「百年恋歌」

  最好的時光 (Three Times)

 (2006/11/06)


  

見る前の予想

 ホウ・シャオシェンの新作。3つの時代の恋愛模様を別々に描く、短編オムニバス。カップルを演じるのは、3話ともスー・チーチャン・チェン。まぁ、いろいろ気になる要素を持った作品だ。

 だが、何よりホウ・シャオシェンの新作という要素が、最大に期待させるところだし最大に不安にさせる点でもある。かつて台湾ニューウェーブとして出てきて、「し損じなし」の素晴らしい作品群を生み出した彼だが、近年は「???」と思わされる映画ばかり。それでも僕が毎度毎度あれだけボロクソに言いながら新作を見てしまうのは、やはりどこかこの人に期待しているからなんだろう。

 いつもいつも、「今度こそは」と思わされてしまうのだ。

 

あらすじ

第一話 恋愛の夢

 1966年、高雄。一人の青年(チャン・チェン)が自転車を飛ばしに飛ばす。そしてたどり着いたのが、ひなびたビリヤード場。人けのないがらんとした店に入ると、開店の準備をする女の子・春子(チェン・シーシャン)にいきなり手紙を渡し、そのまま黙って去っていく。春子は手紙を一人読みながらほほえむ。

 青年は船に乗ってこの町から去った。それと入れ違いのように、船に乗って一人の若い娘がやって来る。

 その娘シウメイ(スー・チー)は、例のビリヤード場に春子の後任で勤めることになった女の子だった。彼女は新しい職場となったビリヤード場で、引き出しの隅に突っ込まれた手紙を見つける。

 「春子さん、兵役の通知が来たのでここを去らねばなりません。ここでの毎日は楽しかった。返事を待っています」

 それからしばらくして、店にあの青年がやって来る。だが、当然ながらそこには春子ではなくシウメイが立っていた。

 「春子さんは?」「やめたわ」

 しばし呆然の青年だったが、気がついてみるといつの間にかシウメイとビリヤードに興じているから若者は立ち直りが早い。しばしいい感じで二人でゲームをして、閉店まで楽しく時を過ごす。一旦帰ったかと思った青年は、店じまいをしているシウメイの元にまた帰ってきた。

 「手紙、書くよ」「え?…うん」

 それだけ言い残すと、青年はまた慌てて去って行った。彼はまた兵役に戻るのだ。シウメイは笑顔をほころばせながら店じまいを続ける。

 さらに時が経って、今度はシウメイが店を去る時が来た。

 しばらくしてあの青年がビリヤード場にやって来るが、もうそこにはシウメイはいない。またまた呆然として「どこへ行ったか知らない?」と訊ねる青年に、店のおかみさんや新入りの女の子が「嘉義のどこそこ」だの「嘉義のビリヤード場」だのと教えてくれた。とにかく一刻を争うようにバスに乗り込む青年。

 やっとの思いで嘉義のビリヤード場や実家を訪ねても、そこにも彼女はいなかった。足を棒のようにして、ようやくシウメイを訪ねあてたのが虎尾のビリヤード場だ。

 「久しぶりだね」「どうしてここが?」

 言葉は少なくとも、気持ちは伝わっている。

 店が終わってから二人で飯を食うが、明朝には青年は兵役に戻らねばならない。何をする訳でもなくバスを待つ二人は、さりげなく手を握り合っていた…。

 

第二話 自由の夢

 1911年、台北。ここは格式と伝統のある遊郭。馴染みの芸妓(スー・チー)のもとに出入りする男チャン(チャン・チェン)。彼は、立場が危うくなって日本に亡命した思想家を支援する「革命文士」だ。

 そんなチャンには妻子がちゃんといるが、むろん芸妓はそれをとやかく言うほどヤボではない。あくまで客と芸妓の付き合いではあるが、二人の間には慣れ親しんだ空気が流れている。

 やがて芸妓の妹分(チェン・シーシャン)に妾の話が持ちかけられる。それは彼女が妊娠したからだが、身請けするにも大金が要る。あいにくと男にはそれほどの持ち合わせがないと聞き、芸妓はチャンに相談に乗ってもらう。するとチャンは気持ちよく足りない分を肩代わりしてくれた。

 「彼女の将来を考えないと」

 そんなわけでトントン拍子に妹芸妓の身請け話が進んでいくが、ある日芸妓はチャンに本音を吐露した。

 「義妹の将来を考えないとって仰ってたわね。…私の将来は考えたことがあって?」

 チャンはただ黙って去るしかない。やがて世の中の風向きが変わると、芸妓のもとにチャンから一通の手紙が届いた。上海に旅立つ…と。

 

第三話 青春の夢

 2005年、台北。バイクを二人乗りしている男女。ハンドルを握る男チェン(チャン・チェン)は、彼にしがみついている女ジン(スー・チー)が異様にシャチこばっているのに気づく。

 「大丈夫?」

 それでも二人はチェンの部屋にシケ込むや否や、服を脱ぎ捨て愛し合う。チャンの職業はカメラマンだ。そしてジンはロック・シンガー。

 今夜もライブハウスで歌うジン。バンドを従え恐ろしくロー・テンションで歌う彼女に、チェンは食いつくようにレンズを向ける。そんなチェンの様子を見ながら、不機嫌さを隠そうとしない若い女ブルー(チェン・シーシャン)。彼女はキレて外に出ていく。

 自宅に戻ったチェンは、ジンが忘れていったカードを見つける。

 「私はてんかん持ちです。救急車は呼ばずに暖かい所に運んでください」

 やがてチェンは、近所を歩いているブルーを見つける。彼女を追いかけ抱きしめるチェン、逃げようとしながらも抱き込まれるブルー。どうにもならない腐れ縁の構図。

 腐れ縁は他にもあって、ライブを終えたジンに若い女ミッキー(リー・ペイシュアン)がいきなりグダグダ言ってくる。やれ携帯メールの返事がなかっただの、やれどこに行ってたのだの…ミッキーはジンの嫉妬深い「恋人」だ。そんなミッキーを何とかなだめて、一緒に自宅に戻ってくるジン。ところが彼女の携帯に、あのチェンからのメールが届くではないか。

 「君に会いたい…」

 

見た後での感想

 前述のストーリー紹介を読めば、僕が言いたいことは大方想像がつくかもしれない(笑)。

 そして近年のホウ・シャオシェン作品に、僕がどんな印象を持っているかについては、ミレニアム・マンボ(2001)、珈琲時光(2003)の感想文をお読みいただきたい。まぁ、同じ文句を繰り返しグダグダ言っても、ホウ・シャオシェンだって気の毒だ。

 早い話が…あまりに単純に事を考えるのもどうかと思うが、どこかノスタルジックな作風が売りだったホウ・シャオシェンが、いいかげん煮詰まったのか現代のお話に方向転換を図ったのが「好男好女」(1995)。そしてこれを境にして、長い長い低迷に突入してしまったように感じられるのだ。

 題材もストーリーも「思いつき」でしかないようだし、何だか「現代風俗」らしきものをチャラチャラと出してくるだけ。ホウ・シャオシェンがトレード・マークのようにしていたカメラ長回しと同時録音も、舞台がやたらカラオケ屋だとかクラブだとか飲み屋とかライブハウスに設定されるようになってからは耳障りでやかましいだけ。おまけに暗くて何だかよく見えない。それで延々長回しされても困る。出てくる連中も、揃いも揃ってダルくてウザい奴らばかり。早い話が…暗くて汚くて騒々しい厨房にゴキブリがはい回っているような映画ばっかり(笑)で、見ていて不快になってくるばかりだったのだ。

 ところが前作「珈琲時光」は、ちょっとだけいつもと雰囲気が違っていた。何と小津生誕100周年記念映画とかいう蹴っ飛ばしてやりたくなるような企画ながら、これだけはチャラチャラした「いかにも」現代風俗が網羅されていない。ヒロイン像の軽薄さには相変わらずのイタさがチラつきながらも、ちょっとホウ・シャオシェン立ち直りの兆しを見せたか…と思わされた訳だ。だとしたら、こんなに喜ばしい事もない。

 で、実際のところ、映画が始まってのファースト・ショットには「おっ?」と驚かされた。

 自転車でひた走るチャン・チェンを、カメラが同じスピードでフォローする素晴らしいショット。

 これだ、これだ。これこそ僕が見たかったホウ・シャオシェン映画だ。あの傑作「恋恋風塵」(1987)のファースト・カット。トンネルから抜けだした列車の車窓の風景が、みずみずしくもシャープな映像でとらえられた瞬間、僕はあの作品が傑作だと信じて疑わなかった。あの素晴らしいショットを彷彿とさせるような、チャン・チェンの自転車疾走ショット。ムムッ…これは近年のホウ・シャオシェンとはひと味違うかも

 実際、今回の第一話「恋愛の夢」は、久々にホウ・シャオシェンらしい短編に仕上がった。プラターズの「煙が目にしみる」などのオールディーズも「いかにも」の使い方ながらハマってる。考えてみれば、今回の第一話は久々にホウ・シャオシェン十八番の「過去の話」なのだ。この手の話を手がければ、うまくない訳がない。案の定、バッチリとハマってるのだ。

 兵役の合間に慌ただしくビリヤード場の女の子を捜す青年の話。たったこれだけの物語なのに、何と映画全体が豊かに感じられることか。特に初対面ながら自然に親しくなっていくスー・チーとチャン・チェンの様子や、彼らが再会を果たす場面のリアルなトキメキ感はスゴイ。結局二人は何をするという事もなく、可愛らしく手をつなぐだけ。なのに、見ていてえらくドキドキしてしまうのだ。

 正直言って僕はクローサー(2002)でもトランスポーター(2002)でもスー・チーを大していい女優とは思っていなかった。別に魅力も感じないし、何でこんなに売れているのか全く分からなかった。だが、今回のこの第一話の彼女は文句なく可愛らしい。チャン・チェン演じる青年が夢中になる気持ちが分かる。若い男がどうしたって好きになってしまう、女の子のかわいらしさを体現して見事。こんな素晴らしい彼女の表情を引き出す、ホウ・シャオシェンの非凡さを改めて痛感した。むろん愛の神、エロス(2004)のウォン・カーウァイ短編でもイイ味出してたチャン・チェンも、純粋さが活かされていて悪くない。

 で、今回は久々にいいぞ…と、僕は身を乗り出した次第。次の第二話にも大いに期待した。

 第二話は遊郭を舞台にした、芸妓と客とのお話。これ、何と驚くべきことにサイレント映画なのだ。1911年という時代色を出すためかと思いきや、劇場パンフを読むとスー・チーとチャン・チェンがあの時代の言葉をうまくしゃべれなかったからとか(笑)。ただし、映画作家のこの手の発言はあまり真に受けることはできない。かつてホウ・シャオシェンは「悲情城市」(1989)のなかで、ろうあ者トニー・レオンの場面だけ疑似的にサイレント映画仕立ての演出を施していたではないか。この人のサイレント志向は、一種の確信犯と見た。

 で、音のないホウ・シャオシェン映画をしげしげと見ていると、不思議なことに気づいた。音のなくなった彼の作品からは、驚くほどリアリティが失われているのだ。それはウソっぽいというよりも、むしろ「寓話的」とでも言うべきだろうか。あるいは一種のファンタジーと言ってもいい。物語が遊郭から一歩も出ない話だからかもしれないが、どう見ても現実感のないエピソード。徹底的に人工的で、一種の「抽象化」された世界になっている。映像そのものは、きめ細やかな従来よりのホウ・シャオシェン映画なのに、見え方がまったく違う。これには実に不思議な気分がしてきた。ともかく第二話は第一話ほどワクワクもドキドキもしなかったが、それでもソコソコ興味深く見た。

 そして第三話。

 正直言って、「好男好女」以降の現代を扱ったホウ・シャオシェン映画のつまらなさが凝縮された感じ(笑)。ガチャガチャと騒々しいサウンドトラック。かったるくて鬱陶しい登場人物。おまけにどうでもいいようなお話。早く終わらないかとイライラしてしまった。前述のストーリー紹介だって、僕は書くのが面倒くさくなって途中でやめてしまった。ハッキリ言って退屈で、見ているのが苦痛なほどだ。スー・チーもいつもの不細工なフテ腐れたオバQ顔。やっぱりまたやってしまったか、ホウ・シャオシェン。

 だが今回は、いつものように不毛な気持ちで劇場を去ることはなかった。それどころか、極めて興味深い作品を見た気がした。もちろん第一話は抜群だったから、それで元はとれた(笑)…という気持ちになったこともあるだろう。だがそれ以上に…この三本並べて見ることで、改めて見えてきたことがあったからだ。

 そして、それこそがホウ・シャオシェンの栄光と挫折の軌跡を辿る手がかりなのだ。

 

かつてのホウ・シャオシェン映画技法の秘密とは

 世評の高さのあまり勢い込んで見て肩すかしをくらった「童年往事」(1985)にしても、圧倒的な出来栄えの「恋恋風塵」「悲情城市」にしても、初期習作や「ナイルの娘」(1987)などの傍系の作品を除いたかつてのホウ・シャオシェン作品に共通するものは、瑞々しさを伴ったノスタルジーであった事は間違いあるまい。その瑞々しさとは「実感」と言い換えてもよい。まるで自分がかつて体験したような…そして、それをつい昨日のように感じてしまうような、リアルなノスタルジー。

 かつて「童年往事」を見た日本の観客が一様に「昔の日本みたい」と懐かしさを感じたのは、台湾に日本占領時代の建物などの名残があるから…だけでは決してあるまい。実はそんな「懐かしさ」をあの作品に感じたのは、世界で日本人だけではないはずだ。おそらく、それはホウ・シャオシェンの演出力の産物なのだ。

 だから人々も、この「瑞々しさを伴ったノスタルジー」に高い評価を与えた。それはホウ・シャオシェンのトレード・マークになった。

 さて、ここからが問題だが…では、なぜホウ・シャオシェンは「瑞々しさを伴ったノスタルジー」を見事に描くことができたのか?

 今までちゃんと考えたことはなかったが、それは彼の特徴的な映画技法に関係があるはずだ。すなわち、カメラの長回し映像と同時録音のサウンドトラックである。

 なぜそれが分かったかと言えば…今回、かつての典型的ホウ・シャオシェン・スタイルでつくられた第一話の後に、サイレントの第二話が来たからだ。その落差から、こうしたホウ・シャオシェンの秘密の一旦がかいま見えた。

 ホウ・シャオシェンがかつて得意としていたのは、「ちょっと昔」のお話だった。観客の大多数がまだ記憶している時代。実体験はしていなくても、人々の共通認識や共有された記憶の中に残っているため、自分もそれを一緒に共有しているような気持ちになれる時代。あるいは時代設定は現代でも、主人公たちが子供か青春期真っ直中で、しかもその純粋性を見つめた物語のために、すでにその年代を通り過ぎた観客には「ノスタルジー」と受け止められるような…そんな設定。実はかつてのホウ・シャオシェン映画の大部分の設定は、そんなあたりに求められていたのだ。

 ただ、それだけなら凡百の映画や映画作家がやっていることだ。では、ホウ・シャオシェンの非凡さはどこにあったのか?

 彼はそこにドキュメンタリー・タッチの演出を持ち込んだ。カメラの長回し。しかも三脚で据えっぱなしのため、レンズの前を別の人物が通り過ぎて、被写体が遮られることもしばしばだ。まるで、たまたまそこにあるモノを撮影してしまったような臨場感。同時録音のサウンドトラックが、さらにそれを強調する。周囲のノイズまでが生々しく聞こえてくるため、リアリティはいやが上にも増してくる。

 今回、第二話を見ていて驚いたのは、そのリアリティの欠如。あの実感に溢れていたホウ・シャオシェンの映像が、やけに人工的に感じられた。しかし、映像上は大して違ったことをやっているようには思えない。その時、僕はかつてのホウ・シャオシェン映画を支えた映画技法がようやく納得できたのだ。

 第二話では現実音がなくなることから、リアリティを醸し出していたノイズもシャットアウトされる。しかも会話がスポークン・タイトルで挿入されることから、長回しで撮影された映像もたびたび寸断される。それゆえ、あの「自分が実体験したかのような」リアリティが失せてしまうのだ。

 実はこの第二話の「瑞々しさを伴ったノスタルジー」の欠如にはもう一つ理由があって、時代設定がもはや「人々の共通認識や共有された記憶」を超えているという点も見逃せない。1911年にノスタルジーを感じられる人間は、もうそうそういまい。そもそも、この時代の高級な遊郭を体験できた人物には限りがあろう。そういう意味でも「瑞々しさを伴ったノスタルジー」をかき立てるには難しい設定だという事が言えるだろう。

 さて、これでかつてのホウ・シャオシェンの技法の秘密はすべて解けた…と思うのはまだ早い。実は僕は、もう一つ気づいたことがあったのだ。

 確かに長回しは寸断されノイズは消去され、リアリティが失われるのは分かった。だが、それだけで「寓話」や「ファンタジー」に見えてくるわけではあるまい。では、なぜ第二話は「寓話」に見えたのか?

 実はホウ・シャオシェン映画は、元々が「寓話」や「ファンタジー」ではなかったか

 「瑞々しさを伴ったノスタルジー」だったかつてのホウ・シャオシェン映画。それはドキュメンタリー・タッチの映像と音声でリアルさを演出されたもので、それによって観客は「実際に体験したような」、あるいは「実体験を再現されたような」懐かしさを感じる。だが、それは…実は本当の「実体験」…リアルではあり得ない。なぜなら、それらは前述したようにあくまで記憶の中で美化されたか風化されたもの、あるいは「人々の共通認識や共有された記憶」を前提にしたものでしかないからだ。

 実はホウ・シャオシェンは、みんなが記憶していたり共通認識を持っている要素を巧みに「典型」化し「記号」化していた。本当のリアルとは…少なくとも記憶という点においては極めて個人的なものだ。それを観客の共有できる概念にするためには、広い人々に受け入れられる「普遍化」…「典型」化や「記号」化が必要だったはずだ。

 「青春ってこうだ」とか「台湾の暗黒時代ってこうだ」とか、ガバッと鷲掴みにするように明確に「典型」化「記号」化ができる。そして、極めて単純に「いかにも」のアイコンに凝縮してしまいながら、そこに長回しやノイズというリアルな味付けを施すことで、擬似的な「実感」が生まれる。その能力が卓抜したものだったからこそ、彼の「瑞々しさを伴ったノスタルジー」は他の追随を許さないものだったのだろう。つまり彼の映画は疑似リアルであって、本当のリアルではあり得なかった。

 では、なぜホウ・シャオシェンはそんなスタイルから離脱を図ったのか?

 

現代を描いた時にホウ・シャオシェンが陥る罠

 題材は常に「ちょっと昔」。基調となるのは「ノスタルジー」。そして本質は「典型」化「記号」化であって、リアルではない。

 そのスタイルでいくら成功を収めても、実はやっている事は後ろ向きでアクチュアルな現実と全く対峙していないではないか…おそらくキャリアの頂点を極めた時、ホウ・シャオシェンはそんな後ろめたさを持ったのではないだろうか。僕らにはせいぜい題材のことや手法のことしか目に入らないから、ホウ・シャオシェンがそう思うに至った理由には気づかない。だが彼には、自分の技法の中心に「典型」化「記号」化があることがイヤという程分かっていた。だとすると、この技法で彼が成功を収めれば収めるほど、心中穏やかでなくなる気持ちは分からないでもない。

 単に題材が「昔の話」だとか味わいが「ノスタルジー」だなんてことは、実は大した問題ではない。しかし、つくっている映画の本質が「記号」で「典型」であるという事になってくると、「作家」たるもの忸怩たるものがあるはずだ。つまり、それは深みや含蓄やデリケートな概念ではなく、一種の「マンガ」と同じということになってしまう。少なくとも「作家」たろうと思っていた人物にとって、これは耐え難いことだったのではないか。

 もっとも、これは成功した映画作家にはつきものだ。

 例えばスティーブン・スピルバーグ黒澤明も、描く対象を単純化・記号化することで凝縮して映画的パワーを吹き込む天才だった。成功した映画作家たちは、程度の差こそあれ、いずれも「単純化」の名手だ。映画というメディアにとって「単純化」は避けがたい必然なのだ。

 そしてスピルバーグも黒澤も、絶頂期に大きな転機を迎える。それも技法の中心に「典型」化「記号」化を据えているがゆえなのだ。だから必ず「現実」との相克を体験する。スピルバーグがシリアス映画への傾斜を深めていったのも、黒澤が「どですかでん」(1970)以降作風を一変させたのも、おそらく同じ理由からだろう。それは、何かを極めた映画作家の悲劇的運命と言えるものかもしれない。

 そして僕には、それがホウ・シャオシェンのキャリアに「戯夢人生」(1993)の破綻を生み、「好男好女」以降の低迷を生んだと思えるのだ。

 それは「どですかでん」以降の黒澤が必ずしも高評価を得られていないように、かなり苦しい道のりとなった。なぜなら、ホウ・シャオシェンの映画技法の根本が、現代というモノを鷲掴みに描くには向いていないからだ。これはおそらく間違いないだろう。

 つまり、例の「典型」化「記号」化が災いしていると言える。

 現代は複雑で矛盾に満ちている。それでも時が経てば歴史がそれなりの評価を下して、一つか二つの概念でくくれるようになるのだろうが…現在進行形で描くうえでは、「典型」化「記号」化は極めて安易な道に見えてしまう。現代はそんな単純なモノじゃない。どうしたって、どこかピントはずれな方向にいってしまいがちだ。

 例えば…先に挙げたスピルバーグや黒澤を例にとってみれば、これはさらに明らかになる。

 SFやショッカーなど一種の「エスケープ(逃避)・ムービー」の名手だったスピルバーグは、現実とシリアスに対峙した作品をつくりだしたとたんに、その作風に乱れが生じた。「カラー・パープル」(1985)、「シンドラーのリスト」(1993)、「プライベート・ライアン」(1998)など、いずれをとってみても「ジョーズ」(1975)や「未知との遭遇」(1977)の揺るぎなさには足下にも及ばない。

 また黒澤の社会派的な現代劇は、「静かなる決闘」(1949)、「醜聞<スキャンダル>」(1950)、「生きものの記録」(1955)、「悪い奴ほどよく眠る」(1960)など、いずれも何か歪んだ印象を与える。時代劇を撮った時のあの明快なストレート感がない。比較的成功した部類の「天国と地獄」(1963)を見ても、晩年の「八月の狂詩曲<ラプソディー>」(1991)を見ても、どこか硬直した倫理観に支配されている感じが濃厚だ。やっぱり「単純化」の名手は、「現代」や「現実」とアクチュアルに対峙するのは苦手なのだ。

 それは、ホウ・シャオシェンも例外ではない

 考えてみよう。どうして現代を描き始めたホウ・シャオシェンは、毎度のように好きこのんでクラブやライブハウスやカラオケやバーにカメラを持ち込むのか。こんな場所ばかり舞台にしたあげく、毎度お馴染みトレード・マークの同時録音をやらかすので、サウンドトラックが耳障りで仕方がない。本当に不快だ。それとも、このやかましさが「現代」だ…とでも思っているのだろうか。

 実際のところ「現代」という概念は、現代そのものを生きている我々にはどうにも一言でかたづけられるものではない。しかも台湾で生きている人と日本で生きている人の現代は違うだろうし、台湾だって台北と田舎じゃ違うだろう。それを一括りにするのは無理な相談だ。

 だがホウ・シャオシェンは、自らの技法の通りにそれをやらずにいられない。どうしても「単純化」のクセをかなぐり捨てられない。

 そうなると…例えばひと昔かふた昔まえのテレビ番組などで、若者向けの現代的な場面というとみっともなくゴーゴー・クラブやディスコをわざとらしく持ち出してきたように、クラブやライブハウスやカラオケやバー…といったあたりに舞台を求めてしまうのではないか。そうでも思わないと、この安易さはとても説明できない

 例えば前作「珈琲時光」のヒロインの設定たるや…“一人暮らし”“フリーライター”の女。それが妊娠して“シングルマザー”をめざす。相手は“外国人”の男…。まったくもって安っぽい日本のテレビドラマみたいだ。でなければ、「前向き志向」とうそぶく女向けの安いマンガか。今回の作品の第三話だって、スー・チーがロック・シンガーでチャン・チェンがカメラマンという、あまりにも「いかにも」の設定。何だか見ていて恥ずかしくなってくる。

 おそらくホウ・シャオシェンは、現代ってものが分かってないんじゃないだろうか。スー・チーの歌う恐ろしくノリの悪いロックを聴いていると、どう考えてもホウ・シャオシェンがこういったモノを分かっているとは思えない。いかにも「今風」というアイテムを並べただけで、「ミレニアム・マンボ」に出てきた夕張と同じく、単なる思いつきの域を出ていないのだ。でも、現代を無理矢理「典型」や「記号」の中に押し込めようとすると、そうせざるを得ないのではないか。おそらく彼は何をやっていいのか分からないのだろう。

 サウンドトラックが耳障りなのも「現代」表現…と先に冗談で書いたが、実はホウ・シャオシェンは冗談抜きでそう思っているかもしれない。それというのも、ホウ・シャオシェン現代劇の登場人物がどれもこれもカッタルイ連中なのが気になるからだ。

 ひょっとしてホウ・シャオシェンは、「現代人」というものをこの通りとらえているのではないか。やる気のないかったるい連中だ、どうしようもない連中だ…ホウ・シャオシェンは内心そう思っているのではないか。

 つまり…「イマドキの若いもんは!」…と。

 だが、それって全然「現代とアクチュアルに対峙している」ことにはなってないんじゃないか。

 

見た後の付け足し

 まぁ、結局またしても散々にコキ降ろしてしまったホウ・シャオシェン映画だが…実は今回僕が目を見張ったのは、その問題点がここで思いっ切りハッキリしたからだ。

 第一話はかつての好評を博していた頃のホウ・シャオシェン映画、そして第二話は…おそらくは第一話の特徴を際だたせるための挿話なのだろう。ひょっとすると僕が未見の「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(1998)と関連がある可能性が高いが、ここでは結論を出すのは差し控える。さらに近年のホウ・シャオシェン作品を象徴するような第三話。つまりこの三話で、ホウ・シャオシェンのこれまでの軌跡が一通り見通せる…一種のグレーテスト・ヒッツ・アルバムみたいに仕上がっているのが興味深い。

 実は彼も自らの光と影の部分を検証して、ここで新たな方向転換を図りたいと思っているのではないか。この作品でこれまでのホウ・シャオシェン作品の特徴が見いだせるとすれば、彼自身もまたそれを反芻しようとしていたに違いないのだ。

 だとすると…彼の次の作品は大いに注目できる

 そう思った矢先、この映画の劇場パンフレットを読んでいたら、ホウ・シャオシェンの次回作はジュリエット・ビノシュ主演でパリで撮影中と出ているではないか。

 大丈夫なのか。本当に分かってるのかなぁ、ホウ・シャオシェンは…。

 

 

 

 

 

 

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