「ブラック・ダリア」

  The Black Dahlia

 (2006/10/23)


  

見る前の予想

 1947年のハリウッドで、女優を夢見て田舎からやって来た娘が胴体まっぷたつの無惨な死体となって発見された、いわゆる「ブラック・ダリア」事件のことはちょっとだけ知っていた。

 興味があったから、ジョン・ギルモアのノンフィクション本「切断」も読んでいた。この事件をモチーフに、「L.A.コンフィデンシャル」(1997)の原作者ジェームズ・エルロイ「ブラック・ダリア」という小説を書いていたのも知っていた。

 もひとつついでに言えば、この「ブラック・ダリア」事件をヒントにした「告白」(1981)という映画も僕は見ていた。こちらはロバート・デニーロロバート・デュバル主演。正確には「ブラック・ダリア」事件そのものを描いているわけではない(被害者の名前が違う)が、胴体ブッた切りの女の死体がロスの空き地に捨てられたこと、その女が女優志望の娼婦まがいの女だったこと、さらに時代背景など…「ブラック・ダリア」事件をネタにしているのは明らか。お話そのものはデニーロ演じる野心家で成功者の神父が弟、デュバル演じるやさぐれ刑事が兄…という対照的な兄弟の相克の物語で、デュバルがこの「ブラック・ダリア」まがいの殺人事件を調べていくうちに、弟デニーロの地位を決定的に脅かさざるを得なくなってしまう。全体的にロサンゼルスという街の腐敗と爛熟ムードが濃厚で、教会上層部から胴体ブッた切り死体までの振れ幅の大きさが、この映画を何とも興味深いものにしている。世評は必ずしも高くはなかったが、僕はこの映画結構好きだ。正確にはこの映画が…というよりは、ジョン・グレゴリー・ダンによる原作「エンジェルズ・シティ」が「ブラック・ダリア」事件に影響されているというべきだろうが…。

 だが、そんな「ブラック・ダリア」があのブライアン・デパーマの手で映画化されると聞いて…いかにもデパーマにピッタリな題材のように見えるけれど、実は彼にはあまり向いていないのではないか…と僕は内心直感していたのだ。

 出来上がった映画は…ジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンクというそれなりに豪華な顔ぶれ。確かに一人ひとりを見てみれば悪くないし、スカーレット・ヨハンソンなどは旬の女優さんで、おまけにどこか危ない蠱惑的な持ち味がこの手の作品に似合ってる気もする。

 だが、どうも1本の作品として…さらに監督がブライアン・デパーマということを考慮に入れると、すべての組合せが何となくしっくり来ない印象が残る。デパーマその人の映画は好きだし、ここで一発当てて復活して欲しいけれど、この映画はどこかうまくいっていない予感がするのだ。

 

あらすじ

 その当時…戦争の余韻もまだ新しい1946年のこと、ロス市警には2人のボクサー上がりの警官がいた。後に「ミスター・ファイア」と「ミスター・アイス」と呼ばれるこの2人は、最初から知り合っていたわけではない。「ミスター・アイス」ことバッキー・ブライカート(ジョシュ・ハートネット)にとっては、「ミスター・ファイア」ことリー・ブランチャード(アーロン・エッカート)の戦歴は華々しすぎて、大した相手と戦っていない自分とは比べものにならないと思っていた。

 ところがそんな2人が、メキシコ人と水兵たちの大暴動をキッカケに知り合った。するとリーの方では、バッキーの存在を意識していたと言うではないか。その出来事を境に、2人の間に不思議な縁が生まれる。

 それから間もなく、2人は再び顔を合わせることになった。イメージアップのためにロス市警主催ボクシング試合を行う話が持ち上がり、その出場選手として「ミスター・ファイア」「ミスター・アイス」の名が挙げられていたのだ。勝てば「特捜課」への昇進も約束される。

 こうしてリーと親しくなったバッキーは、リーの「恋人」ケイ(スカーレット・ヨハンソン)とも知り合うこととなった。彼女は男心をくすぐる女で、輝くばかりの色気があった。ところで昇進を賭けて試合に臨んだ2人だったが、実はバッキーには別の目的もあった。この試合でカネをつくり、ボケが進んだ父親を保養施設に入れる…そのために、彼は秘かに八百長を引き受けていたのだ。

 そして試合当日、バッキーは自分だけの決意を胸にリングに上がる。最後のラウンドまで健闘すれば良心は痛まない…それだけを心の支えにして戦った彼は、最終ラウンドでわざと自分をリーのパンチの餌食にした。その報酬は…父親を施設に入れるだけの金と、叩き折られた前歯を補うための入れ歯だった。

 ところがそんなバッキーを、リーは見捨てはしなかった。ボクシング試合での貢献を評価されたこともあり、彼もまた「特捜課」に配属されることになったのだ。

 こうしてリーとバッキーはコンビ刑事となった。仕事も一緒、仕事が終わったらリーの妻ケイを交えてこれまた一緒。この時期は心から幸せを感じていたバッキーだった。

 そんな彼の日常に陰りが差してきたのは、ある凶悪犯を追う仕事に取り組んでから。その男レイモンド・ナッシュは、少女を何人も強姦したあげく老婆を惨殺していた。するとリーが早速そのナッシュの立ち回り先を嗅ぎつけたとかで、ある店先に車を停めて張り込むことになる。

 そして待つこと数時間…不審な人物が店にやって来るや、いきなり2人の車めがけて発砲してくるではないか。激しい銃撃戦のあげく、その場にいた2人の男はリーに撃ち殺されたものの、実は彼らはナッシュとは縁もゆかりもない男だという。一体これはどうなっているのか?

 しかもこの界隈は物騒なのか…銃撃戦の舞台となった店の裏手の空き地に、いきなりパトカーや警察関係者が集結するではないか。バッキーとリーが驚いて駆けつけてみると、何とこの空き地には…胴体がまっぷたつにされた若い女の全裸死体が捨てられていた。しかもその口は耳まで引き裂かれており、内臓はくり抜かれてどこかにいってしまっていた。まれに見る残虐な殺人…それを見たリーは、なぜか異常な関心を示し始める。

 殺された若い女は女優志願でハリウッドにやって来た娘で、「ブラック・ダリア」との異名を持つエリザベス・ショート(ミア・カーシュナー)。世間は「ブラック・ダリア」事件として騒然とするが、リーもまた凶悪犯ナッシュ捜査を棚上げにして、何とかかんとか殺人課への出向を勝ち取った。もちろんバッキーもこれに付き合わされることになる。だがこれには何かとリーを恩義に感じていたバッキーも、いささか不信感を感じずにはいられない。

 そんなバッキーの心配をよそに、リーの「ブラック・ダリア」事件への傾倒ぶりは常軌を逸してきて、徐々にバッキーも付き合いきれないほどになってきていた。その点については、妻のケイも同じらしい。

 そんな折りもおり、獄中にいたボビー・デウィットなる男が出所すると聞いて、顔色を変えるリー。そしてリーは、妻のケイにはデウィットの出所の件は告げないようにとクギを刺す。一体どんな事情があるのかと探ってみると、銀行強盗であるデウィットの逮捕はケイの証言によるものだった。そしてこの事件によって、リーは手柄を立てたのだ。

 その頃たまたまシャワーを浴びようとしていたケイの尻を見たバッキーは、そこに「B・D」というデウィットの刻印を目にしてしまう。どうやら彼らには複雑な事情が絡んでいるようだ。そんなバッキーにケイがハッキリと好意を見せてくるが、バッキーは恩人リーの手前引き下がらざるを得なかった。

 同じ頃、「ブラック・ダリア」が女の「相手」もしていたとの情報を得たバッキーは、市内のレズビアン・クラブを聞き込みに回る。そこで出会ったのは、見るからに金持ち然とした黒ずくめの女。

 彼はまるで引き寄せられるかのように、この女…マデリン・リンスコット(ヒラリー・スワンク)への接触を試みるが…。

 

見た後での感想

 キャリー(1976)、「愛のメモリー」(1976)、殺しのドレス(1980)、ミッドナイト・クロス(1981)、「ボディ・ダブル」(1984)、「レイジング・ケイン」(1992)…などなど、ブライアン・デパーマの過去の作品群をいろいろ振り返ってみると、確かにこの映画にピッタリと思われたのも不思議ではない。めくるめく血の奔流、刃物で切り裂く恐怖、恐ろしくも悲痛で美しいクライマックスの数々、そして主人公が囚われる数々のオブセッション、性的イメージ…な〜んとなく、今回の映画の題材に適しているような感じがする。

 そのことについては後に述べていくとして、まずは今回の題材との違和感を感じたのが、デパーマ本来の映像スタイリストとしての姿勢だ。

 かつてデパーマと言えば、映像テクニックを繰り出して魅了するスタイリッシュな映像作家だった。スプリット・スクリーンに疑似パン・フォーカス、そしてスローモーションや極端に長いワンショット撮影や360度のカメラ・アングル回転。だがそんな小手先のテクニックって、どこか人間の暗部をのぞき込むかのような今回の題材に、必ずしも合っていないのではないか

 しかも時代はもはやデパーマが脚光を浴び始めた当時ではなく、特にマトリックス(1999)以降は目まぐるしく変わるフィルムのランニング・スピードやジャンプカット、CGを駆使した極端なクローズアップや移動などがいわゆる「スタイリッシュ映像」の主流となってしまった。デパーマ十八番(というよりヒッチコックからのパクりだが)の360度カメラ回転も、今では例のマシンガン・ショットとして変型され強化されてしまった。

 しかも、そんな「マトリックス」以降のテクニックさえ、今では使い尽くされて形骸化され色あせてしまったのだ。ましてやデパーマ直伝のテクニックなど…とは言いたくないものの、いささかイマドキ持ち出されたら古色蒼然たるものがあるのは間違いないだろう。ブライアン・デパーマらしい意匠そのものが古びてしまっているのだ。

 そんな僕の思いを知ってか知らずか…デパーマ、今回は例の映像スタイリストぶりはあまり発揮しなかったようだ。確かに所どころ例の疑似パン・フォーカスを使ってみたり、空き地での「ブラック・ダリア」死体発見と店先での張り込み、さらに空き地への警察の集結…などのくだりのクレーンを使った長回し、そしてビルの階段と踊り場での殺しのくだりのスローモーションには、若干その手の映像スタイリストぶりが伺えるものの、まだまだ往年のデパーマと比べれば大人しい方。そして、それはホラーやショッカー映画以外のジャンルの作品を手がけた時のデパーマが常に行う、ひねったテクニックの披露ぶりでもある。

 例えば「アンタッチャブル」(1987)の時のエイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」(1925)引用とスローモーションとか、「スカーフェイス」(1983)の時の黒澤明「蜘蛛巣城」(1957)とスローモーションとか、「虚栄のかがり火」(1990)の時のオーソン・ウエルズ「黒い罠」(1958)と超長回しとか…古今東西の名作映画引用とデパーマらしいテクニックをワンセットにして見せるという、今までの一連の手法に似ている。

 それは逆に言うと、自らが奔放になれるホラー・ショッカー映画でなら、デパーマは言い訳なし(あるいはヒッチコックへの引用のみ)でテクニックを使いまくれる…ということなのだろうか。だがそれ以外のジャンルの作品となると、「世界名作映画全集」みたいなものを引き合いに出さないと自らのテクニックを披露できない。そんな他人にはどうでもいいような線引きをキッチリしないでいられないデパーマって、実はちょっと保守的で生真面目で、かつ小心者なんじゃないかと思ったりもする。

 今回「ブラック・ダリア」の中においては、ブライアン・デパーマはその手の「名作」を劇中で露骨に引用はしなかった。しかしテクニックの披露がかなり控えめになったあたりや、階段の踊り場でのスローモーションが「アンタッチャブル」における「戦艦ポチョムキン」の一種の“引用の引用”になっている点などを見ると、どうも自由自在にテクニックでうたいあげるようなホラー・ショッカー映画とは一線を画しているようだ。つまり今回の「テクニック控えめ」という「減塩醤油」みたいな語り口(笑)は、彼の中では「今回はホラーとかじゃなく真面目な映画を撮ってるぞ〜」というサインのつもりなのだろう。

 だがこういう具合に、ホラーやショッカーは趣味シュミ映画で、サスペンス映画や犯罪映画は真面目な一般映画…という区分けが出来ちゃってること自体、いかんせんデパーマの中の映画観というか映画イデオロギーは「古い」と感じさせられる。このあたりの感覚は、例えばグエムル/漢江の怪物(2006)を撮ったポン・ジュノなどには絶対ないところだ。ひょっとしたら、ルーカスやスピルバーグにすらないのではないか。

 そういう意味でデパーマはその作風とは裏腹にひどく保守的でスクエアな人であり、真面目で融通の利かない作品づくりをする人のようにも思える。今回の映画を見て、僕はそんなデパーマの特質を改めて痛感したようなわけなのだ。

 

ブライアン・デパーマの融通の利かなさが災いした作品

 で、問題なのはここからだ。

 デパーマの「血がドバ〜ッ」とか「性倒錯者」とか「殺し」とかって、確かに一見歪んだものを感じる。

 で、こういうものを作中に好んで登場させる人物ならば、おそらく…よく言えばどんな価値観にも許容範囲が広くフトコロも広い。悪く言えば何でもアリで、俗悪も倒錯も屈折も悪趣味も、つまりはダークゾーンも受け入れるはず…。おそらく多くの映画ファンはそう思っていたのではないかと思うし、この題材の映画化を持ち込んだ人物もそう思ったはずだ。

 だが前述したように、実はブライアン・デパーマの作家的特質は思いのほか健全だし、許容範囲は意外に狭い。ハッキリ言うとスティーブン・スピルバーグの方がよっぽど鬼畜だ。

 この「健全さ」とはイイ意味でもあるし、逆に「杓子定規で融通が利かない」と捕らえてもいい。例えば「アンタッチャブル」「カジュアリティーズ」(1989)を考えてみればお分かりいただけるだろう。マイケル・J・フォックスを人間の「善性」の象徴、ショーン・ペンを「邪悪」の象徴として、クッキリ分けて描いたあたりにそれを強く感じる。「カジュアリティーズ」は僕にとって好きな映画の1本だが、映画のテーマからしたらマイケル・J・フォックスが自らの中に「悪」を見出してもおかしくない。そこまではいけないところに、シリアスで現実的な作品を撮った時のブライアン・デパーマの限界がある。リアルな世界のシビアな現実を丸ごととらえるには、デパーマの視点はあまりに単純すぎるのだ。

 つまり、傍が思っているほどデパーマは倒錯しているわけでも屈折しているわけでもない。むしろ健全すぎるほど健全。真面目で単純とも言える。「殺しのドレス」での娼婦ナンシー・アレンと男の子キース・ゴードンとの間に通う感情を思い浮かべてみよう。どこにも背徳や不道徳のカケラもないではないか。

 だから…「この不健全な題材を描くのにデパーマでは不適切だった」とまでは、あえて僕は言わない。なぜなら、ジェームズ・エルロイの原作小説は読んでいないが、この題材そのものからして必ずしも不道徳でスキャンダラスだとは思わないからだ。

 むしろ不道徳でスキャンダラスな題材を好んで取り上げる作家ほど、実は人間のモラルを問うているものだ。映画作家だって、ケン・ラッセルやデビッド・クローネンバーグほどモラリストの映画作家はいまい。だからこの「ブラック・ダリア」がスキャンダラスだからと言って、単純にアンチ・モラルな話だとは思わない。

 だが問題なのは…デパーマが映画作りの場において、自らのモラリストぶりを…時にせっかちに、そして杓子定規に、いかにも融通利かなげに持ち出してしまうことではないか。例えば、たぶんそれが「虚栄のかがり火」みたいな作品を駄作にしたとは言えまいか。

 そしてそんな自分の性格を知っているから、デパーマも好んで猥雑で不健全に見えるホラーやショッカーに題材を得ようとしたのかもしれない。そうしてウィーク・ポイントを隠そうとしたと思うのだ。

 だがやっぱり今回の題材には、もうちょっと深みのような味やデリケートな語り口が必要だったと思う。ファジーで少し濁った視点を持つべきだったように思う。あるいは清濁併せ呑むような含蓄が欲しかったように思う。残念ながらデパーマには、それが決定的に欠けている。そこに陰りを満々と満たしたスカーレット・ヨハンソンを一人置いてみても、ハッキリ言って浮いている。ラストに彼女を「希望」のように持ち出してきても、何となくウソっぽく見えてしまうのだ。これは厳しいものがあるよ。

 今回はだから、どこからどこまでもウソっぽい。ジョシュ・ハートネットのボクサーってのもウソ臭いし、ヒラリー・スワンクも頑張ってはいるが、何となく彼女にそぐわない役のような気がする。彼女の家族たちのカリカチュアライズされた描き方もウソっぽい。そもそも、デパーマはこれをもっともらしく描くつもりがなかったんじゃないか

 さもないと、「ブラック・ダリア」のオーディション・フィルムやポルノ・フィルムにあれほどリアリティがないのが、まるで理屈がつかない。せっかくアトム・エゴヤンの「エキゾチカ」(1994)に出ていたミア・カーシュナーなんて女優さんを連れてきたのだ。案の定、彼女の演じたブラック・ダリアはかなり「感じ」を出していた。もしあのオーディション・フィルムやポルノ・フィルムの外見に「ホンモノらしい質感」があれば、少しはこの映画に切実さが出たんじゃないだろうか。何であれほどツルツルのキレイな映像、クリアな音声でつくってしまったのか。それだけで、実は僕はデパーマの本心を疑いたくなってしまう。

 実際、「あの当時」のフィルムノワール的に撮ってしまうこと自体が計算違いだと思える。そんな「スタイル」的なことに凝っている場合ではないだろう。彼はこの映画のキモを、一体どこだと思っていたのだろうか?

 例えば、前述したデニーロ、デュバル共演の映画「告白」あたりの作品を引き合いに出してもいい。必ずしも「成功作」扱いされてはいない「告白」だが、この「ブラック・ダリア」と比べてみればハッキリ分かる。まずは映画そのもののリアリティ…劇中に出てくる被害者女性のフィルム・クリップや殺人現場の様子などの「もっともらしさ」が段違いだ。そして教会内部の腐敗と警察内部の腐敗、さらにはロサンゼルスの街そのものの腐敗があぶり出されてくる構成とそれにドップリ浸かりながらもウンザリしている主人公デュバルの心情など、「モラリスト」的な態度から見たとしても残念ながら「深み」「陰り」の点で負けている。ブライアン・デパーマの「モラリスト」ぶりは、何となく通り一遍で当たり前なモラルの問いかけのようにしか見えないのだ。ハッキリ言うと、デパーマって「マトモ」で「いい人」すぎる(笑)

 正直言って今回の「ブラック・ダリア」についてはプロットが多岐に渡っていたため、映画が進むにつれてどんどんテンポが息せき切ったようなものになっていった。お話を交通整理するだけで疲れちゃったような脚本・演出にも問題はあるだろう。「映画化」するのがやっとだったという感じすらする。だが、この映画の本当の問題は、実はそこにはない。

 舌足らずでもいい。多少話が濁っても、分かりにくくても不親切でもいい。息せき切って物語が進行しても構わない。主人公が首まで浸かっている世界、主人公を取り巻いている世界…それは我々が住んでいる世界でもあるが…それらすべての象徴である「ブラック・ダリア」という存在に関して、そしてそれが抱え込んでいる忌まわしさについて、もうちょっとリアリティのある描き方ができていたら、この映画はそれで良かったのではないか。

 ボケた父親のために良かれと思って、信念に目をつぶっての八百長試合。どうせ悪党のモノ…とカネをかすめ盗り、あげくゆすってきた連中を捜査にかこつけて消してしまう悪徳。自分の身に刻み込まれた痕跡へのささやかな復讐と、行きがけの駄賃のつもりのいくらかのカネ。…最初はささやかなところから始まってはいても、そこからあらゆる搾取、横暴、不正、虐待、腐敗が生まれていく。そうなると、罪と汚れには歯止めが利かない。そんなすべての罪の頂点に、あの真っ二つの死体がそそり立っているのだ。本来はそういう話のはずだろう。

 だが、そんな「ブラック・ダリア」という題材と、ブライアン・デパーマはどこかシックリ来ない。ピッタリ来ているように見えて、実はどこかズレている。デパーマとジョシュ・ハートネット、アーロン・エッカート、スカーレット・ヨハンソン、ヒラリー・スワンクもシックリ来ていない。そもそも、これら俳優陣たちもお互いシックリ来ていないように見える。結局、すべてがミスキャストだったんじゃないだろうか。

 「ホラーやショッカーは趣味シュミ映画で、サスペンス映画や犯罪映画は真面目な一般映画」…という区分けを付けてしまうデパーマ一流の杓子定規さがもう一つ「別の意味」で災いしたと思えるのは、この「ブラック・ダリア」という題材がデパーマ流映画づくりの規範の境界線ギリギリにあったという点だ。

 「ブラック・ダリア」殺人そのものはデパーマ本来のホラー・ショッカー映画の世界にあってもおかしくないモノだが、この映画は必ずしも「ブラック・ダリア」殺人を描いた作品とは言えない。むしろ登場人物たちを蝕んでいる人間社会の汚辱を描いたもので、その究極の存在が「ブラック・ダリア」だったわけだ。

 そう考えてみるとこの「ブラック・ダリア」は、デパーマ本来の二分割された映画ジャンルのどちらに入れていいものやら扱いに困る。そもそも映画を「マジメ映画」「非マジメ映画」と分けることからして無理があるし、狭っ苦しくて融通の利かない考え方だ。だが、それでも彼はその区分けを自分の規範としてやってきたのだろう。今回は題材をそのどっちに入れていいのか分からなかった…あるいは勘違いしてどっちかに押し込んでしまったことが、デパーマの映画づくりに誤解と混乱を招いたと言うべきだろうか。

 それもデパーマの四角四面の堅苦しさゆえ…なのだろう。

 

見た後の付け足し

 この映画の大半がブルガリアで撮影されたとは驚き。1940年のロサンゼルスを再現するために、格安でセットが組める場所としてブルガリアが選ばれたのだろうか。最近のハリウッド大作が軒並みチェコでの撮影を行っていることに、どこか似ているではないか。また、レスビアン・クラブのステージ歌手として、k.d.ラングが特別出演しているのもちょっとお得感があった。

 

 

 

 

 

 

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