「愛と死の間で」

  再説一次我愛[イ尓] (All about Love)

 (2006/08/28)


  

見る前の予想

 香港が誇るビッグスターの一人、アンディ・ラウ主演のラブストーリーもの。

 アンディ・ラウと言えばかつてはやたらミーハー人気はあったものの、イマイチ作品は突出したものがなかった。しかし、それも今は昔。特に近年は香港映画の浮沈を賭けた大作インファナル・アフェア(2002)の大成功があったし、チャン・イーモウ作品に登場したLOVERS/謀(2004)はあったし、ジョニー・トー監督、サミー・チャン共演の一連のラブコメ「Needing You」(2000)や痩身男女(2001)も「安定したスター映画」としての楽しさがあった。いつの間にかでっかい存在になっていたのだ。

 そんなアンディ・ラウ主演のラブストーリー。共演は何とチャーリー・ヤンだと言う。チャーリー・ヤンと言えば僕がかつて大好きだった女優さんで、ジャッキー・チェン主演の香港国際警察(2004)で衝撃的な復活を遂げた人。その直後にはセブンソード(2005)にも出ていたっけ。おまけにおまけに…「香港国際警察」にも可愛い婦警さん役で出演していた、アイドル・デュオ「TWINS」の片割れシャーリーン・チョイも出ているという。こりゃちょっとした豪華キャストではないか。

 実は僕はアンディ・ラウの近作でジョニー・トー監督、サミー・チャン共演というベスト・タッグの作品「イエスタデイ、ワンスモア」(2004)を見逃してしまった。ちょいと気になる犯罪モノ「ベルベット・レイン」(2004)も見逃してしまった。こいつは痛い。これら2作は見ればきっと面白かったに違いないのだ。

 だからこそ、今回の映画だけは見逃したくない。

 

あらすじ

 今日も今日とて若手外科医のコウ(アンディ・ラウ)は、超多忙な日々を送っていた。新妻のチーチン(シャーリーン・チョイ)に毎夜のように外に食事に行こうと誘っておきながら、仕事の都合でその約束を果たせない。その夜もチーチンがクルマで病院の駐車場まで出向きながら、コウの仕事が終わらないために足止め状態。結局、夜遅くまで引っ張ったあげくにまたぞろ別件の用事が入り、この日もお流れとなってしまった。

 「また明日ね」

 携帯でそう謝るコウだったが、実はこれですでに数百回目の「明日ね」。それでも努めて明るく駐車場からクルマを出そうとしたチーチンだったが…。

 突然、横から出てきたクルマと激突!

 それから数年。妻チーチンを亡くした「あの夜」を境に、コウはそれまでの生活を一変させていた。

 あの後まもなく病院を辞めたコウは、チーチンの父リョン(ホイ・シウホン)の下で救急隊員として多忙な日々を送っていたが、昔のような公私のけじめのつかない暮らしは一切やめた。定時になるとピタリと仕事を止めて帰宅。彼の同僚(ラム・シュー)も新人たちには、「コウさんは時間にうるさいからな」と念を押すほどだ。

 そんな彼が救急車に乗って仕事から帰ろうとした矢先、目の前で自動車事故が発生。最初は同僚に「とりあえず引き揚げて連絡を待とう」と言っていたものの、何かの虫の知らせか、突然いつもの主義を曲げて現場に取って返す

 大破したクルマの運転席には、ユンサム(チャーリー・ヤン)という女が乗っていた。ところが彼女を救急車に乗せて運ぶ途中で「心臓手術の経験あり」と聞いたとたん、コウの心の古傷が痛み出した。そう言えば「あの夜」、死んだチーチンの心臓は誰かに移植されていたはずだ…。

 ユンサムが収容された病院に、彼女の主治医ホウ(アンソニー・ウォン)がやって来る。そうなるとコウは、このホウ医師に「チーチンの心臓はユンサムに移植されたのか」と問わずにはいられない。ホウ医師はもちろんそれを肯定はしなかったものの、どう考えてもユンサムがチーチンの心臓の持ち主なのは明らかだ。

 そこまで知ってしまうと、コウにはユンサムの動向が気になって仕方がない。退院した彼女の周囲に出没するコウだが、子供の絵画教室などで働く彼女の日常はどこか不幸せそうだ。そしてホウ医師は、彼女の心臓がこれ以上もたない事を危惧していた。

 そんなある日、コウはユンサムの自宅を訪れる。彼女が救急車に置いていった私物を届けるというのを言い訳に、何とか彼女に…彼女の心臓に近づきたいというのが本音。ところがユンサムは不在で、不用心にも扉はカギがかけられていなかった。

 ついつい彼女の家の中に入り込んだコウは、そこで彼女の日記を盗み見てしまうのだが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まず、この映画の題名は「あいとしのあいだで」ではなくて、「はざまで」というらしい。僕は映画館のチケット売り場で言い直されて、ちょっと恥ずかしかった(笑)。そんなのどっちでもええやん。

 無論そんな事はどうでもよくて、とにかく僕はこの映画のキャスティングに狂喜した。もちろんアンディ・ラウ、チャーリー・ヤン、シャーリーン・チョイの3人だけでも豪華なのに、脇に出てくるのはあのアンソニー・ウォン御大ではないか! ジョニー・トーの傑作ザ・ミッション/非情の掟(1999)や「インファナル・アフェア」、そしてあの頭文字<イニシャル>D(2005)での豆腐屋の親父役が何とも素晴らしかった。さらにちっちゃい役ではあるが、「ザ・ミッション/非情の掟」やPTU(2003)、そしてワンナイト・イン・モンコック(2004)でも目立ちまくりの味がありすぎな名脇役ラム・シューまで出てきたのには驚いた。この2人の出演は全く知らなかったので、思わず得した気分になってしまった。

 そして僕としては、この映画に別な意味でも大期待していた。今でこそ恋愛映画と言えば韓流映画が主流みたいな顔して氾濫しているが、正直言ってそれらの大半ははかなり僕にとって食傷気味なもの。ハッキリ言うと、設定があざとすぎてウンザリさせられるシロモノなのだ。今となっては見たくなる作品がどんどん減っている。そんな中、この映画に「一服の清涼剤」的なものを期待してしまったのも無理のないところ。

 そもそも僕にとっては「恋愛映画は香港映画に限る」という気持ちが強い。チョウ・ユンファが何ともイイ味出していた誰かがあなたを愛してる(1987)以来、僕の中での香港恋愛映画の地位は微動だにしない。気取りがなく感情に素直で、見た後で清々しい気持ちになれる。おそらく恋愛映画をつくらせたら、香港映画は世界一なのではないか

 おまけに今回の作品はキャスティングもいいし、この映画はかなり期待できる…と僕は踏んだわけだ。

 その期待は半分満たされ、半分ははぐらかされた…と言うべきだろうか。確かにアンディ・ラウ、チャーリー・ヤン、シャーリーン・チョイの3人はいずれも持ち味を発揮してイイ感じ。映画としてもハッタリやケレンのない好感の持てる仕上がりとなった。

 お話は、妻を亡くして悲嘆に暮れる男がその心臓を移植した女と出会う…というもの。そんな物語が見えてきたあたりで、僕は何となく以前こんな映画を見た事があるなという気分になってきた。

 そう…確かにその映画は存在した。それはデビッド・ドゥカブニーとミニー・ドライバーが主演したアメリカ映画「この胸のときめき」(2000)だ。お話の基本ラインも本作と共通していて、妻を亡くした男が心臓を提供した女と出会って…というお話。その話の骨格だけ見れば「まんま」のように思える。さらに「この胸のときめき」は、誰もが予想する通りに男と心臓を移植した女が恋に落ちる恋愛映画で…っと、おっとっと。ちょっと待てよ?

 確かにアメリカ製恋愛映画「この胸のときめき」とは、途中までの基本的設定がかなり似通っている。

 だが今回の「愛と死の間で」は、果たして「恋愛映画」…なんだろうか?

 

「どこか歪んだ映画」としての魅力

 先に僕は、市場に氾濫する韓流の恋愛映画について「食傷気味」とか「あざとい」と言った。

 そのことについては…たぶん最近の映画を頻繁に見ている人なら、誰もがピンと来るはずだ。何かと言うと「難病」「死別」。そしてラストの「衝撃のどんでん返し」。最初はそのストレートな表現がピュアに感じられたのに、毎回毎回「あんまり」な設定ばかり繰り返すので、さすがに辟易してしまった。

 僕がかつて香港の恋愛映画に感心したのは、何よりその語り口の純朴さゆえ。同じストレートさでも、今の韓流映画は僕には「純朴」とは思えない。コテコテでわざとらしくて作意に過ぎて俗っぽすぎる。すべてを一括りにして言うのもどうかとは思うが、やっぱりそう思えちゃうのは仕方ないだろう。そういや、最近の邦画にもこの手の映画が多かったっけ。そういう映画があってもいいとは思うが、正直言って僕はこういう映画ってあまり好きにはなれない。

 さて…そんな意味で言えば今回の映画も、ちょっとコテコテな設定と言えなくもない。何しろ妻を亡くした男が、その妻の心臓を移植した女と出会う話。しかもその女もまた死を目前にしている。「お涙ちょうだい」ミエミエの設定と言えなくもない。事実、企画段階ではそういう狙いもなかった訳ではないだろう。

 ところがこの映画は、なぜかそっちの「ミエミエ恋愛映画」の方向にはまっすぐに向かっていかない。「死」を売り物に「さぁ、泣いてください」と言わんばかりの設定のはずなのに、その手の韓流恋愛映画(そして邦画の恋愛映画)とはどこか一線を画している。それと言うのも…これって厳密に言うと普通の「恋愛映画」ではないからかもしれないのだ。

 アンディ・ラウの主人公は相手の負担になりたくなくて夫と別れようとしたチャーリー・ヤンの境遇に同情するし、それを自らの至らなかった過去とダブらせて「贖罪」しようともする。その「贖罪」とは、自分がチャーリー・ヤンの元を去った夫の身代わりになって、彼女の最後を看取るというものだ。

 だが…ここが非常に重要な点だが、アンディ・ラウとチャーリー・ヤン本人との間には、どこまでいっても厳密には「恋愛感情」は成立しない。あくまで夫の身代わりになって彼女を喜ばせ、それによって自分も「看取りきれなかった」妻への愛を成就させた気になる…というだけに過ぎない。

 チャーリー・ヤンの中に妻の心臓=ハートが生きている…というのは、ある意味でその言い訳に過ぎないとも言える。この映画は、だからアンディ・ラウとチャーリー・ヤンの恋愛物語にはなり得ない。それは一種の代償行為であり、彼の中だけで自己完結している思いだ。アンディ・ラウはチャーリー・ヤンの夫の身代わりになったつもりかもしれないが、逆の意味でチャーリー・ヤンもシャーリーン・チョイの身代わりに過ぎないのだ。それは最後まで変わらないし…だから彼らには、自分たちが愛していた「夫」や「妻」への不実を働いている葛藤もない。最後の最後まで映画を見ればさらにハッキリするが、彼らの関係はあくまで「虚構」の上での関係でしかないのだ。

 実際この映画って設定では無理に無理を重ねていて、アンディ・ラウが自分の妻の心臓を移植した相手に出会うのもあまりに偶然なら、その女の夫がアンディ・ラウと「瓜二つ」というのもビックリするほど超偶然(笑)。それがなければ成立しない関係ではあるが、笑っちゃうくらい無茶な脚本だ。この点、脚本・監督を手がけたダニエル・ユーの語り口に、問題がないとは言い切れない。

 先程も述べたように、心臓を移植したから彼女の中に妻が生きている…という論法も、どこかアンディ・ラウの主人公が問題をすり替えているように見えなくもない。「すり替え」と言うのが酷ならば、それは…「妄想」と言うべきだろう。それはどこかイビツで歪んでいて、病んだ感情とも思える。

 僕はこの映画を見ていて、昨今の韓流映画や邦画に氾濫する「悲恋」もの「死別」ものとどこか一線を画するものを感じながら、その理由がなぜなのか掴みかねていた。…そして、その代わり何か「奇妙なモノ」を感じてもいた。それが「何なのか」分かったのは、映画がすでに終盤に入ってからのこと。死の床に就いているチャーリー・ヤンを看取っていたアンディ・ラウの元に、もう一人のアンディ・ラウ=チャーリー・ヤンの本当の夫が駆けつけるくだりだ。

 ここでは先にも指摘したように、アンディ・ラウが一人二役で「瓜二つの人間」として登場してくる。それって「ふたりのロッテ」のようなお話以外ではあまりお目にかからない、リアルな物語とはとても言えない非現実的な設定だ。ハッキリ言って「不自然」そのものの設定と言える。

 そして僕はその時、ある一本の有名作品の名前が脳裏に浮かんできた。それはアルフレッド・ヒッチコックの「めまい」(1958)だ。死んだとばかり思った愛する女が、生まれ変わりとしか思えないカタチで男の前に戻ってくる。男はその女にどうしようもなく惹かれていき、かつての女と同じ色に髪を染めさせたりもする…これって好感度抜群のジェームズ・スチュアートが演じているからソレとは気づかれないものの、実はかなり危ないビョーキな男の話なのだ

 実は僕は今回の「愛と死の間で」について、いわゆる「難病」もの「死別」ものの恋愛映画と考えるよりも、ヒッチコックの「めまい」の変奏曲のようなものと考えるべきではないかと思っている。そのくらい、この映画の設定ってどこか歪んでいる。あるいは病んでいる。

 そして、この映画を「歪んでいる」とか「病んでいる」とか評価することは、必ずしもこの映画を貶めたりケナしたりすることにはならないと思う。確かにそんな部分がかなり脚本や設定を不自然なものにはしているものの、同時にあざとくてコテコテで俗っぽい、手垢のつきまくった「難病」「死別」もの恋愛映画になることから免れさせてもいるからだ。そんな凡百の愚作になることから、実に微妙なラインで作品を救っている。だからこそこの映画には、一種独特の不思議な味わいがある。

 しかも、この映画のキズであるはずの脚本の不自然さや設定の無理さ加減も、説得力ある俳優たちの魅力で何とかかろうじて持ちこたえられている。さらにアンディ・ラウが最初にチャーリー・ヤンの自宅に忍び込んだ時の…CGを駆使した過去と現在、幻想と現実が交錯する「デ・ジャ・ヴ」のような場面の鮮やかさ。愛する者や親しい者を突然失った人間にとって、彼や彼女はいまだに本人の中に生きている。それを何より雄弁に物語った名場面だ。これがあるからこそ、不自然さがかなり中和されている。

 そして何より、この映画にはどこか「愛する者や親しい者を失った人間」だけが持つ、切実でリアルな実感が満ちあふれているように思う。そして、それをリアルに再現するとすれば…おそらくどこか「歪んで」いて当然ではないだろうか。「病んで」いない訳があるまい。それが人間というものだからだ。

 ここが前述するような韓流映画や邦画などとこの作品が、ハッキリと一線を画している部分かもしれない。「お涙ちょうだい」で「売らんかな」の作品群の所詮頭の中だけでこねくり回したようなお話ではどうしたって到達できない地点まで、この作品は突き抜けちゃっている感じがあるのだ。それは技術的なことや、語り手が成熟しているのか稚拙かという問題ではない。むしろ、いささか作品のバランスを崩しているかもしれない。だが…作り手はあえてそう言わずにはいられない。

 そんな居ても立ってもいられない「切実さ」が、この作品をユニークなものにしているような気がするのだ。

  

見た後の付け足し

 好演ぶりを見せる主役3人の中でも、当然の事ながら抜きん出ていいのはアンディ・ラウ。新妻シャーリーン・チョイとイチャついている彼も、チャーリー・ヤンの夫として彼女を喜ばす彼も、素晴らしく二枚目で華があるのにイヤミにならない。ポッと出のスターではこうはいかない。「痩身男女」のデブちんメイクをしていた時でも観客の気持ちをグッと惹きつけた、スターとしての魅力がモノをいうのだ。

 特に圧巻なのはエンディング。すべてを承知してダマされていたチャーリー・ヤンが、亡き妻シャーリーン・チョイに成り代わってアンディ・ラウの重荷を解放してやるメッセージのくだりだ。この「幾重にも倒錯した」…とも言える趣向が、観客である我々に与えてくれる不思議な感動もさることながら、メッセージを読んだアンディ・ラウが涙を流しながらも救われていくくだり…黙々とオレンジを食いながら涙をボロボロこぼす彼の表情の刻一刻の変化ぶりたるや、まさに必見と言うに値する素晴らしさ。これぞまさに至芸。

 それは「浄化」というものが目に見えるならあれだろうと思わされるほどの、圧倒的な「絵」になっているのだ。

 

 

 

 

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