「カポーティ」

  Capote

 (2006/10/16)


  

見る前の予想

 クセ者役者フィリップ・シーモア・ホフマンが、ついにオスカー主演男優賞を獲得した作品。ホフマンと言えば近年演技派俳優として一気に頭角を現して来た人だ。このサイト創設以来の作品をざっと挙げただけでもマグノリア(1999)、リプリー(1999)、あの頃ペニー・レインと(2000)、25時(2002)、そして憎々しげな悪役が鮮烈だったM:I:III(2006)…と名演、怪演がゴロゴロ。今やホフマンと言えばダスティンじゃなくてフィリップ・シーモア…と言っても、あながち過言ではあるまい(笑)。

 そんなホフマンのオスカー…それも助演ならぬ「主演賞」受賞作となれば、これは映画ファンなら見ずにはいられない。しかもホフマンが有名な作家トルーマン・カポーティに扮して、代表作「冷血」の創作の裏側を見せようという作品だという。「創作者」の話ならば僕のツボだ。これは見なければ。

 

あらすじ

 1959年、カンザスの田舎町。畑のど真ん中の一軒家に、一人の女の子がやって来る。しかし、いくら呼んでも中から返事がない。なぜか玄関にはカギがかかっていないため、女の子は家の中に入っていき…そこで想像を絶する無惨な光景を目にしてしまった。

 その頃ニューヨークでは、文化人たちやセレブ界の話題の的として、パーティーの話題の中心にはいつも人気作家のトルーマン・カポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)がいた。ナヨナヨとした仕草、甲高い声、何となくヌメッとした表情といった外見はいささか周囲に異彩を放っていたが、それを補って余りあるのが彼の豊かな話術。多彩な話題に幅広い交友、さらには高い教養とセンス、間髪あけずに繰り出される機知とユーモア…そして人気作家としての彼のステータスが、彼を社交的な人気者にしていたのだ。

 そんな彼が翌朝の朝刊に一つの記事を見つけたのは、運命的な出来事だったのかもしれない。それは例のカンザスの田舎町で起きた一家4人惨殺事件を伝える記事だった。ある種の嗅覚を働かせたカポーティは、この事件を取材することを決意する。旅のお供に幼なじみで仕事のパートナーであるネル(キャサリン・キーナー)を連れて、勢い込んでカンザスまで乗り込んだものの…いかにニューヨークのセレブで人気作家とはいえ、ここカンザスの田舎町ではその神通力も知れたもの。警察の担当捜査官デューイ(クリス・クーパー)ら捜査陣には、当然のごとく歓迎される訳もない。おまけにそのナヨナヨした物腰と甲高い声で周囲からは浮きまくり。これでネルがいなければ、スッカリ手も足も出なくなるところだったカポーティだ。

 ともかく何とか目撃者の女の子を見つけてきて、取材を試みるカポーティとネル。動揺を隠せない女の子に、カポーティは思わぬ素の部分を見せて安心させるのだった。

 「他人に誤解されて生きているのはツライ。人は外見だけで決めつけてくるんだ」

 さらにデューイ捜査官の妻が読書家だと知ったカポーティとネルは、彼女の招きでデューイ家の夕食会に招かれる事となる。こうしてカポーティは、徐々に事件の核心に迫ることになった。

 そんな事件の動向が急展開したのは、それから間もなくのことだった。容疑者ペリー・スミス(クリフトン・コリンズ・ジュニア)とリチャード・ヒコック(マーク・ペレグリーノ)の二人がラスベガスで逮捕され、カンザスまで護送されて来たのだ。早速、連れてこられた容疑者二人を見に行ったカポーティは、二人のうち主犯格のペリーがわずかに足を引きずっていることに目を留める。さまざまなツテを使って保安官事務所に留置されているペリーと接触を試みたカポーティは、彼らの信頼を勝ち取ることに成功。特にペリーには不思議に惹かれるものを感じるカポーティだった。

 間もなく二人は裁判で文句なしの死刑を求刑されたが、カポーティはそんな二人のために親しげに近づき、上告のための弁護士の世話をするなどアレコレ奔走し始める。ところがそんなカポーティに、彼の「公私を通じてのパートナー」である作家のジャック(ブルース・グリーンウッド)はいささか冷ややかな言葉を投げかけるのだった。

 「それって彼らのため…でなく“自分のため”だろ?」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 静かな田舎町での静かなオープニング。印象的な滑り出しの直後に出てくるフィリップ・シーモア・ホフマン扮する有名作家トルーマン・カポーティの何とも奇妙な出で立ち。それでなくてもクセモノ役者として知られるシーモア・ホフマンだが、この芝居はそんな中でもクセモノ中のクセモノ。実際のカポーティその人がどんな人物だったかは知らないので、果たしてシーモア・ホフマンのカポーティが似ているのかどうかは分からない。だが、そのユニークさを説得力を持って表現している…ということだけは、素人の僕にも何となく分かる。そんなカポーティの右腕となるネル役のキャサリン・キーナーも、捜査官デューイを演じるクリス・クーパーも、芸達者らしい手堅い演技を見せる。惨殺事件とその犯人を描いているにも関わらず、一貫してオープニングに象徴される静かな語り口でお話が進んでいく。とくに見渡す限りの田園地帯にポツンと建つ一軒家…というような「絵」が心にしみる。実はこの映画を見た日はかなり体調が芳しくなかったのだが、映画を見始めて最初の何十分かで、すっかり気持ちが画面に集中してしまった。

 文化人たちのパーティで話題を独占し、名声と栄光を欲しいままにする作家トルーマン・カポーティ。そんな彼が片田舎の惨殺事件に興味を抱いて取材を開始。容疑者が捕まったら一番に接触しようとするのは当然ながら、関わりを深めるうちに彼に奇妙なシンパシーを抱くようになる。まずこの映画の第一の見どころは、その部分なのだろう。

 社交的で金も名声も持てあましているような人気作家と、貧しい出で残虐な殺人犯にまで身を落とした男。

 確かにその存在はあまりに対照的で、お互い極北に立っていると言っていい。だが上辺の装飾をはぎ取ってみれば、カポーティの物腰も声もかなりユニークで、しかもあの当時ゲイであることはかなりのハンディだったはず。彼自身は少なくとも、置かれた立場ほどには容疑者との相違を感じていなかった。否、むしろかなり近しい人間と思っていた。後に彼自身が述べているように、「同じ家で生まれた二人の男の子で、一方は表玄関から出ていき、一方は裏口から出ていった」くらいの違いしかない…と感じていた。その片鱗は、映画のごく初めの頃の何という事もないセリフにも表れている。

 「他人に誤解されて生きているのはツライ。人は外見だけで決めつけてくるんだ」

 実は自分はどこか周囲から浮いている…あるいは事によったら蔑まれているかもしれない。そんな鬱屈した思いを常に内面に抱えていたカポーティは、だから恵まれない家庭環境や成長過程を経て屈折した容疑者に深いシンパシーを覚える。

 ところがカポーティは「創作者」でもあって、手応えのある「作品」の創作が自分に至上の喜びを与えてくれることを知っている。その「作品」が、自らを投影できるほどの人間の内面に肉薄した内容なら、なおさらのことだ。さらにカポーティは、名声や栄光を誰よりも愛する「虚栄の人」でもある。それはパーティで名士たちの注目を集めずにいられないあたりからも明らかで、だからこそ彼は作家として大きな富と賞賛を浴びたいと願わずにいられない。彼がこの作品を完成し、創作者としての欲とセレブ作家としての欲を同時に満たしたいという気持ちも、また人一倍大きいのだ。

 だからカポーティは、この作品を早く完成して世に問いたい。作品を生み出す達成感と世間の絶賛を味わいたい。だが作品は単に殺人事件とその犯人を描くのではなく、いわば「同時進行」のルポルタージュの性格を持つ。容疑者がその全貌たる犯行そのものを語り尽くさなければ、そしてこの事件の場合は容疑者が死刑を執行されすべてにピリオドが打たれなければ、「作品」も完成しない。

 だが「作品」が完成しないなんてことは、カポーティには耐えられないことだ。

 それゆえカポーティは、その内面に自らと共通するモノを見いだしてシンパシーを感じるようになった容疑者に、取材を通じて弁護士を世話するなど面倒を見るようになり、親しみさえ感じるようになった容疑者に、まったく矛盾するアンビバレントな感情を抱くようになってくる。守ろうとしていたはずの容疑者の「死刑執行」を願うようになっていくのだ。

 そんな矛盾は、カポーティと容疑者との関係の途中から明らかになっていく。容疑者はたった一人だけ自分にこんなに親切にしてくれるカポーティに、親しみと信頼を感じてくる。自分の弁護士まで探してくれるカポーティが書いている作品は、当然自分の立場を有利にしてくれるような、自分の状況を好意的に描いてくれている作品に違いない。容疑者がそう思うのは当然のことだ。

 だがカポーティは容疑者に、作品のタイトルも告げなければ内容についても教えない。タイトルはとっくに決めているし内容だって書き始めているのに、まるで書いていないようなウソをつく。それも当然だ。タイトルは「冷血」…とても読者に容疑者への好意や同情を抱かせるような内容ではない。それでも創作者の「業」として、誰かがキズつこうと不利益を被ろうと、カポーティは彼が思う「真実」を書かずにはいられないのだ。

 カポーティの「公私を通じてのパートナー」である作家のジャックは、そんな彼にいきなり図星を突いてくる。「それって彼らのため…でなく“自分のため”だろ?」

 だがそれも、カポーティの人間像の一面を突いた言葉でしかない。

 なぜならカポーティが容疑者に親身になり世話をしたのも、決して作品を書きたいから…だけではなかったからだ。当初はそうかもしれないし、それが動機の大きな部分だったかもしれないが、決して「それだけ」ではなかった。カポーティは本気で、この容疑者が「自分みたいだ」と思っていたのだ。「同じ家で生まれて表玄関と裏口」…という例えはウソではあるまい。カポーティは容疑者に自分の姿を見たのは間違いないのだ。だから、親身にもなったし世話を焼いた。

 だが…その死を望みもした

 「創作者」としての「業」が、「虚栄の人」としての野心がそれを望んだ。一方で、死刑執行直前の面会で涙ぐんだ彼の気持ちもウソじゃない。カポーティはそんな自分の中の矛盾に、徐々に引き裂かれていくのだ。

 …いや、まだだ!

 それがこの映画の結論なら、実は容易に想像ができる。この映画を見なくたって、実は勘のいい人間なら大体想像ができるだろう。この映画が見ている者を本当にゾッとさせるところは、実はそんなところではない。

 容疑者にシンパシーを感じて親身になれるカポーティという男、すでに大物なのにこんな男に自分と共通する部分を見いだせるような男、そして死を前にした容疑者の運命に涙が止まらなくなるこの男が、同時に誰よりも容疑者の死を望んでいるという「矛盾」そのものが…実は単に小金が欲しくてひょいと田舎家に強盗に入り、何の恨みもしがらみもない一家4人に対して、特に理由もなくごくごく衝動的に残虐極まりない暴力を振るってしまったという容疑者の病理的な「矛盾」といつの間にか合致してくるように思われることなのだ。

 カポーティは容疑者に、自らと共通する点を見いだしてシンパシーを感じた。それは周囲から理解されていないことや蔑みへの苦しみ、そんな鬱屈した思いに共通性を見いだしていたわけだろう。つまりはその気の毒な点において…だ。だが、実はカポーティと容疑者との共通性とは、そんなところではなかった。

 シンパシーや同情を覚えているにも関わらず、その反面で平気で同じ相手を偽り殺意を抱く。それは何の恨みも関わりもなく、その瞬間まで殺そうとも思っていない相手を、ごくごく衝動的に惨殺してしまうこととどこが違うのか

 カポーティは自らの心の深淵に、そんな忌まわしい部分を見たからこそ、「冷血」の大成功の後で筆を折ってしまうのではないか。

 この映画の言っている鋭い点とは、まさにそこである…と僕は思うのだ。

 

見た後でのホンネ

 …というような事を思い知らされて、僕はこの映画に打ちのめされてしまった…というのは、まったくのウソである(笑)

 いや、前述したようなこの映画に対する感想は、まったくウソ偽りではない。この映画はそういう事を言おうとしている映画だと思うし、僕はそういう映画だと感じ取った。そこに何らウソもでっち上げもない。

 だが正直に言うと、僕はこの映画の中盤で眠くて眠くて仕方なくなってしまった

 映画の滑り出しは、前述のごとくかなり快調だった。僕はこれからどうなるのかと、身じろぎもしないでスクリーンと対峙した。ところが肝心のカポーティと容疑者がぶり四つのくだりになってくると、何ともどうにも眠くてたまらない。目をつぶって眠ってしまったショットは一つもないと断言できるが、かなり眠かったのは間違いない。つまりは、僕は退屈していたんだと思う

 映画を見終わった後、「こういう事を言おうとしていたんだ」ということはちゃんと分かった。その言わんとしていることは間違っていないと思うし、真面目な意図を持ってキッチリつくられているとは思う。僕の体調がかなり悪かったのも間違いないが、それにしたって映画の最初あんなに面白かったし、語ろうとしていることも分かった、その言い分にも共感したのに、結局は眠くなるほど退屈したとは…これには何か訳がありそうだ。

 マトモに考えてみれば…こういう映画でこういう状況にも関わらず退屈した場合、大きな理由は2つ考えられる。1つは…至極真っ当なことを言ってるのは間違いないが、あまりに分かり切ったことを世界で最初の発見みたいに偉そうに語られた場合。もう1つは…正しい事を言おうとしているのだが、その結論に導くための語り口に何か欠陥があって、ピントがボケてしまった場合だ。

 今回の場合、僕は後者である可能性を感じている。

 そしてそう疑ってみれば、確かにそこかしこに「弱さ」がチラつかないでもないのだ。考えてみるとカポーティがこの容疑者にシンパシーを持つに至った、その要素がちゃんと提示されていない。カポーティがどこで決定的に容疑者と自分との間に共通するものを見い出したのか分からない。確かにディティールを手繰っていけば、容疑者が足を引きずっていた瞬間だとかいくつか挙げることはできるかもしれない。だがカポーティがかなり早い段階で容疑者へのシンパシーを表明しているほどに、これらの描写にインパクトがあるとは思えないのだ。そのあたりは、かなり観客側がカポーティの心情を推測してやらねばならない弱点がある

 さらにマズイのは、「冷血」という作品の内容がこの映画の中でちゃんと提示されていないこと。実際は僕もトルーマン・カポーティについて詳しい訳でもなければ、「冷血」も読んでいない。にも関わらず、この映画の言わんとしていることは分かった。だから必要最小限度の情報(容疑者たちに同情的な内容ではないことなど)は伝えられてはいるが…だからといって、それだけではいかにも映画としては不足だろう。単に紹介をすればいいというものではない。その内容をこの映画の進行と結びつける、強固なリンクをつくる必要があったはずだ。

 何より「冷血」という作品の内容と映画の物語とのリンク不足は…カポーティが何故に容疑者の死刑執行を望むようになるかということについての説明不足につながる。通り一遍に考えれば、別に容疑者が死刑にならずともルポは完成させられるし発表もできる…ということになってしまう。そうなれば、カポーティがあんなアンビバレントに引き裂かれた感情に苦しむ理由もない。そのあたりの「必然」が乏しいということになってしまうのだ。

 これは「冷血」やカポーティという人を知っている人間なら分かって、そうでない観客は分からない…というような、単純な話ではない。実はお話の筋書きと言わんとしているテーマそのものは、「冷血」やカポーティを知らなくても分かる。何を言おうとしているか、ちゃんと伝わっては来るのだ。実際僕だって、あれほど退屈を覚えながら映画の言いたいことは分かった。その言いたいことには、一種の共感も覚えた。

 だが「話やテーマが分かる」ということと、それが面白かったり切実だったり実感がこもっていたり…ということはまったく違うのだ。

 この映画ではインパクトを込めたり緩急をつけたりするべき部分を、おそらくちゃんと作れていないのではないか。じっくりカッチリつくって誠実に見せることはできていても、映画として人にメッセージを伝えるためのテクニックや工夫の部分で、何かが決定的に欠落しているのではないか。言いたいことは分かるのだから、脚本はしっかりしているのだろう。キツイ言い方をすれば、監督ベネット・ミラーの決定的な力不足ということになるのだろうか。

 それなりの力のある人たちが真面目につくっているから、ちゃんとした映画にはなっている。お話も誠実な意図の下でこしらえているから、それなりに言いたいことは分かる。だが、それが心に刻み込まれるところまではいかない。そういう事なのではないか。

 もっと平たく言えば、例えばこういう事だろう…仮に「親不孝はいけない」というテーマの映画があったとして、一見してその趣旨は分かった。だが映画を最後まで見ても「自分がいかに親不孝をしているかが理解した」とか「親のつらさが身につまされた」とか「親不孝がいかに惨いことか痛感した」とか「今度は親孝行してやろうと決めた」などというような実感や痛感までには至らない。…この「カポーティ」という映画の持つもどかしさとは、簡単に言うとそういう事ではないのか。

 僕にはそこが、この映画の最大の弱点のように思われてならない。

 逆に言えば、…にも関わらず言いたいことだけは伝わったということは、いかに主演のフィリップ・シーモア・ホフマンや脚本のダン・ファターマンが、見事にトルーマン・カポーティその人を巧みに創造したか…ということにもなるのだが…。

 

見た後の付け足し

 それでも僕はこの映画の「ある部分」に奇妙な既視感を覚えて、共感すら覚えた。

 それは主人公のトルーマン・カポーティが、ニューヨークで文化人たちに取り巻かれてのパーティーでの場面だ。いつも話題の中心。気の利いたユーモアと才気煥発な話題。一同の注目を集めて笑いの渦を巻き起こしている。まさに才人であり、人気のほども伝わってくる。カポーティも得意満面で自信たっぷりだ。

 だが、カポーティその人の内面は…不安で不安で仕方なかったのではないか。

 なぜならそんなカポーティの言動には、僕自身も身に覚えがあるからだ。僕はカポーティのように才人でもなければセレブでもない、話題も豊富でなければユーモアもない。だが人が集まる場所では、なぜか誰よりも大きな声でしゃべり、誰よりも率先して話題を独占しようとする。それは…不安で不安で仕方ないからだ。

 自分が退屈な人間だと分かっているから、退屈な人間だと思われることを恐れる。誰よりも面白い人間だと演出したがる。ユーモアのない人間だから、ユーモラスに見せようとする。いつ自分が孤立したり追いつめられるか分からないから、自分の周りに人を集めたがる。そして誰かに話題を振られてパッと対応できるほど機知に富んでいるわけでもないし、元来がユーモアのない人間だから、最初から自分が話題を独占して最後まで掴んで放さない。人とのやりとりの中で話題を発展させたり自分を輝かせたりするような、融通など持ち合わせていないからだ。何より一度話題の主導権を手放したなら、取り戻せるような器でないことは自分が一番よく分かっている。そもそも、誰も僕に話題など振ってはくれないだろう。僕が休みなくしゃべり続けているから、やっと人は僕の言うことに耳を傾けてくれるのだ。

 何より自分が話題の中心でなくても、そこにいるだけで注目を集めたり、一言で人の関心を集めることができるような…いや、全くその場の注目を集めていなくても、人から軽んじられることのないような、絶対的な存在感や人間的魅力には決定的に欠けている。生まれたときから他の誰にも自然と備わっている人間的魅力が、僕にはなぜか欠落している。カポーティもそう思っていたはずだ。それをイヤというほど分かっているから、あれほど焦り狂ってしゃべり倒しているのだ。

 あの話題を独占すればするほど空虚で不安な気持ちは、カポーティが容疑者に持ったシンパシー以上に僕にはよく分かる。彼は自分が取るに足らない、つまらなくて人間的魅力に欠けている男だと、骨の髄まで徹底的に思い知らされているのだ。これはそういう身になってみないと分からない。他の誰にも決して分かりはしない。大半の人間は、それを死ぬまで知らずに済む。ごく限られた人間だけが、そんな真の孤独を知るのだ。

 僕には分かる。僕“だけ”は分かる。カポーティ、あなたの気持ちが分かるのだ。

 

 

 

 

 

 

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