「ディセント」

  The Descent

 (2006/08/21)


  

見る前の予想

 今年の春ぐらいから一部の映画館に置いてあった一枚のチラシが、僕にはどうしても気になってたまらなかった。そのチラシによると、女たちが冒険旅行で洞窟探検しているうちに、落盤事故には遭って閉じこめられたあげく、予想外の危険に遭遇するというような映画らしい。いかにもイヤ〜なお話ではないか。監督も主演者も知らない名前だが、こういう映画はかえってむしろその方がいい。公開時期が夏休みというのもピッタリだ。これは見ないわけいかないだろう。

 

あらすじ

 3人の女たちが、ボートで急流下りに挑戦している。無事に急流を乗り切って意気盛んな彼女たち…サラ(シャウナ・マクドナルド)、ベス(アレックス・リード)、ジュノ(ナタリー・メンドーサ)は学生時代からの冒険仲間。岸にはサラの夫ポール(オリバー・ミルバーン)と娘のジェシー(モリー・カイル)が待ち構えていた。ご機嫌のジュノを仲間たちはふざけて川の水の中に突き落とすが、そんなジュノと彼女に手を差し伸べて岸に引っ張り上げたポールとの奇妙な親密さに、妻のサラは気づかない。

 ともかくこの日は現地解散ということで、サラは娘ジェシーと共に夫ポールの運転するクルマに乗って早速自宅へと引き揚げる事にした。ところが、なぜか夫ポールの表情が冴えない。まるで心ここに在らずのポールはハンドル操作を誤り、クルマは対向車線に突っ込んでしまう

 折り悪く前方からやって来たクルマと正面衝突。そのクルマの屋根に乗っていた何本もの鉄パイプが、フロントガラスをぶち破って運転席を貫いた!

 気づいてみると、サラは一人病室に寝かされていた。夫と娘の安否が心配なサラは病室から飛び出すが、誰もいない病院の照明が次々と消灯していくではないか。それはサラの悪夢だった。その場に駆けつけていたベスとジュノに抱きかかえられ、夫と娘の死を知らされるサラ。彼女は半狂乱に泣き叫んだ…。

 それから1年後、アパラチア山脈のこんもりとした林の中を、一台のワゴン車が走っていく。そこに乗っているのは、何とか不幸から立ち直ろうとしているサラとそれを気遣うベスだった。実はあのジュノがサラを励ます冒険旅行を企画し、彼女たちはそこに誘われたのだ。

 やがてワゴン車は林の中の山荘に停まる。そこには先に来ていたジュノと、彼女たちの仲間であるレベッカ(サスキア・マルダー)とサム(マイアンナ・バリング)、さらにジュノが連れてきた若い冒険娘ホリー(ノーラ・ジェーン・ヌーン)といった面々が待っていた。今回の目的地は有名な洞窟。どこか向こう見ずなホリーは「あんな観光地」とバカにするが、一方でサラは未だにトラウマから脱することが出来ず、時折またぞろ悪夢に悩まされていたのだ

 その山荘で一泊した一行は、翌朝目的地に向けて出発。ワゴン車2台で山の中に入っていき、後は徒歩で現地まで。「単なる観光地」と思っていた洞窟は、意外にも奥深い山の中腹にポッカリ口を開いていた。その様子を見た一部のメンバーは、予想以上の秘境ぶりにいささか腰が退けて来る。対照的に若いホリーは調子に乗り始めた。

 ともかくロープをつたって洞窟の中に入っていく一行。中にぽっかりと開けた空間に辿り着いた彼女らは、その思っていた以上の広大さと不思議な美しさに驚嘆しきりだ。

 だがサラはそんな空間の中で、何やら奇妙な物音を聞き取った。胸騒ぎがし始めた彼女はあちこちキョロキョロ見渡すが、「それ」が何かを突き止めることが出来ない。

 そんなこんなしているうちにジュノのリードで、この洞窟の出口をめざす冒険が始まった。ところが、それはいきなり狭苦しく急な洞窟をくぐる難所。しんがりを務めるサラは例の物音の主が気になることもあって、途中の狭い穴でカラダが挟まってしまった。サラを心配したベスは穴に舞い戻って彼女を落ち着かせようとするが、サラはパニクって呼吸困難に陥る。

 それでも何とかその場を乗り切ったとたん、どこからどもなく地鳴りのような音が聞こえてくるではないか。慌ててサラを引っ張って穴から飛び出すベス。間一髪、いきなり落盤が起きて穴はアッという間に塞がってしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはや元の入口に戻れなくなった彼女たちは、その場で自分たちが最悪な状況に陥ったことを悟った。

 出口を調べようにもジュノはガイドブックを持参していない。しかし、そもそもガイドブックがあったとしても、それは役立ちそうもなかったのだ。実はレベッカは何となく事情を察していた。実はこの洞窟は、元々行こうとしていた目的地ではなかった。「単なる観光地」では物足りない…と思ったジュノが、勝手に全く知られていない未知の洞窟にみんなを引っ張って来たのだった。実はここに洞窟がある事さえ、誰にも知られてはいない。従って、いくら待っても救援隊は来ない。

 考え得る最悪の状況に、唖然とする彼女たち。ジュノの身勝手な振る舞いをなじったものの、今さらどうなるものでもない。彼女たちには、もはや道をそのまま先に進むしかなかった。

 すると行く手がいきなり断崖になっているではないか。向かいの続きの洞窟までたどり着くには、岩盤の天上に金具を突っ込んでロープを渡しながら、ぶら下がって何とか進むしかない。そんな先頭を切ったレベッカは、天井の岩盤にすでに古い金具が打ち込んであるのに気が付いた。一体誰がこんなところへ?

 しんがりを務めたのはジュノだが、彼女は用具を一つも無駄に出来ない…と、ぶら下がりながら金具を一つひとつはずして進んだ。だが途中で力尽きて転落。かろうじてロープでぶら下がって難を逃れたものの、一気にロープを引っ張られたレベッカはその勢いで手の平を深く傷つけてしまう。

 ところが今度は行く手に光を見つけたホリーがブチギレ。いきなり「外界だ!」と走り出すからたまらない。周囲が「用心しろ」とか「急ぐな」とか言っているのも聞かず突っ走って、途中のすり鉢状の穴に落ちてしまった。命に別状はないものの、脚は骨が肉を裂いて皮膚から飛び出すほどの複雑骨折。一同は下に降りてホリーの脚に応急処置をするとともに、彼女を上に引っ張り上げようとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところがその最中、またまたサラは何やら物音を聞きつけた。音の主を辿って一同から離れるサラは、途中で古く錆び付いたヘルメットを見つける。そして穴の彼方に、何やら白っぽい人影めいたモノを見かけたのだ。

 ちょうどその時ジュノに声をかけられたサラは、今目にした「人影」の事を告げる。だがジュノもベスも、サラが幻覚を見たと取り合わない。仮にこの洞窟に人が入っていたとして、それは100年ぐらい前のことだろうと言い張るジュノだった。

 ともかく先に進まなくてはいけない。彼女たちは足下に地下水が貯まった場所にたどり着くと、その場に何やら膨大な数のモノが散らばっているのに気づく。ホリーが持参した赤外線レンズのビデオのファインダーで見てみると、それは無数の骨だった。これだけの量があるということは、何者かがここで生き物を「食べて」暮らしているということではないか。

 一同がそう思い当たった瞬間、サラが見つめていたビデオのファインダーに何かが顔を出した!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶対に映画の後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画の舞台としての洞窟

 洞窟…この言葉を聞いただけで、冒険心や好奇心とともにこみ上げてくるイヤ〜な感じ。だがすごくイヤな感じなのに、どうしても好奇心を抑えきれない。考えてみると、こんなに人をワクワクさせる場所もないんじゃないだろうか。僕は子供の頃からプラネタリウムと鍾乳洞には目がなくて、今でも機会があれば行きたいと思っている。もっとも時間がないのでなかなか出かける事も出来ず、その憂さ晴らしのためにつくっている本の中で鍾乳洞を取り上げたりしているわけだ(笑)。

 そんなわけで僕は洞窟が大好きな訳だが、映画でこの洞窟が活かされた作品…と言うと、実はあんまり頭に浮かんで来ない。

 例えばジュール・ヴェルヌ原作の映画化「地底探険」(1959)などは確かに洞窟が出てきて、それなりに楽しませてはくれるのだが、アレを「洞窟モノ」と定義してしまうのはちょっとツライ。あれだけ照明がピッカンピッカンに当たってしまっている撮影では、「洞窟モノ」としての醍醐味は味わえない気がする。むしろSF映画で洞窟の雰囲気を漂わせている点では、僕がビデオで見て「SF映画秘宝館」で取り上げたイタリアの日本未公開映画カルティキ(1959)の方が上だった気がする。メキシコの山奥の洞窟を降りていくと、広大な地底湖と古代文明の遺跡が現れる。ところがクラ〜い地底湖の底から遺跡の守り神・スライム状の巨大生物「カルティキ」が現れて…という映画冒頭の地底の場面が、モノクロ画面の魅力もあってなかなかにいいのだ。洞窟みたいな場所に迷い込む場面なら、例えば「インディ・ジョーンズ」シリーズなどで何度か見たような気もするのだが、やっぱり何か違う。 この「得体の知れなさ」こそが洞窟の魅力なのだ。

 そういう意味で言えば…いわゆる「洞窟映画」ではないのだが洞窟の「得体の知れなさ」をうまく出していたのが、マイケル・マン監督の劇場映画2作目ザ・キープ(1983)。これが、とても後年「マイアミ・バイス」なんかやる人の作品に思えない気色悪さ。第二次大戦中にルーマニアの寒村に乗り込んで来たナチの軍勢が、村に古くからあるナゾの古城に目を付け自分たちの基地にしようとする。ところがバチ当たりなナチ兵士が壁に埋め込まれていた銀の十字架を取り外してしまった事から、古代から封印されていた邪悪な魔物が地底から解き放たれてしまう。スコット・グレン、ユルゲン・プロホノフの他、ガブリエル・バーンイアン・マッケランなど今だったらかなりの豪華キャストの異色作だが、僕が注目したいのは問題の十字架を取り外した場面の直後。壁にポッカリと開いた穴から、ナチ兵士が顔を突っ込んでのぞき込んでみると…下にはとてつもない虚空の空洞が空いており、はるか彼方に過去の遺跡のような構造物が見える。そのとてつもない空洞感こそが、洞窟の「得体の知れなさ」を醸し出していた。惜しむらくは、この映画に巨大な空洞が出てくる場面はたったこれだけ。もうちょっとこの虚空をちゃんと見せて欲しかった。

 あと鍾乳洞ではないが、「穴」の「得体の知れなさ」をうまく出していたのがクリスティーナ・リッチ主演のギャザリング(2002)とオカルト・ヒット・シリーズの「エピソード1」ものであるエクソシスト・ビギニング(2004)。もっとも、これはどっちかと言えば「発掘モノ」という別ジャンルと考えるべきなんだろう。

 そんな意味で、真っ暗な「穴」の怖さを十二分に見せてくれた映画と言うと、僕にはある一本の映画が真っ先に頭に浮かぶ。それはロジャー・ムーア主演の「ゴールド」(1974)だ。南アフリカの金鉱で坑内に大量の水が噴き出す大惨事が起きる話だが、ワイドスクリーンの大きな画面をほとんど真っ暗にして使ったり立体音響を巧みに聞かせたりして、金鉱の途方もない暗さと広大さを表現。映さないことで逆にスペクタクル感を醸し出す「グレート・ブルー」(1988)的発想の大作に仕上がっていた。

 そんなわけで、実は鍾乳洞などの自然洞窟の魅力を活かした映画というのは、意外に数が少ないようなのだ。実は日本映画には渥美清が金田一耕助を演じた野村芳太郎監督の「八つ墓村」(1977)という「洞窟映画」の大作があって、ここでは全編のかなり長い部分を洞窟場面が占めているとの事だが、残念ながら僕はいまだに見ていない。

 そんな中で、僕がかなり「洞窟映画」のムードを出していると思うのは、実はかなり意外な作品だ。それはピーター・ジャクソン監督のつい最近の大作、ロード・オブ・ザ・リング」第一作(2001)。フロドをはじめとする「旅の仲間たち」が、ドワーフ族の住処でもあるモリアの洞窟に入っていく場面だ。ここでは狭い洞窟の中に入っていく怖さは感じられないが、巨大な地下空洞のムードは十分味わえた。

 実はファンタジー作品では僕にはかなりの期待作がある。先日第1章 ライオンと魔女(2005)でスタートした「ナルニア国物語」シリーズだが、原作小説では4作目「銀のいす」の後半の舞台が地底の国なのだ。これが実現したら「洞窟映画」としてかなりの作品になると思うのだが、果たしてどうだろうか。ともかくこの作品が我々の目に触れるのは、まだまだ当分先の話だ。

 というわけで「洞窟映画」をアレコレ振り返ってみると、舞台の大半が洞窟という文字通り「洞窟映画」と言うに相応しい作品は、実はあまり存在していないように思われる。ひょっとすると僕は重要な作品を抜かしているのかもしれないが、それでも「洞窟映画」が極めて珍しいシロモノであることには変わりあるまい。

 そして…その理由はいとも簡単に説明できる。まず洞窟をセットで再現する場合、ヘタに人工的につくったら目も当てられないモノになる。かと言って、実際の洞窟にカメラを持ち込むのは至難の業だ。そこは多くの機材やスタッフ・キャストが容易に入り込める場所ではないし、入れたとしても長居の出来る場所ではあるまい。また、ヘタにライトで照らしたら洞窟の魅力は失われてしまう。しかし真っ暗な闇を活かして見せていくのは、映画としてはかなり難しい。それは夜景とは根本的に違う、底抜けに真っ暗な「闇」なのだ。そんなこんなであまりにハンデがありすぎる。

 なるほど、「洞窟映画」があまりつくられないのも道理というものなのだ。

 

見た後での感想

 そんな訳で「洞窟フェチ」としては期待をせざるを得ないこの作品。実はちょっと前にソーラ・バーチ主演の(2001)って映画が来た時も期待したけれど、実際に見てみたらアレは防空壕みたいな「穴」だったんで本音を言えば少々落胆してしまった。その点、この映画は純度100パーセントの洞窟映画のようだ…と、イヤが上にも期待は高まる。そしてその予想は、決して的はずれなモノではなかった。

 純度100パーセントもいいとこ、正真正銘の「洞窟映画」だ。最初に地底に伸びる裂け目を降りていくあたりから、イヤ〜な雰囲気が漂う。実はこの洞窟に入っていく最初の場面などは、近作タイ映画トカゲ女(2004)の冒頭なんかとイイ勝負のヤな感じ。もっとも「トカゲ女」の場合、その直後からどんどんトホホな方向に突っ走ってしまうのだが…(笑)。ともかくこの最初の部分から、僕はこの映画の成功を信じて疑わなくなった

 そして肝心の洞窟内部にドラマが移ってからは…狭い、暗い、得体が知れない。窮屈な横穴、落盤、行く手を遮る深いクレバス、辺りに染み渡る地下水…と、僕が洞窟に期待するものがすべて入っている。見ていてドキドキした。これで広大な地底の空間や地底湖があれば申し分なかったが、そこまでワガママは言うまい。

 こうした洞窟場面のすべてが、何とスタジオ撮影だと言うから驚かされる。もっともこれが洞窟ロケだとしたら、とてもじゃないが撮影は困難極まりないものになっただろう。ロケ撮影は言わば必然。このようなリアルな洞窟セットをつくった、美術スタッフにはただただ感心するしかない。

 最初のイヤ〜な気分は持続するだけでなく、どんどん加算されていく。状況はますますお先真っ暗に、絶望的になっていく。監督のニール・マーシャルはデビュー作の前作「ドッグ・ソルジャー」(2002)で注目を集めた…という話だが、残念ながら僕はその映画を知らない。ともかくサスペンスの盛り上げ方、気色悪いビジュアルの見せ方…どれをとっても堂々たるものだ。

 サムが恋人からもらったという派手な腕時計から、サラの夫の口癖に至るまで、巧みに張られた伏線の活かされ方も見事なもの。そんな細かい点の工夫から演出のパワフルさまでが、真夏の暑さを一時忘れさせるほどの怖さづくりに貢献している。ハッキリ言って、おそらくズラリ揃った今年の夏休み映画の中でも、この映画の面白さはピカイチと言っていいのではないだろうか。

 実はこの映画、途中でいきなりモンスターものへと変貌してしまってビックリさせられるのだが、それでもキッチリ怖がらせてくれるし、コッケイにもならなければ…ショックのためのショックを用意するような不毛さも微塵もない。だから突然のジャンル変更も「反則」には思えない。少なくとも僕は許せた。

 終盤などはかなり血みどろで、人によっては正視に耐えないであろう場面も連発はするが、それでもこの映画は一部のホラー・ファンの独占物などでは決してない。あくまで映画を見る楽しみに溢れた、見ていて「面白い」作品なのだ。だからいささか突飛な「モンスター」登場によって純粋な洞窟探検サスペンスから映画が逸脱しても、「ダマされた」という気にはならない。手に汗にぎるようなハイテンションが、一瞬もダレずに最後まで持続するのだ。

 ただし、ちょっとだけ意外だったのは…単なる冒険バカンスが死の危険と隣り合わせの極限状態になったのにも関わらず、あまりメンバー内の内紛がオモテに出てこないことだ。

 確かにみんなをダマして未知の洞窟に引っ張ってきたジュノに対しては、みんな一瞬冷たい視線を投げかけはする。だが次の瞬間には、当のジュノが「さぁ、出発よ!」などと元気いっぱいで陣頭指揮。普通これでは済まないだろう。

 しかもその後は危機また危機で、どんどん状況が悪くなる。おまけにジュノはその後も備品を惜しんではずしながらクレバスを渡ろうとしたために、途中で落下してロープを握っていたレベッカの手を負傷させてしまう。にも関わらず、このジュノという女は全く悪びれもしなければ懲りてもいない。その鉄面皮にも呆れるが、周囲の人間がキレないのも不思議。もっともっと彼女たちが一触即発な雰囲気になってもいいはずなだけに、この脚本にはいささか食い足りなさを感じないでもない。実はそんな人間関係の内部崩壊によって彼女たちに危機が訪れれば、彼女たちが狂気にかられてお互いに暴走を始めれば、あんな非現実的な「モンスター」などわざわざ登場させなくても、洞窟だけで怖さは引っ張り出せたはずだ。僕はそんな怖さを期待してもいたのだ。

 また前半部分でいろいろ人間関係のダークサイドをチラチラと意味ありげに見せていただけに、単にジュノという女の無謀と自己過信だけが危険な探険の理由…という処理は、ちょっと単純すぎるような気がする。この洞窟探検には、最初から何か裏がありそうな雰囲気が漂っていた。だからそれだけの事では、いくら何でもつまらない理由ではないか…と思ってしまうのだ。

 そんな訳で…すごく怖くて面白い映画ではあるが、そのあたりがこの映画の脚本としては少々もったいないところかもしれない。

 無論、これだけ大いに楽しませてもらい脅かしてもらいながら、こんな文句をつけるのは「ないものねだり」と言うべきかもしれない。そして、見ている間はそんな事はまったく気にならない。これはあくまで、強いて挙げれば…という事でしかないのだ。

  

見た後の付け足し

 そんなこの映画の終盤に近づいた時、僕はちょっとイヤ〜な気分になってきた。

 それは映画の怖さとしての「イヤ〜な感じ」ではない。何となく映画そのものが、無理矢理「衝撃のエンディング」で終わろうとしているかのように思えたのが、何となくイヤだなぁと思えたわけだ。

 ジュノに「復讐」を遂げた主人公サラは一人洞窟を脱出する事に成功し、停めてあったクルマに乗り込んで逃げ出すように山を下りていく。だが、事がそこまで至っても、何となく観客である僕らが気を許せなさそうな雰囲気。こりゃきっとトンデモナイ「大ドンデン返し」があるぞ…と思わされる、不穏なムードが延々張りつめたままだ。だが、それをあまりにいつまでも長く引っ張りすぎているので、ちょっとあざといなと思い始めた。見ていて何となくイヤ〜な気分になってきたわけだ。まるで「始まる始まる」と引っ張りながら一向に始まらなかった、TBSの亀田タイトルマッチ中継番組みたいなあざとさ(笑)。

 ところが唐突に、亡くなったはずのサラの娘の姿が出てくる。

 それは誕生日のケーキを前にした、それまで何度もサラの悪夢の中に出てきた「娘」のイメージだ。そしてここでようやく、お待ちかねのドンデン返しが明らかになる。

 実はサラは、いまだ洞窟の中にいる。サラが洞窟を脱出したと思ったのは、彼女の妄想でしかなかったのだ。そしてサラは洞窟の中で、なぜか「娘」と誕生日のお祝いをしている。だが、それすら幻であることは言うまでもない。本当のところ彼女は、洞窟の中にたった一人で妄想の虜になっている。

 これはかなり絶望的なエンディングだ。そんな地底の奥深くで、サラはたった一人で妄想に取り憑かれている。周囲には獰猛な「モンスター」たちがひしめいているはずだ。もはや彼女に生還の見込みはないだろう。

 だがそこまで見てきて、僕は不意にこのエンディングに別の意味を見出し始めた

 そう言えば映画の冒頭部分で、すでにサラはさまざまな幻覚に悩まされていた。今回の洞窟行きで山小屋に泊まった時も、一人で幻覚を目にしていた。

 だとしたら…ここまでの洞窟での事の成り行きも、サラの妄想の一環ではないのか?

 確かにラストシーンで一人洞窟に取り残されているサラの場面の背景には、「モンスター」たちにジュノが襲われているおぞましい音が聞こえている。だが、それすらサラの幻覚でない保証がどこにあろう。本当に「モンスター」は存在したのか? 他の女たちを血祭りに上げたのは、本当に「モンスター」だったのか?

 実はそんな「奇妙さ」を、僕はもっと前の時点で薄々気づいてはいた。ずっとオドオドしていたヒロインのサラが、ある時点を境に変貌する…親友のベスを「楽にしてやる」行為の直後からサラが何か吹っ切れたかのように強く逞しくなる場面に、僕は何となく不自然なモノを感じてもいたのだ。確かにあんな状況下の場合、彼女の神経のどこかがブチッとキレて吹っ切れてしまうかもしれない。そうなれば、開き直って逞しくもなろうというものかもしれない。だがそれにしても、いきなりまるで「エイリアン」シリーズのリプリーみたいなムキムキぶり。何だか変だなとは感じていたのだ。

 考えてみれば、しんがりにいて落盤に直撃されかかったのはサラだった。最初に「モンスター」の気配に気づいたのもサラなら、それを目撃したのもサラ。こう考えていくと、すべては彼女の妄想だったと考えられなくもない。

 一番最初に複雑骨折という受難を被るホリーは、怯えるサラを公然とバカにし続けていた。ひょっとしたら親友ベスを「楽にしてやる」というのも、彼女を殺すための言い訳ではなかったのか。夫の不貞を知りながらそれを黙っていた親友を、サラはどこかで恨んではいなかったか。夫の不貞を知らなかったと言ってはいたが、実はサラ自身どこかで気づいてはいなかったか。むろんジュノに対して最後に下す鉄槌もしかり。

 つまりこの惨劇全体が、サラによる復讐だとは思えないだろうか。ならば先にあれこれと挙げた「脚本上の不満点」も、すべて的はずれな指摘と退ける事が可能だ。

 この映画はひどく怖い映画だ。それは、洞窟の得体の知れなさと危険さから来る怖さでもある。また、「モンスター」たちの薄気味悪さや残虐さから来る怖さでもある。しかし最も怖いのは、人間の中に巣くう怒りと妄想…。

 この最後の最後に出てくる場面を見ると、そんな思いを抱かずにはいられなくなるのだ。

 

 

 

 

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