「ディパーテッド」

  The Departed

 (2007/02/05)


  

見る前の予想

 マーティン・スコセッシが香港映画インファナル・アフェア(2003)をハリウッド・リメイクすると聞いて、ゲンナリしなかった映画ファンっていないんじゃないか。

 何しろ「インファナル・アフェア」は面白かった。香港映画の一時期の沈滞ムードを払拭した作品だ。誰だってリメイクなんてやって欲しくなかっただろう。

 おまけに、最近ハリウッド映画と言えばリメイクばかり。それも、ありとあらゆる作品を手当たりばったりに再映画化と来るからイヤになる。いかにも企画の貧困ここに極まれり。自らも映画マニアであり、こんなアメリカ映画の風潮を好ましく思っていないはずのスコセッシが、何でまたリメイク。それも香港映画近年最大の成功作を、何もハリウッドがパクらなくてもいいではないか。何だか情けなくなってくる。

 それをガチガチ商業映画監督がやるならまだしも、一応アメリカ映画界では「作家」として名の通ったスコセッシがやってしまうとは、正直言って悪い冗談としか思えない。

 最初は単にブラピが映画化権を買ったというだけのお話だったのが、まさかスコセッシ御大まで担ぎ出してしまうとは驚いた。乗ったスコセッシにも二度ビックリだ。

 まぁスコセッシだって「ケープ・フィアー」(1991)というリメイク作品があるにはある。ただし…あれはオリジナルが映画史に揺るぎない地位を築いた作品という程でもないし、まして制作されてからまだ何年も経ってない外国作品というわけでもない。こんな近年のハリウッドの風潮にそのまんま乗っかったようい、ホイホイつくっちゃったリメイク作品ではなかった。

 それに「インファナル・アフェア」ハリウッド・リメイクをやったのが、マイケル・ベイみたいないいかげんな映画監督ならまだ分かるが…仮にもマーティン・スコセッシだろう? 「レイジング・ブル」(1980)の監督だぜ。一体どうしちゃったんだ?

 たまにカネのためにつくってみましたって話なら、まぁ分からないでもない。だが主演はレオナルド・ディカプリオ。確かにギャング・オブ・ニューヨーク」(2002)、アビエイター(2004)…と、ここんとこ立て続けのディカプリオ=スコセッシのコラボは、古いスコセッシ・ファンから何かと批判の的だ。だが、僕は前作「アビエイター」でこの二人のコラボは「買える」と思った。少なくともスコセッシは往年のロバート・デニーロとのコンビのように、今、最も創作欲をそそる相手としてディカプリオを見ているのだろう。つまり、スコセッシがこの映画で主演にディカプリオを選んだということは、今回も「本気」ということだ。「ケープ・フィアー」みたいなスピルバーグからの頼まれ仕事とは違う。

 しかも出来上がった作品「ディパーテッド」は、ゴールデン・グローブやオスカーの主要賞に軒並みノミネート。スコセッシがまったく手を抜かなかった証拠だ。この作品でこれほど高い評価を得るとは、僕もまったく意外だった。

 むろん…あの映画のあの役は、トニー・レオンとアンディ・ラウ以外一切認められない、香港じゃなきゃあの素晴らしさは達成できない、絶対ハリウッド・リメイクは認められないし、絶対に見ない…といういささか過敏な反応はこの際問題外だ。僕はそこまであの映画に入れ込んでいるわけではない。そもそも…少々意地悪く言わせてもらえれば、ハリウッドに映画化権をカネで売ったのは、他でもないその「香港」だしねぇ

 というわけで、期待と不安渦巻くこの作品…だからこそ、僕は「見たくない」などと思うはずもない。むしろスコセッシがこの題材のどこにそんなに興味を惹かれたのか、どう料理したのかを見たくなった。

 いや…実は僕はもう見る前から、それに大体の察しがついていたような気がする。

 

あらすじ

 「黒人は何も分かってない。白人にだって差別はある。アイルランド系はケネディが大統領になるまでロクに仕事もなかった。与えられないと文句を言うな。欲しけりゃ自分で奪い取るんだ!

 ボストンのアイルランド系社会の中で、その男は文字通り「顔」だった。その名はフランク・コステロ(ジャック・ニコルソン)。この一帯を仕切るアイルランド系ギャングの大ボスだ。その堂々たる様子に、まだ幼いコリン・サリバン少年はすっかり魅了される。この瞬間から、教会で聖職者になろうと思っていたコリン少年の運命は大きくねじ曲がる。コステロはそんな少年に大いに目を掛けて、手塩にかけて育て上げた。「男は自分で自分の道を決めろ。与えられるのを待つんじゃない」

 かくしてコリン(マット・デイモン)は成長し、警察学校に入学する。ただし、コステロと袂を分かったわけではない。むしろコステロの指令で警察学校に入ったと言うべきだろう。それはすべて、コステロの計画のうちなのだった。

 それと同じ頃、同じ警察学校で訓練に明け暮れている別の青年がいた。それはビリー・コスティガン(レオナルド・ディカプリオ)。警察学校を卒業して実務に配属になる際に、ビリーはクイーナン警部(マーティン・シーン)とディグナム(マーク・ウォールバーグ)の前に連れて来られる。口の悪いディグナムに根掘り葉掘り過去をほじくり返されたビリーは、事の成り行きに当惑せざるを得ない。なぜならビリーの過去は、決して警察官として適切ではないからだ。ロクでなしの父親と、犯罪者ばかりの一族。そんな過去から決別するために、ビリーは警察官という職業を選んだ。にも関わらず、クイーナン警部とディグナムはビリーに「元いた世界」に戻ることを命じる。それはコステロのフトコロに飛び込んで情報を引き出す、オトリ捜査官の仕事だ。つくづく自分の生まれた境遇を恨まずにいられないビリーではあったが、それは拒むことの出来ない命令だった。

 一方、コリンは優秀な成績を上げてメキメキと頭角を現し、エラービー警部(アレック・ボールドウィン)率いる特別捜査班「SIU」に配属されることになった。この「SIU」最大のターゲットこそ、街を牛耳るギャングのボス=コステロ。むろんコリンはそのコステロに携帯で情報を与え、彼を警察のワナからさりげなく守ってやるのが役目だ。

 そんな生活の中で、コリンは「SIU」のエリート生活をエンジョイしている自分に気づき始めた。警官相手にカウンセリングを行う精神科の女医マドリン(ビーラ・ファミーガ)とも知り合い、持ち前の上昇志向にさらにはずみがつく。

 そんな頃、ビリーは街で大いにコワモテぶりを発揮。目立ちに目立った行動で、コステロの腹心ミスター・フレンチ(レイ・ウィンストン)の知るところとなる。さらにはコステロ本人の目にもとまり、一味としての活動を開始する

 だがそんな生活は、ビリーの神経に過剰な緊張を強いた。いつ警察のイヌとバレるか分からない日々。しかも彼の本当の身分はクイーナン警部とディグナムしか知らないという不安定な身分。やがてビリーは、精神的摩耗から精神科のマドリンのドアを叩く…。

 そんな毎日がしばし続いたある日、ビリーにとってもコリンにとっても、衝撃的な情報がもたらされる。

 「どうやら身内の中に、敵のイヌがいるらしい…」

 

見た後での感想

 映画が始まるや否や…「差別は黒人だけじゃないぜ」とつぶやくジャック・ニコルソンの声が聞こえて来て、僕をニンマリさせる。

 正直言って、このイントロだけですべては了解だ。今回の映画もいつものマーティン・スコセッシ印。どう見ても、「香港映画のリメイク」として手を抜いているとは思えない。いや、いつにもましてスコセッシ印の度合いが激しい。

 お話の根底にアメリカの人種問題の…しかも白人社会にだって人種階層があるという、僕ら日本人にはなかなか分からない視点が置かれている。それはイタリア系アメリカ人としてのアイデンティティーを強く作品に焼き付けて来たスコセッシの、新たな「変奏曲」ともいうべき趣がある。

 そして、無垢な少年を圧倒的な存在感で誘惑するギャングの大ボス。ギャング映画と言えば、これまた「ミーン・ストリート」(1973)あたりからのスコセッシの十八番ではないか。あのかつての盟友ロバート・デニーロが「ギャング・オブ・ニューヨーク」に出演依頼されて、「もうギャング映画は結構」と辞退したのも…その後まったくスコセッシ映画に出なくなったのも、イヤというほど分かる。スコセッシ映画と言えば、とにかく次から次へとギャング、ギャング、ギャング…の連続だから、デニーロにそう思われても仕方ないところなのだ。

 それでいて時々ポツンポツンと「最後の誘惑」(1988)とか「クンドゥン」(1997)みたいな聖人映画も撮るからおかしいのだが、実は「神」こそスコセッシ映画の真骨頂。だからこのイントロ部分で大ボスに誘惑されている少年が、実は教会で司祭の手伝いをしている…とフラッシュバックで出てくるところがミソだ。そういえば、「ミーン・ストリート」の主人公ハーベイ・カイテルもやたらと懺悔していた。スコセッシ本人も、確か聖職者をめざしていたはずだ。この、神への畏敬の念を抱きつつ…それを全うすることには挫折してしまっているという設定は、スコセッシ作品を見続けてきた人間にはかなりピンと来る部分なのである。つまり…スコセッシはどうやら主人公にどこか自分を仮託したカタチで、今回も物語を展開しようとしているらしいのだ。

 しかも悪の道に足を踏み込んでしまった男の年代記モノ…と来れば、「グッドフェローズ」(1990)や「カジノ」(1995)の世界。悪の道ではないにしろ、道を踏み外してしまった男まで範疇に加えれば、「レイジング・ブル」もその射程距離内に入る作品系譜だ。

 さらにさらに、そんなジャック・ニコルソンの悠然とした態度の背景には、ひたひたと聞き覚えのあるサウンドが聞こえて来るではないか。それもそのはず、ローリング・ストーンズの大ヒット曲「ギミー・シェルター」だ! この曲の持つ忌まわしさもかなり本作のテーマに寄り添っているのだが、何よりここでのストーンズ楽曲使用こそ、それこそ「ミーン・ストリート」でのストーンズ「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」引用に始まるスコセッシ映画での1960〜1970年代ロックのBGM使用との共通性そのものだろう。常に素晴らしいセンスでクラシック・ロックを使いこなすスコセッシは、例えば「グッドフェローズ」でもエリック・クラプトンの「レイラ」の…しかも後半部分(!)というマニアックな使い方を見せていたが、今回も往年のロック・ファンがかなり嬉しくなる選曲ぶりだ。それより何より、映画そのものの時代背景とは全く関係なさそうにブチ込まれるロック曲の数々が、この作品が完全にスコセッシの趣味を貫いたカタチでつくられていることを如実に物語っている。

 ってなことを長々と偉そうに語って申し訳ない。要するに簡単に言うと、このイントロで本作の狙いは完全に言い尽くされている。

 この映画はスコセッシ映画のグレーテスト・ヒッツなのだ。

 ここにはスコセッシ映画をスコセッシ映画たらしめている要素がすべて揃っている。入っていないのはロバート・デニーロだけ。それも、近年のパートナーであるレオナルド・ディカプリオでカバーしているのだろう。しかもディカプリオを起用してからのスコセッシ作品が「ギャング・オブ・ニューヨーク」、「アビエイター」とちょっと従来の作品系譜からははずれていたのに対し、今回はズバリ直球ど真ん中といった感じ。久々にスコセッシらしい映画の登場なのだ。

 実はもうこの段階で、僕はこの作品を「インファナル・アフェア」と比較してどうの…と考えることをやめた。久々のスコセッシらしい作品を堪能することに、頭を完全に切り換えた。

 すると、これはなかなか面白い映画ではないか

 もちろん「インファナル・アフェア」も傑作だが、こちらもなかなかいいよ。むしろお話はすでに「インファナル〜」で知っているのだから、お話だけを見てしまったら同じで退屈してしまう。だからきっと、プラス・アルファの何かがあるはずだ。これはどっちがいいとかいう問題ではない。少なくとも、ここんとこのマーティン・スコセッシ映画の中では結構楽しめる出来だ。

 むろん、そうは言っても「ここんとこのスコセッシ映画」も僕はそれなりに評価していた。世間だってホメていた。実際、それはそれでリッパな出来栄えだった。

 だが、無条件に素晴らしい、傑作だ、面白い…と言えるのかといえば、ちょっと考えてしまうだろう。誰にでも「面白いから見ろよ」と言えるかといえば、たぶんそうはいかないだろう。リッパな映画だと分かっていながら、抜きん出た出来栄えで文句なし…とは思えなかったのだ。このへんのニュアンス分かっていただけるだろうか。いい映画だとは思うが、スゴイ映画とか大好きな映画とか面白くて仕方ない映画とは思えなかった。ただただリッパだったとしか言いようがない。

 ところがこの映画には、僕はスカッと「面白い!」と言える。香港映画ファンじゃあるまいし、「インファナル・アフェア」と比べてどうだなんてヤボな事は言うまい。むろん作品中にキズがある事も承知だが、映画ってのはそんな事気にならなくなる瞬間があるのだ。この映画がスコセッシ映画の最高水準の作品だとは言わないが、近年の彼の映画の中で最も興奮させられるし、「面白い」映画に仕上がっている。あの「インファナル・アフェア」のリメイクなんて…と懸念されていた要素を、見事にひっくり返した手並みはまことに鮮やかだ。

 だがそれも、スコセッシの過去の軌跡と「インファナル・アフェア」という作品の内容を考えれば、しごく当然なものに思えてくるのである。

 

表現の「ストレート」と「ファジー」の間

 「インファナル・アフェア」と言えば、最近では僕はフランス映画のあるいは裏切りという名の犬(2004)を語る時に引き合いに出した覚えがある。

 だからと言って、「インファナル・アフェア」が「あるいは裏切りという名の犬」と似たような話だというわけではない。強いて言うなれば、二人の男が主人公のストレートな構成を持ったドラマだということだ。

 だが、このストレートさが力強さを呼ぶ。

 反面、ストレートは同時に単純さにもつながる。だから現代のドラマは、徐々に複雑さを増していった。また、あまりにお話がストレートすぎると、リアルじゃない印象も与えがちだ。現実の我々の生活や社会は、そんなに分かりやすい展開はしない。ハッキリクッキリとしているわけではない。どこかファジーでグレーでズブズブとハッキリしないところがある。だからストレートなお話は、いかにも「つくりもの」然とした印象を見る者に与えがちなのだ。

 しかしファジーでグレーでズブズブとハッキリしないというお話をつくれば、リアルかもしれないがそれだけ分かりにくくもなる。実際それだからこそ、僕らは自分の人生にきちんとした回答を出すことができないし、どうしたらいいのか分からなくなるではないか。あるいは人生の問題に無自覚でもある。リアルな描写として人生に無自覚であることを表現するのはいいとして、表現者や鑑賞者までが作品の中に描かれる人生に無自覚であったら意味がない。それって作品ではない(笑)。

 実際のところ、ドラマづくりとは力強く訴求力はあるが単純でつくりごとめいた「ストレート」とリアルだがボンヤリして訴求力の弱い「ファジー」の間を言ったり来たりしているものだ。世界中のクリエイターは、この両者の間で苦労しているわけだ。ドラマづくりをこの二極に言い切っちゃうのはいささか乱暴ではあるが、この際、分かりやすく語るために極論でいかせてもらう。

 その中でもマーティン・スコセッシは、明らかに後者をめざしていた作家だと思う。

 それは当然そうだろう。人生の真理や現実をシビアにハードに描く(そればかりではないが)映画作家としては、当然のことながら単純明快路線はなかなか選択しがたい。「レイジング・ブル」のハードでシビアな展開は、ロバート・デニーロがあそこまで過激に減量や肥満をしたり、主人公たちのホームムービーを本物感たっぷりに退色した粒子の粗いカラー・フィルムで撮らなければ、あの味が出なかった。「リアル」は表現上の必然だったのだ。

 逆に「ニューヨーク・ニューヨーク」(1977)のように人工的なミュージカル仕立てな映画をつくると、たちまち馬脚を現してしまう。それは、虚構と単純化の世界の構築に長けてないからだ。やりたい気持ちはあったのだろうが、それが作品としては結実しない。

 一方、先に挙げた「前者」…「ストレート」の代表選手は、誰が何と言っても黒澤明スピルバーグだろう。この二人が「絵」に深い関心を寄せていたこと…黒澤は実際に絵描きだったし、スピルバーグはディズニー・アニメに夢中だった…ということは、決して偶然ではない。これは何度もスピルバーグ映画の感想文で繰り返してきた事だから恐縮なのだが、絵に描くという行為は一種の単純化であり、アニメとは映画の単純形の最も行き着いた形のひとつだ。彼らは自らの作品をビジュアル面の単純化から出発させ、それをドラマ構築にも拡大させた。黒澤映画のドラマはどれもこれもストレートでよどみがないし、スピルバーグの初期作品「激突!」(1972)や「ジョーズ」(1975)こそは単純ドラマの典型だろう。そして単純であるが故に、その作品は無類の訴求力を持った。

 そして複雑にしようとしたら、とたんにその訴求力が一気に失速していった。

 ここで最初の話に立ち戻ると、やはり「ストレート」ドラマはどこかでウソをついている。ボンヤリしてとりとめのない現実を凝縮しているから「ストレート」なのだが、それはどこかウソの構築でもある。その手つきが稚拙だと、見るに耐えないものにもなる。

 逆にウソの構築に長けた表現者が今度は現実をできるだけナマで描こうとした場合、果たしてうまくいくだろうか?

 黒澤明が「七人の侍」(1954)や「用心棒」(1961)など時代劇を描くとあんなに無類の力強さと説得力を発揮するのに、現代社会の問題を描くと何であんなにも稚拙なのか? 「醜聞<スキャンダル>」(1950)、「生きものの記録」(1955)、「悪い奴ほどよく眠る」(1960)などの作品はそれぞれ優れた作品だし僕も好きだが、作品の目的だったはずの現代社会の病巣をえぐるということに関しては、とても成功したとは言い難い。

 それは…時代劇の場合はどこか単純化が許されるし誇張も強調もできるし、それによって「寓話」化することができるからだ。それはおとぎ話やたとえ話と同じなのだ。だが、現代劇はあくまでリアルであることを要求される。「寓話」をめざした現代劇もあるにはあるが、少なくとも黒澤は「寓話」として描こうとはしていない。そして複雑で回答を出しにくい現代社会の問題を語るには、あまりに黒澤は物事を単純に考えている。時代劇ではそれが無類の力強さにつながるのに、現代劇ではそれが幼稚で稚拙なモノに成り下がってしまうのだ。

 同じ事はスピルバーグにも言えて、絶好調だったのはE.T.(1982)まで。それ以降は、かなり長きにわたって低迷を余儀なくされた。それは彼がSFやファンタジー、単純なサスペンス・アクションを撮ることをやめて、現実的な戦争映画や人種問題のドラマを描こうとしたからだ。シリアスな題材を手がけたとき、彼もその手法の「単純さ」が仇となったのだ。

 だが、先にも言ったように、「単純」イコール悪いわけではない。元々、映画とはありあまる情報を観客に伝えるが、何か一点に訴求点を絞った時に抜群の破壊力を持つ。リアルでファジーな感触の映画も、何らかの形で「単純化」は試みているのである。

 そうは言っても、マーティン・スコセッシの映画は黒澤やスピルバーグの映画とは明らかに違った

 「タクシー・ドライバー」(1976)の主人公の心に去来する虚無的心境を、ストレートに表現するのは難しいだろう。身もフタもない事を言えば、何で彼がモヒカンにするのかを言える人はあまりいまい(笑)。「レイジング・ブル」の主人公の落ちっぷりには目を見張らされるが、それが何でそうなるのか…を考えずにズバリと言える人は少ないはずだ。どこかファジーで複雑なのが、マーティン・スコセッシの映画なのである。

 だがそんなマーティン・スコセッシが、実は黒澤作品のリメイクを狙っていたとしたら?

 

スコセッシと黒澤「天国と地獄」リメイク

 これは以前、黒澤作品天国と地獄(1963)とメル・ギブソン主演の「身代金」(1996)について書いた文章でも触れていたことだが、スコセッシは「天国と地獄」のリメイクを計画していた。

 「天国と地獄」の原作であるエド・マクベインの「キングの身代金」ではなく、あくまで黒澤版「天国と地獄」のリメイクを…である。これは今までの話から考えると、かなり奇異なことではないだろうか。リアリズム&ファジー映画のスコセッシが、ストレート&単純映画の黒澤作品をリメイクする。作家としてリスペクトするのは分かるとして、果たしてそれを自分でつくってみようと思うだろうか?

 僕はその接点は、「天国と地獄」という作品自体が内包していると考えている。

 異論反論は数々あるだろうが、大作家になってからの黒澤の現代劇で割と成功している作品は、実はこの「天国と地獄」ぐらいしかない。黒澤が苦手とする現代社会を描いていながら、「天国と地獄」は凄まじい訴求力と面白さを秘めているのだ。それはなぜか?

 「天国と地獄」は、題材そのものに黒澤が得意な「ストレート」を含めているからだ。

 それはタイトルから分かる。「天国と地獄」…英語でいえば「ハイ&ロー」。上と下。三船はカネを犯人に支払ったら自分が破産してしまうのに、自分の息子ではなく運転手の息子のために身代金を払うパワフルすぎる「善」。対する山崎努は陰湿で残忍で横浜のシャブ中街もウロつき、邪魔になったら仲間まで殺す「悪」。ハッキリしている。正直言って公開された頃には、あまりに犯罪を「善」と「悪」とに単純に分けすぎるとの批判もあったと聞く。だが、その犯人への情け容赦なさはいっそ潔いほどだ。

 では、そんなに単純化して「つくりもの」めいて来ないのか…と言えば、黒澤は実に用意周到なしかけを用意していたのだ。

 まず、「悪」にあれほど容赦ないのにも関わらず、この映画は「勧善懲悪」にもならない。

 それは対照的なこの主人公二人が、まるで鏡を覗いたこちら側と向こう側みたいな扱いになっているからだ。それが最もハッキリ打ち出されるのがラスト。刑務所に三船が山崎を面会に行く場面だ。ガラスを隔ててにらみ合う二人は、画面上で左右対称に写し出される。それと同時に…ガラスに三船の顔が写ることで、山崎と三船の顔がピッタリ重なっていく。おまけに最後の三船のセリフが、完全にそのことを裏付けている。「なぜ君と私とを憎み合う両極端として考えるんだ」

 実は「善」と「悪」とが相似形であるという趣向は、黒澤映画では毎度おなじみのようなテーマだ。「野良犬」(1949)では刑事の三船と犯人の木村功が、復員してすぐ全財産のリュックを盗まれるという共通体験を持っている。「椿三十郎」(1962)では素浪人三船と悪役仲代達矢が対決する時に、まるで鏡でお互いを見つめ合っているかのようにシネマスコープ画面でシンメトリーを描き出す。さらに仲代を斬った後で、三船は吐き捨てるようにこう言うのだ。「こいつは俺と同じだ!」

 「天国と地獄」は、そんな黒澤映画のセオリーをうまく現代劇に注入した成功例だ。黒澤得意の「善と悪の相似形」という手法を、単純な「勧善懲悪劇」ではないリアルさにすりかえて見せかけている。これは実にうまい作戦だ。

 さらに元々黒澤映画にはない現実的「リアル」さを持ち込むために、この映画では大仕掛けなクライマックスが設定された。ドラマの中盤の緊迫感あふれる場面として、特急「こだま」を使った身代金受け渡しシーンが用意されたのだ。しかも本当の「こだま」車両を借り切って走らせ、何台ものカメラを同時に回してほぼドキュメンタリー的な撮影を敢行した。ドキュメンタリー…すなわち、「リアル」な表現どころではなく「リアル」そのものである。これをドラマのど真ん中に持ってくることで、黒澤は自らの「ストレート」体質を覆い隠した。だから観客はリアルな迫力に目を奪われて、映画全体をもリアルと錯覚してしまうのである。

 そして…だからスコセッシは、これぞ自分の映画話法を「ストレート」に転換させる絶好の機会…と思ったに違いない。「ストレート」話法の黒澤メソッドと「ファジー」話法のスコセッシ・メソッドの幸福な中間点にあるのが「天国と地獄」だ…おそらくスコセッシはそう考えたに違いないのだ。

 だが黒澤はスコセッシのリメイク希望に、生前ついに首をタテに振らなかったという。かなり何度も懇願していたようなのだが、結局黒澤の意志を翻させるには至らなかった。

 では、なぜそこまでスコセッシは「天国と地獄」リメイクにこだわったのだろうか?

 

マーティン・スコセッシ作品が元からはらんでいた問題点

 前述したように、「リアル」かつファジーでグレーでズブズブとハッキリしないのがスコセッシ映画だ。

 スコセッシ映画の主人公は、どれもスッキリしない。何を考えているのか分からなかったり、いつまでもグチュグチュと愚にもつかない言動を繰り返す。ハタで見ていて「何をやっているんだ」と言いたくなる。そこまでひどくなくても、ヤクザな世界に身を置きながら教会で懺悔したり、とにかく矛盾に満ちた人物が多い。

 ハッキリ言ってスッキリした性格の人物が出てくるスコセッシ映画は、明らかに雇われ仕事だった「ハスラー2」(1986)だけだろう。そんな「ハスラー2」でもトム・クルーズは分かってないグズグズ坊やだったし、自分はクールでクレバーだと思っていたポール・ニューマンがまんまとしてやられたりする。そんな「訳の分からない」「得体の知れない」人間というものを凝視するのが、スコセッシ映画の本質だ。

 だがともすれば、それはどこか頭でっかちなモノになりかねない。「ドラマで語りすぎてしまう」ことで「つくりもの」になってしまうことを恐れるあまり、映画から面白さと分かりやすさ、説得力や訴求力が奪われていく。そのことは、マーティン・スコセッシ自身がいちばんよく分かっていたのではないか。

 「グッドフェローズ」や「カジノ」は堂々たるリッパな映画だと思うし、その価値を決して疑いはしないが、見終わって何年も経った今となってみると…思い出せるストーリーや設定がほとんどない事に唖然とさせられる。何となくズルズルダラダラと話が進んでしまうので、そのメリハリのなさにどうしてもお話が記憶から滑り落ちてしまうのだ。

 そしてこの「グッドフェローズ」「カジノ」の両作品において、いつも効果的なスコセッシのロック・クラシック選曲が一際冴えわたっていたのは偶然ではあるまい。おそらくそれは、みんなが知っていて感情に訴えてくる懐かしのロックを効果的に使うことによって、作品そのものに欠けている一種の共感やら感情的な訴求を補強しようと試みたと僕は思っている。逆に言うと、そこの部分が最も自分の映画の弱いところだと、スコセッシは骨身にしみて感じていたはずだ。

 中でもスコセッシがそれを思い知らねばならなかったのは、おそらく畢生の大作「ギャング・オブ・ニューヨーク」の時だ。

 長年暖めていた超大作。制作費も天井知らずで、実現までに長い歳月を要した念願の作品。最初、盟友のロバート・デニーロを起用しようとしたところから見て、自らの作品の決定版にしようとしたのは明らかだろう。ニューヨーク派のスコセッシとしては、ニューヨークの成り立ちからを描くというところからして「決定版」だ。

 さらに当時「タイタニック」(1997)で人気絶頂のレオナルド・ディカプリオを起用したのはともかく、キャメロン・ディアズまで起用する布陣はどう見てもスコセッシらしからぬキャスティング。巨額の制作費を回収するための「保険」だった可能性は高いだろうが、それと同時に、スコセッシがこの作品を従来の自分の作品より多くの人々に届くモノにしたいと願ったと見るのが自然だろう。みんなに見てもらいたかったし、共感して欲しかった。エモーショナルな感動を与えたかったはずだ。

 だが皮肉なことに、「ギャング・オブ・ニューヨーク」は今までで最も感情面とドラマトゥルギーに欠けたスコセッシ作品になってしまった。その志は買うし、立派な出来栄えだとは思う。だが、見ていて面白い映画だとはお世辞にも言えない。この人って観客の感情にダイレクトに訴えるのはメチャクチャにヘタだな〜と思わざるを得なかった。

 それと比べると、「アビエイター」はもっとずっと波瀾万丈で面白かった。これもイイ映画だとは思う。だが、やっぱりどこか敷居が高すぎるのだ。高尚でご立派すぎる。

 だからスコセッシは「天国と地獄」を制作しなくてはならなかった。それが幻と消えた今となっても、いや…今になればなおさら、それに代わる何かが必要になってきたのだ。それは何か?

 それこそ香港映画「インファナル・アフェア」ではないか。

 

香港映画に再現された黒澤「善悪の相似形」

 長らく漂っていた香港映画の沈滞ムードを、一気に払拭した大作。それが「インファナル・アフェア」だと言っても間違いではないだろう。

 その面白さの所以をあれこれ探ることはできるが、やはり最もすぐれているのは、ガッチリ骨太に作り上げられた脚本であることは間違いない。

 ここで改めて詳しく繰り返してもバカバカしいが、警察の密偵となってギャングに潜入した男とギャングから警察内部に潜入した男が、お互い身分を隠しながらがぶり四つで絡み合うドラマ展開が力強い。誰でもそれだけは指摘できるだろう。

 しかし正直に言えば、これはひとつ間違うと…こういう落とし穴に落ち込むことだってあるのだ。つまり…ちょうど警察とギャングの対立の真っ直中で、警官なのにギャングの男とギャングなのに警官の男が、まるっきりの偶然で同時に同じように存在することなんてあるか。これじゃまるでマンガだ。

 考えようによっては、これほどあざとい設定もない。わざとらしいし「つくりもの」めいている。では、なぜそれが成功したのか。

 香港映画ファンのみなさんは「役者がうまいから」とか「監督がうまいから」とか言うだろうし、確かにそれは間違いないだろうが、実はもっと大きな要因があるはずだ。それはきっと…こういうあざといコテコテ設定を持ち込むことに、香港映画人が「テレ」を感じていないからだと思う。

 今まで世界で何千何万とドラマがつくられ、次々消費されていった。その中には、つくった当時は説得力を持っていたものでも、今ではちょっとツライものも少なくない。というより、そっちの方が多いかもしれない。チャップリンの「街の灯」(1931)を今やってみたら、果たしてどうだろう。

 あれが説得力を持っていなかったのは、まだその設定が使い古されていなかったし、陳腐化していなかったからだ…。世界で一番多種多様なドラマトゥルギーを駆使して来たハリウッドの映画人は、だんだんそんな思いに取り憑かれていったように思う。

 そして、それが高じて…きちんとしたドラマがつくれなくなってしまったのではないか

 これをやっても、どうせもう使われている。こんなのを語ってみても、バカにされるだけだ。もはや手は出尽くした。やりようがない。ハリウッドの映画人は、そんなニヒリズムに陥っているように思う。だからこそ、リメイク、テレビの映画化、コミックの映画化、続編、ビギニング…ばかりが氾濫してしまうのだ。それは確かに僕も少々同情してしまう点もないではない。

 だが、本当にすべては語り尽くされたのか?

 何だかんだ言って、ハリウッドは世界の映画をパクり続けている。それというのは、世界にはまだまだ語り尽くしていない金鉱脈があるということではないか。なぜハリウッドだけが掘り尽くされたと言えるのか?

 そもそもハリウッドが世界からリメイクの題材として買いあさっているネタは、そんなに斬新で新鮮なのか?

 では、なぜ現代人の我々でもチャップリンの「街の灯」を見て感動してしまうのか?

 それは作り手がそのエモーションを信じていて、それに「テレ」を感じていないからではないか?

 香港映画人はコテコテの語り口を恐れていない。彼らはまだ、ドラマの力を信じている。信じて疑わずにつくっているから、見る側もそれに巻き込まれてしまう。当たり前のことだ。創る側が疑っていたら、見る側を説得することなんてできない。その単純な一点を、ハリウッドは忘れているのではないか?

 閑話休題。危うくもうちょっとで結論まで行き着くところだった(笑)。だが、これで言い尽くしたらまだ早い。ともかく、やりようによったらコテコテのドラマトゥルギーだって活用可能。そして「インファナル・アフェア」は、見る側のエモーションに訴えてくる仕掛けをあちこちに巧みに設けていた。

 そして、実はこの「インファナル・アフェア」こそ、お話の根本に黒澤映画のメソッドを組み込んでいる作品なのだ。

 そう言っても、ここまで読んで来られたみなさんなら決して奇異には感じないはずだ。そう、「インファナル・アフェア」の根本には、黒澤映画の「善悪の相似形」がちゃんと織り込まれているのだ。ここではあえて

「インファナル・アフェア」の二作目、三作目については触れない。それを僕は見ていないし、マーティン・スコセッシもおそらく問題にはしていない。もうひとつ言えば、大半の観客は続編の存在は知っていても、「インファナル・アフェア」一作目単体で十分楽しんだはずだ。

 おそらく香港映画ファンは、このハリウッド・リメイクが「無間地獄」を表現しきれていない…と不満を表明するだろうが、おそらくマーティン・スコセッシは最初からそこを狙ってはいないのだ。それより主人公二人の対照的でいながら合わせ鏡のように似ている、虚実スレスレの人生を描こうとしている。

 ギャングのふりをした警官、警官のふりをしたギャング。どっちも同じように周囲を偽っている。まるで合わせ鏡のように似通った二人。それは黒澤映画でおなじみ「善悪の相似形」だ。そして…それ自体が大きな矛盾と葛藤だ

 大げさに言えば、僕らの人生自体がどこか偽ったものだったりする。僕らは心から本心を明かしてはいないし、やりたいように振る舞ってもいない。偽っている人生とは、それ自体が人生の真実でもあるのだ。これほどに単純化した設定でありながら、このテーマは驚くほど人生の本質に迫っているのだ。

 そんな映画のリメイク脚本を目の前に差し出された時、「天国と地獄」リメイク企画を失っていたスコセッシは、これに手を出す誘惑から逃れられなかったのではないか

 

今までのスコセッシ映画以上にスコセッシ映画らしく

 スコセッシは劇場パンフレットの中で、この作品「ディパーテッド」を「インファナル・アフェア」から主人公のプロットだけ使ったものであり、全く別物の作品だと言っている。

 それは、ズバリ言って大嘘だ(笑)

 誰がどう見ても「インファナル・アフェア」の作り直しなのは明らか。部分的に変えてあるところもあるにはあるが、お話の運びも設定もほとんど原型のまま。これを全くの別物とはよく言ったものだ。

 しかし…それでいてこれは、紛れもないマーティン・スコセッシ作品なのである。

 映画全体が、みんながスコセッシ作品に期待する魅力に満ちているのだ。映画ファンなら、ほんの数分見ればすぐに分かる。それくらいスコセッシ作品の明らかな刻印がある。それは、今までのスコセッシ作品以上と言ってもいい。

 それでいて、この作品には近来のスコセッシ作品にない明快さがある。そしてインパクトがある。このインパクトは、スコセッシが「タクシー・ドライバー」や「レイジング・ブル」の脚本家ポール・シュレイダーと切れてから、長らく見られなかったものだ。それが鮮やかに蘇っている。

 ただ…香港映画「インファナル・アフェア」は、このコテコテ設定を「テレ」もせずに突き進んだことで説得力を生んだ。当然のことながら、スコセッシは同じことができない。そのままでは、スコセッシ映画とコテコテ脚本とは水と油だ。では、彼は一体どうしたのか?

 結局スコセッシのやった事は、スコセッシの「意匠」を作品全体に散りばめるという作戦。この映画を今までのスコセッシ映画以上にスコセッシ映画らしくしたのだ。

 だから、作品の背後にアメリカの人種問題を置いた。神との葛藤に苦しむ人間を置いた。大好きで慣れ親しんだロック・クラシックを置いた。「グッドフェローズ」や「カジノ」では時代背景が時代背景だからあの選曲も分かるのだが、今回は現代の設定なのになぜか1970年代のロックが鳴り響く。それは、これがマーティン・スコセッシ作品であるという「意匠」のために置かれたものなのだろう。いや…もっと平たく言えば、スコセッシは「これは俺の物語なのだ」と極私化しているのだ。そうやって信じ込むことで、コテコテを「つくりもの」から離脱させた。

 あとはコテコテ設定に負けないだけの、より一層のコテコテ演技…ジャック・ニコルソンの独壇場だ。スコセッシ映画初登場のニコルソンだが、これまで彼がスコセッシ映画に起用されなかったのはよく分かる。本来のスコセッシ映画では、その存在が突出して邪魔なだけだ。だが「インファナル・アフェア」のコテコテ設定ならば、逆にそれが十分活かされる。それどころか、それを自分のモノとして服従させることだってできる。これはニコルソンだから出来るのだ。

 レオナルド・ディカプリオマット・デイモンはどちらも適役好演だが、特にディカプリオは今までスコセッシ映画でイマイチ元気がなかっただけに、これが決定打になるのではないだろうか。特に「タイタニック」でスーパースター化した後は本人も困っていたようだが、ここではまるで水を得た魚のようだ。そう言えば、スター化してから最大の成功例であるキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)が人をダマす詐欺師の役だったというのも象徴的だ。ディカプリオは今や、単に悩み深い若者などを演じるよりも、こうした虚実ワンクッション置いた屈折キャラこそが似合うのではないか。

 その他のアレック・ボールドウィンやらマーティン・シーンなどの豪華キャストも見どころではあるが、少々困っちゃうのがマーク・ウォールバーグ。ここでの彼は、一体何で出てきたのか分からないくらい浮いている。浮きまくったあげく、この映画の一番目立つキズ…ラストにいきなり妙なことをやらかしてくれる。あの取ってつけたような唐突さには、正直言って「アレ?」と呆気にとられてしまう。

 もうひとつ僕が気づいた疑問は…これは今挙げたラストにも関係するのだが、マット・デイモンの演じる役柄の「政界」への上昇志向の扱い方。その象徴として州議会の建物を出すのはいいのだが、一度だけサラッと触れただけでは、ちょっと足りないしラストも盛り上がりにくい。しかもマット・デイモンの演じる男に、何が何でも這い上がろうと思う強い意志が感じられない。ここはもうちょっと一押し必要だったのではないだろうか

 さらに不可解なのは、ディカプリオがマット・デイモンの恋人の女医に渡した茶色の封筒。アレが最後に生きてくるのだろうと思っていたら、まるで活かされずにそのまんまではないか。そう考えると、あの唐突感あふれるエンディングも…ひょっとしてアメリカ映画おなじみの「試写の結果から急遽付け加えられた結末」だったのかもしれない。もしそうだったらイヤだな〜。ガッカリではないか。

 まぁ、しかしそれらは大したキズではない。映画としては、まことに堂々たる娯楽大作の出来栄えなのだ。もちろん「インファナル・アフェア」を神聖にして犯すべからざる領域と見なしている人々がいる事は百も招致ながら、僕はあえてこう言いたいと思う。

 繰り返していうけど、僕はこの両者を比べてはいない。そんなことは無意味だと思うからだ。

 

映画「無間地獄」に堕ちたマーティン・スコセッシ

 そんな「ディパーテッド」に関して、スコセッシは「インファナル・アフェア」との関連という点ではあまり語りたがっていないように見える。

 前述の“「インファナル〜」から借りたのは単に二人の主人公のプロットだけ”…という発言など、どう考えても妙だ。確かに前述したように「無間地獄」的な趣向は狙っていないからスコセッシいわくの「別物」と言えなくもないが、ストーリーは驚くほど原型のまま。僕はもっとスコセッシなりにあちこちお話を改変しているだろうと思っていたから、ここまでそっくりいただくとは思っていなかった。これでプロットを借りただけと言ったら、ザ・フォッグリメイク版(2005)などリメイク権のお金を払わなくても良くなってしまいそうだ(笑)。

 何でも聞くところによれば、スコセッシはキャンペーンで日本に来た時にも「問題発言」を行っているらしい。「本当はこの映画撮りたくなかった」などとホザいているのだ(笑)。今さらそりゃないだろう。この発言には「あのスコセッシが香港映画のリメイクなんて」…と憤懣やるかたないスコセッシ信者や、「インファナル〜」と比べるとハリウッド・リメイクなんてクソ…と見る前から決めてかかっている香港映画ファンも溜飲が下がる思いだろうが、元より映画監督やクリエイターが人前でしゃべる言葉なんてまるっきり信じられないところ。むしろこうした発言の裏にあるものこそ、スコセッシの本音であるはずだ。

 「リメイクじゃない」とか「撮りたくなかった」とスコセッシに言わしめるもの、それはやはり僕や大半の映画ファンが感じた危惧と共通する思いだろう。つまり、天下のマーティン・スコセッシが香港映画の傑作を出来て間もないうちにパクっていいのか…ってことだと思う。

 いくら香港で大ヒットしてアジア全域で成功したと言っても、ハリウッド映画の巨大マーケットと比べればタカが知れている。おまけにつくったのは世界的名匠マーティン・スコセッシだ。「ディパーテッド」は完成と同時にオリジナル「インファナル・アフェア」の存在を蹴散らかしてしまうだろう。「インファナル〜」より多くの観客を獲得するし、中には「インファナル〜」なんて映画がある事すら知らないままの観客もいるだろう。おそらく「ディパーテッド」の方が本家ヅラしてしまうに違いない。「インファナル〜」がどうでもいいような作品じゃないだけに、その罪は重いと言わざるを得ない

 それって決していいことじゃない…と、スコセッシは誰よりも分かっているはずだ。

 マーティン・スコセッシと言えば、古い映画の保存に力を入れている映画マニア中の映画マニアだ。カラー・フィルムの退色に心を痛め、抗議のためにモノクロで「レイジング・ブル」を撮った男だ。映画100年を祝ってブリティッシュ・フィルム・インスティテュートが世界の映画作家に自国の映画史フィルムを依頼した時、何とノリにノッて三部作の「A Personal Journey with Martin Scorsese Through American Movies」(1995)をつくってしまった男だ(ちなみにこれのフランス編を撮ったのはジャン=リュック・ゴダール、日本編を撮ったのは大島渚だった)。自分のやった事の意味は分かり過ぎるくらい分かるだろう。少なくとも自身も昨今のハリウッドのリメイク・ブームに、あまり心地よい思いを抱いていなかったに違いない。それなのに、当の自分がそれに手を貸してしまった…。

 しかもこれがハリウッドの凡百の映画監督なら、大した心の痛みも感じないところだろうが…彼はベルトラン・タヴェルニエの「ラウンド・ミッドナイト」(1986)や黒澤明の「夢」(1990)にも出演するような非アメリカ映画好きでもあるのだ。そんな彼が、自作のリメイクがオリジナルの香港映画を不当に蹴散らかすさまを、良かれと思っているはずはあるまい。実はかなり後ろめたいというのが正直なところだろう。「撮りたくなかった」というのはそのあたりの気持ちを述べているのではないか。

 その反面、「インファナル・アフェア」リメイクは、スコセッシに映画製作上の行き詰まりを解消するチャンスを与えた。そしてひょっとすると、今度は彼に熱望久しいオスカーを与えるかもしれない。それはスコセッシが黒澤に「天国と地獄」リメイクを懇願していた時から、彼にとってノドから手が出るほど欲しいものだったはずだ。「撮りたくなかった」けど撮ってしまったのは、彼がその誘惑に勝てなかったからに他ならない。つまりは、クリエイターとしての「業」だ。

 だとしたら、今のスコセッシは二つの感情に真っ二つに引き裂かれているはずだ。ジャック・ニコルソンのような悪魔の誘惑に乗って、映画マニアとしての良心と聖域を売り渡してしまった自分に、どこか許せない気持ちを持っているに違いない。

 そして、それは今後も彼にのしかかってくる

 「ディパーテッド」、それこそはマーティン・スコセッシにとって究極の映画「無間地獄」なのだ。

 

 

 

 

 

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