「傷だらけの男たち」

  傷城 (Confession of Pain)

 (2007/08/06)


  

見る前の予想

 あのインファナル・アフェア(2002)チームが再び結集。それで説明はいいか。

 ハリウッド・リメイク化されたディパーテッド(2006)のオスカー受賞で意気上がるこのチームが、今度はトニー・レオンと金城で一本つくったというわけなんだろう。何と早くもディカプリオ主演でリメイク化決定というオマケ付きだ。またかよ。

 金城にはいささか疑問符が付くものの(笑)、いい時にはそれなりに魅力を発揮する彼だから、今回もきっとやってくれるだろう。それに何よりトニー・レオンだ。僕は彼が出ていれば退屈はしない。

 トニー・レオンと金城だと、今度は全くの対等関係による対決ではなく、どんな男同士の構図になるのだろうか? そのへんも見どころと言えば見どころ。

 

あらすじ

 2003年、クリスマスの香港。華やいだ街の雑踏の中に、ヘイ(トニー・レオン)とボン(金城武)の二人の刑事が紛れていた。飲めぬ酒のグラスを片手に佇むボンに、「それじゃ余計目立つぞ」と笑いながら話しかけるヘイ。二人はヘイが上司でボンが部下という仲。それでいて親しい友人のような関係だった。そんな二人だから、ボンもついつい自分と恋人の思うようにいかぬ関係をグチる。

 しかし「いざ仕事」となれば、そんなリラックスした雰囲気は雲散霧消。その場のあちこちに溶け込んでいた捜査員たち同様、サッと持ち場について「刑事モード」に変換だ。

 彼らの今夜の獲物は、ケバい女を連れたチンピラ風情のいかがわしそうな男。この男が女とタクシーに乗り込むと、捜査員たちは一斉に動き出した。怪しまれぬようにバイクでクルマで…と順繰り順繰りに交替しながらタクシーを尾行。もちろんヘイやボンもその中に参加だ。途中、派手なクルマの事故に巻き込まれたので慌てたものの、ボンは自分の仕事をキッチリ終えて次の仲間にバトンタッチ。そんなこんなで、捜査員たちはタクシーが汚い建物へと辿り着いたのを見届ける。

 その一室に男と女がシケ込むや、ヘイとボンたちは武装して部屋に乱入。大立ち回りのあげく男を抑えつけることに成功した。では、女はどこに?…と思いきや、ボンは彼女が隣室のベッドに縛り付けられ、しこたま男の痛めつけられているのを発見。その姿をヘイに見せる。すると…それまで刑事にしては紳士的でスマートだったヘイの様相が一変。その場にあった鈍器でいきなりボコボコに殴り出す。凶悪な犯罪に対しては、狂気ともいえる怒りをムキ出しにするヘイであった。

 そんなわけで、シンドい仕事を終えて明け方帰宅するボン。恋人の待つ自宅に戻って、ベッドで眠っている恋人の傍らへ…と見るや、何と手に血がベットリと付くではないか!

 恋人は、手首を切って血だらけになっていた。

 知らせを聞いてヘイが病院に駆けつけてみると、ボンが服を血まみれにしてただただ呆然と佇むのみ。この日を境に、ボンの人生は暗転していく。

 それから3年。

 ボンは警察を辞めて、私立探偵になっていた。しかしその探偵業にも、身が入っているとは到底言い難い。かつては飲めなかった酒を昼間っからあおり、ダラダラと酔いどれている毎日だ。むろん恋人の死が原因なのは言うまでもない。自ら命を絶った恋人は、その身に新しい命を宿していた。なのに、なぜ…?

 死を前にして彼女は、連夜同じバーで酒を飲んでいたという。そのイメージが脳裏にこびりついて離れないボンは、自分も同じバーで飲んだくれて彼女の思いを共有したいと思っているのだ。だが、やっぱり分からない。

 そんなボンに、かつての上司であり友人だったヘイだけが同じように付き合っていた。

 ただしその私生活は、あまりにボンと対照的。富豪のお嬢様であるスクツァン(シュー・ジンレイ)と結婚を決め、順風満帆の毎日。そのスクツァンの父チャウ(ユエ・ホア)との会食の席ではさすがに緊張したヘイだったが、なぜか元々父を毛嫌いするスクツァンの前でもソツなく振る舞うヘイの態度に、気難しそうなチャウも、その側近としていつも傍らにいる執事のマン(ヴィンセント・ワン)もご満悦。一同の確固たる信頼を勝ち取った。こうして順調な新婚生活が始まったのだが…。

 好事魔多し。

 執事マンと暮らすチャウの自宅が、何者かに襲われた。賊はまずマンを殺し、次にチャウに迫る。部屋に置いてあった仏像の頭を掴むと、チャウの頭上に振り下ろした。恐ろしいことに賊は何度も何度も仏像を振り下ろし、チャウの頭を徹底的に粉砕した。そのやり口には、どこか異常な執念深さが漂っていたのだが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 犯行を終えた賊の一人は、クルマでチャウの自宅から立ち去った。しかしその男は…誰も見ていない場所で予想外の素顔を見せた。

 その賊は、チャウの義理の息子となったばかりのヘイだった…。

 翌日、事件が明るみになると、警察が捜査に乗り出した。むろん、スクツァンが大きな衝撃を受けたことは言うまでもない。そして警察は、意外なまでに呆気なく事件を解決した。

 犯人二人が隠れ家で死体で発見され、そこから盗み出した金や品々が見つかったのだ。この状況から、警察はごく単純に事件を推理した。犯人たちはお互い獲物を独り占めしようと画策し、結局同士討ちになったのだ…と。こうして事件は一挙に片づいたかに見えた。

 スクツァンは納得しなかった。

 生前はソリが合わなかった父ではあるが、それでも親には違いない。そして彼女が知っている父は、こんな殺され方をするような男ではなかった。チャウと執事のワンは、何をそんなに怯えているのか、いつも用心に用心を重ねて来た。当然、自宅にもみだりに他人を上げたりしなかった。だが、扉にはこじ開けられた形跡はない。何とも不可解ではないか。

 今日も今日とて飲んだくれているボンの元へ、スクツァンがやって来たのはそれから間もなくのことだ。

 彼女は事件に対して抱いている疑問を、そのままボンにぶつけた。ボンを探偵として雇い、事件を解決したいというのだ。事件の後、精神的に追いつめられたスクツァンもまた、酒に逃避する日々だった。そんな彼女を心配しているというヘイの頼みもあって、依頼を受けることにするボンであった。

 早速、ヘイの計らいで担当刑事でありかつての同僚でもあるチョイ刑事(チャップマン・トゥ)に、事件のあらましを聞くボン。すると、確かにいろいろ矛盾する点が出てくる。急に忙しくなって来たボンは、バーでビール会社の売り子をやっているフォン(スー・チー)とも親しくなっていった。

 そんな一方で、ヘイと頻繁に会っては情報交換をするボン。ヘイはそんなボンに、「自分は関係者であり容疑者となり得るから捜査からはずされた」と軽口を叩く。それにつられてボンも、ついついアブないジョークを口走った。

 「やったのはヘイかもな!」

 だが、そのうちそんなジョークがだんだんシャレにならなくなってくる…。

 

大絶賛「インファナル・アフェア」への複雑な思い

 「インファナル・アフェア」は娯楽映画の傑作である。

 改めてここでそんな事を言わなくてもいいが、僕はあえて言わねばならない。というのは、僕はそんな事実を知ってはいたが、この映画に今ひとつノリきれなかったところがあるのだ。

 むろん出来栄えの良さは認めるし、あの時点での香港映画界でどんな作品的ポジションにあったか分からないでもない。だが、どうしてもノレないものはノレない。

 どうしてかと言えば…それは至ってつまらない理由だ。

 何より見る前にあれほど「傑作」とカネや太鼓で騒がれては…相当面白くても気持ちが萎える。実際は、確かに「相当面白かった」のだが、それでもどこか天の邪鬼な僕としてはノリ切れなかった。

 何しろ香港映画の支持者たちの賛辞ときたら、いささか度を超していた。「コレを認めなければ映画を見る資格ナシ」「これは傑作だ、一切反論は許さない」「素晴らしいと言わなければ殺す」…的な持ち上げぶりに、正直言ってかなり辟易したのが本音だ。

 それに、これだけ面白いしホメられてもいるのなら、改めて僕がホメなくてもいいだろう…という気にもなった。

 ついでに言えば…この時、すでに三部作構成であることが分かっていて、すでにそれらを見た人たちが「三本見なければ分からない素晴らしさ」を得々と語っていたのも興ざめの一因だった。「それならこの一本だけ見たって仕方がない」…という気持ちにもなろうというものではないか。

 しかもこの時点で「一本で十分」な気分になっていたから、その後何度も「2」を見ていないのか「3」はどうして見ないのか…としつこく言われても一向に見る気にならなかった。その都度「忙しくて見逃した」とか言い訳していたけど、本当のことを言おう。アレは最初から見る気がなかった。神棚に上げられているようなモノまで拝もうとは思わない。神聖にして犯すべからざる領域である「インファナル・アフェア」は、どうも僕の手に余る。もう好きな人に任せようという気分だった。

 さらにこれがハリウッド映画化されると伝えられてからのブーイングも、あまりにヒステリックで僕には聞くに耐えなかった。むろん世間の人々が、これに猛反対したのは分かる。「この傑作を汚すな」と言いたいのだろう。僕もそれに近いことは思ったが、正直言うと少々違う気持ちも持っていた。近年低迷続く香港映画がようやく掴んだ成功作を、ハリウッドがそっくり持っていくなんて大人げないぜ…というのが本音だった。つまり「横綱は横綱らしい相撲をしろよ」と言いたかった(笑)。

 そして出来上がったリメイク作「ディパーテッド」に、日本の映画ファンがすこぶる冷たかったのは言うまでもない。僕もいささかこの作品には複雑な気持ちだったが、シリアスにつくってはいるがイマイチ面白味に欠ける近年のマーティン・スコセッシ作品としては、大衆的なケレンを持った「面白い」作品になっていると好意的に見たのが正直なところ。人種問題やらオールド・ロックの使用とかモラルへの言及とか、この作品がちゃんとスコセッシ作品としての意匠に彩られているのにも感心した。この映画は一部の「インファナル・アフェア」からの不当な批判にあるような、箸にも棒にもかからない愚作では決してない。特に僕の場合には、元々の「インファナル〜」に過大な思い入れがなかったことも幸いしたのだろう。僕はハリウッド・リメイク版「ディパーテッド」に、あまり悪い印象がないのだ。

 だが、その「ディパーテッド」の面白さのかなりの部分が、そもそも「インファナル〜」に存在したものだったのはいかがなものだろう。エンディングを除いてはかなり原典に忠実な「ディパーテッド」は、「それ故に面白い」という評価するのに困った部分を孕んでいるのだ。それって「ディパーテッド」にとっていいことなんだろうか。この作品でオスカーを受賞したマーティン・スコセッシって、それでいいんだろうか。

 それでも僕が「ディパーテッド」への激しい批判に反発を感じたのは、その根拠のひとつにかなりな違和感を感じたからだ。

 それは「トニー・レオンとアンディ・ラウが、ディカプリオとマット・デイモンなんてカス俳優に代わるなんて許せな〜い」…なんて、それこそ箸にも棒にもかからないミーハー批判のことではない。

 特に香港映画シンパの人々の多くは、「インファナル・アフェア」の「無間地獄」的テーマが、「ディパーテッド」にはなかったと文句を言っていた。あの「無間地獄」のスゴ味が、薄っぺらいハリウッド版にはない…というのがその言い分だ。

 正直言って未だかつてマーティン・スコセッシ監督作品が「薄っぺらい」呼ばわりされたのを聞いたことがなかったのだが、アメリカ映画の文脈の中では深みと質と作家性で云々されるスコセッシ作品が、不思議なことにこの香港映画との比較の中ではまるでマイケル・ベイ監督作品みたいな扱いになってしまう。しかも、その比較対照となる作品はエドワード・ヤンとかチャン・イーモウとかの映画じゃないのだ。香港映画の大ヒット作。確かに質的にも高いし良くできているが、あくまで大衆娯楽作品である「インファナル・アフェア」を捕まえてこういうのは、いささかおかしくないか。むろん僕はアート系作品が上で大衆娯楽作品が下などと言うつもりはない。しかもマーティン・スコセッシ作品だってインディーズのアート作品ではなく、ハリウッドの娯楽作品のひとつではある。だが、片方が「無間地獄」を掘り下げていて片方が「薄っぺら」というのは、この場合どうなんだろう。

 実は「インファナル〜」でも、「無間地獄」の度合いが真に迫って来るのは三部作通しての話らしい。だから三部作として見ていない僕には語る資格がない…という推論は成り立つ。だが、これって少々言い過ぎ…あるいはピントがずれてる話じゃないかと僕が思うには、それなりの根拠もあるのだ。

 片や「無間地獄」がちゃんと描かれていて片や「薄っぺら」というのは、つまり「人生」や「現実」の真実がリアルに描かれているかどうか…ということに落ち着くんじゃないかと思う。シビアであるともシリアスであるとも言い換えられるかもしれない。

 ところでマーティン・スコセッシ監督作品は、その「シビア」さと「シリアス」さで売ってきた映画だ。その典型こそが「レイジング・ブル」(1980)。理由は、映画を見てもらえれば分かる。

 そして「インファナル〜」は…少なくとも一作目を見る限りでは、脚本の構成の妙で見せる作品だ。善の側に悪の、悪の陣営に善の、それぞれ姿を偽ったスパイがいる。その闘争を鏡で映したように対称として描き出す。それは黒か白か、右か左か、マルかバツか…という、非常に象徴的な描き方だ。むろん象徴的であることが、人生の真実を描かないとは言えない。象徴によってこそ、それを効果的に描くことも可能だ。ただ、それは「リアル」な語り口とはちょっと違う。

 それは現実の混沌をリアルにそのまま描き出す語り口ではなく、整理して誇張した「0か1か」…という「デジタル」的な処理であるとも言える。逆に言うと、現実ではこんなに分かりやすい形では物事は現れないものだ。それを分かりやすく描くために、作り込んだ描き方をする。要は人為的計算の産物としての、「ウェルメイド」な作劇術で成り立っているのだ。もっと簡単に言えば、「ドラマ」の力、「作り話」の力で見せる作品なのだ。

 ここでスコセッシ作品の性質に立ち戻ると、彼の映画には曖昧さが多く介在しており、まさに「アナログ」な作品だと言える。そして本来だったら、「ウェルメイド」作品よりもスコセッシ作品の方が、「深み」があって「真実味」があると言われたものだ。しかも今回「インファナル〜」脚本を使ったからこそ、「ディパーテッド」は大衆的なケレン味を獲得した。ケレンとはすなわち「作り込み」…「ウェルメイド」な作劇術の産物だ。

 分かりやすく言うと、「インファナル〜」のような「ウェルメイド」な作品は、「構成の巧みさ」「計算の見事さ」「話術のうまさ」…といった技術的に優れている点をホメられるべきであり、本来、「深み」「真実味」云々はスコセッシ作品の方が言われるべき言葉だったのだ。だからこそ僕は、こうした評価に違和感を覚えたのだろう。

 むろん僕が言ったのは暴論・極論であって、実はこう割り切れるほど物事は単純ではない。「ディパーテッド」はスコセッシ作品としては異例なほど割り切った腹のくくり方をしており、明らかにいつもと心構えが違う。僕はそのへんの理由を、「インファナル〜」が元々持っている「鏡で映したような対称」的描き方に見出した。「インファナル〜」のこの部分は、天国と地獄(1963)などの黒澤明作品に顕著な「善悪の相似形」のパターンに極めて類似したものだ。そしてスコセッシは作風的には全く違っていながら、黒澤作品に憧れに近い感情を持っていた。そんなスコセッシの黒澤的アプローチの試みが、「インファナル〜」リメイクである「ディパーテッド」だった…と推論したわけだ。

 ともかく僕は、「インファナル〜」の魅力と美点の最たるものはその巧みな構成と設定にある…と今でも思っている。それはクラシックとまで言ってもいいほど、ガッチリとした揺るぎないモノだ。現実にはフランスのヌーヴェルバーグが台頭してきて以来、伝統的な「ウェルメイド」な作劇術の映画はめっきり少なくなってしまった。「作り話」の面白さを追求するよりも、リアルな現実感を追うことがストーリーテリングの主流になってきたからである。だが、やはりいつの時代も「基本」で「王道」なのは、しっかりと「ドラマ」づくりをした作品のはずだ。

 例えば駅馬車(1939)やタワーリング・インフェルノ(1974)、ダイ・ハード(1988)がそんな「ウェルメイド」映画の典型だと言えば、誰もがその言葉の意味をお分かりいただけるだろう。「インファナル〜」はそんなガッチリした構成の映画の、直系にあたる作品なのだ。久々に「ドラマ」の力を信じてつくられた作品なのである。

 閑話休題。そんな訳で僕は「インファナル〜」が素晴らしい映画だとは承知していながら、その大絶賛についていけないところがあった。世間の過大なまでの評価が、どこかピントはずれなベタホメのように感じられたからだ。コテコテの「作り話」の魅力を心ゆくまで満喫させてくれる作品なのに、まるで「人生の真実」をリアルに描いた映画みたいにホメている。この映画の本当の美点をとらえずに、メチャクチャに持ち上げられても素直に受け取れない。

 そんな「インファナル」の制作者チームがトニー・レオンを再起用しての新作を放つと来れば、期待しつつも複雑な思いをせずにはいられないのだ。

 このクリエイター・チームは途中に予期せぬ大傑作頭文字<イニシャル>D(2005)も放っているから、その腕の確かさは保証付き。それでも今回の作品がトニー・レオンを主演者に、その傍らに同格の共演者として金城を置いて、またまた刑事物…とくれば、何となくまたまた「インファナル〜」の変奏曲的意味合いを感じてしまう。

 ただありがたいことに、今回はあの怒濤のごとき大絶賛が沸き起こっていない。周囲は奇妙なことに静まりかえっている。それはこの映画の意外な不評を物語っているのかもしれないが、僕としては周囲の雑音を感じずに済んで好都合だ。今度は素直に楽しめそうな予感がする。

 

見た後での感想

 見ての通り。予想した通り、作り手は「インファナル〜」の成功再び…を狙ってつくっている。

 そして大方の人々が予感したように、この映画の出来栄えは残念ながら「インファナル〜」には遠く及ばないのも事実だ。

 トニー・レオンと金城を何らかの相似形として描きたいのは分かる。前回は警察の中の悪玉、ギャングの中の善玉。当然今回は同じことはやれないので、今度は両方とも警察陣営にして、途中で成功者とドロップアウト者に分ける。成功者が実は悪人、ドロップアウト者がそれを暴く。どちらも愛する者の死で人生を狂わせ、女への愛に悩む。どちらの男にも対称的な女をあてがう手法まで「インファナル〜」と同じだ。

 これぞ勝利の方程式…という監督アンドリュー・ラウアラン・マック、脚本のフェリックス・チョンの鼻息が聞こえて来そうだ。

 だが、今回は作劇法を少々誤ってしまったようだ。何となくお話に緊張感がない。復讐を巡る因果話は分かるのだが、それらが真に迫って来ない。ハッキリ言うとユルい。

 その根本はどこにあるか…と言えば、トニー・レオン金城武役者の「格」を見誤ったからと言ってしまったら酷だろうか。それが言い過ぎだったら、そもそもの二人の設定の曖昧さにあると言うべきかもしれない。

 そもそも二人が上司と部下という時点で、これは対等な関係ではない。だから「対称」にはなり得ない。ところが困ったことに、設定上なんとか拮抗する男同士の激突に持っていきたいから、この二人を「上下関係」なのに「友人」という変な間柄にしてしまった。だから二人の関係が、妙に曖昧なモノに変質した。

 トニー・レオンが、金城から追いつめられていく焦燥感が伝わらない。自分が目をかけていた部下に追いつめられたら切ないだろう、自分の親友に追われるのはツラかろう…だがこの映画では、二人の関係はその両方であり、かつ、そのどっちでもない。だからトニー・レオンが金城に追われる心情が伝わらない

 逆に金城が真相に迫るツラさも迫って来ない。尊敬していた上司の真の姿を知るのは苦しいだろう、親友の真実を暴きたくはないだろう…だが、やっぱり二人の関係が曖昧なのが災いしている。どっちつかずになってしまって、それこそツラさが「薄っぺら」で「上っ面」な描き方に終始してしまっている。

 そもそもトニー・レオンが殺しの犯人だといきなり最初から見せたのは、果たして得策だったのか? 途中で分かるならまだ違っただろうが、このせいででまるっきり緊張感のない映画になっちゃったんじゃないのか。何だかだらしない露出狂にいきなり元気のないイチモツをダラ〜ンと見せられた気がする(笑)。

 というわけで、いきなりアレコレとケナすのも何だが…正直言ってこの作品は成功作ではないと思う。ドラマ巧者揃いのスタッフが、少々計算違いをやらかした作品だ。

 では、これがダメ映画かと言えば…ちょっと違うんだな

 他の人が何と言うかは知らないが、僕にとっては「インファナル・アフェア」より好きになれる作品だ。それこそ映画ファンに「分かってねえな」と言われそうな感想だが、本当の事だから仕方がない。最近は僕の感想もあまり評判が良くなさそう(笑)だから、「またか」と思われるくらいで済むかもしれないが…僕はこの作品に結構好感を持った。

 そもそも、この映画にはあの押しつけがましい大絶賛がない(笑)

 これは冗談だが、何となく「インファナル〜」には「出来すぎ」的な入る余地のなさを感じてはいたのだ。キッチリカッチリつくられていて、面白いけど…僕のための映画って気がしない。アレはやっぱり熱心な人が神棚に上げる映画なのだろう。僕はそんなありがたい映画は遠慮したい。

 それに、何だかんだ言って今回の映画には、あちこち捨てがたい美点がある。

 酒にちなんだ、ちょっとシャレた台詞が散りばめられている。金城と恋人とのエピソードも、ちょっとひねった面白さがある。恋人が自分との愛に苦しんでいたとばっかり思っていたら、チャッカリ別の男をこさえていた皮肉。この映画にリアリティがあると言えば、唯一この部分だろうか。

 そして香港男優ナンバーワン、トニー・レオンの格好良さ。ダンディで紳士で、時折見せるキレた怖さもいい。元々この人は好きなんだが、今回は特にカッコイイ。トニー・レオンを見せる映画になっている。金城はヘタクソな酔っ払い演技もご愛敬。何だかポカリ・スエットでも飲んでいるみたいにゴクゴク飲んでるのもいかがなものかとは思うが…(笑)。

 素晴らしかったのは、金城の新しい相手になるスー・チー。僕は今までこの女優が苦手でしょうがなかったのだが、今回ホウ・シャオシェンの百年恋歌(2005)の第一話に続いて素晴らしいと思った。今回の彼女は、何とも可愛らしいのである。ただし、彼女は物語の本流には全く関わって来ない。実は後半など、いなくても支障がないキャラクターになってしまっている。このへんが、またまた脚本の計算違いと言わざるを得ないのだが…。

 そしてトニー・レオンに復讐される男の役で…大酔侠(1966)のタイトルロールの酔いどれ男や毒龍潭(1968)、空中必殺・雪原の血闘(1971)などの往年のショウ・ブラザース作品でおなじみ、ユエ・ホアが久々に顔を見せていたこと。ほんのちょっとの出番ながら、これは個人的にすごく嬉しかった。

 だが何より僕が気に入ったのは、この映画の作り手が「ドラマの力」を信じていることだ。

 前述したように最近の映画は、キチンとしたドラマをつくろうとしない。説得力や必然性に欠けているし、CGやSFXやジャンプ・カットやコマ落としなど映像の力だけで押し切ろうとする。ジャンルや約束事に無頓着で、面白ければ何でもアリにしてしまっている。断っておくが、僕はジャンルの越境やドラマの約束事を破ることが悪いとは思っていない。だがルールを変えるのも、まず基本を分かって押さえてあればこそだ。それがなければ、単なるメチャクチャでしかない。今の映画のドラマトゥルギーは、そのへんがやけに無神経で幼稚だと思える。

 しかしこの作品の制作者チームは、いつもその「基本」を極めようとしているのだ。

 だから失敗しても、その試みだけは買ってあげたいと思う。必ずしも成功ではない出来上がりも、決して虚しくバカげたものには思われない。いろいろ工夫の跡が見られるのも好感が持てる。それだけでも評価に値すると思うのだ。

 

見た後の付け足し

 そして今回、僕はこの映画を見て確実に収穫があった。この制作者チームの「創作の秘密」がチラリと見えたからだ。

 トニー・レオンが演じる「復讐者」は、親の仇を討つためにあえて敵のフトコロに飛び込む。その手段は敵の娘と結婚することだ。ところが復讐成就寸前に計画が狂う。彼がその娘を本当に愛してしまうからだ。その結果、彼は命を落とすことになる。

 このあらすじだけ読んで、あなたは何か別の映画を連想しないだろうか?

 骨子だけ見ると、この物語は黒澤明の悪い奴ほどよく眠る(1960)に酷似しているとは言えないだろうか?

 三船敏郎扮する主人公は、汚職事件の汚名を着せられ死んだ父親の復讐を果たすために正体を偽って仇である大物(森雅之)の秘書となり、その大物の娘(香川京子)と結婚して一人また一人と復讐を果たしていく。しかし結婚した娘に対して愛情が芽生えてしまったのが計算違いで、結局最も悪い大物を倒すところまでいかずに命を落とす。

 考えてみよう。そう見てみれば、類似点が他にもある。トニー・レオンは生き延びるために、卓球大会での対戦者の名前を借りている。「悪い奴〜」の復讐者・三船敏郎は、彼の協力者である加藤武の名前を拝借して敵に接近する。これについては、本作ではトニー・レオンが「名前も奪われて」…と自ら語り、「悪い奴〜」では最後に名前を貸した側の加藤武が「自分の名前はもう戻ってこない」…云々と語ることで、「名前を失う」という意味合いの重さがかなり強調されている。トニー・レオンと三船の両者がメガネをかけているのも、深読みすれば類似点ではないか。

 前にも語ったように、彼らのかつての作品「インファナル・アフェア」には、いかにも黒澤映画的な「善悪の相似形」が描き出されていた。そして今回の作品での「悪い奴ほどよく眠る」の引用。

 そう考えてみると…彼らの創作の原点には、常に黒澤映画があるのではないか。

 間に入る「頭文字<イニシャル>D」が「日本」のマンガの映画化だったことを含めて考えると…あるいは、あの作品は今風の「姿三四郎」(1943)あたりを狙ったのだろうか?…そこには非常に興味深いモノが感じられるのである。

 

 

 

 

 

 

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