「スキャナー・ダークリー」

  A Scanner Darkly

 (2006/12/18)


  

今回のマクラ

 実は正直言うと、最近すごくユウウツになっている事がある。それは、最近ますますひどくなってきた僕の物忘れだ。

 ただし僕の「ついウッカリ」…は今始まったことではない。元々、僕は集中力を欠いているのか、逆に集中力が人並みはずれて強いのか、何か一つ以上の事を同時にできない。何か考え事をしている時は、その事しか頭にない。だから子供の頃から文具や持ち物をなくし放題。その都度、親にイヤというほど叱られたが、一向に治る気配がなかった。傘に至っては、生まれてから何本なくしたことか。

 ただ、これが自分が好きなことや、打ち込んでいることとなると話は別だった。

 映画のことやこのサイトのことで、ウッカリ忘れたことがないとは言わないが、かなり複雑な事でも結構覚えているから自分でも驚いていた。仕事の面でも、ライターになってからは迂闊な「ウッカリ」はほとんどなかった。少なくとも、僕のプライベートでの物忘れぶりとは比べモノにならなかった。前述のように「集中力が人並みはずれて強いのか」…と思ったのも、実はそこに理由がある。つまり、何かに激しく集中してしまうから、他の事が目に入らなくなるのかも…と思っていたのだ。

 だが、それにしても…今年に入ってからの忘れぶりはシャレにならない

 昨年の夏に父親が倒れて入院した時、病院の扱いのせいで言動が危うくなったことは、以前どこかで語ったような気がする。その時は僕も心を痛めたが、父親の場合は運が味方した。幸い親身になってくれる医師と病院に巡り会い、酸素吸入を行うようになると、父親の言動はみるみるうちに快復したのだ。僕ら家族が懸念していたような、意識朦朧のような状態ではなかった。単に適切な処置を行ってもらえなかったので、一時的に良くない状態になっていただけだ。ところが父親の言動がしっかりしてきた頃、今度は自分自身の意識が怪しくなって来たことに気づいたのだ

 それはいつ頃の事かは思い出せない。固有名詞などがスッと口から出なくなった…と言っても、おそらく誰でも年齢を重ねればそうなると一笑に付されてしまうだろう。だが、今度ばかりはどうも違うようだ…と徐々に気づかされてくる。

 映画の題名が分からない、監督や俳優の名前が出てこない、そもそも名前を覚えられない。職場でも人によって何度聞いても覚えられない名前が出てくる。それも、一緒に毎日仕事をしている同僚の名だ。

 仕事で1日何十本と電話をかける事になったが、かけて相手が出たとたんに、相手が誰だか思い出せない。何の用事でかけたのか思い出せない。1日の終わりに、やろうと思っていた用事を済ませたかどうか忘れている。ここだけの話、毎日が綱渡りをするような思いで仕事をしているような状態だ。

 いくら何でも、今までこんな事はなかった。これは毎度お馴染みの僕の物忘れとは違う。

 先日、調べモノをしに国会図書館に出向いた時など、まさに冷や汗ものだった。マイクロ・フィルムを持って右往左往。その都度、座った席に上着をかけては置き忘れている。慌てて取りに戻ったはいいが、新たな用事で別の席に座るとまた上着を忘れている。何度やっても懲りずにまた忘れてしまう。そんな事を5〜6回も繰り返すハメになった。それだけではない。大きな声では言えない話だが…慌てて上着を取りに戻った際に、今度は大事なマイクロフィルムを置いて来てしまう始末。また国会図書館では館内でサービスを受けるためのカードを手渡されるが、このカードも何度どこかに忘れたか分からない。一度など間違えて人のカードを持って行こうとしてしまった。これはいくら何でもひどすぎる。

 もっと驚いた事には…一月ほど前に町医者の待合室で待っていた時のことだ。そこに置いてある、かわいいネコの人形の名前が思い出せない。それが「キティちゃん」であることに気づいたのは、20分後に家に帰ってからだ。マジメにこれはマズイのではないか。

 極め付きは先週のことだ。夜の10時過ぎに職場を出た僕は、四ッ谷駅で地下鉄を南北線から丸の内線に乗り換えた。そして自分が乗った車両が走り出したとたん、いつも肩から下げているカバンを忘れている事に気づいた。きっとホームで電車を待っていた時にカバンを下に置き、そのまま考え事をして電車に乗り込んでしまったのだ。慌てて次の駅で飛び降りた僕は、すぐに四ッ谷駅に取って返した。だが、ホームにはカバンなど影も形もない。慌てて遺失物係に訴えても相手は半信半疑。そもそも、ホームにカバンを置き忘れるなんてことがあるか? 実際、僕にはホームに置いた感覚もない。そこで今度は、降りた電車の方に忘れたのかも…と別の路線の方の駅に戻る。こうして八方手を尽くしてみたが、考えれば考えるほど終始「自分がカバンをどうしたのか」…の感覚が一切ない事に気づく。思い余って自分の職場に電話してみると…僕が最も想定していなかった可能性が、現実のモノだと知らされるではないか。

 カバンは職場に置いたままだった!

 僕は最初から、カバンを持たずに職場を出ていたのだ。しかし、そんなことがあるのか。さすがに毎日のことで、本来が忘れるとか忘れないとかいう問題ではない。むしろ習慣的なモノで、頭で覚えていなくてもカバンは自然と担いでいるはずだ。それがなぜこんな事に…?

 もう笑ってはいられない。笑い事にしては度を超している。他人にとってはお笑いぐさだろうが、これは僕にとっての死活問題だ

 それは単に物忘れがひどくなったというだけではない。

 自分が壊れていく…自分が自分でなくなっていくという恐怖なのだ。

 

見る前の予想

 キアヌ・リーブスウィノナ・ライダー、さらにはロバート・ダウニー・ジュニアウディ・ハレルソンという豪華かつクセのある顔ぶれで、「ブレードランナー」原作者として名高いフィリップ・K・ディック原作を映画化。普通に考えれば、「異色のSF作品が誕生」ぐらいの想像しかつかないが、アレレ?…何だかこのチラシを見る限りでは、これってアニメーションなんじゃないか?

 そう言えば、かつて似たようなスタイルの作品があったような。イーサン・ホークとかが演じた実写フィルムをなぞって絵を描き、全編アニメにしちゃったような妙な映画があったような気がする。そうなると、その手法の不思議さだけでも見たくなるのが人情というもの。例え失敗作でも、見る価値があるというものだ。

 

あらすじ

 今から7年後のカリフォルニア州アナハイム。

 汚いアパートの一室で、長髪のむさ苦しい男フレック(ロリー・コクレン)が髪の毛をクシャクシャとかき乱している。何と髪の毛から、ウジャウジャと無数の虫がわき出てくるではないか。たまりかねたフレックはシャワーを浴びるが、そんな事では追いつかない。フレックはたまりかねて、ある男に電話で連絡をとる。フレックはわき出る虫を何匹かビンに詰めると、その男に会うために車で外出した。だが、ビンの中からはいつの間にか虫が消えていた

 ファミレスでフレックと顔を合わせたのは、妙に口数が多くて理屈っぽいバリス(ロバート・ダウニー・ジュニア)なる男。バリスはフレックに「副作用がひどくなってるぞ」と忠告した。そう…フレックはある麻薬のジャンキーなのだ。それもかなりひどい状態だ。

 一方警察署の一室では、街の名士たちを前に一人の捜査官が一席ぶとうとしていた。しかしこの捜査官、よく見ると点滅するネオンサインのようだ。瞬間的に身体のさまさまなパーツが変貌していく。ある時は男、ある時は女。ある部分は若者、ある部分は老人。ある瞬間は白人、ある瞬間は黒人。チカチカチラチラと刻一刻と部分的に姿を変えている。それもそのはず。彼は誰にも正体を明かせないため、「スクランブル・スーツ」なるシロモノを着て一同の前に立っていたのだ。彼の名前は暗号名で「フレッド」(キアヌ・リーブス)。現在、巷に急速に蔓延している新型の麻薬「物質D」を追って、ジャンキーたちの巣窟に潜り込んでいるオトリ捜査官なのだ。そして今は、有力者たちに麻薬捜査への金銭的支援を要請すべく、「D」の被害の実態を訴えようとしているところ。

 「D」の威力たるや強烈で、効き目もすごいが副作用もひどい。最後には確実に廃人になってしまうシロモノなのだ。

 ところがフレッドはしゃべっているうちに、なぜか事前に決められていた話から脱線していく。そのうちうまく言葉が出なくなる。慌てて何とか話をまとめて終わらせたものの、普段と違う違和感を感じるフレッド。そして警察の人間も、何やらフレッドの異変に気づいたようだ。

 そんなフレッドは、ジャンキー仲間の間ではアークターなる名前で通っていた。「D」の売人ドナ(ウィノナ・ライダー)、やたらお喋りのバリスと少々オツムのネジが緩んだラックマン(ウディ・ハレルソン)という居候と一緒に暮らしている。バリスもラックマンも、アークターとドナは恋人同士だと思っていたし、二人は独特の親しさで付き合っていた。だが、実際には彼女は肉体関係を嫌っていて、アークターことフレッドとは一切関係を持っていなかった。

 その頃フレッドは、上司から「アークター」なる男が凶悪な組織と関係しているらしい…というタレ込み情報を聞かされる。そこに現れた情報屋は、何と居候のバリス。理屈屋で皮肉屋のバリスは、何を逆恨みしたのかアークターことフレッドを陥れようとしていたのだ。だがバリスは、部屋にいる捜査員の一人がそのアークターことフレッド当人とは気づかない。麻薬捜査官はみな警察署内では例のチカチカ変身する「スクランブル・スーツ」を着用しているから、その正体が分からないのだ。しかも上司もフレッドも「スクランブル・スーツ」着用だから、お互いの正体が分からない。だから上司は、アークターがフレッドのことだとも気づいていない。かくして何の因果かフレッドは、アークターこと自分を捜査するハメになってしまう

 やがてバリスの手引きで、アークターことフレッドの自宅のあちこちに監視システムが仕掛けられる。こうして毎日フレッドは警察署に赴き、自分の家を自分で監視するという奇妙な状況に陥ってしまうのだ。

 さらにフレッドの気分を複雑にしていたのは、警察上層部がやたらと彼に検査を強いてくること。明らかに「D」中毒として彼を疑い始めたのだ。しかも悪いことに、フレッド自身どうもそれが図星なのではないか…という気持ちになりかかっている。物事の認知力が低下しているし、何やら幻覚を見ているような気もする。もっとも、彼自身はさほど「D」を服用している覚えはない。捜査上仕方なく、必要最小限度だけ服用しているつもりだ。

 いや…最近はストレスが多いので、多少は量が増えているかもしれないが…。

 

 

 

 

 

 

 

念のため映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

  

見た後での感想

 監督がリチャード・リンクレイターだと聞いて、何となく分かったような分からないような(笑)。

 「恋人たちの距離<ディスタンス>」(1995)とその続編が代表作ということになるのだろうか。その主演者イーサン・ホークとはいろいろ縁が深いようで、「テープ」(2001)なんて一癖ある作品もある。このへんの作品系列は、ちょっとインディペンデント系というかアート系の臭いが濃厚。その一方でジャック・ブラックのオーソドックスなコメディスクール・オブ・ロック(2003)なんて娯楽の王道作品もある。まったくつかみどころのない監督だ。そして僕の記憶に残っていた「イーサン・ホークが出ている実写からアニメへの転換作品」とは、やっぱりこの人の作品「ウェイキング・ライフ」(2001)のことだった。

 そしてこの技法のことだったら、実は僕は前から知っている。それはロード・オブ・ザ・リング(2001)の感想文でも触れた「ロトスコーピング」という技術だ。

 詳しくは以前に語ったからここではクドクド述べないが、元々は実写フィルムをひとコマひとコマなぞってアニメの絵を描くこと。それによって、実写のようなリアルな動きをアニメに取り入れるのが最初の目的だった。実際ディズニーの「白雪姫」(1937)は、実際に部分的にそれで描かれているはずだ。

 僕がこの技法を知ったのは…というと、ラルフ・バクシがアニメ版「指輪物語」(1978)を制作した際に、この技法を導入したと聞いたのだ。もっとも、それは成功ではなかったとも聞いている。僕自身はこの映画を全編見たわけではないが、部分的にはテレビで見たので何となく批判の意味は分かる。要は合戦場面など複雑な場面にこの技法を安易に導入した結果、単なる手抜きのようになってしまったようなのだ。実際、僕が見た場面などは、不鮮明で画質が悪いモノクロ・フィルムに、単に人工着色しただけ…みたいな仕上がりになってしまっていた。あれではアニメとは言えないのではないだろうか。

 そして、問題の「ウェイキング・ライフ」。実は「ウェイキング・ライフ」自体は僕は未見で、単に予告編で一部を見ただけだ。しかしそこから類推する限り、「ウェイキング・ライフ」とこの「スキャナー・ダークリー」のロトスコーピング技術は、従来のそれとはいささか異なっているようなのだ

 むろん技術的に異なるのは当たり前のことだ。従来のロトスコーピングは一枚づつ手で実写をなぞっていったものだが、現在のそれはデジタル・ビデオで撮影した実写をコンピュータでなぞる。技術の進歩が確実に制作現場に反映されている。だが、ここで言っている従来のロトスコーピングと現在のそれとの違いは、そんなことではない。むしろそんな「手段」の違いではなく、根本の「目的」が違っているのだ

 そして、その「目的」は容易に分かる。映画の実物を見なくても分かる。それは虚実の混濁…真実と幻影がゴチャゴチャになって、どこからどこまでがリアルなのか分からなくなった状態を視覚的に表現することなのだ。

 元々が実写の映像だから、動きもシチュエーションもリアル。だが、実際にスクリーンに映っているのはそれをなぞった絵だから、リアルと言っても所詮は作り物だ。時には現実離れして誇張されてもいる。そんな不思議な効果が、麻薬のトリップ感とそれによる人格崩壊を効果的に表現している。これは見ていて実に不思議な感覚だ。

 だが…かなり特異なスタイルを持っているにも関わらず、単なる思いつきで面白がってつくってる作品には見えない。

 お話自体は、正直言って好き嫌いが分かれるシロモノだろう。映画の大半は、怠惰でクレージーなジャンキーたちがツルんで、ああでもないこうでもないとグチャグチャくだらない戯言をダベったり、くだらない事をしたりしている状態が延々続く。だが、表現自体がとても面白い効果を出しているので、僕は見ていて見飽きなかった。

 面白いのは、アニメになってもキアヌ・リーブス以下のキャストがちゃんとその顔に見えること。そしてウディ・ハレルソンやロバート・ダウニー・ジュニアは元々この手のクレージーな役にうってつけのところに、アニメになることを意識してか、実写撮影時にかなりアクションを派手めに演じているらしいあたりがさらに面白い。

 何よりジャンキーだの破滅的な生活だの…という設定に、ウィノナ・ライダーやダウニー・ジュニアの「荒れた過去の私生活」がダブって見えてくる絶妙のキャスティングが効いている。そもそも主演のキアヌ自身が、現実と幻影が交錯するマトリックス(1999)で名を挙げた役者ではないか。だからアニメのフィルターを通した演技表現でも、十分そのキャラクターは伝わってくる。どれも徹底して的を射たタイプ・キャスティングなのだ。

 ともかくこの映画がこういうスタイルをとったことには、ちゃんとした揺るぎない必然性がある。題材と表現が見事に一致している。だからこそ、この技法が奇をてらったものに見えなかったのだろう。

 

見た後の付け足し

 原作者のフィリップ・K・ディックがかなりひどいジャンキーだったという事を、情けないことに僕はまったく知らなかった。だから、この物語はジャンキーの見た世界をかなりリアルに描いているものであり、そこに原作者の「私」的な視点が濃厚に感じられる…という巷の評判は、たぶん間違いないのだろう。

 確かに原作者はジャンキーだったから、クスリで崩壊していく主人公にシンパシーがあったはずだ。

 だが、この映画を「ジャンキーの話」なのだと片づけてしまったら、ちょっと何かが違うという気がする。

 何よりこの映画が「ジャンキー映画」ならば、ジャンキーでない観客にはどうでもいい話ではないか。クレージーでくだらない連中がゴキブリみたいに這い回る話と受け取られかねない。少なくとも僕にはそう思えてしまう。僕がこの映画に惹かれたのは、そんな点ではない。

 この映画で面白い点は、ごくごくさりげなくではあるが…やんわりと人々が管理されていく社会の描かれ方だ。

 物語の中盤あたりで、街頭で社会批判をやらかした男がサッサと官憲に連れて行かれる場面が登場する。それはあくまで物語の背景にチラリと出てくる小エピソードに過ぎず、この映画の重大な要素とは思えない慎ましやかな描写だ。ご承知の通り近未来SFに「管理社会」は付き物で、近作トゥモロー・ワールド(2006)に限らずどこでもガチガチの全体主義国家がこれでもかこれでもか…と描かれる。それらと比べれば、この描写はほんの隠し味程度。どうって事のない描かれ方に過ぎない。一応「近未来SF」の体裁をとるために、「それっぽい要素も入れてみました」的なニュアンスにしか見えない。

 だがこの映画を見ているうちに、「一応入れてみました」的にしか見えない「全体主義国家」の要素が、意外に重要な意味を持っていることに気づく。そもそも人々の間に蔓延し、ゆっくりと人々の人格を壊していく「麻薬」とは、こうした「管理社会」「全体主義」のメタファーではないだろうか…。この映画を見ている間に、僕には何となくそう思えたのだ。

 実は今、僕は仕事で戦前の日本について調べている。国会図書館で昭和10年ぐらいから13年ぐらいまでの間の新聞をどんどん見ているのだが、ページをめくっていくたび刻一刻と世の中がキナ臭くなっていくのに気づく。

 むろんそんなキナ臭さは、あくまで想定内のことだ。昭和16年の暮れには日米開戦しているのだから、それは当然そうなるだろう。むしろ僕にとって想定外だったのは…日本の社会が事が深刻になる寸前まで、「鬼畜米英」とか「一億火の玉」だとか「撃ちし止まん」とかいうムードと驚くほど無縁であることだ。

 そして、キナ臭くなり始める前の日本は、驚くほど今の僕らの社会に似ている。どこか刹那的で享楽的で唯物的なところ…そんなネガティブな面での共通性もさることながら、みんなが開放的で自由を満喫していた…むろん不自由や規制はあっただろうが、それでも一定の枠内での自由は行使していた…らしい点が何より現代と似ている。

 チャップリンの映画を見ていたし、ヘレン・ケラーの来日に大騒ぎした。モダンなファッションや車やウィンタースポーツに夢中になっていた。むろん一方でどんどんヤバイ事が起きていたのだが、人々は驚くほど無頓着で無自覚だ。この時点ではみんな別にガチガチに愛国的でも軍国的でもない。根性もなさそうだし思いつめてもいなさそうだ。適度にモダンで合理主義的で、あんなアナクロで反動的なことなんて言ってなかった。

 なのに、あんな事になってしまった

 どうしてそうなったのかは分からないが…言おうと思えば言えるのだろうが、そこには異論がアレコレあるだろうから後回しにするとして…なぜかいつの間にか、みんなは自分たちの自由をいとも簡単に差し出してしまった

 みんなダマされた訳でもなければ集団催眠にかかったわけでもない。教育が人々を誤った方向に導いていったわけでも、マスコミのミスリードに引っかかったわけでもない。独裁者がいきなり煽動したわけでもなければ、警察や軍隊が力づくで脅したわけでもない。そんなに分かりやすかったらどんなにか良かっただろうが、おそらく現実とはそんなものではあるまい。僕らは戦後、悪い政治家と軍人が善良な人々をダマしたり脅したりして追い込んでいった…と聞かされてきたが、そんなのは大ウソだ

 どうも僕には…人々がほんの軽い気持ちで、自分から好きこのんで軽率にどんどん誤った方向に走っていったとしか思えない。自分で勝手に足を踏み外して、自分で勝手に壊れていったとしか思えない。そして本来はファッションや車の話をしていたような人々が、みんな「自分が自分でない状態」になっていったとしか思えないのだ。すべては愚かな国民自身が、自分で選んだ道だった。

 「麻薬」ってのは、そういうヤバイ状態のメタファーではないのか。

 自分から軽い気持ちで始めて、どんどん溺れて後戻りできない状態になって、自分で自分を壊していく。しまいには自分が自分でなくなっていく。ついには自分を殺すハメに陥ってしまう。捜査官であるこの映画の主人公が「ミイラとりがミイラ」になってしまう…だけでなく、自分が壊れた後も自分の意志とはまったく別なところで利用され尽くすというのは、つまりそういう事だろう。

 それはかつてこの国にあった事によく似ているし…ひょっとしたら今もそうかもしれないのだ。

 

 

 

 

 

 

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