「日本沈没」

  (樋口真嗣監督作品)

  Sinking of Japan

 (2006/07/24)


今回のマクラ

 今「この男」のことをとやかく言ったら、それこそ各方面から総スカンを食らうのだろう。誰あろう、先日引退を表明したサッカーの中田英寿選手のことだ。だから僕のようなサッカー音痴がそこに何か言ったら、詳しい人の神経を逆撫でしてしまうかもしれないし、ましてやファンは我慢ならないかもしれない。だから出来ればそっちの方に詳しい人やファンの人は、ここから先を読まない方がいい。

 ともかく今年のドイツでのワールドカップで、日本は1次リーグ敗退してしまった。

 再三言ってるように正直言って僕はサッカーに詳しくないから、日本がどの程度の戦力か…はよく知らない。正直言って戦前には煽るようなマスコミの無責任報道ばかり目について、かなり辟易していたのも事実。どのサッカー番組にもなぜか吉本のお笑い芸人が解説者然としてふんぞり返っていたのも不愉快で、だからサッカーを取り巻く雰囲気自体が僕は大っキライなのだが、ともかく「いつの間にそんなに強くなってたんだよ日本」…ってな感じで、実はあの大騒ぎぶりに僕は少々シラケてはいた。おまけに初戦相手のオーストラリアのことも、まるでチョロい相手みたいな言いよう。だが、日本ってのはいつも最初に相手を「格下」とかナメたあげく、そういう時に限ってボロ負けしたりしてきたような気がする。何となくそういう「大本営発表」的体質は、ちっとも変わっていない気がするんだよね。結局、日本はクロアチア戦も勝てず、そもそも格が違う相手のブラジル相手に悲壮な戦いを強いられる事になる。そのお先真っ暗ぶりまで、いつかと同じ「大本営」流だ。僕は全然サッカーを知らないからこうした展開が「想定内」のものかどうかも分からないが、それでもあんまりカッコいい結末ではなかっただろう。

 まぁ、そんな生意気な意見を僕みたいなサッカー音痴から聞きたくもあるまい。僕もこのへんで身の程を知って矛先を収めたいと思うが…そんなワールドカップの対ブラジル戦を最後に、中田英が引退した

 僕のような男でもその名を知っているのだ。むろん現在の日本のサッカーの世界では、頂点に立っていた男ということになるんだろう。そのクールかつ…どこか人をバカにしたような言動も、中田を崇拝する人間からすればカッコイイ。バカにされる奴がバカ。そんなヒデの素晴らしさが分かるオレは素晴らしい…って事なんだろう。もちろん僕のような虫ケラのような男に、「世界のナカタ」を云々する資格もあるまい。

 殊更に「孤高の人」を演出するその手法は、別に好きでもない僕には少々鼻白む思いだったが、それでも実力は確かにあるんだろうし、だから特別扱いもされるのだろうと思ってはいた。だが、あの「引退宣言」はな〜んとなくシラケたよね。

 僕は彼が29歳という若さで引退するのも「人それぞれ」だと思うし、それをとやかく言うつもりはない。どっちかと言えば「キング」カズみたいな生き方にこそ僕はシンパシーを感じるが、それはその人の人生だ。それこそ大きなお世話だろう。

 だが、あの「引退宣言」はいただけなかった。あの文章がやたら「おれ」「おれ」と連発してるのも辟易するし、最後の署名を「ひで」と平仮名で書いたのも寒かったが(笑)…それは些細な事だ。僕はその内容こそが引っかかった。少なくともその後半部分…。

 「オレは分かっていた」、「オレは正しかった」、「オレの気持ちはうまく伝わらなかった」、でも「オレは間違ってないと分かった」…ってな事が延々書いてあったように思う。でも、それって何だかなぁ。「オレが分かって」いて、それをみんなに「伝えられなくて」負けてしまったけど、みんなからの「mail(笑)」を読んで「オレが間違ってなかった」と分かった…って内容は、「日本以外全部沈没」じゃないけど(笑)「中田以外全員分かってない」…つまりオレ以外の他の奴らがダメだったって事じゃないのか。

 いろいろカッコいい言葉で粉飾してはいるが、結局言いたいことは…ワールドカップの日本敗退に関して「オレは悪くない」ってことに見えちゃうんだよね。それもちゃんと読めばハッキリ出ちゃってる。悪いけど、とてもじゃないが「孤高の人」の言う事じゃないのだ。むしろ、かなり情けない言い訳に見える。そして「言い訳」がこんなにハッキリ出ちゃうっていうのは、かなりカッコ悪いし男らしくない。僕にはどうしてもそう思えたんだよね。

 だが、世間はそうは思っていないようだ

 さすが「男の美学」とか何とかホメちぎる言葉が延々並ぶ。何でも例の「引退宣言」を教科書に採用する会社もあるようだ。やれやれ…ヘンに偏向した教科書ってのも困るが、そういうイマドキに媚びた作り方ってのもイヤだね。

 ともかく日本国では、中田の引退宣言の「美学」に意義を申し立てられそうもない。あの文章をマトモに読んだら、相当に言い訳くさくて恥ずかしいはずなのだが…。どうして誰もそう思わないんだろう?

 そう考えてみると…あのブラジル戦が終わった後の中田の振る舞いも少々寒い。

 もちろん辞める事を決意していたのなら、万感が胸に迫るだろう。気持ちは分かる…なんて僕のような虫ケラに言われたくもあるまい。だが試合後のピッチの中央で、ブラジル代表と交換した黄色のユニホームで顔を覆って仰向けに倒れたまま…ってのはどうだろう。「男の美学」的には最高にキマった瞬間なんだろうし、ファンにとっては「何でこの中田の気持ちが分からないんだ」…ってところなんだろう。こんな事を書いていると、サッカー・ファンに何かひどい事をされそうだ。

 だけど、誰かホントに彼の「気持ち」が分かる奴なんているの?

 そもそも、世界の注目を集めテレビ中継もされてるワールドカップのその試合後に、ピッチで「思い入れたっぷり」で横たわっている…って構図は、普通に見れば「無意識」の行動ではないだろう。何だかわざとらしいし「秘めた想い」なんざカケラも感じられない。何らかの胸に迫る感慨があったのかもしれないが、正直言って僕はそう思う。ファンと広告代理店向けのポーズみたいに思える。普通に考えれば、これって相当イタイぜ。

 ごめんね、意地悪くって。でも、ある程度トシくってみると、人のホンネが透けて見えてきちゃうものなのだ。

 おまけに、そこにナルシスティックな作為がなかったとしても…な〜んだかイイ歳こいてフテ寝しているように見えなくもない。「な〜んでこの世界のナカタ様がいるチームが負けちまうんだよぉ!」

 そこに加えて例の「オレが悪いんじゃない」的「引退宣言」だ。正直言って僕の中では、この瞬間から中田って「大人げない男」って印象が強烈に焼き付けられてしまった。

 でも、世間ではやっぱり「男の美学」…。

 サッカー・ファンのどれくらいがあの中田の行為を支持し、日本の一般大衆のどのくらいが中田ファンなのかは知らないが、少なくとも「アレってヘンじゃない?」って声が一向に挙がらないところを見ると、中田のあの姿勢を支持する人々が大半を占めていると思うべきだろう。

 「オレは悪くない」を平気で連発して恥じない神経。そしてテレビ中継中のピッチのど真ん中でフテ寝。

 こう言っちゃ悪いが…しかもオレなんかに言われたくないだろうが、ちょっとこれって「幼稚」だとは言えないだろうか?

 まだ20代でアレほどチヤホヤされたら、普通どんな奴でもどこかオカシクもなる。むろん中田は「天才」だろうから僕ら凡人とは違うだろうが、奴だってヘソもあるだろうし角だって生えてはいまい。ならば多少どうかなっちゃうのも当たり前ではないか。生意気盛り育ち盛り(笑)の29歳、そうならない方がおかしい。

 大体「ええカッコ」を一瞬たりとも止めることができない、笑えないしシャレにもならない…ってところからして、いい「大人」のやることではない

 むろん、僕だって人の事を言えるほど「大人」じゃないと白状した上で…だ。

 こんな事を言ってお怒りをいただくのは明らかだろうが、僕は前々から何となく漠然とそんな事を思っていた。それを言っちゃマズイかと思いながら、何となく違和感だけが溜まっていたんだね。そして、結構ボロがミエミエ…。そんな中田のあの程度のセルフ・プロデュース能力で、まんまとみんな丸め込まれちまうってあたり、たぶんみんながすごく「幼稚」になっている証拠じゃないだろうか

 ちょうどそんな頃…この春のWBCで日本代表チームを率いて優勝した王貞治監督が、大げさなポーズひとつ見せずただただ静かに、一人で手術室の中に消えていった…。

 

見る前の予想

 「日本沈没」である。ポセイドン(2006)がリメイクされたら今度は「日本沈没」。森谷司郎監督によるオリジナル「日本沈没(1973)は、今でも僕の脳裏にイヤ〜な感じにこびりついている。そういやこの映画って、かつて松竹で大森一樹監督によるリメイク計画が発表されたはずだ。その時は正直言って「やめた方がいいんじゃないか」と思ったが、結局実現しないまま終わったわけだ。

 そして小泉時代の終わりの今、この大ヒット作のリメイクが忽然と具体化した。まぁ、確かにCG技術が発達した今ならこれをやる意味もある。おまけに監督は平成「ガメラ」三部作の特撮監督を務め、ローレライ(2005)でついに監督デビューを果たした樋口真嗣だ。こうなると見ない訳にはいかないだろう。

 だが、そのうち主演が草なぎ剛(コンピュータでは「なぎ」の字が出ない!)だと聞いて、漠然とした不安に駆られた。だって、前作では何とフェロモンむんむんの藤岡弘が演じていたのだ。その落差が大きすぎる。そもそも草なぎクンでは、こうした骨太な大作の主役には向かないのではないか。

 劇場やテレビで映像の断片を見るようになっても、そのへんの不安は増しこそすれ減る事はまったくなかった。大体、草なぎクンが言う「奇跡は起きます、起こしてみせます!」というセリフも…何だか「ふくろう博士」とかいう学習塾のCFで、塾長の「ふくろう博士」当人が「やる気に、させます!」とか言ってるセリフみたいじゃないか。なんじゃこりゃ。

 それでも、やっぱり僕は樋口監督を信じたい。平成「ガメラ」三部作で、あれだけセンスある特撮を見せてくれた人ではないか。今回も十分勝算あり…と踏んで撮っているに違いない。

 おまけに日本は小泉外交の「成果」で周辺諸国から疎まれ八方ふさがり。アメリカの「犬」になり下がったあげく、食いたくもない牛肉の背骨をエサとしてあてがわれる羽目になっている。しかも新「沈没」公開直前に北の国からテポドンは飛んでくるわ、国連に訴えてもみんなに相手にされないわ…と、国際情勢はあまりにもタイムリー

 そんな緊迫した日本の状況に、一石を投じるインパクトを持ち得るのか?

 

あらすじ

 駿河湾で巨大地震が発生。街は廃墟と化した。

 瓦礫に埋もれたクルマの中から、一人の若い男が這い出てくる。その男・小野寺(草なぎ剛)は前方に呆然と立ちつくす一人の少女の姿を見いだすが、同時に辺り一面にガソリンが漏れだしているのにも気が付いた。このままでは少女が危ない…だが地震の衝撃で全身を打ったのか、思うように身体が動かない。しかも背後から真っ赤な炎が噴き上げて来るではないか。大変だ!

 その瞬間、上空にヘリが飛来。そこからロープでぶら下がった一人のレスキュー隊員が、少女と小野寺を手で掴んでその場から引き離した。

 ドカ〜〜〜ン!

 ガソリンに引火して周辺は火の海。 間一髪、小野寺と少女は難を逃れた。その場にすっくと立ったレスキュー隊員・阿部玲子(柴咲コウ)の勇姿が、小野寺の脳裏に強烈に焼き付く

 一方、総理官邸では何やら秘密会議が行われていた。アメリカの地質学者が呼ばれ、日本周辺の地殻の異変について閣僚たちに説明をしていたのだ。それによると、太平洋プレートの急速な沈み込みによって日本列島は沈没すると言うのだ。それもおよそ40年の間に! これを聞かされた山本総理(石坂浩二)も科学技術庁長官の鷹森(大地真央)も唖然呆然。ただその場に同席していた一人の男だけは、それに納得出来かねる様子。そのモジャモジャ頭の男こそ、地球科学を専門とする田所博士(豊川悦司)だ。彼は胸にある考えを秘めて、一人で調査に乗り出す。

 田所博士が白羽の矢を当てたのは、深海潜行艇「わだつみ6500」。そして、その操縦士の一人がたまたまあの小野寺だった。彼は相棒の結城(及川光博)と共に、どこかエキセントリックな客・田所を乗せて日本海溝の調査に乗り出す。そこで彼らは、明らかに何らかの異変を知らせる奇妙な現象を目撃するのだった。

 そんな小野寺の元に珍しく客が訪れる。それはあのレスキュー隊員の玲子だった。小野寺が彼女に強い印象を持ったように、玲子もまた彼に好意的な感情を持ったようだ。そして玲子は、あの駿河湾地震の際の女の子・美咲(福田麻由子)を、実家に預かっているのだという。美咲はあの地震で父を失い、母も病院で意識不明の重体。そこで玲子の叔母が営んでいる下町のもんじゃ焼き屋で、彼女を預かっているわけだ。そこでそのもんじゃ焼き屋を小野寺も訪ねると、美咲は玲子の叔母(吉田日出子)や店の常連客たちに暖かく見守られ、徐々に明るさを取り戻しつつあった。

 だが、事態は予想以上に深刻だった。田所が個人的に集めてきたデータを入力し、コンピュータで試算してみたところ、とんでもない結果がはじき出されて来たのだ。その結果を見た田所は、思わず激情してコンピュータをブチ壊してしまう。「バカヤロー! ふざけんなー!」

 すぐに、総理を筆頭に閣僚や専門家を集めた緊急会議が招集される。その場で田所博士は、思いっきり熱くなりながら自説をブチ上げた。「あと1年もたたずに日本列島は沈没する!」

 ところがその場に列席の「識者」たちは、そんな田所に冷ややかそのもの。まるで妄想の類とバカにしまくる。これにはさすがに田所博士はブチギレた。

 「黙ってろ、この御用学者が! いいか、それはまず北海道の南部に始まり、次いで九州へ…活断層は次々と割れていき…富士山が噴火したら、日本は一気に沈没しちまうんだぞ!」

 物凄い形相でわめき散らす田所博士は、止めに入る連中をどんどんなぎ倒す。そして最後は山本総理に食いつかんばかりの勢いで訴える。これにはさすがの山本総理も、事の重大さを再認識せずにはいられない

 そこで山本総理は、危機管理担当大臣に鷹森科学技術庁長官を兼任で任命。鷹森は日本沈没の科学的検証である「D1」計画を立ち上げ、田所に参加を呼びかける。だが田所は「検証」などやっているヒマがあったら日本人を救う計画を進めるのが先決だ…と激怒。これには田所のかつての妻だった鷹森も、そのキレやすい性格を改めて思い出して嘆息をついた。もはやこれまで。鷹森は鷹森で田所が使用していた「わだつみ6500」を、「D1」計画のために取り上げてしまう。これには田所も再度激怒だ。

 ともかく1年以内の沈没と決まれば、日本人大移住計画を実行に移さねばならない。山本総理はこの窮状を世界の国家元首にじかに訴えようと、まずは手始めに中国歴訪の旅に出かけることにした。見送りに来た鷹森に、山本総理は「まだ幼い孫には幸せになってもらいたいんだ」と本音をつぶやく。

 だが、その願いも空しいのか…。いきなり北海道南部で大規模な地震が発生。それと同時に九州でも異変が起きて、いきなり阿蘇山が噴火し始める。

 折り悪く、山本総理を乗せた政府専用機は阿蘇山上空を飛行中だった…。

 

旧作「日本沈没」と樋口真嗣監督の「必然」

 旧作「日本沈没」(1973)がどんな作品だったかについては、僕による感想文を参照していただきたい。ともかく1970年代という時代の臭いをプンプンさせていた作品であり、オイル・ショックや公害問題などの時代の混沌を色濃く反映した作品であった事は事実だ。

 そして熱心な邦画ファンではない僕が、中学生時代にわざわざ映画館に見に行った映画というだけでエポック・メイキングな作品だった。何しろ当時の日本映画の興行収入記録を更新した作品なのだ。誰もがみんな見た。原作も凄まじいベストセラーだったが、映画も空前の大ヒット。ともかくみんなが見ずにはいられなかった映画だった。

 さすがに当時の技術には限界があったので、地震などのスペクタクル場面の映像はいかにもミニチュア然としている。だが、その怖さと迫力はまた別の話。僕は内容にいろいろケチをつけていながら、すっかりこの映画がトラウマになってしまった記憶がある

 そして、20年余の時が流れた…。

 それからも邦画のロードショー新作にはめったに足を運ばなかった僕が、ある一本の映画をどうしても見ずにはいられなくなった。それが、金子修介監督の「ガメラ/大怪獣空中決戦」(1995)だ。

 なぜ見たくなったのか、その理由は今となっては分からない。ここで明らかにしなくてはいけないのは、僕が決して子供時代に「怪獣映画」好きだった訳ではない…ということだ。実は僕は子供時代、「怪獣映画」をスクリーンで見たことは一度もない。別に怪獣や特撮を嫌っていた訳ではないが、たまたま切符が手に入る事から東映の「まんがまつり」ばかり行っていて、怪獣映画が東宝の「チャンピオンまつり」に行ったことはなかった。いわんや、どこかクラ〜い大映の「ガメラ」シリーズなど見るわけもない。ずっと大きくなった後でそれらをテレビで見るような機会はあったものの、その時には年齢が年齢で熱心な「怪獣映画」の観客にはなり得なかった。だから僕には、怪獣映画や特撮映画への熱い思い入れがない。テレビで見たアメリカ映画のチャチなSF映画には子供の時から惹かれていたが、日本映画の怪獣や特撮には全く関心がなかった。キライなのではない、興味がないし知らないのだ。

 だから前作の「日本沈没」を見に行ったのも、単純に当時の大ヒット映画を見に行ったのが正直なところ。小説としてのSFは大好きだったので、小松左京の原作は出るとすぐに買った。そうなれば、こりゃ映画も見ないわけにはいくまい。

 そんなわけで平成「ガメラ」の公開にあたって、僕があの「怪獣映画」再び…という気持ちで熱くなったことはあり得ない。それは、僕の足を劇場に向けさせた理由ではない。では、何でこの作品を見に行ったのか? 当時の気持ちを思い出すのは困難だが、おそらくは「これってとてつもない映画かも」…という、一種の予感があったように思うのだ。

 映画ファンには、こういう嗅覚みたいなモノが大切だ。思わぬ拾いモノを見つけるには、こうした「カン」が不可欠。それこそ田所博士が口走っている「直感とイマジネーション」だ(笑)。いつもそれが正しく働くとは限らないし、失望に終わる事もしばしばだが、それだけに予想外の掘り出しモノにブチ当たった時には喜びもデカい。僕が「ガメラ/大怪獣空中決戦」を見終わった瞬間が、まさにそんな気持ちだった。その驚愕ぶりは、今でも鮮明に覚えている.。

 怪獣映画は怪獣映画だが、この作品は「1990年代の日本に本当に怪獣なるモノが登場して街を破壊し始めたら、実際には一体どのような状況になっていくのか?」…という課題を、徹底的なリアリティで具体化していくシミュレーション・ムービーの様相を呈していた。僕はテレビ局ごときが映画製作に関与するのを良しとはしないが、この映画に関しては日本テレビが制作に参加していたのもプラス。テレビ番組のシーンや取材の模様などのリアリティが増して、さらにシミュレーション性が強くなった。そもそも、ミニチュア・セットを野外の太陽光下に持っていった時点で「勝負あった」。太陽光下というだけで、ミニチュアの街や怪獣の映像に格段のリアリティが生じるあたり、これはお金やテクノロジーではないセンスの問題なのだ。その「センス」を持った人が、従来より邦画には少なかったのだろう。

 その平成「ガメラ」で特技監督を務めたのが、誰あろう樋口真嗣なのだ。

 次の「ガメラ2/レギオン襲来」(1996)でも、一種のコンバット・アクションとしての怪獣映画を見せてくれて快調。大いに僕を興奮させてくれた。やがて平成「ガメラ」シリーズが三部作として完結する…という話が伝わって来て、イヤが上にもその「完結編」たる第3作が大いに期待されるモノになってきたわけだ。そして満を持して登場した「ガメラ3/邪神<イリス>覚醒」(1999)は…何とも終末感漂う一作。映画が始まった段階から、どこかイヤ〜な雰囲気が漂っていたのだった。

 時は21世紀を目の前にしていながら、新しい時代の到来よりも今の時代の終わり…の観が強かった1999年。コンピュータの「2000問題」(今となっては何かの冗談のようだし、もうすっかり忘れ去られたモノとなっているが)なんて話題も、「世紀末」を意識させるに十分。そんな不吉な時代の予感に、この「ガメラ3」はピッタリとハマり込んだ。みんなが漠然と感じていたその時のイヤな空気に、「ガメラ3」はものの見事にジャストミートした訳だ。そして、あの衝撃的なエンディング…国宝級の建物も含めて京都の街が紅蓮の炎を上げて炎上する中、満身創痍のガメラが迫り来るギャオスの大群に対して絶望的な戦いを挑んでいこうとするところで幕…という不吉な幕切れを見た時、僕はこの「縁起でもない感じ」を以前どこかで味わっていたような気がしていた。

 むろん、僕はすでに「それ」を一度味わっていた。それは僕が、中学生の時にオリジナル版「日本沈没」を見て感じていたことなのだ。そして、時代が終末感を漂わせていた事も同じ。その「予感」は、世紀をまたいで「9・11」や日本の少子高齢化、格差社会として具体化してしまった。

 そんな今、平成「ガメラ」の特技監督・樋口真嗣が「日本沈没」のリメイク版を撮る

 この両者の「合体」は、ある意味で「必然」のようにも感じられたのだが…果たして出来上がった映画はどのような仕上がりだったのか?

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 正直言って、この映画と前作「日本沈没」とを比べるのは仕方ないにしても、優劣を云々するというのはあまり意味がなさそうだ

 開巻いきなり地震被害が「すでに起きてしまった」場面を登場させるのも、クドクド遠回しにやらず単刀直入にいこう…という一つの方針だろう。確かにこれはこれでドラマとしては「アリ」だ。そして一瞬にして主要登場人物を紹介してしまうストレートさもある。特にこの映画の主役の一人としていささか危惧していた柴咲コウが、実にカッコよく撮られているのは見事だった。もう一方の主人公・草なぎの「一目惚れ」的感情が、理屈抜きで観客に伝わってくる。正直言って恋愛感情を醸成させるだけの尺数を劇中に割くことができないこのカップルの描き方としては、この最初の鮮烈さは極めて重要だったと思う。その意味で、柴咲コウの登場場面は成功しているのではないか。逆に柴咲コウが草なぎにどうして惚れたのか?…については、いささか疑問が残るのだが(笑)。

 さらにこの映画は、「日本沈没」を観客ならびに国家の中枢の人々に納得させる過程を大胆に省略して本題にズケズケ入っていく。まぁ、題名からしてネタバレ(笑)なのだから、遠回しな事をやっても意味がないということか。それはそれで一つの見識だろう。樋口監督としては、どうも前作「日本沈没」からの離脱を意識していたらしいので、こういう作り方も確かに分からないでもない。

 だから、前作を見ていた人間にとってはサプライズが続く。重要な登場人物になりそうだった石坂浩二演じる山本総理が、プロジェクト始動まもなく画面から退場してしまうのもその一つだ。ただし…正直言って僕はその前の場面で、石坂総理が大地真央の鷹森科学技術庁長官を危機管理担当大臣に任命するくだりで語るクサいセリフ「こういう時に政治家に求められる資質って何だと思います? 私は“心”だと思います」…に正直言って退いてしまった。そしてこの石坂総理がどこぞの総理みたいな「ライオン・ヘア」にしているあたりの、お上へのオベンチャラぶりにも辟易。この調子で「決断力ある総理」の理想型みたいに演じられたらかなわないと思っていたので、早々の退場は大歓迎だった。だが、この総理の描き方あたりから…少々この映画の前途の危うさを感じないわけにいかなくなった

 幸いな事に…というか、その後の描写にはそれなりにシビアな現実が反映している。国宝を外国に売り飛ばして自分だけ助かろうとする閣僚などは、行いは軽率とはいえイラクで人質となった「日本国民」を「自己責任」と切って捨てた「連立与党」のアブラぎった悪代官ヅラの某幹事長を彷彿とさせる。あるいは悠々と脱出する「名士」一家をフェンスごしに見つめながら、自分たちは野垂れ死にさせられる一般人の場面…とか。まことに情けない話ではあるが、もはや前作のように国民救出に尽力する政府なんて構図は、例えウソ話でも理想主義でも語る事ができなくなっているのが現実なのだ。アメリカが日本を切って捨てるという設定も「さもありなん」。そりゃ、そう来るのが自然というものだろう。

 ところが…どうも途中から、「脱・前作」という樋口監督の意図が裏目に出てくる

 正直な話、僕は「なかなか頑張っているな〜」と好意的に見ていたつもりだが、途中から何となくモノ足りなさを感じてきた。この映画は前作とは別物で、これにはこれのイイところもあると思ってはいても、何となく「何かが足りない」と思わずにいられなかった。それの最たる部分は…何より地震被害の実際の描き方のヌルさではないか。

 ここでまたぞろ前作を引き合いに出すのもどうか…とは思うが、クライマックスの東京大地震を筆頭にした激しい地震被害の様子が、この物語の「売り」だし「見どころ」でもあり、同時に国土を失う日本人たちの身もだえとも言える苦しみの表現だったはずだ。そして前作では技術的な限界があったカタストロフ描写を、CGの力を借りてどうパワーアップさせるかに期待がかかるところだろう。だが、それらがほとんど出てこない。申し訳程度に多少の被害場面が出てきて、後は沈みかけた各地のランドマーク的風景を絵ハガキ的に並べていくだけ。それじゃ、映画の公式サイトのイラストでも見れば事は足りてしまう。おいおい、こりゃ映画なんだぞ。一体何を考えているのか。

 前作の中盤で完膚なきまでに破壊された東京は、今回最後の最後まで引っ張ったあげく…いよいよ来たかと待ちかまえていたら、すでに無人の街と化していた。そこで渋谷109がボーン、六本木ヒルズがドーンと言い訳程度に倒れてみても、見ているこっちは怖くも何ともない。テレビCFや予告編ではあのショットを盛んに見せているが、それも当然だろう。破壊はアレしかないのだ。予告をつくった人は、見せられる場面がないのに困ったに違いない。

 おそらく樋口監督は、東京大地震などを中心とした「パニック・スペクタクル映画」にしたくなかったというのが本音だろう。地震被害のスペクタクル映像も、被害を受ける人々も克明に描きたくなかったのかもしれない。それでは前作と同じになってしまうと言いたいのだろう。

 だが「日本沈没」という題材を選択した時点で、地震被害を描くのは必然ではないか。他の何を「禁じ手」にするのも勝手だが、「日本沈没」で地震被害を「禁じ手」にして、一体何を描くのか?

 確かに阪神大震災被害者に配慮した…という話はもっともらしく思えるが、それを言うならこんな映画を最初から企画しなければいいだろう(笑)。聞いた風な事を言わないでほしい。これほど偽善的な言い訳もない。ハッキリ言ってこんなみっともない言い訳を言って欲しくはなかった。絶対にそんなものウソに決まってるとバレバレではないか。こんな幼稚な言い訳などせず、もうちょっとマシなウソをついたらどうなのだ。

 で、何となく物足りない…という気持ちを引きずりながら見ていると、途中で映画はとんでもない方向に進んでいく。

 何と、日本列島を沈没させない方法がある!

 それ以降は救出活動とこの沈没阻止活動が平行して進んでいくが、「国土を失って日本人はどうなる?」…という問いかけを発信していた「日本沈没」本来の重たいコンセプトはどこへ行ってしまったのか。折角、八方塞がりの外交、テポドン、国連決議…などのオイシイ材料が揃ったタイミングでの公開なのに、「日本は沈没しませんでした」でいいんだろうか? 大体、日本をどうやって沈没させようか?…よりも、国土をなくした日本人が世界でどう生きていくべきか?…こそが原作者・小松左京の描きたかった事ではないか。前作の意図もそこにあったはずだ。

 いやいやいや、ここは五十歩百歩譲って前作はなかった事にしよう。何も原作に囚われる必要はないし、前作映画と比べなければならない事もない。何も日本が沈まなくてもいい。沈没を阻止するまでの過程がスリリングに描かれれば、これはこれでアリだ。…あまりの衝撃の展開にも、僕は必死にそう思おうと努力はした。そして、そう割り切って見てみれば、確かに「まるで見れない」ということもない。草なぎ演じる主人公の実家の造り酒屋の描写など、この映画に落ち着いたたたずまいを与えていてとても好感が持てる。

 だが、どうしても致命的な部分のミスが目立ちすぎる。前作ではチャチながらも日本政府と世界各国の折衝のシビアさが、ほんの一端ではあるが映画の中に出てきた。今回はそれがまるでない。おまけに大地真央が世界中の深海探査船を必死でかき集めてきたという描写が出て来ながら、それをどうやって調達して来たのかは全く描かれない。本当はこういうプロセスやディティールがこういう映画の命のはずなのに、それはひたすら「根性」の産物として流されてしまうのだ。終盤で草なぎクンが言う「奇跡は起きます、起こしてみせます!」というセリフが胡散臭かったのも、それに何の根拠も裏付けもなくてひたすら「根性」だけだったからだろう。これなら前作の方がよっぽど「邦画のスケールを超えた作品」ではないか。そういう「大人」のロジカルな構成ってものが完全に無視されている。

 しかも「沈没阻止」という大業をせっかく繰り出したのに、そのためのプロセスすらほとんど描かれない。いつの間にか何カ所も爆破地域にセッティングがなされて、最後の爆弾投下だけが描かれる…というあんまりなお手軽さ。この天下の一大事にこれはないだろう。そもそも問題の爆薬「N2爆弾」というのがどんなものかは知らないが、こんな大爆発を日本海溝付近でやらかして世界規模での環境に影響はないのか。誰がどう見たっておかしくはないか。

 確かに最後に草なぎが爆弾投下するくだりは少々スリルのある見せ場にはなっているが、そこまでがあまりにデタラメな描き方だから、映画への貢献度としては疑問を感じてしまう。きっと「アルマゲドン」(1998)みたいな感じにやりたかったのだろうが、元々題材が全く違うのだ。

 テーマの重さやインパクトも、この「日本が助かってしまう」という一点で濁ってしまった。それもちゃんと無傷で助かるわけでなく、チョボっと島々として残る程度の「中途半端」な「日本ほぼ沈没」だ。ちょっとばっかし残すような腰の退けた半ケツ状態の「沈没」なんてシャレにもならない。これならいっそひと思いに沈めちゃったほうが、映画としてはよっぽど潔かったんじゃないか?

 そんな中で何とか楽しませてくれたのは、豊川悦司演じる田所博士のキレっぷり。楽しそうにやってくれて見ている方も嬉しくなったが、「日本沈没」シミュレーションが動いていたコンピュータをテメエでブチ壊すのは、ちょっとお利口に見えないのがやっぱり難点だ。だけど、ちゃんとデータをバックアップ取ってると承知した上でブチ壊してるというのもセコいしねぇ(笑)。

 そういう意味では懸念していた主役カップル、草なぎ剛柴咲コウが割と良かったのは嬉しい誤算だった。僕は「黄泉がえり」(2003)を見てないのでこの二人の共演ってのは「???」だったし、何よりまたぞろ前作を持ち出すのは気が退けるものの、前作で藤岡弘が演じた小野寺を草なぎ…ってところに、いささか不安を抱かないでもなかった。

 だが元々、原作では小野寺ってのはあんなにフェロモン系では描かれていなかった。もっと平凡な男だった気がする。だから草なぎクンでもまるで問題はなかったのだ。

 しかも、その草なぎクンが結構好感が持てる。正直言ってこの主役二人の場面は大半がラブシーンっぽい設定で、どうも樋口監督は恋愛描写が苦手と見えて何とも危なっかしい。見ていてヒヤヒヤさせられる。そんな危なっかしさを、柴崎の達者さと草なぎの自然さ…ほとんど芝居なんか何もしていないみたい(笑)…で何とか乗り切っているのだ。草なぎっていつもこういう芝居を見せるのだろうか?…否、これって芝居してるんだろうか? ただボケっとしてるだけみたいな感じに見えるフツーさがスゴイ。これで柴咲コウがもうちょっとレスキュー隊員っぽければねぇ。ちょっと彼女には無理があるような気がする。

 だがそんな草なぎ関連の場面も、映画が進むにつれてどんどん「沈没」していく。何しろ日本があちこち沈没しかかって、道路も交通機関も寸断され、しかも避難民などの右往左往や自衛隊による通行制限など考え得るあらゆる障害でアクセスが断たれているであろう状況下に、何であんなに草なぎだけが縦横無尽に動けるのか。もんじゃ焼き屋の仲間たちがどこに避難したか、柴咲コウがどこに配属になったか…草なぎは一体どうやってそれを知ったのだ? 知ったとして、どうやってそこに「すぐに」たどり着けたのか? 後で柴咲コウが立ち往生しているもんじゃ焼きご一行をレスキューしに駆けつける場面といい、これって誰もがみんな感じる疑問ではないだろうか?

 そして…ついにやってくれました! 草なぎと柴咲コウの最後のラブシーンの後、爆弾投下のために出動する草なぎを柴咲コウがバイクで追いかけてくる「感動」の場面。そこにベチャ〜ッと現実音なしでかぶせられる主題歌!

 何じゃこりゃ〜っ!

 ヘリの発着場所と柴咲コウの配属されている場所って、そんなに近い距離なのか…なんて事は、もうこうなるとどうでもいいような気がする。この期に及んで長々と別れの場面に主題歌を流す神経についていけない。それまで何だかんだと理由をつけて、自分の中でこの映画の弁護を繰り返していた僕だけど、さすがにここに及んで愛想が尽きた。これには醒めた。ホントに見ていて恥ずかしくなったよ。

 その後で草なぎの潜行艇による爆弾投下作業の場面が続き、そこまでの描き方はともかく一応スリリングな演出を見せているだけに…この別れの場面に主題歌を流すセンスには恐れ入ってしまった。もうこれは弁解の余地はないよ。この映画を見る限りでは、樋口監督ってかなりセンスが悪いとしか言えない。

 このように「脱・前作」をめざした部分はことごとくスカ。それでいて…前作は丹波総理がしゃべっていた「100万がダメなら10万、それがダメなら1万、いや1000人、100人…いや、たった一人でもいい!」というセリフを大地真央に言わせてみたり、前作で渡老人(島田正吾)が異変の前兆として語ったツバメの巣の話を草なぎ演じる小野寺の母親の話に変えてみたり、前作で渡老人が丹波総理に伝えた「日本沈没」を迎えるにあたってのビジョン=「何もせん方がええ」を石坂総理の語る言葉にしてみたり、あるいは前作同様にスーパーインポーズ・タイトルで「この地方には、まだ被害はない」という文言を入れてみたり…そんなオマージュで前作に盛んに色目を使ったりはしているのだ。

 確かにそれはそれで、前作のファンには嬉しいだろう。だがハッキリ言って…そんなくだらない事をやってるヒマがあったら、もっと脚本を練り上げるなどの工夫を凝らしたらどうなんだ。「まだ被害はない」という文言に樋口監督はえらくご執心だったらしいが、そんなオタクなこだわりは何の意味もない。エネルギーを注ぐ場所を完全に間違っている。

 もっともこの映画は、あの別れ場面でのセンスのない主題歌の使い方ですべてがパーになっちゃってるから、もうそんな事はどうでもいいような気もするが…ともかくどこか根本的に映画の作り方を間違えている気がする。樋口監督は好きだし頑張ってもらいたいとずっと思っていただけに、僕は正直言ってかなりガッカリした。本当はこんなに悪口ばっかり言いたくはないよ。

 それでもこの映画、見終わった時には「日本」という国と「日本人」というものの行く末について、ちょっと考えさせられるような感慨がない訳ではない。その意味で、この映画に何らかのインパクトを感じるとも言えるのだが…それっておそらくこの「作品」そのものの内容ではなく、まず「日本沈没」というコンセプトが持つ強力なインパクトの産物という気もするのだ。むしろ映画の内容は、そんな「日本沈没」コンセプトのパワーをどんどん減殺する方向に向かっている気がする。何せこの映画は「日本ほぼ沈没」なんだから(笑)。

 被害の状況もハッキリしなければ救出の状況も行き当たりばったりに見える。移民受け入れのための外交努力も全く描かれなければ、日本沈没回避の手段すらちゃんと描かれない。この映画は本来、日本という国の破滅をリアリズムで描く「シミュレーション・ムービー」であるはずなのに、そこが全く描かれない。「ガメラ」であれほど見事に「シミュレーション・ムービー」づくりの一端を担った樋口監督、一体どうなってしまったのか? ちょっと頭が悪すぎやしないか?

 そんなことを考えるのが面倒くさい…そんな「幼稚」さがどこかに蔓延しているのか。

  

見た後の付け足し

 比べてみるのは意味がないと言いつつ、やっぱりどこかで比べてしまう。例えば、前作で「日本沈没」という未曾有の事態が登場人物の口から語られるのは、映画開始から何とほぼ55分経過後…の東京大地震の直前。ところが今回の作品では、いきなり冒頭から閣僚たちに説明されている。

 このストレートさで思い出すのは、同じ1970年代パニック名作のリメイクである前述の「ポセイドン」だが、この「前置きはともかくいきなり本題」…というのはリメイクゆえの手法なのか、それともイマドキの観客の嗜好を踏まえた作り方なのか。もし後者だとすると、僕はちょっとイヤな気持ちがしてくるんだよね。

 「ポセイドン」ではそれが見事に成功していたので、ドラマの組み立て方としては「これもあり」だとは思う。今回も、確かに「こういう語り口もあり」と言えなくもない。しかし…ひょっとしてイマドキの観客が「理屈はいいから、ともかく日本を沈没させろや」くらいの気持ちしか持っていないとしたら、それは少々いかがなもんだろうかと言いたくもなる。キツイ言い方をすると、それはある意味で「脳ミソの退化」みたいなもんじゃないかと思えるのだ。あるいは、「あまりモノを考えたくない」という志向とでも言おうか。

 そして、そういう世相というか人心をうまく利用して支持を伸ばしたのが小泉氏ということなのだろうか。とりあえず事の善し悪しは置いといて「改革」とか「抵抗勢力」とか言ってれば、みんな言葉の内容も吟味せずついていく…みたいな。そんな頭の悪そうな状況が、ここ数年日本を覆い尽くしていたような気がする。

 この映画がテメエだけ助かろうとする閣僚の姿などで、そんな「小泉日本」の現実をチラリとでも描いたのは、まだマシと言えるかもしれない。前述したように、2006年の時点で前作の丹波総理みたいな描き方をしたら、それこそ目も当てられないことになる。いくら小泉氏に喜んでダマされている愚民でも、さすがに世の中世知辛くなってきた…ぐらいの事を気づかないはずもないのだ。だが、公然とそんな仕打ちをやられているのに支持してしまうイマドキの国民ってのも、どこか「あまりモノを考えたくない」という「幼稚」な部分があるような気がする。

 そして実はこの新「日本沈没」にも、終始「あまりモノを考えたくない」ような作り方が見えるのだ。

 前述のごとく被害状況や救出手段、外交努力から日本沈没回避のプロセスすら「根性」の産物としてしか描けないあたり、この呆れるほどの論理性の欠如はすべて「あまりモノを考えたくない」という「幼稚」さの現れではないか。論理や理屈はいい、もうひとつおまけに頭を使いたくない。それこそがまさに「愚民」のアリサマではないか。この映画の中で日本が沈没する前に、「日本沈没」という映画そのものとその映画の作り手の頭が「沈没」しているような状況は、ハッキリ言ってまったくシャレになってない。

 そしてもう一つ、この映画には気になる点がある。

 最後に日本列島を救うべく、主人公・小野寺は死を覚悟したミッションを実行する。それは最初から生還が不可能な事が明らかな…いわゆる「特攻」だ。

 前述したように、これは「アルマゲドン」の幕切れを意識したものなのだろう。そして実は最近の「ポセイドン」でも同様の設定が登場するから、これを「特攻」だと思うのはあまりに短絡的発想かもしれない。単なる「アルマゲドン」のパクりなのかもしれない。

 だが僕は、この映画と「アルマゲドン」(…と「ポセイドン」)の自己犠牲描写には、明らかに違いがあるように思える。別に「アルマゲドン」の方がいい映画だとか言うつもりはないが、そのメンタリティーの点で厳然とした違いがあると思えるのだ。

 もちろん…「アルマゲドン」と新「日本沈没」は、確かに「大切な人を守るため」に自己犠牲を払うという一点においては共通しているように外見上は思える。

 だが「アルマゲドン」の場合…同じ自己犠牲は自己犠牲でも、主人公の中年男ブルース・ウィリスは「若者たち」を守るために犠牲になる。その前段階として、本当は自分が犠牲になろうとした若いベン・アフレックをブチのめし、その身代わりになる描写が出てくる。「若者は希望であり、犠牲になってはならない」という、ドラマ上の暗黙の了解が存在するのだ。これは奇しくも「ポセイドン」の展開と全く同じで、中年男カート・ラッセルは娘の恋人…つまり「若者」の身代わりとなって自分を犠牲にする…。

 かくも似たシチュエーションが繰り返されるとなると、これは単なる偶然ではないだろう。これが「彼ら」の考え方なのだ。それは確かにそうだ、未来は「若者」のものであり、それが希望なのだ。それを年長者は助けこそすれ、希望を摘むような事があってはならない。無意識のうちに、暗黙のうちに、「彼ら」はそういう価値観を共有しているのだ。

 わが新「日本沈没」では、まだ「若い」小野寺が「大切な人を守るため」に人柱になる。そこでの「大切な人」とは、おそらく恋人の柴咲コウをはじめ、助けた少女とか自分の母親…そうした人々のことだろう。そして、それがいつの間にかコッソリと「国」にすり替えられていく…。この時点で「アルマゲドン」の自己犠牲の持つメンタリティーは、新「日本沈没」の「それ」とは大きく異なる。

 もちろん映画の設定としてはそうならざるを得ない…他に適任者がいないという形をとってはいる。母親や愛する女が国土を離れないと明言してもいる。だが作り手がわざわざそういう話の持っていき方を選んだ時点で、これはすでに作為的なものではないか

 そう考えてしまうことは、何でも曲げて解釈する偏見なんだろうか?

 この映画では自己犠牲は美しい行為として完全に正当化され、まったく疑問を挟む余地がないように見える。いや、一切の反論は許されそうもない。おそらくこの映画を見て、このくだりでマジで感激しちゃっている人だっているだろう。それは…「大切な人のために身を投げ出す」という行為自体は、尊い事かもしれない。感激した人がいたとしても、それをとやかくは言うまい。 …だがこの映画の主人公は、本当に「大切な人」のために身を投げ出したのか?

 そんなムキになるような映画じゃない…ヤボな事を言っているとは百も承知だ。そう分かってはいても、どうしても気になる。

 たぶんそれは「アルマゲドン」や「彼ら」の自己犠牲とは明らかに違う。

 作戦終了の後で大地真央の危機管理担当大臣は、人々の前で声明を発表する。そこで自らを犠牲にした草なぎ(と、その前に非業の死を遂げた相棒の結城=及川光博)にわざわざ言及して、その偉大な行いを大いに称える。だがそれを見ていた僕の気持ちは、何となくすぐれなかった。例えば大臣を女性に演じさせているから、「それ」とは目立たないようにアレンジされてはいる。だが結局のところ、犠牲をエライ人のありがたい演説で持ち上げて…それって戦争中の「肉弾三勇士」みたいな軍国ヒーローの扱いに、どことなく似てはいないだろうか。

 思い過ごしだろうか? 考えすぎだろうか?

 いや…それは「単なる考えすぎ」とは言えないはずだ。なぜなら…草なぎクンの「奇跡は起きます、起こしてみせます!」ってセリフも、精神性ばかりでまったく裏付けがないあたりがどこか「神風吹く!」みたいな戦時スローガンっぽいではないか。

 おまけに「出撃」前夜の場面では、草なぎは柴咲コウに「抱いて」と乞われても、彼女の身体に指一本触れずに去って行く。これって処女性やら貞操をもはや重んじる事のないイマドキでは、何とも不自然で不可解な行動ではないか。どう見たって柴咲コウはヴァージンじゃないだろうし(笑)。だが、これが「軍国英雄」としてのエピソードと考えれば、不自然なストイシズムも何となく納得がいく。

 そんな具合に…またぞろ「大切な人のため」を口実に、「国」を守るための自己犠牲の美化が臭ってくるあたり、どうにも僕には胡散臭くてついていけない。その「国」が日本人や日本の国土や日本の文化なら、確かにそれは価値ある行為だろう。だが、それは常にいとも簡単にすり替えられてしまうものだ。

 「年上の男」たちでなく「若者」が身を捧げるという一点において、新「日本沈没」の選択した結論はこの国のいつかのやり口と無縁であるとは思えない。かつてこの国では、「年上の男」たちが平気で「若者」を死地に送り出していたのだ

 前作「ローレライ」ではやっぱり主人公たちの死を描きながら、それもミリタリズムの渦中の人々を描きながら、「若者」を「希望」として救出していた樋口監督。それだけに、今回の「日本沈没」の出来栄えはとても残念だ。そして「あの樋口監督」でさえ今回なぜかこうなってしまった事に、僕はどこか漠然とした危惧をおぼえる。

 みんなが「あまりモノを考えたくない」という「幼稚」頭になっているうちに、いつの間にか老練で老獪な「年上の男」たちに外堀を埋められていく…そんなイヤ〜な感じばかりが感じられてならないのだ。

 

 

 

 

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