「バベル」

  Babel

 (2007/05/21)


  

見る前の予想

 いうまでもなく今年のアカデミー賞のもう一方の台風の目だったのが、この「バベル」。役所広司らが出てくる日本場面が全編の3分の1を占めているとあって元々こちらでは騒がれていたし、菊池凛子なる日本の新人女優がオスカーの助演女優賞にノミネートされたこともあって話題は倍増。結果的に「バベル」は作曲賞1つをとっただけで後は全滅という結果に終わったが、実際に「勝利」したのが香港映画のリメイクディパーテッド(2006)となると、オスカーの結果なぞマトモに論じるのも無意味な気がする。ともかく各地の映画祭や映画賞を賑わせたのだから、それなりの作品であることは間違いなかろう。

 お話が3つの国、4つのエピソードに分かれて同時進行するというのも、複数エピソードで綴られる人間群像劇が好きな僕には魅力的に思えた。何しろお話のスケールがでっかそうだ。それらをブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、ガエル・ガルシア・ベルナル、それに役所広司というスターたちで描いていくというのも、ミーハー的には楽しみな要素だ。映画マニアやシネフィル的には「スターなんぞ」…とか言わねばならないんだろうが、僕は正直言って楽しみにしていた。まぁ、同じお金払って見るなら派手さがあった方がいいわな(笑)。

 で、その監督が誰かというと、アモーレス・ペロス(2000)のメキシコ出身アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥと来る。なぁるほど。4つのエピソードの同時進行って構成は、この人ならあり得る。正直言って「アモーレス・ペロス」、そしてアメリカに渡って撮った21グラム(2003)と、この人は映画を撮るたびに毎度毎度複数エピソードが同時進行する人間群像劇しかつくっていない。しかも、それらエピソード同士にちょっとずつ時制のズレを加えているという手法まで同じだ。こうなっちゃうと「ペキンパーと言えばスローモーション」みたいな意匠じみた感じがしてくるけど、つくる映画つくる映画ドラマの構成が全部同じ…っていうのを、果たして「芸風」って言うんだろうか(笑)?

 そしてこの人のそんな「芸風」は、本国やアメリカではどうだか知らないが、ここ日本の映画ファンの間ではそろそろ批判にさらされつつあった。で、ひとたび叩かれ始めるとみんなで寄ってたかってブッ叩くのが「日本のしきたり」だ。この「バベル」にもアレコレ批判が集中するのは、最初から予想がついたわけだ。

 まぁ、実際どんなもんなんだろうか。

 正直言ってここだけの話、菊池凛子のオスカー・ノミネートってやつも、あまり僕にはピンと来なかった。別に彼女のオスカーやゴールデングローブ賞授賞式でのケバい出で立ちに辟易した(笑)から…ではないが、彼女が元々日本で知られている存在ではなかったという事もあって、「そんなにいいの?」という半信半疑の気分になっていたことも事実。聞けばろう者のコギャル役ってことで、劇中全裸で体当たりって場面まであるらしく、何となくオスカーが喜びそうな大熱演の気配も漂ってくる。こいつもちょっとどうかなぁ。

 そういう訳で楽しみは楽しみなんだけど、その出来栄えには大いに不安もあったし疑問もあった。さりとて付和雷同的にイニャリトゥをブッ叩く向きに賛同する気にもなれなかった。これは実際見てみなけりゃ何とも言えまい。

 で、実際のところはどうだったのか?

 

あらすじ

 モロッコの荒野。貧しい一家の長・アブドゥラが、近所の知り合いから一丁のライフルを買い求める。そのライフルは、一家の家業であるヤギの放牧のための道具だ。アブドゥラが昼間仕事に出かけている間、彼の2人の息子アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)がヤギの世話をする。その時に襲ってくるジャッカルからヤギを守るため、アブドゥラが2人に買い与えたものなのだ。その息子2人は男の子らしく、銃を手に入れてゴキゲン。だが弟ユセフと比べると射撃がうまくない兄アフメッドは、正直言って何となく面白くない。こうなると弟ユセフが姉の入浴を覗いていることすら気に入らない。そんなこんなの諍いが、2人につまらない意地の張り合いをさせてしまったのか。兄アフメッドは弾が当たらないのはライフルのせいだとばかり文句を言い、弟ユセフは自分なら遠くでも当たると挑発する。そんな2人が眼下を走る観光バスをターゲットとして選んだのは、単なる行きがかり上のことでしかなかった。得意満面のユセフがバスを狙う。一発放った後も何の変化もなかったため、2人は「この銃はダメだ」とその場を立ち去ろうとした。ところが…しばらくしてバスが突然停車した。明らかに何らかの異変が起きたらしいと気づいて、恐ろしくなった2人。彼らは慌てふためいて家に逃げ帰るのだった。

 

 ロサンゼルスのある家で、メキシコ人の乳母アメリア(アドリアナ・バラッザ)が幼いアメリカ人の兄妹マイク(ネイサン・ギャンブル)とデビー(エル・ファニング)の面倒を見ている。そこにこの兄妹の父親から電話。どうやら2人の両親は今どこか外地にいて、母親が何かの事故にあったらしい。そんなこんなで、兄妹の世話を頼む…という連絡だった。実はこのアメリア、翌日が息子の結婚式だった。それで、以前からこの日はメキシコに帰る予定にしていたのだ。だが兄妹の父親は「何とか別の子守りを探すから帰国していい」…と言ってくれた。そこでアメリアはすっかり安心したわけだ。ところが実際に翌日になってみると、別の子守りは都合がつかなかった。子守りを手配するはずだった両親の親戚の連中も、「どうにもならないから子供たちの世話を頼む」と一方的に電話を切るアリサマ。これにはアメリアはホトホト困り抜いてしまった。仕方なく兄妹を連れての帰国を決意したアメリア。甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が運転するクルマに乗って、ティファナで国境をまたいだ一同だった。そんなテンヤワンヤはあったものの、無事にメキシコの郷里にたどり着いたアメリアを一同は大歓迎。愉快で陽気なメキシコの人々に、兄妹もゴキゲンだ。こうして騒々しく結婚式はスタート。酒の勢いもあって、大いにハメをはずすアメリアとサンチャゴだった。だが、事件は帰り道に起こった。クルマが国境の警備所にやってきたところで、国境警備隊がネチネチといたぶるようにサンチャゴに絡み始めたのだ。しかも間の悪い事に、サンチャゴはしたたかに酒を飲んでいた。彼が国境警備隊の横暴なやり口にキレるのは、もはや時間の問題だったのだ。

 

 モロッコ観光ツアーに参加した一組のアメリカ人夫婦。だがその夫リチャード(ブラッド・ピット)と妻スーザン(ケイト・ブランシェット)の間には、何やらひんやりしたものが流れていた。「言い争いはよそう」と言うリチャードと、はぐらかされたようで不満なスーザン。観光旅行に来ているというのに、2人はどう見ても楽しそうではなかった。観光バスに隣り合わせて座っていても、心はどこか離れている2人。ところがそんな時、どこからともなく銃声が聞こえる。バスの窓ガラスが割れ、窓側に座って居眠りしていたスーザンの肩から血が噴き出すではないか。車内はたちまち阿鼻叫喚。血を押さえながら「医者はいないか」と叫ぶリチャードの一方で、「危険だから戻ろう」と自分の身の安全に必死の乗客たち。そんなパニック状態を何とか抑えて、現地ガイドの男の案内でバスは辺鄙な村へと入っていく。ここに来れば医者がいるという話だったが、周囲は見知らぬ貧しい異境の人々ばかり。同行の観光客たちはスーザンへの同情の気持ちをすぐに失って、「ここから出たい、帰りたい」と浮き足立つばかり。さらに待ちに待った医者は現地の獣医だったが、この際手段を選んでいる場合ではない。こうして応急の血止めとして傷口を縫ったものの、すぐにでも本格的な治療の必要がある事は言うまでもない。何とか救急車を回してもらおうとアメリカ大使館に長距離電話をかけまくるリチャードだったが、「事件が政治問題になった」云々と歯切れが悪いのはどうしたことか。そんなこんなしているうちに、薄情なツアー客を乗せてバスは逃げ去ってしまった。そんな追いつめられた心境の中で、皮肉なことに夫婦の絆は今一度つながろうとしていた。

 

 ここは東京のある体育館。今まさに女子高生のバレーボールの試合が行われている。だが、何やらやけに静まりかえった試合ではないか。それもそのはず、これはろう者の女子高生たちのバレーボール試合なのだ。だが声が響かないからと言って、彼女たちがおとなしいかと言えば必ずしもそうではない。例えば判定を不服として大いに抗議しているチエコ(菊池凛子)など、一言も発しなくてもその激しさは伝わる。あまりに執拗な抗議ぶりに、彼女は退場を言い渡されてしまった。そのせいという訳でもないだろうが、チームは敗退。試合後のロッカールームでは、チームメイトからチエコへの非難の声があがる。だが、それにも謝罪するどころか怒りのポーズを見せるチエコは、まるで何もかもに苛立っているように見えた。父親ヤスジロー(役所広司)の運転するクルマに乗り込んだ時でも、彼女の苛立ちは静まらない。「俺も一生懸命やってるんだ」と言う父ヤスジローではあったが、チエコは「母さんは私の話を聞いてくれた」と取り合わない。どうやらヤスジローの妻…チエコの母親だった女性は、すでに亡くなっているらしい。それが心のしこりになって、父娘の間がうまくいかなくなったようなのだ。チエコは一緒に昼飯を食べようと誘う父親を振りきって、ろう学校の仲間とシブヤに繰り出した。そんなチエコたちに、頭悪そうな若造がスケベ視線を投げかける。だが彼女がしゃべれないと知ると、怯えた表情で去っていく若造たち。これにはまたまたチエコはキレた。「あたしたちを化け物みたいな目で見やがって。ホントの化け物を見せてやる!」…チエコは頭ん中アレでいっぱいの若造どもに向かって、わざわざパンツを脱いで局部をチラつかせて挑発した。そんなこんなで、やっと一人で自宅マンションに戻ってきたチエコ。すると、そこに2人の刑事が待ちかまえているではないか。何でも父ヤスジローに話を聞きたいとのこと。「後で連絡を」と名刺を渡してくれた若い刑事ケンジ(二階堂智)に、なぜか淡い好意を抱くチエコであった。やがて彼女は、ろう学校の仲間の一人と遊びに繰り出す。途中に加わったのは、手話が話せるという男の子だ。やがて熱気むんむんのクラブにやってきた彼女たちだが、チエコにとってはそこも静寂に包まれた場所だ。踊って騒いで大いに楽しむチエコではあったが、例の男の子が仲間の女の子とディープキスし始めると、置いてけぼりをくらったようでまたまた不機嫌になる。こうして結局マンションに戻ってきたチエコだったが…。

 

イニャリトゥ作品の毀誉褒貶とパラレル映画の落とし穴

 ゴールデン・グローブ賞はじめ各映画賞で絶賛、アカデミー賞でも一方の台風の目となったこの作品。当然見る前に期待が高まりこそすれ、不安を抱くなんてことはないはず。だが、なぜ僕が見る前にイヤな予感を持ったかと言えば、この作品の監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥにはいろいろ「前科」があったからだ。

 いや、「前科」と言えば聞こえが悪い。ともかくここまでこの監督の作品は2本見ているが、2本が2本とも極めて特異な構成の作品で、そのスタイルはどちらもよく似ている。この3作目「バベル」においても、そのスタイルは変わらないどころか、より一層それを極めているように思える。

 そしてそのスタイルゆえにイニャリトゥは大いに評価され、かつ悪評も食らっているのだ。

 まず最初の「アモーレス・ペロス」。僕がこの作品を東京国際映画祭で見たのは、単なる偶然とは言えない。知らない監督・出演者ながら、これを見たのには理由があった。

 東京国際映画祭は例年映画ファンに非難を浴びているが、それはチケット発売の段階に至ってもロクに作品の情報が公表されないからだ。これで何を買えばいいのか?…と文句も言いたくなるが、逆に言うとわずかな情報からチケットを買う「競馬予想」みたいな楽しみはある。

 で、「アモーレス・ペロス」だが、この作品の当初の情報など知れたもの。主演のガエル・ガルシア・ベルナルの名前なんぞ見ても、当時は誰のことやら分からない。ただ、この映画が「交通事故をきっかけに全く関係のなかった人々の運命が交錯する物語」だということは分かった。これが何より僕の好奇心をくすぐったんだと思う。

 人間群像劇は、僕の一番好きな映画ジャンルだ。主役級の人々が次から次へと出てきて、それぞれのエピソードが交差しながら進む物語。ロバート・アルトマンの傑作「ナッシュビル」(1975)を例に挙げるまでもなく、「アメリカン・グラフィティ」(1973)、マグノリア(1999)、トラフィック(2000)、クラッシュ(2005)、シリアナ(2005)…などなど、僕はどれもこれも大好きだ。

 そしてこうした人間群像劇の一種として、時勢や場所を思い切りバラバラに引き離した複数のエピソードが、映画の中で平行して進む…というパラレル構成の作品がある。こちらも僕の大好物で、クロード・ルルーシュの愛と哀しみのボレロ(1981)など、みんなはバカにするけど僕は結構気に入ってる。

 つまり、「アモーレス・ペロス」は完全に僕のツボなわけだ。

 たまたま交通事故で一点に集合することになった人々に関する、3つのエピソード。もちろん僕は大いに楽しんだし、この監督の名前を脳裏に刻み込んだ。東京国際映画祭のグランプリをはじめ数々の映画賞にも輝いた。マスコミも絶賛。映画ファンだってみんなホメた。

 だが僕は…大いに楽しんだし好きな映画だけど、この作品にわずかな違和感も感じていたのだ。

 それはうまく言えないが、この3つのエピソードがひとつのパッケージにされなきゃならない「必然」というやつだろうか。やっぱりこういう変則的なスタイルの映画を作るときには自分でルールをつくらねばならない。何でもアリ…ならどうにでもつくれるが、ただ交通事故で交差したというだけ…たったそれだけの接点でしかなくて、それ以上何もないのなら、ひとつの映画としてこれらのバラバラの話や人物をワン・パッケージで語るのは難しいんじゃないだろうか?

 つまり、そうして悪いことはないが…そうする意味ってあるの?ってことだ。

 パラレル構成の映画ってかなり手がこんでいて、作る側も見る側も結構気合いを入れなきゃいけない。だが、そんな構成をとる理由や必然性が乏しいとしたら、わざわざパラレルにしなくても良かったんじゃないだろうか?…という気がしちゃうではないか。

 おまけに、3つのエピソードが全部同じような緊密さで作られているかと言えば、これがやっぱり難しかったらしいのだ。だから3つめのエピソードなど、どこか無理してつくっちゃったようで面白くない。これはこの手の作品をつくる時の落とし穴だと思うのだ。

 実は僕は前述のように群像ドラマ、パラレル・ドラマが好きだと言ったが、これらを完璧な成功作として作り上げるのは極めて難しい。それは単に構成が入り組んで、複雑だから…という理由からではない。ドラマづくりというものの根本を考えれば、その理由が自ずから分かるのだ。

 そもそもドラマというものは…その成立のさせ方に一つの基本形が存在しているように思われる。

 確かに人によっては、同じドラマでも作り方が違うだろう。一人で脚本を書くタイプの作家もいれば、黒澤明のようにライター・チームで同時に1シーンずつ書いていくやり方もある。さらに小津安二郎と 野田高梧のコンビのように、作品フォーマットが決まっていて1シーンずつ書いてあるカルタみたいなものを並べていく作業から始める人もいる。

 だがドラマの基本とは、そこで登場人物が生き生きと動くかどうかにあるように思われる。

 まず最初の設定で、リアリティと面白みのある人物像をつくっておく。そして後は彼(彼女)をある状況の中に置き、どうなるかを観察する。つまり自分でつくった人物を、自分でつくった状況の中で泳がせておくのだ。そして様子を見ていると、登場人物が勝手に動き出していく…。

 これは嘘ではない。本当の話だ。ちゃんと練り上げられたキャラクターというものは、作中で自己主張をする。あとは作者が「こいつならここでどうするだろう?」「どんな事を言うだろう?」と考えるだけでいい。課題を放り込んでいけばいい。よく出来た人物像、よくできたストーリーほど、人物像が自分から勝手に動いてお話が進んでいくのだ。

 だから、「こういう事を言いたい」とか「こういう結論にしたい」とかを決めて書き始めても、登場人物を無理矢理その方向に持っていくのではなく、できるだけ自然にそちらに誘導していくように脚本家や作家は苦心するのだ。どうしてもツジツマが合わない場合には、それが不自然でない形で落ち着く仕掛けを作らねばならない。そこがプロの腕の見せ所だ。それをやるために、脚本家は無数の「伏線」を張っておく。そして、それが最初から観客に見えないように、さりげなく隠しておくのだ。

 だが基本的には、おそらくいい脚本家は何もかも作っておこうとは思わない。登場人物が自由に動ける余地をつくっておく。その方がリアルだし、面白くなるからだ。

 で、ここで例の群像ドラマ…しかも構成が複雑なパラレル・ドラマに戻ろう。

 これらは構成ありきだから、実はかなりの確率で結論を決めている可能性がある。仮に結論を決めておかなくても、いくつかあるエピソードのいくつかの箇所が、タイミングよく効果的に接続するような形が決まっているはずだ。

 そして平行して別々のエピソードが進んでいる時でも、それらの場面転換のタイミングにうまみがなくてはいけない。だから、約束事や決まりがやたらあちこちに出来てしまう。これでは登場人物を泳がせる余地などあまりない…という事がお分かりいただけるだろうか。

 例えば「エピソードA」「B」「C」の3つのお話のパラレル構成で物語をつくるとして…当然のことながら、「A」の盛り上がりどころの後にどんな場面が来てもいいという訳にはいかない。仮に「エピソードB」を次に持ってくるとすれば、この「B」でも緊迫した状況の場面を持って来たいところだ。さらに「C」があったら、そっちも尚のこと盛り上げたい。だが、別々の人物によって別々の状況で繰り広げられる別々のお話、そう都合良くいいタイミングで全部自然に盛り上がるわけもあるまい。

 ならば…無理矢理でも何でも盛り上がるようにセットしなくてはならない

 これには逆もあり得て、「A」の盛り上がりに「B」の静けさをぶつけて、そのコントラストの妙で映画を面白くしたいと思うかも知れない。それは作り手の意図によって自由自在だ。だが、それはドラマの語り口が自由なだけであって、実際にどうやってドラマを構築していくか…という点においては、決して作り手は自由であるとは言えない。どちらにせよ、ドラマの自由な流れからではなく意識的な配置によって、それぞれのエピソードを調整していかねばならないのだ。

 本来だったらできるだけ登場人物を泳がす余地をつくりたいところを、作り手の意図と他のエピソードの都合で、ある程度決め込んで作らねばならない。すると、どこかでお話にひずみが出る。そこを頭の中で考えてこさえたストーリーで埋めていくと、どこかリアルさが足りなくなったり、奇妙な部分が出てきてしまう。あるいは舌足らずだったり水増し感が出てくる。

 おまけに、パラレル・ドラマの複数エピソードそれぞれの設定だって、それなりにバランスを考えねばならない

 例えば3つのエピソードのパラレル・ドラマをつくろうとして、あなたはどんな設定を考えるだろうか。例えば、茨城県の納豆屋さんの話と、栃木県の豆腐屋さんの話と、群馬県のこんにゃく屋さんの話でパラレル・ドラマをつくろうと思うだろうか? 別にこれでつくっても法律で罰せられやしないが(笑)、まず誰もこんな設定でパラレル・ドラマをつくろうとは思わないだろう。

 パラレルにするには理由がある。複数エピソードを平行して見せながら、相互の落差の大きさや違いの対比によって何かの効果が生まれるのを期待するわけだ。

 ならばこれらについても、例えば旭川の雪に埋もれた交番の巡査の話、東京・六本木ヒルズかミッドタウンのビジネスマンの話、沖縄のダイバーの話…など、明らかに振り幅の大きい設定をとるだろう。これが例えば「各地の高校生の暮らしぶり」を描くのがコンセプトだったとしても、やっぱり網走の高校生、大阪の高校生、八丈島の高校生…など設定には大幅にバラエティを持たせるはずだ。あるいは舞台を東京都内に限定するにしても、下町の小料理屋から原宿のコギャルたち、霞ヶ関の官僚街と太田市場に出入りするトラックの運ちゃんたち…とか、とにかく振り幅のデカい設定が考えられる。ましてこれが映画なら、画面に映った時の落差の大きさを見せたいと思うはずだ。

 むろん例外は数限りなくあるだろう。極論であることは百も承知。それでも、パラレル・ドラマとはそういうものなのである。

 しかし最初から振り幅の大きさを考えて複数の設定を決めるとなると、それはすべてバランスの問題となる。つまり、雪に埋もれた土地に対しては南国、工事現場のドカチンに対してはハイテク・エンジニア、特攻隊の生き残りの老人に対してはアイドル…というような落差の大きい設定を、全体のバランスを考えてつくる可能性が高い。これはどういう事を意味するのか。

 3つのうち2つのエピソードが都会だから、最後はどこか農村か漁村にしなくてはならない。あるいは2つのエピソードが中年男の話だから、最後は若者か女の話にしなくてはいけない。…むろん選択の自由は無限大にあるので、どうつくろうと作者の勝手の余地は大きい。それでも、3つ以上のエピソードを並列で描く場合、どうしても全体のバランスでつくらねばならなくなってくる。中にはお話もネタも登場人物も…もっと言えば特に描きたいこともないのに、全体の構成上から「あと一つ」のエピソードをつくらねばならなくなってくるのだ。これが内容的にどうしても今ひとつの出来上がりになるのは、想像だに難くない。

 もう一度整理すると…アレコレと制約ばかりがあるものだから、一旦できたワクに合わせてキャラクターをつくり、ワクの中でピタリとハマるように動かす不自然さがつきまとう。おまけに相互エピソードのバランスも考えねばならない。だから何かと自由度が低くなる。その分だけ、登場人物も物語も、頭の中でこさえた部分が多くなってくるというわけだ。そして頭の中でこさえた感が強くなればなるほど、「作り物」っぽく見えるしウソっぽく感じられる。リアリティがなくなっていく。すべてがこうなるとは言えないが、「まず構成ありき」のドラマづくりは、こうなる可能性が極めて高いのは間違いない。

 とにかく一事が万事。ワクが最初に決まっているぶん、パラレル・ドラマは何かと窮屈だということがお分かりいただけただろうか。

 だから僕が好きだと言った作品群でも、必ずしもすべてがうまくいってるとは限らない。例えば「愛と哀しみのボレロ」なんぞ、世評は必ずしも芳しくないし実際僕も出来栄えは甘いと思っている。何しろどうでもいいけど入れた場面(笑)が多すぎる。ボリスというバレエ・ダンサーの出てくるモスクワのエピソードなど、かなりユルユルな出来映えだ。あのエピソードを入れたのはパリ、ベルリン、ニューヨークにモスクワ…というワールドワイド性を出したかったのと、ラストのパリでのボレロ・コンサート場面で、バレエ・ダンサーのジョルジュ・ドンの踊りを出したかったからだろう。つまり、まさにバランスなのである。

 この手の「水増し」で最も分かりやすいのが「クラッシュ」で、ブレンダン・フレーザーとサンドラ・ブロックが出てくるエピソードはかなりつまらない。あの作品はさまざまな人種や階層の人々の激突の話で、他に出てくるのは有色人種たちと貧しい白人ばかり。だから、どうしても作品のバラエティとして豊かな白人階層の人々を出したかったのだろう。実際、この作品に白人の富裕層が出てこないのはおかしい。だが結果的に「それだけ」を理由に無理矢理突っ込んだせいで、このエピソードは作品中最もつまらない場面となった。おまけにフレイザーとブロックもとてもじゃないが白人富裕層役に適役とは言い難かったので、出来上がりの苦しさも倍増だ。

 これほどまでに、パラレル・ドラマを不自然でなく作るのは難しいのである。

 話が長くなって申し訳ない。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの「アモーレス・ペロス」もこうしたパラレル・ドラマの弊害から逃れられていない。残念ながら作品のあちこちに、こうした「帳尻合わせ」の部分が散見できる。そしてそんな「穴」の部分が気になりだすと、この映画がパラレル・ドラマである「必然」あたりまで揺らいでくる。こういう作り方をしなくちゃならない理由が怪しくなってくる。だからこそ僕はこの映画が好きだと感じてはいたが、世間の絶賛にも関わらず今ひとつ歯がゆいものも感じていたのだ。

 ところが世界で認められたイニャリトゥは、次に何とアメリカに上陸。初のハリウッド映画「21グラム」を発表する。こちらはショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロというビッグ・スターを起用。大した出世ぶりだ。

 そして…何と今回も3つのエピソードのパラレル・ドラマ。今回は時制をチョコチョコといじって見る者を惑わせたりもしているようだが、考えてみれば「アモーレス・ペロス」もかなり大まかではあるが、時制をいじくったドラマと言えないこともなかった。

 ところが好事魔多し。あれほど大絶賛だった「アモーレス・ペロス」に対して、こちらの作品には思わぬ物言いがつきはじめたのだ。むろん今回もオスカー候補を出したり好評を浴びていたが、なぜかわが国の映画ファンの間ではケチがつき始めた。そして一度ケナされ始めると、どんどんエスカレートの一途を辿り出す。いくら何でもこれは的はずれじゃないかと思われるものまで出てきた。

 ところが実際こうなってみると、僕の中の天の邪鬼の虫が騒ぎ出す

 何となくこの感じってシックス・センス(1999)の時のM・ナイト・シャマランを思い出す。あの時だってみんなあんなにホメていたではないか。それがアンブレイカブル(2000)で酷評を浴びたら、まるで「シックス・センス」はなかった事になってる。僕も「アンブレイカブル」は愚作だと思うし、そもそも「シックス・センス」なんざ好きでも何でもないが…それはちょっとおかしいんじゃないだろうか。大体それを言うなら、シャマランは最初からアレをやってるじゃないか。なぜ、みんなその時に文句を言わないんだ。その後はみんなシャマラン叩くのが映画ファンの良識みたいな雰囲気になっているが、どうもそのへんが胡散臭くてならない。そうなると、多少なりともシャマランの弁護をしてやりたくなるところだ。

 それと同じで、イニャリトゥも「アモーレス・ペロス」の時点で、すでに同じことをやっているのだ。何だかパラレル構造にする必然性に乏しいとか、時制を狂わせる意味があまりなさそうとか、何となく頭の中でこさえたようなリアリティのなさとか、そんな事は今回始まったことではない。それが、一人叩き始まったら急に大勢で、際限無しにとめどもなくブッ叩く。それってちょっとねぇ…。

 確かに僕は「アモーレス・ペロス」に意義申し立てはした。だが、やっぱり好きだったし価値ある作品だと思う。それと同じように「21グラム」に対しても、クソミソに言われなくてはならない作品とは思っていない。…確かにかなり問題はある。ショーン・ペンはじめ登場人物の人間像がテメエ勝手で納得できないとか、「人の命は21グラム」云々とかいう理屈が意味ありそうでないとか、かなり問題点は指摘できる。「アモーレス・ペロス」と比べてもかなり落ちるとは思う。だが…あれほどまでに罵られなければならない作品とは思えない。あそこまで言われてるのを見ていたら、さすがにイニャリトゥが気の毒になった。僕も「21グラム」は好きになれない部分が多かったんだけど、何となく肩を持ちたい気持ちになっちゃったよ

 ただ、やっぱり困った部分もあるなぁとは思った。

 好きなタイプの映画を撮る人だし、いいところもある。そもそも意欲的な映画づくりをする人を、僕は個人的に応援したくなるタチなのだ。多少の破綻があっても、「やってやろう」という意気の方を買いたい。チャン・イーモウよりはチェン・カイコー…という感じに、男らしく前のめりな映画作家が好きなのだ。チマッと小ギレイに出来上がってる映画なんざ、クスリにもならないと思っている。

 そうは思っているものの、正直言ってイニャリトゥという人は雑なところが多すぎる。あまりにハッキリ分かる形で欠陥をさらけ出す作風は、僕としては少々困っちゃうところでもあるのだ。

 そんな彼の新作が「バベル」。またまたパラレル・ドラマで、今回はそれを地球レベルに広げたあたりが、何となくルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」を彷彿とさせる。いやいや…お話は全然違うのだが、「超大作をつくってやるぞ」という作り手の姿勢がどこか似ている。そもそも「バベルの塔」が何だかんだ…というテーマありきのところが本人の「21グラム」に似ている。…こうなってくると、スケールがデカいならデカいだけ穴もデカくなるだろうなぁ。降りかかる不評など吹っ飛ばしてもらいたいところだが、正直言って言われても仕方ない面もあるのだ。

 これじゃいいかげん、さすがの俺でもイニャリトゥを弁護できなくなるぜ。

 

見た後での感想、あるいは「バベル」の作り方

 いつもだとここで、映画を見て実際どう思ったのかを第一印象から語り始めるところ。だが今回はちょっと趣向を変えて、出来上がった映画から類推する「この映画の作り方」を語ってみようと思う。その結果、この映画がどうしてこうなったのか、その良いところも悪いところも見極められると思うからだ。

 まず今回の映画の構成は、次の3カ国=4エピソードに分かれている。

(1)モロッコ編その1

 モロッコの貧しい兄弟の話。

(2)メキシコ編

 メキシコ人の子守りアドリアナ・バラッザの話。

(3)モロッコ編その2

 ブラピとケイト・ブランシェットの話。

(4)日本編

 菊池凛子のろう者のコギャルの話。

 これらの物語の時制は、それぞれ少しずつズレている。例えば「モロッコ編」の「1」と「2」では、同じ国を舞台にして接点もあるのに、流れている時間の早さは微妙に違っている。「モロッコ編その1」が先行して進んでいて、「その2」が後から追いかけるかたちをとっているのだ。そして「モロッコ編その2」の終わりまで見ていくと、それが「メキシコ編」(その冒頭はアメリカが舞台なのだが)の冒頭につながっていることが分かる。「日本編」は劇中で流れるニュースの中継映像を見る限りでは、「モロッコ編その2」と若干の時差でつながっているらしい。

 で、この時間差を付けた構成について、おそらく「21グラム」同様批判の対象になるな…と思いながら見ていたが、これについては後で詳しく語りたいと思う。ここではとりあえず、この作品の構成について見ていこう。

 この中でまず「なるほど」と思うのは、(2)の「メキシコ編」。ワールドワイドなパラレル・ドラマをつくる場合、そこに自分のホームグラウンドを入れるのはお約束だろう。何より自分のよく知っている世界だし、子飼いの俳優も使いやすい。またまたここでクロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」を引き合いに出すと、あそこに作品の要としてパリが出てくるのは必然なのだ。したがって…メキシコが出てきてガエル・ガルシア・ベルナルが出てくるのは、イニャリトゥがワールドワイドなドラマをつくるとなれば避けられない要素だったはず。

 次にモロッコが舞台となるのは…ここからが複雑なパワー・バランスの世界なのだが、おそらくコミュニケーション不全を描き、世界を舞台にさまざまな「落差」を描こうというこの作品では、「豊かさ」と「貧しさ」の対比を描くことは必至だったはず。その中で…こう言っては失礼だが、メキシコ出身のイニャリトゥには、その母国メキシコを「貧しさ」代表の国として描くことはできなかったのではないだろうか。

 アメリカ人兄妹の世界から見れば、確かにメキシコは貧しい。ここで描かれているのも、国境を挟んだアメリカとの「格差」の問題に他ならないのだが、それでも作品全体のバランスの中での「貧しさ」代表としてメキシコを描くのには、イニャリトゥはさすがに抵抗があったように思われる。いや、「抵抗があった」というよりも、最初からそんな発想そのものがなかったのではないだろうか。そのため…不謹慎を恐れずズバリと指摘すれば、メキシコより貧しい国としてモロッコが出てくる。

 では、モロッコのエピソードが2つのパートに分かれるのはなぜか?

 それは、「アモーレス・ペロス」の交通事故にあたるこの映画最大の「事件」が、このモロッコで起きるからだ。おそらくイニャリトゥは、「アモーレス・ペロス」とまったく同じ発想でこの部分をつくっている。

 「事件」を起点としてその「事件」を起こした側と起こされた側を対照的に描くというのは、プランとしては悪くない。同じ事件でも見る方向が違えば全く別の見え方になる。だからドラマの登場人物は片や貧しいモロッコ兄弟、片や豊かなアメリカ人夫婦。演じるのも片や無名で素人のモロッコ少年たち、片やハリウッドの大スターであるブラッド・ピットケイト・ブランシェットだ。年齢、人種、言語、属性が全く異なる。むしろ正反対と言える。

 そしてこの映画には、どうしてもハリウッド・スターが必要だ。

 実際この手の映画の定石として、ハリウッド・スターは必須アイテムだ。先に何度も挙げた「愛と哀しみのボレロ」でも、フランス映画には珍しくジェームズ・カーンが顔を出していたように、彩りとして必要な要素なのだ。むろんワールドワイドなパラレル・ドラマは巨額の制作費がかかるだけに、興業上の保険としてもハリウッド・スターは欲しい。だがそれ以上に、大作としての「格」がスターを要求している。

 おそらく映画「通」は「ミーハーなハリウッド・スターなんて」…とブツクサ言いたいところだろうが、ここでブラピがいない「バベル」を考えていただきたい。それよりもっとスターとしては格下の誰かが出ていたら…例えば「マトリックス」シリーズのヒューゴ・ウィービングあたりが出ていることを想像してみればいい。役者としてはうまい人だし、それなりにイイ味を出したかもしれない。だが、映画としての「格」はどうだっただろう

 僕はブラピ・ファンでも何でもないし、スター礼賛主義者でもない。だが、やっぱりこういうスケールの大きい映画には、それなりの人が必要なのだ。そのあたりは、いかにアンチ・ブラピの人でもスター嫌いの映画マニアでも納得していただけるのではないだろうか。

 さて、本来はハリウッド・スター登場の場として、舞台の一つはアメリカにならねばならないところ。しかし彼らの登場場面がモロッコになった事によって、この映画はもう一つのユニークの舞台を手に入れることになった。それが日本だ。

 もっとも日本場面決定については、先にこっちが決まっていた可能性がある。ハイテク物質文明最先端の都市として、ある意味で東京にはニューヨークなどよりクールなイメージがあるからだ。人種的な彩りとしても言語的にも、ここで日本を出すことは作品のバラエティになる。逆に日本場面を「豊かさ」と「物質文明」のパートとして設定したことから、アメリカ人であるハリウッド・スターがモロッコにスライドした可能性もある日本が出てきてアメリカが出てきたら、さすがに似たような物質文明国ばかり並んで面白くないだろうと判断されるからだ。

 そして日本場面を設定した段階で、ここでの主人公を女子高生にしようと思った可能性もある。コギャルは日本のポップ・カルチャーを代表する存在だし、他のエピソードを見ていっても…子守りのオバサン、アメリカ人主婦などなど、女性の登場人物では若い人間がいない。つまり…ここもバランスの判断で、主人公が女子高生に決められたように思われるのだ。

 ところが…。

 人間同士のコミュニケーション不全を描くこの作品。だからこそ人種、国籍、社会階層が違うエピソードを並列させ、同じエピソード内でもあえて人物同士を衝突させている。アメリカ人夫婦同士は心が通わない。その妻が生きるか死ぬかの境にいるというのに、同じツアーの観光客はサッサと逃げ出してしまう。夫が必死に大使館員に掛け合っても、一向に助けはやってこない。モロッコの貧しい兄弟同士はつまらぬ諍いを繰り返し、それが悲劇の引き金を引く。息子の結婚式に出席するというささやかな願いが聞き入れられなかったがために、メキシコ人の子守りはムチャな子連れ旅を行ってしまう。その甥はちょっとしたボタンの掛け違いから、差別意識丸出しの国境警備隊を敵に回すハメになる。そして日本編の主人公である女子高生は、常に周囲の人間との関係がささくれ立っている。父親との関係もうまくいっていない。好意を抱いた人への感情表現もヘタで、いきなり大胆に迫って退かせてしまう…。

 ちょっと待てよ?

 モロッコの貧しい兄弟の置かれた状況は元々楽なものではないし、誤って起こしてしまった事件の顛末もハードだ。アメリカ人夫婦はまさに窮地に陥ってしまうし、国境警備隊との諍いはシャレにならない。メキシコ人の子守りは砂漠で生命の危険にさらされる。どれもこれもハードそのものの状況だ。

 ところがそこに、日本のコギャルが父親とうまくいってないってだけの話ってのはいかがなものだろうか。この娘ときたらやたらギスギスして文句ばかり言ってるし、気に入った男がいれば裸で迫る。そんなコギャルの日常はクラブで大騒ぎ。家に帰れば、窓からウォーターフロントの夜景が美しい高級マンションとくる。

 これで「コミュニケーション不全だぁ」などと嘆かれても、甘ったれてるとしか見えないんじゃないか?

 おそらくイニャリトゥも、脚本をつくる段階でそれに気づいたのではないか。いくら人の苦悩や悲しみの大小は計ったり比べたりすることができないとはいえ、他のエピソードの登場人物はみなハードな状況に置かれている。これでは日本のコギャル場面だけがやけに甘っちょろく見える。その物質的な豊かさこそが心の不毛を増大させている…と言ったところで、画面に映ってしまうのはラクチン生活なのだ。

 さりとてコギャルの生活水準を落とす訳にはいかない。そもそも貧しいモロッコや荒涼としたメキシコの砂漠との対比として、東京のクラブや輝く夜景が必要だった。それをなくしたら、このエピソードを日本に持ってくる意味もなくなる。

 そこでイニャリトゥは、このコギャルをろう者に設定したのだ。

 ちょっとイヤな言い方になるが、ハンディキャップを持ち出すことによって、この少女の「いい気なもんだ」感を減退させようとした。おまけにろう者であるということは、「コミュニケーション不全」というこの映画のテーマとも適っている。おそらくイニャリトゥの発想はそんなところにあったであろうと推察されるのだ。

 そもそもろう者のコギャルなんて…普通あまり発想しない設定ではないか。それは間違いなく存在するだろうが、日本人が作り手ならこういう設定にはしまい。おそらく外国人のイニャリトゥが…しかも後から無理矢理付け足した要素だから、こんなユニークな設定になったはずだ。まさに苦肉の策。それは、計算としては確かに功を奏したように思う。

 だが…あくまで僕の推理ではあるが…このように「バベル」のドラマ成立の筋道を辿っていくと、どうしたって日本編のドラマが後付けで付け足し感濃厚であることが分かるだろう。

 イニャリトゥはまず最初に、「バベル」のドラマが3〜4エピソードで展開されることを構想した。そのうち1つを自分の母国であるメキシコ編にしたのも、たぶん最初からの構想だろう。そして想像するに、残りの1つのエピソードは物質文明の国を舞台にしようとした。それが民族的にも言語的にも他と異なる日本だというのは、次の段階で決まったことだろう。主人公がコギャルであること、彼女がろう者であること…などは、先に述べたように他のエピソードとのバランスによって後から決まったことだと思える。そのせいか…他のエピソードよりお話の密度が薄い印象がどうしたって否めないのだ。

 そもそも母親の死によって父娘の関係がギクシャクする…なんて、ブラピとケイト・ブランシェット夫婦が子供を失ってギクシャクしているという設定の使い回しではないか。おまけにこのコギャルが何を考えているのか、最初から最後まで正直言ってよく分からない。イニャリトゥはあえて曖昧にしているという態度で撮っているが、それは高尚なことをやってるフリだけでまやかしのように思える。

 例えば終盤でコギャルが刑事に渡したメモについても、イニャリトゥは演じる菊池凛子に自由に書かせたのだと言う。だがそこに何が書かれていたかは、結局観客には伏せられたままだ。

 僕はその内容を伏せたからと言って、さらに余韻が深まるわけでもないように思う。

 劇場パンフにはこのあたりの事が書かれていて、菊池凛子が書いたメモを見たイニャリトゥは「自分も同じことを考えていた」とか言ったらしい。だが、たぶんそれはウソだろう(笑)。イニャリトゥはきっと、何も考えていなかったに違いない。

 つまり映画「バベル」にとって、日本編は最後に残っちゃった「あと一つ」のエピソードだったのだ。

 それは他のエピソードに、日本編のような曖昧さが混入していない事でも分かる。実はメキシコ編のガエル・ガルシア・ベルナルの行方なども曖昧と言えば曖昧だが、あれはむしろ手抜きと見るべきだろう。あるいはひょっとして、日本編に挿入されたニュース映像のどこかに出てきているのかもしれない。ともかく日本編以外のエピソードでは、何を考えているのかハッキリしない人物などは出てこない。起きている事件も人々の言動も明快。日本編だけがやけにハイブロウなのか、意味不明な言動ばかり出てくるのだ。

 そもそも他のエピソードでは、警察の追及から逃れようとするモロッコの兄弟とか、必死に救出を待つアメリカ人夫妻とか、死の危険と隣り合わせで砂漠をさまよう子守りと兄妹とか、ハッキリクッキリしたお話が続出する。ところが日本編では、コギャルが若造とじゃれたりクラブで騒いだり…というハッキリ言って「中味のない」描写が延々続く。他のエピソードとの対比で際だって見えるから観客の退屈を誘わずに済んでいるものの、それでも他のエピソードと比べてみれば、そのストーリーテリングの密度の薄さはかなり激しい。

 ハッキリ言ってイニャリトゥは、それまでのエピソードで知恵とネタを出し尽くしてしまったのではないか。

 だから後は「肉親が死んで関係が疎遠になった」…などというブラピ夫妻のエピソードの使用済みネタを焼き直し、そこに自分が想像できる安易な日本イメージを埋め込んでいった。「ブレードランナー」みたいな夜景、コギャル、クラブでの喧噪、尻軽で助平ですぐに脱ぐ日本娘…。こう言っちゃ何だが、まるでオリジナリティーのない「世界に流通する日本イメージ」の要素ばかりだ。だがイニャリトゥにとってはそれもムリのないところだっただろう。

 勝手知ったるメキシコ人やアメリカ人の心情・言動が分かるのは当たり前、モロッコ人のそれだって想像はついたかもしれない。だが日本人の…それもコギャルでろう者の感情なんて、イニャリトゥに分かる訳もなかっただろう。同じ日本人だって、コギャルの気持ちなど理解できない(笑)。かくてイニャリトゥは、自分が知っている限りの手垢のついたイメージで埋め尽くすしかなかった。それでも要素が足りなくて、お話としてはスカスカになってしまった。主人公の言動も唐突で、しかも理解に苦しむ。

 そんな凡庸なイメージの日本編に、新味はただ一つ。苦肉の策で困った末に思いついた「ろう者のコギャル」という一点のみ。

 ところがこれが、日本編全体をオリジナリティーのあるものと錯覚させる効果をもたらしたから、映画ってのは分からない。コギャルの活動範囲も、ろう者の目から見れば新鮮に見える。まさにこれはラッキーそのもの。だが、それはあくまで偶然の産物でしかない。

 このように「バベル」は、やっぱりいつものイニャリトゥ映画と同じように、パラレル・ドラマが抱える問題点を解消できないまま出来上がった作品だ。「アモーレス・ペロス」や「21グラム」が持っていた破綻要素を、そっくりそのまま受け継いだのがこの作品だと言える。その最たるものが、おそらくこの日本編なのだろう。

 

偶然がもたらした「バベル」想定外の付加価値

 では、やっぱり「バベル」はボコボコにブッ叩かれても仕方がない出来損ない映画なのか?

 …と、これが必ずしもそうはならないから、映画とは不思議なもの。実際はこの作品、なかなか魅力溢れる作品に仕上がっているのだ。

 先に述べたように…モロッコ編2つは、結構お話自体はうまく作用している。元々この映画の物語を構築する「核」となっていた部分だろうから、よく出来ているのは当たり前。話の運び方も矛盾や破綻が少ない。

 さらにメキシコ編についてはお話自体はあまり内容がないが、そもそもイニャリトゥのお膝元だからこれまたムリがない。唯一気になる点は、ガエル・ガルシア・ベルナルがどこへ行っちゃったのかという部分だけ。全体的に帳尻合わせの感が強いエピソードではあるが、それでも何となくスジは通っている。

 やっぱり作劇上の最大の問題点は、この映画の場合は日本編にあるのだ。

 ところが、その日本編が意外に悪くなかった。

 先にあれこれと検証していったように、日本編はドラマとしては致命的に弱い。元々「あと一つ」の埋めグサとしてつくられたエピソードだから、いいかげんネタもモチベーションも激減している。そこへ来て、そもそもイニャリトゥが日本のことなんぞろくすっぽ知っているわけがない。ろう者についてもコギャルについても分からない。これでは埋めたくったって埋められる訳がないのだ。

 だが、そんなスカスカなドラマを…実は出演者が埋めていたとしたらどうだ。

 日本編の主人公を演じた、菊池凛子が意外にもかなり健闘しているのである。

 正直言って海の向こうから彼女の評判が聞こえて来ても、僕は「本当かいな?」と半信半疑だった。その後、ゴールデングローブやオスカーの授賞式に登場した彼女の安っぽいケバさを見て、「何だかまたまた勘違い日本女が新たに一人出て来ちゃったな」…と、かなり興ざめしてしまったのも事実だ。実際はそれって彼女の次回作のための出で立ちだったらしいので、僕の不明を恥じなければならないところだが…。まぁ、役者というものは御本人と演じるキャラクターとは別物だから、実物の菊池凛子がどれほどケバかろうが安かろうが一向に問題ない。しかしそれでも…海外からの絶賛評に対して、「そりゃ買いかぶりだろう」という意地悪な視点を持っていたことは確か。僕はハナっからまったく彼女を買っていなかった。

 しかし、これが意外に良かったから分からない。

 脚本上では描き込みも足らないし無理があり過ぎのキャラクター…菊池凛子はそれを、何とかかんとか血の通った人物に仕立て直しているのである。まったく作り物…と思われかねない人物に厚みとボリュームを与えて、「ひょっとしたらどこかにいるかも」…ぐらいには思えるように演じきっている。これは大したものだ。

 世評ではこのコギャル主人公のやたら脱ぎたがり迫りたがりのキャラクターに「ありっこない」と批判する向きも多い。自分の好意をうまく表現できないからといって、あんな突飛な行動に出るはずがない…と批判続出だ。だが、ここはこの映画の名誉のためにあえて言えば、ああいった女は確かにいる。僕はこういう女たちを知っている。ろう者でなくても、自分の気持ちをうまく表現できず、オーバーヒートしてしまう不器用な女は実際にいるのだ。だから僕には、あれがリアリティがないとは思えなかった。

 もっともイニャリトゥがそんな女を知っていたかと言えば、かなりアヤシイところだろう。おそらくこれは、幸運な偶然に過ぎまい。そしてそんなキャラを「血の通った人物像」に作り直した菊池凛子の熱演によるところが大なのではないだろうか。逆に言うと…例のメモの内容のように、ほとんどイニャリトゥが放棄してしまったコギャルのキャラクター・スタディーを、菊池凛子が肩代わりして行ったとも言える。この部分は彼女の創作に近いのではないかと思わされるのだ。

 そんな彼女の献身的な演技のおかげで、日本編はそれ自体が持っている破綻を最小限にとどめることに成功した。例えばエンディング、父親の役所広司がベランダで素っ裸の自分の娘を見て、果たしてあんな反応でいいのか?…という疑問は残る。だが、そんな事よりも娘のただならぬ気配の方に注意がいったのだろう…と「好意的」解釈もかろうじて成り立たないではない。さまざまな幸運と偶然の産物ではあるが、もっと大きい穴には目がいかないという結果に何とか落ち着いている。

 そして最大の問題点である日本編の破綻が目立たなかったおかげで、「バベル」作品全体も救われたのだ。

 いつも「もう一つ」のエピソードの破綻が目立ったり、人物像の造形の強引さが露呈して、作品全体のキズがミエミエになってしまうイニャリトゥ作品。ところが今回は作品最大の破綻がまんまと覆い隠されたのだから、まさにラッキーとしか言いようがない。

 そのおかげか…毎回毎回イニャリトゥ作品にまとわりつく疑問も、今回ばかりは解消されたのではないかと思う。それは、彼の作品がパラレル・ドラマの形をとらねばならない事に対する疑問だ。何でわざわざ3〜4つのエピソードが平行する、不自然なドラマ形態をとらねばならないのか。確かに「アモーレス・ペロス」「21グラム」…と、彼の作品を見るたびに映画の根幹部分を揺るがすような疑問が沸き起こってこざるを得なかった。それがイニャリトゥ映画の致命的欠陥に思えなくもなかった。スムースにパラレルが成立していればそんな疑問も起きないのだろうが、何しろ常にどこか「穴」が丸見えになってしまうので、観客としてはパラレル形式をとることへの疑問を気づかずにいられなかったわけだ。

 だが今回は、それも日本編の意外な健闘のおかげで目立たずに済んだ。しかも映画そのもののコンセプトが、パラレルの矛盾を飲み込んでしまった。お話を地球規模にまで広げ、振り幅を最大限に持っていったため、形式自体が映画のテーマとなったからである。

 つまり、「地球のどこにいても、どんなに立場が違っていても、人はどこかでつながっている」…。

 そこまでイニャリトゥが考えていたかすこぶる怪しい(笑)が、これは彼が「思い切りデカい超大作にしよう」と野心を燃やしたがための、文字通り「怪我の功名」だろう。

 何だかこれではあまりイニャリトゥの弁護になっていないようだが(笑)、映画「バベル」を評価しているという点でご了解いただきたい。

 それもこれも…日本編に違和感が生じないように神経を使ったであろう日本側コーディネーターやスタッフなど、そして何より菊池凛子のおかげであるはずだ。イニャリトゥは彼女に足を向けて寝れないんじゃないだろうか。

 

見た後の付け足し

 実はこの映画の宣伝の仕方には、少なからず疑問を感じている。

 この作品は、ラストでブラピがわが家にかける電話のくだりまで来て、初めてアドリアナ・バラッザのメキシコ編が彼らとつながっている…と分かる仕組みになっている。そして、ここでそれが初めて分かることで、観客の胸にある種の感慨がわき起こるわけだ。

 「地球のどこにいても、どんなに立場が違っていても、人はどこかでつながっている」

 ところが日本では内容を宣伝で全部言ってしまっているので、アドリアナ・バラッザの連れた兄妹がブラピとケイト・ブランシェットの子供だと、観客には最初から分かってしまっている。これでは感慨もへったくれもないだろう。一体これはどうしたことだろうか。

 もしこの部分が伏せられて公開されていたら、見る側の気持ちもかなり違っていただろうに…と思うと、僕は残念でならない。ひょっとしたら映画「通」は「例えこの設定が説明されていなくても、大して感慨は受けなかった」とか言うのだろうが、もしこれが完全に伏せられていたら、ドラマトゥルギーの上で絶対に大きく違っていたはずなのだ。それだけは間違いない。何でこんなことやったんだろうねぇ。

 それからこれは余談だが…菊池凛子が訪れるクラブの場面で、近作ナイトミュージアム(2007)に引き続きアース・ウィンド&ファイアの「セプテンバー」が聞けたのはビックリ。なぜこんなに縁もゆかりもない2作品でこの曲が使われたのか、まったくの偶然とはいえ懐かしさに思わず涙。嬉しい驚きだった。

 

 

 

 

 

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