「親密すぎるうちあけ話」

  Confidences Trop Intimes (Intimate Strangers)

 (2006/06/26)


  

今回のマクラ

 「私と付き合ってみる?」

 あの時、そう彼女から言われた僕は、とっさに何と答えていいか困惑してしまった。真意を疑った訳じゃない。本気で何と答えていいか困ってしまったのだ。彼女のことはキライじゃない。むしろ好きな女だ。会うといつも楽しい女だ。性格もいいと思う。彼女は僕を笑わせてくれるし、僕も彼女を笑わせる。大体、もう「付き合ってる」ではないか。お互いで楽しくやっている。何もそう改まらなくてもいいだろう。

 それに、暮らしてる世界が違う…。

 いや、それは言い訳だ。そんな事で困惑したんじゃない。考えすぎとは分かっていても、付き合うって言葉は僕には重い。ちゃんと付き合うとなれば、そうそう楽しい事ばかりではない。今は楽しい男に見える僕も、たちまちメッキが剥げる。すぐに大した男でない事がバレる。オレは向こうが思っているであろうほど、優しい男じゃない。セコいし小心者だしいいかげんで自分勝手だ。実はシャレも通じないし、私生活では冗談もあまり好きではない。面白くもない男なのだ。だから僕と四六時中いたら、ダマされたような気分になってくるだろう。あの感じのいい彼女に、失望を与えたくない。僕は彼女に失望されたくない。そしてガタガタ言われたくない。不当に罵られたくない。今はこんなに楽しいのに、わざわざ悲惨な諍いへの第一歩を踏み出す事はないじゃないか…。

 いやいや、それも言い訳だ。本当は…自分が我慢するのがイヤなんだろう。自分がやりたい事、自分の思い通りの生活が乱されていく。誰かと関わるって事は、そういう事だ。僕は誰かと関わると、どうしてもその人に合わせようとしてしまう。そして自分のペースが乱されてしまう。それが怖いんだろう。都合のいい時に、都合のいい楽しい事だけをする。僕は万事自分に都合よくやりたいのだ…。

 いやいやいや、それも違う。本当は自分でやりたいようにやる生活なんて、ウソだって分かっているのだ。

 とりあえず例を挙げれば…僕は毎週土日には映画を見る。毎週月曜日には自分の映画サイトを更新する。もちろん、それは自分がやりたくてやっている事で望んでいる事だ。そうする事は僕にとって楽しい事だ。

 だが、それは僕が自分で築いた一つのワクでもある。そのうち、それがだんだん窮屈に感じられてもくる。やめたいのか? いや、やめたくない。やめろと言われるのもイヤだし、それをジャマされるのもイヤだ。だが、時としてそれがシンドくなる気もする。自分の主張や自分の希望通りにする事は幸せなはずなのに、だんだん主張や希望の方が一人歩きしてしまう。それらに自分の方が動かされている気もするのだ。だから、何かを口実に生活を変えたいって気持ちもある。女がイヤがってるんで映画は見ませんっていうのも、何となくいいかなと思う。でも、やっぱりそれを乱されるのはイヤだ。そんな事を押しつけてくる女は我慢できない…。

 いやいやいやいや、それは関係ない。彼女に限らず…深入りしなかった女たちには、みんなそれなりの理由があった。誰もみんな、どこか僕に躊躇させるモノを持っていたはずだ

 例えば…映画なんか好きじゃない女だから、彼女は僕の映画好きにイライラしそう。映画が好きだけど妙に気取ったミニシアター映画ばっかり見てる女だから、何かとうるさくってメンド臭そう。映画が好きだけどずいぶんイタイ映画ばかり見てそうな女だから、それに付き合わされるのがイヤだ…。

 いや、映画の事だけならまだいい。おっとりした性格だと思ったら、たまたま子供のしつけの話になった時のキツい目つきが怖かった。本から食べ物から何から何まで僕とは趣味が違う気がする。旅行が好きって言われると出不精の僕としてはイマイチ。可愛くて愛嬌のある女だが、いいトシこいた僕にはあまりに若すぎる。ガミガミうるさくて、もう一人母親ができたみたいでウンザリしそう。努力家すぎて僕には荷が重すぎる。プライベートではいつも親とベッタリらしいのがヤバそう。生理が重い時にはうっとうしいかも。向こうはクルマ好きだが僕はまったく興味がないからなぁ。金銭感覚が違いすぎて、先々うまくいかなくなりそう。人が見ていない時に態度を変える傾向があるのが気に入らない。神経質な彼女の両親とはソリが合わない気がする。着るモノのセンスが良すぎて気疲れしそう。酒が強すぎる。いいトシして満足な化粧もしないって変じゃないか? 何だか過去に派手な男出入りがあったみたいで不安だ。昼間っからあけすけにセックスの話をするな。夜ぐらい少しは大胆になれ。オレはJ-POPとか聞きたくないんだヨ。あいつの友人はどいつもこいつも好きになれない。他にもまだまだ疑ってみれば政治的偏向があるかもしれないし、特定の宗教団体に入ってないとも限らない、浄水器を売ったりしてない保証はない。エトセトラ、エトセトラ…オレはただフツーな女を望んでいるだけなのに、どうしてどいつもこいつも必ずどこか難アリなのか。

 そんな偉そうな事が言える立場かって? もちろんそんなリッパな男じゃない事は分かっている。それでもねぇ…。

 いやいやいやいやいや、やっぱりそれも違う。僕が今まで一度も他者を自分の世界に入れた事がないって言うんだったら、そういう事を考えるかもしれない。だが、僕だって他者と深く関わった事は何度もあるし、中の一人とは結婚しようとしたことさえあるのだ。じゃあ、それが悲惨な終わり方をしたからイヤになったのか? そうだ、そのせいだ…と言いたいところだが、断じてそうじゃない。そのせいではないな。それはそれで、得るモノがあったと思っているからね。そんな事のせいではないはずだ。むしろその時には「よくあそこまで他人に合わせてたな」…と、自分に感心していたものだった。だから、そんなつまんない理由ではない。

 そうだ。思い出した。

 ひょっとしたら、このせいかもしれない。僕は他者を受け入れようと思ったら…女を受け入れようと思ったら、たぶんそのすべてを受け入れようと思うのだ。それが「身内になる」という事だろう。女を受け入れる事は、その女を信用しなくては出来ない。それは僕にとって「身内」になるという事と同じだ。女に限らず人を信用するのは、僕にとっては一大事なのだ。

 僕はある女を「身内」だと思って受け入れた。身内だから多少のことは大目に見たし、納得出来かねる言動にも目くじら立てなかった。親兄弟や親友が多少気に入らない事を言ったりやったりしても、それだけで縁切りなどはしないだろう。それと同じだ。「身内」は切り捨てられない。

 それはリスクがあるし、ひどく消耗もする。実際そんな関係を維持するのも、それを断ち切るにもダメージは大きかった。だとすれば、そうはめったに「身内」はつくれまい…。

 いやいやいやいやいやいや、それもやっぱり違う。そういう事を多少気にしているのかもしれないが、それがすべてじゃない。きっとそれ以外の何かがあるはずだ。それって何だ? 単に自分の生活に一石を投じること、自分の人生に何か変化が起きること…そんな事に漠然と不安を感じているのか。誰か新しい人間を自分の世界に受け入れるという事は、そんなに僕にとってプレッシャーなのか。

 だが、どうなんだろう? 僕が困惑した理由は、ここまでダラダラと挙げた理由のどれでもないような気もする。それとも、これらすべてが理由なのだろうか?

 ともかくテメエ勝手な言い分と言われても仕方がない事は、十分承知している。自慢できる事ではないとも思っている。だが、ウソ偽りのない答えを求められれば、たぶんこのへんのところだろう。恥ずかしい話だが、本当の話だ。

 「私と付き合ってみる?」

 そう言った彼女に、僕は何とも曖昧で無難な言葉しか返さなかった。「それも悪くないな」

 そんな僕の言葉に、彼女は答えなかった。その後、「付き合う」事に関して彼女はもう何も言わなかった。笑える会話があっただけ。楽しい時を過ごしただけだ。

 そういえば、思わず僕がドッキリした別の女の言葉を思い出した。それはもっと以前の話。その女も、とても楽しい女性だった。ところがたまたましばらく会う機会がなく、ほぼ一ヶ月ぶりぐらいで顔を合わせた時に、彼女は笑いながらこう言ったのだ。

 「捨てられたかと思っちゃった」

 捨てる捨てない…なんてウェットな事を口にするような女じゃないと思っていたし、そんな間柄じゃないと思っていたから驚いた。僕の事をそういう風に見ていたとも思えなかった。冗談にしてもあまりに意外な言葉だった。だから僕は、何も答える事が出来なかった。その場はそれでオシマイ。楽しい時を過ごした。だが彼女と会ったのはそれが最後。それから間もなく、彼女とは連絡が取れなくなってしまった。

 その事を、僕は別に後悔はしていない。僕の対応がマズかったせいなのかどうかも分からない。だが、今でもひとつだけ腑に落ちない事がある。

 僕はどうしてとっさに彼女の言葉に答えられなかったのか。なぜ言葉に詰まったのか。「捨てたりなんかしない」と、何も考えずにそう言えばいい事ではないか。別にそれで責任が生じる訳ではない。ウソでもいいからそう言えば良かったのだ。僕は一体何を恐れたのか。

 そして「私と付き合ってみる?」と言われて、僕はどうして困惑したのか?

 

見る前の予想

 いまやフランス映画と言えばリュック・ベッソンとフランソワ・オゾンとパトリス・ルコント。冗談抜きで日本では今そうなりつつある。一時はミニシアター・ブームで玉石混合な作品群が映画街に溢れたのに、気づいてみればいつの間にか…フランス映画と言えばアラン・ドロンと「エマニエル夫人」という時代と五十歩百歩。どうしてこうなっちゃったのかねぇ。

 ただ、日本におけるフランス映画が再び不毛な状態になった今日、彼らの映画だけがコンスタントに入って来る理由は…ベッソンとオゾンはともかくルコントに関してだけはハッキリ分かる。何しろこの男の映画はホントに面白いのだ。フランス映画じゃセドリック・クラピッシュ、フランシス・ヴェベールと並んで作品にハズレなし。前作の列車に乗った男(2002)だって実に素晴らしかったではないか。しかも今回の主役二人、サンドリーヌ・ボネールとファブリス・ルキーニという顔合わせも気になる。これは理屈ではない。見るしかないだろう。

 

あらすじ

 その女(サンドリーヌ・ボネール)は早足で建物に入ると、1階の管理人のオバサンに精神科医モニエ先生の部屋がどこにあるかを訊ねて、そそくさとエレベーターに乗り込んだ。教えられたフロアにやって来ると、ちょうど部屋から客が出てくるところ。その部屋の主である男(ファブリス・ルキーニ)は、やってきた彼女を何の疑いもなく中に招き入れた。

 彼女は部屋に置いてある長椅子に腰掛けると、いきなり夫婦問題について語り始める。それもデリケートで個人的な問題だ。足にケガをして以来、夫が彼女に触れようとしない…そんな冷え切った関係だと訴えるのだ。唖然とする男に言いたい事だけ言うと、女は次回の「予約」をしてサッサと部屋から出て行ってしまう。

 だが彼は…残念ながら精神科医ではなかった

 モニエ先生と同じフロアに事務所兼自宅を構える税理士のウィリアムがその正体。たまたま間違って彼女が部屋に入り、彼も間違いに気づかなかったためにこんな事が起きてしまった。しかも「予約」までされた。それが間違いと分かっても、名前も連絡先も知らないから知らせる事ができない。

 そんな顛末を、ウィリアムは元妻のジャンヌ(アンヌ・ブロシェ)に打ち明ける。というのも、彼には他に話し相手がいないのだ。むろん彼女とは別れてしばらく経っているし、彼女には新しい恋人もいる。この恋人というのが脳ミソまで筋肉みたいでデリカシー・ゼロ。親しくしたつもりもないのに慣れ慣れしいのが腹立たしいが、それはともかく…ジャンヌにはからかわれたあげく、「次に来た時にホントの事を教えてあげなさい」ともっともな助言をされる。

 さて、ドキドキして待ちかまえていた「予約」の日。やってきた彼女にホントの事を打ち明けようとするウィリアムだが、事が事だけになかなか口火が切れない。そんなこんなでモタモタしているうちに、彼女はズバリと話の核心を話し始めた。

 「夫は他の男と“やれ”って言うの」

 話題がこうなってしまったら、もはや真相を言い出す事はできない。それとも好奇心が勝って、彼女の話に水を差す気になれなかったのか。何とか勇気を奮って「私は医者じゃない」と告げても、「カウンセラーって特に医者ではないんでしょ?」と軽くいなされる始末。ともかく次の「予約」を入れて、彼女は部屋を出て行ってしまった。

 ところが次の「予約日」、彼女は事務所に現れなかった

 そうなってみると、ガックリ失望を覚えるウィリアム。確かに、ここまで来たら好奇心が高まっていた事は事実。だがウィリアムには、「好奇心以上のもの」を彼女に覚える理由もあったのだ。

 この突然の闖入者以外、ウィリアムの生活は平凡そのもの。ずっと何の変化もなかった。この部屋は自宅兼事務所だから、出かける事もあまりない。そしてこの部屋は父親の代から使っていたものだ。会話は秘書をやってもらっているオバチャンとしかしていないし、オバチャンも父の代から働いてもらっている人。何も変わりはしない。

 若い頃は税理士を継ぐ気などなかったし、世界を旅して回りたいと思っていた。それが、今では彼の世界はこの部屋だけ。ジャンヌと別れてからはずっとやもめ暮らしで、秘書のオバチャンにも同情されるアリサマ。だから未だにウィリアムと一番親しい人物はジャンヌ…というテイタラクなのだ。あの「患者」の女の事がこんなに気になるのも、無理はないのかもしれない。

 でも、いまやそんな彼女も現れなくなった

 結局、自分の気持ちを抑えきれなくなったウィリアムは、本物のモニエ先生(ミシェル・デュショソーワ)の事務所に乗り込む。最初は秘書の女性に例の女性の電話番号を聞き出そうとするが、名前も知らないのにうまくいくはずもない。逆に料金をとられて先生にカウンセリングされてしまう羽目になってしまう。「ほほお。では、あなたは私の代わりにカウンセリングしているんですな?

 それでもウィリアムは次に先生のところに来た患者が暴れている隙に、帳面から彼女の電話番号を書き写すチャッカリぶりを発揮。破裂しそうな胸を抑えつつ電話してみると…何とその番号は天気予報案内の番号ではないか。これにはウィリアムの落胆もかなり大きかった。

 ところがそんなある日、だしぬけにウィリアムの事務所にあの女が訪ねてきたからビックリ。だがもっと驚いた事には、彼女はウィリアムが税理士である事を知っているではないか。

 「カウンセラーでもない人に秘密を知られるなんて! これじゃレイプも同然だわ!

 女が穏やかじゃない事を言いだしたので、ウィリアムはさすがに慌てふためく。だからと言って、何ら言い訳できる立場でない事も確かだ。結局ウィリアムには、怒り狂って部屋を飛び出した彼女を止める術はなかった。

 ガッカリ。でも、自業自得か…。

 ところがそんな夜中、秘書のオバサンも帰って一人きりで部屋にいた時…誰かがドアのベルを鳴らすではないか。そこには先ほど怒り狂って出ていった女が、すっかり落ち着いて戻ってきていた。そして部屋に入るなり、自分の事を話し始めた。

 「私の名はアンナ」…と女は言った。

 

実は「男っぽい」映画作家パトリス・ルコント

 パトリス・ルコントの作品と一口に言っても、そのテイストは作品によって大きく異なる。

 「タンゴ」(1993)に代表される娯楽色の強い作品がある一方で、「髪結いの亭主」(1990)が代表格の「抜き差しならない男と女の間柄」を描いた作品群がある。そのバリエーションとして「タンデム」(1986)のように「男同士」の不思議な関係を扱った作品群もある。もちろんそれらに共通する持ち味も当然の事ながらあるが、ルコント作品一作一作は結構ガラリとテイストが変わっているように見えるのだ。

 ここ最近の彼のフィルモグラフィーを見ても、「ハーフ・ア・チャンス」(1998)は娯楽色の強い作品、橋の上の娘(1999)とフェリックスとローラ(2000)は「男と女の間柄」を扱った作品、「列車に乗った男」(2002)は「男同士の連帯」を扱った作品…とパックリと分かれる。その見方で見ていくと…今回の「親密すぎるうちあけ話」は当然の事ながら、「男と女の間柄」を扱った作品という事になるのだろう。

 それも、どこか気弱な男の側から見た「男と女の関係」の物語。実はルコントの映画にはいつもそんな「気弱な男の視点」がある。それは、娯楽色の強い作品群にも「男同士の連帯」を扱った映画にも共通して流れているのだ。

 だからルコントの「男と女の間柄」を扱った作品群は、どこか女を仰ぎ見るようなところがある。女に対する憧憬と畏敬の念を感じる。憧れと畏れを込めて女を見ているのを感じる。そしてルコント映画では、ハッキリ言って女は男の手に余るのである。

 女を憧れを込めて見つめる、ひたすら一途な想いを捧げる、女のナゾめいた部分に怯え、そんな女の言動にさんざ振り回される。ルコント映画の男たちはいつもそんな感じだ。

 ただし普通この手の男たちはどこかネクラだし、正直言ってハタで見ていて好きにはなりにくい。そして、得てしてこの手の「男の視点」は万事(一部の)男に都合が良くなっていて、それが見ていてこっ恥ずかしくなってくる部分も少なくない。だから、普通はあまり世間的な共感を得られにくい場合が多い

 だがルコント映画は、なぜか世間で高く評価されている。これだけファンがいて作品がコンスタントに入ってくるのは、支持されている証拠と思うべきだろう。女からも気持ち悪がられたり忌み嫌われたりしないし、男の共感もそれなりに得ているようだ。かく言うこの僕も、ルコント作品は結構気に入っている。

 なぜ、ルコント映画の男たちは広い共感を得られているのか?

 これを僕に限って考えてみれば、何より僕が男で作品が作品だから、「男の共感」で気に入っているのだろうと思わるかもしれない。男だから「男の思い入れ」を描く映画作家が好きなのだろう…と。だが、それはまるっきり違う。この違いは僕にもハッキリ分かる。

 なぜなら同じルコント映画でも、憧れや思い入れの部分があまりに暑苦しく表現された場合には、いささか鼻につく時もあるからだ。ということは、安易な「男の共感」で気に入っているわけではあるまい。さらに、鼻にはつくが…他の映画作家が同じような感情を描く時よりは、ルコントの「それ」はかなりマシな気がする。この手の「女に対する男の思い入れ」を描く映画や映画作家の中では、パトリス・ルコントは群を抜いて好感が持てるのだ

 例えば、それはマレーナ(2000)のジュゼッペ・トルナトーレを例にとってみれば分かる。「マレーナ」のトルナトーレはやはり「女に対する男の思い入れ」をこってり描いてはいるものの、その言いたい事は天地ほども差があるのだ。

 その違いの最たるものは「テメエ可愛さ」

 これらトルナトーレに代表される映画作家たちの描く映画では、何かと男の「自己憐憫」「自己満足」「自己正当化」ばかりが目についてしまう。「自分は悪くない」とか「仕方がない」とか「男ってそういうもんなのだ」って安易な開き直りや甘え。何よりこうしたトルナトーレ流の「女」とは、まるっきり「男にとって都合のいい女」。童顔で巨乳で清純なのにすぐ裸になってメガネっ子…みたいな(笑)、オタクの理想とする女の子像と五十歩百歩。どう考えても生身の女ではあり得ない。おまけに観客の中の男たちに、暑苦しい共感や賛同を押しつけてくるのも頭に来る。「ねえ、あなただってそうでしょう?」

 これらの作品もこういう作品をつくる映画作家も、つきつめてみれば女を愛してなんかいない。結局のところ本当はテメエが世界で一番大事なのだ。それをあたかも「女を愛している」フリをして、正当化してるのが気持ち悪いし男らしくない。それで「女への愛」だの何だのチャンチャラおかしい。トルナトーレなど「マレーナ」をつくるにあたって、「世界の全女性に捧げる」とはホザいていたからイヤになる。バカも休み休み言え。そんな事を大いばりで云々しないで欲しいと思うのだ。

 ルコント映画の男たちは確かに弱くて情けない。だが彼は、それを大いばりで「分かってくれ」などとは言わない。「女にこんなに思い入れてるオレ」をウットリとテメエで眺めていたりはしない。それの醜悪さも情けなさも十分すぎるほど分かっている。それでも…そうせずにはいられない自分…男たちを甘やかさずに見つめているから、見ている者に共感がわく。何よりも女を「男にとって都合のいい存在」にしようとせず、生身の存在として受け入れる。結局、ルコントも彼の映画の登場人物たちも「テメエ可愛さ」ではなくて…テメエなんてどうなってもいいから女が大事と思っている。そして仮に自分が割を食うような事があっても、決して女に恨みがましい事など言わない。

 これってある意味で、かなり男らしい態度ではないか

 弱くて情けなくて女はいささか自分の手に余るような男たち。それは決して自慢できる事ではないし、みっともないとも十分すぎるくらい分かっている。だが、それでも…自分の事はともかく女を優先したい。決して女を責めたりしない。何があっても女に愛を捧げる事はやめられない。この潔さこそが「男らしさ」ではないか…とルコントは本気で思っているのだ。だから安易に気持ち悪くツルんでくることを嫌う男たちにも、そして「男らしくない」腐ったような態度を嫌う女たちにも、ルコント作品は受け入れられているのではないか。

 ルコント作品の本質は、かなり「男らしい」のだ。

 そして、弱くて情けなくて女はいささか自分の手に余るような男たち…とは他でもない。ルコントもその周辺にいる男たちも、ついでに言えばこの僕も…世界中の大抵の男たちも含めてそこに含まれるのではないか

 実際のところ、女はどんな男にとっても少々手に余る、手を焼かせる生き物なのだ。

 

見た後での感想

 今回の主演の二人、サンドリーヌ・ボネールファブリス・ルキーニはフランス映画界では力もあるし人気もある存在だ。だがファブリス・ルキーニはエリック・ロメール作品などで知られているものの、パトリス・ルコント作品は初出演。今回あまりにピタッとハマった好演ぶりを見せているので、ルコントと初めて組んだというのが意外なほどだ。

 その点、サンドリーヌ・ボネールは「仕立て屋の恋」(1989)での起用があるので、すでに気心が知れた仲と言えるのかもしれない。ただ悲壮感が漂い悲痛な幕切れを見せる「仕立て屋の恋」と比べれば、今回の作品は全体的に「軽み」のようなものが感じられる作品。エンディングもスカッと明るいハッピーエンディングだ。

 だがある意味で、「仕立て屋の恋」と今回の作品は不思議なほどの共通点もある。いや、その作品だけに限らない。「イヴォンヌの香り」(1993)も「橋の上の娘」も「フェリックスとローラ」も…つまりルコントの「抜き差しならない男と女の間柄」を描いた作品群はすべて、どこか謎めいたサスペンス映画の体裁をとっている(実は「男同士」を描いた「列車に乗った男」もこの系列に含まれる)。映画そのものも、どこかヒッチコック・タッチを思わせる作品に仕上がっているのだ。

 その印象は、今回の映画全編に流れる音楽がどこかヒッチコック作品でのバーナード・ハーマンの音楽を思わせるストリングス・サウンドである事によって助長される。あるいはそれってブライアン・デ・パーマ作品におけるピノ・ドナッジオの音楽にも共通するモノが感じられるが、デ・パーマが強烈なヒッチコック・フォロワーである事を考えれば当然の事だろう。

 また今回の物語は、精神科医(実は今作は本当の精神科医ではなかったのだが)ロイ・シャイダーが患者の女メリル・ストリープの話を聞いているうちに謎めいた事件に巻き込まれるという、ロバート・ベントン監督の「殺意の香り」(1983)という作品にも酷似した趣向を持っている。ロバート・ベントンがここで目指したのは明らかにヒッチコック作品だし、ベントンが愛好するのはフランソワ・トリュフォー作品…そしてトリュフォーが自らのサスペンス映画でたびたび意識したのはヒッチコック作品だ。今回の「親密すぎるうちあけ話」は、そうしたヒッチコック・サスペンスのスタイルをとった作品に仕上がっているのだ。ついでに精神科医絡みで言えば、ブライアン・デ・パーマ監督の「殺しのドレス」(1980)だって挙げられる。

 では、なぜこれらの作品は、ヒッチコック・スタイルの映画としてつくられているのか?

 これはもうみなさんお分かりだろう。ルコント作品とは、弱くて情けなくて女が自分の手には余るような男たちを描いた映画だ。そういう男たちにとって女とは、ナゾだし危険の臭いがするしハラハラさせられる…なのに避けて通ることのできない存在なのだ。これほどサスペンスフルな存在があるだろうか?

 そして現実の場面でも…男にとっての女とは、常にヒッチコックのサスペンス映画のように手に汗握る存在なのだ。

 女と対峙している一瞬一瞬が、男にとってはサスペンスフルな経験だ。なぜ女とはあんなに怪しげでワナっぽくて、言ってる事もウソっぽくて危なっかしくて、それなのに無視するには魅力的過ぎるのだろうか。逆に言えばそんなに魅力的なのに、魅力的であるがゆえに、そこには常にリスクがつきまとう。

 この映画ではウェルメイドなサスペンスとして、そんなリアルな恋愛感情を追体験できる。娯楽映画として心ゆくまで楽しませてくれながら、身につまされる想いを思い起こされたり共感させられたりする。何とも欲張った内容なのだ。

 「愛人を持とうかどうしようか」と、目の前の男に相談してくる人妻。それってつまりは挑発なのか? 自分を「やっちゃってくれ」と言ってるのだろうか? 据え膳食わぬは…と考えるべきなのか? そこに本物の精神科医から、「そもそも彼女には本当に夫がいるのか? それに彼女は本当に部屋を間違えたんだろうか?」…などと指摘されれば、今度は一気に疑心暗鬼になってしまう。そう言えば彼女の服装はだんだん大胆になって、やけに胸元を強調しているようにも見える。本当はどうなんだ。彼女は自分を挑発しているのか、それとも自分を愛してくれているのか、それとも頭がおかしいのか? それとも何かのワナなのか? それとも、本当は何でもなくて自分の気のせいなのか?

 そもそも…自分は彼女をどう思っているのか?

 我々の実生活においても…男は女を前にして、いつか自分の本当の気持ちを問わなければならなくなる。時として自分にすら偽っている本音を、自分で暴き出して気づかねばならなくなる。「何でそんな自分なのか?」を探求しなくてはならなくなる。それこそが究極のミステリーであり、ナゾ解きだ。

 しかも男と女の場合、実はうまくいってからの方がリスキーだったりする。腹をくくらなければならなかったりする。そうなったら、それまでの自分の生活を変える必要に迫られるかもしれないからだ。そして、時には目をつぶらねばならない事もあるだろう。

 それは、本当に幸福かどうかは分からない。…だが、いつか受け入れねばならない事なのかもしれないのだ。

 この映画の主人公は、親の代から使っていた事務所を自分もずっと使っているような男だ。毎日毎日同じようなネクタイを締めて、何より秩序と平穏を重んじるような男だ。唯一自分で部屋に付け加えた要素はブリキのおもちゃ…それは「子供っぽさ」の象徴だ。

 彼がそんな生活を変えたくないと思っているのは、潜在的に成長を拒んでいるからなのだ。ところが変化のない暮らしに彼女が「闖入」してくる事によって、主人公にはそれまで見えなかった何かが見えてくる。

 そしてこの物語は、女の「夫」の出現でどうしようもないカタストロフを迎える。そして、すべてが水泡に帰したと思った後…それまでのお話とは舞台も映像の画質もガラリと変わったエピローグがやって来るのだ

 そこで男は…自分をずっと閉じこめていた事務所を出て、自分をいつも縛り付けていたネクタイをはずし、生まれて初めて能動的に行動して…自分が愛した女を手に入れようとする

 それは彼が女の挑発に乗ったからか、元々今までの自分の殻を破りたいという願望があったからか、それとも元妻が思わず吐露した本音、「いい相手って意外にいないものよ」…に触発されたものなのか。

 ともかく見る者を幸福感で包むエンディング、見事な幕切れにため息が漏れてしまうが…見終わった後で、ちょっとした疑問もわくのだった。

 アレって、主人公の身に本当に起きた事なんだろうか?

 お話の舞台も衣装も画質もガラリと変わった、言ってみれば「出来過ぎ」の世界。そこで主人公が今までの自分の殻を脱ぎ捨てて手に入れるハッピーエンド。そうなればいい、そうなって欲しい、そうなればどんなに素晴らしいか…そんなに「すべてうまくいく」のなら。それはひょっとしたら、主人公の脳裏にふと浮かんだ夢なのではないのか。

 夢ならば、そこにリスクはない。

 現実はなかなかそうはいかないし、100パーセント幸福でもないはずだから。

  

見た後の付け足し

 「捨てられたかと思っちゃった」「私と付き合ってみる?」…そんな言葉を聞いて、僕が思わず固まってしまった理由は何なのか?

 だが…その理由を、僕が知らないはずがない。そんなものとっくに分かっている。分かっていなけりゃヘンだ。それが分かっているからこそ、あんなに怖がっていたのではないか?

 それなのに、僕はいつまで逃げているつもりなのだろうか?

 

 

 

 

 

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