新作映画1000本ノック 2006年12月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「エラゴン/遺志を継ぐ者」 「硫黄島からの手紙」 「敬愛なるベートーヴェン」 「イカとクジラ」 「明日へのチケット」 「トゥモロー・ワールド」

 

「エラゴン/遺志を継ぐ者」

 Eragon

Date:2006 / 12 / 25

みるまえ

 この映画、いかにも「大作」然として公開される割には話題になっていない。確かに「ロード・オブ・ザ・リング」(2001)が大ヒットし、「賢者の石」(2001)に始まる「ハリー・ポッター」シリーズが出てきて、ファンにとっては「真打ち登場」とも言える「ナルニア国物語/第1章 ライオンと魔女」(2005)までお目見え、何とジブリまで「ゲド戦記」(2006)で参戦するという…いわゆる「ファンタジー映画」ブームの渦中の一作には間違いない。これらの作品はいずれもハズシなしの大成功を収めたが、これだけ出てくれば毎度毎度うまくいくとは限らない。それは例えば…「スター・ウォーズ」(1977)の大ヒットによって起きたSF冒険映画のブームの最中、それなりの金をかけた大作のはずなのになぜかヒッソリと公開され予想通りコケた「銀河伝説クルール」(1983)という作品の佇まいにもどこか似ている。案の定、今となっては誰も「クルール」なんて映画の存在を知らない。悪評すらなくて、単に黙殺だ。誰も覚えていないし見ていない。おまけに語ろうともしない。今回の「エラゴン」には、宣伝の雰囲気にも作品に立ちこめる雰囲気にも…そんな「クルール」のような元気のなさを感じる。何となく鮮度が乏しく、「この作品」じゃなくっちゃ…というムードに欠けているのだ。にも関わらず、この作品もまたかなりの金をかけているようだ。さて、果たして出来はどうなのか? 

ないよう

 その昔、アラゲイジアの国は人間やエルフ、ドワーフらが共存して暮らす豊かな国であった。その中心となっていたのが、ドラゴンと心を交わす勇敢な人々…ドラゴンライダー。しかしこのライダーの中に反旗を翻す者が現れ、事態は一変。邪悪な考えを抱いたライダーの一人ガルバトリックスによって、ライダーたちは殺し合いを始める。かくしてアラゲイジアからはライダーもドラゴンたちも姿を消し、王となったガルバトリックスの支配下に置かれることになった。彼らに反逆する反乱軍ヴァーデンの一団が山岳地帯に潜んで機をうかがっていたものの、アラゲイジアはガルバトリックスの恐怖政治の下、長らく冬の時代を続けていたのだ。この物語は、そんなある夜に始まる。真夜中のこと、アラゲイジアの田舎道をひたすら馬を飛ばして突っ走る1人の姫君と2人の従者たちがいた。彼女はエルフ族の王女アーリア(シエンナ・ギロリー)。今まさにガルバトリックスの城より、ナゾの宝物である巨大な青い「石」を盗み出して来たところだ。当然のことながら、ガルバトリックス(ジョン・マルコビッチ)は怒りに怒る。声こそ荒げないものの、冷ややかになればなるほど恐いのがこの男だ。「私はあの“石”がなくなったままでいるのが我慢ならない」…ガルバトリックスの一の子分で真っ白く顔色の悪いダーザ(ロバート・カーライル)も、このガルバトリックスの機嫌の悪さにより一層顔色を白くする。早速、アーリアたちが立ち回りそうな道を先回りして、部下に捕獲を命令だ。そんな事とはツユ知らず、そこから程近いど田舎の村に、一人の若者がいたと思いねえ。幼くして母親に捨てられ叔父に育てられたこの若者、その名をエラゴン(エド・スペリーアス)という。彼は何かと言えば一緒に育った従兄ローラン(クリス・イーガン)と腕比べ力比べに興ずるような、まだまだ「ガキ」のフツーの男の子。この夜は、自慢の弓矢を持って秘密の狩りに出かけた。ところがエラゴンが一頭のシカに狙いを定めた時、いきなりまばゆい光に包まれるではないか。実はその時、アーリアは2人の従者を失い、ダーザに追いつめられて絶体絶命だった。そしてダーザに「石をよこせ!」と言われた時、苦し紛れに何やら魔法を実行したのだ。その瞬間、まぶしい光線と共に「石」は消滅。突然の眩しさに意識を失ったエラゴンに手元に、その「石」が忽然と現れたわけだ。巨大で真っ青な「石」の出現に、エラゴンもそれがタダモノではないことだけは察しがついた。かくしてこの夜の「戦利品」として、この「石」を我が家へ持って帰ったエラゴンだった。さて翌朝、この「石」を引き取ってもらおうと肉屋を訪れるエラゴン。だが肉屋は「石」を一見するや、真っ青になって「持って帰れ」と叫ぶばかり。肉屋があれほど怯えて、「こんなモノがあると知られたら村中が迷惑する」とまで言った「石」の正体は…実はその後すぐにエラゴンの知るところとなる。納屋に隠しておいた石が内側からヒビが入って割れるや、ポンッと何やら不思議な生き物が飛び出した。その通り、この「石」は実は卵だった。それもただの卵ではない、何を隠そうドラゴンの卵だったのだ。さて、飛び出して来たドラゴンのひなは、まだ歩いたり羽ばたいたりするのもおぼつかない様子。その可愛らしさにエラゴンも目を細めるばかりだ。ところがこのドラゴンの卵がかえった時、そこから遠く離れた場所にも衝撃がはしった。ガルバトリックスの城塞奥深く捕らえられていた王女アーリアも、そして彼女を捕らえたダーザにも、そのショックは伝わったのだ。何が起きたのかをすぐに悟ったダーザは、すぐに追っ手をエラゴンの村に派遣する。そんな事とはツユ知らず、エラゴンは村に前からくすぶっている世捨て人ブロム(ジェレミー・アイアンズ)が語るいにしえのドラゴンの物語に惹かれる。だがこの男、なぜかどこかにナゾと陰りがあるのだ。やがてまだまだ赤ちゃんんのドラゴンを飛ばそうと原っぱで訓練するエラゴン。すると、いつしかドラゴンは空高く飛び去ってしまうではないか。逃げられたか…とガッカリしたエラゴンの前に現れたのは、空中で一瞬にして巨大に成長したドラゴンの姿だった。ドラゴンは自らをサフィラ(レイチェル・ワイズ)と名乗り、エラゴンをドラゴンライダーであると語りかけるのだった。驚愕するエラゴン。だがエラゴンがもっと驚く事態が、村に起こっていた。ダーザの送った軍勢が、村人たちを虐殺していたのだ。ドラゴンのサフィラは危険だと止めたが、エラゴンは慌てて叔父に急を知らせようとする。だが、すべては無駄だった。叔父は敵に殺された後だった。従兄ローランがすでに徴兵を免れるために旅立っていたのが、せめてもの幸い。そして動揺するエラゴンの前に現れたのが、旅支度のブロムだった。彼はエラゴンの正体を察して、彼を助けるために立ち上がったのだ。それは、ドラゴンライダーが復活する時にガルバトリックスの治世も終わりを告げる…という予言に端を発していた。かくしてエラゴンとドラゴンのサフィラ、そしてブロムの3人は、反乱軍ヴァーデンが立てこもる山岳地帯へと向かったのだった…。

みたあと

 正直に言って、僕はこの映画に何ら新鮮味を感じなかった。ドラゴンだの何だのというのはファンタジーの王道なんで文句をつけても仕方がないが…かつて世の中の平和を守っていたドラゴンライダーという騎士たちが、ジェダイという名前でも一向に問題がない。暗黒時代をもたらしたのがガルバトリックスだろうと闇の冥王サウロンだろうとパルパティーンだろうと白い魔女だろうとどうでもいい。おまけに主人公がルーク・スカイウォーカーやハリー・ポッターみたいに孤児で、しかも手に火傷みたいな痕が出来るというハリポタ仕様とくる。さらには途中まで主人公を導いていた重要人物が、唐突に退場してしまうあたりまで「どこかで見たような」展開。確かにファンタジーとはどこか似通った共通性を持っているものだが、この作品は「それだけ」で出来上がっているようにしか見えない。これほどオリジナリティーに欠けたお話も珍しいのではないか。ここまで「どこかで見たような」要素で固められていると、古くはメル・ブルックス映画とか「フライング・ハイ」とか「最終絶叫計画」みたいな、ファンタジーのパロディとしか思えない。この映画の原作がどれほどのベストセラーか知らないが、何でも劇場パンフによれば原作者が15歳の時に書き始めた作品とのこと。いくらネタ不足とはいえ、中学生のヨタ話をハリウッド映画化とは少々ムチャが過ぎるのではないか。

こうすれば

 何しろ言っちゃ悪いがお話に驚きが全くない。何から何まで想定内で、むしろあまりに鮮度がないから驚かされてしまう。「ここまでやるか」とビックリしてしまうのだ(笑)。さらに主人公の男の子に魅力がない。演じるエド・スペリーアスも「普通の男の子」っぽさを強調したくての起用だろうが、ホントに何の取り柄もない男の子に見えてしまう(笑)。おまけに…元々このキャラクターそのものが、あまりに未熟でバカっぽい。むろん未熟な少年が苦難の末ヒーローになるというのは、数々のファンタジー作品から黒澤映画までの物語の定石だ。しかし…ここまで未熟だと応援しようがない。それとも…これは演じるスペリーアスとの相乗効果で必要以上にバカっぽく見えているのだろうか。だがお話の途中で全く目的地とは逆方向に行ってしまう無駄っぷりや、そのせいでとんでもない犠牲が生じてしまうなど、主人公の愚かぶりは度を超している。ヒーローがコレならヒロインになるべきシエンナ・ギロリーも、あの「バイオハザードII/アポカリプス」(2004)でジル・バレンタインを演じた時の生気が感じられないショボさ。若手主役陣では屈折した味を出していたマータグ役のギャレット・ヘドランドだけが見どころありか。シュテフェン・ファンマイアーなる新人監督の腕がどう…と言う以前に、根本的にこの話には問題アリではないの?  おまけにこれって三部作であと2本もつくる予定とは、悪い冗談としか思えない。

みどころ

 ただし主役たちを囲む脇役陣は豪華を極めていて、まずは主人公を導くブロム役ジェレミー・アイアンズが何とも頼もしく素晴らしい。最近は「キングダム・オブ・ヘブン」(2005)など、この手の役どころが多いので手慣れたもの。ジョン・マルコビッチの悪役は毎度おなじみだから省略(笑)。心境著しいジャイモン・フンスーも反乱軍の大将という儲け役を演じている。問題は…かなりお久しぶりのロバート・カーライル! 一時期はあんなに売れまくっていたのに、ここんとこどうもパッとしないのは残念。最後に見たのは「プランケット&マクレーン」(2000)か「ケミカル51」(2003)か、いずれにせよどちらも死ぬほど退屈な作品だった。今回もまるで007シリーズ「ワールド・イズ・ノット・イナフ」(2000)の悪役と五十歩八歩の役どころで、とても本領発揮とは言い難いのは寂しい限りだ。その代わり…と言っては何だが、赤ちゃんドラゴンの姿がキュート。ドラゴンが大人になってからも、声を演じるレイチェル・ワイズがこれまたチャーミングだ。だから映画の中盤は、ワイズの声とアイアンズの安定感ある演技で何とか見れるものになる。それだけに…そんな好演のアイアンズ退場の原因となる主人公のアホぶりが、二倍三倍に腹立たしく感じられてしまう。お金もかかってるしハンガリーの美しいロケ撮影も見ごたえがあるのに、これは何とももったいないよ。

さいごのひとこと

 燃えないドラゴン。

 

「硫黄島からの手紙」

 Letters from Iwo Jima

Date:2006 / 12 / 25

みるまえ

 話題騒然、イーストウッドの「硫黄島二部作」の二作目は、完全に日本語による日本人のドラマ。前に「父親たちの星条旗」(2006)の時にも懸念していたが、いかにクリント・イーストウッドが優れた映画作家だとは言え、アメリカ人イーストウッドに日本人の…あの戦争についてのデリケートな部分まで描けるのか。戦争を敵味方双方から描けば戦いのすべてがフェアに描ける…理屈からいけば確かにそうだが、現実はそう甘くはない。どう甘くないのかを語るには、「トラ・トラ・トラ!」の制作で黒澤明がどんな辛酸をなめたかを語れば十分だろう。あれは黒澤という巨匠のエゴも災いした特異な例だとしても、日本における上下関係、日本の市井の人々の言動、日本の男性社会の特質、日本人が持っているメンタリティー…良い面も困った面も含めて…を、現代アメリカ映画の頂点に立つイーストウッドに理解できるのだろうか。「父親たちの星条旗」が予想以上に素晴らしい作品なので一旦胸をなで下ろしはしたものの、やっぱりこっちの「手紙」の方は一抹の不安は隠せない。だからこの作品が公開されても、僕はすぐには足を運べなかった。すると…公開されるや否や怒濤のごとく絶賛の声が挙がるではないか。これはどうやら「当時の日本の社会や日本人がマトモに描けてるのか?」…というレベルの映画ではなさそうだ。もっとも、絶賛の声の中には少々危なっかしい意見も混じっていて、僕の見る気をやんわりと削いだりもしたが…それでも「何とか年が変わる前に見たい」と劇場に駆けつけた次第。果たしてその出来栄えは?

ないよう

 2005年、硫黄島。長らく人の気配がなかった洞窟に、慌ただしく何人ものの人々が乗り込んでくる。それは硫黄島での戦禍の跡を辿ろうとする調査団の面々だった。彼らは洞窟のそこかしこであの戦いの遺物を集め始めるが、そのうち誰かが大きな声を上げるではないか。やがて足下の地面を掘りだした人々は、そこに一つの布袋が埋まっているのに気づく…。

 1944年、硫黄島。海岸を掘って土嚢づくりに従事させられている日本兵たち。一糸乱れず作業に取り組んでいるように見える彼らだが、個々の兵士たちの思惑までその通りかどうかは定かではない。例えばここでブーたれながら穴を掘っている西郷という若い兵士(二宮和也)。彼にとっては何から何まで気に入らないことばかり。国に残してきた妻(裕木奈江)と赤ん坊だけが気がかりだ。「こんな島なんぞ、アメ公にくれてやりゃあいい!」…そんな西郷の頭上を、一気の飛行機が降下してくる。そこに乗っていたのは、新任の陸軍中将・栗林忠道(渡辺謙)。彼はジリ貧の一途を辿る日本の本土防衛最後の砦、硫黄島を死守すべく乗り込んで来たのだ。もちろん、彼はこれが容易ならざる任務であることは十分承知していた。そんな栗林は、硫黄島にやって来るやいきなり上官による部下への体罰の現場に遭遇。例の暴言を上官に聞かれた西郷が、あわやブチのめされようというところだった。だが西郷は、栗林の「上官はムチより頭を使え」という一言で救われた。これを境に、西郷は栗林に対する尊敬の念を抱くようになる。そしてこの一件でも分かる通り、栗林は徹底的な合理主義者だった。アメリカで暮らした事もある栗林は、日本軍の精神主義的な体質とはどこか相容れないものを持っていた。海岸に穴を掘って海岸線を守る…という戦術をアッサリ捨てたのもその一例。アメリカ軍の圧倒的軍事力を知り尽くしている栗林には、海岸線を守りきるなど無理な相談ということが分かっていた。ゆえに栗林は、ひたすら島のあちこちにトンネルを掘らせて、そこに潜んでの戦闘をめざそうとする。しかしこの戦術は、「パッと戦いパッと散る」と潔さだけを重んじる将校たちには不評だった。やたらコワモテでスゴむことしか考えていない典型的日本軍人の伊藤中尉(中村獅童)など、栗林をアメリカびいきの腰抜けと決めてかかる始末。そんな四方八方敵ばかりの栗林の数少ない理解者が、「バロン西」こと西竹一中佐(伊原剛志)。彼はロサンゼルス・オリンピックで馬術競技の金メダルを獲った男だ。ゆえに彼もまた、「敵」アメリカをよく知っていた。栗林の現在の心境に深い共感を抱くのは、そんな事情からだ。そして西郷たちの元に、急遽一人の新入りが送り込まれてくる。その男・清水(加瀬亮)は何と元・憲兵らしいと聞かされ、すっかり煙たがる西郷たちだったが…。一方、硫黄島に着いてすぐに連合艦隊が壊滅的打撃を受けていると知った栗林は、ますます自らの任務の重さと絶望的な状況を知る。やがてアメリカ軍が硫黄島を包囲し、昼夜を問わず爆撃を繰り返す。いいかげんイライラも限界に達する兵士たちだったが、栗林はひたすらトンネルの中に籠もって耐える作戦に出た。そして、いよいよアメリカ軍の上陸が迫る。すべての兵士を整列させた栗林は、これから始まる壮烈な戦いを前に彼らに訴えた。「玉砕は許さん。死ぬ前に敵兵を10人は倒せ。最後の一兵まで戦い抜くのだ!」

みたあと

 日本語による日本人のドラマとは聞いていたが、ここまで「日本映画」に徹しているとは思わなかった。何しろ冒頭タイトルまで「Letters from Iwo Jima」という英文タイトルではなく日本語。その徹底ぶりには本当に驚かされる。そしてドラマとしても、これがアメリカ人によるアメリカ映画とは到底思えない内容だ。むしろ僕が子供時代からさんざ見せられて来た、日本の戦争ドラマや戦争映画のそれに極めて近い。上官が「なにを〜!」とか「キサマ〜!」とか偉そうに部下をブン殴る。憲兵がムチャな言いがかりをつけてくる。将校がやたら根性や潔さを振り回して、無理な作戦を立てて犠牲の山が築かれる。死ななくてもいい場面で玉砕を強いられる。これがアメリカ映画だと思うからビックリだが、「ちょっと前の日本映画」だと思えば驚くには当たらない(「ちょっと前の」…と言わねばならないのには理由がある)。実際のところ今日の日本の男性社会を見ても、表層の部分がマイルドになっただけで、根本的には今でもこれらと大差ない事が分かる。それくらい日本ではありがちな風景で、日本の戦争の本質を捕らえた描写ではあるが、ありがちなだけに…繰り返し映画やドラマで描かれれば陳腐化もしてしまう。日本の戦争をアナクロに…ではなく良心的に描いたドラマにおいては、昔から「典型」とも言えるエピソードの連続。ある意味では「父親たちの星条旗」と同じように、この映画にも意外性は全くない。そしてムチャクチャな日本軍のシステムに合理性で対処しようとする例外的上官…というのも、日本のドラマとしては定石だ。確かに一応観客の共感を集めるためには、こうした善良で誠実な人物を中心に置くのが定石。あえて繰り返して言うが、これらはかつて日本映画やドラマに氾濫した、厭戦感溢れる良心的戦争映画の典型的アイコンだった。だから、そこに何ら驚きはないはず。…ないはずなのだが…ないはずにも関わらず…これまた「父親たちの星条旗」と同様に、僕はまたまたスクリーンに目を見張らされることになった。

みどころ

 冒頭で僕が挙げていたような懸念は、多くの人が持っていたはず。「異民族の物語を戦争というデリケートな側面で描く」というイーストウッドの行為は、冷静に考えるとあまりにもリスキーな賭けだ。作品的な出来如何に関わらず、アメリカの保守層から日本のミリタリー・マニアに至るまで、「あの設定はヘンだ」「この描写はオカシイ」などとありとあらゆる批判と中傷が降り注ぐ可能性もあったはず。それに果敢に挑戦したというだけでも驚くべきことだ。しかも、それに見事に成功してしまっているからスゴイ。モノクロと見間違えそうなほど思い切り色調を落とした絵づくりは、あの「父親たちの星条旗」と同じ。たまに画面に色がつくと思えば、日の丸か爆発の炎か血の「赤」…というのもハッとさせられる。そこに強烈なCGと立体音響による臨場感溢れる戦闘場面。確かに「これ」だけはかつての日本製戦争映画にはなかった。本当に銃弾飛び交う戦場に連れて行かれるような怖さだけは、日本の映画では実現しようもなかったのだ。だから、鮮烈で新しく感じたのか? 確かにそうだろう。このテーマ、この語り口の映画は過去の日本映画にもそれなりにあったのかもしれないが、この映像・音響システムによるリアリズムは望むべくもなかった。一方、強烈な疑似戦場体験というだけならハリウッド映画を筆頭にこれまでも何度か体験していたものの、僕らにとってそれらは決して「日本兵がいる戦場」ではなかった。こう言っちゃ悪いが人ごとでしかなかった。だから、今回の「それ」は迫真力が段違いに違うのか? それもそうだろう。我々と同じ日本人のいる戦場を、昨今のアメリカ映画ならではの迫真のテクノロジーで再現した結果、初めて僕らにとって真に居たたまれない「戦場の怖さ」が描かれたのは間違いない。さらに今回の戦場には、栗林中将とバロン西という…実在の親米合理主義者がそこに本当にいたのも大きい。観客の共感を得るためには理想主義者を主役にしなくてはいけないのが大衆映画の常だが、日本の戦争の話でそれをやるとウソ臭い話になりかねない。「そんな奴いないよ」とか「偽善だ」ってな風な気分がどこか漂ってしまう。だが幸いにも、栗林とバロン西は本当に存在していたのだ。だから作品がシラジラしさから救われたのか? 確かにそれも言えるかもしれない。さらにさらに…当事者の日本人が語れば自己弁護みたいになってしまうおそれがあるが、敵国側だったアメリカ人がこれをつくったおかげでそんなウソっぽさからも免れることができた…とも言える。そんなさまざまな幸運な要素は、確かに否定できない。だが僕には、この映画の成功の理由がそれだけとは決して思えないのだ。例えば…この映画そのものの語り口は、ある意味で「父親たちの星条旗」よりずっと饒舌だ。「星条旗」では主人公がとにかく語らなかったのが印象的だったが、今回の作品では栗林はともかく、実質的主人公の西郷が終始ブーたれまくる。実はこれが今回の唯一のサプライズで、こんなに戦争に文句ばかり言ってるペーペーの兵士は、およそ日本映画では登場しなかったはずだ。まずこの手の自己主張は日本人らしくないし、実際こんな事を言ったらタダで済むはずもなかった。ある意味では「あり得ない」設定のキャラクターなのだ。だが、この作品はドキュメンタリーではなくフィクションだ。そして西郷は…当時の日本人のメンタリティーや置かれた状況を知らないような、アメリカ人と現代の日本人にとっての「通訳」や「語り部」となっている。彼の言い分は当時の日本人にはあるまじきことでも、今の僕らにとってはリアリティがあるのだ。それに当時の日本人とて、庶民の本音の部分では彼と同じだったと信じたい。さらに西郷の言い分は饒舌極まりないものの、いつも皮肉っぽくシラケかえっている点が注目に値する。彼はフテ腐れた態度をとるばかりで、決して日本の戦争映画や戦争ドラマにありがちな悲痛な叫びは挙げない。そういう意味では、彼の存在は極めてクールだ。同じようにこの映画は全編クールさに覆われていて、栗林の全編血圧を下げたフツーっぽいしゃべり方といい(毎度おなじみ「天皇陛下万歳」ですら、かつて聞いた事のないほどのテンションの低さなのだ)、バロン西が最後を迎えるくだりで目による表情を抑えられていることといい、元憲兵の清水の心変わりがごくごく静かにさりげなく行われることといい、威勢のいい事を言って殴り込んだつもりが生き残ってしまう伊藤中尉の皮肉な運命をわざとらしく強調しなかったことといい、実は表現は終始抑えに抑えられている。安易な感情には流されない。ありがちなパッションにはしらない。何より肝心な場面になると、カメラは主人公たちの顔を暗い闇で隠してしまうのだ! そこが、往年の日本製「反戦」「厭戦」戦争映画やドラマと一線を画するところではないか。実はこの一点によって、この映画は「何ら驚きはない」映画から一転して「今まで見たこともないような」日本の戦争映画たり得ている。何よりこの映画を語っているのが、寡黙の人イーストウッドであることが大きい。そういう意味では今回の映画も、「星条旗」と見事に対になった寡黙な作品なのだ。

こうすれば

 そんな訳で映画作家としてのイーストウッドの姿勢には、まったく文句のつけようもない。ただしこの映画の日本におけるウケ方は、どうも僕にはスッキリしない。「アメリカ軍を手こずらせた大した男・栗林中将」とか、「家族を守るために頑張った」とか…確かにそうと言えばそうなのだが、それってイーストウッドが狙ったことなんだろうか。殺すも殺されるも戦争とはこれほど忌まわしいものなのだ、こんな目には絶対に遭いたくない、遭わずにいられるのは幸運なことなのだ…というのが、何よりこの映画のテーマではないのか。「家族を守るために戦った彼らはエライ」というのは、正しいようで危ない感覚ではないのか。もちろん「家族を守ろう」という行為は尊敬すべきことだ。だが結局「家族を守る」という大義名分や美辞麗句の下に、一体何人の人々が「家族」ではなく「国家」を守らされて犠牲になったのか。この映画のどこを見たらそんな感想になってしまうのか。…先に僕は今回の「厭戦気分」を「ちょっと前の日本の戦争映画やドラマの典型」と語ったが、「ちょっと前」と断ったのには理由がある。イマドキの日本映画やドラマが、そんな「厭戦気分」さえ伝えられているのかどうか、少なからず心配になってしまうからだ。一応戦争の悲惨さは描かれても、「家族を守るために頑張った」ですべてはオーライになってはいないか。「家族を守るための戦争は美しい」…イーストウッドがつくったこの画期的な作品も、そんなズレた意味で受け取られてしまうなら本意ではあるまい。それどころか、硫黄島で亡くなった人々も無念ではないのか。「僕もあんな風に家族を守りたい」なんて大本営が聞いたら喜びそうな感想を目にすると、言いたくないけど心がうそ寒くなってしまう。それが今の日本の気分だとしたら、これはかなりヤバイ状態ではないのか。結局のところ、人というものはテメエが見たいものしか見ようとしないし、実際にも見えないのだろうか。

さいごのひとこと

 ちゃんとスクリーンを見ろ。

 

「敬愛なるベートーヴェン」

 Copying Beethoven

Date:2006 / 12 / 18

みるまえ

 まず最初にこの映画について知ったのは、「エド・ハリスがベートーベンを演じる映画」ということ。「ポロック/2人だけのアトリエ」(2000)で実在の芸術家演技も経験済み。ハリウッド保守本流から少々ハズれたポジションにいる名優で、確かヨーロッパ映画に出たこともあるハリスなら、こういう題材もお手のモノだろう。あとは見慣れないハリスの長髪姿がどう見えるか(笑)だが…それはともかく、あのエド・ハリスなら難なく役をこなしそうな気がする。その前にベートーベンを演じていたのは「不滅の恋/ベートーヴェン」(1994)では曲者ゲイリー・オールドマンだったから、彼にとって不足はない役のはず。問題なのは…リュック・ベッソンのマンガ映画「ミシェル・ヴァイヨン」(2003)で売り出し、たちまちハリウッドの「トロイ」(2004)にまで出演するようになったダイアン・クルーガーが相手役という点。このキレイキレイさが取り柄の女優さんと、エド・ハリスとのコンビネーションがどうにもシックリ来ないのだ。何となく通り一遍のつまんない「伝記映画」になっちゃいそう。それでもエド・ハリスの「楽聖」ぶりを見たくて、劇場まで足を運んだ次第。

ないよう

 1827年、乗合馬車に乗り込んで、ウィーンへの道を急ぐ一人の女がいた。彼女の名はアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)。ガタガタと荒れた道を乱暴に飛ばす馬車の振動と、気が急いて激しく混乱している彼女の胸中。そんな動揺の渦中からいつの間にか心に浮かび上がって来たのは、ベートーベンの「大フーガ」の旋律だ。そんなこんなでやっとウィーンに到着したアンナ。彼女が一路向かったのは、かつて知ったるベートーベンの住まいだ。彼女はベートーベンが重体であることを耳にして、慌てて彼の病いの床に駆けつけたのだ。弱り切って寝込んでいるベートーベン(エド・ハリス)にすがりつくアンナ。ベートーベンもまたそんなアンナの見舞いに、ない力を振り絞って笑顔を見せた。アンナはベートーベンに語りかける。「ここに来る途中、私にもあの“大フーガ”が聞こえて来ました!」

 そんな二人の出会いは、1824年のウィーンに遡らねばならない。音楽学校出たてのアンナは学長から推薦状をもらって、音楽出版者のシュレンマー(ラルフ・ライアック)を訪ねる。だが希望に胸膨らませて音楽の都を訪ねた彼女の夢は、シュレンマーの心ない言葉でたちまち打ち砕かれる。ガンを患って体調を崩していたシュレンマーは、まず最初にアンナを看護婦か家政婦と間違った。彼女の正体が分かってからも、彼の態度は一向に変わらない。「私はお宅の学長に、写譜師になれる教え子を頼んだ。一番優秀な生徒を…と頼んだんだ。それなのに女なんか寄こして…」「私が一番優秀な生徒です!」…だがシュレンマーが決して女への偏見ばかりで嘆いていた訳ではない。「誰の写譜をするのか知っているのか? ベートーベンだぞ! あの野獣のような男だ!」…そのシュレンマーの言葉がウソでないことは、それからすぐに分かった。いきなり現れたベートーベンその人が、病いで苦しんでいるシュレンマーを激しく罵る現場に居合わせたからだ。「さっさとキレイに写譜しろ! さもないと容赦しないぞ!」…実はベートーベンは新たな交響曲の初演をあと4日に控えながら、いまだに曲を完成させていないのだ。そしてカリカリと苛立っている。「一番優秀な写譜師」が呼ばれたのは、そんな理由からだった。早速ベートーベンの自宅に乗り込んだアンナは、そこでデカイ金属板を反響板として首に巻きながら、必死にピアノで作曲を急ぐ彼の姿を見る。ベートーベンは最初こそシュレンマーと同様に「女なんて」と無視しようとするが、彼女の書き写した譜面の見事さ…しかもベートーベン自身がミスした部分を訂正までしている仕事の確かさと知識の豊かさに舌を巻く。「どこが間違っているのだ!」と一旦はベートーベンも吠え立てたものの、一歩も退かないこのアンナという女の根性をちょっと気に入りもした。その夜、早速酒場で時間をつぶして「オンナなんて」とクダ巻きながらも、翌日から仕事に出てくるようアンナに指図するベートーベンだった。こうしてベートーベンと共に働く事になったアンナだが、身近にいるようになって初めて分かったその人となりには、さすがに「変人」と覚悟していた彼女も呆れるばかり。とにかく独善的で下品、衝動的かつ粗暴。そして、とりわけ歪んでいるのが甥のカール(ジョー・アンダーソン)との関係。ベートーベンはこの甥を溺愛していたが、ありもしない彼の才能に賭けて無理矢理ピアニストにしようと四苦八苦。当然それは甥にとって押しつけの苦痛でしかないから、今ではベートーベンからカネをせびって遊びほうける、腑抜けの若者に成り下がっていたのだ。さすがに見かねたアンナは、それをベートーベンの「独善」と直言する。今までオベンチャラしか言われたことのないベートーベンは、粗野な態度をとりながらもそんな彼女の言葉に耳を傾けるのだった。一方、そんなアンナには最新技術を信奉する橋の設計者マルティン(マシュー・グード)という婚約者がいた。彼にとっては自分の恋人が偏屈な音楽家に師事するのが、何とも不可解で仕方がなかった。そんなこんなで何とか新しい交響曲「第九」の初演の日を迎えたアンナとベートーベン。だが、ここで大問題が起こる。ベートーベンはこの曲を自らのタクトで指揮しようとしていたが、耳の不自由な彼にはどだい無理な相談。かくして開演を直前にして、ベートーベンはすっかり困惑して茫然自失の状態だったのだ。かくしてマルティンと客席で「第九」初演を見物するはずだったアンナは、シュレンマーに楽屋に引っ張られてベートーベンを叱咤激励するハメになる。挙げ句の果てには彼女が舞台のヴァイオリン奏者の陰に隠れて、指揮台のベートーベンを「指揮」するという前代未聞の方策がとられることになった。舞台の幕が上がり、いかにも「大音楽家」然とした出で立ちのベートーベン。だがその視線は不安げに泳いで、ヴァイオリン奏者の陰にしゃがみ込んだアンナに向けられる。アンナとて不安で一杯だが、もはや手段は選べない。もはやヤケクソでベートーベンに指示を出した。こうして「二人三脚」の指揮が始まる。最初こそビクビクものだったベートーベンだが、そこはそれ昔取った杵柄。一旦、音楽が滑り出したらたちまち本領を発揮し始めた。むろんそこにはアンナの的確な指示があったからに他ならない。曲が進めば進むほどベートーベンはアンナに全幅の信頼を置くようになっていったし、彼女もまたどんどん自信を持って指示を出すようになった。そして、二人はひとつに溶け合うように、音楽に身を委ねるのだった…。

みたあと

 実はこの映画、ポーランド出身のアニエスカ・ホランドの監督であると見る直前に知った。それを知ったからと言ってどうというほど僕はアニエスカ・ホランドを知っているわけではないが、アンジェイ・ワイダ門下生で近年はハリウッドに進出。「秘密の花園」(1993)や「太陽と月に背いて」(1995)なども手がけているホランドと聞けば、そうヘボな映画にはなるまい…と一応安心できる。しかも、確かホランドは過去に日本未公開の作品で、すでにエド・ハリスと組んだことがあるはずだ。ならば、ますます保険がかかったようなもの。実際に接してみた作品自体も、回りくどさや分かりにくさとは無縁の、いい意味で俗っぽさを持つ映画に仕上がっていた。独善的で人間的欠陥丸出しで、なおかつクリエイターの業に取り憑かれたベートーベンを、あのエド・ハリスがなかなか好演しているのだ。

みどころ

 考えてみれば前述したごとく、偏屈な芸術家役はすでに「ポロック/2人だけのアトリエ」で経験済みのハリス。だからソコソコやるとは予想がついた。そして予想通りの大熱演。予想外に良かったのはクールな美人のダイアン・クルーガーで、ベートーベンに嫌悪感を持ちながらも共感を抱いていく姿を、かなりの説得力を持って演じているのだ。それで思い出したのが、これまた意外な好演ぶりを見せた「ナショナル・トレジャー」(2004)。単なる知的美人と思いきや、ニコラス・ケイジとイイ勝負の凝り性のオタクを楽しげに演じて、ここでのクルーガーもなかなか良かった。どうも彼女はこういう「ちょっと度を超した熱中型」のオンナを演じるとイイ味出すのかもしれない。そんな彼女の真骨頂は、ベートーベンと「二人三脚」の指揮ぶりを見せる「第九」初演場面。エド・ハリスともども、ちゃんと「指揮者」に見えるあたりも見事なら、そこでベートーベンと心の通い合いをちゃんと見せているあたりが素晴らしいのだ。アニエスカ・ホランドの演出も大したもので、延々と「第九」演奏場面を見せているだけにも関わらず、僕のような音楽の門外漢ですら退屈させない。最初は「大丈夫か」とハラハラさせるサスペンスでグイグイ引っ張り、中盤からは指揮を通してのベートーベンとアンナの心の通い合いすら感じさせ、ついには指揮を二人のセックスのように官能性たっぷりに見せる。口でいうのは簡単だが、これはなかなか出来ないことだ。

こうすれば

 しかしながら…実はこの映画、最大に盛り上がる「第九」初演の場面をほぼ中盤に置いている。そして残念ながら…描くべきことはこの「第九」初演でほぼ描き尽くされたように見えてしまうのだ。もちろんホランドとしては「その後」を描きたかったのだろうが、残念ながらお話としては単調になって下降線を辿ってしまうのは致し方ないところ。それ故にベートーベンの臨終場面を冒頭に持ってくるなど工夫を凝らしているのだろうが、根本的な構成にムリがあるからどうしようもないのだ。「第九」場面の素晴らしさをはじめ見るべきところの多い映画ではあるが、作品全体としては成功作とは言えないかもしれない。

さいごのひとこと

 エド・ハリスはリーヴ21を使ったのか。

 

「イカとクジラ」

 The Squid and the Whale

Date:2006 / 12 / 11

みるまえ

 この映画のポスターは、大分前から僕がよく行く映画館に貼ってあった。そのタイトルを見て呆気にとられ、「イカ」と「クジラ」ってどこに出てくるんだろう?…と不思議に思ったものだ。しかし、やがてその映画の予告編が映画館にかかるに至って、僕はすぐにこの映画のテイストが想像できた。ジェフ・ダニエルズ、ローラ・リニーらが主演の家庭劇。「パパとママは離婚するから…」「ちょっと待ってよ、じゃあネコはどうするの?」…オフビートな笑いを中心にした知的コメディ。背景にはアコースティック・サウンド中心のポール・サイモン風シンガーソングライター系ロック。「驚異的才能の出現」と全米で絶賛のノア・バームバック監督…って、ちょ、ちょっと待ってよ、ネコはどうするの?…じゃなくって(笑)、それってどこかで聞いた事があるなぁと思っていたら、製作にちゃあんとこの人…ウェス・アンダーソンがかんでいるではないか。まさに正体見たりの感じ。確かにウェス・アンダーソンもそうだった。全然知らないヤツなのに、いきなり予告編にバ〜ンと「全米で絶賛の驚異的才能」とか何とかうたわれて、何だかギラギラのオールスターで、オフビートな知的コメディ。背景に流れるロックの趣味まで似ていた。確かに面白い事は面白いけど、アンダーソンの「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001)は、全部頭の中で考えちゃったような頭デッカチなチマチマさ加減がどうもねぇ…ってのが正直な本音だった。その後、「ライフ・アクアティック」(2004)では一皮むけたところを見せたけど、最初はあの「全米で絶賛の驚異的才能」ってのがマユツバっぽくてイヤだったのだ。それを、またここでもう一度聞かされるハメになるとは。どうせこれも、どこか頭デッカチなチマチマ映画ではないのか。それでもこの映画を見に行こうと思ったのは、好きな女優ローラ・リニーが見たかったからだ。

ないよう

 1986年、ニューヨークはブルックリン。そこにありふれた一家がいた。父バーナード(ジェフ・ダニエルズ)は元々作家だったが、今は出版社に相手にされず大学講師で生計を建てている。母ジョーン(ローラ・リニー)はいつしか小説を書き始め、これが認められようとしていた。そして二人の息子…16歳のウォルト(ジェス・アイゼンバーグ)と12歳のフランク(オーウェン・クライン)。一家でパパ組とママ組に分かれてテニスをするや、パパはズルをしてママを散々やりこめてしまった。頭に来て途中でゲームをやめてしまうママ。パパはどこか偉そうで無神経なところがあり、ママはシャレが通じない真っ正直すぎるところがあった。そんなギクシャクする瞬間も、普通の家庭にあるごくありふれたものだと思っていたのに…ある夜、ママにかかってきた電話で一悶着起きて、翌朝パパから「今夜は家族会議だ」と聞かされるや、ウォルトとフランクにはそれが何を意味するのか薄々察しがついてしまった。案の定、「家族会議」でパパが言い出した話題は「離婚」だったのだ。ウォルトとフランクは一週間の半分はパパ側、あとの半分はママ側の家で暮らす…ってちょっと待ってよ、ネコはどうするの? そこで深刻に悩んでしまうところがこの一家の情けないところ。要は彼らの家庭崩壊ってネコ1匹と同等の深刻さか。別れてみると経済的にも苦しくボロ家を借りねばならないパパと、作家としてもプライベートも上り調子のママと…明暗はクッキリ分かれる。不思議と子供もどっち側とハッキリしてくるもので、パパの屁理屈を真に受けて心底感心して聞いているウォルトはパパ側。困った事にパパが「あんな作品は二流」と断じるとその本は読まないし、パパの受け売りで中味も分からぬままカフカやフィツジェラルドを偉そうに語る始末。パパの言い分を鵜呑みにしてママをコキ下ろす、自分ってモノはからっきしないイタイ奴のウォルトだった。片やフランクの方は、鼻持ちならないスノッブさを振り回すパパについていけない。映画や本の教養がない奴を「俗物」と断じるパパに、「僕は俗物だよ」と切り替えすフランクは明らかにママ側の子だ。もっともそんな事を偉そうに言っているパパが一番「俗物」なのは言うまでもなく、自分に接近してきた教え子リリー(アンナ・パキン)を「お持ち帰り」するちょいエロ・オヤジぶりを発揮。ウォルトはウォルトで、自分の偉そうかつ空疎な文学論に感心して近づいて来た同級生ソフィーにチョッカイ出しながら、リリーにも良からぬ妄想を抱き始める。そっちの方ではママも負けていなくて、離婚後早速テニス・コーチのアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン)をくわえ込み、息子たちには今までの浮気遍歴を白状。フランクはと言えば、12歳にしてビールに溺れオナニーに耽るテイタラクだ。そんな「元・家族」たちも、いいかげん自分たちの姿に直面しなけりゃならない時がやって来る…。

みたあと

 案の定、思った通りの要素が詰まった映画だった。オフビートで知的な笑い。これでもか…とディケンズ、カフカ、フィツジェラルド、ピンク・フロイド、「ブルー・ベルベット」と引用の嵐。最初から最後まで偉そうに気取ったことしか言わないジェフ・ダニエルズの父親には閉口させられるし、その長男ウォルトが「まんま」のコピーみたいに生意気な事を言っているのもウンザリ。イヤな奴ら、イヤな一家だと辟易してくるが、ちょっと考えていくと作者がそれを「良し」としている訳ではない事に気づく。一見、頭デッカチの屁理屈映画に見えるが、そもそもこの映画ってそんなスノッブな「痛さ」を描こうとしている作品ではないのか。

みどころ

 そもそも作者はこの長男ウォルトに感情移入して映画をつくっているらしいが、そのウォルトが一番イタイ役どころなのだ。分かってもいないクセに分かったフリ。知りもしないのに知ったかぶり。スケベ根性丸出しのアホなのに「知的」に振る舞ってるつもり。ウブで無知なくせにイッチョマエの態度。明らかな失態やズルを犯したにも関わらず屁理屈こいて開き直る。だが本人はカッコがついてるつもりでも、周囲から見たら丸腰の丸裸。相当痛くて恥ずかしい奴ってのがこのウォルト。分かってないのは自分だけ。ズバリ自分のオリジナリティ・ゼロで、親父のダメなところだけを抽出して凝縮したようなガキがこいつなのだ。僕は見ていてホントにイヤでイヤでたまらなくなったし、全くこいつには笑えなかった。しかしそれほどイヤで笑えなかった理由は…正直言って僕がまさにアイツ同然だったからに他ならない。というか、現在進行形でアイツなのかもしれない。コレは相当にキツかった。いや、僕もそれは薄々分かっているのだ。分かっているから責任や家庭からも逃げたし、人生捨ててるみたいに生きてきた。偉そうな口を叩きながらも本当は自分はカラッポだと、分かりすぎる程分かっているのだ。とても先輩や上司や管理者や指導者、夫や父親になんかなる資格がないと分かっている。とても恥ずかしくてそんな事が言えるタマじゃないのだ。この映画には、そんな自分を吐き出すような痛みが確かにあった。高見の見物で「自分は利口でございます」と言ってる訳ではなかった。そのへんが「全米で絶賛の驚異的才能」なんて偉そうなキャッチフレーズとは裏腹の、ノア・バームバックの優れている点ではないか。そう思ったら、何とこのバームバックって「ライフ・アクアティック」の脚本に参加しているんだって? なぁるほど、「ライフ・アクアティック」は小利口に振る舞うばかりじゃなくって、どこか内省的な味もあった。「全米で絶賛の驚異的才能」ってのは明らかに言い過ぎだし、おそらく本人が思ってるほどセンスも良くないだろうが、その点ではウェス・アンダーソンより上なのではないか。ただしラスト…相手を殺さんばかりに絡み合う巨大なイカとクジラのジオラマを持ち出してきて、夫婦、親子、兄弟、家族…のメタファーとしたあたり、あるいは「見たくない事でもいつか見なきゃならないんだよ」のメタファーにしたあたりは、あまりに図式的で取ってつけたような処理に思えた。これにはさすがに頭デッカチさと理屈が勝っちゃったような違和感を感じはしたが、それでもこの映画にはどこか親しみを覚える。これでもうちょっと「オレって教養がある」とか「オレってセンスいい」って言いたげな態度を抑える余裕が出てきたら、ノア・バームバックも大人の映画作家になれそうな気がする。特筆すべきは、主人公の弟を演じるオーウェン・クラインの素晴らしさ。ケビン・クラインとフィービー・ケイツの息子らしいが、何とも達者な子役が現れたものだ。

さいごのひとこと

 魚介類タイトルを見てサザエさん一家かと思った。

 

「明日へのチケット」

 Tickets

Date:2006 / 12 / 04

みるまえ

 イタリアのアルマンド・オルミ、イランのアッバス・キアロスタミ、そしてイギリスのケン・ローチが組んでつくった短編三部作オムニバス映画。何だかそんな映画って今まで一杯あって、この人たちもとっくに組んでいるような気がしていたが、意外にもこれが初顔合わせという。それぞれが巨匠の名に恥じない監督ばかりで、オルミなんてあまりに巨匠すぎて、最後に見たのが「聖なる酔っぱらいの伝説」(1988)というテイタラク。敷居が高いねえ。まぁ、こういう企画って3人の巨匠の新作が一気に楽しめるというお得感が売りだが、正直言ってすべて傑作という出来の作品にお目にかかった試しがない。ローチも噛んでる「9・11」ものオムニバス「セプテンバー11」(2002)もダメなエピソードは箸にも棒にもかからない出来だったし、「10ミニッツ・オールダー」(2003)二部作は比較的うまくいった方だと思うが、それでも出来栄えにはかなりのムラがあった。ウォン・カーウァイ、ソダーバーグにアントニオーニという異色の顔合わせの「愛の神、エロス」(2004)に至っては、後になればなるほど作品の出来がガクンと落ちていくアリサマ。ことほどさようにオムニバスでは「1+1+1」という足し算になるとは限らなければ、「×3」という掛け算になる保証もない。巨匠3人がいるからと言って、面白さも3倍とはならないのがツライところだ。おまけに今回伝え聞こえてくる話では、何と巨匠3人がそれぞれ一人一話ずつつくっているのではなく、共同で演出をやっていると言うではないか。そんな事が出来るのか。それで思い出すのが…かつて「トラ・トラ・トラ!」を下ろされた直後の黒澤明が四騎の会の同人である市川崑、小林正樹、木下恵介と組んでつくろうとした「どら平太」なる時代劇。4人で脚本を共作して4人で共同演出するとの意気込みはスゴかったが、そもそも人一倍アクの強い巨匠監督が「共同演出」なんて出来るのか。案の定、脚本段階で頓挫して企画は棚上げ。他の監督たちがすべて世を去った後に、市川崑が一人で演出して2000年に完成させた。オルミ・キアロスタミ・ローチの3人だって、誰にも負けないくらい我が強いはずだよなぁ。この作品、果たしてちゃんとした映画になっているのか。

ないよう

 外は夜。長距離列車は数多くの乗客を乗せて走っている。食堂車に席を得た初老の大学教授(カルロ・デッネ・ピアーネ)は、パソコンを開いて仕事を始める。列車はえらく混んでいた。教授はある企業の依頼を受けて仕事をしていたが、孫の誕生日パーティーのために帰らねばならない。ところが生憎とテロで空港が閉鎖。気が利く企業の女性秘書(ヴァレリア=ブルーニ・テデスキ)が手を尽くして、列車のチケットを取ってくれたから良かったものの、その列車も爆発物の点検とかで遅れに遅れている。列車が無事に走り出してからも、車内は混雑し、軍人が行き来して物々しい雰囲気だ。そんな中で、教授はあの秘書の事が頭から離れない。教授は彼女に、なぜか好意を抱いていたのだ。それは久しぶりの感情だった。彼女の方も、確実に教授に対して好意を露わにしていた。だが、大した話もせず彼女と駅で別れてしまった教授。仕事を中断して、今度は彼女への手紙を書き始める教授は、今までの自分の人生をふと振り返る。まだ教授が子供だった頃に出会った、あの可愛らしいピアノの少女…。だが、教授は声をかけられなかった。今回の秘書もそうだった。いつもそうやって肝心の時にためらって、せっかくのチャンスを棒に振った。そんな時、ジャン・クロード・ヴァン・ダム激似(笑)の軍人のリーダーが、偉そうに教授の前の席に座った。あげく通路を出入りして、そこで赤ん坊をあやしていた東欧の一家と遭遇。母親に乱暴にぶつかると、哺乳びんを落としてミルクを床にブチまけてしまう。しかも火がついたように泣く赤ん坊にウンザリしたかのような軍人は、この一家を通路から追い出してしまった。さすがにこの振る舞いに憮然とする乗客たちではあるが、誰一人として軍人に逆らう者はいない。だがその時、教授の心で何かがプチッとキレた。今まではいつも肝心の時にためらっていたが…教授はウェイターに暖かいミルクを持って来させると、軍人の目の前で決然とそのミルクを東欧の一家に運んでやるのだった。

 さて、列車がある駅で停車すると、太った中年女と若者が乗ってくる。やたらに威張りくさる中年女(シルヴァーナ・デ・サンティス)は若者フィリッポ(フィリッポ・トロジャーノ)に山ほど荷物を持たせて、狭い車内をドタバタ動き回って席取りに必死。ついに一等車に席を見つけるが、実は彼らは一等の切符は持っていない。そのことをフィリッポはたしなめるが、中年女は聞く耳を持たない。それどころか頭ごなしに怒鳴りつける始末で、いいかげん若者もウンザリする。ところがフィリッポが席をはずすと、またしても一悶着。中年女が携帯電話でしゃべり始めたのだが、ある男(ダニロ・ニグレッリ)がその携帯を「自分のものだ」と主張してきたのだ。確かにこの厚かましい女なら、人の携帯をまきあげるなんぞ平気でやりかねない。しかし中年女はあくまで携帯を「自分のものだ」と言い張った。おまけに男が「では番号を言え」といっても、黙って知らぬ存ぜぬを押し通すので怪しさが増すばかり。こうして「返せ」「自分のだ」と押し問答が続いたが、たまたま通りかかった車掌の機転で事は解決。意外にも中年女の携帯は自分のモノで、すべては男の勘違いだった。しかし、それが「意外にも」と思えてしまうところがこの中年女の困ったところ。案の定、次の駅で乗ってきた紳士2人とまたまた揉める。しかも、今回は逃げも隠れも出来ない。この2人は、中年女が勝手に座った座席を事前に予約していたのだ。こうなると、いくら中年女が居直ってもどうにもならない。結局、先程の車掌が再び登場して、中年女とフィリッポのために空いている個室を提供してくれることで何とか解決した。解決はしたが、いいかげん事の成り行きに辟易するフィリッポ。いいかげんウンザリして席を離れた彼に、女の子が2人目配せしてくるではないか。何と彼女たちは、かつてフィリッポが住んでいた故郷の女の子たちだった。彼女たちは、かつてのフィリッポを知っていたのだ。すっかり懐かしい気分になるフィリッポ。だが、それにひきかえ…今はあんな中年女にコキ使われ、やれ「コーヒーを持ってこい」だの何だのとアレコレ嫌がらせをされるアリサマ。あの中年女は将軍の未亡人で、自分は兵役を免除されるために面倒を見ているのだ…と女の子に言ってはみても、情けない状況には変わりないフィリッポであった。そんなフィリッポの気持ちも知らず、今度は着替えたいとわめき出す中年女。この日は将軍の命日で、喪服に着替えるためにフィリッポの手を借りようというのだ。だがその最中も中年女は言いたい放題。これにはさすがのフィリッポもキレた。彼は自分の荷物だけ持って個室を飛び出した。慌てた中年女が後を追ったが、もはや万事窮す。どこにどう逃げたか分からないが、走っている列車内から若者の姿は消えていた。やがて駅に着いて、たくさんの荷物に困り果てる中年女。これに見かねたのは先程の携帯の一件の男で、何と親切にも手を貸して荷物を下ろしてくれた。だが、ホームに降りてもフィリッポはいない。山のような荷物の上に座り込んで、中年女はただただ途方に暮れるばかりだった。

 さて、そんな列車にはイギリスからやって来た3人の若い男の子たちもいた。このジェムジー(マーティン・コムストン)、フランク(ウィリアム・ルアン)、スペースマン(ガリー・メイトランド)の3人は、同じスーパーマーケットで働く同僚同士。彼らはサッカー・チーム「セルティック」の熱烈なファンで、ローマで行われる「セルティック」の大事な試合を見るために、なけなしの金をはたいてやって来たのだ。そんなこんなで気分は高揚し、若さとバカさで車内でも大騒ぎだ。おまけに食堂車でベッカムのユニフォームを着た東欧の少年を見かけたから、さらに騒ぎはパワーアップ。見るからに貧しそうな彼に余ったサンドイッチをあげると、試合のチケットを見せびらかしてうるさいことうるさいこと。ところがその直後、この3バカ・トリオの血が凍り付く事件が起きた。何とジェムジーの乗車券がなくなったのだ。焦り狂うジェムジーは必死に探すが、乗車券は出てこない。車掌は冷たく新たな乗車券を買って罰金を払えと告げるが、積み立てた金はすでにスペースマンがイタリア製の靴に替えてしまっていた。車掌はジェムジーに「ローマで警察に引き渡す」と捨て台詞だ。そんな時、フランクがシビアな指摘をする。試合のチケットを見せびらかしていた時、乗車券を東欧の少年に盗まれたのではないか?…と言うのだ。さんざっぱら口論のあげく、人を疑いたくないジェムジーも背に腹は替えられなくなってきた。こうして3人は例の少年たち東欧の一家の席まで行って、直談判をすることになったわけだ。「乗車券を見せろ!」…案の定、何と姉のバッグからジェムジーの乗車券が出てくる。さすがにこれに怒った3人は、東欧一家を車掌に突き出そうするが、例の少年の姉が必死に止めるではないか。「これには訳があるの!」…何でもなけなしの金でここまでやって来た一家は、どうしても「あと1枚」が買えなかった。しかしローマで待っている父親に会えなければ、永久に一家の再会はないと言うのだ。これを聞いたジェムジー、フランク、スペースマンの3人は焦りに焦る。「彼らを放っとけない」「試合が見れなくなるぞ」「彼らは永久に再会できなっちゃうんだぞ」「これがバレたら職を失うかもしれない」「本当のことかどうかも分からないぜ」…そんな3人の思惑をよそに、ローマの駅が近づいて来る。彼らを信じたいと思っていたジェムジーも、意を決して席を立った。「オレたちしがないスーパーの店員に、世界の大問題なんて荷が重すぎるよ…」

みたあと

 3人で一緒につくる…なんて言ってるからすっかりビビッていたが、さすがにそんなムチャな事をやるわけがなかった。一応、お話は3つのパートに分かれていて、それぞれオルミ、キアロスタミ、ローチ…と担当が分かれていた。ただし部分的には共同で撮影に関わったり、編集を3人で協議したりすることはあったらしい。そんな意味での「緩やかな共同作業」にとどまったのは正解だった。いくら何でも全部一緒は無理だろう。お話自体はどれも「ちょっといい話」の域を出ないが、それを列車内の話にしたのは名案だった。列車ってのはどこをどう撮っても映画的な乗り物で、今までも列車を使った名作が数限りなくある。駅によって乗って来る人降りる人がいるから、登場人物の出し入れもたやすい。これはアイディアの勝利だ。

みどころ

 3本の中ではいちばんさりげなく、ストーリー性が希薄でおとなしいのは一番手のオルミのパート。でも映画は始まったばかりで見る側も集中しているから、このあたりなら僕らも飽きずに見ていられる。文字通り「ちょっといい話」だ。しかも「分からない」ということがない。ここであえてこの映画の特筆すべき点を一つ挙げると…この映画はヨーロッパ映画にも関わらず「曖昧」で「回りくどく」て「思わせぶり」なところがないのだ。これはミニシアター系で上映されるヨーロッパ映画としては、かなり稀なことじゃないだろうか。実もフタもない言い方で恐縮だが、ヨーロッパ映画でしかもアート系の映画だと、何を言いたいんだか分からない「もって回った」気取った映画が多い。だがこの映画は、そんな気取りなど微塵もないのだ。もっと気安く分かりやすく親しみやすく…しかも面白い。それだけでも、この映画は価値がある。続くキアロスタミは…ずっと彼の素人や子供を使ったセミ・ドキュメンタリー風映画ばかり見てきたから、こんな「役者」に「芝居」をさせる映画が見たかった。そして…なかなか楽しめるではないか。厚かましいオバチャンの描き方なんか見ていると、この人は喜劇もうまそうだ。キアロスタミのウェルメイドな映画をもっと見たい。…そして、やっぱり一番見せてくれるのがトリを務めるケン・ローチ。この人はどうせまた政治的メッセージを込めた映画をつくるんだろうと思わせて…それは確かにその通りだったが…こんな3人の若さとバカさが爆発したアンチャンたちを主役に、自由闊達に語ってくれるのだ。そして主人公が3バカ・アンチャンだからこそ、僕らも身につまされて考えざるを得なくなる。彼らが適度にバカで無責任で無知で無礼で、だけど根っから冷血でもなくお人好しなところもあるからこそ、彼らの気持ちがよく分かる。本当のところ、僕らだってこんなものだ。「難民って大変らしいよ」程度の分かってるんだか分かってないんだかアヤシイ認識こそ、実際の僕らの認識そのものだ。「オレたちしがないスーパーの店員に、世界の大問題なんて荷が重すぎる」…その通りだよなぁと思いつつ、彼らの問題は僕らも無縁ではないと思わされてしまうのだ。こうなると僕らはたちまちケン・ローチの術中にハマってる。政治的な映画を政治的につくらないローチは、相変わらずうまいんだよねぇ。しかも最後にちゃんとスカッとカタルシスまで用意している。主人公たちの爽やかな心意気…なおかつ、やっぱりバカ(笑)…でサッと終わらせる手際の良さたるや、もはや名人芸と言っていい。このローチのエピソードが最後に来たことで、この映画の格はぐ〜んと上がった。

さいごのひとこと

 三人だとおトクなのは「高校生友情プライス」だけじゃない。

 

「トゥモロー・ワールド」

 Children of Men

Date:2006 / 12 / 04

みるまえ

 何とあの「天国の口、終りの楽園。」(2001)の監督アルフォンソ・キュアロンの近未来SF。

 と言っても、もはや「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(2002)まで通過してしまったこの人が何をやったところで、驚くにはあたらないかもしれない。そもそも「リトル・プリンセス」(1995)や「大いなる遺産」(1998)をやった時点で意外性の人なんだから、今回なんてむしろ「想定内」に入っちゃうかも(笑)。

 逆に今回の企画なんぞ、この人の振幅の激しいフィルモグラフィーの中では大人しすぎるほどだ。主演はクライブ・オーウェンとジュリアン・ムーア。まぁ、どちらも好きな人だ。だが、おそらくこの作品はせいぜいソコソコな出来栄えどまりだろう。「トゥモロー・ワールド」なんて凡庸極まりないタイトルからして、ソコソコな出来栄えを予感させる。

 あの「ハリポタ」シリーズにガツ〜ンと「喝」を入れた「アズカバンの囚人」のような衝撃は、期待する方が無理というもの。ジュリアン・ムーアと言えば空前のトンデモ映画「フォーガットン」(2004)があったが、アレみたいな底抜け映画(笑)にはさすがにならないだろうから、フレッシュさやサプライズも最初から考えない方が良さそうだ。ところがそんな気持ちで公開日を迎えたら…何とこの映画の評判がすこぶるイイ! なぜか、かなり衝撃的な作品らしいのだ。お恥ずかしい話だが、僕はこの時点で初めてこの映画のストーリーをチェックした。人類が生殖能力を失って子供が産まれなくなった近未来の、独裁国家となったイギリスを描いている映画らしい。だがそのストーリーを見ても、別にそれほどの鮮度は感じない。確かに子供が産まれなくなるという点は、現実の少子化問題を反映してタイムリーかもしれない。だが、近未来における全体主義国家というシチュエーションは、あの「メトロポリス」(1926)以来SF映画で死ぬほど描かれて来た題材だ。どこをどう見たって新鮮度ゼロ。あの「リベリオン」(2002)だって「ガンカタ」なんてアホな趣向があったからこそ楽しめたけど、「近未来ドラマ」としては毎度お馴染みお約束の設定でしかなかった。このネタは何をどうやっても凡庸にしかなり得ないのだ。これで本当に衝撃的な作品になるんだろうか?

ないよう

 テレビは朝っぱらから、気の滅入る話題を放送していた。「世界で最も若い人類」リカルドが、その日ブエノスアイレスで死んだというのだ。彼は「人類の中で最も若い」というだけの理由で、幼い頃からセレブで注目の的だった。その日もそんなリカルドにサインをねだってファンが近づいたところ、彼はそのファンにツバを吐きかけた。それが災いして、リカルドはファンに殺されてしまったのだ。そんなリカルドがこの世に生きたのは、わずか18年と数ヶ月。…その間、この地球では一人として人間の子供は産まれなかった。大気汚染のせい、あるいは宇宙からのガンマ線のせい…さまざまな理由が挙げられたが、原因を特定できた者はいなかった。理由はともかく、子供が産まれなくなった人類はゆっくりと…しかし確実に滅亡へのカウントダウンを始めたのだ。そんなわけで、その朝ウンザリするニュースをコーヒーショップで見せられたセオ(クライブ・オーウェン)は、その店からゆっくり出てきたところ。するといきなり先程のコーヒーショップが大爆発。真っ青になったテオは、自分がほんの髪の毛一本の差で命拾いしたことを知った。ここは2027年のロンドン。子供がいなくなり希望を失った人類は、徐々にその秩序を失っていた。世界各国で国家そのものが崩壊。そんな中、ただ一人かろうじて英国だけが、圧倒的軍事力と管理システムで国家秩序を保っていた。確かに徹底的な軍事国家化と不法入国者の弾圧のおかげで、社会は一応平静なように見えた。だが国内は常にテロの横行など一触即発の状態が続いており、国外からは難民が押し寄せるアリサマだ。その朝の爆弾テロも、ありふれた日常の風景だった。そんなセオは仕事をする気にならず、緑深い郊外に住む友人のジャスパー(マイケル・ケイン)の家に遊びに行く。ジャスパーは妻と共に、かつては反体制カメラマンとして気骨のあるところを見せていた男。だが妻が官憲の手で脳に損傷を受けて意識を失ってからは、この田舎の家に引っ込んで暮らしていた。そんなジャスパーとくつろぐセオも、かつては平和運動に身を投じた日々があったのだが…。そんなセオがある朝、武装集団に拉致されてしまう。頭から袋を被せられ、ワゴン車に乗せられ連れて行かれた先で待っていた者は…何とセオのかつての妻ジュリアン(ジュリアン・ムーア)だ。彼女もまたかつて平和運動の活動家であり、セオとはその縁で知り合ったのだった。しかしその後セオは転向して体制側に身を置くようになり、ジュリアンは以前より先鋭化してテロリスト「FISH」のリーダー。いまや対照的な立場の二人だった。そんなジュリアンがセオを呼び出した理由は、何と通行許可証。セオには有力者である従兄がいるので、彼にもらってくれないかと頼み込む。理由は分からないが、ジュリアンはある若い娘を海岸まで連れて行くため、どうしても通行許可証が欲しいというのだ。だがセオはそれは難題だと即答を避けた。こうしてセオはまた袋を被せられて、ワゴン車からおっ放り出される。だがセオは、元妻のたっての頼みを無視したわけではない。従兄に交渉して通行証を手に入れ、再びジュリアンたちと接触を図るセオ。通行証の使用には、セオの同行が必要だった。こうしてセオは彼らと行動を共にすることになる。一緒に車に乗り込んでの旅の道連れは元妻のジュリアン、「FISH」のナンバー2であるルーク(キウェテル・イジョフォー)、中年女のミリアム(パム・フェリス)、そして問題の若い黒人娘キー(クレア=ホープ・アシティ)だ。車中ではジュリアンと旧交を暖め合いながら、久々に楽しい気分になるセオ。しかし、それもつかの間。いつの間にか車の周囲には、暴徒たちが押し寄せてくるではないか!

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 お話が肝心のところに差しかかる前に、ストーリー紹介を打ち切ってしまったことをお許しいただきたい。実はこの映画では、この時点で見る者全員が唖然とする衝撃のサプライズが起きる。「えっ、もう?」…ってな感じで、思わず口をアングリしてしまう。劇中、登場人物たちが驚愕する「事実」よりも、見ている僕らにはよっぽどこっちの方が衝撃だ。だから観客は、この時点で完全に動揺させられてしまう。正直なところ、こっちはその後に用意されている「衝撃の事実」なんか先刻承知だから、この映画に驚きなんかないと頭から決めてかかっていた。で、セオがキーを連れて脱出する先々で、暗澹たる未来の「地獄巡り」を見せられる、それが現在の我々への警鐘となる…という趣向の映画だと頭っから思い込んでいた。実際のところそれは半分ぐらい当たっていたが、この「サプライズ」は全くの想定外だった。観客である僕らはこの「サプライズ」の時点でストーリーがどうなるのか読めなくなってしまうので、これから先も全く安心できなくなる。ノンビリとお約束の「殺伐たる未来」巡りを見物するわけにはいかなくなるのだ。結果的に、僕らも主人公たちと共にハラハラしながら先の物語を見なくてはならなくなる。さすがクセモノ、アルフォンソ・キュアロン。「ハリポタ」を撮ってもシビアなドラマに仕立ててしまうキュアロンだからこそ、ありきたりな「近未来ドラマ」はつくらなかった。そのためにわざわざあの人をキャスティングして、宣伝用ビジュアルまであんな風につくっていたのか。こっちはすっかりダマされたよ。ある意味で「フォーガットン」以上に呆気にとられてしまった。まずこの映画は、この時点で「作戦勝ち」と言っていい。

みどころ

 ちょっと先の未来…は様々な形で映画につくられているから、今さらどんなものを出されても驚きはしない。だがこの映画の持つリアリティは、ちょっと同種の作品群を頭一つ超えている。先に公開された「Vフォー・ヴェンデッタ」(2005)は全体主義国家としての近未来イギリスという共通性からして興味深いが、そのリアリティの点ではまったく比べものにならない。特に特出すべきは終盤近くの不法入国者収容所における「内戦」場面で、手持ちカメラの長回しによって延々描かれる戦闘描写は、この手の場面を扱うとたちまちウソっぽくなるSF映画にしては、画期的なリアリティと言っていい。例えばオリバー・ストーンの「サルバドル/遙かなる日々」(1986)とかニック・ノルティ主演の「アンダー・ファイア」(1983)など軍事政権下の南米を描いた作品のヤバイ緊張感や、「ブラックホーク・ダウン」(2001)など昨今の戦争映画の強烈さにも匹敵するような、ドキュメンタリー風の問答無用の迫真性で描かれる。これらはきっと誰もが指摘する点だろうが、僕もこれを挙げずにはいられない。この場面は…SF映画史にも残るかもしれないリアルさだ。一方、そんなリアルな戦闘場面が描かれたからこそ、難民たちも兵士たちも一様に赤ん坊の姿に畏敬の念を感じて、厳粛な面もちで道を開ける…という「奇跡」のような場面が活きてくる。この場面には、僕まで不覚にも厳粛な気持ちになってしまった。あと…これまた誰もが指摘することだろうが、まるでジョン・レノンのような風貌のマイケル・ケイン。見た目も「老境に差しかかったレノン」という趣だし、家に引き込んで「主夫」になっているあたりからして、1970年代後半に沈黙してしまったジョンその人のキャラクターとの共通性が感じられるではないか。エンディングにレノン自身の曲「ブリング・オン・ザ・ルーシー」が流れることからも、それは明らかだろう。演じるマイケル・ケインも、近年では出色の出来。ちなみにロック・ネタで言えば、劇中ピンク・フロイドの「アニマルズ」のアルバム・ジャケットが再現されているあたりも泣かせる。それにしても「Vフォー・ヴェンデッタ」のストーンズ「ストリート・ファイティング・メン」といい、この映画のジョン・レノンといい…やたらと映画で近未来全体国家をイギリスと設定したがるのは、ラストに1960〜1970年代のラジカルなブリティッシュ・ロックを流したいからか(笑)?

さいごのひとこと

 つまんない邦題も作戦のうちかも。

 

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