新作映画1000本ノック 2006年8月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「ユナイテッド93」 「ザ・フォッグ」(ルパート・ウェインライト監督作品) 「トランスアメリカ」

 

「ユナイテッド93」

 United 93

Date:2006 / 08 / 28

みるまえ

 そろそろ、あの「9・11」を扱ったハリウッド映画が登場すると聞いて、正直言って僕は少々辟易していた。むろん「あの日」の衝撃は一生忘れようったって忘れられない。その時真っ先に感じた事は、映画「ロンドン・ドッグス」(1999)の感想文に書いた通りだ。そして…その後の世の中は、現実に僕が思っていた通りになってしまった。それは別に僕に先見性があったからじゃない。誰がどう見たってそうなるしかなかった。その最悪のコースを辿ってしまったのだ。その頃に比べれば、アメリカも愛国一色のムードがかなり変わって来た。もうイスラムのテロリストのお株を奪うような、「聖戦」なんて言い草をする訳もないだろう。とはいえ、あのベトナム戦争でさえ映画としてマトモに取り上げられたのは終結後何年であろうか。それを考えると、「もう5年」なのか「まだ5年」なのか、判断がつきかねるというのが正直なところだ。確かに「9・11」をモチーフにした「セプテンバー11」(2002)なんてオムニバスがつくられたものの、アレは直接同時多発テロを扱ったものではない。おまけに参加した大半が外国の映画作家だ。スパイク・リーの「25時」(2002)には「9・11」の残像がベットリとこびりついてはいるが、これまた事件を扱った話ではない。マーティン・スコセッシの「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002)やスティーブン・スピルバーグの「ミュンヘン」(2005)も同様。あの事件を真っ正面から取り上げるには、まだ時が熟していないんじゃないだろうか。何しろ最終的に墜落した同機の物語をつくろうにも、真実は乗っていた乗員・乗客にしか分からない。おまけに亡くなった「ユナイテッド93便」の乗員・乗客とその家族のことを考えると、これは「美談」にしかならないのではないか。あるいは「英雄談」か。ほとんどは想像の域を出ないはずだ。ならば「やられた」アメリカ側の映画としては、そうならざるを得ないではないか。なのにこの夏以降、この「ユナイテッド93」とオリバー・ストーンのその名もズバリ「ワールド・トレード・センター」が公開される。題材から言っても、観客の感情を煽るような作品になっていそうでイヤな予感がする。おまけに僕は小さい頃から無類の飛行機好きで、にも関わらず飛行機事故が恐い。だから、なおさらこの企画には腰が退けてしまったのだが…。

ないよう

 2001年9月11日早朝、ニューヨーク。そのホテルの一室では、思い詰めたイスラム系の男たちが一心不乱に祈りを捧げていた。彼らは「出発」を前に、何やら覚悟を決めているようだった。そして晴れ渡る青空の下、ニューヨークのニューアーク空港には、サンフランシスコ行きユナイテッド93便に乗る乗客たちがボチボチ集まりだしていた。その中に、例の思い詰めたようなイスラム系の男たちがいたのは言うまでもない。機長、副機長、そしてフライト・アテンダントなど乗員も集結してきた。機内の準備も整い、乗客が次々と93便に乗り込む。ところがニューアーク空港恒例の「朝のラッシュ」にぶつかり、93便は肝心の離陸が出来ない。乗客に混じって席についたイスラム系の男たちの表情に、緊張感がはしる。ところがその頃、空の安全を預かるボストン管制センターの管制官が異変に気づいた。その直前から連絡がとれなくなっていたアメリカン航空の11便から、「制圧した、静かにしろ、空港に戻る」…という音声が聞こえて来たのだ。その知らせは連邦航空局の指令センターや軍の防空司令センターにも通報されたが、その時にはまだ誰も事の重大さに気づいていなかった。やがて問題のアメリカン11便からの音声を分析した結果、同機がハイジャックされたこと、ハイジャック犯が「我々は“飛行機=プレインズ”を奪取した」と宣言していたこと…が分かる。「プレインズ」…すなわち、複数の航空機のハイジャックだ。そんな事になっているとも知らず、ニューアーク空港を離陸するユナイテッド93便。イスラム系の男たちはいずれも緊張で顔面蒼白だったが、リーダー格の男は機をうかがって動かない。その頃、問題のアメリカン11便がマンハッタン上空でレーダー上から姿を消す。管制官たちが唖然としているちょうどその頃、肝心のニューヨークでは世界貿易センタービルの北棟から黒煙が立ち上った。爆発か?火災か?CNNは小型機が突っ込んだと言っているが本当か?愕然とする連邦航空局司令センターや軍防空司令センターのスタッフたちには、それが消えたアメリカン11便ではないか…という最悪の予想が立っていた。しかも次いでユナイテッド175便が連絡を絶った。「まさか」と思った矢先、その「まさか」は現実となる。数分後、世界貿易センタービル南棟に旅客機が突っ込んだのは言うまでもない。軍は第3、第4の攻撃に備えてニューヨーク上空に戦闘機を発進させるが、「次」がどこかは誰にも分からない。しかも「民間機」を撃墜していいのか、その最終命令は誰が発すればいいのか。それは大統領だということになったものの、肝心の大統領とはどうすれば連絡がとれるのか。そんな大混乱が地上で起きていた時…シビレを切らしたユナイテッド93便機上のイスラム系の男たちが、いきなり慌ただしい動きを見せ始めた…。

みたあと

 ハッキリ言ってお話は誰もが知っている「あのこと」であり、それ以外の何者でもない。意外なことは何も起きない。強いて言うなれば、完璧なように思えるアメリカの防空システムが、「あの日」は大混乱の中で情報が錯綜してうまく機能しなかった…ことぐらいか。連邦航空局に詰めている空軍将校が、恐ろしく愚鈍に描かれているのが気の毒なほど。でも、この映画でこんなに愚鈍に描かれたということは、ホントに相当愚鈍だったのだろう。そう思わせる力が、この映画にはある。感情的な要素…センチメンタリズム、ヒロイズムなどは徹底的に抑えられている。事実主義…とは言っても、本当のところあの機の中で何が起きたかはよく分からないはず。そこを、何とか熱で煽るような作り方をしないように冷静さを心がけた、ポール・グリーングラス監督の力量は大したものだ。むろんそれを支える見事なコンセプトと技術もモノをいっている。ほとんど全部と言っていいほど、無名な俳優と素人で構成されたキャスト。中でも各地の管制センターの人間は、ほとんどが「本人」の出演という徹底ぶり。ハッキリ言うと実話の映画化と言うよりドキュメンタリー・ドラマやセミ・ドキュメンタリーと言っていい。まるでモフセン・マフマルバフなどのイラン映画みたいな、ハリウッド映画としては異例の作り方なのだ。そして目まぐるしく動きまくる手持ちカメラ。絶えずフレームが小刻みに動き、ズームも寄ったり退いたりと忙しい。ピントもズレたりピシャッと合ったり…まるで記録映画のような映像を故意に作り出している。そう言えばポール・グリーングラス監督は一見畑違いの「ボーン・スプレマシー」(2004)においても、手持ちカメラでブレまくる映像を駆使して猛烈なカーアクションを描いていた。あのリアリズムは、今回の映画でこそ十二分に活かされている。本当だったら「人間ドラマ」を描きたくなるところを、あえて徹底的に避けた作り方がかえって効いている。僕らはこの映画の結末を知っているだけに、ますます胸が張り裂けそうな気持ちになっていくのだ。

みどころ

 驚いたことにこの映画では、ハイジャック犯ですら卑小な悪人には描かれない。映画の冒頭が一心に祈りを捧げる犯人たち…というところからして異色だ。おまけにハイジャック犯がなかなか行動に移れない段階では、観客は多少なりとも彼らに「感情移入」さえしてしまう。これは、この種の映画としては極めて異例だろう。しかもクライマックスには、乗客たちはキリスト教の、犯人たちはイスラムの…それぞれの神を必死に祈る。それだけに余計なことを描かなくても皮肉な悲劇が浮かび上がってくる。この映画はあらゆる意味で、あの事件に関わり、巻き込まれた人々への鎮魂歌になっているのだ。まさに見事としか言えない。そして何より注目すべきは、この映画ではテロリストに立ち向かった人々を素直に讃えながらも、決して「自らを犠牲にした英雄」とは描いていない。実は彼らは最後の最後まで、自らが助かる希望を捨ててはいない。その描き方が、この映画を安手のヒロイズムに陥ることから救っている。そこに最大の好感を持った。

さいごのひとこと

  昔も今もカミカゼは吹かず。

 

「ザ・フォッグ」

 (ルパート・ウェインライト監督作品)

 The Fog

Date:2006 / 08 / 21

みるまえ

 ここのところ僕が映画好きになった頃に公開されていた作品が、軒並みリメイクされているのに驚く。「ポセイドン」だの「オーメン」だの「日本沈没」だの…といった具合。今度やって来る「スーパーマン・リターンズ」だって、考えようによってはリメイクみたいなものだ。そんな中、「あのジョン・カーペンターの作品がリメイク?」と驚かされたのが、「アサルト13/要塞警察」(2005)だ。まぁ、何事にも例外というものは付き物だが、リメイクと言えば「名作」「傑作」など一流作品の類と普通は相場が決まっているだけに、カーペンター作品のリメイクには驚いたし違和感もあった。何よりカーペンター作品は、どんなに面白くても「一流」の雰囲気だけは欠落していた。どこかマイナーな味こそが、カーペンター作品の醍醐味だったのだ。ところが世の中変わったのか、またまたカーペンター作品のリメイク作品がやって来る。それも僕が最初に見たカーペンター映画「ザ・フォッグ」(1980)だ。僕は出世作「ハロウィン」(1978)よりもこっちを先に見てるんだよね。この映画を最初に見た時のドキドキ感は、今でも忘れることが出来ない。さて、「アサルト13/要塞警察」は前作には及ばぬものの、これはこれで変えるべきところは大胆に手を入れて、一応楽しめる作品にはなっていた。だが「ザ・フォッグ」はどうだろう? ちょっとこいつは心配なのだが…。

ないよう

 1871年のある夜のこと。沖合に停泊している一隻の大型帆船から、一艘のボートが離れていく。大型帆船には火が放たれ、ボートに乗っている4人の男たちはその様子を怖々見守っている。ところがボートが突然進まなくなり、4人のうちの一人が水中をのぞき込んでいると…突然海の中から手が伸びてきて、のぞき込んでいた男を海中に引っ張り込むではないか…。

 さて、時代は下って現代。ここアントニオ島の港町アントニオ・ベイでは、翌日に控えた街の創立記念日に向けて、街中が華やぎを見せていた。中でも目玉行事は、この街を築いた功労者として知られる4人の男たちを讃える銅像の除幕式。トム・マローン市長(ケネス・ウェルシュ)も街の有力者キャシー・ウィリアムズ(サラ・ボッツフォード)も、明日の準備に余念がなかった。そんなアントニオ・ベイの街に、今日もナイスな音楽と色っぽい声を提供しているのが、地元ローカル・ラジオ局「KAB」の経営者兼ディレクター兼アナウンサーであるスティーヴィー(セルマ・ブレア)。彼女はたった一人で、港の突端にある灯台ラジオ局から放送を続けていた。一方、港の沖合で都会からの客を乗せた釣り船を出しているのは、船の持ち主のイケメン青年ニック・キャッスル(トム・ウェリング)とその相棒のスプーナー(デレイ・デイビス)。ところが彼らが錨を上げて船を出そうとすると、錨が何かに引っかかって猛烈に海底に引っ張られるではないか。間一髪のところで彼らは難を逃れたものの、それが何だったのかは皆目見当がつかない。それでもニックは例のラジオ局のスティーヴィーとの情事を脳裏に思い浮かべて、思い切りヤニ下がる始末。実は彼には深い仲の恋人がいたのだが、彼女は突然数ヶ月前に島から去ってしまったのだった。ところでニックの船の錨が引っかけていたモノは、海底から引きずり出され、アントニオ・ベイの海岸に漂着していた。海岸のゴミを拾って暮らしている浮浪者が見つけた「それ」は、見るからに時代物の懐中時計だ。さて、ニックがスティーヴィーとまたまたシッポリ…などと考えながらクルマを飛ばしていたところ、前方にヒッチハイクの可愛い子ちゃんが一人…。ところがその若い女こそ、数ヶ月前にニックに黙ってこの島を出て行った恋人エリザベス・ウィリアムズ(マギー・グレイス)ではないか。ビックリしたニックはバツの悪さを隠しながらも、せっかく戻って来た恋人のご機嫌とりに余念がない。途中でクルマのガラスがブチ割れるという異常現象が起こり、いきなり顔を出してきたロバート・マローン神父(エイドリアン・ハフ)が訳の分からない事を口走る…という奇妙な事が起きながらも、ニックはエリザベスの事で頭が一杯で気にならない。そしてこのエリザベス、母親との折り合いの悪さには定評があった。例の街の有力者キャシー・ウィリアムズこそ彼女の母親だが、エリザベスが久々に帰宅したとたんに冷戦勃発。元々、エリザベスがこの島に居心地の悪さを感じ続けて来た最大の理由は、このどこか高圧的な母親にある事は間違いない。かくしてニックがエリザベスを自宅に「お持ち帰り」して、恋人たちのヨリを戻す一夜と相成った。その頃、スプーナーとニックの甥のショーン(マシュー・カリー・ホームズ)は二人のビキニ美女を連れて、ニックの船で沖合に繰り出していた。ところがそんな折り悪く、海の彼方から濃厚な霧が発生。たちまち船は霧に取り巻かれてしまう。慌てふためくスプーナーたちは、そのまま血も凍るような怪奇現象に巻き込まれるるのだった…。

みたあと

 あの最高に怖くて面白かった「ザ・フォッグ」のリメイク作品とあって、実は僕の期待値はさほど高くはなかった。例えばもう一本のカーペンター・リメイク「アサルト13/要塞警察」なども、「うまくやったな」と思わされる巧みな改変ぶりにも関わらず、やっぱりどこか見劣りするところが出てきてしまう。ましてこのストレートな幽霊ホラー「ザ・フォッグ」の場合は、どうつくっても大してお話は変わり映えしないはず。だとすると、最初からあまり多くを期待する方が間違いなのだ。お話が破綻しないようにソコソコ退屈しないようにつくってくれれば、この映画の場合は「成功」と言えるのではないだろうか? そもそも…まだまだ低予算ホラーだったオリジナル版「ザ・フォッグ」が、にも関わらずハル・ホルブルック、ジョン・ハウスマン、ジャネット・リーなど充実したキャストを揃えていたのに対して、今回のリメイク版のキャストの貧相さはちょっと気になる。名の知れた役者はレイド・セルベッジアとセルマ・ブレアぐらい。筆頭に挙げられているトム・ウェリングやマギー・グレイスって役者のことなど聞いた事もない。これは期待などハナっからせずに、納涼お化け屋敷にでも出かけた気持ちで見るのが妥当なところだろう。

こうすれば

 そんな低い期待値で臨んだにも関わらず…実はこの映画への評価はかなり厳しいモノにならざるを得ない。概ねオリジナル版と基本のお話は同じなのだが、今回新味を出そうとアレンジを加えた部分が、ことごとく裏目に出てしまったからツライのだ。まず、最大の改変と言えるヒロイン=エリザベスの設定。オリジナルではジェイミー・リー・カーティスが演じたこのヒロインはヒッチハイカーで、たまたまこの港町にやって来た設定だ。ところがリメイク版では何と街で生まれ育った設定であり、しかも有力者の母親キャシーがいる。この設定って…オリジナル版ではキャシーを演じたのがジェイミー・リー・カーティスの実母のジャネット・リーだったという事から思いついたアイディアなのか、はたまた何かのオマージュか(ちなみにオリジナル版ではこの二人は母娘共演を果たしてはいるが、役の上では赤の他人の設定だ)。しかしこの改変がドラマに何らかの面白みやひねりを与えているかと言うと、ほとんど意味がない。実はオリジナル版では終盤まで接点のないニックとスティーヴィーを、意味ありげな仲という設定に変えたのも意味がなかった。ニックという男が女グセの悪いいいかげんな野郎に見える…という、ネガティブ効果しか与えていない。おまけにエリザベスについての改変はこれにとどまらず、とんでもない「生まれ変わり」の役回りにまでされてしまっているから驚いた。そして、この設定が何かドラマに妙味をもたらしているのかと言えば、これまた「否」。ハッキリ言って全く意味がない。しかも、ドラマのスジが通らない。確かに本来の彼女の魂から考えれば、母親との折り合いが悪いのは分かる。だが、それでは彼女がニックと付き合っていたのは矛盾ではないのか。おまけにこのエリザベス絡みの場面がことごとくスベっていて、見ていてイライラしてくる。警察に捕まったスプーナーの無実を証明できるはずなのに、証拠のビデオを水の中に落として恥じない厚顔無恥。おまけに病院の遺体安置室に平気で長居する無神経ぶり。このエリザベスのアホさ加減が気になりだすと、他の登場人物のおかしな点まで気になってくる。「海岸に出るな」と母親にクギを刺されながら、言うことを聞かずにノコノコ出かけるスティーヴィーの息子も、その息子の世話を見ることになっていながらテレビに夢中のオバチャンも、揃いも揃ってバカばかり。オリジナルでは灯台のラジオ局から一歩も出なかったスティーヴィーが今回は息子の元に駆けつけるのは、前作の設定では母親のくせに息子を心配してないみたいに見える…と作り手が思ったせいだろうか。ところがこれがまたまた大ハズシ。前作のスティーヴィーは市民たちに情報を与え続けるという、ラジオ局の使命を全うしているところに意味があった。今回のスティーヴィーはそんな気概も何もなくて、ラジオを放っぽり出して息子探しに奔走。あげく「そうなる事は分かりきっていた」にも関わらず、途中でクルマがエンコするアリサマ。おまけにクルマごと海に転落…と散々。わざわざ灯台から降りて来ながら、まったく役に立たない人物に落ちてしまった。前作ではハル・ホルブルックが堂々と演じていた神父が、今回は最初から挙動不審でヨレヨレなのも意味が分からない。こいつは異変を察知していたという事なのだろうか?

 リメイク版がダメなのは、そんな脚本の設定上のミスばかりではない。一番分かりやすい部分として、ニックとエリザベスが行方不明になっていた船に乗船してからの場面を見ていただきたい。オリジナル版と比較すれば、その演出の不在ぶりがお分かりいただけると思う。ニックとエリザベスのシャワー・ルームでの濡れ場をダラダラ続けるしょうもなさといい、「スティグマータ/聖痕」(1999)のルパート・ウェインライト監督の演出ぶりはかなり落ちると言わざるを得ない。

みどころ

 キャストは全体的に貧相になったと先に書いたが、実際には貧相になったというより子供っぽく幼稚になったというのが正確かもしれない。ジェイミー・リー・カーティスが演じたエリザベスも単なる頭の悪そうな可愛い子ちゃんになっちゃったし、ニックと来たひにゃ頼りがいのある男だったのがイケメン気取りの軽〜いヤサ男。そんな中で唯一いいところを挙げるとしたら、ラジオ局を一人で切り盛りするスティーヴィー役にセルマ・ブレアを起用したことか。元々この役は年増巨乳グラマーのアドリアンヌ・バーボー…が演じていたキャラクター。「ニューヨーク1999」(1981)にも出ていたバーボーは、当時のカーペンター夫人でもあった。それはともかく…「キューティ・ブロンド」(2001)、「ヘルボーイ」(2004)でもイイ味を出していたセルマ・ブレアのどこか暗さのあるお色気が、この役にピッタリだと思ったのは僕だけではないはず。ラジオのマイクにイヤらしい吐息混じりのナレーションを語りかけて、かなり感じを出していた。

さいごのひとこと

 リメイクにもピンから「キリ」。

 

「トランスアメリカ」

 Transamerica

Date:2006 / 08 / 21

みるまえ

 今年のアカデミー賞の主演女優賞候補者のうち、一人だけ誰だか分からない新顔がいた。それがフェリシティ・ハフマン…「トランスアメリカ」の主演女優。その役柄も一際変わっていて、「性転換手術を前に手を焼かせる息子とアメリカ横断旅行に出かける女」…らしい。アカデミー賞のオフィシャル・サイトの英文から僕はそう読み取っていたのだが、実はそれは正しくなかった。それは「性転換手術を前にした“女”」ではなかったのだ。その後、フェリシティ・ハフマンは惜しくもオスカーを逃したが、その映画「トランスアメリカ」はわが国にやってきた。これはひょっとしたら、ちょっと面白い映画かもしれない。面白い映画かもしれないが…。

ないよう

 ロサンゼルスで軽食屋のウェイトレスをしながら、ささやかに一人暮らしをしている中年女ブリー(フェリシティ・ハフマン)。彼女には一つの秘密があった。実はブリーは肉体的には「男」。性同一性障害の彼女は、これまでの人生のうち大半の期間を、男として送ってきたのだった。だが、それももうこれまで。もうすぐ手術を受けて、身も心も女に生まれ変わるのだ。ところがそんなブリーのもとに、ニューヨークから一本の電話がかかってくる。それは、ある若者を捕らえた留置場からの電話。そしてその若者とは、何とブリーの「息子」だった。実はブリーにはかつてたった一度だけ女性と関係を持った事があって、どうやらその若者はその時に出来た子供らしい。保釈金だけ送ってそのまま知らん顔しようとしたブリーだが、彼女のセラピスト(エリザベス・ペーニャ)はそうは思わなかった。ブリーが直接「息子」と対面して引き取って来なければ、彼女の手術の保証人にはなれないと脅すではないか。ならば仕方がない。イヤイヤではあるがニューヨークに飛んだブリーは、拘置所で問題の「息子」とご対面だ。その「息子」トビー(ケビン・ゼガーズ)はなかなかのイケメン。だが、何と「売春」で捕まっているあたりからして、生活の荒みっぷりは明らか。自分を釈放してくれたブリーを怪しんだトビーではあるが、彼女は自分を「教会の人間」だとか適当な事を言って言いくるめた。トビーの母親はとっくに亡くなっていて、今は「父」を探している…というトビー。そんな彼に、ブリーが自分の素性を明かす訳にはいかない。さて、拘置所から釈放させて役目は終わったと思ったものの、このままトビーを捨て置くのは気が退ける。さりとてトビーに郷里に帰るように言い聞かせてみても、実家の義父との折り合いが良くないのか、頑なに拒むばかり。そんなこんなで…ひょんな事からブリーはトビーのダチ公からボロ車を安く買い受け、トビーと二人でロサンゼルスまで旅をするハメになってしまう。何とも噛み合ってない二人の旅の行方は…。

みたあと

 性転換手術を前にした「女」がそれまで存在を知らなかった「息子」と共にアメリカ横断の旅に出るうちに、二人の心の中に不思議な変化が起こってくる…。いかにもアメリカ映画らしいロードムービー・スタイルの作品。題名も文字通り「トランスアメリカ」だ。まんま読みとれば「アメリカ横断」。だが、このタイトルの「トランス」…には性同一性障害=「トランスジェンダー」が引っかけられているのは間違いない。つまり「アメリカを股に掛ける」ことと「二つの性別を股に掛ける」ことを表現しているに違いない。あるいはこの「トランス」には、初めて再会した二人の「親子」が互いの心の壁を「乗り越える」意味も含まれているのかもしれない。そういう意味で、非常にうまいタイトルだ。だが、あまりに明快に理詰めで説明できて…図式的すぎて面白みも含蓄もクソもないような印象も一方ではする。人間や人生やリアルな世界って、そんなクッキリハッキリ見えてくるものではないだろう。もっとボンヤリしてファジーなものではないのか。訳あり親子が旅を重ねて行くうちに互いに理解を深める、あるいはどこか「欠けて」いた主人公が、冒険旅行の果てに成長を遂げる…というのはロードムービーの定石だ。しかも主人公たちが旅するのは信仰心が強くて伝統的なアメリカのハートランド、途中では「先住民族のカウボーイ」という「アメリカの権化」みたいな人物とも出会う。つまり主人公たちを「古き良きアメリカの心」が癒し、導いていくという構想だ。そういうアメリカ映画の定石を僕は決して嫌いではないが、正直言ってこの企画には何ら驚きも意外性も見いだせないとは思っていた。そんなこの映画を凡百の企画と一線を画させているのは、誰が何と言おうとフェリシティ・ハフマンの演技。女に化けた男なら「トッツィー」(1982)のダスティン・ホフマン、「ミセス・ダウト」(1993)のロビン・ウィリアムズらが奮闘していたし、女優が男に扮するという前例なら「危険な年」(1982)でオスカー助演女優賞を得たリンダ・ハントがいる。ところが前者はあくまでコメディの約束事の下で演じた「余興」めいたものだったし、後者は「男」そのものになりきったある種の「明快さ」があった。今回のハフマンの役どころは、性同一性障害で心は女なのに男として生まれ、今また「本来」の女になろうとしている男…という何とも屈折を重ねた役。これを演じるのは尋常な苦労ではなかったはず。しかもそれをちゃんと観客に納得できるように演じたばかりか、愛すべき人物として血を通わせたのは大したもの。ハッキリ言って企画のスタイルとしては性同一性障害の人物を主人公に据えるという一点以外はまったく意外性のない作品(もっとも、この作品の新味はその「性同一性障害の人物を主人公に据える」という点なのだから、狙いは少しも間違ってないのだが)が、どこか頭一つ抜きん出た存在感を持ったのは、間違いなくハフマンの好演によるものだろう。

こうすれば

 そんなわけでハフマンの芝居で面白く見ていけるし、アメリカ映画伝統のロードムービーの定石に乗って安心して楽しめる映画。だが、先にも述べたように…そこが食い足りなくもモノ足りない部分でもある。そしてこの映画では、何から何までささやかで抑え気味だ。ものすごく深刻になったり悲しくもならないし、笑いだってクスクス…止まり。映画のスタイルに驚きも突出したところもない…という点と呼応したような、万事控えめな作り方なのだ。そして、残念ながらそれが災いしてしまったと思えるのが終盤。無事手術を終えた主人公が、見舞いに来たセラピストの言葉に思わず号泣してしまうくだり。おそらく、それまで感情のどこかに壁をつくったりヨロイを着ていた主人公が、「息子」との旅でその自己防衛を解いて感情を露わにした…そんな心を開いた前向きな涙という意味合いで描いているのだろう。ドラマ展開から見れば、そうなるのが自然だ。だが映画だけを見ている限り、あの号泣の意味は漠然としてよく分からない。まさか「女になった事を後悔した涙」と誤解する観客はいないだろうが、それでもあの曖昧さはいただけない。その原因となったのは、おそらく映画の描写や感情表現が万事控えめすぎたことではないだろうか。主人公に限らずすべての登場人物、さらに映画そのものが控えめなので、主人公がどこか感情を抑えてヨロイを着ていると観客には見えなかった。さらにフェリシティ・ハフマンが大好演をしているにも関わらず、その演技設計がほんのコンマ何ミリかでズレていたかもしれない。彼女が演じる主人公が終始人間味があって愛すべき魅力のある人物に観客に見えているので、とても感情表現に問題を持っている人には見えないのだ。これがハフマンの計算ミスか監督のダンカン・タッカーの見当違いかは微妙なところだし、実際のところそれが誤りだったとも言い切れないだけに難しいところだ。

みどころ

 それでも、僕はこの映画のエンディングが気に入っている。ハフマンが自分の父と知って一旦は拒絶した青年が、ある日彼女の家を訪ねてくる。「あんたを許したわけじゃねえ」などとスゴんだ態度を崩そうとしない青年だが、そんな彼にハフマンはさりげなく…しかし決然として告げるのだ。「あなたの汚い靴をテーブルから下ろしなさい」…すると青年は、さっきまでのスゴんだ態度がウソのように大人しく言うことを聞く。たったそれだけ。ボケッと見ていた観客なら何が起こったのか気づかないほどさりげなく、映画はこんなやりとりで幕を下ろすのだ。しかし…実人生を振り返ってみれば、人間なんてそんなものだろう。そんなに「映画」みたいにドラマティックな事など起こりはしない。そんなさりげないちょっとした事が実際の日常だろうし、さりげなくともそれが当人にとっては最大の「事件」だったりするのだ。だとすると、この全編に貫かれた「控えめ」ぶりは正しい選択なのかもしれない。確かにそれが思わぬ誤算を生んではいるだろうが、その「控えめ」ぶりこそがこの映画の最大の美点なのだ。

さいごのひとこと

 三歩下がって歩く控えめさ。

 

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