「ゾディアック」

  Zodiac

 (2007/06/25)


  

見る前の予想

 デビッド・フィンチャーで、連続猟奇殺人の実話映画化。何となくピッタリの題材のようで、何となく「らしくない」映画のような気がする。

 でも、それを言うなら前作パニック・ルーム(2002)がまさにそうだろう。「パニック・ルーム」…いかにもフィンチャーらしい。そう思って見た作品自体は、意外なほど映像のギミックもケレンも破綻もない、割とカッチリとつくった普通のサスペンス映画だった。

 でも、それも当然かもしれない。何せその前にフィンチャーがつくったのが、ハジケるだけハジケてるファイト・クラブ(1999)ならばなおさらかも。次には多少、地に足のついた映画がつくりたい…って気持ちも分からぬでもない。

 ところで今回のこの作品、「猟奇殺人」とくればフィンチャーの出世作「セブン」(1995)がすぐに想起されて、なるほどフィンチャーらしい企画と思われるかもしれない。だが僕はむしろ、これが「実話」の映画化であることの方が気になった。

 フィンチャーが実話?

 しかも今まで比較的スターを好んで起用してきたフィンチャーが、ジェイク・ギレンホールロバート・ダウニー・ジュニア、そしてマーク・ラファロなんて地味どころを使うとは…! やっぱり実話だからか。てなわけで、一体どんな映画になっているのか予測不能。見るしかない。

 

あらすじ

 1969年7月4日、カリフォルニア州バレーホ。訳アリのカップルがクルマでデート。年上女が飯を食いたいというから連れ出したものの、結局シケ込んだのはカップルがクルマを停めてイチャつく定番スポットの駐車場。しかもちょうど邪魔者がいないという絶好のタイミングだ。

 ところがそこに、不気味なクルマが一台迫ってくる。すると年上女の方がすっかり怯えるではないか。実はこの女は人妻で、年下男をつまみ食いしているところ。だから、ひょっとして亭主にバレたのでは…とビビッたのだ。しかし、しばらくするとそのクルマは去ってしまった。これで一安心と思いきや…おやっ? またクルマか。

 すると、いきなり銃弾が次々飛んでくる!

 女はハチの巣にされて即死。男も撃たれたが一命をとりとめた。やがて警察に一本の電話がかかってくる。

 「やったのはオレだ」…。

 それからしばらく経った8月1日、サンフランシスコ・クロニクル新聞社に1通の手紙が届けられる。1ヶ月前のあの事件について告白した手紙だ。それだけでなく、それ以前…昨年のクリスマスのハーマン湖での殺しも告白していた。こいつは一体何なんだ?

 早速クロニクル紙のトップ記者ポール・エイブリー(ロバート・ダウニー・ジュニア)が呼ばれたのは言うまでもない。エイブリーが警察に電話をかけて裏をとると、確かに殺しは行われていた。しかも犯人でなければ知らないはずの細部を知っている。問題はこの犯人が手紙に暗号文を添付していること。そして犯人は、暗号文を新聞の一面に掲載しろ…と要求して来たのだ。

 「さもなければ大量連続殺人を実行するぞ」

 他の新聞の出方をうかがいつつ、クロニクル紙では一面ではなく三面で取り上げることにする。そんな編集部のドタバタの最中に、本来なら畑違いのマンガ担当ロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)が鼻を突っ込んでいたのは、単なる偶然でしかなかった。しかし元々パズル好きのグレイスミスは、この暗号文に目ざとく気づくと、その内容をすぐに書き写した

 やがてこの暗号文を解いた人物が現れる。それは専門家でも何でもない全くの市井の人物だった。しかし、それでも謎は残る。トップ記者エイブリーはマンガ屋グレイスミスが首を突っ込んで来ても相手にしなかったが、ある時グレイスミスが暗号の残りを解読したのを見て「仲間」に引き入れることにした。

 そんな中でも例の犯人からの手紙の挑発は続く。しかもこの犯人は自らを「ゾディアック」と名乗り、ゲーム感覚で連続殺人を実行し始める。

 9月27日にはベリエッサ湖の畔でデートしていたカップルが襲われ、ナイフでめった刺し。またしても男は命をとりとめたが女は息の根を止められた。この時の犯人は頭から黒頭巾をかぶった、何とも異様な格好だったらしい。早速その「似顔絵」を描き始めるグレイスミス。

 むろん警察だって黙って指をくわえていた訳ではない。サンフランシスコ市警のやり手デイブ・トースキー刑事(マーク・ラファロ)とその実直そのものの相棒マーク・アームストロング刑事(アンソニー・エドワーズ)が、この事件を必死に追っていたのだ。

 10月11日にはタクシーに客として乗り込んだ犯人が、運転手を射殺。この時には近所の二階からこれを目撃していた子供たちの通報で、早期に警察が駆けつけた。にも関わらず、情報の錯綜による初動捜査のミスで、みすみす犯人を取り逃がしてしまう。これにはトースキー刑事も苦虫を噛みつぶさざるを得ない。

 一方、グレイスミスは知人から紹介された女性メラニー(クロエ・セヴェニー)とデートするが、その席でもゾディアックの話に夢中。メラニーは自分に対して打ち解けてくれているとグレイスミスに好意を抱くが、それがそもそも誤解の始まりだった

 またスタンドプレーが過ぎるエイブリーはすっかり警察に白い目で見られるようになり、勢い余って犯人にも「次はオマエだ」と指名され、外面の強気とは裏腹に怯えまくる日々

 そんなこんなでサンフランシスコは連続殺人犯に戦々恐々だが、犯人像は一向に絞れて来ない…。

 

見た後での感想

 実はこれはごくサワリの部分でしかない。本編はこれからもっと情報が山盛りで出てくるし、いろいろ出来事も起きる。何より、これではまだ「怪しい」人物が出てこない。でも、それでいいのである。

 実はこの映画、見る前に予想されたような「猟奇サスペンス」映画ではない。実録事件モノとしても…実際の事件をリアルに再現しているのだから、そう言って間違いないのだが…実はちょっとこの映画の真の内容からハズれてる。

 何よりこの映画が描きたがっているのは、「猟奇殺人事件」や「殺人犯」ではないのだ。

 正直言って見る前までは、デビッド・フィンチャーがこってりと猟奇殺人や殺人犯の生態やら殺しの現場などを見せる映画だったらどうしよう?…とイヤ〜な予感がしていた。白状すると僕は「セブン」が大嫌いで、すごい映画だとは思うが二度と見たいとは思わない。そんな感じでやられちゃたまったもんではないというのが本音だった。かといって、あっさり風味の「パニック・ルーム」は、これはこれでモノ足りない。フィンチャーが普通の映画を撮っても仕方ないじゃないか…という気持ちが、心のどこかにあるのだ。

 ところが今回の作品は、見た目が意外とおとなしい。だから、最初の頃はまた「パニック・ルーム」かよ…とチラリと思われてしまうかもしれない。ところが、さすがデビッド・フィンチャーはそんな凡庸な作家ではないのだ

 すごく乱暴な話をすると…今回の映画を説明する時には、次に挙げる3本の作品の名を挙げれば話がしやすいかもしれない。これはネット上のどこかで、誰か他の人もいっていたようなことだ。

 

(1)「殺人の追憶(2003)

 ボン・ジュノ監督が1980年代後半に実際に韓国で起こった連続猟奇殺人事件に材をとって描いたサスペンス映画。実話で最後まで真相が明るみにならない点、「怖いぞ怖いぞ」と煽ったりせずに、淡々と事実を並べている点、ソン・ガンホキム・サンギョンの2人の刑事が精神的にどんどん追いつめられていく点…などがひどく似ている気がする。

 

(2)「サマー・オブ・サム(1999)

 スパイク・リーが1977年にニューヨークで起きた連続殺人に材をとって描いた作品。ただし犯罪捜査や殺人そのものの描写はなく、それを背景にしたドラマであるところがミソ。こちらも実話で1970年代臭が濃厚に漂う点と、殺人そのものよりも周囲の人々に与えた影響の大きさにウエイトを置いている点が「ゾディアック」と酷似。

 

(3)「大統領の陰謀(1976)

 アラン・J・パクラ監督のこの作品は、ご存じの通りウォーターゲート事件を暴いたワシントン・ポスト紙の2人の新聞記者を描いたもの。1970年代ならではの題材、男性ファッション…などがどうしたって本作「ゾディアック」と類似してくるのは仕方ないところ。ロバート・レッドフォードダスティン・ホフマンの主人公たちが新聞社の編集局内を縦横無尽に歩き回りながら、真相を追求していくあたりの雰囲気も本作と酷似。ついでに言えば、これも「実話」モノだ。

 

 こんな3作の題名を挙げて、似ていたから何だ…っていうんだと言われれば、確かにそれまで。特に3番目の「大統領の陰謀」は猟奇殺人を扱っていないし、新聞社が出てくるから…とか、1970年代が舞台だから…とか、どっちかと言えば見た目の類似点が大きい。だから、これをもって「デビッド・フィンチャーはこれら3作に影響を受けてこの映画をつくった」などと言い張るつもりは毛頭ない。特にアメリカ人のフィンチャーが韓国映画「殺人の追憶」を見ている可能性はほとんどない。僕もそんな無茶を言うつもりはないので、安心してほしい(笑)。

 ただ僕がこれらの作品を挙げたのは、「ゾディアック」がどんな映画か説明しやすいからだ。

 これらの作品に共通する点は、実話…という点を除けば1970年代とか1980年代という過去の時代色が色濃く出ていること。そして犯人や犯罪そのものよりも、それを追っている人間や周囲の人間たちに、その犯罪が与えた影響を描いていることだ。犯罪そのものには興味がないとは言わないが、その真相を描きたくて映画をつくったわけではないように思える。

 そして、この点が実は本作のカギのような気がするのだ。

 

「男のサガ」を描いた映画?

 もちろんこの映画をすでに見ている人なら、この映画が何を描いた映画か先刻ご承知のことと思う。

 回りくどい話はやめよう。この映画は犯罪そのものを描くものでもなければ、犯人像に肉薄するものでもない。それが全くないとは言わないが、出来上がった映画の目的はそこにはない。

 何かに夢中になると、トコトン入れ込んでしまう。何の得にもならないことに、寝食忘れて打ち込んでしまう。

 これはそんな「男のサガ」を描いた映画なのだ。

 花形記者ポール・エイブリーも、マンガ屋グレイスミスも、刑事のトースキーも、度を超した熱心さで事件に入れ込む。もちろんエイブリーやトースキーにとっては「仕事」として必要なことなのだが、それにしてもその熱の入れようは、単なる「仕事」の域を大幅に超えているのだ。

 ましてマンガ屋グレイスミスは、「仕事」とは何の関係もない。

 なのに他のすべてを犠牲にしても、彼らは事件にのめり込んでしまう。朝から晩まで事件のことばかり。グレイスミスが初デートの時にも、のべつまくなし事件の事ばかり話しているのは、実はそれしか関心がないからだ。正直言って女になど構っていられないのである。

 また、事情により自分では捜査が出来なくなったトースキー刑事は、グレイスミスが真相追求したいと言ってくると、どうしても無下に断れない。何だかんだと直接間接的に、彼の援護射撃をしてやらざるを得ないのだ。それは男のサガなのだ。

 トースキー刑事が夜中に眠っていたところを、わざわざ家まで押し掛けて来たグレイスミスに叩き起こされる場面を見てほしい。本来ならどう考えても激怒必至。そこまでいかなくても明らかに迷惑顔だったのに、話がゾディアックとなるといきなり目がランラン(笑)で、もう眠ってはいられない。イイ歳した男二人が夜明けのファミレスでコーヒーお代わりだけでネバりにネバり、口からツバ飛ばして激論交わすあたり…いや〜、この気持ち実によく分かるのだ。

 これが「男」なのである。

 で、だから女にはそれが理解できない。

 基本的に女は、不利益にしかならない事はやらない。だからある程度の犠牲を払っても、何かにのめり込んでも、生活を破綻させたり身を持ち崩すまではいかないのが女なのだ。そこまで行く前に理性が働くのが女なのである。例外はあるだろうが、僕はそう思っている。少なくとも経験上、僕の知っている女はそうだ。そうじゃない女もいるのかもしれないが、そういう女以外は知らない。

 特にグレイスミスが犯人探しに夢中になってるのを見て、嫁さんが目を吊り上げて激怒するくだりには実感がこみ上げてくる。「このバカが」…というあの顔、あの目。僕も何度あの目で見られたことか。いやぁ、思い出すねぇあの態度(笑)。

 だが男は、そんな女の気持ちがもっと分からない。その点、僕なんかは弱腰だったので適当に「ごめんごめん」とか言っていたが…実際は自分のどこが悪くてどうして謝らなくてはならないのか、まったく納得できていなかったのだが…とにかく男は女に謝らねばならないもんなんだろうと思って相手の機嫌を損ねないようにやろうとはしていた。

 ところが例の場面のグレイスミスはスゴくて、逆に「これをやらなきゃいけないって事が、何でオマエには分からないの?」と目を丸くしてポカンとしてる(笑)。本気で彼女の気持ちが分かってない。「何考えてんの?」って顔してるのだ。

 いやぁ、オレもこの態度をとりたかったよ(笑)

 むろん、こんな僕の文章を女性が読んだら、ムラムラと怒りが燃えてくることは必至。勝手な事を言いやがってと言いたくなるだろう。当然だ、ごもっとも。そちらにもそちらの言い分がある。おっしゃる事は間違っていない。

 所詮、男と女は分かり合えないものなのだ。

 閑話休題。いささか脱線してしまったが、僕は別にここで男と女の食い違いを語りたかった訳ではなかった(笑)。やめろと言われてもやめられない、止めようとしても止まらない、そもそも止めようという気持ちにならない…そんな「男」のサガを見事に描いた点が、この「ゾディアック」という作品の本質だと言いたいわけだ。

 

見た後の付け足し

 ただし、そんな「男のサガ」の代償は大きい

 この映画の中の男たちは、みなロクな目にあってない。エイブリーは身を持ち崩してアル中になり、格下げの憂き目をみる。トースキー刑事は事件が解決できないことでプライドが傷ついただけでなく、不祥事に巻き込まれて捜査に関われなくなる。唯一無傷に見えたグレイスミスも、女房との関係が破綻してしまう。

 いや、待てよ?

 映画のパンフもいろんな人の感想も、全部そんな「男のサガ」が彼らを不幸にしたと書いてある。確かに一見そう見えないでもない。女性の観客は100パーセントそのように見て、大いに溜飲を下げるかもしれない。

 だが、本当にそうなのか?

 ここで取り上げられている「男のサガ」とは、何の得にも利益にもならないことに一生懸命打ち込むことだ。確かにそれは多くの場合が無駄な努力なのだが、それと身を持ち崩すってことは別の問題のような気がする。自分の労力と時間は浪費されるだろうが、「何の得にもならない」ってことは「損にもならない」ことのはずなのだ。

 実は僕は、彼らには破滅する理由が他にあったように思う。

 花形記者ポール・エイブリーは自分の名前と顔をテレビに出して、事件の知られざる事実を公表した。あげく署名記事で犯人の神経を逆撫ですることも書いた。そのあげく犯人に狙われる恐怖に怯えるハメになる。要するにスタンドプレーが過ぎたのだ。

 またトースキー刑事が失脚したのも、どこかオレがオレが…の部分が災いしたからではないか。

 実はあのグレイスミスですら、そんな意外な一面を見せている。彼もまた新事実の証言者として、テレビにその顔を出しているのだ。彼にしては珍しい「自己顕示欲」の現れだった。これが妻との決裂の一因となった事も、考えてみると実に象徴的だ。

 実は男たちを破滅させたものは、この「自己顕示欲」=「虚栄心」ではなかったのか?

 本来が「男のサガ」的行動とは、先にも述べたように「何の得にもならない」ものだ。そんな見返りのない無駄なことに夢中になるところが、バカバカしくもあれば…潔くもある。それが「男」というものなのだ。

 しかし彼らは、どこかで「自己顕示欲」を満たしたいと思った。それは「無駄な事に努力を費やす」という「男のサガ」とは、実はいささか違うものだ。「自己顕示欲」や「虚栄心」とは、「自分をエライと見せたい」とか「威張りたい」とか…少なくとも何か「見返り」や「得」を求めるものなのだ。これは本来の「男のサガ」とは違うはずだ。ハッキリ言えば、美しくない。男らしくない。

 主人公たちは、邪念が入ったから破滅したのではないか?

 ここで改めてこの作品を引いた目でとらえてみよう。何でこの映画は、「男のサガ」を描くために「ゾディアック」なんて猟奇殺人者を題材にしたのか。いろいろモノの本で読んでみると、この犯罪はアメリカで初めての「劇場型犯罪」だという。「劇場型」…自ら犯行についてアレコレ語り、自分を「ゾディアック」と名乗る。つまりはとてつもなく「自己顕示欲」が強い人間の犯罪だ。

 しかし、人を殺すような卑しくも忌まわしい存在が、テメエの事を開き直って得意気に語るってのは…もはや語るに落ちる話ではないか。

 それって、「何にも得にならない」ことを無償で夢中にやっていた「男」たちが、それを自慢げにアピールして目立とうとすること…それによって「得をしよう」「偉くなろう」することの見苦しさと、どこか一脈通じるところがあるんじゃないか。それはもはや純粋な「男のサガ」の発露ではない。「男のサガ」が一歩間違って落ちてしまう、どこか間違った脇道なのではないか。

 それは、男らしさと似て非なるもの…と言い直してもいい。

 例えば「テメエはいつも正しくて、他者は間違っていて劣っている」なんてことを声高に言うことは、とても見苦しくて「男らしい」態度とは言えないはずだ。しかしそんな主張の最たるものであるナショナリズムは、しばしば「毅然」としたり「自尊心」を持った「男らしさ」の発露のように思われがちだ。このように…よく考えればそんなモノはちっとも「男らしく」ないのに、その間逆のことがいとも簡単に混同されてしまう。

 男たちはしばしばそんな「似て非なるもの」に落ち込んでしまいがちだ。

 この映画は殺人事件の真相に迫っているから面白いのではない。殺人鬼「ゾディアック」から普通の男たちへと連なる、「男の病理」の真相を描いているからこそ凄みがあるような気がするのだ。

 

 

 

 

 

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