スーパーマンはリターンしたか

Superman No Return

含・「スーパーマン・リターンズ」感想文
featuring : Review of "Superman Returns"


  

アメリカ製の新たな「神話」として

「スーパーマン」

 

 宇宙の彼方、赤く腫れ上がったような巨大な恒星のすぐそばに、クリスタルの輝きを持った白い惑星が公転している。その惑星クリプトンでは、今まさに反逆に対する裁判が行われようとしていた。裁かれるのはゾッド将軍(テレンス・スタンプ)、冷血女アーサ(サラ・ダグラス)、怪力の大男ノン(ジャック・オハローラン)の3人。長老たちのジャッジと、クリプトン随一の科学者にして賢人ジョー・エル(マーロン・ブランド)の決断によって、三悪人は「ファントム・ゾーン」に閉じこめられて永久に宇宙を彷徨う羽目になる。だが次の瞬間には、事もあろうにジョー・エルが反逆罪に問われかねない状況に一転。例の赤い恒星の爆発でクリプトンが木っ端微塵になる…というジョー・エルの警告が、長老たち(トレバー・ハワード、マリア・シェル、ハリー・アンドリュース他)の逆鱗に触れたのだ。流言飛語は慎むようにとの圧力にも、ジョー・エルは大まじめ。だが長老たちに刃向かえば彼自身が反逆に問われるとなれば、ここは彼とても大人しく従わない訳にいかない。「他の人々にはもうこの事を警告しませんし、私と妻はクリプトンに留まります

 そう、彼と妻は残る。だがジョー・エルには、生まれたばかりの可愛い息子カル・エルがいた。

 意を決したジョー・エルは幼い息子をクリスタルの宇宙船に乗せ、遠い地球に逃れさせようと考えた。地球の人類はまだ文明の遅れた人々だが、地球の環境は息子を強くする。何より姿カタチがそっくりだ。こうしてジョー・エルの妻ラーラ(スザンナ・ヨーク)も泣く泣く息子を手放す決心をした。そうなれば、グズグズしてはいられない。クリスタルの宇宙船がジョー・エルの自宅の屋根を突き破って宇宙空間へと放たれたちょうどその頃、赤い恒星は最高潮に膨張。クリプトンのあちこちで異変が起きて、長老たちは自らの不明を悔やみながら死んでいった。こうしてクリプトンは宇宙の藻くずと消えた。唯一、カル・エルを乗せた宇宙船を残して…。

 長い長い時間を旅する間、宇宙船の中ではジョー・エルの記録を再生して、カル・エルに対する「教育」が施されていた。そして孤独な航海の果て、宇宙船は地球へと到達する。

 着いたのは…アメリカの片田舎にある畑のど真ん中。

 たまたまピックアップ・トラックで近くを通りかかったジョナサン・ケント(グレン・フォード)とマーサ(フィリス・サクスター)の老夫婦は、突然の巨大「隕石」の墜落にビックリ。しかもそこに「桃太郎」ばりに幼い男の子が乗っていて、その子が思わぬ怪力を発揮するのに二度ビックリ。ちょうど前々からマーサが子供を欲しがっていたこともあり、夫婦はこの子供を我が子として育てることになった。カル・エルはこの日から「クラーク・ケント」として地球で生きることになったのだ。

 アメリカの典型的田舎町で育ったクラークは、義父ジョナサンの教えで自らの特殊能力を隠して暮らしていた。しかしジョナサンが心臓発作で亡くなった後、クラークは納屋に隠してあった宇宙船とそこに収められていたクリスタルから、自らの「使命」を悟ることになる。義母マーサに別れを告げたクラークは、一人北へと足を運ぶ。

 北へ、さらに北へ…。

 こうしてついに北極に辿り着いたクラークは、その凍り付いた海に例のクリスタルを投げ込んだ。するとまばゆい光が辺りを照らし、たちまち海の中から巨大な構造物が隆起してくるではないか。それはクリプトンの文明が築き上げた、クラーク=カル・エルのための「孤独の砦」だった。ここでクラークは、本当の父ジョー・エルのバーチャル映像と共に深遠な思考と瞑想に耽る日々を送る。そして、ある日ついに時は熟し、大人となったクラーク・ケントは独特なコスチュームを身に纏って空高く飛び上がった。

 そんなクラーク・ケント(クリストファー・リーブ)がやって来たのは、現代を代表する大都会メトロポリス。その中でも最も喧噪に包まれた新聞社「デイリー・プラネット」社の本社ビルが、彼の新たな職場だ。世を忍ぶ仮の姿とは言え、メガネをかけてどこかおっとりとした風情のクラークは、明らかに「同僚」たちと噛み合わない。ガミガミとがなり立てる編集長ペリー・ホワイト(ジャッキー・クーパー)も、クラークの相手をしているヒマがないようだ。わずかに気のいいカメラ小僧ジミー・オルセン(マーク・マクルーア)だけが愛想よくクラークを迎えてくれた。そんなクラークが惹かれたのが、野心満々の女性記者ロイス・レイン(マーゴット・キダー)。だが彼女も自分の仕事に忙しく、とてもじゃないがおっとりしたクラークのペースに合わせようという気はないようだ。

 そんなある日、ロイスが社の屋上でヘリコプターに乗り込もうとしたところ、ワイヤーが絡まって離陸に失敗。ヘリコプターは屋上の縁に引っかかったまま転落寸前になった。慌てたロイスは何とか脱出を図ろうとするが、ヘリコプターは重みに耐えかねてさらにズルズルと傾きを増した。そのおかげでロイスはベルト一本にしがみついたまま、「デイリー・プラネット」社の高層ビル屋上から宙づり状態。下では野次馬どもや警官たちが大騒ぎだが、この高さではどうすることもできない。

 「キャ〜ッ! キャァァ〜〜ッ!」

 ちょうどその時、クラークは「デイリー・プラネット」社の玄関から出てきたところ。すぐに事態が飲み込めたクラークは、慌てて辺りを見回す。そしてメガネをはずして手近なビルの回転ドアに飛び込むと、物凄いスピードで回転して…アッという間にあの独特なコスチュームに変身するではないか。

 だが、もはやロイスは限界だ。疲れ切った手が、つかんでいたベルトを離してしまう。

 もはや一刻の猶予もできない。たまたま目撃していた男が唖然とするのを横目に、クラークはひらりと空中に舞ってそのまま弾丸のようにビルの上部をめざした。

 一直線に転落していくロイス。だがそこに…目にも止まらぬスピードで接近していく「男」。やがて彼はガッチリとロイスを抱きしめて受け止めるが、むろんそれが地面から遙かに離れた空中であることは言うまでもない。唖然呆然のロイスを抱きかかえたまま、彼は屋上へとふわりと上っていった。これには普段威勢のいいロイスもスッカリ骨抜きだ。

 「あなたは何者なの?」

 「友だちですよ」

 そう言って、再び空中に身を躍らせて去っていく「男」。その瞬間、ロイスのハートは彼に奪い去られてしまった。

 そしてこの事件をきっかけに、堰を切ったように「男」の活躍が始まった。ある時は警察をナメたような強盗団を叩きのめし、ある時は木から降りられなくなった子猫を飼い主の女の子の手に返してやる。大きな事から些細なことまで、メトロポリス狭しと八面六臂の大活躍

 もちろん「デイリー・プラネット」社がこれを指をくわえて見ている訳がない。この「男」を「スーパーマン」と勝手に命名したあげく、鬼編集長ホワイトが記者連中に激しくゲキを飛ばす。「この男に関することなら何でもいい、とにかく調べあげろ。すぐに行け、行け、行けっ!」

 特ダネ記者を志すロイスとしては、何としてもスーパーマンのスクープが欲しいところ。そんな彼女の胸の内を察して、ある夜、彼女の住まいにやって来るスーパーマン。むろんそれは、スーパーマン=クラークの彼女への好意がさせたものだ。いつもの啖呵もどこへやら、まるで中学生のようにオドオドするロイスを、優しく夜空のデートに誘うスーパーマン。それは二人にとって、心ときめく夢のように甘い時間だった。

 だが、好事魔多し。メトロポリス市の中央駅から地下に奥深く、秘かに豪華な住まいを構築している男がいた。彼の名はレックス・ルーサー(ジーン・ハックマン)。「史上最大の犯罪者」と自画自賛するこの男もまた、突如現れた「空飛ぶ鋼鉄の男」に熱い視線を送っていた。「史上最大の犯罪者」の割にはあまりにマヌケな手下オーティス(ネッド・ビーティ)や、人の良さそうな情婦ミス・ティッシュマーカー(ヴァレリー・ペリン)を率いるルーサーの狙いは、核兵器で活断層を刺激してのカリフォルニア壊滅。そのためには、どう考えてもスーパーマンがジャマになる。そこでルーサーが練った計画とは…?

 

 あの「スーパーマン」が映画になる…というニュースが最初に発表された時、映画ファンは大いに沸き返ってそれを期待しただろうか? 果たしてどうだっただろう? 時は1970年代半ばのことだ。

 正直言ってその当初の反応は、おそらくあまり芳しいものではなかったように思う。少なくとも僕はそう感じた。だが、それも無理もない話だ。当然の反応だと言える。

 当時はコミック・ヒーローものの映画化…なんてモノのセオリーが確立していなかった。今でこそ「バットマン」「X-メン」「スパイダーマン」などが続々と大作映画として製作されてはいるが、当時コミック原作の映画なぞは子供向けの安物しかなかった。「スーパーマン」の映画だってこの時が初めてではなかったが、それまでの作品などお粗末なシロモノでしかなかったのだ。それを「大作映画としてつくる」と言われたって、どう考えても子供だましの映画にしか思えまい。何せ元々がマンガなのだ。

 確かに「スター・ウォーズ」(1977)によって、発達した特殊効果を活用した娯楽映画の可能性は開かれた。それでも「空飛ぶ鋼鉄の男」の話なんぞマトモに受け止められる訳がない。どう考えてもロクなモノとは思えない。製作するのはアレクサンダー・サルキンドイリヤ・サルキンドの父子。こいつらはオールスター映画「三銃士」(1973)、「四銃士」(1974)のプロデューサーだったと聞かされても、何だかイマイチ信頼性に乏しい。

 やがてそんな「スーパーマン」の企画に、マーロン・ブランドジーン・ハックマンという2大スターの名前が浮上してくる。むろんこの2人のビッグネームが、スーパーマンを演じるはずもない。果たしてどんな役で絡むのかは最初分からなかったが、その名を聞いても我々はまだまだ半信半疑だった。おまけにスーパーマン役にハリウッドの有名スターの名前が次々挙がってくると、ますますこの企画がどこかインチキくさく見えてきた。だって、どう考えてもロバート・レッドフォードにスーパーマンは演じられまい。シラケることおびただしい。

 そのうちどこかの新人を起用して撮影が始まったと聞いても、こちらの胸は別にときめきもしなかった。大体、どんな役者があの「スーパーマン」を演じられるというのだ。誰がやってもうまくいきそうもない。

 「オーメン」(1976)で一発当てたばかりのリチャード・ドナーが監督に起用されたと言われても、これまた別に驚きもしなかった。当時はドナーとて今みたいなヒットメイカーではないから、まだまだ海のものとも山のものとも分からない段階。「オーメン」の大当たりの方がマグレの可能性だってあったのだ。それに、そもそも「オーメン」と「スーパーマン」では題材が違いすぎて、何でドナーを起用したのか分からない。「ヒット映画」を撮った奴なら誰でもいいのか…とイヤミの一つさえ言いたくもなろうというものだ。

 そんなわけで期待度ゼロに等しかった「スーパーマン」だが、完成してフタを開けてみると、海の向こうではかなり評判がいいらしい。半信半疑で恐る恐る見てみて驚いた。何と僕が危惧していた要素のすべてが、奇跡的にことごとくプラスに作用していたのだ。長く映画を見ていると、ごく稀にではあるがこんな事もある。これはそんなレアなケースのひとつだ。

 まずは演技力のある重鎮のビッグスターを起用して、主役のフレッシュな若手俳優を盛り立てるという手法。最初はインチキ臭く思えたが、考えてみればこれは「アラビアのロレンス」(1962)でデビッド・リーンが採用した作戦に酷似しているではないか。確かにすでに強烈なイメージのある「主役」を演じる俳優は手垢がついていない新人に限るし、なおかつ作品に大作感と安定感を与えるためには周囲を大物スターで盛り立てるのが作戦としては正しい。たまたま偶然だったかもしれない(笑)が、「スーパーマン」のとった作戦は間違っていなかったのだ。

 さらにビッグな実力派スターの悪役に新進俳優の主役…というキャスティングのパターンは、その後のアメコミ映画のひとつのルーティンとなった。思い起こしていただきたい。「バットマン」(1989)のジャック・ニコルソンマイケル・キートン「X-メン」(2000)のイアン・マッケランヒュー・ジャックマンスパイダーマン(2002)のウィレム・デフォートビー・マグワイアハルク(2003)のニック・ノルティエリック・バナ、ついでに言えば「スーパーマン」からの一種のスピンオフ企画「スーパーガール」(1984)ではフェイ・ダナウェイヘレン・スレイター…と、この手のアメコミ映画化作品はすべて同様のパターンを踏襲しているのだ。

 またいささかバカげているアメコミの設定を、大人の鑑賞に耐えるハリウッド娯楽大作に置き換えるための一種の方程式を確立したのも、この「スーパーマン」だったことは間違いない。その意味でこの作品は、「前人未踏」のジャンルを確立したとも言えるのだ。そして「スーパーマン」の大成功から、アメコミ映画化作品がハリウッドに続々と氾濫し始める。

 その意味でまさに脚本と演出の勝利と言っていいが、その功労者は誰か…と問い直すのは極めて難しい。それと言うのも…功労者の一翼を担っているのは間違いなく監督のリチャード・ドナーであることはもちろんだが、一方の脚本家が正式には誰なのかが今ひとつハッキリしないからだ。

 さまざまな話を総合すると、どうやら「ゴッドファーザー」(1972)の原作者にして脚本家であるマリオ・プーゾが最初の脚本を手がけたらしい。「スーパーマン」の脚本に「ゴッドファーザー」の作者を起用するというのもムチャクチャな話(笑)だが、完成した脚本はどうもやたらと長ったらしく、かなり深刻な内容だったようだ。そこで起用されたのがデビッド・ニューマン、レスリー・ニューマン、ロバート・ベントンの3人。このうちデビッド・ニューマンとロバート・ベントンは「俺たちに明日はない」(1967)の脚本で知られていた。これまた起用の理由を考えると理解に苦しんでしまうが(笑)、ともかくこの3人が盛り込んだ要素は意外にもユーモアと軽さだったようだ。ところがこれもイマイチだったようで、結果的に脚本を仕上げたのはリチャード・ドナーが連れてきたトム・マンキウィッツらしい。

 「スーパーマン」DVDに収録されたリチャード・ドナーとトム・マンキウィッツの音声解説によれば、ニューマン=ベントン版の脚本は変なパロディやお笑いを盛り込んだ、いささか「やりすぎ」の内容だったようだ。だが脚本家ユニオンとの取り決めなど諸々の事情があったらしく、最終的なクレジットに「脚本担当」として残ったのは「マリオ・プーゾ、デビッド・ニューマン、レスリー・ニューマン、ロバート・ベントン」の4人。確かに最初からトム・マンキウィッツの「クリエイティブ・コンサルタント」というクレジットには、「こいつ経営コンサルタントか何かなのか?」(笑)などとどこか変な印象を感じていた。そこには水面下の複雑な事情があったわけだ。そんな中でとにもかくにも「ストーリー」としてマリオ・プーゾの名前が残ったのは、彼がお話の基本ラインを決めていたからだろう。

 そんなこんなで完成したこの映画は、実はかなりゆったりしたテンポで展開する。この感想文にもかなりはしょったストーリーを紹介しているが、あれでも半分にいくかいかないかだ。何しろ冒頭の惑星クリプトンの場面だけで映画開巻より22分が経過。若きクラーク・ケントが田舎の実家を出るくだりで41分、北極の「孤独の砦」から彼が「スーパーマン」コスチュームで飛翔するところで50分、レックス・ルーサー登場の段階で1時間2分…そしてロイス・レインを救うためにスーパーマンが初めての活躍を見せる時点で、何とすでに1時間11分が経過している。つまりこの映画のほとんど前半半分には、スーパーマンが出てこないのだ。だからこの映画の公開当初には、前半がつまらないだの子供が飽きるだの…そんな批判もチラホラしていた。確かにそう言われるのも、ある程度無理はないだろう。

 しかしこの映画のグレードを上げたのも、実はこの前半部分だった。

 いささか重厚すぎるマーロン・ブランドの惑星クリプトン場面も、この映画がバカバカしいモノではないと観客に理解させるためには必要だった。それに続くのが、アメリカの田園風景で展開されるスーパーマン青春物語。これもどこか懐かしさの漂うエピソードで、グレン・フォードも古き良きアメリカを体現していて好演。カナダのアルバータ州で撮影されたと言われるこの場面は、アメリカの「心のふるさと」みたいなイメージを思わせて素晴らしい出来栄えだ。

 後半で映画が本題に入るや、お話はマンガならではの笑いを盛り込みつつ派手なアクションに彩られていく。それはそれでもちろん楽しいし面白いが、この映画がそれにとどまらぬ「品格」を持ち得たのは、明らかに前半部分のゆったりとしたテンポで描かれるエピソードのおかげだ。この映画が真の「大きな作品」として出来上がるには、一見余計なようなこの前半部分がどうしても必要だった。その意味で、このスタイルをあえてとったリチャード・ドナーには確かな見識があったと言える。

 そしてこの映画は、こんな構成をとったからこそ単にアメコミ・ヒーローものの映画化にとどまらず、一種の「アメリカの神話」を構築するに至った。惑星クリプトンはどう見ても「天上の国」であり、そこの住人たちは「神々」だ。スーパーマンはそこから地上に遣わされてきた「神の子」なのである。その「神の子」を育むのが「アメリカのハートランド」

 スーパーマン=クラーク・ケントがバカ正直でクソ真面目でイマドキ珍しいスクエアな男なのに、それを観客が違和感とは感じないのは、彼が「アメリカの神話」の体現者だからだ。あのケバケバしくも悪趣味なコスチュームさえ、「アメリカの神話」の体現者なら当然とさえ思える。そんな意味で、隅々までコンセプトをキッチリ突き詰めてあるのがこの作品だ。それは「娯楽映画製作のお手本」と言ってもいい。

 そして、ここで描かれるいささかイマドキではスクエアすぎる思想は、そっくりそのままアメリカ映画の最も良質な部分とも言える。だからこの映画は製作当時の最先端技術を使った大作なのにも関わらず、どこか懐かしいアメリカ映画の味を持っているのだ。

 それにしても、この難役を演じきったクリストファー・リーブも素晴らしかった。一体どこからこんな役者を連れてきたのかと驚かされたが、スーパーマンなんてバカバカしさの骨頂の役どころを、何のコッケイさもなく演じてみせた。

 その中であえて語っておきたいのが、飛行シーンにおける彼の貢献度だ。

 実はこの当時の特殊技術をもってしても、飛行場面の映像はそれほど優れては見えない。「スター・ウォーズ」によって飛躍的に向上したハリウッドの特撮技術ではあるが、この映画の飛行場面で使われているのはさほど革新的なテクノロジーではないようだ。いろいろな手法は駆使しているものの、最も多く使われているのはフロント・プロジェクションの技術。俳優の背景のスクリーンに、空撮で撮った風景を映写しながら撮影する方法だ。もちろんあの手この手を使って当時の最良の努力を重ねてはいるだろうが、いろいろ触れ込みで言われているほど「人を飛ばす」ために物凄いことをやっていた訳ではないのだ。

 では、なぜ「スーパーマン」では見事に人が飛んでいるように見えたのか? どうやらそれは、クリストファー・リーブの演技力によるものらしい。先に挙げた「スーパーマン」DVDと「スーパーマンII/冒険編」のDVDを収めた「スーパーマン・コレクション・DVDボックス」には、ボーナス・ディスクとしてメイキングが多数収録されているが、それらを見るといかに飛行シーンの見事さがリーブの演技力によるものかが分かる。彼は人が飛ぶならばどう動くかを考えた上で、ちゃんとそれなりの動きを見せているのだ。これなど、彼の映画俳優としての資質の確かさを伺わせるエピソードと言えるだろう。スーパーマンはクリストファー・リーブの演技力で飛んでいたのだ。

 そんなリーブだけではなく、この映画のキャスティングはまさに絶妙。中でもマーゴット・キダーのロイス・レインは、よくぞ起用したと言いたくなる。おそらくはフランク・キャプラの「オペラ・ハット」(1936)で、ジーン・アーサーが演じた特ダネ女性記者のイメージなのだろうか。決して美人でもなければ傑出した女優でもない。それまではホラー映画などに起用されていた彼女だったが、ロイス・レイン役では魅力が全面開花した。その後尻すぼみになってしまったのはまことに気の毒だが、この人はピタリとハマる役柄を見つけるのが難しいタイプなのだろう。

 ジーン・ハックマンネッド・ビーティの漫才コンビみたいなやりとりも楽しい。本来がコメディ専門俳優でないだけに、演技力の確かさを感じさせる。ハックマンは「キャノンズ」(1990)や「バードケージ」(1996)などで精彩を欠いた演技を見せたこともあり、コメディは苦手な役者と見られがちだがどうしてどうして。「スーパーマン」での楽しげな芝居ぶりを見れば、とてもそんなことは思えない。要は演出家のセンスの問題だろう。

 エンディングについて賛否両論が渦巻いたのも、今となってはウソのような話だ。愛するロイス・レインを助けるために、地球の自転を逆回転させて時間を戻すという無茶な設定。だがこの映画は、決してSFではない。シリアスな映画ではない。あくまで「アメリカの神話」なのだ。「神話」ならば、この展開もアリだろう。

 何より僕は、愛するロイス・レインの死に泣き叫ぶスーパーマンの描き方にこそ好感を持った。そこには、お話の中にスーパーマンが登場して以来この時点までコミカルで派手な展開でお話を進めて来たリチャード・ドナーの、本来の誠実で真摯な持ち味が伺えるからだ。

 リチャード・ドナーと言えば「オーメン」「スーパーマン」そしてあのリーサル・ウェポンシリーズ(1987〜1998)の娯楽大作イメージが真っ先に頭に浮かぶが、僕にとってのリチャード・ドナーは知られざるもう一つの顔を持つ。そのカギを握るのが、彼がこの「スーパーマン」直後に撮った小品「サンフランシスコ物語」(1980)だ。ビルから身を投げて身体が不自由になった青年が、同じく不自由な身体を持った人々との触れあいを通じて立ち直っていく物語。殊更に深刻でもシリアスでもなく、ほのぼのとした味わいのこの映画が僕は好きだ。そして「サンフランシスコ物語」を見れば、派手なアクションに目を奪われがちな「リーサル・ウェポン」シリーズが、一貫して人々の連帯をテーマにしている事が見えてくる。

 そしてこの「スーパーマン」も、実は誠実さや連帯がテーマなのは言うまでもない。これもまた、リチャード・ドナーの人柄が濃厚に出た作品なのだ。

 かくて号泣しながらロイスを復活させたスーパーマンではあるが、助かったロイスはそんな事も知らずに、例によって例の調子でスーパーマンにわめき散らす。そんな彼女を見ながら、スーパーマンは苦笑いしながら安堵の表情を浮かべるのだ。まるでチョ〜ンと拍子木を打つようなオチがつく幕切れだが、僕はこのくだりの二人のやりとりがちょっと好きだ。

 この映画を最初に見た当時は分からなかったが、後年になって僕はそれが男の本音だと知った。

 女には、到底男の本当の気持ちは分からない。男がどんなに女を愛しているかは分からない。だが、男はそれでもいいのだ。女に悲しまれたり苦しまれたり、よしんば目の前で死なれるよりは…。

 まだしもガミガミとうるさくわめいていてくれた方がいい。本当にその女を愛した時には、男は心底そう思うものなのだ。

 それは、実際にそんな思いを経験した男だけが分かる。このバカげたお話を価値あるものにしている最後の「隠し味」は、そんな真実の感情だけが持つリアリティなのである。

 


Superman

(1978年・アメリカ)

フィルム・エクスポートA.G.、ダブミード・フィルムス、インターナショナル・フィルム・プロダクション INC. 制作、

ワーナー・ブラザース映画 配給

監督:リチャード・ドナー

製作:ピエール・スペングラー

製作総指揮:イリヤ・サルキンド

提供:アレクサンダー・サルキンド

脚本:マリオ・プーゾ、デビッド・ニューマン、レスリー・ニューマン、ロバート・ベントン

原案:マリオ・プーゾ

クリエイティブ・コンサルタント:トム・マンキウィッツ

出演:マーロン・ブランド、ジーン・ハックマン、クリストファー・リーブ、ネッド・ビーティ、ジャッキー・クーパー、グレン・フォード、トレヴァー・ハワード、マーゴット・キダー、ヴァレリー・ペリン、マリア・シェル、テレンス・スタンプ、フィリス・サクスター、スザンナ・ヨーク、マーク・マクルーア 、ジェフ・イースト、サラ・ダグラス、ハリー・アンドリュース

2006年8月19日・DVDにて鑑賞

 

 

 

 次ページへつづく

 To Be Continued...

 

  

 

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