「X-MEN/ファイナルディシジョン」

  X-Men the Last Stand

 (2006/09/25)


  

見る前の予想

 X-メン(2000)もX-MEN 2(2003)も大好きな僕は、ブライアン・シンガー監督がスーパーマン・リターンズ(2006)を撮るためにシリーズ3作目を降りたと聞いて、正直言って「もはやこれまで」と思った。

 この言ってみればバカバカしい超人たちの戦いを描いたマンガ物語(元々がマンガなんだから当たり前だが)をあそこまで格調高く描きあげたのは、何と言ってもブライアン・シンガー監督のお手柄。だから彼が降りちゃったら、もう「X-メン」シリーズはおしまいとしか思えない。まして後任にブレット・ラトナーが座ったと聞いては…なおさらその観が強くなったのは否めないところだ。

 ブレット・ラトナーって決して悪い監督だと思わないし、ジャッキー・チェンを「ラッシュアワー」(1998)で初めてハリウッド映画に見事に活かしたという点で、結構才人だと評価もしている。ただ…この人って何となく「格」というものに欠けているように感じる。どうも映画の出来栄えが、何となくチマッとしているような気がしてならないのだ。

 それでも身の丈にあった映画をつくっていれば、それでもいい。「ラッシュアワー」なら、そんなラトナーの資質にピッタリだろう。ところがその後は何でもかんでも手を出しているように見えるし、近作のダイヤモンド・イン・パラダイス(2004)も見事に「ソコソコ」な出来栄え。そう!…この人の映画ってどこか「ソコソコ」なイメージが強いのだ。

 イメージがすでに確立しちゃってるレクター博士モノに手を出して、それなりにソツなくつくっちゃったレッド・ドラゴン(2002)なんか見ても、普通若手の才人なら何らかの「自己主張」をしたがるものなのに…これほどまでにイメージが確立しちゃってるヒット・シリーズならなおさら自己流味付けをしたがるはずなのに、まったく屈託ナシに「まんま」つくっちゃう如才のなさ

 この「ソコソコ」、「ソツのなさ」、「如才なさ」…ってあたりがブレット・ラトナーのいいとこでもあるし、イマイチ食い足りないところでもある。そもそも若さがないよなぁ…。

 変に「作家的主張」をされるのも迷惑だが、こうも「主張がない」のも食い足りない。おまけにスケールでっかい娯楽大作でアメコミの映画化にも関わらず、見事にブライアン・シンガーの作家映画と化していた前2作に続いて、「X-メン」シリーズを継承するにはいささか力不足ではないのか。元々がマンガなのにあの格調高さが出たのは、ブライアン・シンガーがお話の根底に流れる「悲劇性」を前面に引っ張り出してきたからだろう。だが、そういう「格調の高さ」やら「真面目さ」は、どうにもブレット・ラトナーには似合わない気がする。こいつにはやっぱり無理だろう。

 何から何まで不安材料ばかり。果たしてこいつで大丈夫なんだろうか?

 

あらすじ

 20年前のこと。まだ若々しいプロフェッサーX(パトリック・スチュアート)が、とある郊外の住宅地にやって来る。傍らにいるのは、プロフェッサーXと袂を分かつ前の「同士」マグニートー(イアン・マッケラン)。二人はある家を訪れると、その家庭の一人娘を面接した

 ジーン・グレイというその少女はいきなり二人の来訪者の心を読もうとする。さらに彼らを警戒した少女ジーンは、住宅地中のクルマというクルマを超能力で浮遊させるではないか。「こりゃあ本物だ!」と大喜びするマグニートーだが…。

 その10年後、バスルームに閉じこもった幼い息子のただならぬ様子に、大富豪ワージントン(マイケル・マーフィ)は慌ててドアをこじ開ける。中に入ると涙ぐんだ息子の姿が、その背中からは…白い羽根が生えているではないか!

 そして現在からさほど遠くない未来。ここは未来の最終戦争の戦場なのか、燃えさかる瓦礫の中を、正義のミュータント集団「X-メン」の中心メンバーたち…天候を操る美女ストーム(ハル・ベリー)やアウトローな刃物野郎ウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)、頑強な肉体を誇るコロッサス(ダニエル・クドモア)に率いられて、「学園」の若者たち…相手ミュータントのパワーを吸収し死に至らせるローグ(アンナ・パキン)、そのボーイフレンドの冷気男アイスマン(ショーン・アシュモア)、さらに壁抜け娘キティ・プライド(エレン・ペイジ)が何者かの追撃から逃げている。敵は手強い巨大ロボットだ。

 そんな最中にも、最近キティ・プライドとの親しさを増すアイスマンの様子に、ローグは内心穏やかではない。

 そしてチームワーク重視で立ち向かおうとするストームだが、いつも単独行動のウルヴァリンは今回もテメエ勝手に暴れて敵を倒してしまった。思わず溜め息のストーム…。だがウルヴァリンは気にもとめない。

 実はこれ、シミュレーション・マシンを用いた若手「X-メン」に対する訓練プログラムだったのだ。なのにウルヴァリンはいつものマイペース。若手訓練をウルヴァリンのワンマンショーで終わらせては、まるで訓練にならない。怒るストームではあるが、どだいウルヴァリンに「教官」は無理だ。

 確かにウルヴァリンはその任ではない。それでも、かつては指導的立場にいたサイクロップス(ジェームズ・マーズデン)が「心ここにあらず」ならば、ウルヴァリンが出て来ないわけにもいくまい。そう…あの「湖での一件」の後、愛するジーン・グレイ(ファムケ・ヤンセン)を失ったサイクロップスは、まったく「腑抜け」状態になってしまっていたのだ。ふさぎ込み、世をすねたようなサイクロップス。かつての恋敵ウルヴァリンが、ジーンの最後からスッカリ立ち直ったように見えるのも気に入らない。だがウルヴァリンとて人並みに傷ついてはいたのだ。そのあたりがサイクロップスには分かっていない。

 その頃、アメリカ政府はミュータントに対して新しく画期的な政策を打ち出そうとしていた。それを名付けて「キュア」という。開発推進者は、例の大富豪ワージントンだ。

 ミュータント向け特効薬「キュア」を注射すれば、ミュータントという「病気」は完治して「普通」の人間に戻れる。政府はこの特効薬を使って、全国に広がるミュータントたちを抑えようと目論んでいたのだ。だが、今はミュータント省長官として入閣している「X-メン」ファミリーの一人ビースト(ケルシー・グラマー)は、そんな普通人たちの考え方に疑問を感じずにはいられない。

 「ミュータントは治さねばならない“病気”なのか?」

 一方、今日も今日とて問題の湖へとやって来るサイクロップスは、サングラスをはずして目から湖に破壊光線を発射して憂さ晴らし。ところがそれが何かを目覚めさせたのか、湖面に何か不思議な現象が起きたからビックリだ。そして出現したものは…。

 何と死んだと思っていたジーン・グレイが、再びコロッサスの前に現れるではないか!

 しかもサングラスをハズしたら相手に致命的ダメージを与えるはずのコロッサスの眼差しにもビクともせず、彼をひしと抱きしめて口づけるジーン・グレイ…。

 その頃「学園」では、プロフェッサーXやウルヴァリン、ストームらが、何やら強烈なパワーを感じていた。「ジーンだ!」…生きているはずはないが、とにかく感じるのだから仕方がない。早速、ウルヴァリンとストームが現場に急行する。

 彼らが湖までたどり着くと…何やら尋常ならざる気配。サングラスを残して、サイクロップスの姿は消えていた。その代わりにその場に横たわっているのは…やっぱり間違いなくあのジーンだ!

 彼女はなぜ蘇ったのか? そしてサイクロップスはどこに行ってしまったのか…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 僕はブライアン・シンガーのつくってきた前2作の「X-メン」の世界が好きだったから、今回ブレット・ラトナーによってガラッと世界観が変えられてしまったらイヤだ…と内心ヒヤヒヤして見に行ったような次第。

 そんな前2作のイメージは、今回もひとまず守られた

 そのことは、ここでハッキリ言わねばなるまい。オリジナル・メンバーがそっくり維持された事もあるのだろうが、ちゃんと「2」の続きとして映画が機能している。映画のトーンも大事にされている。そういう意味で、この3作目は決して「作らねば良かったのに」というデキにはなっていない。

 キッチリやるべき事はやってあるし、グイグイ見る者を引っ張っていく。見せ場も多い。何よりこの「X-メン」シリーズの根底に流れるテーマを大事にしているのが嬉しい。

 それは例えば手塚治虫が「鉄腕アトム」の「ブラック・ルックスの巻」(1957)で、こんな昔の作品にも関わらず南アフリカで当時行われていたアパルトヘイト政策をハッキリ批判していた(わざわざ南アのケープタウンを舞台にして、ロボット差別を描いている事からもその意図は明らか)事を想起させる。「X-メン」シリーズもまた、その根幹にアメリカの人種差別問題をズバリと置いている。明らかに1960年代にアメリカに吹き荒れた、ブラック・パワーのムーブメントなどを想起させる展開なのだ。あるいはベトナムを思わせる部分もある。そもそもマグニートーのパワーと怒りの原点を、ナチのユダヤ人収容所に持ってきたあたりから、そのリベラリズムへの傾斜は明白だ。「X-メン」シリーズは、元々政治的な作品なのである。

 おそらくその視点は、原作マンガにすでにあったものなのだろう。だが現代に映画化してみると、それはまるっきり色あせないどころか、逆にいよいよタイムリーなモノに見えてくる。他者に対する偏狭な態度や排他的な考え方は、むしろ今の方がひどい。かつては黒人対白人というアメリカ国内問題だったものが、いまや全世界的に民族的な対立や宗教的な対立、政治イデオロギー的対立…と細かく分解しながら蔓延している。「美しい国」なんて言ってる奴に限って、美しくない見苦しい事をやらかそうとしている。ブライアン・シンガーには、そこが分かっていたのだ。だから「X-メン」は見ていてシャレにならないのだろう。

 そんな根幹の部分を受け継いでいるからこそ、この「ファイナルデシジョン」は真っ当な完結編となった。そして、こうも見事に踏襲できたのは、まるっきり「主張のない」ラトナーならでは。まず、その点は認めねばフェアではあるまい。

 映画の最初は「X-メン」側のみんなの心がバラバラで、一体これでどうなるのかとハラハラさせられる。ギスギスした雰囲気…そんなヤバそうな雰囲気の中でいきなりアッと驚かされるから油断できない。アクションはふんだんで見せ場も盛りだくさん。ものすごく多くの要素を盛り込んだ内容なのに、何と上映時間は2時間を切っている。この盛りだくさんの内容を一気呵成に語りきるあたり、ブレット・ラトナーは彼の娯楽映画作家としての最良の資質を見せてくれている。先の前2作で確立した「X-メン」の世界を見事に踏襲している事も含め、ラトナーのブライアン・シンガーに対するリスペクトぶりは好感が持てる。とにかく面白いのは確かだ。

 

見た後の付け足し

 ただ驚いたことに…今度の上映時間105分というのは、確かに2作目の125分よりは短いものの、何と1作目の104分よりは長いのだ。これはかなり意外だった。

 多分、1作目は設定その他から説明しなくてはならないから、今回よりお話の運び方だって今回より慌ただしかったはずだ。ところが印象としては、1作目はかなりゆったり目の「大作」感溢れる出来栄えだったように記憶している。そうなると、どうも体感時間というものは実際の上映時間とは少々違うのかもしれない。そして、長く感じるからつまらないという訳でもなさそうだ。

 何よりこの3作目には、決定的にその「大作」感が欠けているような気がしてくる。

 実際今回の作品では、マグニートーがすごい超能力でゴールデン・ゲート・ブリッジを引きはがしてしまうくだりを見ていて、やっと「これって大作なんだ」と実感する始末。あれほどの圧倒的にスペクタキュラーな映像を見せつけられて初めて、ようやくこの映画の大作ぶりに気づくとは…。

 そう考えると、何となく今回の映画ってどこかちょっと薄味じゃないだろうか。

 たぶんブライアン・シンガーの前2作は、映画が始まってすぐにその「大作感」を何となく実感させてくれたように思う。それは70ミリだシネマスコープだって事とも関係なく、制作費がいくらかという事もエキストラの数が何人って事も関係ない。その作品が元々持っているスケール感とでも言えばいいだろうか。つまりは「格」だ。

 それに対してブレット・ラトナーの演出には、1作目や2作目にあったような“まるでスクリーンのサイズからしてデカいような「大作感」”に欠けているのだ。親しみやすく楽しく退屈はしないものの、何となくあの「重々しさ」に欠けている。

 どうなったのか分からないままサイクロップスを退場させたり、ジーン・グレイがなぜか分からないけれどもとにかく復活したり、プロフェッサーXの死という大変な事件も淡々と流すように描いたり、単独行動が十八番のウルヴァリンのチームワークへの目覚めを素っ気なく描いたり…短い時間にダレずにお話を進行するためとは言え、あまりにトットコと流して展開しすぎやしないか。意味ありげに出てきた翼の生えたミュータントのエンジェルも、たった「あれだけ」のつまんない使われ方ではもったいなかろう。

 特にサイクロップスとプロフェッサーXは、重要キャラクターの割にあまりに粗末に扱われ過ぎた。ましてプロフェッサーXは、永遠の宿敵にして旧友マグニートーの目の前で死んだのだ。もうちょっとそこんとこナントカならなかったのか。

 だからウルヴァリンとジーン・グレイの悲劇的な宿命の対決も、今ひとつ悲壮感が盛り上がらない。二人の思いの丈も伝わって来ないし、泣けるはずの設定がまるで泣けない。アクション、アクションでどんどん見せていくのもいいが、ここは「泣かせどころ」だろう。そういう緩急の付け方ってのが出来ていないのではないか。

 ここで蒸し返すのは申し訳ないが、ブライアン・シンガーにはそんな「大作感」「重厚感」「悲壮感」が確実にあった。それに「娯楽大作」と言えども演出の効かせどころ、緩めどころってものがあった。ブレット・ラトナーはテンポ良く退屈させないようにお話を進めるのは得意だが、その「コク」みたいなモノは決定的に欠けているように思う。面白く描くのはうまいだろう。だがドラマというものは、ただただテンポよくチャッチャカ描けばいいというものではないのだ。そのへんがこの人の限界だろう。これが「完結編」なんだそうだが、そこらへんが何とも残念だ。

 だが、本当にこれで「完結編」なのか?

 サイクロップスってまた再登場しそうな気がしないか? 何だか不透明な退場のさせ方だけに気になる。ジーン・グレイやプロフェッサーXの扱いを見ていると、そういう気がしてならないのだ。

 だとすると、「Xーメン・リターンズ」はブライアン・シンガー監督かもしれないね(笑)。

 

 

 

 

 

 

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