省略を効かせて無駄を省き、展開をタイトに絞り込んでいた。「椿三十郎」もしかり。ところが今回の作品はオリジナル脚本を使っていながら「ワイプ」を用いていないので、場面転換にモタモタしてしまっている。

 例を挙げてみると、冒頭の神社での場面。若侍を一網打尽にしようと古寺を包囲した悪漢の手勢を、三十郎が機転を利かせて追い返してしまうくだりだ。追っ手が引き揚げていくや「ワイプ」が使われ、次の瞬間に三十郎は奥に引っ込むと、床下に隠れた若侍たちに「出てきていいぜ」と呼びかけている。リメイク版ではこの「ワイプ」がないから、追っ手が去って行ってから三十郎が若侍に合図するまで、間伸びした時間を持続させねばならなかった(さらに森田監督は、ここで三十郎が若侍をからかって、床板が開かないようにいたずらする場面を挿入したが、これはハッキリ言って余計なお遊びだろう)。

 「ワイプ」を使わなかった理由は、先に指摘した通り。これが現代では「スター・ウォーズ」サーガ以外では死滅した技法だからだろう。それは正しい選択だったと思うし、上映時間が伸びたのはそのせいだけでもないとは思うが、残念ながらあちこちでテンポが緩んでしまったのは否めないと思う。

 さて、次に気がついた点は…といえば、これも当初危惧していた点。織田裕二の「三十郎ぶり」についてだ。

 実は、この織田「三十郎」が意外にいい

 最初はまるっきり若いと思ったけれど、見ているうちに、これはこれでいいではないかという気になってきた。何だかんだ言っても、スケールを大きく演じてはいた。気持ちいいほど腹の底からデカい声張り上げていた。それに若い若いと言っても…今回は、出演者全員が若く見えるではないか。そもそも三十郎を云々する前に、若侍たちの子どもっぽさに唖然だ。確かに若侍はみんな「青二才」という設定だからいいようなものの、それでもオリジナルの加山雄三たちはこんなに「ガキ」には見えなかった。これじゃホントに子供だ。

 つまり、今は日本人全体が当時より若く幼いのだ。昔の日本映画を見ていて気づくのは、当時の若者の老けっぷりだ。昔の20代なんて、イマドキの30代より老けている。というより、昔はみんな早く大人になった。逆に言うと、やたら長生きするようになったイマドキのお年寄りは、誰もがツルツルした若い顔をしている。これは日本人全体が若くなった…意地悪く言えば幼くなったということではないか。かく言う僕自身も、昔の40代後半とは比べようもないほど青臭い。肉体的にも精神的にもそうだ。

 ならば、そういう中でつくらざるを得ない以上、21世紀バージョンとしては濃くてパワフルな三船よりも、どこかライトな織田裕二の起用は正解なのかもしれない。ただライトとは言っても、今回の織田はかなり馬力を出して演じていた。だから織田がガバッと口を空けてデカい声を野太く張り上げているのを聞いているうちに、なかなか頑張っているではないかという気になったきたのだ。

 松山ケンイチ以下の若侍は、前述したように最初幼すぎるのではないかと思った。だが元々ヒヨッコの役回りだから、現在ならこのくらい幼くないと感じが出ないかもしれない。ならば、イマドキの感覚なら若侍たちはこれでいいのだ。織田裕二とのバランスから言っても、あのくらい幼いのが妥当だろう。

 そして文句なく「正解」と思わせるキャスティングは、豊川悦司の室戸半兵衛。前作の仲代達矢が漲らせていた迫力とシャープさを、トヨエツは彼なりに表現していた。織田三十郎と対する意味でのバランスもいい。これは絶妙のキャスティングだと言えるだろう。

 中村玉緒と鈴木杏のおっとりとした母娘は、今回もなかなかオトボケが効いた演じっぷり。ただし中村玉緒は、悪くないけれどオリジナルの入江たか子が持っていたディグニティー…気品のようなものが今ひとつ足りなかったような気もする。おそらくは中村玉緒がテレビのバラエティに出まくっているため、そのイメージがジャマしているからではないかと思うのだが、これはちょっと残念。鈴木杏も…最近ちょっと育ち過ぎちゃったかな(笑)という感じがあるので、少々「お嬢様」になりきれなかったきらいがなきにしもあらずだ。この二人に関しては、楽しかったけれどちょっと残念という感じだろうか。

 それより何より注目したいのは、佐々木蔵之介の押入れ侍だ。オリジナル版では小林桂樹が演じて、実は映画の一番オイシイところをかっさらってしまった感がある押入れ侍。これを今回は「間宮兄弟」(2006)で森田芳光と組んだ佐々木が演じて、これはこれでこの人ならではの押入れ侍にしてしまっている。オリジナル版では何事につけても激しくギトギトの黒澤作品にあって、一人お茶漬け風味のようなサラッとしたフツー人らしさを醸し出していた小林桂樹だが、この佐々木も小林とは違った独自性を出しながら、やっぱり他と一線を画したフツーの人の空気を漂わせていたのがいい。ひょっとしたらオリジナルと拮抗できる楽しさを見せていたのは、この押入れ侍だけだったかもしれない。

 それ以外については…意外にも健闘していたとは思うが、残念ながらオリジナルの素晴らしさに及ぶには少々力不足…というのが正直なところだ。これは少々比べるのが酷だし、比べたらフェアじゃないかもしれないが、正直言ってそうだから仕方がない。そして、それは「あの素晴らしいオリジナル」に対する「神聖にして犯すべからざる」気持ちだとばかりも言えないからツラいのだ。

 実際にそれを感じてしまったのは、三十郎が室戸半兵衛をダマして敵の屋敷に潜入し、捕らえられた若侍たちを助けるくだりを見た時だ。

 三十郎が一芝居打って、まるで大勢の軍勢が襲撃したかのように見せかける一幕。オリジナル黒澤版を見た時には感じなかった脚本の穴が、今回のリメイク版を見て初めて露呈した。屋敷の全員が皆殺しに遭っているのに、何で腕っぷしが強い三十郎だけが殺されず、しかもまんまと生け捕りになっていたのか? これは誰が見てもオカシイ。しかも三十郎のクサい芝居に、切れ者であるはずの室戸が二度も引っかかってしまうのが奇妙ではないか。

 ハッキリ言って僕は、これを森田芳光のせいにしては気の毒だと思う。これは脚本に元々あるキズだ。徹底的にツメて完璧を期した黒澤脚本でも、ある時には穴ぐらいある。ただこれを映画に撮る時には、黒澤のパワフル演出があった。何より三船敏郎が豪快に演じきって押し切ってしまった。僕はこの場面については、主演スターの馬力で乗り切ってしまった力業だと思うのだ。そうなると…好演はしているものの、やっぱり織田三十郎は頑張っていたけど今ひとつパワーが足りなかったと言えるかもしれない。

 さて、先に述べたように、黒澤作品のトレードマークである「ワイプ」を排除してしまった新「三十郎」。しかしそれ意外での森田の演出面でのアプローチは、これまた意外なまでにオリジナルに忠実だ。元の脚本をそのまま使っただけでもリメイクにしては「異例」なことだが、演出スタイルにおいても森田は「変える必要がないところまで変えることはない」…という基本方針を貫いている。何しろオリジナルと全く同じアングル、同じ構図のカットが次々と登場するのだ。これは明らかに先人に対するリスペクトであると言っていいだろう。

 それと同時に、何も無理にいじくらなくても自分なりのオリジナリティーは発揮できる…とでも言いたげな、森田の自信たっぷりな態度だともいえる。で、実際にそれは正論だと思うのだ。同じ脚本でも演出の仕方によっていろいろな解釈が生まれる…それこそが「演出」というものではないか。

 残念ながら…またまた引き合いに出して申し訳ないが、「日本沈没」リメイクを手がけた樋口真嗣には、まさにそれが分かっていなかったように思う。肝心要の「変えなくてもいい」ところをいじり倒したあげく、オリジナルの台詞を変なところで残して、「オマージュ」を捧げたつもりになっているあたりのセンスのなさには呆れ果てた。そんなことをやっている場合ではないだろう。そんなものは自己満足でしかないのだ。

 だが、いかにオリジナルに忠実とはいえ…ハッキリと分かる演出面での相違点もいくつか指摘できる。

 そんな中での最大の相違は、途中とラストに出てくる三十郎の立ち回り場面だろう。ひとつは屋敷の番人たち21人をバッサバッサと斬り捨てる場面。オリジナルは三船の大迫力の殺陣が見どころの名場面だが、今回の織田三十郎は、これを息も絶え絶えになりつつ演じているのが特色だ。

 実は正直に言うと、傑作であるオリジナル版の中で、僕が唯一疑問を感じていたのがこの場面。確かに展開上どうしようもない設定だったし、最後に三十郎に「無駄な殺生させやがって」と言わせてもいる。三船のアクションだってスゴイの一言だが…とはいえこれほどの大殺戮を見せるのは、明朗時代劇としてはいかがなものかと思ったものだ。中には逃げようとしている、どう見ても悪事とは無関係な奴もいるのだ。何とも後味が悪いではないか。

 今回それを息も絶え絶えのヨレヨレなアクションに改変しているのは、その処理が適切だったかどうかは別にして、この映画の作り手の姿勢をある程度明確にしていると感じさせてくれる。すなわち、「いい刀はサヤに入っている」…「殺しは虚しい」「本当に賢明な態度は戦わないことである」というメッセージだ。

 こうしたニュアンスは、実は「椿三十郎」といえば「あのシーン」と言われるほど有名なラストの決闘場面においても顕著に現れている。壮絶な決闘後に三十郎は死んだ室戸の亡骸を丁重に扱い、オリジナルよりも後悔の念を強く見せている。これはたぶん、オリジナル版ではそれほど見られなかった味わいだ。

 「殺しは虚しい」「本当に賢明な態度は戦わないことである」…これは確かに、「いい刀ってのはサヤに入ってるもんですよ」という睦田の奥方の台詞で、すでにオリジナルの時点で打ち出されていたメッセージだ。だが今回はそれをさらに意識的に強調して、前面に押し出している。

 それはある意味で、大げさに言えば「9・11」以降の映画として…今日制作する必然性があると言ってもいい。後付けの理由ではあろうが、それならリメイクする意味もある。

 その点だけは、大いに評価しなくちゃいけないんじゃないかと思っているのだ。

 

見た後の付け足し

 そんなわけで、予想外に大いに楽しんだ今回の「椿三十郎」。だが「三十郎」と言えば常に話題になる、あのラストの決闘の改変についてはやっぱり気になった。

 今回リメイクにあたって、あのラストの血がドバ〜ッをやめたのは賢明だったと思う。最初の「椿三十郎」を世界が目撃してしまった後では、もはや同じことをやっても衝撃などない。それを上回る衝撃を…などと力んだところで、不毛なスペクタクルの増量にしかならないし、血をカラーで見せてしまう時点でエゲつないものにもなろう。「出血」をやめたのは正解だった。

 しかし、その代わりに森田芳光が用意したものに対しても、僕としてはいささか疑問を覚えた。

 何とあの決定的瞬間の直後に、決闘の模様をスロー・ビデオ風にプレイバックしたのだ。

 ここで僕が「スロー・ビデオ」と言ったのは、あながちムチャな例えではない。あの決闘場面の処理は、荒れた粒子のビデオっぽい画面づくりから言っても、明らかにスポーツ中継番組などの「スロー・ビデオ」もどきとしてつくっていることは明らかだ。しかも一回ライブ・アクションで決闘を済ませた後で、ご丁寧にもう一回「スロー・ビデオ」が流れる。シリアスな時代劇ドラマの中に…しかもこんな大事な勘どころの中に、あんなチープな演出を入れてしまったことに、僕は正直言って唖然としてしまった。

 しかし、それって単なる安っぽい思いつきなんだろうか?

 明らかに「これはスロー・ビデオですよ」と言わんばかりの映像でこれが挿入されているということは、ちゃんと作り手に確固たる意図があってやった事に違いない。

 かと言って、アッという間のアクションだから、ちゃんと観客に見えるようにスローでもう一度見せましょう…という「親切心」なのだろうか。そんなバカな。だとしたら愚の骨頂だが、まさかそんなことは考えられない。結果としては陳腐な印象を与えてしまった「スロー・ビデオ」演出だが、それには何らかの意図があったことだけは分かる。

 実はこの映画、あちこちにそれと同じような演出を見かけるのだ。

 一例を挙げれば、家老の睦田の屋敷に忍び込んだ三十郎と若侍たちが、物陰に隠れて屋敷の見張りの連中を観察している場面。黒澤オリジナルではシネマスコープ横長画面を駆使して、絶妙な構図ですべてをパンフォーカスで一発撮りしているのに対し、森田リメイク版はそれぞれアップ気味のアングルでカットバックして見せる。技術的な問題もあったのだろうが、ズバリ言って森田リメイクの手法は良く言えば「親切」、悪く言えば「テレビ的」…「説明的」とでも言おうか。これもある意味で観客への「親切心」というか、いちいちクドクド寄って見せていくというスタイルなのだ。

 さらに、せっかく睦田邸から単身逃げて来た腰元のこいそ(村川絵梨)が、悪漢の手勢の者たちを飲んだくれさせるために再び戻るくだり。彼女の退場と共に三十郎は「いい侍だ、オマエたちより頼もしいぜ」と皮肉を言うが、屋敷に戻ることを決意した時のこいそは、両手で拳をつくってファイティング・ポーズを見せるのだ。実はこれは黒澤オリジナルにはない表現で、まるで三十郎いわくの「いい侍」ぶり…凛々しさ勇ましさを、先に「絵解き」して見せるかのような演出なのである。これも観客への「親切心」と言えばそうだし、言い換えればクドい表現と言えなくもない。

 そして気になるのは、今回の「椿三十郎」が完全にコメディ演出を意図しているあたり。

 もちろん黒澤オリジナルも、彼の作品としては最もユーモラスでコミカルな部類の作品だ。ハッキリとコメディと言ってもいい。だがその演出と演技設計は、コメディのそれではない。むしろ基本的にシリアスで、シチュエーションがおかしいからマジメにやればやるほど笑ってしまう…という類の演出だ。

 ところが森田リメイク版は、「完全にこれはコメディとしてつくってますよ」的なコミカル演出であり演技設計。もう一度、前述の腰元こいその場面に立ち戻ると、オリジナル版は涙ながらに悲壮感たっぷりに戻っていく。ところが今回のリメイク版では、彼女は前述のごとくファイティング・ポーズをつくって勇ましく去っていくのだ。

 その意味で、一番この違いが出ているのが織田裕二の三十郎だ。

 時として、ハッキリとおどけたコメディ演技を見せてしまう。むろんオリジナルの三船三十郎もコミカルではあった。だが彼の演技は笑わせようという芝居ではない。ユーモアももう一捻りしたブラック・ユーモアで、結果的に見ている側が笑ってしまう…という類のものだった。それが今回は、ひねりのないストレートなコミカル味。

 これは確かに分かりやすいことは分かりやすいが、一方で説明過剰…とも言えるのではないか。

 実は、主人公のキャラクター設定にも同様のことが言える。先に述べたように、織田三十郎は意外にも好演だった。ただし、見ているうちに微妙なニュアンスの違いが気になって来るのだ。

 例えば冒頭の古寺場面の終わり近く、若侍に「カネをくれねえか」とせびる三十郎のくだりだ。三船三十郎は悪びれもせずズケズケと「カネをくれ」と言うが、織田三十郎はヤケに言いにくそう照れくさそうである。三船はカネをせびることを悪いなんて思っちゃいない風だが、織田はハッキリ後ろめたく思って恥じているように演技している。この違いは大きい。

 これほどのニュアンスの違いではないものの、三船と織田の演技印象が少々違うところ部分はあちらこちらに散見できる。若侍が思い詰めたように「死ぬも生きるも我々九人」と言った後で、三十郎が「十人だ!」と付け加える有名なくだり。織田三十郎は「仕方ねえ、ここは一肌脱ぐか」と言わんばかりの態度でいささかお節介気味に言う。そんなニュアンスは三船三十郎にも多少はあるが、三船の場合は終始表情が苦虫を噛みつぶしており、やけに機嫌が悪そうだ。見ようによっては単なる気まぐれで若侍に加勢しているようにも見える。だからどこか動機がミステリアスに見えて、それが中盤に若侍が三十郎の行動を疑う伏線にもなっているのだ(森田リメイク版では、だから若侍が相当のバカに見える。それはそれで解釈としては「アリ」なのだが)。

 つまり織田三十郎は、カネをとる時でも後ろめたそうに取る。加勢を買って出る時にも、「オマエたちが気の毒だから力を貸してやるよ」と言外に臭わせている。つまり、どう見たって疑う余地のない「いい人」なんである。実に分かりやすい。

 もっとも織田裕二という俳優に、屈折は似合わない。「踊る〜」あたりを見ていても、バカ正直が服着て歩いているような役しかやっていない。とても腹芸が出来るような俳優ではない。これは演技設定のミスというより、そもそも織田を起用した時点でキャラクター変更がなされたと思うべきだろう。ともかくニヒリストで偽悪者だった三十郎が、リメイク版ではより分かりやすい設定になっているのだ。

 これは一体何を意味するのだろうか。

 つまり…これこそが、今回の「椿三十郎」リメイクの最大の改変部分だとは言えないか?

 以前は引いたカメラ・アングルから撮影されていた場面が、今回は親切にアップの切り返しで撮影される。電光石火の壮絶な決闘は、ご丁寧にもう一回スロー・ビデオで反芻される。「正義の味方」であることは間違いない三十郎が、そのフテ腐れたシニカルな態度よりもおどけた態度の方を強調され、分かりやすい「いい人」として描かれる。これって何なのだ? つまりはオリジナル「椿三十郎」発表時の1962年当時よりも現代の観客の方が…ストレートに物事を描かないと理解できない…微妙なニュアンスは分からないってことなんじゃないのか?

 例えば三十郎が「カネをくれ」と発言しながら実は無欲である所以は、彼が井坂からサイフを受け取りつつ、結構中味が入っていそうなそのサイフから、ほんの小銭だけ取って戻しているあたりで描かれているはず。それはもらいにくそうに恥ずかしそうにカネをもらう…なんてクドい演技・演出よりも、ずっとソフィスティケートされた表現だった。しかし今回のリメイクで細心の注意を払って無駄な改変を避けた森田が、あえてこのようなアレンジを行ったということは、この変更は「必要」なものだと判断したからだろう。つまり…こうでもしなきゃ「今の連中」には分からないということだ。

 だとすると、僕は暗澹たる気持ちにならずにはいられない。

 「椿三十郎」には、大きなテーマが2つある。ひとつは先に挙げた睦田の奥方の台詞に代表されるテーマ…「いい刀はサヤに入っている」だ。そしてもうひとつは…睦田が若侍に言ったとされる「人は見かけによらない」という台詞に象徴されるテーマだ。

 映画の冒頭から、若侍は見た目や先入観で頭が一杯になって、本当のことが見えなくなっている。賢人だった睦田を愚者だと見なし、悪人の菊井を有徳の人と思い込んだ。わざわざそれを忠告しようと出てきた三十郎に斬りかかろうとし、さんざ世話になった後まで疑った。見張りが三人の時より一人の時が簡単に倒せる…と愚かな判断をして、危うくスゴ腕の室戸にかかっていこうとした。とにかく何から何まで軽率な判断を連発する若侍たちは、何がどうマズイと言って、常に「見かけ」だけで判断してその本質を理解しようとしないところにある。ズバリ言ってしまえば、目で見ているだけで頭を使おうとしていないのだ。

 それって、このリメイク作品の作り手が観客に対して想定したものとイコールではないか?

 シニカルだけど本当は「正義の人」のヒーローは、最初から「いい人」に描かないと分からない。ちょっと複雑な場面は、いちいちカット割りしてアップで見せなきゃ分からない。一瞬のアクションは、後でスローで繰り返さないと分からない。ハッキリ目で見て分かるように描かないと全く理解できない。

 「ニュアンス」とか「行間」を読まない。物事の「真実」や「理由」を読まない。人の「気持ち」や「立場」を読まない。いや、読めない。読もうとしない。

 読むのは、セコく立ち回るためのその場の「空気」だけ。

 「三十郎」が40年以上の時を超えて生まれ変わった今、若侍に仮託して描かれた「愚かさ」がいまや我々観客のものになってしまったとしたらどうだろう。これはまったく、シャレにならない事態ではないかと思うのだ。

 

 

 

 

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