新作映画1000本ノック 2006年5月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「隠された記憶」 「ぼくを葬る」

 

「隠された記憶」

 Cache (Hidden)

Date:2006 / 05 / 15

みるまえ

 「ピアニスト」(2001)のミヒャエル・ハネケの新作である。「ピアニスト」を見た人なら、この人の映画の気の滅入りそうなヒリヒリした感覚は覚えているはず。しかも今回はチラシによると、いきなり送りつけられた盗撮ビデオに怯える夫婦の話とある。何となくミステリー・サスペンス・タッチの映画らしい。ちょっと面白そうではないか。おまけにチラシにはこうも書いてある。「ラストカットに全世界が震撼」…こんな文句は普通の娯楽映画なら掃いて捨てるほど使われているが、この手の宣伝文句がミニシアター映画に使われたらご用心。あのマノエル・ド・オリヴェイラの「永遠の語らい」みたいに、文字通り「ラストカットに全世界が震撼」ってこともあるではないか。これは絶対に見なければ!

ないよう

 延々と我が家の外景を2時間にわたって撮影したビデオ…それが、ある日ジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)と妻のアン(ジュリエット・ビノシュ)の家の前に置かれていた。一体誰が、何のために? そのビデオは気味の悪い絵にくるまれ、何度も何度も送りつけられるようになった。その絵とは子供の描いたような稚拙さながら、口から血を吐く人物を描いた気色悪いシロモノだった。やがてその気色の悪い絵を描いたハガキが、ジョルジュの職場や幼い息子ピエロ(レスター・マクドンスキ)の学校にも送りつけられる。友人たちを招いての夕食会の最中にも…チャイムが鳴らされ外に出てみると、玄関にビデオが置いてある。ところがこのビデオは違っていた。何とジョルジュの田舎の生家が映っているではないか。これで気になったジョルジュは生家に一人住む老母(アニー・ジラルド)を訪ねるが、事の次第を明かせる訳もない。やがて、ビデオはある町の団地の一室を映し出した。これにはジョルジュも心当たりがあるらしく、この一室を訪ねてみると言い出す。その「心当たり」を打ち明けないジョルジュにキレるアンだが、彼は断固として黙ったまま。コッソリと例の一室を訪ねてみた。するとそこにいたのは…幼い頃の旧知の人物、アルジェリア人のマジッド(モーリス・ベニシュー)だった。かつてマジッドは、ジョルジュの生家の使用人の子として暮らしていた。そしてジョルジュは、このマジッドに何か後ろめたい事があるようだ。それゆえジョルジュは、ビデオ脅迫はマジッドのせいだと確信。「知らない」と主張するマジッドを無視して、「今度何かあったら後悔させてやるぞ!」と脅しに脅した。

 ところがその夜、息子ピエロが帰って来ない…。

みたあと

 ストーキングとかビデオ、メールなどハイテクを駆使したこの手のイヤがらせや犯罪は後を絶たないし、実際に問題になっている。僕だって迷惑メールやいわゆる「荒らし」の被害に遭っているから、映画で描かれた話はシャレにならない。おまけに挑発され誘導され、まんまと敵の術中にハマるあたりも秀逸。実にありそうな話なのだ。このへん、普通にサスペンス・ミステリーとして楽しめる。結構グイグイと引き込まれる。ヤバイ状況に追い込まれるのが分かる。

 だが主人公のオートゥイユが、ドツボにハマるのが分かり切っているのにどんどんバカな振る舞いをするあたりから、何となく見ていてイライラさせられる。いろいろ事情はあるにせよ、ちょっと迂闊で愚か過ぎるのだ。だから自滅とも言える展開に、同情したり愕然としたりするよりイラ立ってしまう。オートゥイユの「旧悪」よりも、そっちの迂闊さの方がイライラさせられる。実際はこの作品の狙いはそんなところになくて、無邪気な悪意が巻き起こす波紋とか、「持てる者」と「持たざる者」の関係、ブルジョアの夫も妻もいい人ぶってるけど実は偽善者…みたいなところにあるのは間違いない。だが見ている側としては、オートゥイユってどうしてこうバカなの?…という気持ちが先に立ってしまう。実はこのせいもあってか、「犯人は誰なのか?」についてもどうでもよくなってしまう。実際に映画の狙いもそこにはないから、犯人は誰でも良くなってしまうのだが…。実はここでぶっちゃけて告白すると、例の「ラストカットに全世界が震撼」ってやつを僕は見落としてしまったのだ。「ありゃ何だ?」とかボケッと思ってたら映画が終わってしまった(笑)。何があったのか分かってなかった。後でパンフとか読んだら、ちゃんと「真相」らしきものが映っていたらしいのだが、でもそれってどうでも良かったんじゃないだろうか。ハッキリ言ってあの延々ダラダラと撮りっぱなしのラストカットって、作り手もわざと分からないように撮っていたみたいだ。だったら、その腰の退け方って何なんだ。おそらく大半の人は分からないんじゃないか? それとも分からなかったのってオレだけ? オレってバカ? そっちの方が僕にはショックだ(笑)。

みどころ

 出演者はオートゥイユの夫にビノシュの妻、おまけに懐かしやアニー・ジラルドの祖母という豪華な顔ぶれ。

 映画も前半部分に関して言えば、かなり怖くて緊迫感があって目が離せない。結構よく出来てて感心。さらには中盤を過ぎて思わず「アッ!」と声を上げてしまうような、トンデモない一瞬がある。何だか分からない「衝撃のラストカット」なんかよりも、よっぽどサプライズ。これには正直言って、主人公ともどもビックリ。これは相当に驚かされた。この一瞬のビックリのためにも、この映画は見る価値有りと言えるかもしれない。だから、元は取れてるんだけどネ(笑)。

 あと、この映画って例えば「スター・ウォーズ/エピソード3:シスの復讐」(2005)とか「コラテラル」(2004)などと同じようにデジタル・ハイビジョン撮影されたものだ。画質をよく見ていて気づいた。今回ビデオ画面やテレビ画面が多用されているために導入したのだろうが、こういう作品にも使われるようになったのか…と、ちょっと驚いた。

こうすれば

 サスペンス映画として途中まですごく面白かったし、途中のビックリ一発芸には驚かされたけど、そもそもハネケはサスペンス映画をつくるつもりもない。犯人や真相を説明する気もない。で、語りたいのはフランスにも階級差があるよ…とか、人種差別があるよ…とか、人は無自覚の悪意を持っているよ…とか、キレイな顔して実は裏では結構みんな汚い事やってるよ…とか、そんなことだとは分かる。だが、それらはすでに手あかにまみれて何度も聞かされたような話に思えて、「はい、そうですか」と素直に聞く気になれない。あまり衝撃も受けないし共感もしない。その理由をまず一つ挙げるとすれば、モロモロの告発を「卑怯なストーカー」の側からしちゃったからじゃないのか。もう一つは、そんなストーキングを応援してまで「善良ぶった市民」や「ブルジョア」をコキ下ろしているハネケ氏自身が、自らのポジションをどこに置いているのか分からないこと。そもそもハネケ氏自身がこんなビデオ送られたらどうするの? ならば最初からこんなつまんない問題意識を持ち出さず、純粋にサスペンス映画として撮った方が良かったんじゃないか? 「衝撃のラスト」を撮っておきながら、最後まで「“単なるサスペンス映画”を撮ったんじゃない」と言い訳タラタラのケツの座らなさが何とも男らしくなくて残念だ。

さいごのひとこと

 ハネケも叩けばホコリくらい出る。

 

「ぼくを葬る」

 Le temps qui reste (Time to Leave)

Date:2006 / 05 / 15

みるまえ

 フランソワ・オゾンの新作である。一時期、「まぼろし」(2001)、「8人の女たち」(2002)、「スイミング・プール」(2003)と続いた時には、確かに「いま、オゾンが“来て”る」って感じだった。ミニシアターは満員御礼だった。そして、今はオゾンは「大家」になった。相変わらずミニシアターは満員なんだろう。でも、何となく一時期よりは潮が退いた気がする。あの頃はアンチの人でもオゾンを熱く語ってた気がするが、今はあまりみんな関心ないみたいだ。そういう僕も、実は前作「ふたりの5つの分かれ路」(2004)は見逃してしまった。深い意味はなく単に見逃しちゃっただけ。もっとも、この映画って何となくイヤな予感もしたんだが。そんなオゾンの映画がまた来る。死期が間近いことを宣告された男のお話。ってことは、これはオゾン版「生きる」になっちゃうのか???

ないよう

 花のパリーでオサレなカメラマン…もといフォトグラファーとして頭角を現し始めたロマン(メルヴィル・プポー)は少々傲慢な男だが、それが許されちゃうカッコよさと才能。今日も今日とてスタイリストにキツくダメ出しして「ボスはオレだ」を強烈アピール。日本から来たカネづるの前でええカッコ・パフォーマンスしながら撮影をバシバシ。「いいよぉ〜、そのカンジぃ〜、サイコぉ〜」…そのまま失神。病院に担ぎ込まれたロマンに、医師は意外な結果を宣告する。「予想外に深刻です。一種の腫瘍でして」「切除できませんか?」「複数の内臓にガンが転移してまして、化学療法で…」「化学療法? 生存率は低いんだな? 50パーセントか、5パーセントか?」「……」「5パーセントなんだな?」「……」「それより低いのか? 治療しなければ、あとどれくらい生きる?」「おそらく後3か月ぐらい…」

 さすがにオサレなフォトグラファーのロマンも唖然呆然。ベンチにへたりこんで、デジカメで周囲をパチパチ撮ってるが、頭ん中真っ白。とりあえず家族に説明を…と、普段から少々水くさい仲の実家に行く。父親(ダニエル・デュヴァル)と母親(マリー・リヴィエール)、離婚して子供を連れて戻ってきた姉(ルイーズ=アン・ヒッポー)。この姉とは長年折り合いが悪かったが、この夜も最初はいいムードだったのにロマンがイヤミを言い放って台無し。ドッチラケの一夜となってしまったため、ロマンの病気のことは言わずじまいになった。そう、言っても仕方がない。家族にも職場にも、説明したところで仕方がない。ゲイのロマンは若い青年サシャ(クリスチャン・センゲワルト)と同棲していたが、こいつにも話す気になれない。逆に「オマエを愛してない」と言い放ってキズつけ、「出てけ」とダメ押し。むろん、実は「顔で笑って」のツライ心境での決断だったのだが。そんなロマンは、突然田舎の祖母(ジャンヌ・モロー)の家を訪ねる。ロマンも祖母には本当の事が言えた。「どうして私には打ち明けたの?」「おばあちゃんは僕に似てる。もうすぐ死ぬからね」…そんな祖母にも別れを告げての帰途、偶然立ち寄ったドライブインの女ジャニィ(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)から意外な申し出を受ける。「夫の子種に問題があるから、セックスして子種をくれないか」と言うのだ。出し抜けの話に「子供は嫌い」と断って立ち去るロマン。だが帰宅すると、当たり前ながらサシャは消えていた。仕事を辞め、誰とも会わなくなったロマンのもとに、やがて一通の手紙が届く。

 それはいがみ合って別れた、あの姉からの手紙だった…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 見ていてそれなりに感心したオゾン映画だが、実は正直言ってその「気取り」がいつも少々鼻についていた。うまいんだろうしセンスもいいんだろうが、「好き」にはなれなかったのだ。今回の映画を見始めて、それを改めて感じた。主人公はゲイでフォトグラファー。ゲイであること、そして「スイミング・プール」に続いてクリエイターであることから、これがオゾンの自画像的キャラであることは容易に推測できる。それにしても、それがカッコよくてスタイリストも怒鳴り散らして、才能豊かで売り出し中だぁ? 何だかホウ・シャオシェンの「珈琲時光」(2004)に出てきた、恥ずかしいヒロインの設定を思い出しちゃった(笑)。まったく日本の安いトレンディ・ドラマか女向けのコミックじゃあるまいし、寝言も休みやすみ言ってくれ。もうこの時点で、僕はこいつが生きようと死のうとどうでも良くなった。悲しませたくないから、誰にも言わず死ぬ…な〜んて、いちいちキレイごとでええカッコしいなんだよ。ジャンヌ・モロー大姉御も思わず「幼稚で身勝手」と言っていたが、そのものズバリ。本当に死ぬとなったら、オゾンはこうもカッコ良くできるのか。こういう奴に限って、糞尿垂れ流してツバ飛ばして、泣いて回りにすがったりするんじゃないか? な〜にが花のパリーのフォトグラファーだよ。タイトルもクソ気取りやがって、「ぼくを葬る」と来たもんだ。「葬式の葬」と書いて「おくる」だぜ? 大見得切ってないで早く死ねって。

みどころ

 ところが…それが姉の手紙に心を開いて、物陰からこっそり和解の電話をかけるあたりから徐々に雰囲気が変わっていく。これを皮切りに主人公の言動が変わってくる。大見得を切って別れたかつての恋人にも、「もう一度抱きたい」とすがる。ドライブインの女の奇妙な申し出にも、なぜかオーケーを出す。特に最後の「子供をつくる行為」には、僕もピンと来た。最初の時は主人公は「子供は嫌い」と言っていたが、そもそも子供とは自分のコピーだ。こいつは自分が嫌いだったのだ。それをオーケーしたということは、どこかで自分と和解したのかもしれない。このあたりから、彼の周囲で幼い頃の主人公自身の幻影がチラつき始めるのも象徴的。「オゾン映画恒例」の海辺でのラストにどこか幸福感が漂うのも、まさしく自分を肯定することが出来ての「昇天」だからだろう。髪の毛を刈り上げガリガリになった貧相な主人公は、もはやええカッコとは見えないあたりも効果的だ。大御所ジャンヌ・モロー、売れっ子ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、さらに「緑の光線」(1985)で幸せ探しに奔走するおめでたい娘さんを演じていたマリー・リヴィエール、「夜よ、さようなら」(1979)で非情なヒモ男を演じていたダニエル・デュヴァルといった懐かしい面々も出ていて思わず涙。この過剰なオールスター・キャストがオゾンの悪趣味とも言えるのだが(笑)。

さいごのひとこと

 「葬る」って「おくる」って読ませないとダメ?

 

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