新作映画1000本ノック 2006年9月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「太陽」 「マイアミ・バイス」 「楽日」

 

「太陽」

 The Sun (Solntse)

Date:2006 / 09 / 25

みるまえ

 何しろ昭和天皇を主人公にしちゃった映画として話題沸騰。まぁ、ガイジンだから出来ること…と思いつつ、天皇が「現人神」でなくなってから何十年も経つのに、映画の主人公にも出来ない我々のお寒い「現状」にふと気づかされもする。ただ、そんな事情だから日本公開は無理だろうと思ってたんだが、なぜか入って来ちゃったから驚いた。そして連日超満員。大変結構な事だが、僕はこの映画が、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフの作品と聞いただけで尻込みしてしまった。それには僕なりの理由がある。ともかく重い腰を上げて猛暑の中を見に行ってみれば、満員で追い出される始末ではないか。だが好評が後押しして劇場数が拡大。ようやく余裕で見れるようになった。はてさて、その内容は…?

ないよう

 「彼」は暗い部屋の中で、侍従長(佐野史郎)や老僕(つじしんめい)などのお付きの者たちに恭しく傅かれて毎日を暮らしていた。「彼」とは昭和天皇裕仁(イッセー尾形)。時は太平洋戦争最末期。ラジオで聞こえてくる戦況の苦しさが、裕仁の表情を曇らせる。なのに、まるで何もないかのように連日の「ご予定」が進む。「日本から、私以外の人間はみな死んでしまうのではないか?」…だが侍従長は「陛下は人間ではありません」と紋切りの答えを返す。裕仁は「私は君たちと変わらない」と言ったものの、それ以上その事には深入りしなかった。この日は御前会議がある。裕仁の登場に、居並ぶ閣僚たちは緊張した面もちだ。陸軍大臣は悲壮な表情で「最後の一兵まで戦う」云々と発言するが、裕仁はもうたくさんだった。だがそんな気持ちを口にする時も、明治天皇の歌を詠んでさりげなく伝えるのが裕仁流だ。御前会議を終えた裕仁は、元の自分の居場所…地下の待避壕へと戻る。だが本土決戦に備えてつくられた待避壕の中で、裕仁はつい道に迷ってしまう。この日裕仁には、さらにもう一つの予定が入っていたのだ。それは大好きな生物学の研究。地上の研究室に現れた裕仁は、白衣に着替えて目の前のヘイケガニにうっとり。助手に対して珍しく饒舌にカニについて語る裕仁。だがそのうち、彼は忘れていた何かに思い当たる。日本がこの泥沼の戦争にハマり込むに至った経緯だ。後述筆記する助手相手に、激しい勢いで語っていく裕仁。どうしようもなかった、どうしようもない巡り合わせでこんな事に…だが、本当にどうしようもなかったのか? 空襲警報が鳴って、裕仁は侍従長や助手と共に待避壕に降りていく。自室でうたた寝をした裕仁は、そこで東京大空襲の悪夢を見る。うなされて目が覚めた裕仁は、今は疎開中の皇太子に宛てて一通の手紙をしたためた。「我々は傲慢だったのだ、相手を見くびりすぎていた」…やがて、いつの間にか米軍が進駐してきた。裕仁は敵の司令官マッカーサーから呼び出され、クルマで皇居を後にして帝都・東京の街並みへとやって来る。辺り一面が廃墟だ。米軍が本拠に使っているビルにやって来た裕仁は、マッカーサー(ロバート・ドーソン)との会見に臨む。通訳として出てきた日系青年はあえてマッカーサーの不興を買いながら、裕仁が不利にならないように気を配る。だが裕仁は、自ら英語をしゃべって「あなた方の決定を無条件で受け入れる」とマッカーサーに語りかける。そんな裕仁に一種の感銘を受けたマッカーサーではあるが、それ以外では関心があっちこっちに飛んでしまったり、発言がどれもこれも間接的であったり…という裕仁ならではの言動にすっかり翻弄されてしまう。彼はこの戦争と自分の立場を一体どう思っているのだ?…マッカーサーには裕仁の人となりがどうにも不可解だった。皇居に戻った裕仁は、呼びつけておいた科学者とオーロラについて語り合う。だが科学者はシャチコバってへりくだりすぎてしまい、裕仁も侍従長もこれには閉口させられる。やがて米軍の報道担当者たちがカメラを持ってやってくる。彼らのカメラにニコヤカに応じる裕仁だが、野卑な報道陣たちに「チャップリン」呼ばわりされてちょっと驚く。「私はあの喜劇俳優に似てるのか?」…再度のマッカーサーとの会見の後、思い詰めた裕仁は自らの「神格」を否定する事を決心する。そこにやって来たのは、疎開先から皇太子たちを連れて戻ってきた皇后(桃井かおり)だ。思わず緊張感が緩んだ裕仁は、自分の決心を皇后に語りかける。そして子供たちに会うため部屋を出ようとした時、裕仁は侍従長に軽い気持ちで尋ねた。「私の人間宣言を録音した技師の青年はどうしたかね?」「…自決いたしました」 それを聞いた瞬間、裕仁は思わず表情を凍り付かせる…。

みたあと

 実は僕には、これまで「鬼門」とする映画作家が二人いた。一人はポルトガルのマノエル・デ・オリヴェイラ、そしてもう一人…このアレクサンドル・ソクーロフ。ともかくこの2人の映画は、僕にとってタブーだった。生理的にダメとかイヤとかそういう事ではないが、とにかく見始めて5分で眠ってしまうのだ。そんな「鬼門」も、昨年「永遠の語らい」(2003)でオリヴェイラを「克服」。残るはソクーロフただ一人になっていたわけだ。僕が最初に見たソクーロフの映画は、たぶん「静かなる一頁」(1993)ではなかったか。ドストエフスキーの「罪と罰」が原作とかいう触れ込みだったと記憶しているが、何となくアート系に偏った「ブレードランナー」とでも言うべき近未来SFみたいな映画だった気もする。何しろほとんど眠ってしまったからあまり覚えていない。ただ、そのユニークな作品世界だけは頭に刻み込まれた。全編モノクロ…あるいは限りなくモノクロに近いモノトーンの映像。全編どこからともなく低いボリュームで聞こえてくるどよ〜んとしたノイズ。そして時折ドラマに挿入されるように出てくる廃墟っぽい白いミニチュア・セット。この廃墟っぽいミニチュア・イメージにはビジュアルとして心惹かれたものの、何しろ全体の進行の単調さには耐えられなかったのか。実はソクーロフ、その後なぜか日本に来てドラマともドキュメンタリーともつかない作品をビデオで制作。その作品「オリエンタル・エレジー」(1995)もテレビ放映されたので早速見てみた。ところが…真っ暗なスクリーンでなく明るい部屋で見ていたにも関わらず、これまたアッという間に睡魔に襲われたからたまらない。そしてまたまたモノトーン映像、どよ〜んとしたノイズ、廃墟っぽい白いミニチュア・セット…。すべてのソクーロフ作品がこうなのかどうかは知らないが、実はこれらの要素はそっくりそのままこの「太陽」にも共通している。しかもドラマが単調なのも変わらない。だが不思議と今回ばかりは、僕も一睡もせず…退屈しないで全編を見ることができた。それは日本人が日本語で演じる日本のドラマであるために、単調で感情表現が希薄であってもちゃんと語っていることが伝わったからだろうか。あるいは敷居の低さを感じたからか。はたまた「天皇」という日本人にとっての一種の「聖域」を扱っているので、ついつい引き込まれてしまったのか。本来ソクーロフ映画なんて客が入るものではないのに、劇場ははちきれんばかりの超満員。僕なんか最初3度ほど映画館から追い返されたほどだ。何せ時期が時期で、偶然ながらあまりにタイムリーな作品になってしまったからねぇ。僕もそんなみんなのミーハーさを笑える立場ではない。

こうすれば

 正直言って大ヒットするような映画でもすごく面白い映画でもない。本来ソクーロフ映画はそんなものではあり得ないのだ(笑)。映画そのものもいつもの夢かうつつか幻か…のソクーロフ・タッチだから、お話にリアリティを求めても仕方がない。だからいつの間にか気づいたら米軍が進駐していたりする(笑)。これはあくまでソクーロフのファンタジーの中の天皇と考えるべきなんだろう。お話の大半は薄暗い待避壕の中。主人公は何を考えているのか分からないミステリアスな人物。常に通信音なのか静かな低いノイズが聞こえて、周囲にはミニチュアの廃墟の東京が広がる。まさにソクーロフに打ってつけの世界なのだ(…などと「見たら5分で眠っていた」僕が偉そうに言える立場ではないが、少なくとも外見上の特徴からはそう見える)。ここに昭和天皇の実像を見出すのは、ちょっと違うのかもしれない。

みどころ

 だがそれにしてはイッセー尾形演じる昭和天皇は、あまりに僕が子供の頃に見知っていた「あの天皇」そのものに見える。僕らにとっても、「あの人」はこういうイメージだった。イッセー尾形にしても演出のソクーロフにしても、なぜ「昭和天皇」の人物像をあそこまでバッチリと掴んでいたのか、とても不思議だ。そして天皇という存在も終戦前後の日本という特殊な状況も、僕ら日本人にとってでさえ「それが何だったのか」を把握するのは困難だ。だからこの作品が変なインチキ臭いオリエンタリズムに陥る事もなく、明らかに僕ら日本人が見て違和感のある映画にならなかったのは奇跡と言っていい。そして天皇を一方的に断罪する映画にならなかったのは…もっともソクーロフ映画ではそんな事も起きようがない気がするが…絶妙なバランス感覚という気がする。イッセー尾形は先にも述べたように、昭和天皇その人を見事に模写しながら「そっくりショー」にはしなかった点が見事。もっと驚いたのは桃井かおりで、この人の堂々たる貫禄にはビックリだ。何とこの作品も「マイアミ・バイス」(2006)と同じく(笑)デジタルハイビジョン・カメラを使用しており、それが天皇の悪夢の場面と東京の廃墟の場面などの「特撮」に効果をあげている。テクノロジーはこう使うべきというお手本かも。

さいごのひとこと

 天皇映画とくれば新東宝かソクーロフ。

 

「マイアミ・バイス」

 Miami Vice

Date:2006 / 09 / 18

みるまえ

 テレビもマンガも映画化しちゃうハリウッドだから、「マイアミ・バイス」が映画化されると聞いても驚きはしない。元々テレビの「マイアミ・バイス」も大して見ちゃいなかったから、全然期待なんかしなかった。そもそもテレビの「マイアミ・バイス」って、僕の中ではイメージが良くなかった。MTVっぽいセンスの映像と、いかにも流行りの音楽タレ流し。主役たちはエエカッコしいでイカすクルマに乗りまくる。フィル・コリンズがゲスト出演していたとかシーナ・イーストンがレギュラー出演していたとか、ハッキリ言ってミーハーなドラマとしか思っていなかったわけ。

 ところが、こいつにマイケル・マンが関わっていたんだから世の中分からない。そして今度の映画化版も、マンの監督だと聞けば食指がそそる。主役にコリン・ファレル、ジェイミー・フォックスというのも適任だ。かつ豪華だと言える。メチャクチャ期待しようとは思わないが、それなりに楽しませてくれるのではないだろうか。やっぱりこの人のクールなタッチには昔も今も惹かれる僕だ。ミーハー・ドラマならミーハー・ドラマなりに、楽しませてくれそうな気がする。

ないよう

 今夜も何か起きそうな熱いマイアミの夜。オシャレなクラブの喧噪の中で、じっと目を凝らしている連中がいた。金髪の長髪白人男ソニー(コリン・ファレル)とそれより年かさのいった黒人男リカルド(ジェイミー・フォックス)、そしてその仲間たち…彼らはマイアミ警察特捜課=「マイアミ・バイス」の面々だ。今夜はここで高級売春組織の手入れをやる予定だったが、ピリピリして待ち構えていたその真っ直中に、いきなりソニーの携帯に電話が入った。それは久方ぶりのある情報屋からの電話だ。えらく怯えきって、テメエはマイアミをズラかるから女房を頼む…とか、えらくビビりまくっていた電話だった。「これはただ事ではない」…そう直感したソニーは相棒のリカルドと共に仲間を招集。今夜の売春組織の手入れはひとまず置いて、携帯でFBIにいきなり直談判をやらかす。「うちからお宅に紹介した情報屋に一体何をさせた?」…最初は不躾なソニーの言い草にムッと来ていたFBI捜査官フジマ(キアラン・ハインズ)だが、ソニーからの電話を聞いて血相を変える。フジマはこの情報屋をつなぎ役に、売人に扮したオトリ捜査官を麻薬組織と接触させようとしていたのだ。そして、その取り引きの期日は今夜だった。一方トンヅラしようと焦る情報屋のクルマの位置を突き止めたソニーとリカルドは、ハイウェイの上で情報屋に追いつき、クルマを停車させた。何とかなだめようとするソニーたちだが、情報屋は心ここにあらず。そんな時、ソニーたちが手配した警官隊が、情報屋の自宅に乗り込んでいたが…発見したのは情報屋の女房の無惨な亡骸だけ。その知らせを聞いた情報屋は、放心状態で走ってきたトラックに突っ込んだ。そして当然のごとく…取り引きに出向いたオトリ捜査官たちは、全員蜂の巣にされていた。その夜、ソニーとリカルド、さらに二人の上司であるカステロ(バリー・シャバカ・ヘンリー)の前に、例のFBI捜査官フジマが現れる。「大切な情報屋を死なせやがって!」といきり立つソニーとリカルドだったが、フジマは彼らに衝撃的な事実を突きつけた。巨大な麻薬密売組織に、司法当局の情報が漏れている。この夜の惨劇は、明らかにそれを裏付けていた。情報屋がFBI側のつなぎ役をやったことは、ハナっから組織に筒抜けだったわけだ。そしてフジマは本題に入った。面が割れていないソニーとリカルドを組織と接触させ、情報の漏れた元を探り出そうというのだ。それは危険きわまる任務だが、ソニーとリカルドはひるむことなく引き受けた。接触のキッカケは、まず南米からヤクを積んでマイアミにやって来る高速ボートだけ。その跡を辿って売人たちのアジトを急襲。その場のヤクを強奪するソニーとリカルド、そして仲間たち。次いで南米に飛んだソニーとリカルドは、そこで組織の「顔」らしきイエロ(ジョン・オーティス)なる男と接触し、「運び屋」として自らを売り込む算段を整える。だが初めて顔を合わせたイエロは「新顔」を信用せず、手下たちもスゴんで一触即発の雰囲気。何とかその場が収まったのは、横からジッと様子を伺っていた一人の東洋系の女が止めたからだ。この女イザベラ(コン・リー)こそ、組織のさらに「上」の人物と密接なつながりを持つビジネス・ウーマンだったのだが…。

みたあと

 元々のテレビ「マイアミ・バイス」はよく知らないが、ファッショナブルでスタイリッシュな刑事アクションだったらしい事は想像がつく。それをコリン・ファレルとジェイミー・フォックスで映画化とはうまい事を考えた。どちらも今が旬のスターだし、ファレルはスターではあるがどこか「安さ」を漂わせる俳優で、同じ役をテレビで演じたドン・ジョンソンのポジションを彷彿とさせる。フォックスは…と言えば、元々マイケル・マン映画とは相性がいい。そしてファッショナブル…とは限らないが、スタイリッシュで硬派なアクションを撮らせればピカイチなのがマイケル・マン。映画デビュー作「真夜中のアウトロー/ザ・クラッカー」(1981)は、まさにそんな映画の極め付き。異色なホラー「ザ・キープ」(1983)も大好きだった。だが僕が大好きだったこれらの作品で、マンは必ずしも商業的成功を得られなかったようだ。パッとしなかった彼が起死回生と取り組んだのが「マイアミ・バイス」のプロデュースという事らしい。このテレビでの成功を引っ提げ、「インサイダー」(1999)や「アリ」(2001)を撮る大物監督になったわけだから、テレビと言えどもバカにできまい。「マイアミ・バイス」様々のはずだ。そんなわけで、冒頭からカッコイイ絵がズバズバと出てくる。元々、夜を撮らせれば第一級の監督だから、映画が始まるといきなりクールな場面の連続。僕はそれだけで嬉しい。

こうすれば

 ただ正直に言うと、この映画って絵がカッコいい割にはお話が面白くない。潜入捜査のシビアな怖さや緊張を描いた…とかマイケル・マンは劇場パンフのインタビューで答えているが、それをやるのに「マイアミ・バイス」はないだろう。スター俳優が潜入刑事を演じるだけでもシラジラしくなるのに、そこにファッショナブルでスタイリッシュに刑事アクションを描く「マイアミ・バイス」という器を持って来ちゃったら、単なるエエカッコしい映画にしかなるまい。しかも、どこをどう「潜入捜査をシビアにリアルに」描いたんだか知らないが、脚本の流れを見る限りではそんな工夫をした跡も見られない。まさに月並みな潜入捜査モノをファッショナブルにスタイリッシュに描いた…っていう、つまり「そのまんま」だ(笑)。だったらエエカッコしいに徹すれば良かったのかもしれないが、止せばいいのに変な欲を出してしまったのか…結局うまくいかなかった。いやぁ、実際のところ、欲を出してもいないんじゃないだろうか。あまりに月並みで驚きも何もないお話だから、マイケル・マンのインタビューの答えはまるでマユツバにしか聞けない。さらに何を考えていたのか、主人公二人のキャラも全くと言っていいほど描かれていない。これはみんなテレビですでに知っているからいいだろ…って事なのだろうか? 主役二人がホントに何を考えているのか分からない。敵の女とデキてしまったソニーに相棒リカルドが見かねて「オマエ、彼女に正体を明かすんだろ?」と聞くと、「そんな事できるわけねえだろ!」と中学生みたいな戯言をホザく場面すらあるのだから、もはや笑ってしまう。それでも一応ソニーにはキャラ的なモノが多少あるからまだいいが、ジェイミー・フォックスのリカルドはホントに何もない。ただ、そこにいるだけ。しかも驚いた事に、情報漏れの元を探るべく潜入捜査を始めたのに、途中からそれってどうでも良くなること(笑)。誰が情報を流していたのかは結局最後まで見ても分からないし、そもそも描く気がないようだ。そうなると今回の唯一の「売り」は、驚きのコン・リー起用…という事になるのだろうか。だが、だからって…コン・リーでなければならない役でもない。実はマイケル・マンは「ヒート」(1995)の時にすでにコン・リーを起用しようとしていたが、彼女に断られたと聞いていた。その真偽は定かではないが、なぜ今回は出てきたのか…彼女にその真意を聞きたい。やっぱり初めてハリウッド・デビューしてみたら、いきなりチャン・ツィイーの脇…という「SAYURI」(2005)体験のリバウンドなのか。かつては中国映画を代表する女優の自負もあったろうし、チャン・イーモウの元カノとしてのプライドもあったろう。それがツィイーの引き立て役では…もっと早くハリウッド映画に出ていれば良かったと思ったのか。「ヒート」はダメだったのに「マイアミ・バイス」には出演…という経緯に、何となくそんなコン・リーの焦りを感じなくもない。彼女、これでいいのかねぇ。…おっと、もし間違っていたらごめんなさい。

みどころ

 「コラテラル」(2004)で初導入して気に入ったのか、今回もデジタル・ハイビジョン・カメラを使ったマイケル・マン。やっぱり夜間撮影がシャープに撮れるのがお気に入りだったのだろう。今回も夜の川をモーターボートで突っ走るくだりなんか、背景の夜景もキレイならモーターボートのコクピットの計器類の灯りまで見える感度の良さ。まるで溜め息が出るような美しさだ。アクション場面から何から、とにかく夜景がことごとくキマってる。主役二人の性格設定はカラッポだしラブストーリーは取って付けたよう、潜入捜査のお話にリアリティはないし、おまけに結論はどこかに行っちゃうというガタガタな脚本だが、僕が退屈せずに見れたのはこの美しさゆえ。余計なドラマとかキャラクターとかがスッカラカンだからこそ、余計に美しさが引き立ったのかも。ボ〜ッとBGVとして見るには最高だ。

さいごのひとこと

 観賞用の熱帯魚だから、味も栄養も期待しちゃダメ。

 

「楽日」

 不散 (Goodbye, Dragon Inn)

Date:2006 / 09 / 11

みるまえ

 久々のツァイ・ミンリャンである。実はこの映画は、2003年東京国際映画祭・アジアの風で「さらば、龍門客桟」のタイトルで上映されていた。その時から「見たい!」と思っていたのだ。この映画は見たい。その理由は後で述べるが、とにかく僕が見たい要素が満載だった。だが映画祭ではもっとマイナーな映画を見ることをモットーにしている僕は、どうせいつか劇場にかかるツァイ・ミンリャン映画をパスしてしまった。ところが、いつになってもこの映画が劇場にかからない。「こりゃ失敗したかな」と思い始めた頃、ようやく日本公開となったわけだ。しかも「同時多発ツァイ・ミンリャン」といういささか不謹慎なタイトル(笑)で、都内でほぼ同時に3本のツァイ・ミンリャン映画が公開される。その中の一本がこの作品だ。どうせこの映画も、ツァイ・ミンリャン映画の常連のグンゼ・パンツを履いてる陰気くさいアンチャン(リー・カンション)の主演だろう。ともかく、まずは見てみなければ。

ないよう

 夜の映画館に土砂降りの雨が降る。一人の青年(三田村恭伸)が特にアテもなさそうに、その映画館にフラリとやって来る。その映画館はかなり年期の入った時代モノ。かかっている映画も今は昔の大ヒット作…中華チャンバラ・ブームをもたらしたキン・フー監督の往年の傑作「残酷ドラゴン/血斗竜門の宿」(1967)だ。だが、客足は芳しくない。映画館の雑用やら切り盛りをしているのは、足の不自由な女(チェン・シャンチー)。身体をひどく揺すりながらゆっくりと歩き、場内清掃やら便所の点検やらで館内を移動している。映画館は時代モノゆえに、所により雨漏りもしている。得体の知れない荷物が山積みの場所もある。不思議な空間だ。先程、映画館に入ってきた青年は、うるさく食い物を食べ散らかしている女二人を避けて座席を移動。すると訳アリの中年男が近づいてくるが、青年はこの男をやりすごす。足の不自由な女は中華饅頭を蒸かして食べているが、半分食べたところでそれを誰かに分けてやろうと思ったのか…半分の中華饅頭を持ってまたぞろゆっくり映画館の中を移動し始める。行き着いた先は映写室だ。だが、なぜか誰もいない。女は中華饅頭を置いてその場を立ち去る。パラパラの客席には、孫を連れた老人がいる。もう一人、じっと画面を見つめる老人がいる。先程の青年は何を考えたか、客席から出て廊下やロビーをウロウロ。すると同様にウロウロする男たちがいる。彼らはそれぞれ「相手を求めて」ウロつく男たちなのだ。だが男たちの想いが互いに通じる事は稀だ。彼らは高く積まれた古い荷物の影や怪しげな廊下を行きつ戻りつ、それぞれ袖すり合いながらも縁を持てない。そんな時、例の青年は悠然とタバコを吸う黒シャツの男(チェン・チャオロン)の姿を見つけ、彼の眼差しにただならぬモノを感じる。黒シャツの男に吸い寄せられるように、映画館の奥へと引き込まれる青年。だが黒シャツの男は青年の気を惹きながら、決して彼に近づこうとはしない。「この映画館に幽霊が出るって知ってるか?…出るんだよ、幽霊が」 ナゾの言葉に翻弄されながら、青年は黒シャツの男に翻弄される。思い余った青年は「僕は日本人なんだ」と口走るが、黒シャツの男は「サヨナラ」と告げて去っていった。一方、足の不自由な女は再び映写室に寄ってみるが、やっぱりそこには誰もいない。中華饅頭も置いたままだ。だが、確かにそこにはつい先程まで人がいた。火のついたタバコが灰皿に残されたままだ。女はまるで急に目が覚めたように、中華饅頭を持って部屋を出る。客席ではあの青年が映画を見ているが、後ろでやたらと豆を食べている女(ヤン・クイメイ)が気になる。やがてその女は、いつの間にか青年のすぐ後ろに来ているではないか。ふと先程の黒シャツ男の言葉を思い出した青年は、脱兎の如く客席を飛び出して行った。映画はいよいよ佳境に入る。それを見ている老人の目が濡れている。その老人こそ…上映されている「血斗竜門の宿」の主演俳優シー・チュンその人(シー・チュン本人)ではないか。そして孫を連れた老人は、映画では悪役を演じていたミャオ・ティエン(ミャオ・ティエン本人)の老いた姿。そんな二人が、たまたまこの映画館でかつての自分たちを見ていた。やがて映画は終わった。足の不自由な女は、身体をねじりながらゆっくりと客席へ向かい、長い時間をかけて客席の清掃を行う。孫を連れて帰ろうとするミャオ・ティエンを、シー・チュンがロビーで待ち構えていた。「来ていたのか」「お久しぶりです。今はもうみんな映画など見ない」「我々の事も、みんな忘れ去ってしまった」…映写技師(リー・カンション)は黙々とフィルムを巻き戻している。ロビーに置いてある自動占い機で戯れに自分の運勢など占ってみたあげく、ふとあの女の控え室を覗いてみると、そこには中華饅頭が置いてあるではないか。映写技師はそれを持って、バイクで映画館を後にする。だが彼は、そんな自分の姿を物陰から見つめていた、あの女の眼差しを知らない。雨はますます激しさを増す。映画館のウィンドウには、大きな紙が貼ってある。「臨時閉館」…激しい雨足の中を、足の不自由な女はゆっくりゆっくり映画館から立ち去っていく…。

みたあと

 実は上記の物語は、かなりエピソードを細かく拾っている。実はこの映画には物語などほとんどない。映画館とそこでかかる映画しかない…と言っていい。その映画こそが、僕の大好きなキン・フー作品「残酷ドラゴン/血斗竜門の宿」というのが泣かせる。「大酔侠」(1966)を撮ったあの監督の最大ヒット作だ。だからこの映画は、最初から見たくてたまらなかったのだ。そういやツァイ・ミンリャン映画の常連の一人、老優ミャオ・ティエンはこの映画の悪役だったのか。恥ずかしながら、僕は今回初めてそれに気づいた。元々ツァイ・ミンリャンは、この映画にオマージュを捧げていたようなものかもしれない。ただ、一般の映画ファンがこの映画をどう思うかと言えば、実はかなり心許ない。何しろお話がない。あまりに進行がスローだ。中味のない映画を延々見せられるような気がする人もいるだろう。それはあながち間違っているとは言えない。ツァイ・ミンリャン映画の主人公俳優リー・カンションなんて、映画が終わるおよそ10分前にやっと出てくる始末。おまけに「主役」らしきリー・カンションとチェン・シャンチーの二人は、結局映画が終わるまで一言も口をきかない。退屈だという人がいてもおかしくない。だからこの映画が受け付けないという人を、僕は責める気になれない。どこが面白いの?と思っても無理はない。ダメな人はダメだと思う。

みどころ

 ただ、僕にはこの映画のスローが見ていて心地よかった。女の足が不自由で歩行がぎこちないのも、要はテンポをゆっくりさせたいがため。それは出来るだけ長くカメラを回しっぱなしにして、映画館の隅々までジックリ見せるためだ。この今では珍しくなった大劇場タイプの映画館が、何とも素晴らしい。シネコンやミニシアターにはない「いかがわしさ」…僕にはそれこそが本来「いかがわしい」はずの映画の魅力とつながって見える。怪しげな男たちの右往左往も、そんな映画館の闇や謎めいた雰囲気を盛り上げるため。幽霊の登場(ヤン・クイメイのゲスト出演が嬉しい!)も、映画の持つ「魔」を象徴させるためだろう。そして往年の映画黄金時代を象徴する二人のスター。そんな「いかがわしい」映画そのものを象徴するかのような古いタイプの映画館を、ただただジックリ見せていく。だから、実は物語なんか要らないのだ。映画館と古いキン・フーの映画があればいい。

さいごのひとこと

 これをDVDで見るのはチョイと寂しいかも。

 

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