新作映画1000本ノック 2006年6月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「ステイ」 「春の日のクマは好きですか?」 「ダ・ヴィンチ・コード」 「玲玲の電影日記」

 

「ステイ」

 Stay

Date:2006 / 06 / 26

みるまえ

 この映画、どうもドンデン返しがあってナゾがナゾを呼ぶミステリアス系の映画らしいと聞いただけで、僕の食指をそそった。主演者たちもユアン・マクレガーにナオミ・ワッツ、ライアン・ゴスリングとは豪勢ではないか。中でもナオミ・ワッツは好んでSF、ホラー系の作品ばかり主演しているみたいな人。これはもはや品質保証されたも同然と考えてもいいのではないか?

ないよう

 全速力で走るクルマの車輪が脱輪、たちまち派手な事故が発生する。大破して燃え上がるクルマは、夜のブルックリン橋の上の路上にあった。その横には、呆然と立ちすくむ若い男が一人…。それは精神科医サム・フォスター(ユアン・マクレガー)の夢だったのか。ベッドで不意に目を覚ましたサムの手には、ダイヤの指輪がなぜか握りしめられていた。職場にやって来たサムは、早速その日の患者と対面。それはあのブルックリン橋の事故現場に佇んでいた若い男…ヘンリー(ライアン・ゴズリング)だ。実はヘンリーは元々は知人の精神科医リズの患者だったのだが、彼女はなぜか突然休暇を取ってしまった。そのため急遽サムがピンチヒッターに立ったというわけだ。ところがヘンリーはそんなサムにまったく心を許さない。おまけに、なぜか快晴の日にも関わらず「ヒョウが降る」などと言い出す。ところが昼休みにサムが恋人のライラ(ナオミ・ワッツ)と一緒にいると、突然ヒョウが降り出したではないか。天気予報でもヒョウを言い当てていたモノはなかった。一体なぜヘンリーにはそれが分かったのか? そんな気がかりを、ついついライラに話してしまうサム。実はサムにとってはライラも気がかりのタネ。そもそも彼女はサムの患者で、自殺未遂から救って治療を続けているうちに恋に落ちた関係だ。指輪も彼女のために買ったものだが、サムはなぜかいまだに渡せずにいた。ところがある日、いきなりヘンリーがノー・アポでサムの事務所にやって来る。あげく3日後の土曜日に自殺すると予告するではないか。何とか彼を救わねば…と焦るサムだが、そのうち彼の周辺で奇怪な出来事が起き始める。サムが持っていた指輪にたまたま目を留めたヘンリーは、自分も指輪を買って渡したいと思っていた女がいたと言い出す。またサムが旧知の盲目の精神科医レオン博士(ボブ・ホスキンス)と会っている時に乗り込んできたヘンリーは、いきなりレオン博士を「自分の死んだ父親だ」と言い出すではないか。休暇から戻った知人の精神科医リズ(ジャニーン・ガロファロ)は訳の分からない事をつぶやくばかり。ヘンリーの母親の居場所を突き止めたら、訳の分からない事を言いながら頭から血を流す始末。おまけにヘンリーの愛犬とやらが腕に噛みついてくる。しかも後で保安官に聞くと、ヘンリーの母親は死んでいると言うではないか。何が何だか分からなくなってきたサムも、自分の周囲で同じ事が何度も繰り返したり、時間が錯綜するような奇妙な感覚を覚えるようになって…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 いきなりクルマの大事故。そして目覚める精神科医。ここでライアン・ゴズリングとユアン・マクレガーの顔がCG処理でダブるように画面処理されていたり、普通2人の人物が話し合ってる場面をカットの切り返しで撮る場合の、いわゆる視線の設定の仕方がヘンだったりと…いかにも「ゴズリングとマクレガーは同一人物ですよ」と言わんばかりの演出。こういう映画はミスリーディングがお約束なのだが、最初からいきなりあざといばかりの描き方に、少々辟易してくる。それでも映画の始まりの方は、これから何が起きるのだろう?…と、少々ワクワクしてこないでもない。しかも映画の作り手が、「チョコレート」(2001)の監督マーク・フォースターと「25時」(2002)の脚本家デビッド・ベニオフと聞いて、さらに驚いた。この顔ぶれでこの題材とは、まったくの異色作ではないか。この映画、単なるホラー、ファンタジー映画ではないのか?

みどころ

 見ているうちにたちまちこの映画は「現実か非現実か?」…についての映画らしいと察しがついてくる。何より映画全体がリアリティを持った描き方をされていない。現実と考えるとツジツマが合わない事が多すぎる。何よりナオミ・ワッツが重要人物として出てくるだけで、あの「マルホランド・ドライブ」(2001)が脳裏をチラつかずにはいられない。主人公たちが生きた人間かどうかもアヤシイという気がしてくる。ともかくお話をが進むうちに、アレハンドロ・アメナーバル監督の「オープン・ユア・アイズ」(1997)や「アザーズ」(2001)、ライアン・フィリップ主演の「Re:プレイ」(2003)、ジョン・キューザック主演の「“アイデンティティー”」(2003)、レイトショーで見たホラー小品「レス」(2003)や、大流行の韓国ホラーである「スパイダー・フォレスト/懺悔」(2004)や「猟奇的な彼女」ことチョン・ジヒョン主演の「4人の食卓」(2003)…などなどと同系列のお話ということが分かる。この手の映画はとかく反則スレスレのジャンルで、うまくやったなと感心させられるのも多いが、こりゃイカサマだと頭に来るモノも少なくない。その意味で言えば、この映画はそんなダマされちゃったというイカサマ感が少ないように思う。それはなぜか?

こうすれば

 正直に言うと、この映画は結局何を描いていたのか…僕は未だにハッキリ分かっていない。交通事故を起こし両親と恋人を失い、自らも瀕死の重傷を負ってしまった男=ライアン・ゴズリングの無念さが、その場に居合わせた人々をもイメージとして取り込んだカタチで虚構の世界を創り上げた。つまりは虫の息の男が見た、死ぬまでのつかの間の夢想の世界…僕は一応こんな風に解釈してみたが、正直言って自信がない。それで映画のすべてが説明できるかどうかも分からない。分からないが…実は正直言ってそんな事はどうでもいい(笑)。まるっきり関心がないのだ。この手の映画の場合、主人公の「思い」の切なさが映画の原動力となり見どころとなるのだが、実はその「思い」は観客が感情移入しそうになるユアン・マクレガーの精神科医ではなく、ライアン・ゴズリングの患者の方のモノである…という時点で誤算だったのではないか。しかも、それが見えてくるのはお話もかなり後の方だし、それまでのゴズリングの言動もあまり好感が持てるものではない。だから、結局観客は誰にも感情移入できなくなってしまう。そんな共感も出来ない登場人物たちって…結局、そいつらが死のうがどうなろうが現実のモノだろうが虚構で存在しなかろうが、どうでもいいって事にならないだろうか? 僕は正直言って途中で彼らに関心を失い、お話の展開にも興味を失って、真相もどうでも良くなってしまった。どうやらゴズリングが事故ったのが原因らしいと見当がついた時点で、それ以上知りたい事もなかったからだ。おまけにかなり最初の時点で、この話が「虚構の世界」の物語であると分からせてしまっている。そうなりゃダマされようと何だろうとどうでもいい。元々が大した話でもないし、これでお話への興味を持ち続けるのは難しいだろう。そういや「チョコレート」のフォースター監督の前作は、主人公に全く共感できなかった「ネバーランド」(2004)だ。このつまらなさ、主人公たちの魅力のなさこそ、フォースター監督の欠点が出ちゃった結果ではないのか。ナオミ・ワッツなんて怪しげな雰囲気づくりだけのために起用されたみたい。これだけにはダマされた気がしたよ。

さいごのひとこと

 結末がどうでもよくなったら映画はオシマイ。

 

「春の日のクマは好きですか?」

 Spring Bears Love

Date:2006 / 06 / 19

みるまえ

 韓国の新星ペ・ドゥナを初めて見た時の衝撃は、今でも忘れられない。それはもちろん「ほえる犬は噛まない」(2000)でのことだ。映画そのものも画期的な作品だったが、主役のペ・ドゥナのフレッシュさたるや! 世界にもこんな女優さんは他にいないんじゃないか。こりゃ韓国映画も躍進する訳だ…とすっかり感心。そして次に日本に来た「子猫をお願い」(2001)でますますシビレた。本当にユニークな女優さんだ。もっと彼女の作品を見たい。これだけ韓国映画が盛り上がっていれば、ますます見るチャンスはあるだろう。その時にはそう思っていた。

 ところがそのあたりから…少なくとも日本公開作品を見る限りでは、韓国映画の行く末は危ういモノになってきた。外見上は「韓流」ブームで活況を呈してはいるが、どうも僕には質的に低下しているように見えるのだ。それと同時に、僕がペ・ドゥナを見る機会もどんどん減ってきた。彼女がアクション映画に挑戦…で期待した「チューブ」(2002)は、何ともウェットでキレの悪い凡作。次に入って来たのはパク・チャヌク監督の「復讐者に憐れみを」(2002)だったが、この監督の「オールド・ボーイ」(2003)に懲りていた僕はどうにも食指がそそらなかった。ついでにこの際もう一度言っておくと…僕が「オールド・ボーイ」に辟易した理由は「ハッピーエンディングや勧善懲悪でなかった」からではない。そういう短絡的発想ではない。単に作者の「幼稚」さにウンザリしたからだ。閑話休題、何とペ・ドゥナは日本映画にも進出したが、僕はその「リンダリンダリンダ」(2005)も見なかった。今までは単に見逃したと言っていたが、実はこれにも理由がある。クドクド言いたくはないが、ここは一つだけ、「ブルーハーツである必然性って何なの?」とだけ言っておこう。何だかこのへんのコンセプトが気になるんだよなぁ。そんな訳で、あんなに衝撃を受けたペ・ドゥナなのに、すっかりご無沙汰しちゃってた僕なのだ。で、この映画の存在は「韓流フェスティバル」(笑)だか何だかそんなようなイベントで上映されていたのは知っていたが、正式上映を待ってここまでかかってしまった。久しぶりのペ・ドゥナとの再会。この映画の価値はハッキリ言ってそれに尽きる。

ないよう

 それは…彼女が父親に頼まれて、図書館に美術書を借りに行った時に始まった。彼女の名前はヒョンチェ(ペ・ドゥナ)。父親は三文小説家で、資料として美術書が必要だった。しかしたまたま体調を崩して入院中だったため、ヒョンチェに頼んで借りてきてもらったわけだ。ところがその美術書に、妙な書き込みがあったらビックリ。それもクマの絵にちなんで、「春の日のクマのように、君が愛おしくてたまらない」…てな事を書いてあるから、ヒョンチェはすっかりドキドキしてしまった。そもそもこのヒョンチェ、不細工な訳でもないのにモテない。一緒にスーパーで働く同僚のミラン(ユン・ジヘ)もそこが解せない。実際のところ、彼女は素敵な男の子(オム・テウン)と念願叶ってデートに望んでも、映画館でスルメを食ったり騒いだりで相手はタジタジ。ちょっと風変わりでそこが愛嬌のヒョンチェだが、どうもそれが仇になって恋愛の場面ではシリアスになれない。自分でもそこんとこを何とかしたいと思っているので、例の「春の日のクマ」の書き込みには心ときめいた訳だ。そんな彼女の父親(オ・グァンノク)も、病院で聾唖の女性(キム・ソヨン)を見初めて「オマエ、お母さんが欲しくないか?」などと先走った事を言い出す始末。親が親なら子も子…の典型だ。例の「クマ」の書き込みには次のメッセージが書かれる本の名前と番号が書いてあり、試しに図書館で探してみると続きのメッセージが書き込まれていた。これは間違いない…と鼻息荒くするヒョンチェは、メッセージがゴッホの絵に添えられていた事からこのナゾの男を「ヴィンセント君」と命名。ミランと一緒に「ヴィンセント君」探しの作戦を建て始める。その一方、ヒョンチェはたまたま乗った地下鉄で、かつての同級生の男の子ドンハ(キム・ナンジン)が運転手を勤めているのを発見。旧友との久々の再会に喜ぶヒョンチェだったが、どうもドンハはそれ以上の感情を持っているらしい。勢い余って「ヒョンチェに会いたくてソウルに出てきた」とまで告白するドンハだが、どうもヒョンチェはドンハに男を感じない。おまけに「ヴィンセント君」探しに夢中でそれどころではない。結局ドンハの気持ちもロクに考えず、興味しんしんのミランに彼を「譲ってやる」ヒョンチェだった。ところが図書館で新たなメッセージを読むため本を探していたヒョンチェの前に、あのドンハが現れるではないか…。

みたあと

 韓国映画と言えばかつては泥臭い映画の代名詞だったものが、今ではイケメンと可愛い子ちゃんが大挙して出演している胸キュン・ムービー。おそらく「猟奇的な彼女」(2001)以降の韓国映画は、この路線とホラー映画が主流と言っていいかもしれない。 この作品もまた、昨今の韓流ラブコメ、恋愛映画ブームにすっかりハマったカタチで公開されているわけだ。それだけなら、さすがに僕も恐れをなして見なかった。「純愛中毒」(2002)を見に行った時の韓流オバチャンの洪水に懲りて、この手の映画からは腰が退けてる僕なのだ。この作品も、ペ・ドゥナが出ていなかったら見ていなかったはず。そもそも、その程度の小品だろうと想像はついていた。で、実際に接した作品もまさに小品。可愛らしい恋愛を描いた可愛らしい映画。チマッとしてはいるが、イヤミのない映画ではある。それ以上でも以下でもない。ラストで誰かが病気で死んだりしないだけマシかも(笑)。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 ただし…これって「韓流」ファン以外にオススメできるかと言うと、かなり疑問がわく。内容は典型的「少女マンガ」ストーリー。およそドラマとしては危ういのだ。何しろ図書館の美術書に書き込みしちゃうというのも「いかがなものか」と思ってしまうし、それが目指す相手に届くとも思えない。それを「自分宛てのメッセージ」と勘違いするペ・ドゥナのヒロインの単純さにも呆れる。見ているこっちは最初から「それってホントにヒロイン宛てのメッセージなのか?」と半信半疑だったから、終盤で「やっぱり違いました」と結論づけられたのに唖然呆然。まさか…と思っていた事がそのままオチになってしまうので、思わず口がアングリだ。それに、そもそもこんな事をしている奴そのものが、ロマンティックというより相当精神年齢が低いと思えてしまう。最後に出てきた絵描きのオッサン(「純愛中毒」のイ・オル)がこんな事をやっていたとは、到底思えないのだ。大体、病院にいた聾唖の女性に宛てたメッセージを、どうして一般の人々が利用する図書館の本に託すのか? それがどうして彼女に届くと思ったのか? ぺ・ドゥナの思いこみの根拠の脆弱さだけじゃなくて、この脚本は全体的に相当いいかげんだ。そんな脚本上の致命的な欠陥もさることながら、前半のコメディ・タッチもかなりお寒い。ペ・ドゥナとキム・ナンジンの仲良くしてるやりとりとか、ペ・ドゥナが絵の世界に入り込んだような「夢」の場面とか…少女マンガ的にこれをやれば楽しくなりそうって意図は分かるのだが、イマイチあか抜けてなくてヤボっちい。ハッキリ言って幼稚っぽい。いいトシこいた大人が見に行く映画になってない(笑)。そもそもそれを狙ってないと言えば確かにその通りだが、あまりにあまりのこっ恥ずかしさではないか。これを恥ずかしげもなく見れるのは、いいとこ中学生ぐらいまでだと思うよ。いや、せいぜい小学生かな。

みどころ

 結局何だかんだ言っても僕が見ていられたのは、ペ・ドゥナの魅力のおかげ。彼女を見ていれば飽きない。そういう意味では、ほとんど彼女の持ち味を封印されてつまらない使われ方をした「チューブ」よりは、まだ幾分マシかもしれない。「夢」の場面でとっかえひっかえして出てくる衣装とかスーパーの制服など…恥ずかしさを何とか我慢して見ていれば、ペ・ドゥナのコスプレ・ショーとしてなかなか楽しめるのだ。特に自宅でくつろいでいる場面での寝間着などは、オッサンのエッチ心を少々刺激してもくれる(笑)。正直言って僕はこれだけで元をとったと言えるだろう。

さいごのひとこと

 ついでにセーラーとスッチー姿も欲しかった。

 

「ダ・ヴィンチ・コード」

 The Da Vinci Code

Date:2006 / 06 / 12

みるまえ

 「ダ・ヴィンチ・コード」である。世界的ベストセラーの映画化なんである。それがトム・ハンクス主演、ロン・ハワード監督で映画になると聞いても、僕は原作を読んでないから違和感は全然なかった。むしろベストセラーのハリウッド映画化としては…安定した娯楽作品をつくることで定評がある監督と、その監督と相性が良くてヒットも多い人気スターの顔合わせは、当然と言えば当然と思えた。何でロン・ハワード?何でトム・ハンクス?…と、今まで何本ロン・ハワード作品を見たのか聞いてみたい奴まで口汚く罵っているのを見ると、何でそんなにムキになるのかまるで理解できなかった。ただし、そういう僕も「ダ・ヴィンチ・コード」に期待するかと言えば、その他の「話題作」と称されるハリウッド映画とほぼ横並びぐらいの期待値でしかなかった。ソコソコ面白い映画ってとこだろうと思っていたわけだ。その後、仕事の関係で原作を読まねばならなかったのは誤算だったが、何が何でもコレは白紙で見たい…という程でもなかったから気にならなかった。むしろすでに配役は発表されていたので、ははぁ、この役はオドレイ・トトゥだな、これはイアン・マッケランだな…と楽しんで読めた。楽しんで読めた事は読めたが、正直言って「それほど」の原作でもないというのが僕の印象。だからますます、殊更に騒ぐまでもないような気がした。だが映画版「ダ・ヴィンチ」は今年最大の話題作らしく、反発もデカかった。カンヌでフタを開けて酷評の嵐。日本でも公開になるや、映画ファンの罵倒が飛び交う散々な状態だ。だが、映画ファンがケナす映画は面白い(笑)…というのが僕の持論。ここまでケナされると、逆に見たくなるから僕も天の邪鬼だ。でもこの映画への反応には、何か不健全なものを感じるんだよねぇ。

ないよう

 真夜中のルーブル美術館。その真っ暗で静まりかえった館内を、館長のソニエール(ジャン=ピエール・マリエール)が慌てて逃げ回っている。背後から追いかけるのは法衣を着た白子の修道僧シラス(ポール・ベタニー)。この異様な白子修道僧は、いきなり拳銃でソニエールを撃った。

 一方、パリで講演を行っているのは、暗号学が専門のアメリカ人の大学教授ラングドン(トム・ハンクス)。彼が講演後に著書のサイン会を行っていると、いきなりパリ司法警察のコレ刑事(エチエンヌ・シコ)がやって来る。ルーブル美術館の館長ソニエールが殺害され、その件で話がある…とのこと。ラングドンはこの日、突然ソニエールから会おうという連絡をもらいながら、スッぽかされたばかりだったのだ。そんなラングドンはコレ刑事から現場写真を見せられ、思わず唖然呆然。ともかく警察に連れられ、ルーブル美術館に駆けつける。彼を迎えたのはこの事件の捜査を仕切るファーシュ警部(ジャン・レノ)。だがファーシュ警部はラングドンに対して、最初からまるっきり愛想のない態度で接する。早速館内のソニエールの遺体発見現場へと赴くが、亡骸の置かれ方といい傍らに書いてあった暗号文といい何とも異様な状況だ。しかも、それらは殺人者ではなく、ソニエール自身が瀕死の状態で行ったと聞いてラングドンはさらにビックリ。そんな唖然呆然の最中に、現場にはまだうら若い女性にも関わらずパリ司法警察の暗号解読官のソフィー(オドレイ・トトゥ)が登場。だが彼女はいきなり初対面のラングドンに対して、ひそかに「彼に危機が迫っている」と知らせるのだった。どうもファーシュ警視は、犯人をラングドンであると決めつけているらしい。おまけにソニエールは、ソフィーにラングドンの事を頼んだ形跡もあるのだ。何と偶然な事に、ソフィーはこのソニエールの孫娘でもあった。

 こうした意外な展開から、ラングドンはソフィーと共に警察の目をくらまして、ルーブルから脱出する羽目になる。しかも二人はソニエールの暗号を何とか解読、何とダ・ヴィンチの絵画の陰に隠された「カギ」を行きがけの駄賃として入手した。カギの正体を知ったラングドンとソフィーは、パリ警察の捜査の網をかいくぐってチューリッヒ保管銀行パリ支店へ。そこに保管されていた小さな木箱を金庫から取り出して、支店長のヴェルネ(ユルゲン・プロホノフ)の手を借りてトラックで脱出した。だがヴェルネも途中で態度を豹変。あわや木箱が奪われる危機に見舞われたが、何とかヴェルネの手からも逃れた。ここまで窮地に追い込まれると、さすがにラングドンとソフィーの二人だけでは手に余る。おまけに二人の手中にあるものは、キリスト教の根幹を揺さぶりかねないシロモノだったのだ。ラングドンはパリ近郊の城に住む変わり者の英国人であり、宗教史学者でもあるティービング(イアン・マッケラン)の協力を得ることにした。だがその頃、過激なカトリック組織のひとつ「オプス・デイ」の代表者であるアリンガローサ司教(アルフレッド・モリーナ)は、シラスに新たな指示を出していた…。

みたあと

 実際のところ、映画ファン的にはコレはブッ叩いておくともっともらしいのだろう。ネット上の感想や批評でもナントカのひとつ覚えみたいにそんな事ばかり書いてある。言わば「嫌われ松子」の極北にあるのがこの映画だ。ただケナしの理由を見てみると、何となく映画のフタを開ける前から想像できたような理由なんだよね。これって、実は見る前から評価が決まっていたからではないのか?

 僕はズバリと本音を言わせてもらうが、結構面白いではないか。

 何であれだけ痛罵されているのか分からない。原作を駆け足で語るのに精一杯と言うが、おそらく原作ファンは原作ファンであれでは足りないと言うだろう。だが、そもそもディティールなんて分からなくていいのだ。どうせ大した暗号ではない(笑)。結局映画を見終わった時点で、全体のナゾや陰謀が何で、犯人が誰で、お宝は何なのかが分かればいいのではないか? 大体が他のミステリー映画を見たときに、みんな隅々のディティールまで分かっているのか? 他の映画ではそんな事をガタガタ騒ぐまい。何で「ダ・ヴィンチ・コード」でだけ騒ぐのか? そもそもロン・ハワードという職人肌の監督が手がけた段階で、この映画は破綻なくソツなく完成するのは決まったも同然。入場料ぶんだけは必ず楽しませてくれるはずなのだ。僕はそれなりに楽しんだし、お話も分かった。原作を読んでいたから…ではないと確信している。だって隅々まで分かる必要はないんだから。実際に酷評している連中だって、アクビが止まらなくて困っただろうか? 別に退屈はしなかっただろう? 言っている事があまりにくだらなくて怒り心頭になったか? すごくイイ映画とも面白いとも思わないけど、そんなに口からツバ飛ばして親の仇みたいにケナすような映画かね? これをケナさないと映画「通」的にはマズイのか?

 思い起こせばアントニオ・バンデラス主演の「抹殺者」(2000)もキリストにまつわるトンデモ話なのだが、今回の作品はアレみたいにどうでいい事をモタモタ描いてもいない。「抹殺者」のカッタルさを考えれば、「ダ・ヴィンチ・コード」はかなり面白い映画に思えるよ。

こうすれば

 まずこの映画がケナされた背景は、アメリカ・ハリウッドの大金を使った娯楽作で、マスコミにさんざ露出している話題作で、トム・ハンクス以下スターをズラリ揃えた豪華な作品だからだろう。映画の出来とは関係なしに、それだけで気に入らないという人々がかなり多いはずだ。また、話題作をケナすと映画ファンとしてのグレードが上がったと錯覚する連中も大勢いる。では、カンヌで酷評された訳は?…と問われれば、これまでカンヌで好評だったアメリカ娯楽大作があったか?…と問い直したい。昨年の「スター・ウォーズ/エピソード3」(2005)のカンヌでの好評はそんな数少ない例外だが、ブッシュ政権のイラク介入批判映画としてウケたという事を思い起こしていただきたい。フランスはアメリカのイラク攻撃に反対していた国だ。映画の内容以外の要素も大きく働いていた可能性がある。転じて「ダ・ヴィンチ」は事件がパリのルーブル美術館で起きて、前半はフランス俳優を多く起用したパリ場面で構成されている。ここで僕らは、今まで日本を舞台にしたハリウッド映画に日本人がどのように反応したかを思い出そう。絶対にハリウッドには外国をキチンと描き切ることはできないし、また描かれる方もそれに必要以上に過敏になるはずだ。そこでどうしてもお話の本筋ではなく、どうでもいい重箱の隅をつつく事になる。つまり、扱いがフェアになり得ないのだ。あとは原作ファンの感情的攻撃…。

 だが、そもそもこの原作は大したお話ではない。アメリカ人がパリのルーブル美術館とかを物見遊山するような、「お上りさん」感覚のミーハー小説…そこにトンデモ学説が混ぜてあるようなシロモノ。こけ脅しばかりのハッタリ小説だ。そもそもダ・ヴィンチなんてあんまり関係ない(笑)。上下巻あるハードカバー版の原作で読むと、下巻ではオチやドンデン返しを読者に先に読まれてしまうくらい。ミステリーとしてもイマイチだし、そもそも真面目に受け取ったり議論する類のモノではない。ハッキリ言って、原作よりも映画の方がお話のレベルは上がっていると思うよ。あっちの方がトンデモの度合いが強い。こっちはいくらかお話の品格が上がってさえいるような気がする。

 トム・ハンクスがダメと言われているが、原作の主人公自体が個性もハッキリしないし魅力的でもない。つまり「主役」が張れるスターならハリソン・フォードだって誰だっていいような役だ。大体がそれほどのキャラクターじゃないだろう。唯一僕が違和感を持ったのはオドレイ・トトゥで、これはもうちょっと大人の感じがする女優さんを想定していた。だが映画を見た今となっては、これはこれで正解。「女の子」的幼さを残した女優さんを起用して、一種の健気さを出したかったのだろう。さすがに映画のプロなんだから、そこらの無責任なド素人ファンよりいろいろ考えてるよ(笑)。

 ただロン・ハワードというハリウッドの職人的監督が手がけた事によって、逆に個性的な出来映えやユニークさは期待できなくなった。この人の映画は、良くも悪くもハリウッドのコモンセンスを代表しているところがあるからだ。そこがモノ足りないという人はいるかもしれない。ただし…その点こそが、この映画の最大のミソなのだが。

みどころ

 元来がアメリカ人のヨーロッパ・コンプレックスをくすぐる「お上りさん」小説。そこにトンデモ話がブレンドしてある。このままではかなりエグいし安っぽいところもあるお話なのだ。世界に流通するハリウッド製エンターテインメントとして作り直すには、ある程度の品の良さと常識、そして娯楽映画の作り手としての確かな腕が必要になってくる。それをすべて兼ね備えた人材が、ロン・ハワードだったのだろう。「ラブINニューヨーク」(1982)や「スプラッシュ」(1984)などのコメディから、「バックドラフト」(1991)、「アポロ13」(1995)、「ビューティフル・マインド」(2001)、「シンデレラマン」(2005)といったシリアス・ドラマまでオールラウンドに手がけ、どれも一定水準の娯楽作品に仕上げるハワード作品の共通性を問われれば…それは「品の良さ」という事に尽きるだろう。そして極端に偏らずいつも常識のセンで語るから、どれも安心して見ていられる。そこがつまらないとか凡庸とか言われても、今回の題材はそれを必要としていた。原作に「品格」が欠けているからだけではない。テーマ的にキリスト教の際どいラインに触れているのがその理由だ。僕ら日本人にとってはどうでもいい事だが、これってキリスト教徒にはまるっきりシャレにならない題材かもしれない。だからロン・ハワード作品の持つ中庸さや常識性が、この映画にはどうしても必要だったのだろう。アメリカの「国民的俳優」トム・ハンクスの起用にも、たぶん同様の配慮が感じられる。世界配給されるハリウッド娯楽作品としては、これは避けては通れない選択だったのだ。逆に言うと、常識的で人気と実績のあるスターだったら誰でも良かった。

 脚本も「ただ原作を駆け足でまとめただけ」で、「映画としての工夫はまるでない」とまで言われているが、そりゃどうだろう? 実は映画では原作よりも、主人公ラングドンはティービングの極端な「トンデモ説」に反発の色を強めている。ティービングの城で最初に話をする場面で、ラングドンが語る一つひとつにいちいちラングドンが突っかかるあたりを見て欲しい。あれは極論にはしりがちな原作の主張を、少しでもやわらげるためにとられた工夫のはずだ。

 さらにウエストミンスター寺院での映画最大のヤマ場をはじめとして、原作の筋書きをちょっとづつズラしてある部分も何カ所かある。そこでは原作をすでに読んだ人間でも楽しめるように、ちょっとした細かいアレンジが施してあるのだ。

 そもそも、ラングドンが閉所恐怖症であるという設定の使い方はどうだ? 情けない事に僕はすっかり忘れていたのだが、確かに原作中に閉所恐怖症の設定はあった。ただし、あっても大して強調はされていなかった。ほんの小さな扱いだったのだ。ところがこの映画では、これが非常に大きな要素となって出てくる。何度も何度も繰り返し強調されたあげく、これが…ささやかな「小さな奇跡」としてシャレた結末につながってくる。ここは映画ならではの工夫だと言っていいんじゃないか?

 ハッキリ言って原作なんてどうでもいいし、この映画が今年最大の作品とも傑作だとも思わない。確かに終盤をはじめとして冗漫なところも多いし、ストーリーを語りきるのにエネルギーを費やされている点も少なくない。すごく面白いなどと言う気もない。だが娯楽映画としてはフツーの出来ばえで、決して憎しみを込めてコキ下ろされるような映画ではない。みんながみんな安易な方向に流れるってのは、いい事じゃない気がするんだよね。

さいごのひとこと

 右へならえの酷評は何かの暗号なのか?

 

「玲玲の電影日記」

 梦影童年 (Electric Shadows)

Date:2006 / 06 / 05

みるまえ

 チラシはだいぶ前から見かけていた。どうも女の年代記というか母と娘の年代記モノに、映画が絡んでいるらしい。となると、「ニュー・シネマ・パラダイス」以来の映画ファンのツボ。「ニュー・シネマ・パラダイス」はジュゼッペ・トルナトーレのいささか反則技っぽいテクニックで無理矢理泣かされるようで若干不快感が残るものの、やっぱり映画ファンとしては見逃せない。しかもこちらは、まだ中国が西側にとって「知られざる国」だった文革当時を背景にしているようだから、出てくる映画も僕らが見ることの出来ない貴重品ばかりだろう。このあたりも興味津々だ。唯一気になるのは時代背景が時代背景だけに、今さら…というのはまことに不謹慎ではあるが、一頃延々と見せられた「文革恨み節」映画になっていること。確かに言いたい事は分かるのだが、イマドキそれを以前と同じようにやられたら、映画そのものの鮮度が落ちて見えてしまいそうだ。それらとは一線を画している事を祈る。

ないよう

 孤児上がりのマオ・ダービン(シア・ユイ)は、大都会・北京で生計を建てるのに必死。自転車に乗っての水の配達で、何とか日銭を稼いでいた。そんな彼の唯一の楽しみは映画。一本の映画を見るのに4日ぶんの稼ぎを注ぎ込むほど、彼は映画にのめり込んでいる。その日も彼は自転車を飛ばして、大好きな映画を見に駆けつけるところだった。ところが狭い路地に散らばったレンガに車輪を撮られ横転。その拍子に、脇に積んであったレンガの山を崩してしまった。慌てて起きあがったダービンだったが、なぜか若い娘(チー・チョンヤン)が飛び出してくる。こともあろうに、この娘はいきなりレンガを掴んでダービンの頭を強打。負傷したダービンは、その場で思わず失神してしまうのだった。気がついてみると病院で治療中の身。「一体何があったのか?」と警官たちに聞かれても、彼だって何が何だか分からない。一方、ダービンを殴打した娘は警察に拘留されていた。連日あれこれと取り調べを受けていたが、彼女は何も答えようとしない。業を煮やした警官たちが取調室から出ていった時、たまたま扉を開け放してしまった。そこにちょうどダービンが、仕事をクビになったりケガして治療費を請求されたり…の苦情を申し立てようとして、開いた扉から例の娘の姿を見つける。さすがに怒ったダービンは、取調室に乗り込んで文句を並べ立てるが、彼女はまったく反応しないではないか。それどころか、やっと彼の存在に気づくや紙にメッセージを書き始める。「私は耳が聞こえない」「金魚にエサをやって」「卵の黄身だけをやって」…何でそうなるのか分からないが、彼女からいきなりカギを渡されてしまってはイヤとは言えない。またこのダービンも、そんなお人好しの男だったわけだ。こうして無理矢理彼女の部屋に行くハメになったダービンは、そこで思わぬモノを発見する。何と彼女の部屋とは…壁一面に貼ってある古い映画のスチール写真やポスター、床に据え付けられた映画館のシート、そして古い映写機やフィルムのリール。さらには無数の古い映画のDVDやVCDに、それを上映するプロジェクター・タイプのプレーヤー…つまりはちょっとした古典映画のためのホームシアターだったのだ。これは今までツイてないとボヤいていたダービンにとっては、何よりのご馳走。例の娘に約束した金魚のエサをやりながらも、古い映画を次々と制覇して至福の時間を過ごしていた。ところがそのうち、部屋の中に積んであった品々の中から、一冊の日記帳を見つけるダービン。それは、あの娘の思い出を綴った帳面だった…。

 1971年、中国の田舎町でのこと。彼女の母親チアン・シュエホア(チアン・イーホン)は、村の有線放送のアナウンサーとして羨望の的。だが若く輝く美貌の持ち主である彼女は、映画スターになることを夢見て地元の劇団にも参加していた。ところが…そんなシュエホアは若い有力者と知り合い、恋に落ちる。それが思わぬ結果をもたらすのは間もなくのこと。放送中に激しいつわりによる吐き気を催した彼女は、慌てて禁制の戦前映画スターの歌のレコードをかけてしまう。当時は文革華やかりし頃だっただけに、危うく「反革命」のレッテルを貼られるところ。それは辛くも免れたものの、シュエホアを妊娠させた男は慌てて彼女を捨てて逃げ出した。進退窮まり女優の夢も捨てきれなかったシュエホアは、地方で秘かに子供を産んで里子に出すことを決意。旅立ちの前の最後の映画として、村で野外上映のアルバニア映画を見に行く。ところが、これがマズかった。見ているうちにいきなり産気づくシュエホア。結局彼女はその場で出産。娘のリンリンが生まれたことで、すべては白日の下にさらされることになった。時は文革真っ直中だっただけに、周囲から激しく「反省」を強いられるシュエホア。だが彼女は相手を明かさなかった。周囲はそんな彼女を情け容赦なく責め立て、仕事も住まいも奪い取った。すべての望みも消え果て疲れ切ったシュエホアは、死を選ぶことを決意。たまたまその日、好評につき再び上映のアルバニア映画を見て、命を絶とうと決心する。だが映画を見ているうちに、あくまで抵抗するパルチザンのヒロインに心酔。まるでその精神が乗り移ったかのように、終始彼女をイビってきた共産ババアをブチのめした。この日から、彼女は力強く生きていこうと決めた。

 こうして母娘の生活が始まった。やがて少女となったリンリンは、母娘を何かと面倒看てくれる野外映画の上映技師パン・ターレン(リー・ハイビン)のおかげで映画好きの女の子に成長していた。

 上映技師のパンは、シュエホアが産気づいたあの夜も彼女を気遣っていた。実はこの男、陰ながら彼女に心を寄せていた。シュエホアにとってツライ日々も、彼はずっと彼女を支え続けていたのだ。そこでシュエホアとリンリン母娘は、毎日のようにパンの仕事場に入り浸ることになる。そこは元々映画好きだったシュエホアにとっても、どこか心浮き立つ場所だった。

 そんなリンリンの前に、いたずらっ子の転校生マオ・シャオビン(ワン・チャンジア)が現れる。文革も終わったこのご時世にも関わらず汚い人民服を着せられ、場違いなデカい双眼鏡を首からぶら下げ、青っぱなを垂らしているワルガキのシャオビン。まず手始めにパンが上映しようとしていたフィルムを盗み出して、地べたに放り出す。次には近所のガキどもの戦争ごっこに入りたくて、リンリンを捕虜として縛り上げた。ただしこいつ悪い奴でもないらしく、後でコッソリとリンリンの縄をほどいてやる人の良さもあった。だがこの一件がシャオビンの父親にバレて、彼は粗野な父親にしたたかブン殴られることになる。逃げ出すシャオビンに父親が投げつけた言葉は、「二度と帰ってくるな!」。実はシャオビンの父親は妻を亡くした後で若い女と再婚し、その継母のせいでシャオビンにつらく当たっているのだ。あまりのひどさに見かねたリンリンは、シャオビンを自宅に連れ帰った。母親のシュエホアもそんなシャオビンに同情して、彼をずっと面倒を見ることにした。この時期は、リンリンにとって永遠に続いて欲しい「至福の時」だった。だが、物事には何でも終わりがある。ある日突然シャオビンの父親がシュエホア・リンリン母娘の家にやってきて、シャオビンを連れて行った。彼も母娘に迷惑がかかっては…と、大人しく去って行った。リンリンに大切にしていた双眼鏡を渡して…。

 ここに至って…あの娘の日記を盗み読んでいたマオ・ダービンは、運命のいたずらを感じずにはいられなかった。何を隠そう、マオ・ダービンこそ彼女の日記に書かれたマオ・シャオビンの成長した姿。何の運命のいたずらか、彼はこの北京で幼なじみリンリンと再会していたのだ。だが美しい娘に成長していたリンリンは、警察によると耳が聞こえないだけでなく精神を病んでいるという。あれから彼女に一体何が起きたのか? しかも、いきなりダービンにレンガで殴りかかって来たのはなぜだろう?

 実はこの部屋のベランダには、少年時代のダービン=マオ・シャオビンからもらった懐かしい双眼鏡が据え付けてあった。それを覗いたダービンは、そこに思いがけないものを見つけて驚く…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 回想場面が始まるといきなり文革時代のお話で、案の定共産ババアが幅を利かせていたからイヤになったが、実は文革時代はこのエピソードまで。少女リンリンが活躍し始める頃には文革は終わっていたから、例の「文革恨み節」を延々見せられずに済んだ。

 ドラマの核心には常に野外映画館があって、その上映技師が主人公と密接な関わりを持っていることから、お話は映画ファンにはこたえられない「映画のための映画」の様相を呈してくる。この映画をつくった監督デビューしたての女性監督シャオ・シアン(小江)は、脚本も手がけているだけあって映画が好きなんだろう。そんな彼女の映画への愛情に僕は共感してしまうし、やっぱりこの手の映画には抵抗できない魅力を感じてしまう。なになに?…この映画を制作者としてバックアップしているのは、「つきせぬ想い」(1993)、「ワンナイト・イン・モンコック」(2004)、「忘れえぬ想い」(2003)を撮ったデレク・イーことイー・トンシンだって? なるほど、いい感じの作品なわけだ。こりゃ傑作かなぁ…と、見始めるや早くもそう思ってしまう僕だったが…。

こうすれば

 映画ファンにとっては実にいい気分な、作り手の「映画に対する愛」もあふれんばかりの作品。それだけで大いにホメたいのは山々。しかし途中まで見ていくうちに、僕はいささか当惑を感じずにはいられなくなった。劇中でヒロインと離ればなれになった男の子が実はこの映画の語り手の青年の少年時代の姿だった…といきなり説明されても、あまりにご都合主義ではないか。こんな間柄の二人、こんな別れ方をした二人が、こんな唐突にラッキーにも出会ってしまうものなのか?

 そういえば映画が始まったばかりの段階でも、何となく無理な設定だなとは思っていたのだ。警官が「たまたま」取調室の扉を開けっ放しにして出て行き、そこに「たまたま」語り手の青年が通りかかり、ヒロインの女の子に文句を言っていたら逆に金魚にエサをやってくれと頼まれる。…もう、これだけでも無理に無理を重ねた設定だが、何だか分からずいきなり殴りかかって来た娘の頼みを、驚いた事に語り手の青年は「たまたま」聞き届けてしまう。これもちょっとあり得ない。こうして娘の部屋にやってきた青年は、「たまたま」映画ファンだったのでホームシアターに夢中。あげく「たまたま」娘の日記を発見して読みふける…。並べていくのも不毛だが、これではさすがにムチャ過ぎるではないか。

 回想場面の中でも…いくら可愛そうとは言え、人の家の子供を他人が勝手に育てていいのか?…と疑問が山積。ちょっとばかりこの脚本は、ご都合主義でいいかげんではないかい? 冒頭いきなりのトラブルと共にナゾの女の子が青年の前に出現、突然殴りかかってくるくだりも、確かに導入部としてナゾがナゾを呼んでググッと引き込まれるが…後で真相を知るとこれも無理がある設定。いかにも意表を突くイントロ設定をつくろうと、頭でこねくり回した感じが濃厚なのだ。キツイことを言わせていただければ、不自然すぎる。不自然がゴツゴツとムキ出しになりすぎてる。

みどころ

 だから、とてもじゃないが他の人々に「この映画を見ろ」とは勧められない。勧められないが…しかし、やっぱり嫌いにはなれない。何しろ昔の野外映画上映の風景が、それらがテレビに駆逐されて消えていく様子が、何とも懐かしくも哀しいからだ。実は僕は「野外上映」なんて見たことはほとんどないし、映画の没落に郷愁を感じる世代ではない。それなのに、何でこんなに懐かしいのか?

 もっと不思議なのは上映されている作品たちで、文革時代のプロパガンダ映画や聞いた事もないアルバニア映画などが…なぜか何とも懐かしい。むろんこれらにワクワクしてしまうのは、未知の作品にときめいてしまう映画ファン的心境が強く働いているのだろう。劇中に出てくる映画でも…マオ・シャオビンが好きな「鉄道遊撃隊」なる抗日ゲリラ映画の、ミニチュア特撮も絡めたアクション場面の数々には見たくて見たくてたまらなくなったし、ヒロイン一家に決定的悲劇が訪れる夜に上映される「小街」は、一種の青春映画らしくてこれまた興味津々。ここ最近ショウ・ブラザースの旧作映画などにドキドキしっぱなしの僕には、何とも見たい気持ちを抑えかねる作品群だ。

 だけどそれって…「懐かしい」ってのとは別モノの感情のはずだろう。なのに僕には、それらは懐かしくて懐かしくて仕方がなかった。それというのも、作者であるシャオ・シアンの感情がちゃんとフィルムに刻印されているからではないか。

 僕には文革も出産も結婚も何もなかったけれど、流れた時の長さとそこで起きたさまざまな楽しいこと哀しいこと…楽しかったことが終わりを告げてしまった哀しさ…は確かに存在した。そんな人生の場面の傍らには、いつも映画があった。その点では、この映画の主人公たちと何も代わりはしない。共産党プロパガンダ映画や抗日ゲリラ映画や垢抜けない青春映画の代わりに、僕には「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」(1997)や「M:I-2」(2000)や「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)があっただけだ。そこに何の違いもありはしない。

 出てくる登場人物たちも、リンリンとマオ・シャオビン(大きくなった時のダービンも含めて)、リンリンの母親シュエホアや映写技師のパンなど…どれも好感の持てるキャラクターばかり。脚本・演出にキャスティングを含めて…これらの「気持ちのいい」人物の造形だけは、間違いなくシャオ・シアン監督は成功している。観客が味方したくなる人物…見ていて彼らの幸福を祈りたくなる人物ばかりだ。そして、何より彼らは「映画ファン」なのだ。

 だから、彼らの運命は人ごととは思えない。そして大団円で彼らが再び一同に会する幕切れを、僕は「ご都合主義」と笑えない。この幸福感溢れるエンディングを、他の誰かがしたり顔でケナすのも見たくないのだ。そういう「映画通」は醜い。僕にはそう思える。

さいごのひとこと

 映画が本当に好きな「映画ファン」だけ見て。

 

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