「マッチポイント」

  Match Point

 (2006/09/11)


  

見る前の予想

 ウディ・アレンの映画の感想文をここにアップするたびに、やれ「久々の」だの「最近ご無沙汰の」だのという枕詞が必ず付く。実際に、それは本当のことだ。

 特にこのサイトを僕が立ち上げてからは、ウディ・アレン映画をめっきり見なくなった。何しろここに新作としてアップされたアレン作品はたったの3作。セレブリティ(1992)とさよなら、さよならハリウッド(2002)とこの作品だけ。アレンの多作ぶりは変わらないのに、僕はそれらをほとんど見ていないのだ。

 その理由は何度もクドクド言わないが、アレン作品が本来持っている性質によるものが大だ。

 アレン映画は元来「金太郎アメ」だった。

 どこを切ってもどこまでいっても、アレンの顔が出てくる「金太郎アメ」。アレン自身が出演していようとしていまいと、どこか彼の顔が刻印されているような趣がある。要はそんなアレンの刻印が、いささか鼻についてきたというところなのだろう。

 最初は共感もしたしうまいとも思った。アニー・ホール(1977)なんか人ごととは思えなかった。だがアレンもこう「大家」になってしまうと、もはや「共感」の対象ではあるまい。「大家」がダメ男ぶってもイヤミなだけ。こうなると「うまさ」ももはや鼻につくだけだ。

 ところが今回の作品、何とアレンは全面的にイギリスはロンドンで撮影したという。アレンと言えばニューヨーク。そんな彼の意匠ともいうべき街から離れて、アレンはここで心機一転を図るつもりなのか。

 しかも今回、彼は出演していない。確かに「何かが違う」予感がする。僕はそれを確かめに、劇場へと足を運んだわけだ。

 

あらすじ

 アイルランド人のテニス・プレイヤーであるクリス(ジョナサン・リース・マイヤーズ)はプロ生活に疲れ、高級テニス・クラブのコーチの職を得た。

 やがてそこに来る客の一人…いかにも「いいとこの坊ちゃん」風情のトム(マシュー・グード)と親しくなり、彼の家族に紹介される。会社社長の父アレック(ブライアン・コックス)と厳格な母エレノア(ペネロピー・ウィルトン)、そして妹のクロエ(エミリー・モーティマー)…それは貧しい生活から這い上がったクリスにとって、夢のような上流階級の人々だった。

 そしてクリスを一目見ただけで強く惹かれてしまうトムの妹クロエ。そんなこんなで、クリスはトムの家族とのつながりをどんどん強めていく。どんどん接近してくるクロエに、クリスが「いつまでもテニス・コーチをしているつもりはない」と漏らすと、すぐに父親のアレックがビジネス界への転身を打診してくる。むろんそれは、上昇志向と野心を持つクリスの思うツボだった。クリスとクロエの関係は、家族の間では半ば「公然」のものになっていく。

 そんなトムの家族には、クリス以外にも食い込もうとしている「よそ者」がいた。それがトムの婚約者のノラ(スカーレット・ヨハンソン)だ。トムがベタ惚れの彼女に、クリスもまた強い印象を受ける。

 だが彼女は母親エレノアに何とも受けが良くなかった。アメリカ人であること、バツイチであること、職業が女優という不確かなモノであること、しかもその女優業すら軌道に乗っていないこと…などなど、エレノアは何かというとノラを敵視する。クリスが間もなく一家の中に溶け込んだのとは対照的だ。

 だが紛れもなく、彼女はこの連中の中でクリスと同じ「ニオイ」を持った同族だった。そんな共感からかそれとも単に肉欲からか、彼女の存在が気になり出すクリス。

 ノラがエレノアに手厳しくとっちめられた日、ついに二人は一線を超えてしまう

 だがこの後の展開を恐れたノラは、クリスとはこれっきりにしようとした。間もなくトムはノラとの関係を諦めて婚約は解消、彼女の行方は分からなくなった。クリスはクロエと結婚して、ノラとの事はそれっきりとなった…はずだった。

 ところがひょんな事から偶然にもノラと再会を果たすクリス。ちょうどクリスにとって子供を欲しがる妻のクロエが鬱陶しくなってきた頃で、二人の関係はたちまち再燃。こうなると危ない橋と分かっていながら、彼女との肉欲の関係を続けずにいられないクリスだった。

 だが皮肉な事に…あれほど子供を望んだクロエには一向に子供ができそうもないのに、事もあろうにノラが妊娠してしまった。そうなったとたん、ノラのクリスに対する圧力が一気に厳しくなっていく。

 そのあまりの暑苦しさに、息が詰まりそうになったクリスは…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 驚いたことに、見ている間まったくウディ・アレン映画であることを意識しなかった

 見慣れたニューヨークも出てこなければ、「僕ってセンスいいでしょ?」と言いたげなジャズも流れない。アートや芸能に関するウンチクも、どちらかと言うと無教養な主人公に共感している物語だから、鼻持ちならないスノビズムとして扱われて後方に下げられている。何よりウディ・アレン自身の貧乏くさい顔が出てこない(笑)。だからニューヨーカーやら都会人やらユダヤ人やらクリエイターやらの自虐ネタもまったく聞かされない。初めて「金太郎アメ」じゃないアレン映画を見た。ここのアレンは、単によく出来た物語をキメ細かく語っていくだけだ。

 それもお話たるや…「陽のあたる場所」(1951)というかその原作であるセオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」に出てくるような、階級差を克服して這い上がろうとする野心家の青年と彼が犯す犯罪のお話。ある意味では「太陽がいっぱい」(1960)やらそのリメイクリプリー(1999)にも相通じる物語。いわば「古典的」と言ってもいいお話なのだ。これには僕も正直言って驚いた。

 典型とも言っていい物語を語ることに全エネルギーが費やされていて、あの私小説的なテイストは今回一切出てこないのだ。だからウディ・アレンが出演していない…という意味以上に、従来の「彼の顔」が出てこない。これは、彼の映画始まって以来の「事件」ではないか。

 やっぱり僕らが最近彼の映画に辟易しているように、彼自身も煮詰まっていたのだろうか。そうでなければ、ここへ来てこれほど大がかりな刷新はあり得まい。ニューヨークからロンドンへ…という違いは決してダテじゃなかったのだ。

 そんな刷新はキャスティングにも見られる。近年、わざとらしいオールスター・キャストで映画をつくり続けて来たアレンだが、今回はそんな殊更なオールスターの投入はしていない。適材適所、お話がお話だけに英国俳優を中心に質実剛健とでも言うべきキャスティングを組んでいるのだ。

 主役のジョナサン・リース・マイヤーズ「ベルベット・ゴールドマイン」(1998)で頭角を現しながらも少々伸び悩み、近年では何とトム・クルーズの弟分というイメージでM:I:III(2006)などにも出ていてビックリしたが、ここでは実力を十二分に発揮。例えばテッセラクト(2003)などで見せていたような、魅力的なんだけど、どこか「安い」…という個性をうまく活かして好演だ。

 彼の周囲の人物も見事だ。ロスト・イン・トランスレーション(2003)などでいまや旬の女優スカーレット・ヨハンソンアイランド(2005)なんて凡作に出てミソをつけたものの、今回は「ここで会ったが百年目」の女にキッチリなりきってくれた。さらにさらに、印象は地味だが恋の骨折り損(1999)、猟人日記(2003)、ピンクパンサーと近年とにかく売れまくってる英国女優、エミリー・モーティマーもイイ味出してる。善良そのものなのにラスト見事にゾッとさせるあたりの巧みさは、やはりこの人ならでは…だ。さらにはトロイ(2004)などで悪役ぶりばかりが目立っていたブライアン・コックスが、堂々たる英国紳士ぶりを見せるのにはビックリ。こういう役も出来るんだねぇ。

 そんなキャスティングの妙もさることながら、元々その語り口には卓抜したものがあったウディ・アレン。それが「ウディ・アレン自身」から離れた一人の映画作家=語り部に徹したと来れば、やはりその語り口の巧みさは並みのモンじゃないのだ。

 だから前述のごとく「古典的」で「典型」と思っていた物語が、最後の最後に極めてアクロバティックなカタチで絶妙な着地を果たす。これには驚いてしまった。誰がどう見ても「これでラストは底が割れた」…と思っていたのに、こうも見事にうっちゃりかわされるとは思わなかった。

 これは、誰がどう見たって「うまい」と言えるだろう。しかもイヤミとも思えない、ただただ舌を巻かされるばかりの「うまさ」なのだ。

 

見た後の付け足し

 劇中、「人間は運だ」と断言する主人公に、エミリー・モーティマーのイイとこの娘が「いえ、人間は努力よ」と主張するあたりの皮肉は相当にキツイ。

 そう言ってる本人が、何より「努力より運」でオイシイ思いをしている人間なのだ。そんなこんなも含めたこの金持ち兄妹の無自覚さはかなりイタイ。ラストの金持ち娘の強烈な一言は、この女の悪意がないからこそ一層タチの悪い無神経さを際だたせている。

 だが、何と世の中は不平等なことか。哀しいかな…そんな失礼な兄妹にはある「品格」が、主人公とその秘かな「愛人」には決定的に欠けている。潔さとセンスがあるイイ女…と思っていたら、妊娠したとたんそれまで見せていなかった暑苦しさを露わにする女を、スカーレット・ヨハンソンが見事に演じきる。これは本当に人ごとではない。僕もこの「品性」とやらには、ずいぶん苦しめられたからね。

 ラストのオチも苦かった。人の世は所詮「運」だとしても、その「運」の善し悪しだってその人次第。人にとって何が「良いこと」で何が「悪いこと」なのか。僕もつくづくこのトシになって、物事は最後まで見なけりゃ分からない…と痛感している。いや、本当は死ぬまで「結果」なんて分かりはしないのだ。

 素晴らしい語り口の「面白い映画」に過ぎないのに、だからこそ…「人生の機微」に思いを馳せてしまう。従来のアレン作品もうまかったが、ここまでは行き着けなかった気がする。図らずもこの映画は、そんな「うまさ」すら超えてしまった感じがするのだ。

 考えてみればかつて「金太郎アメ」だったウディ・アレン作品は、元々が一介のコメディアンでしかなかった彼なりの、「作家性」のアピールだったのかもしれない。一介のコメディアンじゃなくなりたかったし、そうは見られたくなかったから、彼は「作家の意匠」としての「金太郎アメ」を身にまとったのだろう。あるいはベルイマンだのフェリーニだのと屁理屈こいていたのだろう。ことさらにニューヨーカーの知識人を気取ったりインテリぶったりしたのも、彼なりの必死な「背伸び」だったのかもしれないのだ。

 つまりはここでも「品格」の問題だ。

 そういう意味では、「金太郎アメ」をやめて初めてウディ・アレンが本当の映画作家になれたというのは、この映画を地でいく最大の皮肉かもしれない。

 

 

 

 

 

 to : Review 2006

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME