「ファウンテン/永遠につづく愛」

  The Fountain

 (2007/08/13)


  

見る前の予想

 (1999)でセンセーショナルな登場をしたダーレン・アロノフスキーの、レクイエム・フォー・ドリーム(2001)以来の新作登場。

 常にクセの強い作品を手がけるこの監督だけに「今度はどんな刺激的作品か?」と身構えたが、今回の作品のお話は…伝え聞くところから想像すると、これまでのモノと比べれば比較的おとなしめに思えた。

 天才的科学者が不治の病の妻を救うために、治療法を必死で探そうとする。その探す過程がSFXを交えたSFタッチで描かれる…。

 確かに多少ユニークな題材ではあるが、少なくとも「レクイエム・フォー・ドリーム」のあの衝撃は感じられなかった。割と正攻法のお話ではないのか。

 ところがすでに見た人からは、何とも奇妙な反応が伝わって来た。「いい」とか「悪い」ではなく、ともかくかなり「変わった映画」らしいのだ。「変わった映画」と言えば「」も「レクイエム・フォー・ドリーム」も相当に変わった映画ではあったのだが、今回の作品はそんな程度の変わりようではないらしい。しかし聞いているようなお話の映画で、何をどうやったらそんなに変われるのか。

 何より僕は、見た人の当惑した様子に注目せざるを得なかった。そうなるとすごく見たい。ある休日に慌てて映画館に駆けつけた僕だが、そこで見たのは劇場から伸びる長蛇の列。とてもこれから並んでこの回の上映を見れる雰囲気ではない。

 えええっ、これってそんな「カルト」みたいに注目されてる映画なの?

 ますますこの映画に興味を持った僕は、翌週に満を持して再度劇場を訪れた。ところが今度はまるで潮が引いたみたいに客が少なくなっていた(笑)のだが、これは一体どういうことなのだろうか?

 

あらすじ

 時代は中世。スペインの騎士トマス(ヒュー・ジャックマン)は野営のテントの中、一心不乱に祈っている。彼の心の支えは一個の指輪だ。それは、彼が忠誠を誓った美しいスペイン女王イザベラ(レイチェル・ワイズ)から託されたもの。それだけを拠り所に、彼は遙か南米まで旅してきた。

 ジャングルの中の一本道を行くトマスたち一行は、行く手に原住民たちの姿を見つけた。多勢に無勢。これより先には進めないと怖じ気づいた連中は、一人また一人と脱落して逃げ去ろうとする。

 「怖じ気づくな、前進しろ!」

 ところが逃げ去ろうとした連中の前に、別の原住民たちが立ちふさがる。何のことはない、彼らは挟み打ちされたのだ。こうして狭苦しいジャングルの小道で、トマスたちの絶望的な戦いが始まる。結局他の連中は次々と倒され、たった一人残るトマス。彼は覚悟を決めて、原住民たちに最期の突撃を敢行する。だが、所詮太刀打ちできるわけもない。彼は原住民たちに捕まえられ、身動きできぬまま運ばれていく。

 そんな彼の姿を、派手な羽根飾りを身につけた原住民たちのリーダー(フェルナンド・エルナンデス)が見つめていた。

 やがて原住民に運ばれたトマスは、目の前に石の階段があるのに気づく。その階段を上って遺跡の入口へと入っていくと、その先にあのリーダーが立ちふさがっているではないか。

 そして、リーダーの向こう側には、トマスが探し求めているものがあるに違いない。

 トマスは持参した古い短剣を携えて、目の前の原住民のリーダーに立ち向かっていく。だが逆に、トマスの方が腹を刺されてしまった。傷口から血が噴き出してくる。

 さらにリーダーは、手に持った松明をトマスの頭上に振り下ろした!

 スキンヘッドの男(ヒュー・ジャックマン)が、座禅を組みながら空中浮遊している。目をつぶって祈りに没頭する男は、ふわりふわりと浮遊しながら一本の大樹の根本に降り立った。そこは不思議な透明の球体の中。球体はその内部に大樹とその周辺の地面を収めたまま、遙かな宇宙空間を飛行している。スキンヘッドの男は、その球体の中で大樹と共に生きている。大樹はかなり年期が入ったもので、一見すでに枯れているようにも見受けられる。スキンヘッドの男は大樹に話しかけながら手刀でその一部を切り取り、口の中に入れた。

 「おまえを連れていくよ。決して枯らしはしない」

 そんなスキンヘッドの男に、ささやきかけるような女の声が聞こえる。「完成して…」

 ふと男が気づくと、そこには女(レイチェル・ワイズ)が立っていた。

 「雪が降っているわよ。外に行ってみない?」

 「今、仕事で忙しいんだ。またにしてくれないか!」

 苛立った表情で仕事中の机から顔を上げるトミー(ヒュー・ジャックマン)。その様子に、妻のイジー(レイチェル・ワイズ)の顔から微笑みが消えた。「じゃあ私一人で行くわ」

 「しまった」と思ったトミーが妻の後を追おうとした時、折り悪く彼の同僚のアントニオ(ショーン・パトリック・トーマス)がやって来る。「今すぐ来てくれ、いよいよ手術だ!」

 去って行った妻に後ろ髪が引かれる思いのトミーだったが、すぐに知的興奮がそれに勝った。もっとも、それもすべて妻のため…だったのだが。

 手術台には、すでに開頭されむき出しになった脳が見えていた。トミーは天才的な外科医で、現在脳腫瘍に関する画期的な治療法を探していたのだ。すでに腫瘍に冒されているこの脳で、それを何とか実現したいと願っているのだが…。

 しかし万策尽きて、脳を閉じるしかないところまで来たトミー。すると彼は、同僚に突然の思いつきを提案する。「南米で採取された植物の破片があっただろう? アレを使うんだ!」

 だがいきなりの大胆な発想に、同僚はみな戸惑う。中でも紅一点ベティ(ドナ・マーフィ)は反発をおぼえずにはいられない。「でも、アレの安全性はまだ確認されていません!」

 「構うものか。やるんだ、ガタガタ言うな!」

 こうなるとトミーは妙に思い詰めた様子で、人の言うことも聞かず暴走する。結局強引に未確認の物質を脳に注入し、トミーは何とか手術を終了させた。「よく頑張ったな」

 手術されていた患者…それは「検体」としてのチンパンジーだった。

 ここはさまざまな医薬品を開発する研究所。トミーはこの研究所の中でも注目株の一人だ。だが最近は何かと暴走が目立つ。彼の上司で長年の友人でもあるリリアン・グゼッティ博士(エレン・バースティン)も、そんなトミーに理解を示しつつクギを刺さずにはいられない。

 そんなこんなで疲れ切って帰宅したトミー。だがいくら呼んでも妻の返事がない。家の中のどこを探しても妻の姿がない。トミーはたちまち顔色を変えて、慌てて家中駆け回って妻を探す。すると、この寒空に開け放した窓から、妻イジーの笑い声が聞こえてくるではないか。安堵の溜め息をつきながら、トミーは窓の外のイジーの元に駆け寄る。

 彼女は窓の外に天体望遠鏡を出して、星空を観察していたのだった。「知ってる? マヤ族はこの望遠鏡で今見ている星雲の彼方に、“黄泉の国”があると考えていたのよ…」

 イジーの口から「黄泉の国」などと意味ありげな言葉を聞いて、複雑な表情のトミー。そんな彼はすっかり冷え切ったイジーを風呂に入れてやりながら、すでに彼女の身体には温度の感覚がないと知ってガクゼンとする。

 イジーは脳腫瘍に冒され、もはや死を待つのみ。そこでトミーは必死に、その治療法を探っていたのだ。周囲の人間が彼の暴走ぶりを止められないのも、そんな理由によるものだった…。

 

見た後での感想

 確かに、見てビックリの映画ではあった(笑)。

 巻頭でいきなりマヤ文明とスペイン人が出てくるのは、まだ分からないでもない。一種のリーインカーネイション(生まれ変わり)ものにするという作戦は、そんなにムチャな発想ではない。時をも超越する愛…を描く手段として、そういう設定は確かに使われないでもない。ところが、まだ映画が始まっていくらも経っていないうちに、またまたいきなり場面転換。すると、だしぬけにスキンヘッドのヒュー・ジャックマン(!)が座禅しながら空中浮遊と来る。これには驚くなと言う方が無理だ。

 まぁ、日本の僕らからすると、座禅で空中浮遊と言えば「ある男」を連想せざるを得ない(笑)。そのへんから過大に奇異な印象を受けてしまうのは否めないところだが、それにしたってやっぱりヘンだ。しかもこの空中浮遊男、一本の大樹と共に透明の球体の中に入って宇宙を旅しているという設定だから、ますます訳が分からない。いや、言いたいことは分かりすぎるほど分かるのだが、ドラマトゥルギーという点では歪んでいる。何となくビートルズの「リボルバー」のアルバムを聴いていて、いきなりラストの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」にブチ当たったような印象だ。「なんじゃこりゃ?」

 そしてようやく、現代の天才外科医とその妻のお話になる。言ってみればこれが最もマトモな設定のお話で、しかも本編の本筋とも言える部分なのだが、実はよくよく見ていくとこっちもそれなりに歪んでいるのだ。ヒュー・ジャックマン扮する医師が妻助けたい一心で暴走し、かなりイッちゃってる感じなのである。そんな、こっちはこっちでトゥマッチな印象が、見ている者に「この映画ってちょっとアブないんじゃないか?」という不安感を抱かせる。幸か不幸か、その予感はある程度当たってしまうのだ。

 実際の話をすると、リーインカーネイションだけで言えば映画としてそんなに珍しくもない手法だ。たぶん今まで何度も試みられたテーマではあろうが、つい先日もジャッキー・チェン主演のTHE MYTH/神話(2005)や、その原型と言ってもいいチャン・イーモウとコン・リー主演の「テラコッタ・ウォリア/秦俑」(1989)でこのスタイルが試みられている。いずれも「時を超越する愛」を描く手段として使われているのが常道だ。

 だが今回の「ファウンテン」は、リーインカーネイションのために物語が過去と現在を行ったり来たりするという訳ではない。マヤ文明のくだりは「現代編」に出てくる不治の病の女レイチェル・ワイズが書いた小説のお話とも言えるので、必ずしも「生まれ変わり」モノというわけではない。そうは言っても、何となく前世からの因縁を思わせる設定ではあるのだ。

 ただ、このエピソードの他にも例のスキンヘッドで空中浮遊(笑)の場面が出てくるので、いちいち理詰めでこの映画を語ると虚しいモノがあるのだが…ともかく、そんな「リーインカーネイション」ものとは似て非なるモノという印象がある。

 むしろ「現代編」を中心に、目的達成のために無謀な実験を続ける科学者を描きつつ奔放な映像を見せる…という点を注目するなら、科学者がタンクの中に溜めた液体の中に浸かってトリップを試み、生命の根元にまで遡っていく…という、アルタード・ステーツ/未知への挑戦(1979)のテイストの方が近いかもしれない。ウィリアム・ハート扮する科学者とその妻ブレア・ブラウンとの至上の愛が描かれる点でも、視覚的な部分の奔放ぶりでも、どこか一脈通じるところがあるような気がする。

 ただ、やはり今回の「ファウンテン」と比べると、「アルタード・ステーツ」はそれなりにキチンとスジが通っていた。「ファウンテン」には、どこか破綻しちゃった「トンデモ映画」の匂いがするのである。

 その意味では、むしろ天下の名脚本家・橋本忍が監督しながらムチャクチャに破綻してしまった日本映画「幻の湖」(1982)の方が雰囲気的には近いのかもしれない(笑)。琵琶湖畔にある現代の歓楽街・雄琴のジョギング好きのソープ嬢(当時はトルコ嬢と言っていたが)を主人公にしたお話だが、途中でソープ嬢の愛犬が殺されてから話が空転。戦国時代の悲劇を絡めながらラストにはスペースシャトルまで登場する「壮大」な物語には、確かに今回の「ファウンテン」に共通する「なんじゃこりゃ?」的ムードが充満していた。ただし、「幻の湖」の壊れっぷりはハンパじゃなくて、主人公の同僚だったアメリカ人ソープ嬢が実はスパイでアメリカ大使館に勤務していたり、愛犬を殺した犯人と出会った主人公が包丁持ってどこまでも突っ走ったり…と、もうほとんど発狂状態(笑)。さすがに「ファウンテン」はアブないムードこそあるものの、ここまでイッちゃってはいない。一部にこの「幻の湖」を過大に持ち上げる向きもあるようだが、それは「買いかぶり」というものだろう。ハッキリ言ってこの映画はマトモじゃない発狂作だ。

 だが…どこかでこの「ファウンテン」に似たような印象の映画を見たような気がしたなぁ…と思っていたら、あったあったありました。これまた日本映画というのが困ったものだが、何とマッチこと近藤真彦と中森明菜という当時恋仲ということで話題だった二人の共演作、「愛・旅立ち」(1985)が意外にも「ファウンテン」と激似ではないか! 何より中森明菜扮するヒロインが不治の病であるところが最大の共通項。彼女とマッチとの純愛をうたいあげるお話であることは言うまでもないが、劇中なぜかこの二人が空中を飛んだり、山が真っ二つに裂けたり、死後の世界が出てきたり…と、SFXを駆使した見せ場が出てくる「トンデモ映画」に変貌していくようなのだ。これについては実物を見ていないので偉そうなことは言えないのだが、予告編を見たり映画評を読んだりしただけでも「トンデモ映画」の匂いが漂っていた。何より「ファウンテン」と映画のキモの部分がこうも似ているというのは、単なる偶然とは言えないのではないか。

 ダーレン・アロノフスキーは、ひょっとして「愛・旅立ち」を見ているのではないだろうか(笑)?

 

破綻した作品(笑)ならではの魅力

 確かに「幻の湖」よりはマトモだと思うが、それでも「ファウンテン」のイッちゃってる感はかなりのものだ。

 そもそも「エデンの園」にあった生命の樹がどうの…という話はキリスト教の聖書のお話だろう。ところがそこのマヤ文明がどうしたこうした…という話が絡んで来る。なぜか彼らの神殿の彼方に、この生命の樹があるという珍妙ぶりだ。

 ここでヒュー・ジャックマン扮するスペインの騎士が全身お花畑になる(笑)というトンデモな見せ場が出てくるから笑ってしまうが、今度はこの生命の樹を伴っての宇宙の旅。このエピソードをどう解釈すればいいのか理解に苦しむ。

 そもそもこの手の話を理詰めで見ても仕方ないのだろう。ただしここで出てくるヒュー・ジャックマンがスキンヘッドに座禅、空中浮遊…という東洋思想丸出しの出で立ちなのは、またまた珍にして妙な風景だ。「エデンの園」とマヤ文明とスキンヘッド・座禅・空中浮遊…って和洋折衷というか東西融合というか、「精神世界」的なアイコンを何でもかんでも加えたムチャクチャな闇ナベ状態というか…こんなシロモノをマジメに受け取れと言われても、正直言って困ってしまう。それともダーレン・アロノフスキーは、これが哲学的内容というものだと本気で考えていたのだろうか。

 何でもアロノフスキーはこの企画を当初ブラッド・ピット主演で考えており、かなりなところまで詰めていたという。ところがいよいよ…というところでブラピと決裂。結果、大型予算が組めなくなったため脚本を手直しし予算を縮小して、今回の作品になったという。なぁるほど、ブラピがその代わりに出た意欲作があのバベル(2006)だと考えると、何となくこの当時彼がやりたかったことの察しがつく。要するにブラピは、振れ幅と落差のデカいエピソードが同時進行する、スケール大きな大作に出たかったのではないか。それで「ファウンテン」を途中で降りたブラピは、ちょうど持って来られた「バベル」に乗り換えたのではないだろうか。

 そして今回ばかりは、ブラピの判断が間違っていなかったと言わざるを得ない。

 ハッキリ言ってお話は完全に破綻している。先に述べたように、一見「精神世界」を描いた風なアイコンはいっぱい並んでいるけど、それらは全く脈絡のないスピリチュアル・アイテムの羅列でしかない。「精神世界」をマジメに考えたとも思えない。ハッキリ言って酔っ払いの戯言に近いシロモノだ。これはおそらく、ブラピが降りて規模を縮小したから…ではないような気がする。元々かなりヘンだったと考えるべきではないだろうか。

 いろいろゴチャゴチャ詰め込んだ映画だが、正直言って言いたいことはそう複雑ではない。人は死ぬものだ。死に逆らうのではなく死を受け入れろ。死を受け入れれば、生もまた美しいと感じられる…。たぶんそんな事を言おうとしていたのは明白だ。ただ、そんなことはこの映画見なくても分かっちゃうくらいの浅い観念でしかない。さらに死別する人々の「痛み」を伝えるために、主人公男女の愛の深さを描きたいのだろうが、奇妙なほどそれは類型的で浅い描き方だ。ヒュー・ジャックマンの医師が妻を愛していて、何とか救いたいと思う…そういう設定であることは分かるのだが、それらが実感として伝わってくるかと言えば否としか言いようがない。何せこの主人公男女の関係は、ほんの上っ面でしか描かれない。だからムキになって新薬開発に邁進する彼が、異常な人物にしか見えて来なくなる。そして主人公男女の愛の描き方の浅さをカバーすべく、その愛がいかに深く、いかに永遠かを見せようとして…マヤ文明から宇宙まで引っ張り出したのだろう。

 それは、ある時は邪馬台国、ある時は宇宙の果て、ある時は地球の滅亡…と悠久の時と壮大なスケールで振れ幅でっかく描いていく、手塚治虫の「火の鳥」シリーズの構想にも似ている。「不死の命」を描こうという題材も共通している。まさかとは思うが…これは果たして単なる偶然なのだろうか?

 ただし「ファウンテン」の場合…元々の主人公男女の愛の描き方が取ってつけたような上に、何でマヤで何で宇宙なのか、何でスキンヘッドで空中浮遊なのか…という必然性が極めて乏しいために、単なる思いつきオンパレードに終始してしまっているのが残念なところだ。

 しかもこの映画、壮大なスケールの振れ幅のでかい物語…にも関わらず、なぜか見た印象はどこかチマッとしている。視覚的にそんな壮大なスケール感が乏しいのだ。

 一例を挙げると、スペインの騎士たちが迷い込んだジャングルの道の場面。前方・後方をマヤ族に挟み打ちにされるこの場面では、ジャングルはなぜかやけに狭っ苦しい場所に見える。おそらくこれは野外にロケしたのではなく、スタジオ内にジャングルをつくっての撮影だろう。そのセットの設計に難があったのか、何とも書き割りのように狭いのだ。

 さらにマヤの神殿を超えて生命の樹に出会う場面。ここに出てくる庭園のような場所の、それこそ文字通り箱庭のような狭さ。ミニチュア然として見えるから…ではないはずだ。なぜなら…例えば「スーパーマン」(1978)冒頭の惑星クリプトンを上空から見下ろすショットなど、ミニチュア然としていても「これは壮大なのだ」と作り手が見せている意図は伝わった。この庭園の場面に、そんな意図は元からなかったとしか思えない。

 それはレイチェル・ワイズ扮するイザベラ女王の宮殿からして同様で、どう考えても田舎の学校の教室ぐらいの広さしか感じられない。しかしセットが建て込めなくても、何とか巨大空間を演出でつくってしまうことはもうちょっと出来たはずだ。

 ブラピが降りて予算が削られたから…ではない。おそらく作り手には、これを壮大に見せようという気などなかったのだ。あるいはアロノフスキーという映画作家、この手のスケールでっかい空間を見せる技術に欠けているのかもしれない

 そしてそんな狭っ苦しいショボさが災いしてか、壮大なスケール感は空回り。おまけに単なる中学生の思いつきみたいな「精神性」アイコンを並べただけ。根幹の主人公男女の愛の描き込みは浅い。これでは残念ながら、成功作とはとても言えない。

 ただし…だからつまらないとは言えないから、映画ってやつは面白い。

 マトモな映画には到底出てこないし味わえない、ムチャな破綻ぶりはたっぷり楽しめる。チャチいけど楽しい手作り特撮も楽しめる。少なくとも僕はまったく退屈しなかった。

 そしてX-メン(2000)から一貫して怒るとサマになる男、ヒュー・ジャックマンの抑えがきかない暴走ぶりが楽しめる。この人って、こういう何するか分からないアブなさが魅力だ。それがたっぷり堪能できるのだから、ファンはたまらないだろう。

 しかも今回は、それが作り手ダーレン・アロノフスキーの姿と二重写しとなる。ブラピに蹴られても、脚本を書き換え予算を削っても、断念できずにムキになって創り上げた念願の作品。その結果がこれか…と考えると、アロノフスキーがなぜそんなにこれに思い詰めちゃったのか興味は尽きない。これがムチャクチャなトンデモ映画になることは、実は周囲にも本人にもかなり早い段階で分かっていたのではないか? どう考えたって、バカ映画にしかならない題材。それなのに作らずにはいられなかった映画作家としての「業」みたいなものに、僕は惹かれずにはいられないのだ。

 時として、ちゃんと出来上がった作品より、破綻した作品の方がずっと魅力的なことがある。この「ファウンテン」にそこまで言うのはあまりに過大な評価ではあるが、やっぱり興味がそそることは間違いない。少なくとも、僕には大いに見る価値はあった。

 

見た後の付け足し

 そんなわけで興味尽きない作品ではあるが、実際のところはアロノフスキーがこの作品で何をやりたかったのか…は今ひとつピンと来ないのも確か。だがその手がかりぐらいは、わずかながら作品に残されている。

 それはいよいよレイチェル・ワイズ扮する妻が発症して、病院に入院してしまうくだり。愕然とする主人公ヒュー・ジャックマンは周囲の何もかも目にも耳にも入らず、病院から出てきて一心不乱に街を歩く。そしてクルマの爆音や警笛の音に、フト我に返る瞬間の描写…がそれだ。

 実は僕はこれとそっくりの場面を、ある有名な日本映画で見たことがある。それは何を隠そう、黒澤明監督の「生きる」(1952)だ。

 主人公の志村喬が病院でガンを宣告され…実際には医者に直接言われた訳ではないが、その口振りからガンと察して…愕然として病院から出てくる。その時も志村喬は呆然として周囲に気づかず、危うくクルマにぶつかりそうになって我に返る。

 この両者が非常に似通っているのは、どちらも場面の最初で現実音をオフにしていることだ。いわゆる無音状態の中で、主人公たちは愕然と思い詰めながら歩いている。そこにいきなり現実音が割り込んでフト我に返る…という表現を行っていることでも、両者はまったく同じだ。

 そしてこの段階では、どちらの主人公も「現世の命」にこだわっている。

 この後、「生きる」の志村喬は、自らの生を全うすることで死を受け入れる。「ファウンテン」のヒュー・ジャックマンも、妻の死を自然なものとして受け入れていく…。

 見た目の奇妙さばかりが印象に残る「ファウンテン」ではあるが、実はその真の意図は黒澤の「生きる」あたりにあるのではないか…とも思えるのだ。

 

 

 

 

 

 

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