新作映画1000本ノック 2006年3月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

「アブノーマル・ビューティ」 「シリアナ」 「ダイヤモンド・イン・パラダイス」 「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」

 

「アブノーマル・ビューティ」

 死亡寫真 (Ab-normal Beauty)

Date:2006 / 03 / 20

みるまえ

 パン・ブラザースって言えば「レイン」(1999)で名を挙げて「アイ」(2002)でその名声を決定づけた、今はやりの兄弟監督。そんな彼らがまたまた手がけたホラー映画と聞けば、やっぱり何だかんだ言って見たくなるではないか。実はパン・ブラ絡みのホラーと言うとちょっと懲りてるところもあるのだが、その理由は後述。ともかく見たい事は見たい。仮にダメでもホラーなら退屈はしないだろう。

ないよう

 かわいさだけでなく才能もある美大生ジン(レース・ウォン)は、今日も今日とて創作に余念がない。そんな彼女にゾッコンの同級生アンソン(アンソン・リョン)は何とかお近づきになろうと声をかけるが、彼女は剣もホロロ。キャンパスから出てくる彼女を、毎日のように「友人」ジャスミン(ロザンヌ・ウォン)が待っているのだ。そして「彼女に手出しするな」とばかりにアンソンをにらみ付けるジャスミン。そんな二人の間に漂う一種妖しいムードに、アンソンもたじろがざるを得ない。ジンとジャスミンはいつも一緒だ。そして今度はジンは絵筆をカメラに持ち替え、ありとあらゆるものを被写体にして撮りまくる。どっちにしろ創作に没頭する事には変わりない。そんなジンの家はビジネスウーマンの母親だけで、しかもこの母親が各地を飛び回る生活なのでほとんどいない。だからジンも常にジャスミンとツルむような生活を続けている。そしてジャスミンはジンにハッキリと愛情を持って接しているが、ジンの方はそれとはいささか趣を異にしているようだ。それには、過去のトラウマが関係しているらしい…。そんなある日、ジンは交通事故現場を目撃してしまう。胸の奥からこみ上げる衝動を抑えきれず、次の瞬間ジンは死に直面した被害者にカメラを向けていた。日常の創作にモノ足りなさを感じていたジンは、この時「完璧な美」をとらえた気持ちになる。そして市場で殺される鶏や動物などの死体やら、飛び降り自殺する人を被写体に選び始める。その一種取り憑かれたような様子に、心配を隠しきれないジャスミン。実はジンは幼い頃に、いとこの男の子から性的いたずらを受けていた。それがずっと屈折した思いで彼女の中に沈殿し、「男などキライ」と思わせていたのだ。そうとは知らないアンソンは、彼女恋しさにビデオで追いかけ回すテイタラク。しまいには調子に乗ってジンの家まで忍び込んで来たものの、逆に彼女に家に引っ張り込まれてナイフで脅される始末。アンソンを脅しまくってサディスティックな写真を撮ったジンは、そんな自分を内心怖いと思い始めた。さすがにこれはマズイと気づいたジャスミンはジンに今まで以上の愛情を持って接した。幼い頃の性的虐待、そして母親が誤解してなじった事…それが心のキズになっていたジンに、ジャスミンは母親にすべてをうち明けるように…と助言した。こうして再び明るさを取り戻したジンだったのだが…それでは悪夢は終わらなかった。彼女の手元になぜかグロテスクな死体の写真が送りつけられた。そしてさらに、何ともおぞましい映像が収められたビデオテープが届く。それは実際にどこかで行われた、猟奇的殺人現場のビデオ映像だったのだ。では、一体誰が…?

みたあと

 この映画って正確にはパン・ブラザースの監督作品ではなく、兄のオキサイド・パンによる単独監督作。で、パン・ブラザースで“プロデュース”した作品らしい。だから「パンブラ監督作」でなくても、流れるテイストは確かにパンブラらしい。「アイ」同様、音響効果を最大限に生かして脅かしまくる。女の子を主人公にしたホラーという点でも「アイ」っぽい。だから全編に漂うどこかイヤ〜な雰囲気といい、ホラー風味がいろいろ楽しめるのは確かだ。だが見ているうちに、僕はもう一本のパンブラ映画を思い出した。それは2003年の東京国際映画祭で見た「オーメン」(2003)という作品。「オーメン」と言っても例の有名なダミアンの出てくるやつじゃなくて、あくまでタイ映画の新作。これもパンブラがプロデュースという事で、僕は張り切って見に行ったわけだ。ところが例によって例のごとく音響効果の脅しやらイヤ〜な雰囲気は伝わってくるものの、な〜んとなく肝心なところをハズしてる。お話も辻褄が合わない気がする。そもそもこの「オーメン」なる映画、どうやらタイのアイドル映画らしい。いわゆる向こうのジャニーズ系イケメンタレント売り出し映画というシロモノだ。そう考えれば割と本格的につくってたな…とも思えるが、何はともあれ所詮は「アイドル映画」。真面目に見たこっちがバカだった。そしてこの「アブノーマル・ビューティ」も、主役の女の子二人は「R2」なる姉妹デュオだというではないか。そう言われてみれば…。

こうすれば

 同性愛的なムードが漂う女の子二人の関係、創作しているうちに「死」に囚われていくヒロイン、その根元に横たわっているらしいトラウマ…なかなか意味ありげで面白そうな素材が揃っていて、見ている途中まではワクワクさせられる。ただ何となくヒロインの女の子にイライラさせられるのは、性的トラウマと「死」への誘惑との結びつきが、あるのかないのかハッキリしないからだろう。それがひどく曖昧に感じられるから、観客としてはただ意味ありげな要素だけチラつかされて脅かされているだけ…という、何とも不毛な気分になってくるのだ。実際にはトラウマと「死」の結びつきはあった…とタネ明かしもされるのだが、それがハッキリするのは一番最後のショット一発だけとなると、いささかキツイことがお分かりだろう。

 しかも「それ」一本にお話を絞っているならいざ知らず、途中で行き当たりばったりで「別の話」になってしまう。その「別の話」を異様に力を入れて撮っているから、ますます映画の狙いが散漫になってしまうのだ。しかもその「別の話」…異常者による猟奇倒錯殺人がこの映画のヤマ場になっちゃうという主客転倒ぶり。元々が「それ」を描きたい映画という訳でもないし、単に途中でいきなり出てくる「挿話」にも関わらず、インパクトだけはやたらデカいのだ。確かに脅かされるしイヤ〜な気分にはなるが、お話としては脱線しまくり。何となく見ていてスッキリしない。しかもその猟奇倒錯殺人が何とか解決してお話が落ち着くと、まるで閉店間際の駆け込みのように元々のトラウマと「死」の関わりの真相が慌ただしくワンカットの絵と台詞で語られ、そのまま唐突に映画が終わる。思わず「今のは何だったの?」と問わずにいられないエンディングだ。結局は「アイドル映画」だったのね…というのが、本当のところなのだろう。よくよくパン・ブラザースってこの手のアイドル映画をやるのが好きみたいだが、それもこの程度の出来の映画ばっかゴロゴロ出来てくると、こればっかりやってるのもどうかと思うよ。

 また、今回単独監督したオキサイド・パンって、考えてみれば前に単独で撮った「テッセラクト」(2003)もどこか破綻した映画だったではないか。結局こいつらって兄弟二人で監督しないと、どうもロクな映画にならない。「レイン」 「アイ」で溜め込んだ映画ファンへの信用も、そろそろ全部吐き出しちゃったのではないか? いいかげん真面目に仕事をしたらどうなんだ。

みどころ

 仮に「アイドル映画」とナメた目で最初から見れば、逆になかなか侮れない。やっぱり「アイ」以来の音響効果をうまく使った脅かしが効いている。そして「アイドル映画」なのに、当のアイドルにこんな事までやらせていいの?…と心配してしまうほどの内容ではある。何しろ姉妹デュオを「同性愛的感情漂う友人同士」の役として起用している事自体、大胆と言えば大胆。おまけにそのアイドルが鶏の首を切り落とすわ、死に取り憑かれて半狂乱になるわ、風呂に浸かりながら倒錯オナニーはするわ…これで「アイドル映画」になるのだろうか?と見ていて心配になるほど。そのへん何と言っても「腐ってもパン・ブラザース」。…だからこそ、何とも惜しいんだけどね。

さいごのひとこと

 このパンは二枚重ねの方が味がいいね。

 

「シリアナ」

 Syriana

Date:2006 / 03 / 20

みるまえ

 「クラッシュ」が「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本家の監督デビュー作なら、こちらは「トラフィック」の脚本家の監督デビュー作。そしてまたしても人間群像劇。プロデュースがソダーバーグで主演の一人がジョージ・クルーニーで…と来たら、モロに「トラフィック」の“石油利権版”という気がする。おまけにソダーバーグ=クルーニーのお仲間からマット・デイモンが参加というから、ますますソダーバーグ臭い映画になった。群像劇が好き…ということは「クラッシュ」感想文でさんざ言ったから繰り返さない。ここは「トラフィック」のようにスリリングでドラマティックな映画を期待したい。そして何度も言ってるように、僕は群像劇が好きなのだ。そっちの面でも大いに期待したい。

ないよう

 イランのテヘラン。一人のアメリカ人男性が現地の怪しげな男とツルんでいる。この男ボブ・バーンズ(ジョージ・クルーニー)は武器商人に2基の小型ミサイルを横流ししに来たようだ。だが取引現場でそのうちの1基を別の何者かに持ち去られたために、なぜか狼狽してしまう。それと言うのも、実はこのバーンズはCIA工作員だったから。バーンズが取引現場を立ち去るや否や、武器商人の車に積み込んだミサイルが大爆発。これは武器商人暗殺のためのワナだったのだ。だが2基のミサイルのうち1基は別の人間の手に渡って、どこかになくなってしまった。この失態が祟ってか、バーンズは本国に呼び戻される羽目になる。だが現場一筋の彼に、もはや本部での居心地は良くなかった。そんなバーンズに息子の目も冷たい。

 一方アメリカの石油業界では、老舗石油会社コネックスが近年勢いに乗る同業のキリーン社との合併を画策。この巨大合併を法的にスムーズに運ぶために、黒人弁護士ベネット・ホリデイ(ジェフリー・ライト)が雇われる。キリーン社の社長ジミー・ポープ(クリス・クーパー)は意気軒昂だが、この合併も所詮は叩けばホコリが出る胡散臭いシロモノ。合併の障害となる要素を取り除くための調査がホリデイの仕事だが、その陰にはコネックス社のために暗躍するホリデイの上司ホワイティング(クリストファー・プラマー)の存在がチラついていた。またこの大合併に不正の臭いを嗅ぎつけた検事が、ホリデイの周りをウロチョロし始めたのも厄介だ。そんなホリデイも私生活では、アル中の父親に手を焼いている。

 さてコネックスがなぜそんな合併を画策したかと言えば、中東の某有力産油国がコネックスとの契約を解除したから。そのあおりは思わぬところに出た。石油採掘権がコネックスから中国系企業に移ったため、この某産油国で働いていた国外労働者は全員解雇の憂き目をみる。パキスタンから出稼ぎに来ていた青年ワシーム(マザール・ムニール)も父親と一緒に突然失業。しかも仕事がなければすぐにも国外に退去を強いられる事になる。必死に仕事を探すワシームだがアラビア語が出来ない彼にどこも冷たい。おまけに不当に警官に暴行されるに至って、彼の中で何かが狂っていく。

 ジュネーブではエネルギー・アナリストのブライアン・ウッドマン(マット・デイモン)が、某産油国の王子のパーティーに呼ばれて出席するか否かで大いに迷う。王子のパーティーは確かにビジネス・チャンスだが、その日は幼い息子の誕生日だ。すると家族同伴でどうぞ…との誘いにまさに「渡りに舟」。妻と息子二人を連れて、スペインの王子の巨大な別荘にやって来る。ところが肝心のビジネスは収穫ゼロ。しかも豪華なプールの電気系統のトラブルで、ウッドマンの息子は感電死してしまう。そんな失意のウッドマンに、謝罪の意味を込めてか接近してくる王子。この某産油国の王子ナシール(アレクサンダー・シディグ)は改革派で、今までアメリカの言いなりで搾取されっぱなしの状況を建て直したいと願っていたのだ。そんなナシール王子にアドバイスをするうちに、王子の理想に心酔していくウッドマン。彼には息子を亡くした心の空洞を埋める気持ちもあったのだが、皮肉にもそれが妻との間に距離を開くことにもなった。

 一方改革派のナシール王子が煙たいアメリカ側は、ホワイティングを使ってナシール王子の弟をアレコレそそのかす。また居場所がなく困っていたCIA工作員バーンズもここぞとばかりに某産油国に派遣され、ナシール王子暗殺を画策し始めた。それとはまったく別に、パキスタン青年ワシームはイスラム教原理主義の組織に勧誘される。果たして彼らはいかなる運命を辿るのだろうか…?

みたあと

 国境すら股に掛けたカタチで、縦横無尽に展開する複数の物語。数多い主要登場人物は老若男女どころか民俗・宗教・国籍・社会階層を飛び越えた壮大なスケール。それらが複雑に絡まり合って巨大な壁画のようなドラマを編みあげていく。そのあたりの手つきは、まさに「トラフィック」の創作者の作品だ。「トラフィック」が大好きだった僕には、まさにご馳走。そしてジョージ・クルーニー、マット・デイモン、ジェフリー・ライト、クリス・クーパー、ウィリアム・ハート、クリストファー・プラマーなどなど豪華な顔ぶれもお楽しみ。これだけのスターの共演で、何と石油利権を巡る陰謀と、そこで暗躍するアメリカのダークサイドを描くという大胆さ。もちろん「アメリカの陰謀」なんて話はちょっと前…1970年代だったら珍しい話じゃなかった。だが今はブッシュのアメリカの時代。世の中はシャレにならないほど悪くなっている。そんな中で娯楽大作映画のカタチをとって、これほど大胆であけすけな発言を堂々とやらかすなんてスゴイと思わざるを得ない。スピルバーグの「ミュンヘン」(2005)に次いで、あの1970年代の胸騒ぎのする危ない映画群を連想させる映画に仕上がっているのが嬉しい。むろんヤバくて面白いからいいのだ。おまけに話は世界をあちこち転々とするでっかいスケール。見ていてドキドキワクワクしてしまう。僕はこういう映画が見たかった。

こうすれば

 僕が国際情勢や石油利権について、さらに政治経済その他について精通していないのが災いしてか、ハッキリ言って今どうなっているのかよく分からない部分もないわけではない。あの人どこの国の人だっけ?…とか、今どの国にいるんだっけ?…とか、お話が見えなくなる事もしばしば。国名や地名や人名が山ほど出てきて次々入れ替わり立ち替わり変わっていく。ハッキリ言って脚本も出来上がった映画も、それを分かりやすく交通整理しようとはしていないようだ。だから、途中で「???」となって思考停止してしまうと、そこでつっかえて映画全体も全く見えなくなってしまうかもしれない。そこが難だと言えば、確かにそう言えなくもない。

みどころ

 だがこの映画はそんなディティールがハッキリ分からなくても、全然気にする必要なんてないのだ。例えばあの「大統領の陰謀」(1976)だって、ニクソン大統領の悪企みがどんな事で、それがどのように打ち砕かれようとしているのか、見ていてハッキリ分かる奴なんていやしない(笑)。とにかくゴチャゴチャと固有名詞が台詞で出てくるから、そんなものを気に留めている暇がないのだ。だが、ともかくのしかかってくるのが巨大な権力で、こいつらのやっている事は汚くて、それに立ち向かう事は勇敢この上ないという事だけは分かる。そして娯楽映画においては、それが一番大事な事なのだ。

 「シリアナ」もその点全く同じ。今どこの国にいて誰が何をやっていようとも、ともかくハッキリ分かっているのは…石油の利権を巡ってみんながしのぎを削っていて、陰の力を行使しようとする者、権力で押しつぶそうとする者、罠を張って陥れようとする者など魑魅魍魎みたいな連中ばかりひしめいていて、中でもアメリカが特に恐ろしく汚い事をしようとしていて、それに踊らされ惑わされ弄ばれているのが中東の国々…それだけ分かれば全く問題ない。それだけ分かれば十分だし、それだけならどこの誰が見ても分かる。それが映画の素晴らしい点だし、だからこそこういう題材を商業娯楽映画で堂々描くことの価値を痛感するのだ。これは理屈ではないからね。さらに素晴らしいのがクルーニー、デイモンを筆頭に出てくるキラ星のごときスターたちとほぼ対等に、ほとんど無名の非白人俳優が印象的な役どころを演じていること。理想に燃えて祖国建て直しのために立ち上がりながらも非業の死を遂げる中東某国の王子アレクサンダー・シディグ、純粋素朴な人柄をまんまと利用されて若い命を無駄に散らせてしまうパキスタン労働者の青年マザール・ムニールなどは、役どころが儲け役という事もあってまさに圧巻。こういう役者が「群像劇」の厚みを確実に増している。キャストを無闇に豪華にすればいいってもんではないのだ。

 特にこの映画が巧みなのは前述のように無名俳優人を使って、アメリカ側=西欧側からだけでなく中東側などそれ以外からの視点を多く入れている点。中でも先に挙げたパキスタン労働者の青年マザール・ムニールの役どころは特に興味深く、かつ悲劇的だ。アメリカからの搾取の脱却を狙った某国の王子アレクサンダー・シディグの政策は正しいのだが、それが結果的にこのパキスタン青年の仕事を奪ってしまう。行き場がなくなった青年がイスラム原理主義の怪しげな組織に操られテロの片棒を担がされるのも無理のない話だ。だが、そのテロ組織も実はアメリカに操られていた連中だった。訳が分からないままパキスタン青年が自爆テロを行う相手は、アメリカ企業から中国企業に採掘権が渡った油田だ。こうして油田は使用不能になり、アメリカの権益は安泰。産油国が自らのために行った政策は不発に終わり、パキスタン青年の死は信仰とも理想とも無縁のまったくの無駄死にとなる。良かれと思った王子やパキスタン青年の思いが、皮肉な結果を呼んでしまうあたりの悲劇性もさることながら、結局アメリカの利益のために多くの他の国々が踏みつけられるという告発はかなり鋭い。このあたりの姿勢が、今回監督デビューのスティーブン・ギャガン、製作に回ったソダーバーグやクルーニーも実に「分かっている」。この映画をアメリカ国内で政策するのは、いかに「自由の国」を標榜していようともかなり困難だったのではないか。

 そして見どころは他にもいろいろあって…CIA工作員のクルーニーとないがしろにしてきた息子との相克、幼い子供の死によってつながりが生まれるエネルギー・アナリストのデイモンと王子シディグ、そのシディグ王子の理想に熱中するデイモンと子供の死の一件以来どんどん心が離れていく妻アマンダ・ピート、石油企業の顧問弁護士というエリート街道まっしぐらのジェフリー・ライトと落伍しっぱなしでアル中の父との断絶…などなど、多彩な登場人物が「石油利権」を巡って織りなすドラマでありながら、それぞれが人間としての複雑な背景を持っているあたりがうまい。これがより一層映画の重層感を増している。何より凄まじいスケールでハラハラドキドキさせるサスペンス映画として、出色の出来栄えであることが素晴らしい。やっぱり政治プラカードとしていいこと言ってても、肝心の映画が面白くなければ意味がない。この映画はとにかく娯楽映画として面白いのだ。そして骨太で歯ごたえがあってタフだ。こういう映画をつくるためにお金儲けの必要があるというなら、今までさんざクサしてきたが「オーシャンズ11」や「オーシャンズ12」も大いに結構。何だったら「13」も「14」もつくったっていい。もっとこういう映画を見せてくれるなら。

さいごのひとこと

 もう「あの国」の牛肉は食べたくない。

 

「ダイヤモンド・イン・パラダイス」

 After the Sunset

Date:2006 / 03 / 06

みるまえ

 いよいよ007を降板したピアース・ブロスナンの新作登場。今度は稀代の宝石ドロボウ役。相手役はセクシーなサルマ・ハエック。舞台は魅惑のハハマ。まぁ、気楽に見るにはいいんじゃないだろうか。おそらくビックリするような面白さはないだろうし、ありきたりといえばありきたり。でも、ソコソコ楽しめるという典型。最近重たい映画はめっきり受け付けないだけに、ユルい映画の方が嬉しいというのも本音だ。ピアース・ブロスナンの007は好きだったしね。だがピアース・ブロスナンの非007映画で真っ先に思い出したのは、「トーマス・クラウン・アフェアー」(1999)。あれも稀代の宝石ドロボウ役。相手役はセクシーなレネ・ルッソ。ところがそれでいささか「???」だったではないか。う〜ん、マズイ。ただ今回の映画の監督がブレット・ラトナーだというのは朗報。意外にこの男の映画、すごく才気走っているという作品はないがどれもキッチリ楽しませてはくれる。ならばコレもイケるのではないか。こういう今では懐かしいジャンルの映画は好きだから、そこに一縷の望みを託したい。

ないよう

 伝説的な値打ちモノのダイヤをクルマで運搬中のFBI捜査官ロイド(ウディ・ハレルソン)は、一緒に警備にあたる同僚にどんなに大丈夫だと太鼓判を押されても安心できない。なぜなら彼が追い続けている宝石泥棒マックス(ピアース・ブロスナン)がいるから。どんなに厳重に警備してもその網をかいくぐるマックスと相棒で恋人のローラ(サルマ・ハエック)に、ロイドは何度も翻弄されコケにされてきたのだ。この日もキッチリ警備していたはずが、まんまとしてやられる。ロイドはクルマに閉じこめられて、そのまま遠隔操作でマックスの元へと運ばれてしまう。麻酔ガスで気絶させられたロイドが意識を取り戻した時、彼が守っていたはずのダイヤは姿を消していた。こうして最大の仕事を見事に成功したマックスとローラはこれにて引退。南海の楽園バハマで余生を過ごす事になった。当然ローラはここでマックスと身を固めたいところ。だがマックスはどうも態度をハッキリさせない。そもそもマックスは連日世俗のご夫婦連中との「おつき合い」にもウンザリしていたし、連日のシーフードにもウンザリしていた。そんな退屈しきっていたマックスの元に、何とあのロイドがやって来るから驚いた。彼はマックスを諦めてはいなかったのだ。しかもマックスたちがこのバハマにやって来たのも、新たな「仕事」のためだと決めつけていた。何と偶然なことに、このバハマに「最後のナポレオン・ダイヤ」を展示した豪華客船が停泊するというのだ。実はマックスにとってその事は初耳だったが、それでも一度耳にしてしまっては心から離れない。やがてバハマに例の豪華客船がやって来ると、ソワソワと見に行かずにはいられなくなる。だがあくまで引退の潮時と考えるローラは、そんなマックスの態度が気に入らない。もちろんFBIのロイドは常にマックスから目を離していない。ひょんな事から知り合った地元の女刑事ソフィー(ナオミ・ハリス)と共に、マックスが動いたらしょっ引こうと手ぐすね引いて待っていた。しかもそこに地元ギャングのボス・モレー(ドン・チードル)まで食指を動かし始めたから始末に負えない。こうして自分の思惑を超えて、どんどんダイヤを巡る揉め事に巻き込まれていくマックスだったが…。

みたあと

 年に1〜2本映画を見るだけの人なら、「ミュンヘン」か「ナルニア国物語」がオススメ。でも、年に何十本か見ている人ならこれを勧めてもいいかな。もしビデオに落ちた時には、暇つぶしにはもってこいとでも言っておこうか。やっぱりブレット・ラトナー監督、ソコソコの映画を撮らせたら他の追随を許さない(笑)。

 そもそもジャッキー・チェンの映画って「ハリウッドで撮ったのはダメ」…と言っておけば「通」っぽいツラが出来るが、ここだけの話ブレット・ラトナーが撮った「ラッシュアワー」(1998)と「ラッシュアワー2」(2001)あたりはそれなりに楽しめるんだよね。あなたがジャッキー・マニアや香港カンフー映画好きと自称したいなら絶対言っちゃダメだけど(笑)。ロマンス映画に挑戦の「天使のくれた時間」(2000)は僕にとってはイマイチだったけど世評は高かった。何とハンニバル・レクターのエピソード1もの「レッド・ドラゴン」(2002)まで撮ってソコソコ見せてしまうからスゴイ。この男の映画は…決して頭一つ他をリードしたりはしないけど(笑)…入場料を払ったお客をその分は楽しませてくれる。手堅い職人肌の男なのだ。で、今回も期待は裏切らない。

 ピアース・ブロスナンはいつものようにカッコいいし、余裕とユーモアがある。サルマ・ハエックも期待通りセクシーだ。ウディ・ハレルソンはいつもながら芸達者なところを見せてくれるし、今回はユーモラスな面を前面に出していて嬉しい。しかもブロスナンはただ終始いいカッコしているだけでなく、意外に幅の広い役柄になっているからオイシイ。ちょっとハラハラさせてもくれるしミステリーもある。それなりにどんでん返しもある。まぁ、要するにお客を片時も飽きさせないのだ。これはなかなかリッパではないか。

みどころ

 特に素晴らしいのがピアース・ブロスナンがカッコよく犯罪を成就させるだけでなく、ちょっと情けない面や憎めない面も見せるところが秀逸。ウディ・ハレルソンと一緒に釣りをやってサメを釣り上げちゃうあたりは、クスクスがアハハになっちゃう楽しさ。彼らがホテルで一緒のベッドに寝るくだりなども見ていて微笑ましく楽しい。イイ意味で無邪気な「男の子」映画になってるところが嬉しいのだ。そもそもハッキリとした悪役ドン・チードルと女刑事ナオミ・ハリスの元夫以外、イヤな印象の人物が出てこないというのがいい。だからイヤな気分になる瞬間がなくて、後味スッキリで劇場を後に出来る。ついでに言えば、映画館を一歩出たらスッキリ映画の内容を忘れる事も出来る(笑)。正直言って、この感想文を書くために思い出すのがツラかったほど(笑)。

こうすれば

 実は僕はドン・チードルが出ているとは知らずに見たので、彼が出てきた時は儲かった気になったものだ。ところが正直言って、最近これだけ「大物」感が出てきた彼なのにあまりにつまんない役。悪役にしてもボリューム感がなく、誰でも出来るような役というのは驚いてしまった。何で彼はこんな役を受けたのだろう。ラトナーにしても、彼ほどの職人がチードルを活かしきれなかったとは。さらにラストでブロスナンの元から去ろうとしていたサルマ・ハエックが、「愛してる」だの「結婚しよう」だのの甘ッチョロイ言葉でイチコロに元サヤになってしまうのもいかがなものか。無論僕はフェミニストなんて柄じゃないし、男にとって都合のイイ状況は望むところ(笑)だが、いくら何でももう少し女にも意地ってものがあるだろう。そんな簡単に男を許してどうする。作り手の猛省を促したいところだ。もう一つ注文を付ければ…前述したように、どれもこれもサービス精神旺盛に詰め込まれてはいるものの、全部それなり、ソコソコ止まりということ。そういえばこいつの映画は、いつも破綻もないけど大胆さもない。大きくハミ出すスケール感が皆無なチマッとした映画なのだ。そのへんがラトナーの限界と言えば限界。ただし…今回この映画にそんなものを期待する奴はいないだろうし、この映画はこれでいいのだ。やっぱりスッキリ楽しんでスッキリ忘れるのが、この映画の正しい楽しみ方なんだろう。

さいごのひとこと

 笑って許して。

 

「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」

 Waik the Line

Date:2006 / 03 / 06

みるまえ

 今年のアカデミー賞の主演男女優賞に仲良くノミネートされた作品。この感想文がアップされる頃には結果が分かっているのだろうが、それにしても近年、「五線譜のラブレター」(2004)、「ライフ・イズ・コメディ!/ピーター・セラーズの愛し方」(2004)など、この手の実在の芸能人の伝記映画が相次ぐ。その中でも「レイ」(2004)や「ビヨンドtheシー/夢見るように歌えば」(2004)など歌手の伝記映画は、俳優がただ似ているだけでなく歌まで実物に似せてうたってしまうからスゴい。この映画は大物カントリー歌手ジョニー・キャッシュとその妻となったジューン・カーターという女性歌手のお話。おそらくかなり実物に近づけた熱演なのだろう。演じるのがホアキン・フェニックスとリーズ・ウィザースプーンというのも、これが他の映画なら水と油の顔合わせと思うところだが、実在人物を演じられる人物を…との人選だったらあり得ない話ではない。少なくとも芸達者ホアキンが絡んでいる以上、ハンパな出来ではないはずだ。

ないよう

 1968年、フォルサム刑務所。その日、所内は異様な興奮に包まれていた。それもそのはず、刑務所内のホールではあのビッグスター、ジョニー・キャッシュのライブが行われようとしていたのだから。だが万雷の歓呼が聞こえながらも、ジョニー・キャッシュ(ホアキン・フェニックス)の視線は作業場の旋盤の刃に釘付け。その脳裏には過去の忘れたい…忘れがたい記憶が甦って来る。それは1944年のこと、南部の貧しい田舎に、ジョニーの一家は住んでいた。毎日毎日畑で綿花を摘むことで何とか生計を立てているアリサマ。父(ロバート・パトリック)は飲んだくれの暴力亭主。まだ12歳のジョニーは、ラジオで聴くゴスペルと聡明で優しい兄ジャック(ルーカス・ティル)の存在が慰めだった。ところがそんな兄は、ジョニーが釣りをしている間に旋盤の事故で深手を負い、この世を去ってしまう。ジョニーは事故が起こった時、真っ先に父が放った言葉を忘れられない。「オマエ、どこに行ってたんだ?」…むろんジョニーとて、その時の自分を責めない訳がなかった。このジャックの死から父の酒乱と暴力はさらにエスカレート。「何で良い子が死んでオマエが残った?」との心ない父の言葉に、幼いジョニーは深く深く傷つく。そんな彼が煮詰まった家庭から脱出するキッカケになったのが、1952年の空軍入隊だ。彼はドイツに赴任し、その後ガールフレンドのヴィヴィアン(ジニファー・グッドウィン)と結婚。訪問セールスマンとして生計を建てようとするが、どうにも営業は彼に向いてない。そもそも彼の関心は音楽にしか向いてないのだ。休日は友人と素人ゴスペル・バンドで気晴らしするが、そんな態度が妻ヴィヴィアンにはどうにも我慢ならない。早速夫婦仲はおかしな事になってくる。やがてどうにもカネが必要だという事になり、思い余ったジョニーは街角にあるレコード会社に飛び込み、無理矢理オーディションの約束を取り付ける。だが友人たちと臨んだオーディションはプロデューサーにボロクソ。そもそもゴスペルは売れないというのだ。さらにプロデューサーは言った。「人の歌ではなく、本当の自分の歌を歌え!」…切羽詰まったジョニーは、ドイツ時代から秘かに書いていた自作の歌をうたう。その「フォルサム・プリズン・ブルース」によって認められたジョニーは、レコード会社との契約を取り付ける。歌手稼業は順調に動き出し、ジョニーは他の歌手たちとパッケージで巡業に出かけることになる。そんな歌手たちの中に、ジョニーが昔から憧れていたジューン・カーター(リーズ・ウィザースプーン)もいた。巡業の中で少しづつ言葉を交わすジョニーとジューン。だがジョニーは妻がいて、ジューンも離婚のキズがまだ癒えない身。その時点では、それ以上二人の仲が進む事はなかった。だがそんな一方、旅から旅の生活の中でジョニーは妻とどんどん心が離れてしまう。ジューンとの仲が思うにまかせない苛立ちもあって、ジョニーはついついドラッグに手を出してしまうのだが…。

みたあと

 昨今の芸能人伝記映画の定石として、幼い頃のトラウマから全体を構成していくスタイルをとる事が多い。おそらく「ラ・バンバ」(1987)「ドラゴン/ブルース・リー物語」(1993)、「ティナ」(1993)…あたりがその「はしり」だった気がするが、今回のこの作品もその例をもれない。

 少年時代の兄の死、父親との相克と「自分が死ねばよかった」という自責の念。それらが生涯主人公を苦しめる…その構想そのものは悪くはない。だが出身が貧しいアメリカ南部の田舎という事もあって、どうしても近作「レイ」を連想してしまう。別に連想したからどうという事もないのだが、申し訳ないが「また同じような話」という印象がぬぐえないのだ。

 その一方で、この映画はロック黎明期あたりのアメリカ・ポピュラー音楽史が一望できるのが見どころか。僕はこの映画の主人公ジョニー・キャッシュというと、カントリー・ミュージックの大物という印象が強かった。だが映画を見る限りでは、まるでロックンロール歌手のようにも見える。ゴスペル、フォーク、カントリー、ブルース、ロックンロールは実は地続きで、「ジャンル分け」などは無意味だという事がハッキリ分かるのだ。そのあたりの事だけでも、この映画は十分僕には興味深く見ることができた。

こうすれば

 主人公が囚われているトラウマが映画の一番の重要ポイントのはずだが、自分を愛してくれない父への反発なのか、それとも兄の死を契機にした「生きててごめんなさい」なのか…この両者は通じているようで微妙に違うはずだ。なのに映画では何となく混同され、うやむやのままドラマが進行しているように見える。そのあたりのせいか、何となくジョニー・キャッシュの人間性が分かったようで分からない。繰り返して言うが、父親への反発と「生きててごめんなさい」とは、実は微妙に違う。実際はその両方なんだろうが、区別するなりどちらかに力点を置いて描かないと、「作品」としてはイマイチ焦点がボケる。だから訴求力も削がれてしまう。ジューンの事でおかしくなって家庭で大暴れ、あげく子供の前で女房を痛めつけかかる自分に気づいて唖然…というくだりの衝撃度が低くなる。「自分もあの親父と同じだ」という絶望感が盛り上がらないのだ。一方、みんなに見捨てられかかったジョニーが、ジューンの家庭ぐるみのサポートで立ち直るくだりの有り難みも十二分に伝わらない。「父親への反発」なのか「生きててごめんなさい」なのかどっちつかずな点が、どうしてもこの映画では災いしているのだ。

 おまけにジョニーが自己崩壊していくキッカケが、テメエ勝手なジューンへの想いというのも…気持ちは分かるが段取りがうまくないせいか、ただの男の子供っぽいワガママや甘えにしか見えない。実際のところ男というのはワガママで甘ったれで、この映画のように自己崩壊してしまうものだ。内心は同情してもらいたかったり誰かに止めてもらいたいとSOSを出していたり、「こんなにダメな自分」と自己憐憫に浸ったりといういささかガキっぽい振る舞いなのだ。こういう点では男は実にだらしない。別に女やフェミニストにオベンチャラ使うつもりは毛頭ないが、本当にそうだから仕方がない。それを開き直るつもりもない。実際自分も大きな声では言えないが酒浸りでアル中一歩手前までいったり、パチスロに溺れて開店前からパチンコ屋の前に並んだり、女との関係を切るに切れずにズブズブになったり…と情けない事をさんざしているので、人のことを偉そうに言えた義理ではない。だが前述のトラウマがボケた構図のままでコレでは、何だか自業自得にしか見えないではないか。実はこの手の作品にかならずあるはずの、ジョニー自身の創作やパフォーマンスへの喜び、それらの魔力に取り憑かれた様子も描かれないから、芸人やアーティスト特有の破滅指向にも見えない。これは少々致命傷ではないだろうか。犯罪サスペンス「コップランド」(1997)に衝撃的青春ドラマ「17歳のカルテ」(1999)、恋愛ファンタジーの「ニューヨークの恋人」(2001)に「“アイデンティティー”」(2003)…と、ハッキリ言って何がやりたいのかよく分からないし、かと言って「職人」でもない映画作家ジェームズ・マンゴールドの資質が裏目に出たのだろうか。

みどころ

 それでもホアキン・フェニックスの熱演ぶりは分かる。素晴らしいと思ったのはクスリで自滅していくくだりではなく、最初のオーディション場面。プロデューサーに「オリジナリティがない」と一喝されて、思いあまって自作の曲を披露に及ぶくだりだ。最初はオズオズとおっかなびっくり、音程もフラつきながら弱々しく歌っている主人公が、どんどん自信に満ちて堂々と歌い始める。ジョニー・キャッシュ本人の歌をそれほど聴いていないのでどれほど似ているかは分からないが、歌の場面が素晴らしいという事ぐらいは分かる。このオーディション場面は明らかに「歌で芝居している」スゴさを感じた。これは見事だ。ダメになっていく弱さもうまいとは思ったが、この手の演技は見飽きているし「グラディエーター」(2000)以降演技派の呼び声高いホアキンだったら楽勝のはず…の演技だ。それより本当にスゴイと目を見張らされたのはリーズ・ウィザースプーン。「キューティ・ブロンド」(2001)などコメディ映画の彼女しか知らない僕だったが、これには驚いた。コメディ女優のイメチェンという意味で驚いたのではない。今回のシリアスな芝居を演じるに際しても、下手だと思っていた歌ではなくジョークで勝負していた芸人…というキャラクターの掘り下げに、自らのコメディ女優としての資質を活かしたと思われるからだ。これはなかなか出来る事ではない。

 そして僕がもっとも感銘を受けたのは、後半に入ってのくだり。せっかくジューン一家や自分の両親を新居に招きながら、トラウマの再来からキレてしまう主人公。さすがに扱いかねた実の両親はサッサと消えてしまうが、自らも立ち去ろうとするジューンに、彼女の母親はこう告げるのだ。「あなたまで彼を見捨ててしまうの?」

 実際にはドツボにハマった時には、みんな見捨てていって一人ぼっちで立ち直るしかない。立ち直って再び人が集まって来ても、それは都合のイイ時だけ集まってくる人たちだと分かってしまう。それが人間というものだ。僕も確かにそうだった。落ち目になって一番誰かにいて欲しい時に限って、実は誰もいなくなるものだ。だからこそ、前述の台詞を言ってくれるような人、踏みとどまってくれる人がいた主人公が羨ましくなった。実際には人は踏みつけたり蹴飛ばしたり、いいとこ無視して見捨てていくだけだ。誰も助けてはくれない。この物語が実話だなんて、ハッキリ言って信じられないくらい。この映画の主人公は、ものすごく幸運な男なのだ。

さいごのひとこと

 これだけ好き勝手やっても許される男になりたい。

 

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