「パンズ・ラビリンス」

  El laberinto del fauno (Pan's Labyrinth)

 (2007/11/12)


  

見る前の予想

 今年のアカデミー賞で6部門にノミネート。実際にとれたのは撮影とか美術などの技術賞だったが、それでもそれなりの存在感を示したのが、この「パンズ・ラビリンス」。何より今いちばんホットな存在の一人、メキシコのギレルモ・デル・トロ監督の新作と来れば、気にならない訳がない。

 案の定、ようやく日本でも公開されるやヒットしているようで、ちょうど仕事も忙しくなってきた僕はとても劇場に近づける状態ではなかった。それでもハリウッドでの出世作「ミミック」(1997)からデビルズ・バックボーン(2001)、ヘルボーイ(2004)…と見た映画は全部好きな映画だけに、決して見逃す訳にはいかない。何とか仕事にケリをつけると、早速劇場に飛び込んだ次第。

 

あらすじ

 昔むかし、地下にはウソも苦痛もない王国があった。ところがその王国の王女は、地上に憧れて王国を出ていってしまった。そして日の光に当たって記憶を失い、地上に留まらざるを得なくなったのだ。だが国王は、辛抱強く王女が戻って来る日を待っていた…。

 第二次大戦も終盤に差しかかっていた1944年のこと、ここはスペインの山奥。ある母子がクルマに揺られて山道を急いでいた。

 女の子は童話の本をいっぱい抱え込んだオフェリア(イバナ・バケロ)、母親はカルメン(アリアドナ・ヒル)。オフェリアの父親はすでに亡くなっており、未亡人となったカルメンはフランコ軍で対ゲリラ戦の指揮を執るビダル大尉(セルジ・ロペス)と再婚する道を選んだ。彼女のお腹には、すでにビダル大尉との赤ん坊が宿っている。母子はそのビダル大尉が待つ駐屯地へと、今まさに向かおうとしていたのだ。

 ただし、新生活を前にしたオフェリアの表情はすぐれなかった。彼女はどうしても新しい「父親」が好きになれなかったのだ。母カルメンが「生活のため」と妙に現実的に割り切っているようなことを言うのも気に入らない。いきおい本の世界に没入することが、目下のオフェリアに出来るただ一つのことだった。

 そんな山道の途中で、急につわりで吐き気を催すカルメン。仕方なく一行は一時停止。その間、オフェリアはちょっとだけクルマの外に降りた。

 すると、足下に奇妙な石のかけらがあるではないか。何やら不思議な文様が刻まれているような石。オフェリアが道の脇に目をはしらせると、そこにはかなり時代物の石碑が建っていた。そこには顔が刻まれていたが、ちょうど左目の部分にぽっかりと穴が空いていた。オフェリアがそこに例の石のかけらをはめると、あ〜ら不思議。ピッタリと穴が塞がるではないか。

 これは何やらカラクリではないかとオフェリアが思ったその瞬間、石碑の顔のあんぐり開いた口からパッとデカい虫が飛びだしてきた。それはカマキリ…いやいや、やけに大きなナナフシだ。ナナフシはブンブンと飛び回ってオフェリアを挑発するかのような態度を見せるが、その時ちょうど出発の準備が整った。

 かくして山奥の駐屯地へとやって来るオフェリアたち。待ち構えていたビダル大尉は、やっぱり冷ややかで好きになれない男だった。しかも「歩ける」と主張する母カルメンを高圧的に車椅子に乗せ、お腹の子を「男の子」と決めつける傲慢さ。もっともフランコの天下であるスペインで、軍のお偉いサンとくれば思い上がらない方が珍しかろう。

 そんなビダル大尉の前でオドオドするばかりのオフェリアは、当然のことながら冷ややかに扱われた。そんな彼女の救いは、暖かく接してくれた家政婦のメルセデス(マリベル・ベルドゥ)。だが、そんな彼女にはもう一つの顔があった。大尉の主治医フェレイロ医師(アレックス・アングロ)と共に、コッソリと反政府ゲリラに協力している「抵抗者」としての顔だ。今日も今日とて、フェレイロ医師はメルセデスに抗生物質のアンプルを手渡す。山奥に隠れたゲリラの仲間に、足に深手を負った者がいるのだ。そんな大人たちの密やかなやりとりを、ここに着いたばかりのオフェリアは多感な感受性ですぐに嗅ぎ取っていた。

 一方、ビダル大尉はやりたい放題。病気の娘のために夜中にウサギ狩りをしていた農夫父子を、いきなりゲリラの疑いでなぶり殺し。むろん濡れ衣なのは明らかだが、ビダル大尉にとっては冷酷に権力を行使することに意義があった

 そんな夜のこと、どこからともなくオフェリアの寝室に飛んできたのは、例の巨大ナナフシ。だがオフェリアはそれを妖精だと信じていた。そんなオフェリアは、ナナフシに本の中の妖精の挿し絵を見せる。するとナナフシが、みるみるうちに妖精に姿を変えるではないか。どうやらナナフシ=妖精は、オフェリアをどこかに案内したいようだ。

 羽ばたく妖精の後を追ってやって来たのは、駐屯地のそばの森の中。そこには古い迷路がつくられていて、オフェリアは奥へ奥へと導かれていく。迷路の真ん中には井戸のような穴があり、らせん階段で下りられるようになっていた。その底まで降りたとたん、暗闇の中でうごめくモノが見えて来るではないか。それはヤギのツノと身体を持った牧神「パン」(ダグ・ジョーンズ)。パンはオフェリアが実は「地底の王国の王女」モアナであると告げた。「昔むかし、地下にはウソも苦痛もない王国が…」

 だがパンは、そんな彼女を無条件で受け入れるつもりはなかった。「まずあなたは王女のままか、もうすっかり人間になってしまったか、試されなければなりません」

 オフェリアを試すための「試練」は全部で3つ。その機会はすぐにやって来た…。 

 

見た後での感想

 前述した通り、僕はこのギレルモ・デル・トロとは相性がいいようだ。

 ニューヨークの地下に巨大化して人間に擬態化した蛾が増殖するという「ミミック」は、単にSFホラーが好きだから見に行って、大いに満足した印象がある。今思えばミラ・ソルヴィーノの主演やスティーブン・ソダーバーグの脚本など超豪華なメンツ。公開当時さほど話題にならなかったのがウソのような「拾いモノ」映画だった。ただし、監督がメキシコ出身だとかそんな事はすぐ忘れちゃったし…いわんやギレルモなんて名前すら覚えちゃいなかった。

 だから「デビルズ・バックボーン」が公開になって、これが「ミミック」の監督の作品と知った時の驚きたるや。僕はデル・トロの事は完全に忘れていて、うっかり「ミミック」はアメリカの若手監督の作品だと思っていたし、「デビルズ・バックボーン」はアレハンドロ・アメナーバルあたりのスペインのホラー・ニューウェーブ作家がつくったものと最初は思っていた。だから、たまたま「デビルズ・バックボーン」を見に行こうと思った自分の嗅覚に、すっかり自信を持った次第だったわけだ。もっとも、それは白状すれば「たまたま」の偶然だったのだが(笑)。

 で、「デビルズ・バックボーン」を見た僕は、その独特なムード…孤児院の庭に不発弾が刺さっている光景や地下の濁った水槽など、思わず惹きつけられてしまうような設定の妙に感心した。そして、かつてのデビッド・クローネンバーグなどにも見られた、「悲しみ色したホラー」の味わいを堪能した。この監督のセンスのすべてが気に入ったわけ。

 ところがこのデル・トロ監督、次にはハリウッドでアメコミの映画化に取り組むと聞いたから二度ビックリ。大丈夫なのか…と耳を疑ったのも事実。ところがその作品「ヘルボーイ」は、凡百のアメコミ映画とは一線を画する出来栄えだった。何より気になる若手女優セルマ・ブレアの、どこかどんよりと暗く湿った個性をうまく活かしたあたりがタダモノではない。さらに、主要登場人物の感情を描くデリケートな手つきが気に入った。やっぱりこの監督の映画は好きだなぁ。

 そこで今回の「パンズ・ラビリンス」…となるわけで、オスカー授賞式での高評価などなど、期待するなという方が無理な感じだった。

 ただし、実は見る前に少々不安がない訳でもなかった

 今回は幼い少女を主人公にしたファンタジー。どうも庭の穴みたいなところから異界に迷い込むらしく、どこかダークな味付けがあるらしい。そこまで聞いたら誰だって、この作品が少なからず「不思議の国のアリス」に材をとっていることは想像がつくだろう。

 だけど、日本のテレビや映画で「ミュージカルのパロディ」というと、どいつもこいつもバカの一つ覚えみたいに「雨に唄えば」のパクりを見せるように、少女のダーク・ファンタジーというと「不思議の国のアリス」っていうのは、ウンザリするほどワンパターンな「お約束」アイテムだ。それって、まるで「海水浴場とスキー場の食堂のメニューはどこへ行ってもカツ丼とラーメンとカレーライスだけ」というのと同じくらいウンザリさせられる陳腐さ、安っぽさだ。

 「ミミック」で凡百の都市伝説ホラーを粉砕するような素晴らしいイメージを見せたデル・トロ、「デビルズ・バックボーン」で孤児院の庭に不発弾…という卓抜した設定を実現させたデル・トロ、「ヘルボーイ」でワンパターンなアメコミ映画に鮮度を吹き込んだデル・トロ監督が、何でまたそんな陳腐な設定を選んだのか…と、正直言って見る前に少々躊躇しちゃったのが正直なところ。やっぱりデル・トロもちょっと日和っちゃったのかなぁ。

 そんなことを思いながらスクリーンと対峙したのは、すでに公開されてからかなり経っていたある日のこと。しかも大ヒットで混んでいるのを恐れて、東京から離れたある地方都市での鑑賞となった。上映は夜8時からの最終回。何度も来ている街とはいえ、自分が慣れ親しんだ場所ではない土地で、夜のガランとした映画館での鑑賞。途中から何人かお客がやって来たものの、最初は「オレの貸し切り状態か?」と思ってしまうほどガラガラの館内に、気分はすっかりどんよりとして来て「ミミック」「デビルズ・バックボーン」などのデル・トロ映画のモードだ。

 いやいや、もったいつけずにハッキリ言おう。

 やっぱりデル・トロは今回もやってくれた。それも、今までの彼の映画も素敵だったが、今回はそれらにも増して素晴らしい出来栄えだ。ワクワクするような設定や趣向、描写の連打なのだ。

 まずは主人公オフェリアが、足下に落ちている石のかけらを手にするあたりから嬉しくなる。

 石のかけらがあったら、それがちゃんとハマるための母体がなくてはいけないと思ったら…ちゃんと近くに石碑があって、まるで「ローマの休日」(1953)でオードリーとグレゴリー・ペックが口に手を突っ込んだ石のコワイ顔みたいなのが刻んであるからまたまた嬉しくなる。デザインがいいんだよねぇ。で、その石碑の片目には穴が開いていて、これまたちゃんと石のかけらがハマるようになっているのが心憎い。石をハメたら絶妙なタイミングで、デカいナナフシが「ぴょん!」と飛び出してくるのもいい。思わず見ていて膝を叩きたくなる。そうだよ、こうでなくっちゃ…と言いたくなる設定だ。

 それというのは、例えば僕が岩波書店の「ナルニア国ものがたり」の本や「アーサー・ランサム全集」の本の表紙を開いて、そこに描かれている地図を見た時のワクワク感。火星人地球大襲撃(1967)を初めてテレビで見て、地下鉄工事現場から発掘された火星人の宇宙船に感じたドキドキ感。旧チェコの画家ペシェックが描いた天体イラスト本「月と惑星」を手に入れた時の、ページをめくる際のもどかしさ。あるいは土曜日の夕方に「ウルトラゾーン」という題名で再放送されていたSFテレビ・シリーズ「アウター・リミッツ」を見て、さまざまな宇宙生物やモンスターと出会った時のサプライズ。そんな…大人になってからは少々忘れかけていた、子供の頃の新鮮な感動にも似たものだ。

 最近じゃこんな感情はとんとご無沙汰ながら、例えば初めてセルゲイ・パラジャーノフの作品スラム砦の伝説(1984)を見た時に感じたのが「それ」だろうか。とにかく子供のような好奇心いっぱいのドキドキワクワク感なのだ。

 それでいて…それらは昨今のハリウッド製ファンタジー映画などとはチョイと違っていて、夢と希望などで彩られてはいない。若干の暗さや怖さやおぞましさがあり、そして「こんなのが好きと人に知られちゃマズイ」という気にもなってきそうな適度なアブノーマルさ、後ろめたい無意味さやくだらなさも含まれている。知ってる知ってるこの感覚。これは僕が昔よく浸っていた「あの気分」だ。

 たまらないなぁ。もう理屈じゃない。マクドナルドじゃないけど「I'm Lovin' It」と叫びたくなる(笑)。この時点で僕は、「オレ、この映画が好き!」と言いたくなった。

 ついでに言えば、そういう「いいなぁ」が実感として迫って来るので、例の「不思議の国のアリス」ワンパターン・パクり疑惑も気にならなかった。というより、もう十分この映画は「オリジナル」なのだ。見ている間は「アリス」なんて忘れちゃっていたよ。

 このあたり、引き合いに出しちゃ申し訳ないが、最近どうも調子が出ないテリー・ギリアムがやっぱり「アリス」を引用したローズ・イン・タイドランド(2005)とはひと味もふた味も違う。「ローズ・イン・タイドランド」を見た直後はどこかいけないのかよく分からなかったが、「パンズ・ラビリンス」を見た今ならあの作品の問題点がハッキリ分かる。ファンタジー気分…というよりドキドキワクワクで後ろめたい「あの感じ」が、今ひとつ醸成出来ていなかったということだろう。あるいは、あまりに生硬に「アリス」をパクっていて、まだまだこなれていなかったと言うべきかもしれない。その点でいけば、こちらの方がメンコの数が一枚も二枚も上手という感じだ。

 実はもうこれだけで感想を終えてもいいんだが、さすがにそれだけじゃマズイだろう(笑)。僕のような感情を共有できなかった人には、何が何だか分かるまい。だからといってこの作品は、「選ばれた人しか見れない」なんてデビッド・リンチのインランド・エンパイア(2006)みたいに「何様」でエラソーなことを言うような映画でもない。第一、僕のような感覚を持った事は別に威張れることではない(笑)。単に暗いオタクな子供だったというだけのことだ(笑)。

 仮に僕が先に挙げたような様々なワクワク感を共有できなかったとしても、それは別にその人の感性を疑わせるようなモノではない。単にその人はそういう感覚を持ち得なかったというだけのことだ。どうってことはない。しかも、この映画はそういう感覚に反応しなければ楽しめない映画という訳ではないと思う。そんな偏狭なチマッとした映画ではない。そんな狭く閉じた映画ではなく、もっと開かれた映画のはずだ。

 そして、そこがこの映画の優れたところであり、デル・トロ監督の新境地と言える点だと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 主人公が石のかけらを拾ったら、そこに訳ありげな石碑が建っている。庭のそばにはこぢんまりした迷路がある。枯れかけた巨木の根本には洞穴があり、そこには巨大なカエルが鎮座している。食卓に豪華なご馳走を用意して待ち構えている人食い鬼は、両手の平に目玉をハメ込んで、手をかざしながら追いかけて来る。そして風呂に浸かるように牛乳に浸かった、朝鮮人参を思わせるような植物の根っこ…。

 この卓抜した設定やコンセプト。思わず心の奥底に消えかけていた子供心や好奇心をくすぐられるイメージ。「デビルズ・バックボーン」の時も庭に突き刺さった不発弾や地下室の水槽にグッと来た僕だが、今回はそれを上回るイマジネーションの豊かさだ。これだけでもこの映画を見る価値がある。

 そして、この映画はそんな設定の特異さだけではなく、描写のていねいさ、語り口のキメの細かさでも際だっている。

 家政婦がエプロンに小刀をしまい込む描写や、ビダル大尉がていねいにひげ剃りをする描写が、執拗と言っていいほど何度も描かれる。アレがいずれ小道具として活かされるな…と思って見ていると、まさにその通りに使われる律儀さ。抗生物質のアンプルからカギ1本に至るまで、ちゃんと伏線として活かされていく。このあたりのていねいさには、かなり感心した。

 そして今回の作品は、「デビルズ・バックボーン」との強い関連を感じさせる。

 何より両者とも、スペイン現代史の暗黒部分に焦点を当てている点が共通する。それはもちろん、フランコ軍による共和国側の弾圧だ。そのファシズムや軍事独裁の割を食って苦痛を味わう子供たち…という点で、「パンズ・ラビリンス」は「デビルズ・バックボーン」の変奏曲的な意味合いを持っている。

 「デビルズ・バックボーン」では、子供たちは殺されキズつけられ苦しめられるだけではない。お話としては悪人は倒され恨みは晴らされて「めでたし」とも言えるのだが、実はそれは子供たちの手を汚してしまうことにもつながっている。無垢の喪失という点で、それは決してハッピー・エンディングとは言えない。

 同時に「パンズ・ラビリンス」も悲劇的ともハッピーエンドとも言えない、何とも複雑な後味の幕切れを用意している。ある意味では、「デビルズ・バックボーン」の結末より以上の残酷さと言えなくもない。この絶妙なさじ加減こそが、デル・トロ監督の非凡なところなのだ。

 そもそも、先にも述べたように…この映画のファンタジーは夢と希望などで彩られてはいない。それは、結末の微妙さだけではない。描写そのものからして、とても甘く楽しいとは言えない。

 例えばオフェリアが第1の試練で入り込まなくてはならなくなる、大木の根本にある洞穴での描写を見よ。泥だらけでデカい虫がウヨウヨ。おまけに奥にはジャバ・ザ・ハットをもっとリアルにしたような巨大カエルがでんと居座っている。おまけにこいつを退治したはいいが、死んだとたんに腹わたを口から吐き出す気色悪さだ。そもそもオフェリアに試練を与える「パン」からして、何となく不気味なヤツではないか。あいつが善玉かどうかなんて、全く保証できない。とても「お友達」になんかなれそうもないヤツなのだ。

 現実場面でもグロさについてはどっこいどっこいで、捕まったゲリラの男が拷問されたあげく、片腕をボロボロにされるあたりは正視に耐えない。ビダル大尉がカミソリで口を裂かれるくだりも、悪人がやっつけられるカタルシスはあるものの相当に痛そうだ。おまけに、ビダル大尉が自分でこの口を縫うというオマケつき。いやはや、その痛そうな事ったら…スタローンの「ランボー」でのキズ手当て場面の比なんかじゃない。イテテテテ…。

 そのあたりは…例えば「赤ずきん」の話が本当は結構残酷だったりするように、むしろこのグロさエグさこそがファンタジー「本流」なのだろう。申し訳ないが、そのあたりスターダスト(2007)などはどう頑張っても太刀打ちできない。ファンタジーの「甘い」部分だけいくら増量しても、この豊かさは絶対に得られないものなのだ。

 絵空事だけ並べてもファンタジーになる訳ではない。ギレルモ・デル・トロ監督はそのことを誰よりもよく知っているのである。

 

付け足しの付け足し

 この映画のもう一つの大きな点は、ファンタジー部分と現実部分をパラレルに描いているところ。その現実部分を占めるのが前述した「ファシズム」だ。

 この両者はまるで鏡のこちら側と向こう側のように描かれる。そして、そこでのキーワードが「魔法なんて存在しない」という言葉だ。

 で、僕は「魔法は存在する」と言うのかと問われれば、さすがにそんなバカなことは言わない。むろんそんなモノは存在しない。だが、現実と非現実の対比の例として、この作品でファンタジーの対極に「ファシズム」が置かれたのは、ひどく興味深いことのように思われる。

 この映画では、主人公オフェリアはおとぎ話の本が好きな夢見る少女として描かれる。それはある一面から見ると、現実逃避をしていると思われるかもしれない。確かにそう思われても致し方ない。おそらくこの少女が現実に今の我々の世界に存在して、同じような言動をしていれば、心理学者も精神科医も教育者も一様にその結果の是非はともかく「現実逃避をしている」と断定しているだろう。

 そうなると、彼女が経験するパンや妖精とのやりとりや巨大カエルの洞窟での一件やら…そういった事一切合切が「妄想」という事になる。確かにそう思われても仕方がないし、実際そうだろうと思う。ラストで彼女は救われたと信じたいが、あれも最後の最後に自分に一抹の救いを与えるための悲しい妄想と考えるのが自然かもしれない。

 だがそんなファンタジーに対して、現実は本当に「現実」だと言えるのか?

 主人公オフェリアの母親は、しばしば彼女の言動を「現実逃避」であると非難する。その際の決まり文句が、例の「魔法なんて存在しない」という言葉だ。確かにその通り。そして、そんな「魔法」と対照的な事例として、自分の人生の選択に言及する。

 それが、ファシスト集団の「いい顔」であるビダル大尉との再婚だ。

 これは言外に、ビダル大尉が好ましい人物だから再婚したのではない…ということを意味する。ましてビダル大尉の政治的ポジションやスタンスに共感したからでもないだろう。自分はか弱い女で娘を抱えている。経済的にも厳しく、フランコ政権下で厳しい社会情勢のスペインでは、彼女一人で頑張っていくことは困難だ。だから「現実的選択」として、彼を選んだ。彼の庇護の下に入った。この時点のスペインなら、ビダル大尉は経済的にも社会的にも彼女たちに「安心」を約束できる選択肢だった。

 だがその結果はどうだったかと言えば、「安心」とは真逆の方向にいってしまったと言わねばなるまい。言いたいことも言えず、ビダル大尉の高圧的な姿勢に服従しなくてはならなかった。そこに暖かさなどカケラもなかった上に、しまいには「安心」どころか究極の過酷な運命にまで追い込まれてしまう。「自分と娘のため」を思ったはずの選択が、完全にアダとなってしまった。こう見ていくと、母親の言う「現実的選択」とはちっとも「現実的」ではなかったという事にならないか。

 「現実的」ではない…ということ、それすなわち「ファンタジー」ではないか。

 ここで描かれる「現実」が「軍国主義」や「ファシズム」吹き荒れる社会なのは、決して偶然ではないと言い切れる。なぜなら「そっち」の陣営の人間たちは、しばしば自分たちを「現実的」に考える人間だと自称しているからだ。理想主義的な発言をする人々を「夢物語」だの「妄想」だのと批判し、「われこそは現実的」と主張する。そんな「甘っちょろい」考えじゃダメなんだ…と。

 むろん…正直言ってそこで批判される理想主義は、時に本当に非現実的なこともあるだろう。ハッキリ言って「キレイごと」で「妄想」でしかないこともあるだろう。だから僕はそれらを完全に肯定もしないし、そっち側の人々に与しようとも思わない。

 だが一方で「現実的」選択をすると主張している人々の「現実」というヤツにも、いささか疑念を感じないではいられない。

 いささか生臭い話で恐縮だが、ひと頃ちょっと話題になった核武装云々の話がそうだ。核廃絶なんてファンタジーで、むしろマトモに考えると核武装こそ現実的な考え方だ…。一時、そんな論議がまことしやかに語られていた。だが…果たして、核武装を考えることの方が「現実的」なのか? それで安全が保たれるなんて考える方が、よっぽど夢物語の「ファンタジー」じゃないのか。

 さらにその「現実」とやらが一人歩きしていくと…自分たち側はいつも正しくて、悪くて間違っているのは全部相手の方だと罵るようになる。残念ながら昨今では、あっち側もこっち側も向こう側もどこの誰もがみんなそんな調子だ。そう言えば、この手の主張の中で「言うべきことは言う」という言葉を聞くことはあっても、なぜか「聞くべきことに耳を傾ける」という声を聞いたことはない。なぜだろう。それってホントは「言うべき」ことを言う…のではなくて、「言いたい」ことを一方的に言ってしまうってのがホントのところじゃないのか。それじゃゴロツキの言い分と変わりがないだろう。

 コワモテにタフガイぶって問題が解決したためしなどない。それに、むしろネゴシエーションこそ本当のタフさが要求されるモノではないか。「現実的」とはむしろこちらの方だろう。

 大体どっちに転んでも、一方的にどっちが悪いどっちが正しいということ自体が、「現実的」でない一種の「ファンタジー」ではないのか。

 実はそっちの方が「甘っちょろい」妄想ではないのか。

 だが痛みの実感が遠く忘れ去られようとしている時には、人々はファンタジーの「甘さ」にこそ惹かれる。だとしたら、人はそちらの方こそを「現実的選択」と信じたくなってしまうのではないか。

 この映画の目を背けたくなるグロさとは、ビダル大尉が自分で自分の裂けた口を縫う場面などではない。人が時として「現実」と「ファンタジー」をテメエの都合で取り違えたがること、そして真の現実に目を背けて「逃避」する愚かさこそが、究極のおぞましいグロテスクさなのだ。

 

 

 

 

 

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