「上海の伯爵夫人」

  The White Countess

 (2006/11/20)


  

見る前の予想

 ジェームズ・アイヴォリーといえば、アメリカ人のくせにクラシックなイギリス上流臭溢れる作品をつくりたがる男。「眺めのいい部屋」(1986)のオスカー・ノミネーションまではまるで日本では紹介されなかったくせに、一旦オスカーで話題になったら一気に作品が公開され始めた。

 だが、そんなアイヴォリーも近年はほとんど話題にならなくなってしまった。それはアイヴォリー作品自体に元気がなくなったということもあるのだろうが、元々が…どちらかというと狭い世界をチマッと描いた作品ばかりだからではないだろうか。

 新鮮さ、野太さ、ダイナミズムが決定的に欠けている。ていねいにつくっていて上品で、作品として決して悪くはないのだが、何となく色気も華やぎもなくてひ弱。正直言って何本か見ると「もういいよ」って気になってきてしまうのが泣き所。それが災いしたのかどうなのか分からないが、近年は作品発表頻度もガタ落ちしてしまった。いや、作品が発表されても単純に話題にならなくなっただけなのか。

 そんなアイヴォリー作品が久々に紹介されるわけだが、今回はちょいと気になる内容。舞台は日本軍侵攻寸前の上海。主演者の一角に日本から真田広之も参加と聞けば、どうしたって映画好きの食指をそそるはず。いくら近年パワー・ダウン気味の印象があるアイヴォリー作品でも、これはちょっと趣が違う気がしていたのだ。

 

あらすじ

 1936年、上海。外国人租界の一角にある貧しいアパートで、一人の女が化粧をしている。その女ソフィア(ナターシャ・リチャードソン)は、いくらケバく装っても、どこか品の良さを隠せない女。そんな彼女の隣では義母のオルガ(リン・レッドグレーブ)と義妹のグルーシェンカ(マデリーン・ポッター)が粗末な服装で針仕事をしながら悪口雑言の限りを尽くしている。オルガの姉ヴェラ(ヴァネッサ・レッドグレーブ)はそんな会話をたしなめはするが、彼女たちは黙っちゃいない。

 「息子の嫁があんな化粧などして!」「天罰が下るわ!」

 そんな口さがない女たちに反論する少女が一人。ソフィアの一人娘カティア(マデリーン・ダリー)だ。「どうしてそんなひどい事を言うの? それなら代わりに叔母様が稼げばどう?

 呆れた事にこの一家、今ではこのソフィアの稼ぎにすっかり頼り切っていながら、感謝するどころか蔑む始末。彼女たちは元々ロシア貴族の出で、ソフィアもかつては伯爵夫人だった。しかしロシア革命以後の厳しい運命で、流れ流れてここ上海まで落ちぶれ果ててやって来た。

 今ではこうして毎夜唇にルージュを引く身のソフィア。今日も今日とて市電の中で、下品なフランス男に安く値踏みされるテイタラクだ。だが、そんな彼女にも彼女なりの矜持はある

 ソフィアはクラブ勤め。テーブルに待機して、客がつくのを待つ。ただし、カネでダンス一曲に付き合うだけ。身体は売らない。少なくとも彼女はそうしてきた。それでも同僚の若い娘が客の「お持ち帰り」になった仲間を悪し様に罵ると、自嘲気味にこう言わずにはいられない。「時にはやむを得ず恋に落ちるのよ、食べていくためにね

 そんな頃、同じ外人租界の一角で、彼女と同じように人生の疲れを感じていた男がいた。それは盲目のアメリカ人ジャクソン(レイフ・ファインズ)だ。彼は高級なレストランでビジネス上の相手と同席していたが、退屈でたまらない。ウンザリして席を立ったジャクソンは、明らかに盲人としても慣れぬ足取りで、上海の歓楽街に足を運ぶ。

 こうしてジャクソンは猥雑な騒々しさに包まれた店で別人のようにくつろぐが、そんな彼の前に一人の日本人の男が現れる。その男マツダ(真田広之)もまた、この店を大いに気に入っているようだ。

 「こういう店は日本にはない。最近の上海は素晴らしいですね」

 大いに意気投合するジャクソンとマツダ。マツダはジャクソンが誰なのかを知っていた。

 「あなたはジャクソンさんですね、高名なアメリカの外交官。国際連盟の最後の希望の星…」

 「高名はやめてくれ。それに希望の星でもない。もうあなたの同胞と言い争おうとも思わない。そういうこと一切から逃れるためにここに来たんだ

 こうして旧友のように親しくなったジャクソンとマツダ。そんなマツダに、ジャクソンは自分の胸に秘めた一つのプランを話す。それはこうしたお気に入りの店の持つ良さをすべて兼ね備え、しかもそれらを抜きんでた魅力を持った「夢のバー」のプランだ。こうして、いつか経営したい…という「夢のバー」の話をしながら、ジャクソンとマツダは例のソフィアが働く店へと流れて来た。

 そこでマツダは、現れた時と同じような謎めいた唐突さでジャクソンの前から去った。一人残されたジャクソンの耳に聞こえてきたのは、そこで働く女ソフィアが旧知の人物と交わす会話だった。

 「ひょっとして、ソフィア・ベリンスカヤ伯爵夫人ですか?」

 今はこうした猥雑な熱気の漂う店のフロア・レディとなったソフィアの「過去」を知る人物、それは自らもまたロシアの貴族階級の出だった男だ。かつてはお互い貴族同士としてテニスの腕前を見せ合った間柄でもある。だが「良き日」は終わってしまった。彼女はこうして店でダンスの相手を待ち続け、彼は中国人に怒鳴られながら荷物運びをさせられている。そんな「薄幸の女」ソフィアの数奇な運命が、ジャクソンの心に深い印象を残す。

 だが、ジャクソンはそんな感慨に長く耽ってはいられなかった。喧噪の中に一人取り残された「無防備な盲人」ジャクソンに、たちまち目をつける“ならず者”たち数名。そうとは知らぬのは、他ならぬジャクソンばかり。だがそんなジャクソンが彼らの餌食になる前に、すかさず彼に救いの手を差し伸べた人物がいた。それはあのソフィアその人だ。

 「私を連れ帰るフリをして。一人で店を出たら、あなたは奴らにいいようにされるわ

 こうしてジャクソンはソフィアを「お持ち帰り」して店の外に出る。店の外にはジャクソンの忠実な中国人の執事リウが待っていた。ソフィアはジャクソンを無事にリウに委ねると、そのまま自宅に帰って行った。そんな彼女の面影を胸に抱きながら、ジャクソンはリウに向かってこうつぶやいた。

 「これぞ私が探し求めていた女性だ」

 やがてジャクソンは競馬に全財産を賭け、見事に巨額の金を手に入れた。その足で例の店に乗り込み、ソフィアを口説き落とすジャクソン。「私は音楽やダンスが楽しめるバーをやりたい。理想の店だ。でも、そのためには君がいないと…君に“店の華”になってもらいたいんだ」

 こうして1年後、上海に願い通りの「夢のバー」を手に入れたジャクソンだったが…。

 

ジェームズ・アイヴォリー作品への興味と失望

 ジェームズ・アイヴォリーと言うと、昔も今もやっぱり「眺めのいい部屋」(1986)の監督…ということになるのだろう。

 アイヴォリーみたいな作家が日本に紹介されるキッカケとなったのがオスカー・ノミネーションとは何とも奇妙な感じだが、普通に考えればそれも致し方ない。これを例にとって、海外在住の人などに日本の文化水準の低さを云々されても困ってしまう。メジャーな娯楽作でも超話題作でもなかったアイヴォリー作品は、本来入って来ないのが当たり前なのだ。英語圏だからこそ見る人もいるわけで、かつ英国コンプレックスのアメリカだから評判にもなったはず。そう考えるのが健全さというものだろう。

 で、実はそこらへんがアイヴォリーという作家を考えるうえで重要だったりする。

 「眺めのいい部屋」はまだ初々しかったヘレナ・ボナム・カータージュリアン・サンズといったフレッシュな主演者の魅力も手伝い、いかにもE・M・フォスター原作らしい題材で何とも瑞々しい作品に仕上がっていた。確かに最初にこの作品を見た時には、こんな映画監督がいたんだと驚いたものだ。

 そして間もなく日本に旧作「熱砂の日」(1982)がもたらされることになる。この映画はE・M・フォスター原作ではないが、まるでフォスター作品の映画化みたいなお話だった。インドの風土に感化されて官能を刺激され、インド男性と結ばれる2つの時代のイギリス女性を描いて、フォスター原作のデビッド・リーン最後の作品「インドへの道」(1984)を思わず連想させた。起用した2人の女優のうちジュリー・クリスティーは「ドクトル・ジバゴ」(1965)で実際にリーン作品を通過していたから余計そう思えたわけだが、もう一人のグレタ・スカッキにもどこか共通の資質が見受けられた。それは「気品」と「官能」だ。カチッと厳格で四角四面の社会に生きる上品なイギリス上流階級の女が、内なる官能を呼び覚まされてしまうお話。そのあたりに、リーン=フォスター作品に一貫するテーマが見いだせる。アイヴォリーの「眺めのいい部屋」も、当然その延長線上でとらえるべき作品だ。

 だがそれから後に公開されたアイヴォリー作品の何作かは、実はあまり覚えていない。「カルテット」(1981)はイザベル・アジャーニが好きだから見たはずだが、彼女が脱いでいた他は記憶にまったく残っていない(笑)。その他にも旧作にまで遡って何作も公開されているはずなのに、まるで覚えていない。評判になった「モーリス」(1987)は、見ようと思って都合で見逃してしまったからかえって存在を覚えているほど。他の作品に至っては、見たか見なかったかすら覚えていないのだ。

 たぶん、それはこういう事なのだろう。毎度毎度ちょいと昔のイギリスの上流階級に材をとって映画をつくり、それなりに気品と端正な語り口を見せてはいる。だが、それが毎度毎度同じような繰り返しなので、どれもこれも同じに見えてしまう。そのため、何だかサッパリ印象に残らないのがアイヴォリーの映画なのだ。

 実は評判高かった「ハワーズ・エンド」(1992)も今となっては記憶の彼方。そんな中で、久々にアイヴォリー作品で強烈な印象を残したのは、日系作家カズオ・イシグロ原作の「日の名残り」(1993)だった。

 あの、真冬に冷水に浸かって身動きも出来ずにジッと我慢して堪えているような「息詰まり」感は、今でもハッキリ思い出せる。一見静謐に見える画面の裏側に、激しいパッションが展開している様子はかなり刺激的だった。演じるアンソニー・ホプキンスエマ・トンプソンも素晴らしかった。しかし、これも「毎度毎度おなじみイギリス上流階級」に材をとったお話ではある。

 では、なぜ「日の名残り」は他のアイヴォリー作品と違って印象深かったのか?

 考えてみるに…「眺めのいい部屋」や「熱砂の日」はその材をイギリス上流階級に求めながら、それらがイタリアの開放的風土やインドの官能性に触れることで崩壊していくサマを描いた。「お上品なイギリス臭」を描くことが主眼ではなく、むしろそれらを破壊ないしは否定するために描いたわけだ。

 実は「日の名残り」も、スクエアな社会習慣の中で感情を抑えに抑える男の悲劇的愛情を描くことで、そういった非人間的社会制度やシステムや習慣や伝統やモノの考え方を否定していた。別に「社会派」メッセージを放つ作品ではないし「それだけ」があの映画の魅力ではないけれど、そういうイギリス社会が象徴していた偽善的で空疎な「ワク」をハミ出していく人間感情を描いて秀逸だったわけだ。

 実はアイヴォリーって人の映画は、その「ワクをハミ出そう」という部分がないと、単に狭っ苦しいイギリス社会や伝統、ヨーロッパ的なスクエアさやオツに済ましたお上品さだけを描いた作品になりがちだ。…というか、実はそういうイギリスやヨーロッパの伝統や社会やお上品さに惚れ惚れと入れ込んでいるだけなのではないだろうかと思えてしまう。彼の映画から「ワクをハミ出そう」というパッションがなくなると、とたんにチマッとした盆栽や石庭みたいな映画になってしまう。だから印象に残らないのだろう。

 僕がアイヴォリーが実はアメリカ人だということを知ったのは、恥ずかしながらかなり後になってからだが、それを知ってかえってこの人に感じるいかがわしさが増した。「こういう世界に憧れてるんだろうなぁ」と勝手に思って見始めたので、なおさら彼の映画世界がインチキ臭く見え始めた。むろんインドとの深いつながりを持つ脚本家ルース・プラワー・ジャブヴァーラや制作者イスマイル・マーチャントとタッグを組んでの映画づくりなどを考えると、アイヴォリーをそんなに単純にとらえるのはとても危険だ。それでも、あの撮る映画撮る映画見事にチマッとして来ちゃうワン・パターンぶりを見ると何となくそう思えてしまう。

 近年は「サバイビング・ピカソ」(1996)や「シャンヌのパリ、そしてアメリカ」(1998)など、お得意の「昔のイギリス上流階級」の話から離れた映画も撮っていた。だが僕が未見の後者はともかく、前者にさほどの興味は湧かなかった。後者だって、タイトルからしてクソ気取ったシロモノだからねぇ(笑)。この人がアメリカを描いたとしても、結局はヨーロッパありき。アメリカやアメリカ人を持ち出してきても、あくまで「…パリ、そしてアメリカ」とか何とか取り澄ましてしまうのが限界って気がしたものだ。

 こう言っちゃ何だが…「欧州仕込みのセンスと教養」なんぞとオツに澄ましてはいるけど、かえってヨーロッパへの憧れ丸出しのテキサス石油成金のオヤジみたいなビンボ臭さしか感じなかった(笑)。多分そんな人では全然ないんだろうし、僕に知識と教養がないだけなんだろうけど、何となく結局は「ヨーロッパ通(ハッキリ言えばヨーロッパかぶれ)のアメリカ人」どまりって気持ちがしていたのだ。

 その後の「金色の嘘」(2000)や「ル・ディヴォース/パリに恋して」(2003)は、見ることすら忘れてしまっていた。たまたまこの数年は、僕にとってアイヴォリー作品に関する空白の時期にあたる。だから今回の「上海の伯爵夫人」(2005)に至るまで、僕のこのサイトにアイヴォリー作品が取り上げられることがなかったわけだ。

 

見た後での感想

 というわけで、「大家」のジェームズ・アイヴォリーに随分なモノの言いようではあったが、正直そう感じていたのだから仕方がない。僕にとっては半ば忘れかかった映画作家みたいなもんだった。

 ところがその新作がいきなり登場。しかもいくつかの魅力的な要素も加わっていた。

 まず、魅力的な要素その1。それはカズオ・イシグロの書き下ろしシナリオだということだ。

 僕が久々に感心したアイヴォリー映画「日の名残り」の原作者が、何を隠そうこのイシグロだ。異邦人のくせにヤケにヨーロッパに精通している「アイデンティティーの曖昧さ」がアイヴォリーの共感を得たのだろうか。本来ならそう意地悪く結論づけたくなるイシグロの存在ではあるが、「日の名残り」はそんな僕の不信感を吹き飛ばす素晴らしさだった。あのイシグロなら、ヨーロッパ製の盆栽や箱庭や石庭ばかりつくりたがるアイヴォリーに「喝」を入れてくれるかもしれない。

 次いで、魅力的な要素その2。それは、この作品が日本軍侵攻前後の上海を描いていること。

 日本人である僕が言うのもどうかとは思うが、実は「上海陥落」映画ほどオイシイ題材はない。外側には中国人と侵略日本軍という「東の激突」があり、中には租界に暮らす欧米人たちの「西の葛藤」がある。ハッキリ言うと、ここに「世界の縮図」があるのだ。

 そんな屁理屈を取っ払っても、単純にこの時代の上海は魅力的だ。爛熟して蠱惑的で猥雑。そして、そこに暗躍する日本軍は、日本人の僕にとって見たいような見たくないような…何とも怪しくて危なげな存在である。

 実際、映画作品にもちょっと気になるクセモノ作品が多い。

 最近のチャン・ツィイー主演ジャスミンの花開く(2004)は、彼女のプロモ・ビデオみたいでちょっと底の浅い映画だったが、それでも上海の雰囲気は魅力的だった。そしてツィイー主演作ならもっと妖しさ満点の傑作パープル・バタフライ(2003)がある。仲村トオル扮する日本の秘密工作員もいい。ふたりの人魚(1998)のロウ・イエ監督ならではの夢を見ているようなタッチや揺れる視線が印象的だ。

 アン・ホイ監督の「傾城之恋」(1984)は、チョウ・ユンファ、コラ・ミャオという訳アリ大人男女の恋愛を、 日本軍侵攻がなかったら成就しなかったかもしれない恋として描いたあたりの屈折ぶりに注目。誤解されては困るが、この作品は決して侵攻を肯定しているわけではない。僕も世間の軽薄な人々のように、「美しい国」などと浮かれたいとは思っていない。だが、紋切り型の「抗日」映画になっていないという点でこの作品は、「パープル・バタフライ」とも一脈通じる不思議な魅力を持った映画なのだ。

 さらに真打ちとして挙げたいのが、スティーブン・スピルバーグ監督の異色作「太陽の帝国」(1987)だろう。上海陥落に巻き込まれた英国人少年のサバイバルを描いて、スピルバーグによるシリアス路線の作品ではかなり骨のある作品に仕上がっていると僕は思うが、いかがだろうか。今では若手クセモノ俳優ナンバーワンにのし上がったクリスチャン・ベールのデビュー作としても大いに注目できる。

 まぁそんなわけで、「上海陥落」映画は不思議な魅力を持った異色の作品に仕上がるケースが多い。あのアイヴォリーがヨーロッパからここに題材を移しただけでもめっけものではないか。

 最後に、魅力的な要素その3。それは何よりこの映画のキャストとして顔を揃えた素晴らしい俳優陣だ。

 主演のレイフ・ファインズをはじめ、アイヴォリー作品初登場の人々が名を連ねる。特に僕が注目したいのは、ヒロインを演じるナターシャ・リチャードソン。この人って派手さはないけれど、ファミリー・ゲーム/双子の天使(1998)やシャンプー台のむこうに(2001)などを見れば分かるように、上品さと手堅い演技でいつも僕の目をクギ付けにしてしまう。「気品」こそを女優の最重要要素と考える、僕の大のご贔屓女優さんだ。さらに亡国のイージス(2005)やPROMISE/プロミス(2005)で心境著しい真田広之まで出てくるというから驚きだ。これはどうしたって見たくなるではないか。

 果たして…実物の映画は予想以上の出来栄えだった。

 まずは、カズオ・イシグロの脚本起用が正解。今回は本来日本人である彼が、上海の日本軍侵攻という少なからず関わりのある題材を手がけた点が興味深い。「第三者」のようで一方の「当事者」であるような彼のスタンスが、この映画に絶妙な味付けを施しているのだ。

 なぜなら先に述べたように、「世界の縮図」である「上海陥落」状況は誰にとっても何らかのカタチで関わりがあるからであり、それゆえ過去のアイヴォリー作品のように「アメリカ人のくせにヨーロッパ人のフリ」といった、ドップリ浸かってるんだか人ごとなんだか分からないような「曖昧なアイデンティティー」を許さない。どんなに無関係なフリをしたくても、この状況が作者にそれをさせないのだ。

 そしてカズオ・イシグロがそれを狙ったのか、それともアイヴォリーがそれにノッたのかは定かではないが、この映画には明らかに過去のアイヴォリー作品とアイヴォリーその人に対する「寓話」的ニュアンスが漂う。

 そのポイントは、主役であるレイフ・ファインズの役どころにある。

 これほど何かと言えばイギリスの話を好んでいたアイヴォリー作品なのに、そしてレイフ・ファインズはイギリス俳優なのに、なぜか彼の役は元アメリカ外交官の役。ある意味で「国際通」のアメリカ人とも言える。本来はウルトラ・ドメスティックであるはずのアメリカ人「らしからぬアメリカ人」…という設定だ。

 彼は上海の持つ東洋と西洋のゴッタ煮的な感覚を愛し、中でも猥雑な活気漲るバーを愛している。そんな彼は今は世の中を斜めに見ていて、誰にも積極的に関わろうとしない。むしろ世間を徹底的に避けて、自分の「夢のバー」構築に精を出すばかり。そこは彼にとっての「世界の縮図」だ。

 そして、それほどに現実感覚に疎くなったファインズだからこそ、順調にいっている自分のバーに「政治的緊張感」を持ち込みたい…なんて寝言を、本当の「政治的緊張感」のプロであるマツダこと真田広之に言い出す。だが、これはテメエがヌクヌク平和の恩恵を味わっているようなヤツに限って他人を「平和ボケ」と揶揄するような、あまりにおめでたい発言だった。

 やがてマツダ=真田の手引きによって日本軍が押し寄せて来て、「世界の縮図」であるはずの「夢のバー」は呆気なく崩壊してしまう。いくらファインズがチマチマと「世界の縮図」をこしらえてみたところで、そこに「政治的緊張感」を持ち込んだつもりになったところで、正真正銘本物の「政治的緊張感」の前にはあまりにひ弱なモヤシのごときシロモノでしかない。まさに砂上の楼閣だ。

 つまりは、それって…単なる「盆栽」や「箱庭」や「石庭」みたいなもんだったのだろう。

 国際的スケールの政治的「引きこもり」だった主人公は、ここで「盆栽」の世界を捨ててヒロインと共に「実体」の世界へと旅立つ

 そのエンディングは、この手の題材の作品にしては不思議なほどにハッピーエンドだ。

 今回アイヴォリーが長年の盟友であるはずの脚本家ルース・プラワー・ジャブヴァーラをあえて切り、中国は上海という不慣れな場所に出向いて、中国語圏映画界で知られているクリストファー・ドイルなどの新顔の人材と組む…という他流試合に挑んだのも、いいかげん自分の手の届く範囲内でつくれる毎度お馴染み「盆栽」映画の限界を自ら悟ったのではないか

 それが功を奏したのか、今回はいつものアイヴォリー映画にはないスケール感とダイナミズムが作品に溢れている。

 俳優陣もズバリ適役好演。レイフ・ファインズはこの手の「人生捨ててる」男を演じさせたら天下一品。そんな男が最後の最後に目を覚まして、「男の純情」を爆発させるあたりはまさにナミダもの。屈折して自分を投げちゃった男が得意なファインズだからこそ出せる味だ。

 ナターシャ・リチャードソンもまたまたイイ味出している。いいかげんトウが立って来ちゃってはいるが、だからこその哀しさも漂ってなかなかいいのだ。それに元々、この人は「ミッドナイト25時/殺しの訪問者」(1992)や「侍女の物語」(1991)などで見せた上品さと官能性という相反する魅力が売り物だった。今回などは、まさにバッチリ打ってつけの役ではないか。久々に真価を発揮した役なんで、僕はすっかり嬉しくなってしまった。

 そして嬉しいと言えばこの人、真田広之。あの不気味な薄気味悪さと、それでいて隠しきれない「人間的魅力」。単なる悪役に演じるなら、この役はいとも簡単だろう。実は最後の最後にもっとも的確なアドバイスを主人公に与えるのが、彼の役どころなのだ。これはなかなか出来ない芝居だ。元々がオイシイ役ではあるが、見事受けて立った真田もエライ。

 ともかく先にも述べたように、今回はエンディングがヤケに明るい。とんでもないカタストロフを経て来た主人公たちなのに、むしろそうした災厄が主人公たちの頑なな心やくだらない社会的な「ワク」を吹き飛ばしたように見える。その点で、この作品はアン・ホイ監督の「傾城之恋」の延長線上の作品と言っていい。

 ここで改めて考えてみれば、今まで成功したアイヴォリー作品はすべて「ワクをハミ出そう」とする人間を描いたものではないか。

 皮肉なことにそのアイヴォリー自身が自らの「ワク」に囚われ、本来の内向き傾向も手伝って「盆栽」映画を量産するハメに陥ってしまっていた。それは、舞台をイギリスをパリに移動させたぐらいでは、所詮キザったらしい「…パリ、そしてアメリカ」どまりでどうにもならなかった。だからこそ今回は、「片腕」とも言える脚本家まで切り捨てての背水の陣を敷いたのだろう。

 それこそは、アイヴォリー自身の「ワクをハミ出そう」とする試みだった。

 つまりは「題材」と「表現」が奇しくも一致したわけだ。なるほど、この映画が面白くならない訳がないのである。

 

見た後の付け足し

 何でも中国にはかつての上海の街並みを再現した壮大な撮影施設があるらしく、その存在は中国語圏映画に詳しい人々の間では、いわば「常識」らしい。

 カンフーハッスル(2004)の感想文ではこの映画のために建てたセットと勘違いして、僕は大いに無知をさらけ出してしまった。その後、「パープル・バタフライ」「ジャスミンの花開く」でも活用されていたこの街並みは、今回も全編に使用されているようだ。

 それにしても、毎回ちゃんと違った表情に見えるこの撮影施設、一体どのくらいの広さのシロモノなのだろうか?

 

 

 

 

 

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