「16ブロック」

  16 Blocks

 (2006/10/30)


  

見る前の予想

 ブルース・ウィリスリチャード・ドナーの顔合わせと来れば、大サービスの娯楽アクションと決まってる。ウィリスとドナーのどっちも、最近少々峠を越えてしまった感じもあるものの、それでもソコソコの面白さには仕上がっているはずだ。

 そしてウィリスがくたびれ刑事で、証人である囚人を裁判所まで護送する話で、その囚人に何となくチョコマカ感のある黒人ラッパーを配したとくれば、な〜んとなくあの傑作「48時間」(1982)あたりがチラついてくるではないか。

 もちろんあの傑作に並ぶべくもないだろうが、狙いはそこだろう。悪役はデビッド・モースという鉄壁の布陣。払った入場料のぶんだけは楽しめて、映画館から出た後はな〜んも覚えていないスッキリ爽やかな映画に違いない。だが逆に言えば、それ以上でも以下でもないはずだ。

 早い話が、リーサル・ウェポン(1987)監督が「ダイ・ハード」(1988)主演者と手を組んだ。な〜るほど、そういう娯楽アクション大作なわけね。特にウィリスは「最も運の悪い刑事」という「ダイ・ハード」で再三演じて来た役どころ。おまけに外見上はシン・シティ(2005)での役どころを思わせる老けっぷり。やっぱりどう見たって、この企画は「リーサル」ミーツ「ダイ・ハード」ってところだろう。

 僕もそれ以上、何も期待していない。

 

あらすじ

 「これがオレの遺言になるだろう。警察は何か言ってくるだろうが、奴らの言うことはウソだ。オレはただ、いい事がしたかったんだ…」

 

 悪党のねぐらを特殊部隊が急襲。だが、残念ながらホシはすでに息の根が止まっていた。緊張感溢れる場面の後、最前線の男たちが現場を立ち去り制服組がやって来るまでの間、その場を「留守番」している役目となると…今日も今日とて酒の臭いをプンプンさせ、足を引きずる老いぼれ刑事のジャック・モーズリー(ブルース・ウィリス)の出番だ。

 そんなこんなで夜明けまで「留守番」させられていたモーズリーが朝ようやく署に戻ってくると、上司が何やら用を言いつけようとするではないか。もういいかげん帰宅したいモーズリーであったが、たった10分で済む仕事…とまで言われれば仕方がない。それは、どうって事のない小悪党をわずか16ブロック先の裁判所に連れて行く仕事だ。

 署に留置されていたその小悪党エディ(モス・デフ)は、ペラペラと口ばかり軽いお調子者。どう考えても大した悪事を働けそうもない野郎だ。エディを車に乗せて走り出すが、この男、気がいいのかバカなのかウンザリするジャックにまで何かと話しかけてくる。「このなぞなぞを知ってるか? バス停におばあさんとアンタのマブダチとすこぶる付きの美人がいる。そこにアンタが車で通りかかったら、一体誰を乗せていく?」

 むろんジャックに答えようなんて気持ちはない。おまけに道路は大渋滞で、車は一向に進まない。仏頂面のジャックは車を停めて、エディを残して酒場へと向かう。まったく酒でもやらなきゃやってられねえ…。

 ところがその頃、何やら怪しい男が停まっている車に近づき、何といきなりエディに銃口を向けるではないか。悲鳴を上げるジャック。

 バ〜〜〜ン!!

 だが次の瞬間、銃弾に倒れたのは例の怪しい男だった。間一髪セーフで、ジャックが酒場から出てきて男を射殺したのだ。慌てて車に乗り込み逃げ出すジャックとエディだが、さらに追っ手は車で追いかけてくる。そいつも倒したものの、事態の容易ならざる雰囲気を察知したジャックは、エディを連れて近くのバーに逃げ込んだ。

 息は切れるし徹夜明けで体調は最悪。足は痛むしアルコールも切れかかって具合が悪い。連れ回してる小悪党エディがペラペラとやかましいのも気に障る。何より10分で済むはずの任務がとんでもない面倒事に発展しかかってるのが恨めしい。ともかくジャックはバーの客や従業員を人払いすると、電話で応援を呼んでエディとここに居座ることにした。すると応援があまりに早くやって来るので、さすがのジャックもビックリ。やって来たのは、ジャックの古い馴染みのフランク・ニュージェント(デビッド・モース)刑事だ。

 「大変だったな、もう大丈夫だ。オマエはただツイていなかっただけなんだ」

 息も絶え絶えになりながら、応援がやって来てホッと一息のジャック。かつての同僚のフランクに「ここからはオレが護送する」と持ちかけられれば、そんな気になったりもする。ところがその酒場に他の刑事たちもやって来るや…そのうちの一人の刑事の顔を見たエディの顔色が、みるみるすぐれなくなってくるではないか。これはどうも様子がヘンだ。

 集まって来たフランクの同僚刑事たちが、何やらエディを取り押さえてよからぬ事をしようとしている。それと同時に、話しかけてくるフランクの口調にも、何やら引っかかるモノを感じ始めるジャックだった。エディが顔を見て怯えた刑事は、不正の現場をエディに見られた。それをエディに証言されたら、他の刑事たちの不正もイモヅル式にバレる。だから、ここで奴の口封じをしなくちゃならない…。

 「なぁに、オマエはこのまま帰って、何も見なかったことにすればいいんだ」

 刑事たちは怯えるエディをみんなで取り押さえ、その頭に銃を突きつけた。唖然とするジャックだが、彼は酒場のカウンターに入ったまま身動きができない。何より多勢に無勢、おまけに体力も気力もない。

 「お〜らおら、ここで死んでもらうぜぇ」

 バ〜〜〜〜〜〜ン!

 銃を構えてエディを殺そうとしていた刑事が、脚を撃たれてもんどり打って倒れた。 何とあのジャックが、カウンターの中から店にあった銃をブッ放したのだ。酒場内が騒然とする中、ジャックは油断していたフランクはじめ刑事たちを銃で威嚇して、何とかエディを奪還してはみたものの…。

 自分がどんな状況に立たされたのか…フランクにわざわざ教えてもらわなくても、もはや百も承知のジャックではあった。

 「ジャック、やっちまったな…」

 

見た後での感想

 むろん前述するようにリチャード・ドナーブルース・ウィリスなら、ソコソコ面白くなるとは思っていた。それぞれ娯楽映画の世界で確固たる地位を築いてきた2人だ。

 確かにリチャード・ドナーは最近でこそヒット作から少々遠ざかり、いささかトシを感じさせてはいる。だが何より「オーメン」(1976)、スーパーマン(1978)、「グーニーズ」(1985)、そして「リーサル・ウェポン」四部作(1987〜1998)で見せつけた、娯楽映画づくりの確かな実力がある。対するウィリスは「ダイ・ハード」シックス・センス(1999)というビッグヒットを放ち、ビッグスターには違いないものの、とんでもない駄作にも出るし「らしくない」作品にも出る。およそスーパースターの安定感には欠けている。ただしハマればデカい当たりを飛ばすところが非凡な人で、だからドナーとの初顔合わせには期待がかかったわけだ。

 ただし、どっちも盛りを過ぎちゃったようなところがどこかあるから、やっぱり「ソコソコ」の面白さどまりに思えた。まぁ、それでもいいや…と長年のファンとしては暖かい目で見守る気になっていたのだ。

 お話は、もう見る前から先刻ご承知。「運の悪い」刑事役にブルース・ウィリスってとこからして意外性はゼロ。せめて2時間の時間つぶしになればいいとしか思えなかった映画だ。

 ところが意外に見た人の評判がイイ。久々に面白いアメリカ映画との評まで聞こえてくる。「ホンマかいな?」と言いたくもなるが、そういやドナー、ウィリスともにそれなりの実績は持っていたのだ。ならば…と、期待ゼロのところ多少なりとも期待を持って劇場に駆けつけてみた。

 すると…。

 何の理由があってか人生引き込み線に入っちゃった老いぼれ刑事を、ブルース・ウィリスが予想通りに好演。そもそもこういう人物像を描かせたら、アメリカ映画はうまいのだ。

 だが昨今では、そうそうアメリカ映画の専売特許とも言えなくなってきた。例えば韓国だったら、チェ・ミンシクが得意とする役どころだろう。つい最近の話題作、日本のフラガール(2006)にだって同様の人物は出てくる。そう…あの松雪泰子の親戚スジにあたりそうな人物だ(笑)。まぁ、こんな感じで昨今は、一切合切かつてのアメリカ映画の美点は他国の映画に吸収されてしまっているから、ファンである僕にとっては悲しいのだが…。

 そんなショボくれ男が奮起せざるを得なくなっていく「典型的アメリカ映画」なお話も、脚本のリチャード・ウェンクと監督リチャード・ドナーの抜群の語り口のうまさで、無理なく誘導されていく。

 ボヤきながら危機突破していく刑事は、言うまでもなく「ダイ・ハード」以来のウィリスの独壇場。今回はそこに、人気ラッパーのモス・デフとの掛け合いというお楽しみがプラスだ。時に耳障りに感じられるデフの声がウィリスだけでなく観客の僕らも苛立たせて、大いに笑わせてくれる。こういう「バディもの」をつくらせたら、アメリカ映画の右に出るモノはない。仮にあの手この手のアクションがなくても、憮然としたウィリスとデフとの絶妙のコンビネーションだけで楽しいのだ。

 そして肝心のアクションもぬかりなし。実際のニューヨークとカナダのトロントで撮影されたこの映画は、まるでクリント・イーストウッドの「ガントレット」(1977)みたいに、警官隊の銃撃を一身に食らいながら街の真っ直中をバスが暴走する…なんて派手な見せ場を満載。ど派手アクションで大いに売った「リーサル・ウェポン」シリーズ監督としての片鱗を伺わせている。

 素晴らしいのはそれらが昨今のダメになったアメリカ映画みたいに、単なる馬鹿力の物量作戦や大味なアクションにとどまらず、ちゃんと面白く楽しめる趣向として作り込まれていること。伏線とどんでん返しが次から次へと巧みに設けられていることにご注目。それこそ「ダイ・ハード」の脚本を引き合いに出すのはいささか大げさかもしれないが、こちら「16ブロック」もイマドキのアメリカ映画としては異例なほどの脚本の充実ぶりなのだ。

 一例を挙げれば、モス・デフがウィリスにシンミリとした感謝の言葉を語っていると思いきや、実は敵の刑事たちを欺く罠だった…という一幕などは、仕掛けがバッチリ決まった好趣向だろう。カネのかかったスペクタクルやドンパチ・アクションだけではない。まるで黒澤明の「隠し砦の三悪人」(1958)のように、次から次へと危機突破していく快感、そのハードルがどんどん高くなって手に汗握らせるサスペンス、敵ばかりか見ている僕らまで裏をかかれるサプライズ…こうした娯楽映画ならではの醍醐味満載の脚本なのだ。

 ハリウッド映画もやれば出来るではないか。昨今のハリウッドのだらしなさにスッカリ情けない気分になっていた僕などは、キャッキャと手を叩いて喜びたくなった。これぞハリウッド映画の底力だ。こういう映画こそをアメリカ映画で見たかったのだ。確かにこりゃあ面白いや。

 正直言って僕は映画の中盤あたりで、すでに入場料の元をとった気持ちになっていた。この作品の娯楽アクション映画としての面白さを、僕はすでにこの時点で全く疑わなくなった。これぞ僕が大好きなアメリカ映画だ。アメリカ映画はこうでなきゃいけない。もう、これだけやってくれれば僕にとっては十分。

 ところが、この映画の「アメリカ映画たる所以」は、まだまだそんなところにはなかった。

 周囲を警官隊に包囲され、もはや勝負あった…と悟ったかのようなウィリス刑事は、乗っ取ったバスから人質を解放してしまった。その中にモス・デフを紛れこませて逃がし、自分は単身悪徳警官たちと一暴れ…と思い詰めるあたり、アメリカ映画伝統の孤高のアクション・ヒーローそのものだ。

 そして…逃れたはずのモス・デフも、自分のために命を的にしたウィリスを見捨てることが出来ない。あげく彼は折角逃れたバスに戻ってきてしまう。これも…カネで頭が一杯と見えて決戦の最中にルーク・スカイウォーカーの元に戻ってくる「スター・ウォーズ」(1977)のハン・ソロのように、あるいは冷たい言葉で追い返したはずの女を走って呼び戻し、ささやかなパーティーに仲間入りさせてやるブロードウェイのダニー・ローズ(1985)の貧乏芸能マネージャーのように…主人公が決して損得勘定だけでは行動しないアメリカ映画伝統のメンタリティーだ。どこからどこまでもが「典型的アメリカ映画」。まるでシッポまでアンコがたっぷり詰まった鯛焼きのようなアメリカ映画ぶりで、それだけでも僕を喜ばせてくれるに十分だったが…。

 まだ、この作品の「アメリカ映画たる所以」を語るには、それだけでは十分ではないのだ。

 バスに戻って来たモス・デフは、開口一番ウィリスにこう言い放った。

 「チャック・ベリー、バリー・ホワイト…彼らだって改心した。誰だって変わることができるんだ!

 

 

 

 

 

 

 

念のため映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 何と…娯楽映画としてすでに想定外過ぎる面白さを見せつけたこの作品は、ここでもう一歩踏み込んだメッセージを発する。作り手の溢れんばかりのサービス精神、熱いヒロイズム、損得勘定なしの連帯…こうした「アメリカ映画」ならではの美点をまるで車のギアをローからトップへとどんどん加速していくようにブチ込んでいくこの作品は、終盤に至ってさらに予想もしない領域へと踏み込んでいくのだ。

 それまで見せ場の迫力とサスペンスを盛り上げるために貢献してきた脚本のサプライズは、ウィリス刑事の意外な正体を提示するという最大のウルトラCにたどり着く。そして巧みに張られた脚本の伏線は、ラストに向かって一直線に持ち込まれていく。これには本当にビックリした。「バス停におばあさんとアンタのマブダチとすこぶる付きの美人がいる」というなぞなぞも、さらに終盤になって出てくる「ケーキの上に何て書く?」というセリフも、すべてが伏線だなんて誰が想像できただろう? その「うまさ」もさることながら、それを作品として結実させている精神こそが重要だ。

 そして、それはリチャード・ドナー監督の元々の持ち味でもある。

 かつて「スーパーマン」の感想文を書いた時も「リーサル」の感想文シリーズを書いた時も、バカの一つ覚えみたいに述べたことをここでも繰り返す。いや、繰り返さずにはいられない。娯楽大作の達人リチャード・ドナーは、実はヒューマンなドラマの作り手でもあった。例えば「スーパーマン」は無垢で誠実な男のお話と見てとることができる。「リーサル」だって過激アクションに目を奪われがちだが、4作めには壮大なファミリー・ピクチャーに変貌していた。

 そして何より…超弩級の娯楽大作の影に隠れて見逃されているドナー作品の神髄、「サンフランシスコ物語」(1980)を僕は忘れはしない。もうこの作品のことは、僕が何度も何度も話題に挙げているから耳にタコだろう。自殺未遂で脚が不自由になった青年が、同じように体にハンディキャップを抱えた仲間たちとの連帯を暖めていくうちに、前向きに立ち直っていくお話。娯楽大作が並ぶリチャード・ドナーのフィルモグラフィーの中でも、異色の部類に入る珠玉の一作だ。

 そういえば…あの作品でも、華やかな世界に目がくらんで主人公たちに背を向けてしまおうとする若者役で、この「16ブロック」で悪徳刑事役を演じたデビッド・モースが出ていたではないか!

 何と「サンフランシスコ物語」は、モースのデビュー作だという。そうか、だからデビッド・モースだったのか。この映画がこうしたドナーの本卦帰りとも言える内容になったのも、この映画のデビッド・モース起用の意味を気づいていれば自明のことだったのか。

 そして、そんな精神こそが「アメリカ映画最大の美点」でもある。

 フランク・キャプラやジョン・フォード、チャップリンといった名うての腕利きたちから育まれて来た、ハリウッド映画の伝統がそれなのだ。近年どうも忘れられがちな部分だが、本来は「それ」がなければハリウッド映画ではない。アメリカの映画人たちは、最も大切な自らのアイデンティティーをすっかり忘れている。この映画は、それを久しぶりに思い出させてくれる作品なのだ。

 だが…単に面白い映画だろうとしか思っていなかったこの作品に、それをこれほど決定的に思い知らされるとは!

 ラストのラスト、自分の身をスッカリきれいにして戻ってきたウィリスを囲んだ誕生日に、あのモス・デフからケーキの差し入れが送られてくる。そのケーキの上に書かれた言葉について、あえてここで語るまでもあるまい。エンディング・クレジットに流れるのがバリー・ホワイトのヒット曲であるという、何とも粋でシャレのめした趣向についても語るまい。ただ、ウィリスがモス・デフの写真を指さして妹のデジタルカメラの画像に収まる幕切れには、見ていた僕も思わず涙腺がブチ切れてしまった。

 「こいつは、こいつはオレの…」

 そこでウィリスが絶句するのも無理はない。本当に大事なことこそ、言葉に出来ないものなのだ。

 

 

 

 

 

 

 to : Review 2006

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME