「ウィンター・ソング」

  如果・愛 (Perhaps Love)

 (2006/11/27)


  

3年ぶりの「あの街」を訪れて

 まだ今年も終わっていないうちに総括するのも何だが、今年は春先から本当に忙しい年だった。

 昨年の年末も多忙で、仕事のカタがついて休みに入ったとたん、いきなり救急車で運ばれる騒ぎ。今年は今年で、4月末に胆のうの手術で入院していた。しかし入院中も病室にパソコンを持ち込んで仕事。退院したらしたで、ゴールデンウィークまったく休みをとらなかった。

 ここであらかじめ断っておくが、僕は決して勤勉な男ではない。むしろ怠け者というべきだろう。これらの強行軍も自分が進んでやったというよりは、そうせざるを得なかったというのが本当のところだ。正直言ってそんな状況に追い込まれていた。

 8月からは土日も欠かさず仕事場に出るハメになった。そんな状況がつい先日まで続いたのだ。だが、ついに懸案だった仕事も無事終了。職場のみんなには申し訳なかったが、僕は溜まりにたまった代休をブチ込んで半ば強引に2週間の休みをもぎとり、思い切って東京を離れたわけだ。

 実はこれさえも、まるっきり仕事と無関係ではない。前の仕事の途中で、偶然ある興味深い話を知った。その話は、うまくすると面白い本に出来るかもしれない。そんな訳で、前の仕事が超多忙な中でも、僕はこっそりこの「面白い本」の下調べをしていた。ただし、これがそのまんま仕事になるかどうかは未知数だ。

 この話を進めるためには日本各地に取材しなければならないが、会社というところはちゃんと金になると分からなければ一銭も出しはしない。いやいや…その事を別に恨みはしない。本当だったら、雇っている人間の給料だって踏み倒したいというのが本音だろう。そうでない経営者など、人類の歴史上いたためしがない。会社のそんな姿勢はいつまでも変わる訳もないし、取材費が出るのを待っていたら日が暮れてしまう。そこで僕は「自分の旅行」を兼ねて、取材をやってしまおうと思ったわけだ。早い話が、上の人間には何も期待しないというのが本音だ。これは僕の生涯を通じての信念だ。

 本来だったら、僕だって社員が自腹を切る状況を良しとはしない。だが、今回の場合はあまりに「話」が魅力的すぎた。どうしても、これを本にせずにはいられない。それにここだけの話、会社がこの企画を要らないと言うなら、僕が単独でどこかで仕事にしてしまってもいい…とさえ思っていたわけだ。むしろ後者が正しい。

 で、早速飛行機に飛び乗って北の街へ飛び、帰って来たらすぐに慌ただしく南の街を目指した。また戻っては、次に新幹線で西の街へ…。こんなに短期間にあっちこっち移動したのも初めてだが、それだけの価値はあった。とても有意義な旅だったと思う。

 中でも感慨深かったのが、久しぶりに訪ねた「あの街」だった。

 実はつい3年前まで、僕は「この街」を毎月のように訪れていた。いや、毎月のように…ではない。本当に毎月訪れていたのだ。その理由は改めて語るまでもないだろう。そこに愛する女が住んでいたからだ。

 だが、毎月飛行機で「その街」を訪れるという習慣は、僕にとてつもない出費を強いることになった。毎日の携帯電話代もバカにはならなかった。ケチ臭い事を言うようだが、これはとても重要なことだ。男と女の関係において、金とセックスはすごく重要なファクターだ。ことに金。これさえうまくいけば、大概の男女のトラブルは片づいてしまう。これは冗談で言ってはいない。

 僕はそれまで自分を貧乏だと思った事はなかったが、その女に言わせるとてんで「貧乏人」らしい。実際、彼女は何だかヤケに金のかかる女だったのだ。おまけに当時、僕は仕事の面でも恵まれた状況にいなかったため、貯金はみるみる減っていった。20年近くかけて貯めたお金なんて、使い始めたらすぐだ。

 付き合いは3年ほど続いたが、最後の半年などはドロドロの状態。確かに、もうそれ以上彼女との関係は続けられなかった。僕の経済状態が許さなかった。だから「先が見えてきた」時に救われた気持ちになったのも事実だ。それでも、人の気持ちというものは簡単に整理がつくものではない。結局その後半年間、無駄な金を注ぎ込むことになってしまった。まぁ、それも納得いかせるため…に必要な時間だったのだろう。

 何より、「女はお金のない人のところには行かないものよ」という言葉はこたえた。元々「お金がない」んじゃないくて「お金がなくなったんだ」と言いたかったが、何を言っても虚しかったろう。

 それから3年。正直言って、自分の暮らしを建て直すまでそれだけかかった。預金通帳は限りなくゼロに近くなっていたし、仕事も私生活もムチャクチャになっていたから、健全化するのは並大抵のことじゃなかった。正直言ってその女のことは考えたくもなかったし、「その街」も見たくなかった。

 だから今回、取材で「その街」を訪れなくてはならなくなった時、正直言って複雑な心境ではあったのだ。

 実は、もはや「その街」に彼女はいない。だから出会う心配は無用だった。だが、街を歩けばイヤでも昔を思い出すだろう。せっかく立ち直った気持ちになっているのに、僕は再びウツに沈みはしないだろうか。

 だがもう一方で、僕は立ち直った自分を試してみたいという気持ちにもなっていた。「あの街」に行っても、何も思い出さないくらいになっていればいい。自分は危機を脱しているかどうか、それを知るいい機会ではないか。そんなわけで久々の長期休暇の最初の訪問地に、「あの街」を選んだようなわけだ。

 こうして機上の人となった僕だが、実際のところはどうだったか。

 思い出さない訳がない。

 3年経ってみても、かって知ったる「あの街」だ。行く先々であれこれ思い出す。そもそも泊まったホテルからして、当時よく使ったホテルだった。取材で出かけた先のすぐそばには、僕が彼女と初詣に行った神社があった。今は人けのないその境内ではあるが、あの日のことは昨日のように思い出す。

 つらかったか?…いや、つらくはなかった。

 むしろ最後は泥沼のような罵り合いで終わった関係なのに、楽しかったことしか思い出さなかった。そういや当初の本当に心温まる日々を、僕はすっかり忘れていた。今では「何であんな女と関わったのだろう」…としか思わなくなっていた。だが、そんなひどい状況だけの訳がない。街のあちこちで、僕はそんな楽しかった記憶のカケラを次々発見した。彼女と知り合った幸せを再び思い出したのだ。あの女も、最初は僕によくしてくれた。あれは確かに得難い体験だった。

 では、あの日に戻りたいか?

 いや、それはノーだ。今回、自分一人で「この街」を縦横無尽に移動してみると、「この街」の楽しさ素晴らしさが痛感された。だが当時、僕はそんな事をこれぽっちも思っていなかった気がする。そんな余裕が全然なかった。こう言ってはあの女に申し訳ないが、僕は彼女を楽しませることに全力を使い果たしていたし、「この街」を楽しむ余力など残っていなかった。自分が思ったようにも動けなかった。自由に「この街」を楽しめる今になってみると、一人っきりでいることの有難みが痛感される。正直言って、もはやいちいち彼女のゴキゲンをとりながら過ごしたくはないのだ。

 「その街」での最終日、たまたま僕は、彼女と初めて出会ったホテルにやって来た。わざわざそこに行こうとした訳ではなかったが、本当に偶然そこに辿り着いてしまったわけだ。そして、僕は自分が無意識に探していたものを、そこで見つけることになった。

 ホテルは、取り壊しの真っ最中だった。

 僕の「その街」訪問があと一ヶ月早かったら、あるいは遅かったら、僕はそのホテルの取り壊しの現場を見ることはなかっただろう。その時、僕は運命の不思議を感じずにはいられなかった。これを僕に見せたかったからこそ、運命はこの時に僕をここに誘い出したのだろう。

 その時本当に、僕はすべてが終わったと理解した。そして納得できた。僕の中で永久に、彼女が葬られたことを悟ったのだ。

 

人生は本人主演の映画のようなもの

 かつての上海を思わせる街並みに、「その男」(チ・ジニ)はフラリとやって来た。「その男」は路面電車に乗り込むと、一緒に乗っている乗客たちに思いを馳せる。

 誰もが自分の人生という映画の主役を務めている。あるいは他人の映画で、重要な役を演じるだろう。だが時として本物の映画と同じように、自分の役がカットされることもある。「その男」はそんなカットされたフィルムを大事にとっておき、誰かが必要になった時に「復元」するのが仕事だ。

 「その男」がやって来た上海は、実は映画の撮影所のセットだ。今もここで大がかりな映画の撮影が行われている。歌って踊るミュージカル作品だ。大スターの主演女優スン・ナー(ジョウ・シュン)と監督のニエ・ウェン(ジャッキー・チュン)は、特別な信頼関係で結ばれている。もちろんそれは、単に何作も一緒にヒット作をつくってきたという仕事上の信頼関係だけではなかった。

 だが今のところ、ニエ・ウェン監督は機嫌が悪い。三角関係の男女を描くこの映画の物語に、リアリティがないと焦っているのだ。プロデューサー(エリック・ツァン)は「そんな事どうでもいいだろ」と言わんばかりだが、クリエイターとしてのニエ・ウェン監督には揺るがせに出来ないところ。さて、彼は一体どうしようというのか。

 しばらくして、上海の街に香港映画の大スターであるリン・ジェントン(金城武)がやって来る。彼は例のミュージカル作品に出演するため、わざわざここ上海の地に招かれたのだった。マネジャーは決してギャラも良くないこの仕事に難色を示しており、ジェントンに主演女優とのスキャンダルは御法度…とクギを刺す。だがジェントンの心はどこか遠くに飛んでいるようだ。その目はなぜか、高層ビルを彩るあのスン・ナーの広告を追っている。

 やがてジェントンを迎えての、撮影所での記者会見。だが彼を迎え撃つスン・ナーもニエ・ウェン監督も、妙に緊張感を漂わせていた。特にスン・ナーのコメントに、ピリピリした表情で聞き入る監督。元々アート系作家としてキャリアをスタートさせたニエ・ウェン監督には、近年の娯楽志向に何かと批判もあるようだが、本人はそんな事を気にも留めていないようだ。彼はむしろ、今回の映画の陳腐な話をどうしたらいいのか…に全神経を集中しているようだった。

 その物語とは…かつて恋人同士だったスン・ナーとリン・ジェントンが運命のいたずらで引き離され、その間にスン・ナーが記憶喪失になっているというもの。記憶を失った彼女はサーカス団に拾われ、そこで空中ブランコのスターとなっていた。おまけにサーカス団の団長とも愛し合う関係になっていたのだが、ある日そこに何も知らないリン・ジェントンが迷い込んでくる…。

 早速、再開する撮影。サーカス団と巡り会って、そこにかつての恋人を見出す主人公…という設定だ。歌って踊っての趣向の中で、記憶を失ったヒロインとそんな彼女に迫る主人公のやりとりが続く。

 だがそんな設定は、演じるスン・ナーとリン・ジェントンの間でもシャレにはなっていないようだ。それもそのはず。実はスン・ナーとリン・ジェントンは、これが初対面ではなかった。それどころか…二人はまさに恋人同士だったのだ。それは今から10年前のこと。その頃、今でこそ大スターのスン・ナーは食うや食わずの困窮の中にいた。そしてリン・ジェントンも、香港から北京の大学に映画を勉強に来ていた貧乏学生だった。

 まるで映画の設定そのもののように、スン・ナーの前に立ちはだかるリン・ジェントン。だが今やハリウッド進出も目前の彼女は、すべて過ぎ去ったこと…とクールにいなすばかり。一方、ニエ・ウェン監督は二人の間柄に何も気づかぬフリをしながら、妙な熱気を持って撮影にのめり込んでいた。

 それがさらにエスカレートさせたのが、サーカス団の団長に予定されていた役者の降板。何とそれを知ったニエ・ウェン監督は、自ら団長役を買って出た。こうして撮影現場では、実人生と映画の虚構の物語が錯綜する一触即発の状態に拍車がかかっていったのだ。

 むろんそこには、10年前に悲しい結末を迎えていたスン・ナーとリン・ジェントンの恋愛が色濃く反映していくのだった…。

 

香港映画が誇る才人ピーター・チャン満を持しての新作

 ピーター・チャンの最新作である。

 あの「ラヴソング」(1996)のピーター・チャンの久々の新作である。もう、これだけで説明は終わりにしたいところだ。だって、本当はそれだけで十分ではないか。

 僕には「恋愛映画中の恋愛映画」と呼びたい作品が、生涯見てきた中で数本ある。不思議なことにそれらはすべてアジア映画であり、うち2本が香港映画だ。それがどの作品なのかをここで語るのはよしておくが、少なくともそのうち1本がピーター・チャンの「ラヴソング」であることは間違いない。これは後何年僕が映画を見ることになっても、おそらく揺らぐことがないだろう。僕もこのサイトに2つも感想文を置いてはいる(「ラヴソング」感想文1「ラブソング」感想文2)が、何しろ本来は知人へのメールとして書いたもの。こんなモノしかないので仕方なくリンクはするが、今では披露するのも苦しいシロモノだ。

 むろん香港電影ファンならもうちょっと気の利いたことが言えるかもしれない。僕だって少しは付け加えることくらい出来る。元々このピーター・チャンという人は、「月夜の願い」(1993)、「君さえいれば/金枝玉葉」(1994)、「ボクらはいつも恋してる!/金枝玉葉2」(1996)と、心優しく楽しい恋愛映画をつくらせれば定評があった。それらは着想も語り口も「才気煥発」と言っていい、「ウェルメイド」という言葉こそが相応しい娯楽映画群だったのだ。

 現在の目で見ると「君さえいれば/金枝玉葉」、その続編「ボクらはいつも恋してる!/金枝玉葉2」あたりのジェンダーに関する扱いの無神経さなどが少々気になってしまいそうだが、少なくともその当時の娯楽映画としては卓抜したものを感じさせた。当時わずかながら泥臭さがまだ残っていた香港映画の中でも、ハリウッド映画のような洗練を感じさせる都会派の味わい。それが彼を「才人」と周囲に認めさせていたわけだ。クレバーさとセンスの良さを感じさせる、ソフィスティケーションが身上の娯楽映画作家だったわけだ。

 だからピーター・チャンの映画と言えば、これ以降も僕らをずっと楽しませてくれるはず…と僕などはスッカリ思い込んでいた。元々がお客を楽しませる事に全力投球の香港映画界の中でも、作家性より娯楽性を優先させる人だろうと思っていたのだ。

 ところが、そんな僕の勝手な思惑を一気に覆す作品が現れた。それが大陸出身男女の愛の行方をしみじみと描き出した傑作「ラヴソング」だったのだ。

 むろんピーター・チャンの語り口のうまさや脚本・演出テクニックの粋は、この作品でもたっぷり感じられた。最もそれが発揮されたのが、映画のラストのラストにやって来る仰天の伏線であることは言うまでもない。確かにこの映画にエンディングでは思わず「やられた!」と膝を叩き、涙腺を一気に開いてしまったこの僕だ。この鮮やかなエンディングは、まさに映画史に残ると言っても過言ではない。

 だがそれらはウェルメイドというよりも、もっと違う何かを感じさせた。

 あえて照れくささを恐れずに言うなら、それはテクニックではなくハートを感じさせたのだ。大陸・台湾・香港に分かれるだけでなく、昔から必要に迫られて全世界に散らばっていった中国人たち。そんな彼らの果たされなかった夢や思いを託したかのように、人種の坩堝ニューヨークで主人公男女は紆余曲折の果てに再会を果たす。そのBGMは、中国語圏の人々の思いを代弁するテレサ・テンの歌だ。これはもはや、単なる「良くできた恋愛映画」の域を超えている。その背景に長い長い中国語圏の人々の歴史を配置した、壮大なエピック・ドラマの重層感すら感じさせた。

 そして結ばれては別れ、また結ばれる男女の思いの機微を深く彫り込んだあたり、「君さえいれば/金枝玉葉」などとは比べモノにならない人間洞察が活かされていた。一体この時期のピーター・チャンに何が起きたのか分からないが、何らかの人間的成長を遂げたとしか思えない。それまでの単なるテクニシャンが、突然堂々たる作家として生まれ変わったような観があったのだ。もし、あなたが映画ファンを自認しながらまだこの作品を見ていないなら、それは一生の不覚だ。大げさに言えば、映画ファンがこの映画を見ないで済ますことは、普通の男女が童貞・処女で一生を終えることに近い(笑)。他の映画は見ようと見まいと知ったことじゃないが、この映画だけは見なきゃマズイ。これはそんな作品なのだ。

 そして、そんな衝撃的作品を発表した後、ピーター・チャンは沈黙してしまった。

 いや、正確にはそうではない。実はピーター・チャンは「ラヴソング」の大成功の後、ハリウッドに飛んだ。その腕を見込んだドリームワークスで、「ラブ・レター」(1999)という作品をつくっていたのだ。当然僕はこの作品が見たくてたまらなかったが、なぜか日本では劇場未公開で終わってしまった。それでもかなり遅れてDVD化されたので、何とか見ることができたわけだ。

 だが、この作品は…僕にとっては感心しない出来栄えだった。

 スピルバーグ夫人ケイト・キャプショーを中心に、田舎町に巻き起こる恋愛話。本来ならピーター・チャンらしいウェルメイドな楽しい映画になっているはずなのだが、何ともユルく盛り上がりに欠ける出来栄え。テレビか何かでボケッと見るぶんには時間つぶしになるだろうし、イヤミのない作品にはなっているものの、天下のピーター・チャンがわざわざハリウッドに渡ってまでつくる映画ではなかった。

 それはピーター・チャン本人も痛感したのか、彼はその後ずっと監督としては沈黙を守ってしまう。だが監督作品を発表しなくても、決しておとなしくしていないのが彼らしいところ。その間ピーター・チャンは、プロデュース業に専念していたのだ。

 タイで「ジャンダラ」(2001)、韓国で春の日は過ぎゆく(2001)、さらには香港とタイでアイ」(2002)と、まさに八面六臂の大活躍。それも、ご覧のように「汎アジア」を意識したかのような企画と顔ぶれの作品づくり。実はピーター・チャンはこの後に韓国・タイ・香港のホラー・オムニバスTHREE/臨死(2002)の音頭取りもやり、そこでは3本の短編のうちの1本を自ら撮って監督としても健在を印象づけた。しかしどちらかと言うとこの作品は、監督としての創作欲を満たすためというより、あくまで国境を越えたアジア連携のプロジェクトを実現したかったように思える。あくまでアジアの有能な人材同士の橋渡しをしたかったというのが本音のように見えるのだ。

 このあたりのピーター・チャンの動きを見ていると、実は「ラブ・レター」でのハリウッド体験が彼に何らかの影響を与えたような気がする。

 ちょうど当時は、香港の有能な人材がハリウッドに大量に流れ込んだ時期。正直言ってクセが強く決して順応性があるとは見えなかったあのジョン・ウーが、それなりにハリウッドで成功を勝ち得た事実は、他の香港監督にとってある種の衝撃だったであろうと思う。「オレの方がもっとハリウッド・テイストに近い」と思っている監督たちを後押しするとともに、「早く行かないと」と焦りを与えたという点で、ジョン・ウーのハリウッド上陸は香港映画の監督たちに深い禍根を残したと思うのだ。特にこの影響をマトモに受けたと僕が考えているのがツイ・ハークで、彼はそのトラウマで相当なダメージを被ったはずだ。そのために彼はこの前後かなりの間、虚しい空白の時期を過ごすことになる。

 ピーター・チャンもまた、自らを「ハリウッド向き」の監督と見なしていたであろうことは想像に難くない。

 元々がシャレっけのあるウェルメイドの娯楽映画の達人だ。その基本は、どこかハリウッドのドラマトゥルギーのセオリーと通じている。おまけに当時「ラヴソング」を取り終えた直後。その出来栄えに手応えを感じていると同時に、主人公たちが代表する「越境する中国人」の境遇にどこか共感するところもあっただろう。彼らがニューヨークで再会するのは、ひどく象徴的な出来事なのだ。むろんハリウッドで成功する野心もあっただろうが、他の監督たち同様に「いつかは大陸に飲み込まれてしまう香港」を脱出する…という切実さも感じていたはずだ。

 だが、おそらく…憧れと野心を持って辿り着いたハリウッドは、彼が思っていたような場所ではなかった

 僕は「ラブ・レター」の今ひとつ盛り上がらない出来栄えを見て、彼は相当仕事がやりにくかったのではないだろうかと思ってしまう。言葉の問題というより映画づくりのシステムにおいて、黒澤明が「トラ・トラ・トラ!」で自滅したほどではないにしろ、かなり自分の勝手がきかない思いを抱いたのではないだろうか。香港ではスター・クラスの一級監督でも、ハリウッドでは一介の使用人に過ぎない。彼のプライドはズタズタにされたのではないか。もっと突っ込んだ話をすれば、いきなりスタジオのオーナーの女房を主役にあてがわれる(ヒロインがドリームワークスの主宰者スピルバーグ夫人ケイト・キャプショー)ような状況が、初めての場で映画をつくる人間にとってやりやすい訳がない。この点だけに限って言えば、いかにスピルバーグ・シンパを自認する僕でも、そのおめでたいまでの無神経さやデリカシーのなさを批判せずにはいられない。

 たぶんピーター・チャン自身、「ラブ・レター」の出来栄えには満足していまい。彼がその後ハリウッドに居残らなかったこと、さらにしばらく監督作品を発表しなかったことは、彼の受けた心のキズの深さを物語っているように思う。

 そしてピーター・チャンは、「アジア」に舞い戻った。

 そうだ、自らの活躍の場を「香港」と思わず「アジア」と思えば、可能性はずっと広がる。ハリウッドでの夢破れたピーター・チャンがそう思ったと考えるのは、それほど無茶な話ではない。監督としてはしばらく現場から離れたいほどショックを受けてしまったピーター・チャンも、「汎アジア」的仕事の場づくりには熱心に取り組んだ…というか、そうせざるを得なかった。そのためにプラスになるならば、イヤな思い出が残る監督業にも舞い戻ろう。その久々の監督作がオムニバス三部作のうちの短編1本だったというのも、何となく気持ちが分かるではないか。最初は軽くウォーミング・アップから始めなくてはならないほど、彼の受けたダメージは大きかった。その彼のつらさは、僕にも何となく分かる気がする。

 そして…その「肩慣らし」とも言える「THREE/臨死」の中の一編も、「越境する中国人」の物語だった。

 主役が再びレオン・ライというところからして、この一作が「ラヴソング」の変奏曲であることは明らか。その場所がアメリカであれ香港であれ、運命に流されて越境せざるを得なかった中国人男女の愛を描いていることは確かだ。その意味で、ホラーのカタチを借りた“裏”「ラヴソング」とも言える作品。このオムニバス3本の中でも群を抜いた出来栄えで、「さすがピーター・チャン」と感心させられたものの、その越境の果ての結末は「ラヴソング」とはあまりに対照的な真っ暗なもの。ピーター・チャンの心に生まれた闇を、改めて感じさせられる作品となっていた。

 そして、再びピーター・チャンは沈黙してしまう。

 ひたすら待った僕らにこの新作「ウィンター・ソング」が届けられたのは、長編としては何と「ラブ・レター」から6年ぶり。中国語圏映画としては9年ぶりのことだ。ファンとしては期待とともに、かなりの不安を抱かずにはいられない。

 果たしてその出来栄えは、いかがなものだったのか?

 

凄味溢れるジャッキー・チュンに託したピーター・チャンの思い

 いきなりどこかで見たようなカンパニー・ロゴがスクリーン一杯に登場する。何のことはない、一時期僕が大いにハマったDVDやVCD作品…1960年代〜1970年代のショウ・ブラザース旧作デジタル・リマスター化作品をリリースしていた、セレスティアル・ピクチャーズのカンパニー・ロゴではないか。これだけで僕はもう慣れ親しんだ懐かしい作品に出会うような気持ちになったが、これはごくごく個人的なお話。

 次に出てくるのが、ここしばらくの上海を舞台にした秀作に決まって登場する、かつての上海を再現した巨大なセット。カンフーハッスル(2004)、パープル・バタフライ(2003)、ジャスミンの花開く(2004)…そして先日は上海の伯爵夫人(2005)でも活用されていたこのセットがまたまた登場。しかも明らかに「撮影所のセット」として登場してくるのだ。

 そうなると、これは特別な意味を持ってくる。おそらく中国語圏映画の原体験とも言うべき、かつての「上海映画」のイメージもそこに立ち上ってくるのではないか。たまたまではあるが「セレスティアル・ピクチャーズ=ショウ・ブラザース」という連想で娯楽の伝統というイメージがすでに脳裏で形成されている僕には、この作品の狙いが冒頭から分かった気がした。すなわち…エンターテイメントの粋としての「映画」へのオマージュだ。

 かつてはアート系で売り出し、近年は豪華な娯楽映画への傾斜が著しい中国映画の巨匠監督。しかもヒロインと深い仲にある…とくれば、チャン・イーモウとかチャン・イーモウとか、あるいはチャン・イーモウ…などがすぐに浮かんでくる(笑)が、そこにあまり深い意味はあるまい。単に中国映画の代表選手として持ち出されたような気がする。そんな映画界のアレコレを連想しながら見ても映画ファンとしては楽しいが、ここではモデルが誰…というより、そんなイメージの総体として描かれているように思う。

 エンターテインメントの粋としての「映画」の世界、それは言い換えれば「芸」の世界だ。そして、そんな世界に生きる人々を描く「ミュージカル」。さらには狂言回しのように、まるで「天使」のごとき人物が縦横無尽に現れる。そんな映画を見た覚えはないか。

 それは、ボブ・フォッシーのオール・ザット・ジャズ(1979)ではないか!

 金城武がいつもの気持ちが入ってないようなセリフ回しで出てくるや、正直言って「大丈夫か」と心配になったところだが、これが一種「オール・ザット・ジャズ」みたいな趣向の映画であり、ミュージカル場面も「劇中劇」のカタチをとると知って、ようやく安心して見ることができるようになった。結果的に金城の気持ちのこもらないセリフも、まるでチャン・イーモウのLOVERS/謀(2004)みたいにドラマに活かされているんだから、ピーター・チャンなかなか侮れないところだ。

 しかも、仮に「オール・ザット・ジャズ」が本作の発想の底辺に存在しているとするならば、この映画の中心は金城武ではないはずだ。案の定、映画を見進めていけば分かるのだが、金城は本当の意味の主役ではない。中国語圏映画期待の星であるふたりの人魚(2000)、ハリウッド★ホンコン(2001)のジョウ・シュンもまた、「運命の女」役ではあるが物語の中心ではない。

 では、この映画の真の主役は誰なのか?

 「オール・ザット・ジャズ」がロイ・シェイダー扮する振付師で映画監督の男を主役にしていたように、ここではジャッキー・チュン扮する映画監督こそが主役なのだ。

 恥ずかしながら、僕はジャッキー・チュンの事をよく知っているとは言えない。「欲望の翼」(1990)などに顔を出している人の良さそうな男…ぐらいのイメージしかない。彼が歌手であることさえ知らなかった。香港電影ファンからは怒られてしまいそうなほどジャッキー・チュンのことは知らないが、今回の監督役を演じる彼は素晴らしかった!

 自分の女ジョウ・シュンに去られてしまいそうな予感を感じ、映画づくりにも行き詰まりを感じている焦燥感。ジョウ・シュンが金城とくっつく危険性を十分過ぎるほど分かりながらも、それをバネにして映画のパワーにしてしまおうとするクリエイターとしてのサガ。彼女を失ってしまうに決まっているのに、どうしてもいい映画をつくる誘惑の方が勝ってしまう映画監督としての「業」。芸に生きる男の凄味を演じきって、なかなかに迫力があるのだ。あの人の良さそうな顔がすっかり辛口になっている。おまけに元は歌手が本業のせいか、金城やジョウ・シュンが大して歌をうたわせてもらってないにも関わらず、このジャッキー・チュンだけは堂々とボリュームある歌の場面をもらっている。全編目立ちまくりの彼なのだ。

 ジョウ・シュンと金城の関係に火花が散り始めるや、演出に演技に妙にヒートアップしていく倒錯ぶり。それでいて、最後に潔く身を退く気持ちの良い負けっぷり。女よりもクリエイターとしての成功を選ぶ男らしさ。もちろん派手なクライマックスも彼の独壇場。何から何まで実にカッコイイのである。

 むろん「オール・ザット・ジャズ」の主役ロイ・シャイダーが監督ボブ・フォッシーの完全な分身であったように、この映画のジャッキー・チュンがピーター・チャンその人であることは想像に難くない。

 いや、別に僕はここでピーター・チャンにこんなドロドロ三角関係があったと邪推するつもりはない。むしろそっちの方の可能性はかなり希薄なんじゃないかと思っている。もし何かあったとしても、彼のシビアな恋愛観は「ラヴソング」直前に確立され、あの映画にこそ反映されたと考えるべきだ。そうでないと「ラヴソング」における彼の作風の急速な成熟ぶりが説明できない。

 だがピーター・チャンがこの映画におけるジャッキー・チュンの役柄に強いシンパシーを持ち、どこか自分を投影するようにつくっていることだけは明らかだろう。

 ここで描かれる、「身を切られるような辛さの中でもあえて映画づくりを優先するクリエイター魂」こそが、ピーター・チャンの最も訴えたかった事であろうことは間違いない。あの作品のバランスを崩しかねないほどのジャッキー・チュンへの熱のこもりすぎた描き方は、どう考えても尋常なものではない。それはやはり…創作の場で相当辛酸をなめさせられながら、それでも映画づくりを捨てられなかったピーター・チャン自身の苦しい体験を反映しているのではないか。ジャッキー・チュンの対極にある金城が、本来監督になりたくて越境しながら…その異境の地で挫折した男として登場してくるあたりも、どこか暗示的には見えないか。僕はここでも、ピーター・チャンのハリウッド体験の痕跡を感じずにはいられない。

 この作品は「ラヴソング」などと比較してその完成度を云々すると、確かに少々至らない部分も見受けられないでもない。ストレートに感動したり泣いたりしたい人には、欲求不満が残る作品かもしれない。だが単なる恋愛ミュージカルにこれほどのシビアさと迫力がみなぎるあたりに、僕はピーター・チャンの「本気」を感じるのだ。

 そして、この映画のキャスティング…台湾出身で日本の血が流れる金城武、大陸中国のジョウ・シュン、香港のジャッキー・チュン、さらにはH(2002)にも出演していた韓国のチ・ジニという配役にも要注意だ。これにわざわざインドのマサラ・ムービーから引っ張ってきた振付師やダンサー陣を加えると、これこそピーター・チャンが「ハリウッド後」に模索していた「汎アジア」的映画づくりの結実ではないか。ここでピーター・チャンは、近年の彼の映画づくりの軌跡を自ら総括しているように思える。

 それがジャッキー・チュン扮する映画監督の新作に向けての「新たな旅立ち」…として結論づけられたところに、ピーター・チャンの力強い「決意表明」を感じずにはいられないのだ。

 

三者三様の結末に見る「男女関係」のリアリティ

 こうしてピーター・チャンの思いを一身に託されたカタチのジャッキー・チュンは、クリエイターとしても男としても実にカッコイイ役どころをもらっているわけだ。これは実にオイシイ役だと言える。

 それにひきかえ金城は…と言うと、これがまた実にカッチョ悪い(笑)

 しかし…カッチョ悪いのだが、ある意味でこれも男の本音を表していて秀逸。先にも述べたように、元々が彼は監督志望で役者になりたかった訳ではない…というあたりも、ジャッキー・チュンとの芸への入れ込みぶりの違いとなって現れていて興味深い。このへんは、男女の機微を「ラヴソング」で描き尽くした上に、先に述べたように監督としての浮き沈みもイヤというほど経験したであろうピーター・チャンの真骨頂。さすがに彼は分かってるのだ。

 それはジョウ・シュン演じるヒロインの描き方を見ても分かる。

 一見、彼女はエゴイストで悪い女に見える。だから金城も最初は何だかんだと恨みがましく絡んでいる。おまけに、実にチンケな復讐をしようとまでする。だが、それはハッキリ言って見当違いだ。

 別に彼女は悪い女ではない。そもそも女とはそういうものだし、それがイヤなら女とは付き合えない。なぜなら、そこに悪意などは存在しないのだ。

 誤解を恐れずに言えば…そして数限りない例外と個人差を無視して極論すれば、女とは現在と未来だけ見て生きるものだ

 実は手前味噌になってしまうが、今年の前半に僕はちょっと面白い仕事をした。何とコンビニでたった500円で売られる代物ではあるが、「女心の達人」として定評のある人物の「口説きのテクニック」本をつくったのだ。この人物はかつて女性週刊誌の名物編集長として知られ、現在はかなり高齢にも関わらず女性にモテまくっているらしい。

 最初は僕もこの人物のことを「何を言ってるんだか」と色眼鏡で見ていたが、実際のこの人物に会って考えが変わった。この人、男の目から見てもかなり魅力的な人物なのだ。僕などこの人の仕事場に行くとついつい長居してしまい、面白い話に聞き惚れてしまうほど。なぁるほど、これはモテるわけだ。

 そんな素直な目でこの人の主張を聞いてみると、やはりかなり的を射たところが多かった。中でも僕が大いに賛同したのが、「女は過去に生きず、常に未来だけを見ている」という話だ。

 極端に言うと、女性は「今イイ思いができるか」と「これから先イイ思いができるか」にのみ関心がある。「過去イイ思いをした」というのは、すでに過ぎ去った事だから問題外。だから女に「あんなに世話を見てやったのに」とか「あんなにイイ思いをさせてやったのに」とか「あんなにイイ思い出があったのに」と言ってみたところで始まらない。女性に恩義を売ってみたところで仕方がない。それはもう終わった事で、彼女にはもはやどうでもいい事なのだ。思い出に固執し蒸し返したがるのは、男の専売特許なのである。

 だから女は昔の恋人を思い出して、それとやり直したいなんて思わない。そんな事を思うのは、「過去が命」の男だけなのだ。仮に昔の恋人と関係が再燃するにしても、それは現在の恋人との仲がうまくいっていないための一時逃避に過ぎない。少なくとも、自分からどうこうしようなんて思わないはずだ。

 このあたり…「春の日は過ぎゆく」のホ・ジノは徹底的に分かっていない。彼はヒロインが別れた男を誘う場面をエンディングに付け足しているが、あんなことはまずあり得ない。あれはホ・ジノのテメエ勝手な期待に過ぎない。あの作品のプロデュースを担当したピーター・チャンは、「分かってねえな」と童貞坊主でも相手にするように舌打ちしたんじゃないだろうか(笑)。

 さらに女性は生殖に深く関わる存在だから、元から「生き残らなくてはならない」という生存本能が強い。それを押し進めれば、どうしたってエゴになるのは仕方がない。ジョウ・シュンが「人は誰でも自分が一番可愛いもの」と発言するのは、基本的に間違っていないのである。ただ「人」が「女」に入れ替わるだけだ。金城は「僕は自分より彼女を大事にしたのに」…とジョウ・シュンを恨みに思うが、それは生き物としての役割分担が最初から違う。女にとって自分より大事な存在がいるとしたら、それはおそらく自分の子供だけだ。元から恨むのがスジ違いというものだろう。

 まぁ、ここまでの話は極論が過ぎた。だが、僕は決して「偏見」でこんな事を言っていない。すべて「経験」から言っていることだ。どうかごカンベンしていただきたい。

 この映画のピーター・チャンは、そんな男女の感情の動きがちゃんと分かっている。だから甘ったるい結末にはならないし、ミュージカルという寓話のカタチをとりながらリアリティがある。大人の映画になっている。

 さらにこの映画が優れているのは、結局どんな結末を迎えても、男女の関係はそれなりに意味のあるものだと描いていることだ。

 別れてしまうことで、すべてが無に帰するとは言っていない。むしろそこには、男と女の間柄というものは未来永劫には続かないものだ…という達観があるのかもしれないが、それでも素晴らしい瞬間が一時でもあればいいと主張している。最終的にすれ違ってしまっても、ニアミスする瞬間が一瞬でもあればいいと訴えている。それで十分ではないか…とピーター・チャンは結論づけている。そのへんの潔さが健康的なのだ。

 結局最後には三者三様にバラバラになってしまうのだが、それでもラストに清々しさが残る。見た後に爽やかな後味が残る。

 それこそが、多くの苦渋をナメてきたであろうピーター・チャンの成熟ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

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