「フラガール」

  Hula Girls

 (2006/10/02)


  

見る前の予想

 この作品の「特報」は、かなり前から見ていた。衰退する炭坑の町を再興するべく、建設されるハワイアン・リゾート。その目玉イベントとして行われるフラのショーに出演した女の子たちの話。しかも「実話」だ。東北の寂れた炭坑町とハワイという振り幅のバカでかさも興味深ければ、負け犬たちの起死回生の一発勝負というストーリーラインと来れば、これはもうハリウッドに始まって全世界共通の娯楽映画の黄金パターン。何よりこの企画の着想の素晴らしさが群を抜いている。面白くなりそうな予感。

 確かに面白そうだ。だが…いい企画を手にしながら、それを台無しにしてしまうのも日本映画の常道であった。まだいい企画が出てくるだけ近年の日本映画はかつてよりナンボかマシで、それが近年の邦画の好調を支えていると言っていいが、ちょっとウカウカと油断していると、たちまちいつぞやのダメ邦画のクセが鎌首をもたげてくる。例えばあの日本沈没」リメイク(2006)なんかどうだ。…あぁ、考えたくもない。

 ところが初日を迎えて見に行った人々が…みんな口を揃えてこの作品を絶賛するではないか

 それも僕がネットで信頼する、いわゆる映画の「見上手」の人々ばかり。一人として同じような映画嗜好の人はいないから、ほぼ全方位的に好評を得ていると考えていい。こんな作品はめったにないぞ。

 あの抜群の題材で、それがちゃんとした結果に実ったとすれば、かなりイイ出来の作品ではないか。

 僕は居ても立ってもいられず、初日の次の日に劇場にすっ飛んで行ったのだった。

 

あらすじ

 昭和40年(1965年)、福島県いわき市。この炭坑町は時代の波にのまれて、いまや寂れきっていた。そんなボタ山のてっぺんで、女の子二人が何やら話し込んでいる。片や高校生の紀美子(蒼井優)、片や高校には行かず炭坑で働いている早苗(徳永えり)。二人は幼なじみだった。そして早苗が紀美子に差し出したのは、「ハワイアン・ダンサー募集」の貼り紙だ。

 エネルギー革命の流れの中で、いまや炭坑は時代遅れになりつつあった。炭坑夫たちは次々とリストラされ、職を失っていた。そこで炭鉱会社が考えた起死回生策が「常磐ハワイアン・センター」。ありあまる温泉の湯を用いての、ハワイアン・リゾート施設の構想だ。これによって会社の財政を安定させて、雇用も確保しようという巨大プロジェクト。フラガールはその施設の呼び物であった。

 炭坑は先が見えている、もしここから抜け出したいなら、これしかチャンスがない…そう考えた早苗は、必死に紀美子を誘うのだった。

 だがこの炭坑町では、みんながみんな「ハワイアン・センター」を快く思っている訳ではなかった。むしろ「親の代から炭坑夫」という者ばかりの町の人々にとっては、「カネばっかり食って無理なシロモノ」としか思えなかった。自身も選炭婦として山で働く紀美子の母・千代(富司純子)も、「あんなもの」と罵る側の筆頭。やはり炭坑夫をやっている紀美子の兄・洋二郎(豊川悦司)はちょっと違う意見を持っているようだが、激しい千代の剣幕を見ては黙っているのが得策と心得ている。 だから紀美子は早苗からフラガールに誘われたことを、家で明かすことなど出来るわけもなかった

 さて、問題のフラガールの説明会に出かけた紀美子と早苗。もはや廃校になった町の学校の体育館を使っての説明会では、実際のフラの16ミリ・フィルムを上映して説得を始める。だが「腰を振るのははしたない」だの「ヘソを出すのは恥ずかしい」だの、集まった娘たちは口々に文句を言って逃げ出してしまう。逃げ出さなかったのは「これが唯一のチャンス」と思い詰めた早苗と、そんな早苗にすがりつかれた紀美子だけ。これにはさすがに「ハワイアン・センター」の推進者である吉本部長(岸部一徳)もガックリ肩を落とす。そこに会社の事務員で子持ちの初子(池津祥子)と、父親に連れられてやって来た大柄の女の子・小百合(山崎静代)が加わったものの、たった4人では先行きも真っ暗な吉本部長であった。

 それでも吉本部長は、気を取り直して東京から呼んだ踊りの先生を迎えに行く。本場ハワイ仕込みのフラを修得し、あのSKDでも踊っていたという本物のダンスのコーチ。だがそのコーチ・平山まどか(松雪泰子)は、ケバケバ衣装で酔いどれながらやって来た。明らかに、こんなひなびた炭坑町に流れて来たのが不本意な様子。二日酔いを迎え酒で誤魔化しながら、吉本部長に連れられ田舎道を行くまどかは、早速すれ違うバスの炭坑夫たちの好奇の目の洗礼を受ける。その男たちの野卑な態度に、ますます気持ちが落ち込むまどかではあった。

 「何でこんな所に来ちゃったのか」

 たった4人の「厳選された」フラガール候補生たちにも失望したし、その踊りの素養たるや悲惨そのもの。引き受けた自分がバカだった…と意気消沈せざるを得ない。一方、素っ気なくやる気のないまどかの態度に、フラガール候補生たちも困惑。特に紀美子は、強い反発をモロに表情に出すのだった。だがある朝のこと、いつもより早めに稽古場である体育館にやって来た紀美子、早苗、初子、小百合の4人は、そこに素晴らしい躍動感で踊るまどかの姿を見る。

 「おらもあんなふうになりてえ」

 早速体育館に飛び込んでいく4人。彼女たちの「本気」を見てとって、まどかもようやく「その気」になって熱い指導を見せる…ほど世の中は甘くはない。やってみようとしたところで、脚一つ満足に伸ばせない彼女たち。まどかは捨て台詞を吐いてその場を去っていくしかない。

 「あんたたちには永久にできっこないわよ!」

  そんなこんなで、ギクシャクしまくるまどかと娘たちの間柄。しかも紀美子の学校を休んでのフラダンス修行が、母の千代にバレてしまう。案の定、髪を逆立てて怒り狂う千代だったが、紀美子もなぜ謝らねばならぬのか納得が出来ない。かくて家を飛び出した紀美子は、まどかのやる気のない態度に懐疑的だったものの、結果的に退路を断たれる形となった

 その頃まどかは、町の居酒屋で飲んだくれていた。そこに紀美子の兄・洋二郎が、何だかんだと話しかけてくる。元々、洋二郎とあまりいい出会い方をしていなかったまどかは、露骨に不愉快な態度をとる。すると洋二郎が怒って絡んでくるかと思いきや…何と頭を下げて「妹の紀美子をよろしく」と頼んでいくではないか。

 すっかり酔いが醒めてしまったまどかが夜の体育館にやって来ると、そこには熱心に練習する早苗と行き場のなくなった紀美子がいた。むろんとても「練習」のレベルまでいってはいない。だが今度ばかりはまどかの気持ちも変わっていた。彼女は娘たちを前に宣言する。自分の言うことを聞くのなら、ちゃんと一人前になれるよう指導してやる。そして…。

 「どんなに辛くとも絶対泣かないこと!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本映画の浮沈とハリウッドの黄金パターンと

 女の子たちが何かを成し遂げる物語、日本の地方都市を舞台に方言セリフで描かれるお話、そして何より主人公たちの生のパフォーマンスを原動力とする映画…。今回の「フラガール」という映画の有り様を考えた時、日本映画で最近非常に似たポジショニングの作品がある事に気づく人は多いだろう。そう…一昨年大ヒットした快作スウィングガールズ(2004)にその成り立ちが非常に似ているのだ。「スウィング〜」が地方都市のパッとしない女子高生とスウィング・ジャズ、今回の「フラガール」がやはり寒冷地の炭坑町とハワイのフラ…という、かなり振れ幅の広い「異文化の激突」の面白さを狙っているあたりも近いものを感じる。どちらもお話や設定を耳にしただけで「面白そう!」と思わせる、企画のセンスが際だっている。

 考えてみれば長らく低迷していた日本映画だが…邦画ファンとしては僕のような邦画門外漢に聞いたふうな事を言われたくはないだろうが…もはや1950年代の日本映画黄金時代をそっくり再現する事など望むべくもあるまい。仮に溝口や小津が存命中でかつてと同じように映画を撮ったとして、それが興行的にだけでなく作品的にもいい結果を残すとは思えない。彼らの過去の作品の価値を一瞬たりとて疑うことなどないが、それが「今に流通する映画」かと言えば答えは「ノー」だ。ジョン・フォードやキャプラが現代に新作を発表しても同じだろう。映画とはエヴァーグリーンを生み出しもするが、その一面で極めてアップトゥデートなものなのだ。

 そんな意味で…日本の映画人や映画ファンが長い間望んでいた「日本映画復活」が、例えば黒澤明一人が思いだしたように作品を発表しようが、「大作」と称するそれなりに制作費と時間をかけた映画が何作かつくられようが全く実現されなかったのは、しごく当然な事だと今なら思われる。結局それらは過ぎ去った輝かしさに対するノスタルジーであったり、巨大な市場と潤沢な制作費を擁するハリウッドへの憧憬であったり…つまり、「望んでも叶わない」望みを抱いての映画づくりでしかない。そうでなければ…思い切り後ろ向きに、萎縮しきった日本映画でも支持してくれるファンにのみアピールするような、制作規模にしても企画内容にしても内向きな作品ばかり制作してきたのが実際のところだろう。大変申し訳ない事を言ってしまうが、僕には「低迷」日本映画の時代とはそんな悪循環の時代だったと思えるのだ。「いや、あの時代の日本映画だって良かった」という意見は必ずしも否定しないが、少なくとも「産業」や「娯楽」として一般の人々から見放されていた事は確かだろう。

 そんな日本映画が、現在はかなり持ち直しているんだそうである。確かにヒット作も多いし、どちらかと言えば最近話題にのぼるのは、外国映画よりは日本映画…という気がする。そして、その理由は邦画門外漢の僕にもある程度想像がつく

 まず一つには、映画の「消費者」の中心たる世代が、あのバブル期に青春時代を過ごした人々以降に完全に移行したという事が挙げられるだろう。例えば僕らの世代には、いまだに日本製のモノにコンプレックスがある。僕らの上の世代ならもっとだろう。だが若い世代には、最初からそんなものがない。むしろ彼らの記憶には、メイド・イン・ジャパンが世界を席巻して、世界中どこに行ってもチヤホヤされ、ロックフェラー・センターからコロンビア映画まで買い占めた「強いジャパン」のイメージしかない。CDでも洋楽よりJ-POPとやらがウケている(これにはカラオケの発展も一役買ってはいるだろうが)のもおそらくこれと同じ理由だろう。今の日本に急速にナショナリズムが台頭しているのも、自尊心の高まりとバブルの夢がしぼんでしまった悔しさがそうさせているのだろう。そんな訳で勢い余って「美しい国」とかありがたくない方向にも行きかねない部分がありはするが、少なくとも僕らより下の世代の人々は、日本製という事に何ら引け目を感じてはいないはずだ。

 だがそんな受け手の意識の変化があろうとも、肝心のモノがイマイチならどうにもなるまい。実はここが重要で、おそらく今の日本映画は「作り手」の意識そのものからして大きく違っているはずだ。ここでも引け目も何もないから、いたずらに黄金時代を振り返ったりハリウッドを追いかけようとはしない。わざわざチマッとした邦画ファンたちの巣に引っ込もうとも思わない。身の丈に合った題材を、屈託のない発想でつくることが出来るようになったのだ。昨今の日本映画の好調ぶりは、おそらくこうした背景にプラスしてハリウッド映画の急速な凋落ぶり(リメイク、続編、コミックやテレビの映画化などの企画の貧困と幼稚化)が影響して実現したものだろう。

 そんな屈託のなさを象徴しているのが、この「フラガール」のような作品なのだ。企画の素晴らしさは映画のあらすじをちょっと聞けば分かる。昔なら「ハリウッドに出来て何で日本では出来ないんだ」と嘆かれたセンスのいい企画が、今の日本映画からは次々に生まれているようだ。もっとも…ちょっとウケると何かとCG仕立てでコテコテに誇張されたマンガみたいな物語をポップに見せる映画ばかりが氾濫するみたいに、日本映画の産業としての体質はあまり変わっていないので先行きは少々怪しいかもしれないが…。ともかく先に例として挙げた「スウィングガールズ」とかこの「フラガール」などは、「企画の勝利」の典型的作品と言っていい。

 早い話が「邦画音痴」の僕だって、予告編をチラッと見て「ん!見たい!」と思っちゃったからね。実際のところ映画って、この「ん!見たい!」が一番大切なんじゃないか。

 そして先にも述べたように、この2本の日本映画は基本構造からして同じなのだ。

 映画ファンなら察しがつくだろう。「スウィングガールズ」も「フラガール」も、基本的にはアメリカ・ハリウッド映画の基本パターンを踏襲しているのだ。ちなみにここで言う「ハリウッド」は、先に述べた低迷期日本映画がフォローしようとしていた意味での「ハリウッド」ではない。潤沢な資金でスケールのデカい映像スペクタクルを見せるような…それを模倣しようとしても無惨な結果にしかならない「ハリウッド」イズムではなく、それこそキャプラやルビッチやチャプリンがいた頃からハリウッドで確立されてきた、娯楽映画伝統のドラマの黄金パターンのことである。

 実はこうしたドラマの命脈は元祖のハリウッドで急速に命脈を断たれつつあり、それがハリウッド映画の低迷を生んでいる。だがほんの20〜30年遡れば、そこにはいくつもの優れた例が転がっているのだ。「スター・ウォーズ」(1977)も「ロッキー」(1976)も、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)も「ベスト・キッド」(1984)も、「48時間」(1982)も「ダイ・ハード」(1988)も…およそ良くできたハリウッド映画というものは、この伝統の黄金原則に則ってつくられている。むろんその源流に、チャプリンの「黄金狂時代」(1925)やジョン・フォードの駅馬車(1939)、フランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生!」(1946)などの王道ハリウッド作品がゴマンと存在する事は言うまでもない。

 そんなハリウッド伝統の黄金原則が21世紀の日本に忽然と現れたのが、先に挙げた「スウィングガールズ」であり「フラガール」というわけなのだろう。

 実はこの黄金パターンとは、極めて単純だ。イマイチな状況の主人公…または青二才…あるいは「負け犬」として後塵を拝している主人公が、挫折を経て努力と闘志で起死回生の逆転ホームランを放つ…あるいは何らかの「成就」を果たすまでのお話。実はこれに尽きる。

 では、あまりにマンネリズムで単純ではないか…と言われる向きがあろうかと思われるが、それは心配ご無用だ。なぜならこれほどに単純なコンセプトなら、枝葉のアレンジでどうにでも味付けが可能。作り手の個性を出す余地は十二分に残されている。そして、このコンセプトはそうなっている理由と必然性がある。人間が何かを成し遂げるには、実は崇高な目的や意志は要らない。というか、それではモチベーションにならない。しかも、そんなごリッパなお題目では見ても面白くもない。そもそも真実味を持って迫ってこない。一見手垢がつきまくったようなハリウッド黄金原則は、それ自体が人生の真実を内包しているドラマづくりの不動のセオリーなのだ。

 しかも奇妙なことに…このパターンは主人公を青二才と規定してみると、ピッタリと「姿三四郎」(1943)から「赤ひげ」(1965)に至る黄金期の黒澤作品にも符合する。なるほど、ハリウッド映画人が黒澤に夢中になるわけだ。ハリウッドの黄金原則を徹底的な作家主義的個性と力業で再現すると、黒澤作品になる。このパターンが決して凡庸さの現れではなく、力強く揺るぎないものである所以をこれでご理解いただけただろうか。

 そして…だとすると黒澤明も愛した黄金パターンは、今ふたたびこの日本に「本卦帰り」したと言えるのかもしれない。

 

「映画的表現」を重視した映画

 「フラガール」の基本にハリウッド黄金パターンが生きているのは、誰にでもすぐに分かることだ。揺るぎないコンセプトをちゃんと押さえているから、映画の軸足がしっかりしている

 だがこの映画はしたたかなことに、そんな映画の伝統セオリーだけでなく、さまざまな他の映画作品群の残像をうまく取り込んでいるのだ。それらが隠し味として、この映画の味わいを引き立てている。これは実に見事だ。

 例えば「炭坑」という一点をとってみても、遠い空の向こうに(1999)、リトル・ダンサー(2000)、「ブラス!」(1996)といった作品群がすぐに頭に浮かぶ。これらがいずれも「黄金パターン」を巧みに自分たちの土俵に引っ張り込んでいることは、言うまでもない。炭坑町の危機に、自らの行き詰まった将来のために、立ち上がった…立ち上がらざるを得なかった主人公を描いている点で、これらは「フラガール」と同一線上にある作品だと言える。

 さらに前述「ブラス!」から「フル・モンティ」(1997)あたりまでを視野に入れれば、ついちょっと前まで大いに盛り上がり、ユアン・マクレガーやロバート・カーライルらをスターにのし上げたイギリス労働者階級を扱った娯楽作品群を想起させる。いまやこれらのイギリス映画の流れはいささか停滞してしまったが、それでも一時は世界の映画界を席巻していたと言えよう。この「フラガール」はこうした「成功例」をすべて内包する形でつくられているのだ。これは決して「パクり」などというネガティブな意味で言っているのではない。むしろ先人に学んでつくっている点が好感が持てる。あえて言うならば、成功例を巧みに取り込むことで非常に「勝算」の高い勝負をしているのだ。

 その意味でまずは誉められるべきは、監督の李相日羽原大介による脚本の巧みさだろう。特にこの映画の見事なところは、旧来の日本映画みたいに主人公たちの行動原理を「情念」や「根性」などフィルムに写らない要素に見出さなかったことだ。

 正直言って、僕がちょっと前までの日本映画にノレない最大の理由がこれだった。ドラマの原動力とは、どこまでも登場人物たちの感情だ。これはカーアクションや特撮が見どころの映画でも同じ。観客が納得するカタチで映画を引っ張るためには、この原動力が明快なものでなければならない。

 ところが旧来の日本映画は、そこに理屈にならないファクターを持ち出して誤魔化し、「描いたつもり」になっていた。あるいは、最初から主人公の行動原理を描かなかった。

 だが、それは決して「描けるけど描かない」という「行間の描写」ではなかった。ある意味で作り手の怠慢だし、一部の邦画ファンとの「馴れ合い」「甘え」でしかなかった。だから一般の客には、何が何だか分からない。いや…言いたい事は分かるけどノレない。ドラマの原動力に、論理性と合理性がないからノレないのだ。

 この映画では、この点が実にハッキリしている。まずは大前提として炭坑の没落だ。主人公たちには、そうせざるを得ない理由がある。まどか先生にも「せざるを得ない」理由がある。さらに微細に見ていくと、主人公級の人物が、みんな何らかのカタチで絶妙なタイミングで「退路」を断たれていることに気づくはずだ。何ともうまいのである。自発的に何でも気が付いて頑張るような、単なるイイ子ちゃんの主人公ではシラジラしい。そして蒼井優や松雪泰子が演じているような生身のキャラクターなら、単に感銘を受けたり反省したりで行動を始めるはずがない。自暴自棄でフテ腐れて、都落ちした自分に自己嫌悪すらしているような人物が、そうそう物事を前向きに考える訳がない。そこらへんを説得力あるカタチで、想定している結論へと導いていく手つきが見事なのである。

 そして、それは時に「目に見える」カタチをとらねばならない。

 主人公に決定的な啓示や影響を与えるファクターは、映画というメディアを選択した時点で「視覚的」でなければならないのだ。それが何かと訊ねられたら、僕は真っ先に「未知との遭遇」(1977)でフランソワ・トリュフォーが宇宙人に示して見せた「手話」であり、「七人の侍」(1954)で戦さを前にして三船敏郎が振りかざした「旗印」であり、「市民ケーン」(1941)で臨終のオーソン・ウェルズが手から落とした「スノー・ボール」だと指摘しよう。それらはハッキリと目に見えるカタチで示された、記号でありシンボルでなければならない。

 「フラガール」では…それは、町を出ていこうとするまどか先生をフラガールたちが駅に見送りに来る場面に出てくる。彼女たちが列車の窓にすがって「先生行かないで!」などと言ったら、場面はたちまち凡庸なモノとなる。しかも、そんな事でみんなの前で「出ていきます」と啖呵を切ったまどか先生が、前言を翻すわけもあるまい。ここは相当な力業を持ってこなければ、観客を説得できる場面にはならないのだ。

 そして実は一頃の日本映画は、この手の力業をことごとく失敗していた。おそらくは涙ナミダの女の子たちのアップをおセンチな音楽を流して延々タレ流し、理屈はこっちに置いといて感激した先生が前言撤回する…ってな情けない趣向で見る者を退かせたに違いない。

 「フラガール」はそれを、フラの振りによって語らせた。つまり「未知との遭遇」のトリュフォー手話と同じだ。これをやりたいがために、前々から準備して劇中で伏線を張っていることも同じ。

 これは二重の意味で見事であると思える。一つは…そこにフラを持ってくることで、語りたいことと表現が一致したこと。そしてもう一つは、あくまで映画として「目で見える」カタチ…映画的表現をとったことだ。

 実は告白すると…この場面には「タンカを切って東京に帰ろうとした先生が結局前言撤回してしまう」という無理のある設定を、かなりギリギリのところで何とかやっと成立させている危うさが少々漂ってしまっている。それでもこれが何とか成立したのは、ヒロインのごリッパなセリフに頼ったり涙ナミダで見つめ合ったところにおセンチ音楽流したり…という合理性のない描写をとらずに、あくまで「映画的」な表現で押し切ったからに他ならない。むしろハワイアン・ミュージックのBGMなしに演じられるフラという「異常事態」が、この場面にただならぬ迫力を与えている。パントマイムやチャプリンのサイレント映画を思わせるそのフラの仕草こそ、まさに「映画的」そのものの表現なのだ。

 そして、映画なんだから映画的表現など当たり前…などと言うなかれ。実は本当に「映画的表現」が出来ている映画は、イマドキ極めて少ない。凡百の映画は、説明しなくてもいい情報をダラダラとセリフで語らせているし、饒舌に「悲しいぞ」「切ないぞ」と必要以上の感情表現を込めた音楽をタレ流している。ストイックなまでに映像で語らせる映画は、いまやアキ・カウリスマキなど一部の映画作家しか行っていない。「フラガール」のあの潔いサイレント・フラ場面は、あくまで「映画的」であることを意識した表現なのだ。

 だから「映画的」であることに自覚的なこの映画が、そのヤマ場を「映画的」にしない訳がない

 当然の事ながら、この映画のクライマックスは「常磐ハワイアン・センター」オープンの日に行われるハワイアン・ショー。そこでの圧倒的な群舞にある。だがそれを描くにあたって、映画はほとんど全く何のトリックもテクニックも使っていない。時々思い出したようにチラチラッとスローモーションの短いショットを挿入したりはしているが、それ以外の余計な事はほとんどやっていない。ただカメラをどかんと客席に据えて、主人公たちのフラを延々映し出しているだけだ。

 実際、この場面の撮影は一発撮りのライブ・アクションだったらしいが、さもありなん。何もしなくても、この場面はそれだけで十分に映像スペクタクルたり得ている。というか、そうでないといけない。ここで余計な策を弄したものなら、この迫力は味わえまい。そのままである事が「映画的」なことなのだ。

 これまで僕は、「もっと工夫をしろ」だの「映画的な見せ場をつくれ」だのアレコレうるさく言って来た。ところがここでいきなり「そのままである事が映画的」などと言い出すに至って、この一文をお読みの方は「おかしいんじゃないの」とお思いになるかもしれない。だが、僕がここでそんな一見矛盾した事を書いているのは、別に僕が混乱したからでも適当に都合のいい言い分を展開しているからでもない。第一、それは決して矛盾ではないのだ。

 なぜなら映画は「記録」なのだから。

 僕は同様の事をクドクドと「スウィングガールズ」の感想文で述べたから、ここで過度にしつこく繰り返すつもりはない。だがあえてもう一度語るなら、やっぱりこの点に触れずにはいられない。映画とは「記録」なのだ。

 映画とは銀幕に描かれる壮大なウソ話、ホラ話でありながら、その反面すべてはレンズの前で実際に起きた事でもある。CG万能時代の到来で必ずしもこれには当たらないケースも多々出てきてはいるが、あくまで映画の基本はそうだ。リュミエール兄弟の「列車の到着」(1895)のフィルムを見た観客が、阿鼻叫喚の中で逃げ出した瞬間から変わらない。映画とは「ウソ」であると同時に「記録」なのである。黒澤明はそこを熟知していたから、黄金期に複数台数のカメラを一気に回すマルチカム撮影法を確立し、天国と地獄(1963)において特急「こだま」車内を借り切っての一発撮り撮影を敢行したのだ。

 ちなみに、一般に言われている「黒澤完全主義」神話に僕は全く与しない。むしろ黒澤は一発撮りライブ・アクション主義者だったと僕は思っている。ハプニングの持つパワーを、彼は誰よりも分かっていたはずだ。それが「映画」というものだと、映画巧者の黒澤なら誰よりも熟知していたはずだ。

 そしてこの作品の神髄が、映画そのものの持つ「記録性」にある…と主張することで、僕は決してCGやVFX技術に対する否定的意見を述べようとは思わない。こういう論法でいくと、しばしば人は「だからCGなんかダメなんだ」と極論にはしりたがるが、僕はそれも完全に否定する

 技術とは、ただの手段だ。そして映画とは、エレクトリック、オプティカル、ケミカルなど広範囲に及ぶ科学技術の集積の産物だ。その映画を語る時に、技術を否定するほどバカなことはないだろう。この「フラガール」では、当時の炭坑町を再現するためにCG技術が応用されている。ボタ山もたぶんCGだろう。CGがなければ、この時代色は再現できなかった。これが十分に再現できなければ、主人公たちが追い込まれた状況が真に迫らなかった。映画における技術とは、このように使うべきものなのだ。

 閑話休題。ともかくこの作品では、主人公たち女優陣が自らの体を使ってクライマックスを踊り抜く。劇中前半のボロボロな踊りの一幕は、女優たちがフラの素人だと知っている僕らにはそっくりそのままドキュメンタリーのように迫ってくる。だからクライマックスのフラ・スペクタクルが効いてくる。見ている僕らには、すでに単なるフラダンス・ショーには見えなくなってきているのだ。むろん踊り自体にもちゃんと力が宿っている。見る者に楽しみを与えてくれる。それもまた、「スウィングガールズ」のクライマックスを連想させるところだ。

 「実際に行っている」ことから生まれるパワーの重要性。「記録」としての映画の機能の再確認。この点だけとって見ても、「フラガール」と「スウィングガールズ」の方向性はピッタリと一致しているのである。

 

ウェットであることは悪いことなのか?

 そんな「踊り」のパワーで見ているこっちの思惑を蹴散らかしていくこの映画は、「踊り」の場面だけでなく間違いなく役者の存在によって支えられている。しかも意外にも男優がいいのだ。

 どう考えても炭坑夫は無理じゃないか、あるいはインテリ炭坑夫でも演じるんじゃないだろうか…と思った豊川悦司が、見事に無骨な炭坑夫を演じて見せる。終盤の借金取り立て屋との大立ち回りも、熱い男気があふれるトクな役どころだ。そして「ハワイアン・センター」推進者役の岸部一徳。まどかの横暴にキレて方言でまくし立てたあげく、「マズイことをした」と一転平身低頭するあたりの至芸。まどかが東京に帰ろうとして「あの子たちをよろしく」と頭を下げた時に、その場を立ち去りかけたところで背を向けながら「あんた、いい女になったな」とつぶやくあたりの味わいは余人を持って代え難い。

 女優陣では、文句なく松雪泰子の熱演を指摘せざるを得ないだろう。正直言って僕が好きな女優さんではないし、この映画の主役も大丈夫なのか…と心配していたが、前半部分の高慢チキな感じは彼女本来の持ち味が活かされていたし、借金取り立て屋にいたぶられた直後の憔悴しきった表情、後半で彼女が洗いざらしのジーンズのように素直になってくるあたりにも正直感心させられた。余談ではあるが、彼女がとっかえひっかえ見せる1960年代ファッションも見て楽しかった。

 この点で見ると、肝心の「フラガール」女優たちは、あくまでその素材としての持ち味を活かされたように思われる。むろん南海キャンディーズのしずちゃんこと山崎静代の好演ぶりなど特筆ものではあるが、それでも概ね彼女たちは「素材」として活かされることで輝く使われ方だった。

 例えば…「フラガール」の中でもヒロイン級の蒼井優を見ればそれが分かる。実は「フラガール」たちの中で最も芝居場をもらっている(…というより、他はあまり芝居をさせてもらっていないのだが)のがこの蒼井優なのだ。そして、蒼井優自身も期待に応えて頑張っている。だが、フラを練習していることが母親にバレての口論の場面など、ちょっと見ると彼女がイマイチ演技を消化し切れていないように思われる。いきり立って立ち上がったはいいが足がシビれて情けない状態になる…というシチュエーションで、今ひとつ笑いがはじけてこない。

 おそらく「フラガール」は先に挙げた南海キャンディーズのしずちゃん起用からも分かるように、一種のカルチャーギャップ・コメディのようなセンも狙っていたはずだ。だが映画は必ずしも「コメディ」の方向性は保っていない。いや、当初「コメディ」を狙いはしたが、それに必ずしも成功しなかったのかもしれない。ユーモアは漂うが、これをコメディとは言わないだろう。蒼井優もコメディの芝居はしていないし、そもそも彼女はコメディは似合わないのではないか。

 そう…この映画と「スウィングガールズ」との類似点をいくつも挙げては来たが、実は決定的な相違がひとつある。それが「コメディか否か」という点だ。「スウィング〜」は上野樹里という掴み所のない乾いた個性のヒロインを得て、どこかカラッと揚がった天ぷらみたいなコメディに仕上がった。他方「フラガール」はどこか蒼井優の個性にも似た、乾ききれないシリアスさが身上の作品だ。元々、炭坑町の危機という笑えない事態が根底にあることもあって、イマイチ乾いてこない。どこか…かなりウェットな作品となっているのが特徴だ。前述のごとく当初はコメディも狙ってはいたのだろうが、結果的にそれはあくまで局地的なユーモアにとどまり、全体的にはウェットなドラマ構成が支配的になった。

 ウェットと来れば…かつての日本映画の十八番だ。

 そしてそのウェットさ故に、僕は日本映画を毛嫌いしたのだった。例えば…前にもどこかで引き合いに出したと思うが、「蒲田行進曲」(1982)の「階段落ち」前夜のヤスの描き方が嫌いだ。「蒲田行進曲」自体は結構好きな映画なのだが、この場面に限っては寒気がしてくるのだ。

 「階段落ち」に怯え、嘆くのはいいとしても、それで妊娠中の小夏に当たり散らすヤスの女々しさ。その場面にこれでもかと流れるセンチな音楽。そんなもん美化してどうなる。ここへ来てガタガタ女に当たり散らすような情けない事をするなら、最初から「階段落ち」など志願しなければいいじゃねえか。それを、「この男の情念を分かれ」とでも言わんばかりに「泣かせ」音楽が流れる。どこかの政治家が言ってる「美しい国」的お題目と同じようにウンザリ。これこそが、僕の大嫌いな日本映画の世界だ。

 この「フラガール」は、実は全編にわたってかなりウェットだ。そういう意味では、まさに日本映画的伝統に則した作品だ。そして実は今だから話すが…僕みたいな男が「うっ、これはマズイ」と思いたくなるような瞬間も、何度か映画の中に感じられない訳でもない。それを巧みな脚本と演出力、そして役者の熱演で何とか回避している印象があるのだ。

 だが、そもそも映画がウェットであることは悪いことなのだろうか?

 実は日本映画などお呼びも付かない強烈なウェットさと泥臭さで、圧倒的な破壊力を発揮していた映画がかつてあった。それはまだ「韓流」などと呼ばれる前の韓国映画だ。痛めつけられ汚されて、耐えて耐えて泣き叫んでわめき散らす主人公たち、ウェットなんて可愛いもんじゃない。涙だけでなくて血と汗の他によだれと鼻水まで飛び散るそのアリサマは、確かにちょっと退いてしまいそうな泥臭さだった。

 だがそれらが拭い去られ、洗練された「韓流映画」となった今日…あの泥臭さこそが韓国映画のパワーだったのではないかと思う時もある。もちろん、それは単なる泥臭さに過ぎなかったこともあるだろうし、モノは程度問題だ。だが映画表現としてのウェットや泥臭さは、必ずしもネガティブなモノとして切り捨てるべきものではないのではないか…。

 この「フラガール」を見て、僕は今さらながらにそんな事を思ってしまった。

 先にも述べたように、この映画はのっけからウェットな趣向が爆発。共にフラの練習に汗を流した幼なじみとの別れ、炭坑事故で肉親を喪った娘の「それでも踊る」という決意表明、非難を受けて東京に戻ろうとする先生を見送るフラガールたちのサイレント・フラ…と、「泣かせ」の要素がつるべ打ちだ。それもドライに乾かしたりしない。かなり確信犯的に「泣かせ」にかかっている。前述のように、おそらく当初の構想はもっとコメディ色が濃かった可能性があるが、製作過程のどこかの段階でよりウェットな方向にアクセルを踏み込んだのだろう。作り手たちは作品具体化の過程で、それがより得策だと判断したに違いない。

 実際にこの映画では、それが成功しているのだ。

 最初は僕も「ウェット」に対する警戒心から「またか」と身構えてしまったが、結局気持ちよく泣かされてしまった。そして映画を見終わって思ったのは、「ウェットさに罪はない」のではないかという事だった。

 結局かつてのウェットな日本映画は、ウェットだから悪かった訳ではなかったのかもしれない。単にウェットなだけでなく、合理的で論理的な展開が出来てなかったのだろう。うまく主人公たちをめざす物語の方向性に誘導するための仕掛けをつくれない未熟さ、能力の低さを、ウェットさでごまかしていたからいけなかったのだ。説明をつけられない無力さを、おセンチなテイストでダマして、「情念」だの「根性」だのという説明の付かない概念でお茶を濁していたからいけないのだ。この映画のようにちゃんと主人公たちやドラマを誘導するキチンとした設定や仕掛けを構築して、ここぞというところでは映画的表現で観客を説得さえ出来れば、いくらウェットでも映画として決して悪くはない。いや…むしろウェットな国民性を持った日本の映画としては、そっちの方がしっくりくるのかもしれない。

 今回それがハッキリと見えてきただけでも、この映画を見た甲斐はあった。この作品には、僕に改めてそんなことまで考えさせるような有無を言わせぬパワーが漂っているのだ。

 

見た後の付け足し

 ここまで僕はこの映画に見いだした美点を並べていったが、結局それらを総括するとズバリと一言で括れてしまう。

 それはここで何度も繰り返したように、「映画的」であるということだ。

 中心にハリウッドから黒澤映画までが重用した黄金パターンがあって、昨今の世界的映画の流行にも敏感。なおかつ日本映画の伝統への目配せも怠りない。それでいてかつての日本映画からの呪縛からは解き放たれている

 何より素晴らしいのは、映画本来の機能である「記録性」を中心に据え、映画的であることに意識的であることだ。

 だが、僕はまだ肝心カナメの最も重要な点を指摘していない

 寒々とした炭坑町に出来る「ハワイ」、そして炭坑娘たちが踊るフラとは、それはあくまで「偽り」のものだ。いわばどこまでいっても「まがいもの」なのだ。

 そして、そんな昭和40年の炭坑娘を演じる現代っ子の女優たちも、彼女たちが付け焼き刃で演じようとするフラも、二重の意味で「まがいもの」だ。

 しかしそんな「まがいもの」が磨き上げ鍛え抜かれていくうちに、いつしか光り輝く「ホンモノ」になってくる。僕らはその過程を目撃するからこそ、こんなに感動するのではないだろうか。

 そして、「まがいもの」が「ホンモノ」に化ける過程とは…そもそも、まさにそれが「映画」そのものではないか。明らかにウソでフェイクなのに、事実や人生を超えて「真実」になるのが映画というものの神髄だ。この映画はそんな「映画の本質」に忠実だからこそ、これほど見る者のハートを掴んでしまうのではないか。この「フラガール」という映画は、作品それ自体が100パーセント「映画」そのものという希有な構造を持っている作品なのだ。

 僕は映画が好きだ。これを読んでいるあなたも映画が好きなはずだ。だからこそ我々は、「映画」らしさに満ちたこの作品を愛さずにいられないのである。

 

 

 

 

 

 

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