「ラストキング・オブ・スコットランド」

  The Last King of Scotland

 (2007/04/02)


  

見る前の予想

 今年のアカデミー主演男優賞をとったのは、悪名高いアミン大統領を演じたフォレスト・ウィテカー。元々ガチガチの大本命だったし、この20年ほどの間にさまざまな映画で気になる名演・怪演を見せてくれたウィテカーだ。オスカー受賞には何の疑念もない。だからこの映画の興味は、言うまでもなくウィテカーの芝居っぷりにある。

 さらに見たいのは、悪評ふんぷんたる独裁者アミンについてどう描いているのか…ということ。そもそも僕は、独裁者の存在そのものに関心がある。ならばこの映画も、見ないで済ませるわけにはいくまい。よくよく考えてみると、ここ最近のアメリカ映画…ないしはアメリカ資本が入った映画やアメリカ公開を前提としている映画には、アフリカを舞台にした社会派映画やアフリカの政治をネタにした映画がやたら多い。ちょっと名前を挙げてみても…「ホテル・ルワンダ」(2004)、ナイロビの蜂(2005)、「ルワンダの涙」(2005)、輝く夜明けに向かって(2006)…と来る。そして近々、レオナルド・ディカプリオ主演の「ブラッド・ダイヤモンド」(2006)もやって来るという盛況ぶりだ。そういやシドニー・ポラック久々の快作ザ・インタープリター(2005)も、ベースに流れるのはアフリカの政治問題だった。ついでに挙げれば、007/カジノ・ロワイヤル(2006)序盤の大アクション場面がアフリカはウガンダで展開されるのも、こうした映画界のトレンドと無縁なはずはあるまい。

 今なぜアフリカなのか?…という疑問はともかく、そんな一連の作品の中でも「アミン」と来ればまさに「真打ち」(笑)という感じがする。やっぱりこれは見ておかねばならない映画だろう。

 

あらすじ

 1971年、スコットランド。医大を卒業したニコラス(ジェームズ・マカヴォイ)は嬉しさも中くらいだった。結局は、医者である父親の影響下から逃れることが出来ない不甲斐なさ。この場からの脱出を思い立ったニコラスは、地球儀を弄んで行き先を決める。ハッキリ言ってどこでも良かった。

 決まった行き先はアフリカはウガンダ。現地の人々とバスに揺られて行く長旅は、それなりに楽しいものだった。途中、軍の車両が行き交う場面を目にしたニコラスは、それが「クーデター」によるものと聞いて緊張する。だがウガンダの人々は、どうもこのクーデターを望ましいものと思っているようだ。

 そんな開放感の中、ついつい現地の女をつまみ食いしたりして目的地に着くニコラス。そこは貧しい辺境の村で、イギリス人のメリット医師が妻と共に診療所を開いていた。ニコラスはそこで早速地味な医療活動に従事する。だが、早くも退屈を覚えるニコラス。

 ある日、彼はメリット医師の留守中に、彼の妻サラ(ジリアン・アンダーソン)を連れて近くの町まで足を延ばすことにする。実はその日、その町には新しい大統領アミン(フォレスト・ウィテカー)がやって来て、演説をぶつことになっていた。

 例のバスの乗客の反応から、クーデターの立て役者アミンに好印象を持っていたニコラス。その生演説に接するに至って、ニコラスの好印象は確信へと変わっていった。「どうせ誰が上に立っても同じこと」とシラけるサラと対照的に現地の人々と共に熱狂し、アミンに入れ込むニコラス。

 しかもその帰り道、ニコラスとサラはアミンの側近たちに呼び止められた。何とアミンのクルマが飛び出してきた牛と衝突、アミンが負傷したというのだ。早速ニコラスが診察すると、アミンのケガは大したことがなかった。しかしキズつき苦しむ牛を見かねたニコラスは、その場で即座にその牛を射殺する。これには一瞬緊張がはしったものの、アミンはそんなニコラスが気に入ったようだ。何と「自分はスコットランドが好き」と言い出したアミンは、自分の軍服とニコラスのスコットランドTシャツを交換すると言い出す。そんなアミンの庶民性に、ニコラスはますます惹きつけられていく。

 そんな高揚した気分からか、ニコラスはその夜サラを口説こうとして失敗。何とも気まずい雰囲気になってしまったのは、若気の至りとはいえ誤算だった。

 するとニコラスの気持ちが天に通じたのか、まもなくアミンの側近中の側近・ワッサワ大臣(ステファン・ルワンギェジ)が彼を迎えにやって来る。こうして首都カンバラに連れて行かれたニコラスは、アミンから直々に「主治医になってくれ」と頼まれる。一旦は断ったニコラスだが、アミン個人にも惹かれていたし派手な生活に憧れもしていた彼は、結局その申し出を受け入れることにした。

 こうしてアミンの主治医となったニコラスは、たちまち主治医のワクを超えた「側近」待遇を手に入れる。なぜか主治医なのに「アミンの代理」で会議に出席。まるでアミンのスポークスマンのように、行事には必ず参列。それまでのアミンの主治医を差し置いて、国立病院のナンバーワンの地位も得ることになる。

 そんなある日、何人かいるアミンの夫人のうち美しい第二夫人ケイ(ケリー・ワシントン)の息子がてんかん発作を起こした。早速駆けつけたニコラスは、彼女の息子を危機から救い出す。この時から、ケイはニコラスに深い信頼を寄せるようになる。それにはニコラスもまんざらでもなかった。

 一方ニコラスは、自分に接近してくる西欧人たちには冷たかった。特に「綿密に連絡を取り合おう」と迫って来た英国の高等弁務官ストーン(サイモン・マクバーニー)には、露骨に冷淡な態度をとるニコラス。彼はストーンたち西欧人が、西欧の論理でアミン率いるウガンダを搾取しようとしていると思っていたのだ。ロクに現地の事情も知らないくせに、ニコラスはいっぱしに偉そうな態度でストーンを突っぱねる。

 ある日、アミンからもらった高価なオープン・カーをもらったニコラスは、偶然このクルマでアミンの命を救うことになる。反アミンの反政府勢力が、いまだに彼の命を狙おうと破壊工作を繰り返していたのだ。捕らえられた反政府ゲリラの連中を前にしたアミンは、今までの人なつこい表情とは全く違う一面を見せていた。

 そんなある日、ニコラスはバーでワッサワ大臣が白人たちと語り合っている場面を目撃する。そしてよせばいいのに、ニコラスはその事をアミンにご注進に及んでしまった。

 「ワッサワを調べてみた方がいいですよ」

 それからしばらくして、ストーンからアミンが反対勢力を次々粛正していると聞かされるニコラス。相変わらずの「あら探し」だろうと相手にしてなかったニコラスだったが、次にストーンが語った言葉にはさすがに息を飲まずにいられない。

 「そういえば、ワッサワもここ数日姿を消している。どこに行ったのか御存知ですかな…?」

 

独裁者とその象徴としてのアミン

 僕は独裁者が大好きだ(笑)。

 独裁者が統治する国に暮らすのはまっぴらごめんだが、独裁者のことを調べたり、観察するのが大好きだ。

 それというのも…独裁者の姿には、人間本来の姿があると思うからだ。やりたいようにやれれば、人間はこうなる。人間の本質は「悪」であるという、最もハッキリした証拠がこれなのだ。

 例えば僕もあなたも、自分が何をやってもよくて、誰もそれを止められなくて、望むモノは何でも手に入る状態ならば、一体何をするだろう? 最初はひょっとしたら福祉や善行をするかもしれない。長年の念願だった意義のある仕事を、実行に移すことだってあるだろう。だがそのうちに…少しは自分の欲望を叶えたくもなるのではないか。

 ちょっとならいいや…。

 そのうち自分に逆らう者、自分の思うようにできない事に耐えられなくなるだろう。元々、気に入らない人間だっているだろう。過去に屈辱を味合わされた人間だっているだろう。そういう人間を衆人環視の中で赤っ恥さらすこともできるとしたら、あなたはどうする?

 いや、あなたの崇高な目的を邪魔する人間だったらどうだ? 正しい目的の障害となる人間…そういう人間は「悪い人間」だ。痛めつけてやった方がいい、排除してしまった方がいい…とあなたは思わないだろうか?

 そういう人間たちを失業させられるし社会的地位を剥奪できるし、なにより投獄だって殺害だってできるとなれば、あなたはそれを行わずにいられるだろうか? 否、そんな人間は一人だっていない。誰だって自分の持っている力を、行使したくなる誘惑には勝てまい。もしその人間が「悪い人間」だったら、それを行う大義名分だって立とうというものだ。

 そのうち気に入らない人間をかたづけていくと、今度は誰もが自分にオベンチャラを言うようになる。そんな周囲の人間は我慢がならないし、信用できなくなってくるだろう。何より、誰も自分に本当の事を言う者がいなくなる。こうなってしまうと、周囲の連中を片っ端から始末するしかない。ナメられないようにコワモテに徹するしかない。中途半端はあり得ない。草木も生えないほどトコトンやってしまうしかない。

 水が低い方にしか流れないように、人間はこうにしかならない。こうならない人間はいない。「自分はこうはならない」などと言う人間こそ、最もひどい事をやりかねない。

 それが人間というものなのだ。

 人間が何らかの特権なり役職なり地位や上下関係を手に入れた時、たった一人の例外もなく確実に腐敗するのは、このためなのだ。歳をとり偉くなればなるほど、人間は腐る。何らかの権限を得た時、人間は腐る。そうならない人間はいない。

 その逆で若かったりスキルがなかったり地位の低い人間は潔癖かと言えば、残念ながらどうしても未熟で無知で無責任で志が低くなりがちな場合が多い。だから上の人間に「こいつらは教育しなきゃならんし、指導してやらなきゃダメだ」と誤解させてしまう。こうして最初は極めて「善意」から、上に立つ人間は下の人間を管理し支配するようになる。

 かくも人間という生き物は、上から下までこんな具合だ。誰でもそうなのだ。例外はあり得ない。そうそうよりよい社会など築けるはずもない。そんな中で少しでもマシな状況をめざしたのが民主主義ということになるが、その実現が極めて困難なのはみなさんご存じの通り。だから独裁者とは、人間本来の性質を最も分かりやすく表現したモノだと言える。

 その象徴として、ここではアミンが登場する

 かつて虐殺やら圧政やら暴虐の限りを尽くしたと言われたアミン。しまいには殺した人間の肉を食ったとまで言われたこの男など、その最も分かりやすい例に違いない。今の人は知らない名前かもしれないが、かつては悪名の高さで知らぬ人のいない人物だったのだ。

 当然、不謹慎ながらあまりに面白すぎるエピソードの持ち主だけに、「アフリカ残酷物語/食人大統領アミン」(1981)などというキワモノ映画まで出来た。これは未見ながら、確か冷蔵庫の中に生首…な〜んて場面スチールがあったような気がする。

 なお、今回の映画のヤマ場になっているエンテベ空港人質奪還事件も格好の映画のネタになっており、合計3本の作品が生まれた。それもこれも、イスラエル軍による作戦成功ということで、ハリウッドを牛耳るユダヤ系の人々が過剰に盛り上がった…というきらいがなきにしもあらずだ。

 例えばワーナー映画によって完成直後日本公開が実現した「エンテベの勝利」(1976)は、バート・ランカスター、カーク・ダグラス、エリザベス・テイラー、リチャード・ドレイファスなどなど豪華オールスターによる作品。ところが前述した事情から、当時アラブ側から公開中止の圧力がかかって騒然とした中での公開となった。そもそも「勝利」というタイトル自体が挑発的だしねぇ…。しかし公開強行にも関わらず、わずか1〜2週間で上映は打ち切り。それもこれも…政治的圧力云々というより、作品の出来のまずさにあったようだ。僕は見ていないのだが…作品は元々テレビドラマだったようで、ビデオ撮影したものをフィルムに転写しての上映だったらしい。当然、この当時では現在のデジタル・ビデオのような画質は到底望めず、作品自体も突貫工事でつくったような粗悪なシロモノだったようだ。

 なぜ突貫工事でつくったかと言えば競合作品があったからで、その作品「特攻サンダーボルト作戦」(1976)も日本の配給業者に買い付けられていた。こちらは「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)などのアーヴィン・カーシュナー監督、チャールズ・ブロンソンやピーター・フィンチ主演による作品。しかし「エンテベの勝利」への圧力や散々な結果を見て配給会社がビビッたのか、当初の「エンテベ急襲」という邦題を「サンダーボルトGO!」という何だか分からないタイトルに変えながらも、なお公開は見送られた。結局先に挙げた「特攻サンダーボルト作戦」というさらに分からないタイトルに変え、日本公開はほぼ10年後にズレ込んだという不幸な作品。これも僕は未見ながら、出来栄えは例の「勝利」よりかなりマシなようだ。

 さらに本家(笑)イスラエルではメナハム・ゴーラン監督、ヨーラン・グローバス制作というコンビで「サンダーボルト救出作戦」(1977)がつくられたが、これは日本劇場未公開。ちなみにこのゴーラン&グローバスが新興会社キャノンでつくったチャック・ノリス主演「デルタ・フォース」(1985)は、架空のお話ながら明らかにエンテベ事件を意識していたはずだ。

 そんなこんなで…アミン時代をリアルに再現したこの映画、僕にとってはワクワクドキドキな作品だったことは言うまでもない。

 

見た後での感想

 誰もが指摘することだろうが、フォレスト・ウィテカーの独裁者ぶりが最大の見もの。それも人なつっこくて暖かみのある魅力的な人物が、そっくりそのまま得体の知れない怪物と化していくあたりが何とも恐い。

 ヒトラー/最期の12日間(2004)が公開された時に、ブルーノ・ガンツ演じるヒトラーが人間味ある人物に見えたため批判した人々がいたそうだが、それは大きな間違いだ。独裁者こそ魅力的で人間味がなければオカシイ。そうでなければ、多くに人々を惹きつけることなど出来ないではないか。そして後にも述べるが…「人間味がある」イコール「善」とは限らない

 そういやウィテカーってクセもの役者で、ゴースト・ドッグ(1999)の「武士道」に凝る殺し屋をはじめ名演は数々あれど…その大半は「クライング・ゲーム」(1992)前半の英国軍兵士とかフォーン・ブース(2002)の刑事とか、どこか暖かみのある好感の持てる人物だった。パニック・ルーム(2002)ですら悪党一味の一人を演じていながら、なぜか観客の好感を呼ぶ人物。あのクマちゃんのヌイグルミを思わせる身体つきと人なつこそうな顔がモノをいう。そんなウィテカーが演じるからこそ、この映画の実際の主人公であり語り部であるニコラスが強く惹かれていくのも説得力がある。

 僕は今回の作品を見ていて、彼の出世作で僕自身も鮮烈な印象を受けた「ハスラー2」(1986)でのビリヤード詐欺師を思い出した。人なつこそうで人が良さそうで、「こいつはカモ」とベテラン・ハスラーのポール・ニューマンはすっかり信じ込んでしまう。しかし実はウィテカーは名うての勝負師で、ニューマンはケツの毛まで抜かれてしまうという一幕。

 そんなウィテカーの「親しみやすさと凄味が表裏一体」というあたり、今回の役づくりの基本に応用されているような気がするのだ。

 

独裁に限らず人間社会が根本に抱えている危うさ

 フォレスト・ウィテカーが希代の独裁者アミンに扮してアカデミー主演男優賞を手に入れたこの作品、しかし見終わった後に印象に残るのは、アミンその人よりも側近ニコラスの意外なまでの比重の重さではないだろうか。

 実際にもアミンの非道ぶり、残虐性、狂信性をたっぷり描くと思いきや、むしろ架空人物(実際には複数の白人のモデルがいたらしいが)ニコラスのおめでたさ、幼稚さ、傲慢、無知、エゴを描くことにこそ作者の興味はあるようだ。そんな作者の意図は、映画を見ているうちにだんだんとハッキリしてくる。

 志があるような顔をして、実はそんなもの全くない(先輩医師の妻は、そんな彼の正体を早い時期に喝破している)。熱狂的興奮には何の疑いも持たず無批判に迎合する。おだてりゃたちまち木に登る。誘惑にはめっぽう弱い。一度オイシイ思いをしたら、もうそれを二度と手放せない。そしてテメエの見たくないモノ、都合の悪いモノには目をつぶる。むしろ自分が指摘されてイタイ「図星」を突かれると、過剰にヒステリックに反応する。いよいよすべてが誤りだったと分かってからも、それらが自分のせいとは思いもしない…。「世間知らずの坊ちゃん」ニコラスが独裁者アミンに「まんま」と引っ張られていく過程とは、「人はなぜ恐ろしいはずの独裁者を自分たちで奉ってしまうのか?」…を分かりやすく描いた「縮図」となっているのだ。

 劇中で誰かも言っていたが、ヒトラーだって国民から合法的に選ばれたリーダーだった。民主主義がすべて正しい結果を生むとは言い難い。むろん独裁よりも民主主義がいいはずだし、より理想的なはず。…にも関わらず、皮肉なことに民主主義が独裁を生む可能性は極めて高いのだ。

 だから、どこかの国で政治家が躍起になって「国民投票」などをさせようとしている理由は明白だ。政治家が何の下心もなしに、自ら国民の意見を直接政治に反映させよう…となどと律儀なことを思うはずがない。それほど連中がお人好しなはずがないだろう(笑)。本気でそう思っている人がいるとすれば、大変失礼ながらかなりおめでたいと言わざるを得ない。そして政治家がこれに躍起になっているというのは、彼らが国民をナメきっている証拠でもある。また18歳からをその対象にしようとしているのは、若い奴ほどアホでおだてりゃ言いなりになると踏んでいるからだ。そして残念ながら、それはある程度当たってもいる。彼らは国民をうまく丸め込めるという自信があるからやるのだ。

 前述のごとく、国民の意見が直接反映されればすべて良い結果になるという保証は、残念ながらどこにもない。人は時にいとも簡単に赤子のようにダマされる。よく街頭インタビューなどで、「首相には強いリーダーシップを発揮してもらいたい」などと語る一般の人々が出てくるが、あんな発言をしている連中は自分が言っている言葉の意味を分かってはいない。そんなに強いリーダーが欲しければ、ヒトラーみたいな奴を上に立てればいいという事になってしまう。

 その意味で、独裁者がしばしば「改革」を旗印にして出てくるのも極めて象徴的ではないか。「改革」とはしばしば議論やさまざまな煩雑なプロセスをすっ飛ばして、指導者のトップダウンで行わねば実行されない。「独裁」を行う口実として最も有効なのが、この「改革」というキーワードなのだ。そして「改革」という言葉には、実に輝かしくも美しいイメージがある。だから大衆は、この言葉にいとも簡単にコロリとダマされてしまうのだ。

 こうなると、言いたくはないが…「やられる側も悪い」と言わざるを得ない。

 かように我々を含め大衆というものは、しばしばおめでたくも愚かなものだ。この映画では、ニコラスこそがその典型として描かれる。アミンを描くこの映画が、時としてアミンその人よりニコラスにピントを合わせた描き方をしているのは、「独裁は、独裁者よりもそれを招いてしまう大衆にこそ原因がある」…という点を描きたいからだろう。ドキュメンタリーの問題作「運命を分けたザイル」(2003)をつくったケヴィン・マクドナルド監督は、むしろ独裁者その人の怖さなど取るに足らないものだと言いたげだ。それを無批判に有り難がって祭り上げる周囲の愚かさこそが恐ろしいのだ。

 むろん独裁者その人も「ただの人」ではない。人を惹きつける魅力的で人間的な人物でなければならない。そして、その「人間味」こそが恐怖の芽でもある。実際のところ、アミンだって最初は「学校や病院をつくる」とか、「みんなが自由で幸福になれる国にする」とか本気で思っていたのだろう。しかし時として、暖かい人間味と高い理想が「アダ」となることもある。

 人間味豊かだからこそ冷徹な計算や分析ではなく感情で判断してしまう。感情豊かだからどっちかに肩入れしたり入れ込んだり、誰かを必要以上に悪く見たり裁いたりして、フェアでバランスある判断ができない。そして感情の中には憎悪も恐怖もある。傲慢も自己陶酔もある。もちろん好き嫌いもクセもある。こう考えていくと…「人間味豊かな指導者」とは、それだけで危険な存在だということが分かるだろう。実は「人間味がある」とは、必ずしも指導者としての良い資質とは言えないのだ。

 しかも「理想が高い」ということはしばしば一種の潔癖性につながり、思いこんだら徹底的にやってしまうということになりがちだ。このタイプの人物は自分の目的のためとあらば、手段を選ばずどんな事でもためらわずやってしまうだろう。その目的が正しければいいが、もし間違っていたら恐ろしい結果を呼ぶ。「志の高さ」も、必ずしも「正しさ」とは結びつかないから怖いのだ。

 だが「指導者の資質」は、しばしば大衆から良くも悪くも誤解される。大衆の最も危ういところは、そこにあるのだ。

 そんな矛盾をキッチリと分かりやすく見せたマクドナルド監督は、「独裁者映画」に新しい側面を付け加えたと言える。今回の映画で第2夫人の手足バラバラ死体と終盤のニコラスの拷問以外、スキャンダラスな残酷描写は極力控えているのも、「独裁者とはそれ自身が“悪魔”だから恐ろしいのではない」という主張を強調するためだろう。

 人はしばしば「強い指導者」を求める。「人間味あふれる指導者」を求める。しかし、そこにこそ破滅の萌芽が潜んでいるとすればどうだ。民主主義こそが独裁を生む温床になっているとしたらどうだ。一体、人間には「よりよい社会」の構築が可能なのだろうか?

 それは人間がつくる社会というものに対する、徹底的な絶望感に他ならないのだ。

 

 

 

 

 

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