新作映画1000本ノック 2006年10月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「ザ・センチネル/陰謀の星条旗」 「トリノ、24時からの恋人たち」 「レディ・イン・ザ・ウォーター」 「もしも昨日が選べたら」

 

「ザ・センチネル/陰謀の星条旗」

 The Sentinel

Date:2006 / 10 / 30

みるまえ

 何となくビデオ・スルーしてしまいそうなタイトル。だが主演は泣く子も黙る大スターのマイケル・ダグラスではないか。ダグラス主演で大統領暗殺を巡る陰謀に巻き込まれるシークレット・サービスの話というのも、「いかにも」ダグラスらしいところ。なぜ「いかにも」なのかは後述するが、分かる人には分かるダグラスらしいキャスティングだ。そして注目は、相手役のキーファー・サザーランド。この人、一時はスッカリ影が薄くなったが、テレビシリーズ「24(トゥエンティー・フォー)」でいきなり浮上してきたから驚いた。今回は明らかにあのテレビシリーズでのイメージを引っ提げての出演だ。硬派な男たちのハードなサスペンス・ドラマを期待したいところ。

ないよう

 ギャリソン(マイケル・ダグラス)はレーガン大統領を文字通り「身をもって守った」伝説のシークレット・サービス。今日も今日とて大統領(デビッド・ラッシェ)とファースト・レディ(キム・ベイシンガー)の周囲を守って東奔西走だ。そんな彼に長年の同僚であるメリーウェザー(クラーク・ジョンソン)が何やら告げようとしていたが、結局「後で」ということで要件は聞けずじまい。ところがそのメリーウェザーは、自宅前で何者かに消音銃で射殺されてしまう。物盗りの仕業…で片付けようとする警察を横目に、この事件に陰謀の影を嗅ぎつけたのは…これまたシークレット・サービスの腕利き調査員ブレキンリッジ(キーファー・サザーランド)と今日配属されたばかりの優秀な女調査員ジル(エヴァ・ロンゴリア)。実は訓練学校でジルにブレキンリッジの下で働くよう推薦したのは、例のギャリソンだった。だがブレキンリッジはギャリソンの名を聞くたびに苦虫をかみつぶすような表情。かつては親友同士だったこの二人だが、ブレキンリッジがギャリソンと自分の妻の関係を疑ったことから決裂。ブレキンリッジはいまだにギャリソンに恨みを抱いていたのだた。だが、ギャリソンとて実は清廉潔白の身とは言えない。何を隠そう、シークレット・サービスにも関わらず大統領夫人=ファースト・レディと秘かに逢い引きをする関係になっていたのだ。そんなギャリソンに、かつての馴染みの情報屋からタレ込みが一件。何と大統領暗殺計画が具体的に進んでおり、そこにはシークレット・サービスの一員が関わっているというのだ。だがシークレット・サービスと言えば長い伝統の中、今まで一人として裏切り者を出していないという「聖域」。まさか…と思いながらも折からのメリーウェザー殺しのタイミングもあり、シークレット・サービス内で「内通者」の探索が始まった。そんな時に、事もあろうにギャリソンの元にとんでもない封筒が届く。何と何者かがギャリソンとファースト・レディとのホテルでの情事の現場を撮影していたのだ。何らかの手がかりを掴もうと、ギャリソンは一人で問題のホテルへ向かう。するとそんなギャリソンのそばにあった公衆電話が鳴り出すではないか。案の定、電話の主は例の写真を撮った人間らしい。この人物の指示通りに、近くの喫茶店で相手を待つギャリソン。しかしなぜかいつまで待っても誰も来ない。ところが店を出て間もなくギャリソンは何者かに尾行され、さらには張り込み捜査員たちに捕まってしまう。シークレット・サービスだと身分証を出して事なきを得たが、何となくイヤな予感のギャリソンだった。おまけに、キャンプ・デイビッドで大統領のヘリがロケット弾で撃墜されるという一大事も発生。もはや内通者割り出しは一刻の猶予も許されない。シークレット・サービスの全員がウソ発見器による検査をやらされるハメになり、ギャリソンのイヤ〜な予感はいやが上にも増すばかり。その予感は的中。夜中にギャリソンの元にやって来た捜査官たちが、彼の身柄を拘束しようとするではないか。その理由は、ウソ発見器での陽性反応と例の喫茶店でも不審な行動だった。捜査を指揮するブレキンリッジは、まるで個人的感情をブチまけるように嬉々としてギャリソンを追求する。だが、何のこれしき。これでオメオメと大人しく捕まるギャリソンではなかった。隙を見てその場から脱出したギャリソン。これにはさすがのブレキンリッジも、手強い男を敵に回したと覚悟せざるを得なかった。そんなブレキンリッジの個人的感情スレスレの捜査ぶりとは裏腹に、ジルはギャリソンの罪状そのものに疑いの目を向けた。だが何といってもギャリソンは多勢に無勢。警察・FBI・シークレットサービスに追われながら、身の潔白を晴らしつつ大統領暗殺犯を暴かねばならない。圧倒的な不利の中、体力・知力のすべてを駆使したギャリソンの孤独な戦いが始まった。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 ハッキリ言ってこの映画を見た理由は、マイケル・ダグラスに尽きる。僕はマイケル・ダグラスの押しつけがましくてアブラギッシュなオヤジ味が好きなのだ(笑)。そんなダグラス主演作が最近ご無沙汰だったので、この映画はぜひとも見たかった。見てみると…何しろ役柄と作品がマイケル・ダグラスにピタリとハマってる。政治臭漂うポリティカル・サスペンスの世界は、まだダグラスが若造のチンピラ風情だった「チャイナ・シンドローム」(1979)の頃からの十八番。特にホワイトハウスを巡っては、自身が大統領を演じた「アメリカン・プレジデント」(1995)なんて極め付きの作品もある。ワシントンの大統領周辺の風景にピタリと似合うのだ。そんな彼がシークレット・サービスの分際でファースト・レディに手を出すという「影」の部分を持っているあたりも…女グセの悪さが墓穴を掘るという「危険な情事」(1987)、「氷の微笑」(1992)、「ディスクロージャー」(1994)という作品歴を誇る彼ならでは(笑)。いかにも何やら「裏がありそう」に見えるあたりは、汚職刑事役だった「ブラック・レイン」(1989)や腹にイチモツな大物役の「ウォール街」(1987)でのキャリアがモノをいう。ともかくそんなマイケル・ダグラスが今まで積み上げて来たスター・イメージの総決算的な役柄を演じているのが、この映画なのだ。対するキーファー・サザーランドは、一時期はジョン・ヒューズ映画あたりで盛り上がっていた若手俳優たちの中に混じって、「ヤングガン」(1988)や「三銃士」(1993)などで頭角を現しながら、いつの間にかクセのある役ばかり選んで消えていった人という印象があった。まさかテレビの「24(トウェンティー・フォー)」で一気に復活を果たすとは思わなかった。もちろん今回はこのテレビ・シリーズでの好演ぶりを、そのまま持ち込んだような役どころ。この主演の二人が、よく言えばまったく観客の期待を裏切らない、悪く言えばまったく驚きも新鮮味もないキャスティングとなっている。そして主役ダグラスが秘めた情事のおかげで無実の罪に追い込まれてしまう…という、どこかケビン・コスナー主演のサスペンス映画の傑作「追いつめられて」(1987)に似た趣向。マイケル・ダグラス主演作にしてはやけにヒッソリした佇まいで公開されてはいるが、個人的には「ボケッと見ていられる映画」としてソコソコに見れた。まぁ、僕が元々この手の映画に甘いということもあるが、甘く手加減して見たくなる理由がない訳ではない。確かに凡作ではあるが、昨今のアメリカ映画じゃリメイクや続編やマンガ・テレビの映画化でないだけマシだ。正直言ってそこが最大の美点だと思う。

みどころ

 何と言ってもマイケル・ダグラスがマイケル・ダグラスらしく、のびのび気持ちよさそうに演じているのが最大の見もの。先に「安心して楽しめる」と書いたように、良くも悪くも「安心できる」のが本作の特徴だ。だから「追いつめられて」的な趣向ではあるが、あの作品ほどハラハラ心臓が破れそうな緊迫感はない。それがこの映画の限界と言えば限界だ。だがマイケル・ダグラスはやっぱり水を得た魚のようだし、何と言ってもファースト・レディ役キム・ベイシンガーの、いまだ衰えない魅力と堂々たる貫禄も嬉しい。「セルラー」(2004)などでも感じられたように、最近の彼女にはすごい安定感がある。「あのキム・ベイシンガーがファースト・レディ」…と考えると、かなり「隔世の感」があるキャスティングだが、近年の彼女の貫禄ならまさにピッタリ。そして…この映画の見どころとなるのが、冒頭から前半部分にかけての「シークレット・サービスの働きぶり」。途中からはマイケル・ダグラスが前面に出てくる派手な話になるからどこかにすっ飛んでしまうが、特に冒頭部分あたりでのシークレット・サービスによる大統領夫妻の護衛ぶりなどはちょっと見ていて面白い。「S.W.A.T.」を撮ったクラーク・ジョンソンによる演出は今回もいささかヌルいが、すべてはマイケル・ダグラスに免じて許そう(笑)。

さいごのひとこと

 ダグラスが大物すぎて誰が大統領が分からない。

 

「トリノ、24時からの恋人たち」

 Dopo mezzanotte (After Midnight)

Date:2006 / 10 / 16

みるまえ

 イマドキまったく日本に入って来なくなってしまった珍しいイタリア映画。監督も主演者も馴染みがない。分かっているのはトリノという地名だけ(笑)。だが、どうも主人公が映画博物館の夜警をしているという設定で、映画へのオマージュが入っているらしい。しかも男2人と女1人の三角関係モノらしいとくれば、いやが上にもトリュフォーの「突然炎のごとく」(1961)がチラついてくるではないか。あるいはベルトルッチの「ドリーマーズ」(2003)か。そうなってくると、映画ファンとしてはちょっと見ておかずにはいられない感じだ。例え無惨なデキだとしても、見ないわけにはいくまい。

ないよう

 夜の街をバイクで駆け抜ける若い男。彼は高級車ジャガーのショールームの前にたたずんでいるが、皮ジャンの下のシャツは血でびっしょり。彼の名はアンジェロ(ファビオ・トロイアーノ)。車泥棒で生計を立てているようなチンピラ野郎だ。しかし、一体誰が彼を撃ったのか? それを知るためには、少々お話を遡らねばなるまい。まずはトリノの街の名物、モーレ・アントネッリアーナ(国立映画博物館)の古風な建物をご覧あれ。この建物の夜警を職業としているのが、このお話のもう一人の主人公マルティーノ(ジョルジョ・パゾッティ)。この若い男は、自転車と手回しカメラだけが最先端のテクノロジーという男。バスター・キートンのサイレント・コメディ映画を見るのが好きなこの男は、キートンと同じように無口で無表情、おまけに奥手で人付き合いが苦手で無趣味とくる。モーレの住み込みの夜警の仕事は、まさに彼の天職と言えた。そんな彼は、毎晩ハンバーガーショップに立ち寄る。店の店員アマンダ(フランチェスカ・イナウディ)も毎晩同じ言葉で彼に尋ねる。「いつもの?」…こうして毎晩判で押したようにダブルフライ・スペシャルを持ち帰るマルティーノだった。そんなアマンダも毎日決まり切った日々を過ごしていた。唯一の希望らしきものは、恋人のアンジェロ…例の車泥棒の彼だ。だが彼がアマンダの誠実な「恋人」かどうかは分からない。いて欲しい時にいつもいない「恋人」。約束も空手形でしばしば忘れてすっぽかす。アマンダのルームメイトのバルバラも彼にはゾッコンなのだ。どこぞによその女がいないとも限らない。おまけにユウウツの種は他にもあって、底意地の悪いハンバーガーショップの店長が終電に間に合わないと知っていながら、「あと10分」の閉店時間なのに帰してくれない。そんな毎日に、アマンダはいいかげんウンザリし始めていた。さて、話を今一度マルティーノに戻す。彼はいつしか同僚の警備員にさえ話をしない、無口な男になっていた。それでもいい。深夜になれば、巨大なモーレの建物がすべて彼のものなのだ。そこには彼の望むものがすべてある。試写室で古いフィルムを1本づつ見て時間をつぶすのも、彼の大きな楽しみだ。そして今晩も、アマンダのいる店で「いつもの」ダブルフライ・スペシャルを買う。一方アマンダはアンジェロにないがしろにされてイラだっていたところへ、例によって店長の意地悪で終電に遅れてしまう。これにアマンダはブチギレ、ついつい手に持っていたフライドポテトの油を店長の下半身にブチまける。一瞬にして表情を凍り付かせた店長は、流しのホースをズボンに突っ込んで水を流し込むと、携帯で電話をかけた。「救急車を至急頼む。それから…パトカーも」…むろんアマンダが慌てて店を飛び出したのは言うまでもない。街に救急車とパトカーのサイレンが鳴り響く。焦り狂ったアマンダは、たまたまモーレの建物に入ろうとしていたマルティーノを捕まえて、そのままモーレの中に逃げ込んだ。こうして、本来だったら会話を交わすはずもない二人が、同じ屋根の下にいることになったわけだ。突然のことに、キョトンとするばかりのマルティーノ。そんな彼を横目に、携帯でアンジェロに連絡をつけようとするアマンダだが、肝心な時に限って彼はいない。そんなこんなで空回りしているうちに、アマンダはしばらくここに座らざるを得なくなった事に気づく。今夜泊まってもいいか?…と聞くと、マルティーノは無表情に答えた。「いいよ」…。見るとマルティーノは、まるでキートン映画の一場面のように部屋を改造し、過ごしやすい環境を整えていた。無口で風変わりなマルティーノに、少しづつ興味を惹かれていくアマンダ。一方、アンジェロの方はといえば…今までアマンダをないがしろにしていたにも関わらず、突然警察沙汰に巻き込まれたあげく連絡がとれなくなってみると、今度は彼女のことが気になって仕方がない。車泥棒仲間と例のバーガーショップに乗り込んで、店長に告訴を取り下げさせるため多少手荒いマネをしたりした。一方、まだモーレの建物から出られないアマンダは、試写室でマルティーノの「作品」を見せてもらっていた。それは古いサイレント・フィルムのタイトルに、彼が手回しカメラで撮影した映像を挿入したもの。そこには、さまざまな場所で撮影されたアマンダの姿も映っていた。マルティーノは前々から、アマンダをじっと見つめ続けていたのだ。フィルムを見たアマンダは、マルティーノにつぶやいた。「目的はダブルフライ・スペシャルじゃなかったのね…?」

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 映画博物館を舞台にしていて、そこの夜警をしていて「それで満足」という男の子を主役にしているから、てっきり映画マニアやシネフィルのお話かと思った。そこに女1人男2人の関係と来れば、先にも述べたように誰がどう考えたって「突然炎のごとく」へのオマージュとか考えてしまうではないか。だが、それは全くの誤算だった。まず主人公の男の子は映画が好きではあるが、映画マニアやシネフィルではない。彼の守備範囲はサイレント・フィルムやキートンの作品にほぼ限られ、それらをただボ〜ッと見つめこそすれ、映画作家や作品名や俳優名を連呼するなんてことはしない。だから全編にわたって映画のオマージュや引用、パロディや知識のひけらかしで埋め尽くされるということはない。主人公は確かにしょっちゅうキートンの映画を見ているし、その作品に強い影響を受けている。おまけに本人もキートンみたいに無表情で無口なキャラだが、そこでキートンその人や作品についての映画史的なウンチクが披露されることはない。で、彼がモーレ(映画博物館)で住み込みで夜警をしていることと手回しカメラで「作品」をつくっていること以外、この作品は映画との関わりを持とうとしていない。彼以外には映画ファンの登場人物は出てこないし、彼自身さえ厳密な意味で映画ファンと言えるかどうか疑問だ。だから、これが「映画へのオマージュを込めた映画」かと言えば…確かにキートン映画やリュミエール兄弟の「列車の到着」(1895)への言及はあるものの…おそらくその手の「映画ファン好きする映画」とは異質のものだろう。ここで大抵の観客は、「あれっ」と肩の力が抜けてしまうはずだ。

みどころ

 そんなわけで、当然のことながらこの作品は、「ドリーマーズ」みたいな作品にはなり得ない。そもそも、その手のスノビズムが入り込む余地がないのだ。3人の主人公もそんな屁理屈は並べない。彼らの陥る三角関係だって、頭でっかちさとは無縁だ。むしろ彼らの関係は、セックスを交えてはいるものの…どこか中学生や小学生の恋愛観みたいに純なところがある。何より男2人がどちらも「男の子」しているところがいいではないか。映画博物館の夜警をしているマルティーノは、映画オタクというよりは社交下手・世渡り下手の引きこもりというべきだろう。だからその恋心が不健康な方向にはいかない。車泥棒のアンジェロも、マッチョというよりは単細胞。そして小賢しい計算がない気持ちのよい男の子なのだ。この2人がアマンダを巡ってサシで勝負をするあたりは、「男の子」の可愛らしい心情が溢れて微笑ましい気分になる。アンジェロの車泥棒仲間も「男の子」気分全開で見ていて気持ちがいい。この映画はそんな意味で、スカッと明快な楽しさを持った映画なのだ。それはある意味で、フランス映画に「愛さずにいられない」(1989)を引っさげて、屁理屈無用の健全さでエリック・ロシャンが現れた時のことを思い出させる。あれほど鮮烈でも文句なく面白いという訳ではないし、何より映画の質やスタイルがまるで違う。それでもどちらかと言うと屁理屈が勝って何かと回りくどいヨーロッパ映画界の中で、明快でスカッとしてユーモラスな楽しさを持った映画をつくってるあたりの「異質さ」が共通している。ダヴィデ・フェラーリオ監督ってどんな人なのか、今までの作品はどんなものなのかも全く分からないが、今後作品が公開されることがあったらちょっと見てみたい人ではある。

さいごのひとこと

 映画は好きだけど映画ファンはキライな人向け。

 

「レディ・イン・ザ・ウォーター」

 Lady in the Water

Date:2006 / 10 / 09

みるまえ

 いまやすっかり悪名が轟いているM・ナイト・シャマランの最新作。以前は新作を出せば話題になったものを、やっぱりそうは人はダマされてくれないか。今回はすっかりヒッソリとした公開になってしまっている。ネットで見ても、誰も彼もみんなバカにして見る気も起きないようだ。だが、そうなると僕は元来の天の邪鬼の虫が騒ぎ出す。みんな「シックス・センス」(1999)の時はあれほど騒いだのに、何でこんなに今は冷淡なんだ? だってこの人、「シックス・センス」の時とやってる事は基本的に変わっていない。なのに何でみんな今はバカにするのか。ちょっとそれって変じゃない?…と、ちょっとは肩を持ちたくなる。もっともバカにされる要因は残念ながらシャマラン本人に起因するところ大ではあるが(笑)。…それはともかく、「やってることは同じ」と言いながら、実は「サイン」(2002)あたりから、微妙にやりたい事が変化してきたような気がする。それが最も顕著なのは、前作「ヴィレッジ」(2004)でのこと。そんな明らかに違ってきたシャマラン映画を目撃すべく、僕は初日に映画館に駆けつけたわけだ。それに、何だかんだ言ってもシャマラン映画は、見るまでどこかワクワクさせる何かを持っているからね。

ないよう

 ヒープ(ポール・ジアマッティ)の仕事はアパートの住み込みの管理人。中庭にプールがあるという、アメリカ西海岸典型的スタイルのアパートを、一人で黙々と切り盛りしている冴えない中年男だ。そんな地味で単調な暮らしに甘んじている理由は、その極度にひどい「どもり」のせいなのか。とにかくこのアパートの黒子に徹して、雑用に明け暮れる日々。ある時はラテン系女系家族が何やら虫だかネズミだかでギャーギャー騒いでいるところを退治に出かけ、ある時は夜中にプールを使っている奴がいるとの苦情に耳を傾ける。そう…なぜだか誰かがプールを夜中に利用しているらしいのだが、それが誰かは分からない。そんなある夜、例のプールで誰かが水に入る音がする。慌ててプールに駆けつけたヒープは、確かに何者かがプールから出ようとしたところを目撃してしまった。「待てっ!」…よせばいいのにプールの中に入り、ナゾの人物をふんづかまえようとしたヒープ。結局虚しくプールから上がったものの、アクシデントで気絶したまま水の中に落ちてしまう

。ふと気づいてみると、ヒープはいつの間にか自室のベッドに横たわっている。部屋には彼のワイシャツ一枚を身に纏った若い娘が一人。この娘、その名をストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)というようだが、全く素性が分からない。何より驚いたことには…家に帰れと彼女を抱きかかえてオモテに出てみると、アパートの中庭の草むらから何やら怪しげなケモノが襲いかかって来るではないか。間一髪逃れて自室に戻ってくることが出来たものの、どうも彼女はタダモノではなさそうだ。そんなストーリーは、自らの素性を「ナーフ(水の精)」であると告げた…。翌朝ヒープは何の気なしに、アパートの住人で韓国系のチェ・ヨンスン(シンディー・チャン)に、この「ナーフ」という言葉を投げかけてみた。すると、彼女はどうも母親の昔話にその名が出てきた記憶があると言う。こうしてチェを通じて彼女の母親から大昔の言い伝えを聞き出していくヒープ。人間への重大なメッセンジャーとして人間界に派遣された水の精たち。彼女たちは求める「うつわ」としての人間に会って何かを伝えるためにやって来た。だが人間界には彼女たちを襲おうと手ぐすね引いて待っているケダモノがいる。それらに食い殺された「ナーフ」たちはゴマンといた。しかもチャンスを失うと、彼女は故郷に戻れなくなってしまう…。さては、彼女は本当に「ナーフ=水の精」なのか? 可憐で無垢なストーリーの出現により、それまで昼行灯だったヒープの毎日はガラリと一変。まずは彼女が探していた「うつわ」を探さねばならない。彼女がそれを求めてこのアパートに現れたのなら、「うつわ」もまたアパート内にいるはずだ。ストーリーによれば、「うつわ」は「書く人」だという。それは動物を愛し、かつて本を書いたことがあるベル夫人(メアリー・ベス・ハート)なのか、それともクロスワード・パズルに凝るデュリー(ジェフリー・ライト)なのか、妹(サリータ・チョウダリー)に叱咤されながらも未完の本を書き上げられないビック・ラン(M・ナイト・シャマラン)なのか、はたまた最近このアパートに越してきた映画評論家ハリー(ボブ・バラバン)なのか。そしてストーリーはヒープの部屋に隠れているうちに、彼の日記を盗み読んでしまう。ヒープには誰にも語っていない秘密があったのだ。それゆえ世捨て人のように暮らしていたヒープに、ストーリーは深く同情する。ヒープもまた、彼女を何としても助けなければ…との想いを強くする。そしてストーリー自身を無事に彼女の世界に帰さねばならないと考えたヒープは、またしてもチェを通じて彼女の母親から昔話を聞き出すことにした。すると「ナーフ」を助ける能力を持つ人々が、その周囲にいるというではないか。それらは果たして誰なのか…?

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 M・ナイト・シャマランの映画については、今まで僕は「サイン」や「ヴィレッジ」の感想文の中で何度も総括してきたから繰り返すまでもあるまい。実際この人ぐらい毀誉褒貶の激しい人もない。「シックス・センス」の大絶賛から一転「アンブレイカブル」(2000)での大不評。それ以降は、一作ごとに賛否両論…というより「ヴィレッジ」ぐらいからはケナされ放題の観がある。まずはマトモな映画ファンなら冷笑してかかるのがシャマラン映画という事に相場は決まったようだ。しかし一旦そうなってみると、僕の本来の天の邪鬼の虫が騒ぎ始めるわけ。そもそも世間じゃあの空疎な「シックス・センス」をあれほどムキになって絶賛していたではないか。そもそも僕は元々がバカな部分を多分に抱えるSF映画やモンスター映画が大好きだから、シャマラン映画をせせら笑ってケナす気になれない。「シックス・センス」には批判の目を向けた僕だが、今ではむしろどっちかといえばシャマラン擁護に回りたい気分だ。それに実際のところシャマラン映画は一貫して同じバカバカしさとハッタリとケレンを持ち続けながら、「サイン」あたりから徐々にわずかに方向転換を図っていた。例えば「アンブレイカブル」あたりで顕著だった、「オレはエライ」「オレはうまい」「オレは頭がいい」なんてシャマランのすっかり増長しきった誤解と思い上がりが影を潜め、少しは意味のある事を描こうと思い始めたようだ。それがハッキリしたのが前作「ヴィレッジ」で、オレは観客の心を意のままに操るマジシャンだ…とでも言いたげなこれみよがしな重々しさとハッタリ、イカサマ臭い引っかけが途中から雲散霧消してしまい、何と映画の中盤でケレンのタネ明かしまでしてしまう変貌ぶり。そんな事より、彼にはもっと他に語りたい事ができたようなのだ。それは一種の前向きな思いや信頼、誠実…といった感情のように思える。いやいや…ハッキリ言ってしまえば、それは彼が掘り出した新人ブライス・ダラス・ハワードへのシャマランの「恋愛感情」にも似た想いのように思える。というか、たぶんそうだろう(笑)。それゆえ、僕にはこの「ヴィレッジ」という映画が、それまでのシャマラン映画よりも好ましく映ったのかもしれない。それまではハッタリのためのハッタリ、脅かしのための脅かしだったシャマラン映画…というか、ズバリ言えば自身の「オレはエライ」という思い上がりや自己顕示欲のためだけのギミックを満載していたシャマラン映画が、このあたりから「描きたい」ことをちゃんと持ち始めたとでも言おうか。それまでは「描きたい」ことを持ち得なかったからこそ僕は気に入らなかったし不毛だと思っていた。近年はそれがキチンと見え始めたから、僕はシャマラン映画を評価したいと思い始めたわけだ。この違いはかなり大きい。だが世間の人々には、途中でハッタリやケレンを放り出してしまった時点でボロが丸見えになった。元々ボロはあったのだが、隠そうとしてないのでハッキリ分かってしまった。そこでシャマラン叩きが始まったというわけなのだろう。そんなの最初から見えてたんだよ。そんなわけで今回の新作に再びブライス・ダラス・ハワードを起用したと知って、僕はこの映画見てもいいんじゃないかと思った。ハワードその人もラース・フォン・トリアーの「マンダレイ」(2005)に出て格がグンと増した。おまけに主演は「サイドウェイ」(2004)や「シンデレラマン」(2005)で説得力溢れる演技を見せたポール・ジアマッティと来る。これは面白そうではないか。そして実際に見てみると…プールの中に人がいるという設定はいかにもシャマランらしい不可思議さなのだが、どうせシャマラン映画だから「実は××でした」とか「全部ウソでした」とか無茶な理屈とオチの付く話になるんだろう…とタカをくくって見ていた。すると…まず、ナゾの正体は映画が始まってすぐに割れてしまう! その設定…「水の精」が人間界に現れるという「おとぎ話」みたいなお話が、「そのまんま」延々と進行していくからビックリ。オチも引っかけもサプライズも何にもなし、直球ストレートでマジに語られてしまうから、見ているこっちはかなり当惑してしまうのだ。

こうすれば

 それにしたって「水の精」の「おとぎ話」を大マジメにされてもねぇ…この感じ、アメリカン・コミックのヒーローものを実際にあり得る話として大マジメな顔つきで描いた「アンブレイカブル」と方法論は似通っているかも。映画に大げさなイントロがあるところも似てる。お話はドンドンとエスカレートして、なぜか「おとぎ話」が現実のモノとなっていき、怪物は出てくるわ物語の中の役割分担がアパートの住人の中で成り立ってしまうわ、あげくの果てにどこからかデカい鳥が飛んできてヒロインを連れ去って行くわ…。いや、別に「おとぎ話」が現実のモノだったというお話があってもいい。実際にそういう設定の映画だって過去にあったはずだ。だがこの映画の場合、それを「現実にあるかも」…と観客に納得させるための段取りが一切ない。ブライス・ダラス・ハワード扮するヒロインの登場は確かに奇妙ではあるが、そこで彼女が言い出したこと「だけ」を発端として…どこでどう信じたのかは知らないが、主人公は「おとぎ話」が現実のモノだと確信してしまうのだ。さらに奇妙なのは、主人公に協力を呼びかけられたアパートの住人たちまで、揃いも揃って大した疑いもなくその「おとぎ話」を信じてしまうこと。これは、主人公がそう思い込んだことよりも奇妙ではないか。みんなよっぽど世間知らずか無垢な人間なのか、ヒロインの「水の精」を助けようと誰もが一肌脱ぐ。そして、そのために主人公が説得に苦労した形跡は全くない。大の大人たちがみんな大マジメな顔で「おとぎ話」を信じ切っている様子は、奇妙を通り越して何となくアブない感じすらある。ここで念を押して言えば、この映画自体の語り口はファンタジーでもおとぎ話でもコメディでもなく、あくまでリアリズムを基調としたサスペンス映画のスタイルをとっている。やっぱりどこか変だよねぇ。どこか歪んでいるというかイビツというかガタガタというか。それ以外にも、物語が韓国に伝承されていた昔話ってことになっていながら東洋の臭いがまるでないことが変だし、「ナーフ」が求めていた「うつわ」から彼女を助けるいろいろな役割の人々に至るまで、必要な人々が全部アパート内で調達できちゃうのもご都合主義の極み(笑)。そもそも「水の精」が「うつわ」にインスピレーションを授けることで世界を変革する書物が生まれる…って話が言いたいのか、「おとぎ話」にもどこか真実が入っているということを言いたいのか、「信じる心」が大切だってことを言いたいのか、人間誰にでも役割があるってことを言いたいのか…そのへんのポイントも微妙にボケている。それは大した意味もないのに「うつわ」の役がやたらデカくて、無意味にスポットを当てられていているからだろう。そして困ったことに、それはこの役をシャマラン自身が演じていることから起きている混乱なのだ。目立ちたいのは分かるが、クリエイターならもうちょっと冷静に考えたらどうなんだ。それとも、シャマランはホレこんだブライス・ダラス・ハワードとぜひとも共演したかったのか。ともかく、もっとバランスを考えたドラマ構成をとるべきだった。まぁ、お話の穴はそこだけじゃないんだけども(笑)。

みどころ

 それでも何とかこの映画が見れるものになったのは、出演者たちが揃いも揃って芸達者であるがゆえ。中でも「水の精」であるブライス・ダラス・ハワードがそう言われてもおかしくないほど可憐で清純でミステリアスであることが大きかったし、メジャー映画初主演ポール・ジアマッティの説得力ある演技がモノを言っているのは間違いない。彼がヒロインを「水の精」だと確信したのだから、それは反論の余地がないのだ(笑)。ジアマッティがハワードを一生懸命守ろうとする姿も見ていて好ましい気持ちになる。僕はこの映画嫌いじゃない。これまた近年急速に鼻につき始めていたクリストファー・ドイル(笑)の撮影も今回は良かったし。シャマラン自演の役柄の肥大化のせいでバランスは崩れたものの、本当はこの映画は「誰の人生も意味のあるものだ」という「素晴らしき哉!人生」(1946)と同じテーマを言いたかったのに違いない。それに加えて「他者への寛容さに欠けている今の世の中」への批判を込めたかったようで…エンディングに流れるボブ・ディラン作「時代は変わる」は、よく聞かないと分からないほど原型をとどめていないアレンジがなされてはいるが、そんなメッセージをわずかながらも漂わせていたように思う。ただし、それを伝えるのに成功したかと言えば、残念ながらノーだ。ギラギラした野心とこれみよがしのビックリ・テクニシャンぶりは捨てられたのだから、出たがりの自己顕示欲も抑えられればまだマシだったのに、結局自分が出たい欲求を抑えられずに作品はバランスを失ってしまった。それでも続編、シリーズ、リメイク、テレビとマンガの映画化…と鮮度が落ちる一方のハリウッド映画の中で、一人オリジナリティのある映画をつくろうと孤軍奮闘して前のめりに自滅している姿は、ちょっと好感が持てるんだけどね。

さいごのひとこと

 こうも堂々と顔を出されるとシャマランなぁ。

 

「もしも昨日が選べたら」

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Date:2006 / 10 / 09

みるまえ

 アダム・サンドラー主演のコメディというと、ちょっと最近パターン化されてきたきらいもなきにしもあらず。だから彼が出てるというだけでは、もはや食指を伸ばしたくはならない。だが、この作品は何となく着想が気に入った。リモコンで人生操るってのは面白そうだ。DVDのメニュー画面なんかいじってると、それだけで楽しいからね。そして共演者がちょっと豪華なのも気に入ってる。気楽に見るぶんには、これは面白いんじゃないだろうか。

ないよう

 マイケル(アダム・サンドラー)はいまやアブラの乗りきった建築士。彼としては出来すぎの美人妻ドナ(ケイト・ベッキンセール)に幼い息子ベンとサマンサと共に、人生を大いにエンジョイしていると言いたいところ。だが実際は、木の上に作りかけのログ・ハウスは放ったらかし。息子の水泳大会には終わった頃に駆けつけるアリサマ。仕事に追われて家族との時間はいささかお留守の状態だ。それじゃマズイのは重々承知ながら、彼にもそうする理由がある。社長のエイマー(デビッド・ハッセルホフ)からデカい話を持ちかけられたら受けずにはいられない。チャンスは逃せないのだ。老いた父(ヘンリー・ウィンクラー)と母(ジュリー・カブナー)とも何となく疎遠になってきてるが、関わってるヒマがない。それに正直言って…そういう「雑事」に関わるのがカッタルクもあるのだ。すべては家族の生活のため…と言いつつ、何かと言えば仕事の忙しさを口実に面倒事を避けたいと思っている。そんなある日、テレビやらオモチャやら外のガレージのドアやらのリモコンが部屋でとっ散らかって、どれがどれやら分からなくなってしまう。急いでいるのに何だこれは!…とキレるマイケル。「何でそんなにカリカリするの?」と呆れる妻ドナをよそに、マイケルは夜も更けた街に「万能リモコン」を買いに出かける。「万能リモコン」があれば、テレビだろうが何だろうがその一個のリモコンですべて操作できる。そう思ってノコノコ出かけてはみたものの、すでに真夜中の街に店は開いていない。やっと見つけた店も家具や家庭用品の大型店。ここにリモコンなど売ってるのか怪しいところだが、もはや選択の余地はない。入ってみると案の定リモコンのリの字もないが、広大な売り場の片隅に「その他」という一角を見つけたマイケル。ここなら見つかるかも…と一縷の望みを持って入ってみると、薄暗い部屋の中には奇妙な男が一人。この男モーティ(クリストファー・ウォーケン)は、まるでマイケルを待っていたかのように歓迎した。そして「ちょうど最新式の画期的な万能リモコンがある」…と、かなりのスグレモノらしいブツを差し出す。「善人は報われるべきだからね」…さて、帰宅したマイケルは早速このリモコンを使い始めるが、このシロモノの本当のパワーに気づくには少々時間がかかった。何とこのリモコン、自分の実人生をコントロールできるリモコンなのだ。ガミガミ言い始めた嫁さんをポーズ・ボタンで停止させたり、ワンワンうるさい犬の声をボリューム・コントロールで静かにする事もできる。犬が小用を足すのに付き合わねばならない時も、延々長い時間待つ必要などない。リモコンの「クリック」一つで早送りしてしまえばいいのだ。都合のいい事に人生の時間には細かくチャプターが付いているらしく、飛ばしたい時間だけすっ飛ばしたらまた元の時間の流れに戻せばいい。「どうだい、まさに文字通り“万能”だろう?」…どこからともなく再びマイケルの前に現れた奇妙な男モーティは、リモコンの性能に自慢げだ。「ただし、返品は出来かねるので注意するように」…てなわけで、これは便利とばかりマイケルは仕事に実生活にと万能リモコンを使いまくる。いまいましい渋滞もリモコンで飛ばせばいい。上客との契約も、リモコンを活用して見事ゲットだ。両親を迎えての退屈な食事会も、一気に飛ばしてしまえばいい。便利なことにこのリモコンには「自動操縦」機能がついていて、飛ばしている間はこの機能が働いているから、「心ここにあらず」でも一応他人との応対や動作などはできる。「こりゃあ便利だ」と感心するマイケルは、ますますリモコンに依存。ドナとのベッド・インも面倒くさい前戯をすっ飛ばす。ところがセックスの場合は前戯も本番も一つのチャプターにセットされているため、「オイシイ部分」まですっ飛ばされてしまうから、何でもかんでもうまくはいかない。ともかくリモコンのおかげで絶好調のマイケルだった。おまけに社長からは仕事の成功から「共同経営者にしてやる」とのありがたいお言葉。ところがこれが空手形だった事から意気消沈したマイケルは、例のリモコンで「昇進するまで」チャプターをすっ飛ばしてしまう…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 アダム・サンドラーの毎度お馴染みコメディ。ただし題材がちょっと目先が変わっているので、ここんとこマンネリ化していた彼の作品としてはちょっと面白いかも…。 正直言って僕がこの映画に期待していたのはそんなところだ。そして、見始めてすぐこの作品が期待通りである事に気づいた。映画としても、例えばジム・キャリー主演の「ブルース・オールマイティ」(2003)みたいなファンタジー仕立ての「教訓コメディ」だろうという予想通り。その意味ではまったく意外性のない、安心して見られる作品だ。何より人生を操れる「万能リモコン」という発想がすばらしくて、これは誰でも思いつきそうで思いつかないところ。特に人生にDVDみたいにメニュー画面があって、チャプターもあれば「メイキング(笑)」もあるというのは傑作。DVDを買いあさっている映画ファンなら嬉しくなる事請け合いだ。このようにアイディアが抜群と来れば、元々コメディでは好感度の高いアダム・サンドラーだ。ちょっとここんところ、「パンチドランク・ラブ」(2002)や「50回目のファースト・キス」(2004)などでマンネリを感じさせていた彼だが、今回は題材の新鮮味もあってなかなか好調。そして前述「ブルース・オールマイティ」で言えば名優モーガン・フリーマンが演じていた“ジョーカー”のカードとも言うべき役どころに、今回クリストファー・ウォーケンが起用されているのも見どころ。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)あたりでもイイ味を出していたウォーケンだが、今回は「マウス・ハント」(1997)で見せていた素っ頓狂でおかしなコメディ演技を彷彿とさせる役どころを好演。ウォーケンの出演で、この映画の格が一つか二つは上がったはずだ。だが、何と言ってもこの作品の注目ポイントは、ケイト・ベッキンセールの素敵な若妻役ではないだろうか。正直言って最初はあまり彼女を買っていなかった僕だが、最近やっと「アンダーワールド」(2003)や「ヴァン・ヘルシング」(2004)の黒づくめSM女王様風キャラで活路を見出したかと思っていたら、こんな素敵な使い方もあったではないか。この魅力に気づかなかったのはまさに不覚。

みどころ

 そんなわけで、いつもとちょっと目先が変わって鮮度が出てきたアダム・サンドラー・コメディ…ぐらいの気持ちで見始めたこの作品。確かにそんな映画で間違いはないのだが、途中からいささか様相が変わってくる。コメディと言いながら、いつの間にか笑えない内容になっていくのだ。アレコレ面倒くさいことを飛ばしに飛ばしているうちに、リモコンがどんどん勝手に人生を飛ばしていってしまう怖さ。これは僕ぐらいの年齢になるとシャレにならない。僕も「まだまだ時間はある」とバカみたいに自分探し幸せ探しを繰り返し、それが見つかったら充実した人生を送ろうと思っていた。それまでは「仮の人生」とすべてを「飛ばし」ていたのだ。だがロクに味あわなかった歳月はあまりに長く、それは二度と帰って来ない。気づいたらアッという間に若い時代は終わっていた。それどころか、もはや人生後半戦。本当は「あれもしたかった」「これも楽しみたかった」アレコレは、すべて手をつけずじまいで終わってしまった。本当に本当に取り返しがつかない。むろんやりたいようにやってきた人生だから後悔はない。だが、老いた人がワンパターンに「人生は過ぎるのが早い」というお題目は、僕が予想していたよりもっと「真実」だった。我ながらバカだったよ。この映画に描かれていることは、まったくシャレにならないのだ。そして映画の作り手もそれを強く意識していたらしく、後半になるに従って笑いが影を潜め、どんどんシビアさを増していく。後半はハッキリ言ってコメディとは言えなくなっていく。一応ハッピーエンドの幕切れは用意されているし、それはそれなりの納得のいくカタチで設定されてはいるが、見せられているこちらはますます居たたまれなくなる。親不孝のくだりなんか見るに耐えない。この映画の主人公は「善人は報われなくてはいけない」と救われるが、見ているこちらは全く救われないし、過ぎた人生は帰って来ないという事をますます思い知らされてしまうのだ。これはツライよ。

さいごのひとこと

 このリモコンで僕の人生をディレクターズ・カットにしたい。

 

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