新作映画1000本ノック 2006年2月

Knocking on Movie Heven's Door


 このページの作品

アサルト13/要塞警察」 「ジャーヘッド」 「忘れえぬ想い」

 

「アサルト13/要塞警察」

 Assault on Precinct 13

Date:2006 / 02 / 27

みるまえ

 いくらリメイク・ブームだからって、ジョン・カーペンターの映画がもうリメイクされるとは驚いてしまった。ま、ただ「もう」って言ったって、30年近く前の映画なんだから全然おかしくない。つい最近じゃ「ポセイドン・アドベンチャー」(1973)のリメイク作品の予告編をついに劇場で見てしまい、「来るべきものが来たか」…とクラクラしそうになった僕だ。それに「バニシング IN 60"」(1974)なんてB級もいいとこの映画まで「60セカンズ」(2000)というA級娯楽大作に生まれ変わるご時世だ。カーペンター映画をリメイクしたってどこに不思議があろう。それに、今回はイーサン・ホークにローレンス・フィッシュバーンという顔合わせがイイではないか。とか何とか言ってる間にも、「ザ・フォッグ」(1979)がリメイクされるというウワサ。あぁ…なんという…。

ないよう

 デトロイトのダウンタウン。ローニック刑事(イーサン・ホーク)は麻薬の売人に扮して、仲間の刑事男女二人と組んでオトリ捜査の真っ最中。だがちょっとした手違いからたちまち修羅場に。仲間二人は凶弾に倒れ、帰らぬ人となってしまった…。それを契機に抜け殻のようになってしまうローニック刑事。その時の負傷を理由に内勤でくすぶっているものの、実はローニックはもはや前線に出ていく気がない。今日も今日とて酒浸りだし、覚醒剤で気分をハイにしたりしている。彼は自分のせいで仲間が死んだ…という、自責の念から立ち直れずにいたのだ。そんなローニックに似合いの場所が、彼の職場であるオンボロの「13分署」。だがこの工業地帯の真っ直中にあり、夜ともなると人通りもまったくなくなる場所にある寂れた建物も、いよいよお役御免になろうとしていた。工業地帯が雪に覆われたこの大晦日いっぱいで、老朽化した「13分署」はいよいよ閉鎖。業務は新設の「21分署」に移転することになっていたのだ。移転作業も終わって、いまや建物内にいるのはローニックと老警官のジャスパー(ブライアン・デネヒー)、お色気過剰の警察秘書アイリス(ドレア・ド・マッテオ)だけ。唯一やって来たのはローニックの天敵、警察に雇われた女心理カウンセラーのアレックス(マリア・ベロ)。例によってアレックスはローニック刑事のトラウマについて図星を突き、彼を怒らせたあげく帰っていった。一方デトロイトの都心部では、暗黒街の大物ビショップ(ローレンス・フィッシュバーン)が教会である男と取り引きをしている最中。だが商談は決裂したらしく、ビショップは相手の男を情け容赦なく射殺。だが周囲を警察に包囲されたビショップは、もはや逃げ切る術がなかった。逮捕した組織犯罪専門のデュバル刑事(ガブリエル・バーン)はご満悦だ。こうして警察の手の中に落ちたビショップは、ベック(ジョン・レグイザモ)、スマイリー(ジェフリー“ジャ・ルール”アトキンス)、アンナ(アイーシャ・ハインズ)といった他の犯罪者たちと一緒に、護送バスで刑務所に移送される事になる。ところが折からの激しい吹雪に、護送バスはどうにも先に進めなくなる。仕方なく護送バスは本庁からの指示でコース変更。最も近い警察署である「13分署」に一時避難することになった。それでなくても手薄なところに、いきなりビショップほどの大物犯罪者を迎える事になって、ローニック刑事もジャスパーも不安を隠しきれない。やがて帰ったはずの女心理カウンセラーのアレックスが、あまりの吹雪の激しさに「13分署」に戻ってくるが、これはローニック刑事を苛立たせるだけだった。ともかくビショップら犯罪者を裏手の留置場に入れて、これで万事オーケーのはずだった。ところが裏口から銃を持った何者かが侵入。たまたまそれに気づいた護送バスの警官が応戦して殺された。銃声に気づいたローニック刑事が侵入者を射殺して何とか食い止めたものの、突然の異常事態に緊張がはしる。やがてローニックたちは、自分たちが袋のネズミ状態であると気づかされることになった。電話は不通。携帯電話も妨害電波で通じない。外を見ると雪の中に武装した男たちが多数うごめいて、「13分署」をどんどん包囲していくではないか。あれは一体何者なのだ? 一体何が目的だ? やがて「13分署」の窓ガラスを破って大きな石が放り込まれる。そこに書いてある文字は「ビショップ」…あの大物犯罪者を差し出せというのだ。ジャスパーは勝ち目がないと踏んで、ビショップを敵に差し出そうと言い出す。だがローニック刑事はそれに頑として応じない。

 彼は決めていたのだ、断じて一人も見捨てはしない…と。

みたあと

 正直言って、この映画はカーペンターのオリジナル作品に触れないでは語れない。「要塞警察/ウォリアーズ夜の市街戦」(1976)なるその作品を僕が見たのは、今から四半世紀以上前の話。だからディティールまで覚えていると言えばウソになるが、それでも鮮烈な印象を残している。確か舞台はロサンゼルスのダウンタウン。あらかた引っ越しを済ませた警察署に、ストリートギャングたちが襲撃をかけてくる。たまたまこの警察署に居合わせたのが黒人警官、女刑事、白人凶悪犯の3人。そこで彼らは否応無しに力を合わせて戦わざるを得なくなる。もっとも警察署が包囲され、危うい連中が力を合わせて戦う羽目になるという「リオ・ブラボー」(1959)的状況ってのはジョン・カーペンター作品の定石。最近の「ゴースト・オブ・マーズ」(2001)なんてモロにそれだ。今回のリメイク版は雪のデトロイトの話とあって、舞台から設定からかなり様変わり。「要塞」に立てこもる人数も増えて、いろいろ増量が施されている。何よりの違いはキャストが強力になったことで、ノー・スター低予算のオリジナル版に対して今回はイーサン・ホークとローレンス・フィッシュバーンという2枚看板。脇にも名のある役者が揃っている。だから主人公の「過去」なども描かれたりして、よくも悪くも「A級大作」になっているわけ。

!!!映画を見てから読んで!!!

こうすれば

 オリジナル版との比較をさらに続ければ、カーペンターはそんな主人公の掘り下げなどは必要以上に行わなかった。「要塞」のメンバーももっと少なかった。何よりの違いは「敵」の描き方で…前作は得体の知れないストリート・ギャングたちだったのが、今回は悪徳腐敗警官たち。しかもそのリーダーであるガブリエル・バーン以下、ちゃんと顔が見えているのである。現代版として敵を腐敗警官と変えたのは間違ってないと思うが、この「敵の顔が見えるか見えないか」という点は、作品のルックを大きく変えてしまった。前作では真夜中の静まりかえった漆黒の中から、消音中の鈍い発射音だけが聞こえてくるという気持ち悪さ。何者かがうごめいているのは分かるのだが、それが誰だか分からない顔の見えない気持ち悪さがあった。つまりストリート・ギャングだろうと宇宙人だろうとゾンビだろうと変わらない、気色悪いホラー味が漂っていたのだ。しかし今度は顔が見えている。いくらガブリエル・バーンが冷酷非情に徹しても、血管には血が流れている事が感じられてしまうのだ。ましていくらテメエ勝手な言い分とはいえ、「部下たちやその家族たちを守らなくては」…なんて台詞が出ちゃもはや宇宙人やゾンビって訳にいかない。この違いは大きい。おまけにしんしんと雪が降り積もる夜というのは、予想外に明るく見えるのである。「要塞」の中の人数を増やしたり人間ドラマを増やしたりというのも、ギリギリまで削ぎ落とした設定にとっては一種の「贅肉」と言えなくもない。終盤にお話が「要塞」の外に出てしまうのも、集中力の点でちょっと残念に感じられる点だ。前は真っ暗な画面にギリギリの設定、キャラクター・スタディを削ぎ落としたお話にカーペンター独特のブビブビ…と無機質なシンセサイザー音楽が鳴っていた。今回はそこに「敵」の人間の顔とドラマが乗っかって、プラハの交響楽団によるオーソドックスな映画音楽が流れる。やっぱり少々饒舌なんだよね。よくも悪くも「A級大作」と言ったのは、そんな理由からだ。ここには正直言ってカーペンター版の有無を言わさぬ緊張感はない。

みどころ

 ただし何と言っても元々の設定が力強いせいか、これはこれで楽しめる。「贅肉」とは言ったものの、腕利き役者たちのアンサンブル・キャストはかなり強力。彼らの芝居を見ていても退屈しない。放心状態になって「どうすりゃいいんだ!」とヤケになりながら、自分を取り戻して立ち上がるイーサン・ホークなんて、最近の彼ではベスト・アクトじゃないだろうか? さらに悪漢に脅されながらも黙って殺される女精神科医のエピソードなどに、カーペンター直伝の「心意気」は確かに注入されていた。そういう意味ではカーペンター精神には忠実な映画化だと言える。そもそも…雪に閉ざされた設定やら味方同士の疑心暗鬼な内紛ってのは、カーペンターがハワード・ホークス作品をリメイクした「遊星からの物体X」(1982)を思わせはしないか? そのオマージュをやりたいから、「要塞」の外に雪を降らせたり「要塞」内部のメンバーを増やしたりしたんじゃないだろうか? だとすると、フランス出身のジャン=フランソワ・リシェ監督以下作り手たちの、カーペンター作品への並々ならぬ愛情を感じさせたりもする。オマージュを捧げた対象が、カーペンターが手がけた唯一のリメイク作品(笑)というあたりもシャレが効いているではないか。ただエンディングは…イーサン・ホークの「これが本当のオレさ!」という台詞も悪くはないが、オリジナル版のカッコよさには遠く及ばないような気がする。確かめたい方は、まだレンタル・ビデオ屋に残っているかもしれないボロボロのビデオを探していただきたい。

さいごのひとこと

 カーペンターのイエスタデイズ・ワンスモア。

 

「ジャーヘッド」

 Jarhead

Date:2006 / 02 / 20

みるまえ

 もう、湾岸戦争映画が登場する時期なんだろうか? 確かにすでに「スリー・キングス」(1999)が発表されているが、あれは異例の早さだった。本来、何かの戦争を題材にして作品が生まれるには、少なくとも映画では10年はかかるはず。…そう思っていたら、もうあれからとっくに10年以上過ぎているではないか。考えてみれば、僕もあれからかなり人生のコースが変わってしまった。…そんな感慨は抜きにしても、何だかまだ昨日の事のように思える。もっとも湾岸戦争ってのは現在のイラク戦争につながる、文字通り延長線上にある砂漠の戦争だ。だから昔の事のように思えないのかもしれない。全編ラップ・ミュージックが流れまくりというのも、今の戦争映画ならではだろう。興味深いのは、この「湾岸」映画をサム・メンデスが監督していること。「アメリカン・ビューティー」(1999)と「ロード・トゥ・パーディション」(2002)との間にはかなり落差があったが、今回の「ジャーヘッド」はこれまた相当な様変わり。その出来栄えは、まったく想像が出来ない。しかも予告編を見たら、主演が「今が旬」のジェイク・ギレンホールではないか。ここんとここいつの映画がワンサカ来るのは、決して偶然ではあるまい。若手最有力俳優に躍り出てきたギレンホール主演なら、決して見ないわけにはいかないのだ。

ないよう

 入隊してすぐに言いかがりをつけられ罵倒され、海兵隊に志願したのは間違いだったと思い始めた…。

 スオフォード(ジャイク・ギレンフォード)はそんな平凡な若者。故郷で待っている恋人の写真を胸に、ここ海兵隊の訓練所へとやってくる。だがそこでいきなりの洗礼。配属された部隊の部屋に入るや、「焼きゴテ」の儀式を行われそうになる。 辛くも今日から同僚となるトロイ(ピーター・サースガード)の心変わりで「焼きゴテ」は中止になるものの、今度は言いがかりとしか思えない上官の新兵いびりに悩まされる日々。途中で訓練中にビビった新兵が、運悪く脳天を撃ち抜かれる事故も起きていいかげん気が滅入る。そんなある日、サイクス三等曹長(ジェイミー・フォックス)から直々のお達しで、トロイとコンビを組んでの狙撃兵に抜擢されるスオフォード。だが、言われるほどそれが名誉な事なのかスオフォードには実感がわかない。そんな彼らが娯楽時間に映画「地獄の黙示録」を見てエキサイトしていると、いきなり映画が中断。彼らに出動命令が下る。クウェートに侵攻したイラク軍を殲滅するのが彼らの使命だ。まるで観光客のように旅客機でサウジアラビアに乗り込む、緊迫感ゼロのスオフォードたち。だがテントに集合してカジンスキー中佐の激を聞いていると、いやが上にもアドレナリンが高まるのを抑えきれない。「やっちまえ!」

 だが当面は、盟友国サウジの石油施設を警備するのが彼らの仕事。つまり、待機が任務だ。早速ダレる一同に、いきなりサイクス三等曹長のガスマスク装着訓練の号令が飛ぶ。「急げ急げ急げ!」…まるで間に合わなかった一同には、マスクに防護服の完全装備で灼熱の砂漠の走り込み訓練が待っていた。

 いつまで経っても出番がない。ダラダラと訓練で時間がつぶれていく。そんなこんなしている間に、スオフォードの故郷の恋人には男が出来ていた。仲間の妻からは堂々と浮気ビデオが送られて来たが、もはやその男を慰める気持ちの余裕がない。だんだん毒々しい気分になってくる。クリスマスにはヤケのやんぱちでスオフォードが密かに禁制の酒を持ち込み大宴会。それが仲間のチョンボでバレて発覚。罰として悲惨な便所掃除をやらされる羽目になったスオフォードは、ついにブチギレ。思わず発覚の原因をつくった仲間に銃口を向けるまで煮詰まった。だが一歩手前でふと我に返ったとたん、我と我が身の情けなさ汚らわしさに泣き出すスオフォード。

 そんないいかげん我慢も限界のある日、いよいよ「砂漠の盾作戦」の開始を迎えるスオフォードたちだったが…。

みたあと

 これがどうして「アメリカン・ビューティー」や「ロード・トゥ・パーディション」の監督の映画なのか?…と唖然呆然しながら、そういや「ロード〜」の時も「アメリカン〜」の痕跡は見られなかったよな…と妙に納得。新作のたびに様変わりするのが特徴とは、サム・メンデスは不思議な映画作家だ。ただ一つだけハッキリしているのは、舞台出身にして極めて映画的な表現を重視している点。…というより、「舞台出身」だからこそ、映画的である事に自覚的なのかもしれない。まるで湾岸戦争に同行したテレビ取材クルーの映像みたいに生々しい。銃弾雨あられの中、電池を取りに砂漠を走り回るギレンホールをカメラが追い回すくだりなど、画面がブレまくっちゃって何が写ってるのか分からないほどだ。そんなこの作品の特徴は、始まるや否や始まる「新兵いじめ」の連打。いきなり大いにキューブリックの「フルメタル・ジャケット」(1987)を意識した映画だと分かる。イヤ〜な気分になってくる。ところが「フルメタル・ジャケット」と違うのは、その後一切、主人公は一人も殺さないという点。「戦争状態」にはなっているのに、主人公は銃を撃たないし、撃てない。この皮肉ったらない。感覚がマヒしていく実感。こうして観客も、彼らの寒々しい「生殺し状態」にじっくり付き合わされる羽目になる。

みどころ

 何と言ってもジェイク・ギレンホール。「平凡な若者」の彼からブッ壊れていく彼まで、見事な変身ぶり。「フライトプラン」のピーター・サースガードもまたまたオイシイ役だ。彼は今一番の注目株だろう。

 驚くべきは彼らが「いざ出撃」となった時、まるで観光客のように旅客機で移動すること。当然海軍の空母とかに乗って行くものと思っていたから、これには心底驚かされた。一人も殺せないで終わることといい、この映画は従来の戦争映画の概念を根底から覆している。彼らはずっと待機を強いられ、戦闘らしい戦闘はほとんど行われない。

 なのに…兵士は心をむしばまれている。

 先に例を挙げたキューブリック「フルメタル・ジャケット」が戦争映画として最も画期的だった点は、その戦闘シーンが強烈だったからでも派手だったからでもない。戦争映画とはそれが「ディア・ハンター」だろうと「地獄の黙示録」だろうと「プラトーン」だろうと、今まで「これぞ戦争の真実」だの「迫真の出来」だのと言われる作品がゴマンとあったにも関わらず、すべてアッという間に色あせてしまうものだった。それは表現方法の進歩や見る側の意識の差でいかんせん避けがたい事なのだが、「フルメタル・ジャケット」はそれらの戦争映画と一線を画していたように思う。おそらくその迫真力は、今でも色あせていないのではないか? それは前半延々続く「新兵イジメ」の話でハッキリしている。あの映画は戦争の悲惨さや残酷さを描こうとしているのではなく、「軍隊」というシステムが本来持っている非人間性、「戦争状態」というシチュエーションが人間心理に与える害毒…を描こうとしていたのだ。そして今回サム・メンデスも、たぶんこれと同じ事を言っている。ハッキリと「ジャーヘッド」が、21世紀版「フルメタル・ジャケット」だと宣言しているのだ。そして結末の寒々しさも同じだが、この両者には音楽がストーンズからラップに変わった以上に大きな違いがある。今回、「戦争」ではあるのに戦闘をしない…できないという設定を持ち出すことによって、キューブリックが提起した問題をさらに純化し鋭くとぎすませて観客に突きつけているのだ。兵士たちは戦闘もしていないのに、人ひとり殺してもいないのにジリジリと腐っていく。どんどん立ち直れなくなっていく。逆に言えば…人間を一人ブッ壊すには戦闘を実際にやるまでもない。銃で人を殺すまでもない。

 なぜなら軍隊や戦争というシステムそのものが、元から非人間的だからではないのか?

こうすれば

 この映画に「こうしたら」なんて言いたい事はない。そして僕がゴチャゴチャ語るより、実物を見てもらった方が早い。だが先に述べたように、戦争映画とは時代の流れと共に色あせるのも早い。出来るだけ早くこの映画を、劇場のビッグスクリーンとサウンド・システムでご覧になることをオススメする。残念ながらビデオじゃ少々気が抜けるかもしれない。

さいごのひとこと

 フルメタル・ジャケット砂漠仕様。

 

「忘れえぬ想い」

 忘不了 (Lost in Time)

Date:2006 / 02 / 13

みるまえ

 この映画にはチラシを見た時から飛びついた。セシリア・チャン主演の泣かせるラブ・ストーリーらしいというだけで、飛びつく人は飛びつくはずだ。さらに監督が…「つきせぬ想い」(1993)を撮ったイー・トンシンであると聞いて、僕はさらに狂喜乱舞。おまけにイー・トンシン監督とセシリア・チャンと言えば、昨年公開の「ワンナイト・イン・モンコック」(2004)でも顔を合わせた二人だ。「ワンナイト〜」も実に素晴らしかったからねぇ。しかもしかも、共演が「つきせぬ想い」のラウ・チンワンと来れば最強ではないか!

 この「飛びつく人なら飛びつく」感を例を挙げて言えば…ジョン・カーペンターがカート・ラッセルとサム・ニールを起用してSFアクションかホラーを撮った時みたいなものと言えばお分かりいただけるだろうか(笑)。あるいはイギリスのワーキング・タイトル社がヒュー・グラントやエマ・トンプソンやキーラ・ナイトレイを使って、ラブ・コメかジェーン・オースティン原作映画をつくった時にも似ている。「ハズシっこなし!」「傑作に間違いなし!」と好き者を確信させる顔合わせだ。

 「ミュンヘン」?…いやいや、それどころではない。この映画は初日から見ずにはいられない。いや、見なきゃマズイでしょ?

ないよう

 ある夜のこと、香港名物「ミニバス」の車庫前に佇む一人の若い女シウワイ(セシリア・チャン)。彼女は婚約者の帰りを待っていた。それはミニバス運転手のマン(ルイス・クー)。彼はシウワイの元に出来るだけ早く戻ろうと、慌ててバスを走らせていた。だが、そんなマンの運転するミニバスが交差点でトラックと激突。運転席は大破した。そこにたまたまやはりミニバスを運転して通りかかったのは、マンの同僚の運転手ファイ(ラウ・チンワン)。彼は慌てて血まみれのマンに駆け寄ると、彼は携帯電話に手を伸ばしながら息絶えた。ファイの手に残されたのは、渡そうとしていたマンの携帯電話…。やがて病院で、ファイはマンの亡骸を見て号泣するシウワイを目撃する事になる。さすがに茫然自失のシウワイだったが、彼女は泣いてばかりはいられなかった。マンには自分が引き取って育てている幼い息子ロロ(原島大地)がいたのだ。シウワイはロロを自分が引き取って育てる決心をするが、そんな彼女に実家の両親や拝金主義の姉は冷たい。さらに彼女は壊れたマンのミニバスを修理して、自活のため自分もミニバスの運転手になろうとする。だが、そうは簡単にいかない。そもそもシウワイはロクに運転した事もないし、バスを自由自在に扱うなんてとてもとても。組合に入ろうとしても入会金が払えず、最初は「流し」でやらねばならなくなる。駐車禁止の場所に停車しては警察に罰金を取られ、酔っぱらいには車内にゲロを吐かれる。客を拾おうとしたら他の縄張りを荒らすことになって、脅されたあげくに客を取られる。あげくの果てに客に「こども銀行券」でダマされる。そんなこんなで実入りが寂しいにも関わらず、持ち出しは何かと多くカネは底をついてくる。ゲッソリ疲れてお先真っ暗。

 そんなシウワイを見るに見かねて、あれこれ面倒見始めるのがファイだった。最初は例の携帯電話とマンの最後を看取ったという縁もあって気になってはいたのだが、元々善良なファイはシウワイがボロボロになっていくのを見てられない。こうしてバス運転手の流儀を教え始めたのを皮切りに、どんどんシウワイの身の周りの世話を焼き始めるファイ。そんなファイに、ロロまですっかりなついてくる。シウワイは頑なに一人で何とかしようとするが、家賃や幼稚園の月謝も滞りいよいよ困窮。いよいよロロも孤児院に手放さねば…という状況まで追いつめられた時、シウワイの危機を救ったのはまたしてもファイだった。そんなファイの優しさに、ついにシウワイも心を開く。だがいよいよ彼らが新たな生活を始めようとした時、ファイが今まで黙っていた身の上を話し始めた…。

!!!映画を見てから読んで!!!

みたあと

 むろんセシリア・チャンの主演作だから、イー・トンシンの監督だから、共演がラウ・チンワンだから、いい気分になれるのは確かだ。このメンバーでこの手の映画と来れば、過去の彼らの作品を見てきている人間ならそれだけでもう「信頼のブランド」になっている。ハズシはない。ひたすら健気に頑張るセシリア・チャンは、そのどこかハスキーな声もとても魅力的。やっぱり見ていて「頑張れ」と声援してしまう。ちょっとアブラっこくて濃いラウ・チンワンは、そのオヤジ味ゆえに献身がキレイ事に見えない。ヤボっちいからカッコつけてる偽善に見えないのだ。ただ、ここに例えば「つきせぬ想い」の驚きやすばらしさを期待したら、やっぱりちょっとキツイものがある。実は前半部分でセシリア・チャンの健気な頑張りに声援を送りながらも、見ている側としては少々疑問を感じずにはいられないのだ。

 まずはセシリア・チャンが死んだ婚約者の「思い出のバス」を修理するのは分からないでもないが、それで自分もバス運転手になろうとするのがムチャだ。何しろ不慣れなものだから客にはダマされるわ、警察にもヤクザにも脅されるわ、組合にも入れないわ客は他のバスに取られるわ…出費がかさむ割りには実入りは良くない。精神的にも肉体的にも限界に来ちゃうだけでなくて、経済的にも行き詰まってしまう。おまけに居眠り運転はするわ、そもそも運転に不慣れだわで、毎日危なっかしくて仕方がない。自分が事故でキズつかないまでも、他人をキズつけない保証はどこにもない。事故ったらどうする? 婚約者を交通事故で喪った女にしては、あまりに思慮が足らないのではないだろうか? 「バス運転手」に固執する事が「彼への想い」のためか「彼の一人息子を養う」ためかハッキリしないのもネックだ。仮に「彼への想い」なら「そこまでするか?」…と不自然な気がするし、「彼の一人息子を養う」ために自活しなきゃならないとすれば、何もこの方法でなくても良かったはず…と思えてしまう。そもそもセシリア・チャンはそれまで何をして働いていたのか? 本人がどんどん追いつめられたあげく経済的にもお手上げ状態になっていくのを見ると、この仕事に拘らねばならない道理が納得できない。この人、他に出来る仕事がないのか?

こうすれば

 「単騎、千里を走る。」を見れば分かるが、無理のある設定の脚本なんて世の中に珍しいわけではない。ただチャン・イーモウの場合は、本来の演出力の他にそこまで持っていく段取りのうまさがあった。今回だってまずセシリア・チャンが仕事を探してるが見つからない…とか、バス運転手を選択せざるを得なくなる段取りを、きちんと順を追って見せてくれれば違っていたんじゃないだろうか。実際にセシリア・チャンが婚約者の一人息子を育てなければならない理由など、大分後になって申し訳程度に説明される段取りの悪さ。婚約者の両親が高齢で経済的にも苦しく育てられないあたりとか、実の母親が育てられない事情があるあたりとか、もっと早い段階で合理的に説明してもらえればスッキリ見れたのにそうなってない。バス運転手を選択した理由も、合理的にキチンと説明してもらえれば疑問はわかないはず。でないと、単なる意固地になった女にしか見えなくなってしまう。好感度抜群のセシリア・チャンでなければ、観客はかなり反発を感じてしまうだろう。もうちょっとうまいやり方はなかったのか。ムチャな脚本をムチャじゃなくリフォームするやり方は、ピーター・ジャクソン版「キング・コング」を見れば参考になるはずだ(笑)。

みどころ

 少しづつ気持ちが寄り添ってくる二人を見ているのは微笑ましいし、周囲の横ヤリなどの障害をはねのけて万事めでたしとなりそうなところ、「オレたち、お互いただ寂しかっただけじゃないの?」という自らの醒めた現実感覚で自壊してしまうのもリアリティがある。実際観客の僕らだって、二人が近づいていく姿を見るのは微笑ましいものの、これで「めでたしめでたし」だったらウソっぽいと思い始めたところだったからね。このあたり、イー・トンシンの円熟の語り口を感じさせてくれる。その後のやり直しがご都合主義でも、この醒めた部分がリアルだから許せるのだ。あと、幼い男の子役の原島大地クン。大体、うまい子役と見ると誰もいない所に連れて行って殴って泣かせたくなるのがこのオレ(笑)。そのくらいガキがトコトン嫌いな僕が、この子にはスッカリやられてしまった。大変な子役だよ、こいつは。

さいごのひとこと

 男選びより仕事選びは慎重に。

 

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