「グエムル/漢江の怪物」

  The Host

 (2006/09/18)


  

見る前の予想

 正直言って最近の韓国映画の新作情報については、僕は決して明るいとは言えない。昔は全然情報も入って来なかったし知りたがる人も少なかったから、結果的に僕が「情報が早い」というようなところもあった。しかし「韓流時代」を迎えた今となっては、他のファンのみなさんの方がまるっきり情報が早い。僕なんかイマドキの韓国の役者さんの名前を聞いても、まるで分からなかったりするから情けない。もっとも韓流イケメン・スターとやらには、元々関心が湧くわけもないのだが(笑)。

 ところがそんな僕も、この「グエムル」の情報だけは珍しく早めに仕入れていたかもしれない。何しろポン・ジュノ監督の新作だ。あの2003年の秋に、ロードショー公開されていたほえる犬は噛まない(2000)と東京国際映画祭で上映された殺人の追憶(2003)を立て続けに見て、とんでもない映画監督が現れた!…と驚愕させられたのは、いまだ記憶に新しい。それ以来、ずっと新作を待ち続けていたのだ。つまらない韓流映画の氾濫の中、この人だけは何かやってくれそうだった。

 そんなポン・ジュノの新作が、こともあろうに「モンスター映画」だと知った時の僕の驚きよう、喜びようを察していただきたい。SF映画好き、モンスター映画好きの僕である。韓国映画も元々好き。ポン・ジュノ映画は大ファン。さらに、主演はフヤけた韓国映画界でも一人快進撃を続ける好漢ソン・ガンホとくる。さらにさらに、「ほえる犬は噛まない」の衝撃的な登場ぶりで映画ファンの脳裏に思い切り焼き付いたヒロイン=ペ・ドゥナが、ポン・ジュノ映画に帰還を果たすというではないか! あの後、子猫をお願い(2001)という傑作にも出演し、その位置は不動のものとなったと思いきや…チューブ(2003)なんて凡作に出演。春の日のクマは好きですか?(2003)も彼女は可愛かったが作品としてはイマイチ。すっかり先行きが怪しくなっていた。ここは彼女を売り出したポン・ジュノ作品に再登板で、再び勢いをつけて欲しいところだ。

 正直言って、これほど見たい要素が重なる映画もめったにない。見るしかない。見ないわけにいかないだろう。居ても立ってもいられず、僕は前売り券まで買った(オマケの「グエニュル」なるオモチャに惹かれたのも確かだが)。もちろん、見たのは初日の第一回上映だ!

 

あらすじ

 事の発端は2000年に遡らねばならない。ここはソウル市内の米軍施設の研究所。米軍所属の科学者(スコット・ウィルソン)が、韓国人の助手にとんでもない事を命じた。この施設でも始末に困っていた、大量の有毒物質を下水に捨ててしまえと言い放ったのだ。

 「漢江という川は大きい。心を広く持とうではないか」

 てな調子で科学者は訳の分からない事を言っていたが、命令は命令。仕方なく韓国人の助手は、大量に残された有毒物質をどんどん下水口に流していった

 時は下って2002年。その漢江で釣りを楽しむ二人の男がいた。そのうちの一人が、川に奇妙な「サカナ」が泳いでいるのに気づく。手持ちのカップでその「サカナ」を捕まえた男たちだが、指を噛まれて驚いた拍子にカップを川に落としてまんまと逃げられてしまう。

 さらに2006年のこと。漢江に架かる橋から今にも身投げしようとしている男が一人。どうも経営に行き詰まった「社長」らしい。部下たちが慌てて止めるために駆けつけるが、「社長」は何やら他のモノに気を取られているようだ。「オマエたち、アレが見えないのか?」

 そうつぶやいた後に、ゆっくりと川に身を躍らせる「社長」…。

 そして今日も漢江はいつもと同じように、ソウルの街のど真ん中を悠々と流れている。何も変わりはしない。…少なくとも、外見上はそう思えた

 そんな漢江の川岸に、プレハブで建てられたシケた売店が一軒。そこで店番をするのは、イイ歳して髪を金髪に染めてはいるが、思いっ切り鈍くさい中年男カンドゥ(ソン・ガンホ)。店番をする…と言えば聞こえはいいが、店の品物にヨダレを垂らさんばかりに居眠りこきまくり。カンドゥの父親で店の主人であるヒボン(ピョン・ヒボン)もこれには呆れて、もはや怒る気力もない。何とかカンドゥを叩き起こして客のためにスルメイカを焼かせるが、これとても足を一本失敬してしまうテイタラクだ。しかも一人娘のヒョンソ(コ・アソン)が帰宅するや、これすら放ったらかしてしまうアリサマ。

 中学生のヒョンソは、カンドゥにとって目に入れても痛くない存在だ。しかも、だらしないカンドゥに似ずしっかり者。カンドゥならずとも溺愛したくなるところだ。

 ちょうどテレビで、一家の長女ナムジュ(ペ・ドゥナ)の試合が始まる。ナムジュはアーチェリー選手で、今日は彼女が出場する全国大会決勝の日だった。早速テレビ観戦をしながら、ナムジュの応援に熱がこもるカンドゥとヒョンソ。

 ところが肝心なところでヒボンに呼び出されるカンドゥ。どうやらカンドゥがイカの足を失敬したのが、客にバレてしまったらしい。そこでカンドゥに缶ビールを持って行って謝れというわけだ。せっかくいいところだったのに…とブーたれながら、テレビの前を離れるカンドゥだった。

 天気に恵まれたこの日…漢江の河原は大勢の人々でにぎわっていた。そんな人々の間を縫うようにして、缶ビールを運んでいくカンドゥ。ところがみんな、なぜか橋桁のほうを向いて騒いでいる。一体何が起きたのか? ついつい缶ビールを持ったまま見に行ってしまうカンドゥ。

 橋桁に、巨大な「何か」がぶら下がっている。

 見た事のない「何か」…どうやら生き物らしい「それ」に気づいて、川岸に野次馬が殺到する。そのうち「それ」はゆっくり川の中に身を躍らせた。「それ」は泳いで泳いで、どんどん川岸に近づいてくる。その不思議な姿にすっかり夢中になったカンドゥは、思わず持っていた缶ビールをそいつに投げつけた。すると、野次馬たちも次から次へとエサでもやるように食べ物を投げつけ始める。ところが…。

 そいつがいきなり水から飛び出してきた!

 そいつの動きは、図体のデカさとは裏腹に敏捷そのもの。慌てて逃げまどう人々はシッポに吹っ飛ばされたりパクリとやられたりで、たちまち犠牲者が続出。こうなると、人々でにぎわう河原はたちまち大パニックだ。そんな中で右往左往するカンドゥ。逃げるばかりの人々の中で、たった一人アメリカ人らしき男が応戦を始めると、カンドゥも及ばずながら助太刀に参上。しかし頼みのアメリカ男までがそいつにやられては、カンドゥも逃げるしかない。

 そんな事になっているとは知らず、ヒボンとヒョンソはテレビ観戦を続けていた。だが肝心のナムジュはここ一番のところで時間をかけすぎて失点。惜しくも優勝には届かない。ガッカリして売店の外に出てきたヒョンソは、何やら外の様子が一変したのに気が付いた。そしてそんな彼女の手を、後ろから突っ走ってきたカンドゥがいきなり掴んで引っ張り回す。ヒョンソは何が何やら分からぬまま、気づいたらカンドゥと一緒に逃げ回っていた。

 だが逃げまどう人の流れに足をとられて転倒。慌てて起きあがったカンドゥがふと気づいてみると、自分が手をつかんでいるのはヒョンソではない別の女の子。慌てて後方を見回してみると…。

 ヒョンソの後ろから、「そいつ」がやって来るではないか!

 アッという声を上げる間もなく、ヒョンソはそいつのシッポに絡め取られて空中へ。そのままそいつは物凄いスピードで河原を突っ走っていく。慌ててカンドゥは追いかけるが、元より追いつくスピードではない。アッという間にそいつはヒョンソをシッポで絡め取ったまま、一気に漢江に飛び込んでしまった。

 カンドゥは唖然呆然。それはまるで、一瞬の白日夢のような出来事だった。まるで「あれ」は夢のような…しかし夢でない証拠に、今この河原は地獄絵図と化していた。

 そして、ヒョンソはいない

 近くの体育館では、「あれ」の犠牲者たちの合同慰霊祭が営まれていた。そこでは河原に居合わせていた人々、そして犠牲者の遺族たちなどが一同に会して、大いに知人や身内の不運を嘆きに嘆く。ヒボンとカンドゥの一家もまた、その体育館でガックリ肩を落としていた。そこに駆けつけたのが、「残念賞」の銅メダルをぶら下げたジャージ姿のナムジュ。さらには一家の中で唯一大学まで出たのに、ドロップアウトした「うるさ方」のナミル(パク・ヘイル)まで登場。ただしこのナミル、やたらケンカっ早いのが玉にキズ。今回もいきなりカンドゥにつかみかかり、ヒョンソが犠牲になったのもカンドゥのせいだと罵る始末だ。「ヒョンソと間違えて他の子の手を引っ張ってたんだって? この大バカが!」

 そんなこんなで久々に集まった一家は、祭壇のヒョンソの写真の前で泣き叫びながらドタバタと絡まり合うようにぶっ倒れてしまう。ところがマスコミ各社は「これぞシャッター・チャンス」とばかりににじり寄って争うように一家のドタバタぶりを撮影。そこでまたナミルが「見せもんじゃねえぞ、コラァ!」とわめき散らすという案配だ。

 そんな合同慰霊祭の場に、防菌服で完全防備の男が入ってくる。この男、何なら後ろめたいのか心苦しいところがあるのか、どうにも落ち着きがない。そして一同に向かって妙なことを言い始める。「あいつに触れたり被害者に触れたり、あいつの体液に触れたりした人は手を挙げてください、さぁパッと!

 そんな言葉が終わる間もなく、慰霊祭の会場に強烈な消毒薬の煙がたかれて防菌服の男たちが乱入してくる。阿鼻叫喚の真っ直中で、カンドゥが余計なことを言ったのがマズかった。

 「あいつの血を浴びちゃったけど…」

 カンドゥの言葉を待ちかまえていたように、防菌服の男たちが殺到してくる。羽交い締めにされたカンドゥは、いずこかに無理矢理連れて行かれるではないか。驚き慌てる家族一同も、一緒に有無を言わさず連れて行かれる。一体どこへ?

 どうも例の「あれ」は、かなり危険なウイルスを持っていたらしい。「あれ」に立ち向かって片腕をもぎ取られたアメリカ人は、そのウィルスに感染していまや虫の息だとか。当然、被害者たちは病院に隔離され、中でもカンドゥは完全防菌状態に置かれる。だがナミルやナムジュは、どうも様子がおかしいと気づき始めていた。「医者たちはマスクも何もしていないぞ、本当にウイルスなのか?」

 カンドゥは検査が必要とかで、メシ抜き状態。それでなくても寝ることと食うことが人一倍好き…というか、ほとんどそれだけのカンドゥにとって、これは耐え難い処置ではあった。だがそんな事もあろうかと、カンドゥは自分たちの売店から、貝の缶詰を一個くすねていたのだ。かくて病室でたった一人、みんなが寝静まった隙を狙って、缶詰の貝をチョイとつまもうとしたその時…。

 ブ〜〜〜ン、ブ〜〜〜ン!

 マナーモードに設定してある携帯電話が、激しく着信を告げているではないか。こんな時に一体誰が…と思いきや…。

 「お父さん? 私、今大きな下水溝の中にいるの。お父さん、助けて…」

 それは死んだとばかり思っていた、あのヒョンソの声だった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 この映画が韓国本国で大評判になり、かつカンヌ映画祭でも大好評を得たことは、海を越えてこの日本にも伝わって来ていた。だが、ポン・ジュノ映画を知っている人間にとっては何ら不思議なことはない

 今や日本での外国映画のマーケットの一角を確実に占める存在となった韓国映画だが、皮肉なことにそうなったとたん凡庸な作品が市場に溢れる結果となってしまった。だがそんな中でも孤高の作家性と幅広い大衆性、質の高さと面白さを併せ持ち、他では見られないオリジナリティーを保持しているのが、このポン・ジュノの映画なのだ。最初に「ほえる犬は噛まない」でアッパーカットを食らったようになり、次いで「殺人の追憶」でそれが決して「奇をてらったようなユニークさ」ではなく、極めて堂々としたメインストリームぶりを持っていることに驚かされた。ともかく、僕はすごい映画作家が出てきたものだと2作の出来栄えに唖然呆然したものだった。

 そんなポン・ジュノがモンスター映画を撮った。元からモンスター映画が好きでSF映画が好きな僕には小躍りしたいくらい嬉しいことだ。しかも韓国映画では怪獣映画と言えば日本の怪獣映画の影響色濃い大怪獣ヨンガリ(1967)とそのリメイク版、SF映画としても最近のロスト・メモリーズ(2001)やナチュラル・シティ(2003)ぐらいしか頭に浮かばない。こういうジャンルは韓国映画では珍しいのだ。だから期待もふくらんだ。

 そしてやっと見ることが出来たこの作品。正直言って興奮した。ブラボーと声を上げたくなった。それくらい、面白くて非凡な作品に仕上がっている。

 何よりこの作品が、モンスター映画をつくっていながら他の映画ジャンルと大差ない「さりげなさ」を保っている事…に改めて驚かされる。それは実際、本来だったら当たり前のことだ。そこにモンスターがいようといまいと、本来だったら恋愛映画や青春映画や文芸映画や政治映画同様に、そこに人々が自然に生きているのが道理だ。

 だが、なぜかモンスター映画はどこか特別でどこかイビツになってしまう。そこがこのジャンルの愛すべき点とも言えるのだが、だからこそモンスター映画は一般的にならないし、メインストリームにもなれない。「モンスター映画はメインストリームになるべきなのか」…という論議はさておき、どこかヘンでも許されていたし、どうでもいいところばかりを重視しなければならないような、歪んだ強迫観念に取り憑かれていた。あるいは、力を入れるべき点を間違えていた。

 それは本来モンスター映画が子供だましだったりゲテモノだったりしていた過去のせいかもしれないし、それを好む人々も作る人々もどこか世をすねて見ている部分があって、ヘンに偏って狭い視野の持ち主ばかりだったからかもしれない。

 そもそもこの日本でも、特撮映画の新作が出るたびに低次元の論争が巻き起こっているではないか。そのへんの事情も、そんなしょうもなさを証明していたように思える。特撮のディティールがどうのとか怪獣のあそこがどうのとか…ハッキリ言って一般のファンから見てどうでもいいような事で、いいトシをしたマニア同士が口からツバ飛ばしながら口論していた。ハッキリ言って、一般人はついていけねえよ。それでいて肝心のストーリーテリングや登場人物の感情の動きの不自然さなどは、大して話題にもされていなかった。そういうのを見ると、このジャンルの映画をマトモに語るのは不毛だな…という気持ちになってしまう。そういう事やってるうちは、このジャンルもダメだなと思わされてしまう。僕はモンスター映画が好きなだけに、取り巻くファンやマニアの不健全な歪みっぷりがこの手の映画をダメにしてしまうようですごくイヤだったんだよね。特に日本には怪獣映画や特撮映画の伝統があるせいか、そういう歪んだマニアがゴマンといる。

 この「グエムル」は、そんなこのジャンルへの回答のように思えた

 「グエムル」は確かにモンスター映画だが、他のモンスター映画のような歪みはない。ちゃんと登場人物の感情の動きが自然に描かれているし、脚本にも無理はない。つまりはマトモでちゃんとした映画なのだ。これがいかに難しいかは、特に「日本映画」のファンならご理解いただけると思う。国土が分断され、どんどん沈没を始めている日本列島で、どこに行ったか分からないはずの恋人の元にホイホイたどり着ける主人公を描いている日本沈没」リメイク(2006)なんか作ってるようでは…あの映画のダメさ加減は、寒い主題歌だけにはとどまらないと思う。

 ホメるべきところは、すでに誰かがホメているから駆け足で語ろう。怖くてゾッとするかと思えば笑っちゃう、悲壮感漂うと思えば力が抜けちゃう。かつて「ほえる犬は噛まない」のオフビートさを受け継ぎながら、何とシリアスな猟奇殺人捜査の映画でもそれを応用してしまったポン・ジュノ監督。今回もその方法論は生きている。

 ドドドッと河原を駆け上ってくる「それ」が勢い余ってスッテンコロリン…ってのは序の口。やたら居眠りこいて弟ナミルや妹ナムジュにバカにされてるカンドゥが不憫と、祖父ヒボンがシンミリと思い出話を語る場面。本来なら観客も含めて「そんな過去があったのか」とジ〜ンと来させるはずが、弟ナミルや妹ナムジュはあまりの退屈さにグーグー。祖父ヒボンが引き合いに出す話もまた実にくだらないので、見ているこっちも笑ってしまう。さらに、あと一発残った弾丸で「それ」を仕留めようと悲壮に決意した祖父ヒボンだが、ふと気づいたらカンドゥの弾の数え間違いで犬死に。その瞬間のスカッと抜けちゃったような…笑っちゃいけないんだけど笑っちゃう脱力感。最後に怒りと悲しみに燃える一家が「それ」を追いつめ、火炎瓶でトドメを刺そうとするナミルが「いざ」という時にこれまたコケてしまうヌケっぷり。この…徹底的に「典型」や「ステレオタイプ」や「凡庸」や「固定観念」で映画をつくらない…というところが、ポン・ジュノ監督の揺るぎない信念なのだろう。

 実際のところ、カッコいい人物がいつもカッコよく振る舞いはしないし、悲しい時だって笑っちゃう事がある。それが実際の人生だし世の中だ。ポン・ジュノ監督の映画がリアルでユニークな感触を持ち得ている理由は、そんな相反する要素をいわゆる「ハズシ」の技法によってうまくすくい上げているからだ。だから、王道にして新鮮。安定感があるのに斬新なのだ。これは余人にはマネの出来ない芸当だ。

 主役を演じるソン・ガンホは、またまた意表を突いた人間像を好演。これはこれでまた、大統領の理髪師(2004)とはひと味違った庶民像を演じきった。徹底的に間抜けで情けなくって…だからこそ、最後に「男になる」くだりがジンと来る。ペ・ドゥナはさすがに「ほえる犬は噛まない」の鮮烈さを取り戻すまではいかなかったが、ラストで弓を引き絞って戦う勇姿には惚れ惚れ。ここ何作かでは一番の出来栄えだ。大卒のドロップアウト男を演じたパク・ヘイルは、「殺人の追憶」で小憎らしい容疑者を演じた男だが、今回はガラリとイメージチェンジしていて驚いた。また「大統領の理髪師」の天才子役イ・ジェウンが、小さい役ながら出てきたのも嬉しくなった。

 だが中でも最もおかしかったのは、祖父役を演じたピョン・ヒボン。この人は「ほえる犬は噛まない」の犬鍋をつくる警備員…と言った方が分かりやすいかもしれない。あの時も夜中じっくり怪談を語るくだりが絶品だったが、今回も同様の「語り」でイイ味を出して笑わせ、一気に場面をさらってしまう。まさに至芸と言っていい。こうした主要キャストのアンサンブルの素晴らしさも、見どころのひとつだ。

 そして今回何より面白かったのは、「モンスター映画」でありながら社会性の強い点。もちろんオリジナル「ゴジラ」(1954)が原水爆反対のメッセージだった事を忘れた訳ではないが、この映画の社会性はそんな「寓意」を超えた具体的なモノだ

 被害者を守ると言いながら、隔離して都合の悪い事を隠蔽しようとする。まだ生存者がいるのに助けようとしない。うるさい奴は口封じをしようとさえする。…こんな社会の在り方が、別にモンスター映画だから描かれる誇張には見えない。ハッキリ現代の韓国社会の「それ」だと見える

 主人公一家が格差社会の「負け犬」たちだというのも見ていればよく分かる。兄貴のカンドゥのダメさは一見すれば事足りる。妹ナムジュはしっかりしているようで、アーチェリー大会でも見られたように「ここ一番」で勝負弱い。弟ナミルが大卒なのに報われていないのは、かつて民主化闘争で派手にやりすぎたツケだろう。彼が常に不満だらけなのも、妙に火炎瓶をつくるのがうまいのも頷ける。実はナミルと一緒に戦っていた奴の中にも、うまく立ち回って一流企業に入り込んだ奴がいるあたりも皮肉だ。そしてそいつは今度もうまく立ち回って、ナミルを当局に売ってオイシイ思いをしようとする。だがその「裏切り者」とて、一見成功者になったようで実は多額の借金に苦しんでいるというあたり、「格差社会」「拝金社会」「唯物主義社会」の行き着く果てをシビアに観客に見せつけてくれる。

 それらはまさに、我々とて他人事ではない。例えどんな理由があってどんな奴であっても、他国で自国民が人質に取られれば国家は何とかしようとするものだろう。だが「自業自得」と言うだけで、自国の国民を助けようとしない国。それを当然と受け入れるだけでなく、モテはやす国民。平気でウソをついて開き直り、弱者はバッサリ切り捨て。勝ちゃいいんだよ…の世の中で、「勝った方」とて本当にイイ思いをしているかどうか。結局はあいつもこいつも都合が悪くなると切られた。最後に残ったのは小泉だけ。

 そういやあの国もこちら同様、ええカッコしいで調子のいい事ばかり言って国民にナショナリズムを煽って操ろうとしている手口がやけに似通っている。

 それは徹頭徹尾、「支配者」だけが都合のいい社会だ。

 社会の最下層の住人のような家族は、政府と警察と米軍…「支配者」たちに追い込まれる。追いつめられて追いつめられて押しつぶされる。だが彼らは、決してやられっぱなしにはならない。この映画の主人公一家が、負けじと「支配者」連中をかき回していくから痛快だ。看護婦を人質に脱出するカンドゥが、米軍キャンプのバーベキュー・パーティーの真っ直中みたいなところで隔離されていたらしいあたりも、何とも皮肉ではないか。

 ラストのラスト…雪の中に建つ例のプレハブの売店で、生き残った孤児の坊やがカンドゥと夕食をとる場面が象徴的だ。テレビはホワイトハウスからの中継らしく、アメリカ軍の要人たちが「手違いだった」とかシラジラしく謝っている。だが坊やは「ご飯に集中!」とテレビなど一顧だにしない。カンドゥなどは「つまんないからテレビ切るか?」と言いながら、何と足で蹴っ飛ばしてテレビの電源を切るのだ。確かに吹けば飛ぶような庶民に「支配者」たちは倒せない。だが庶民には庶民なりの、「支配者」たちへの拒絶があるはずだ。

 それがハッキリ見えてるだけ、僕らより韓国国民の方がマシって事なんだろうか。

 

見た後の付け足し

 ただ…正直に言うと、僕はこの映画にちょっと残念な点がない訳でもない。

 確かにポン・ジュノはいつもの方法論で、映画全体が凡庸な語り口から免れるようにアレコレ心を砕いている。事件が起こるや首相や科学者や軍の首脳といった連中が主役級で物語を仕切るような、古今東西のモンスター映画のルーティンから逸脱させようとしている。家族は一丸となって少女を救おうとするものの、最後まで彼らがヌルい「連帯感」で行動する事はない。心を通わせているかどうかも怪しい。実は予想に反して、最後に彼らが一同に会することもないのだ。だから「家族の再生」物語なんて、これまた手垢のついたありふれた結論にもたどり着かない。

 語られているテーマ的なモノのうち“「政府・米軍」VS「庶民」”という構図だけはかなり鮮明で、これは唯一分かりやすく打ち出されていると言えなくもない。だが、それでも凡百の社会派映画のように、声高に告発される事もない。彼らの悪が暴かれる訳でもなければ、堂々と開き直る訳でもない。何より、彼らは分かりやすい「悪党」の顔を与えてももらえないのだ。

 ポン・ジュノはそんな「いかにも」な結末に、僕らを連れて行ったりはしない。繰り返すが、そのへんがポン・ジュノが凡百の映画作家たちと一線を画しているところだ。アートに偏るわけでなく歪むわけでもない、狭っ苦しい一部の観客たちにだけ受けようとも思っていない、チマッとした作品世界に留まらない健全さと大衆性を持ちながら、世界の一歩先を行く非凡さの表れだ。

 だが、たった一点だけ…。

 「それ」に奪い去られながら生き延びていた少女が、最後の最後に死んでしまうのは、いささか計算違いではなかったか?

 確かにポン・ジュノ映画の「リアル」さを支えているのは、そんな「定石」ハズシだ。最後に少女が助けられて「めでたし」よりも、彼女が死ぬ方が「現実的」ってものなのかもしれない。そして彼女が命を賭けて守り抜いた男の子が生き残り、それをカンドゥが育てる…ということで、「彼女の遺志」はリッパに引き継がれるということなのかもしれない。確かにごもっとも、おっしゃる事は分かる。それに文句をつけるのは、単なるワンパターンの「ハッピーエンド信者」と文句を言われそうだ。

 だが、この女の子は本当にここで死なねばならなかったのか?

 その寸前まで生きていたのに、ここまで引っ張ってきて家族の目の前でわざわざ殺すというあざとい設定はいかがなものだろう。意味があるんだろうか? 僕にはなぜか大きな違和感が残る。ハッピーエンドじゃなかったからではない。それはハッキリ言って主人公たちの感情から言っても、そして実はドラマ設定の面から言っても、それが単なる「犬死に」にしかなっていないからではないか?

 ズバリとキツイことを言えば、ドラマってものの一番下手くそで安易な解決策は、ラストに主要人物を殺す…という処理の仕方だ。テレビでタレ流す2時間サスペンスものを見れば、それがすぐにお分かりいただけるだろう。深刻な事態が発生する物語ならばなおさら、作り手にとって「主要人物の生還」こそ最も困難な道なのだ。つまり様々な障害を乗り越え生還させられればさせられるほど、その語り手は「うまい」。これはたった一つの例外もないドラマづくりの真実だ。

 だからと言って、必ず主要人物を生き残らせなければいけないとは思わない。例えばこの映画でも、祖父のヒボンの死はドラマトゥルギー上で意味がある。一旦、観客を含め主人公たちを意気消沈させ、主人公たちの前にハードルを設けるドラマ展開のために必要だったし、「オマエたちは逃げろ」と合図するヒボンの最後の姿に、家族に対するあふれる愛情が感じられる名シーンになっている。だから、「死」がすべて悪い訳ではない。

 しかし、意味もなく主要人物を死なせるのはいかがなものか

 いや、意味がない…わけではない。ここでの少女の死には、たった一つだけ理由がある。それは…こう言ってしまっては大変申し訳ないとは思うが、ポン・ジュノ監督の「何が何でもオレは凡庸な部分が全くない映画を撮りたい」という作家的エゴの成就のためではないかと思う。少女が助かって怪物が倒されて家族の目的が実現して「めでたしめでたし」…そんな「いかにも」なエンディングにしたくない、他の映画監督とは違う存在でいたい…たったそれだけのために、ポン・ジュノは彼女を殺したように思えてしまうのだ。

 実際、「ありきたりの展開にしない」「典型・定石は徹底的に避ける」…というのは、ポン・ジュノのトレード・マークのようなものだ。それが「ほえる犬は噛まない」や「殺人の追憶」を、他の追随を許さない傑作にした。今回の映画だって、そんなポン・ジュノ・イズムのおかげで非凡な作品になった。そしていかにも頭の中でこさえたのがアリアリな、手垢の付きまくったような凡庸な映画とは一線を画する出来栄えになった。「いかにも」な「作り話」になっていないから、まるで「リアル」な「実感」あふれる映画に見えた。その志や良し。

 だが「ありきたりにしない」ってのは、あくまで物語のリアリティや鮮度を出すための「手段」でしかないだろう。

 今回ポン・ジュノは何が何でも「ありきたりにしない」ことを狙うがあまり、勢い余ってやらなくてもいい事…「少女の死」…までやらかしてしまったように思える。それは、「手段」が「目的」化した一種の主客転倒ではないか?

 今回に限って言えば、それがドラマトゥルギーの上でもたらしたものは、ただ「ありきたりではない」ってことだけのように僕には感じられる。「ありきたりではない」ことを達成するために少々無理にこしらえたような、そんな不毛な設定に感じられる。故に、それは見ている僕の中にむしろ微妙な違和感を与えてしまった。

 それは、あれだけ卓抜したポン・ジュノの手法の、一種の「形骸化」の始まりのようにさえ感じられるのだ。

 そのため…それまで「リアル」に見えていたポン・ジュノ一流の「ありきたりではない」展開が、むしろ「狙いすぎた不自然さ」さえ醸し出したような気がした。だから奥歯でジャリッと砂を噛んだようなイヤ〜な感じが、ほんのわずかながら僕に伝わって来たんじゃないだろうか。

 そう言ってしまっては少々酷だ…とは百も承知だ。あるいは僕がこの映画を読み違えているのかもしれぬ。みんながこの結末に完璧に満足しているのなら、僕が分かっていないだけかもしれない。この映画を全面的に支持する人にとっては、「アレだからいいのに」と言いたいところかもしれない。

 だがひょっとしたら…そこにこの映画の真の「支配者」がはからずも露呈してしまった傲慢さが、チラリと見え隠れしてはいないか。

 

付け足しの付け足し

 ただ、僕が難癖をつけた「少女の死」についての云々も、映画全体から見れば些細なことだ。僕もそれに気づいたのは、映画を見てからちょっと経ってからだ。見た直後などは「ブラボー!」の一言だった。だから言ってしまえば重箱の隅のようなもの。

 それ以外の点には僕はほとんど無条件降伏だし、素晴らしい映画だと思う。いや…ホントに素晴らしい映画だ。快作と言っていい。近来稀にみる、よく出来た娯楽作品と言っていいのではないだろうか。

 ところがこの映画に日本のアニメからの盗作騒ぎが起きているというから、僕もちょっと驚いてしまった。

 その内容については詳しく知らないし、詳しく知りたくもない。なぜかその周辺にアニメ・特撮関係のオタク特有の腐臭みたいなモノが漂っているから、全く関わりたくない。ひとつだけ言えることは、それでこの映画の価値を損なわれると見るのは見当違いだと思うし、どこかスジ違いだということだ。

 この作品全編に流れるオリジナリティーは、間違いなくポン・ジュノ監督ならではのものだ。前2作を見た人間なら、それが疑問の余地のない事だとすぐに分かる。

 どうも今回のケースには、アニメ・特撮オタク、ネット、ナショナリズム…のような、イヤらしさの三大要素みたいなものがベットリこびりついているようなところが我慢ならない。考えてみればオタクもナショナリストも、独善的で排他的で心も視野も狭いところがどこか似ている。だから僕は何ともイヤなんだろう。何だかケチ臭い偏狭さが情けなくてね。

 そして僕がそんな事をふと感じたのも、この映画にあるアメリカ人俳優が出ているのに気づいたからかもしれない。

 その名はスコット・ウィルソン。1942年、ジョージア州アトランタ生まれ。

 ハッキリ言って派手な存在ではない。トルーマン・カポーティ原作の「冷血」(1967)で凶悪犯の一人を演じて注目を集めるも、その後はずっと地味な脇役暮らし。最近ではシャーリーズ・セロン主演のモンスター(2003)で、善人なのにヒロインに殺されてしまう初老の紳士を演じていた。

 そんな彼が「主役」を演じていた映画も、実はわずかながら存在する。ポーランド映画、クシシュトフ・ザヌーシ監督の「太陽の年」(1984)がそれだ。「モンスター」でも同様な事を述べたが…ここでウィルソンが演じたのは、第二次大戦中ポーランドに出征したアメリカ兵士。そこで心にキズを持ったポーランド女と出会い、彼女に惹かれる。彼もまたこの戦争でキズついた男だった…という役どころだ。そんなデリケートな役どころを、ウィルソンは実に細やかに誠実に演じてみせていた。

 そもそも地味とは言え、「華麗なるギャツビー」(1974)や「ライトスタッフ」(1983)など一流映画にも顔を出すアメリカ役者が、金にもならないポーランド映画にわざわざ出ることだけで異例。何でもザヌーシ監督がアメリカに呼ばれてハリウッドのパーティーに出た時に、そこで知り合ったのがウィルソンだったらしい。その時のそれだけの「縁」で、スコット・ウィルソンは「太陽の年」に出演したわけだ。

 そのあたりにも、スコット・ウィルソンという俳優の義理堅さ、誠実さが伺われる。また「映画」と言えば自国の映画以外「映画」じゃないと思っているような単純バカな凡百ハリウッド役者と違って、他の国の映画もフェアに評価できる広い視野の持ち主のように思われる。

 だから「グエムル」の冒頭で、すべての元凶たる憎々しげなアメリカ軍の科学者としてウィルソンが出てきた時…僕はニンマリしちゃったんだよね。

 そして…彼としては縁遠いはずの韓国のモンスター映画で、こんなアメリカの悪を一身に体現するような役がらでも、ほんのちっちゃな役がらでも厭わず演じるあたりに、スコット・ウィルソンの今も変わらぬ器の大きさと心意気を感じる。彼の姿勢は、まったく変わっていないんだよね。

 だからこの作品をご覧になったみなさんには、どうか今後も地味な役者スコット・ウィルソンの動向にぜひご注目いただきたい。そして彼の偏狭さとは無縁の「人間的大きさ」を、ぜひ我々も見習いたいと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 to : Review 2006

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME