「インサイド・マン」

  Inside Man

 (2006/06/19)


  

見る前の予想

 スパイク・リーの新作。それもビッグ・スターを多用した娯楽大作と聞いて、実はちょっと驚いた。何しろこの人と言えば、昔は黒人問題のスポークスマン的な発言が多かった。それが何となく鼻に突くところも少なくなかったのだ。さすがにここ何作品かはそんな臭みも抜けて来たが、まさか思い切ったエンターテインメント路線にいくとは…正直言って驚きを隠せない。銀行強盗が人質をとっての籠城…という典型的犯罪サスペンス映画のネタで勝負とは、スパイク・リーは一体何を目論んでいるのか。キャスティングもいつもより豪華を極めていて…デンゼル・ワシントン起用はいつもの事だが、ジョディ・フォスターも共演とは意外。しかも今が旬のクライブ・オーウェン起用にも興味しんしんだ。これは何としても見ずにはいられない。

 

あらすじ

 「私はダルトン・ラッセル。私は銀行強盗の完全犯罪を実行する…」

 この男、ラッセル(クライブ・オーウェン)は今まさに完全犯罪を行おうとしているところ。それは塗装業者のクルマが、ニューヨークの「マンハッタン信託銀行」のある支店近くに停まったところで始まった。彼らは客でごった返す銀行の中にさりげなく入り、まず持ち込んだライトでビデオのモニターカメラを機能停止させた。さらに正面玄関を閉ざして固定。おかしいと警備員が気づいた時には手遅れ。銃を取り出して大声でその場の全員を威嚇した。

 「みんな伏せろ!顔を上げるな!」

 様子がおかしいと気づいた警官が扉に近づいたが、サングラスに覆面で顔を覆ったラッセルが出てきて一言。「人質とった、近づいたら殺す」

 これによって事件は警察が知るところとなった。

 たまたま署に居合わせたのは、フレイジャー(デンゼル・ワシントン)とミッチェル(キウェテル・イジョフォー)両刑事。フレイジャーはちょうど汚職の濡れ衣を着せられ、謹慎状態になっていたところだった。これぞ汚名挽回のチャンスとばかり、フレイジャーは張り切って現場に乗り込む。現場にはダリウス警部(ウィレム・デフォー)率いる警官隊が包囲しており、心理戦を担当するフレイジャー、ミッチェル両刑事の登場を必ずしも喜んではいなかった。

 その頃銀行内では、犯人グループが不穏な動きをしていた。人質たちの服を全員脱がして、自分たちと同じ塗装工の衣裳を着せたのだ。これによって誰が犯人で誰が人質だか分からなくなった。案の定、心臓発作に襲われて人質の老人が解放された時も、銀行から出てきたとたんにまるで犯人扱いで取り押さえられる始末。

 ところがこの事件の報を聞いて、不穏な動きをする人間がもう一人。「マンハッタン信託銀行」の会長、アーサー・ケイス(クリストファー・プラマー)だ。ケイスは事件を知るや顔面蒼白。慌ててやり手弁護士と定評のあるミス・ホワイト(ジョディ・フォスター)を呼び出す。ケイスは乗っ取られた支店の金庫に、何やら秘密の「大切な品」を隠していたらしいのだ。「それを、誰の手にも触れさせたくない」

 かくしてケイス会長の命を受けたミス・ホワイトは、市長に手を回して捜査に介入してくる。果たしてケイス会長の「大切な品」とは何か? そして犯人一味は、いかにして銀行からの脱出を図ろうとしているのか?

 

見た後での感想

 スパイク・リーと来れば、かつては黒人のスポークスマンでアジテーターとして有名だった。黒人の怒りの代弁者として、映画だけでは飽きたらず自らもマスコミに露出してわめき散らしていた。だが僕にとっては、それが何とも小賢しく見えたんだよねぇ

 映画そのものは面白いのに、白人中心社会への恨みつらみをクドクド言うのにいささか辟易。辟易と言っては不謹慎だと分かってはいるが、それが本音だから仕方がない。そして僕が何でそんなスパイク・リーに辟易したかと言えば…好んで問題発言を繰り返すけれど、それが本心なのかどうかちょっと疑問があったからだ。アジるのを「売り」にしてる感じがあったし、そもそもこの人って中流の出ってところがいかがわしかった。自分が派手派手に露出して、話題づくりして目立ちたい。そして映画も大きく売りたい。そのために、ことさらに問題発言ばかりしているような気がしたのだ。

 だって映画そのものは、かなりオーソドックスなアメリカ映画の王道を行っていた気がしたからね。ラップ・ミュージックやヒップホップで武装していても、実は映画の本質は意外にハリウッド映画の伝統を継承しているような気がした。逆に言うと、派手なアジ演説でムキになってそんな自分の本質を隠そうとしているように見えたのだ。

 ところがその手の黒人問題アジり映画の頂点「マルコムX」(1992)を境に限界を感じたのか、スパイク・リーの映画はそれ以後徐々に変質を見せ始めた。最近では白人俳優を主役にした作品も発表するようになり、ちょっとムードが変わって来たのだ。

 だが、それはスパイク・リーが元々の「売り」を返上したという事でもある。案の定「クロッカーズ」(1995)、サマー・オブ・サム(1999)、25時(2002)などのここ最近の作品は、世間ではあまり話題になっていなかった。決して悪くない作品群だったし僕は結構気に入っていたのに、これらは初期作品ほど巷の評判にはなっていなかったようなのだ。

 結局のところ黒人代表のレッテルを剥がしたら、実は単なるフツーの映画作家だったと言うことか。いや、そんな事はない。スパイク・リーはやっぱり映画作家として非凡だったはずだ。非凡だったのだが…黒人代表イメージに依存しすぎたため、そっちの方がメインになってしまった。それなしには存在できなくなってしまった。だから話題に上らなくなった。あまりに黒人のスポークスマンを「売り」にしすぎたツケが回ったと言えばそれまでだが、最近のスパイク・リー作品を気に入っている僕としては少々残念ではあった。

 そんな最中に、ビッグスターを投入したエンターテインメント映画への「転向」…ひょっとしてこれがスパイク・リーの「復活」につながるのではないか? 僕は秘かに期待していた。そして実際に接した作品の出来栄えは…。

 面白い!ちゃんと娯楽映画している!

 見ていてどんどん物語に引き込まれていく。スターが適材適所に使われ、それぞれに見せ場を与えられている。実はスターはデンゼル、オーウェン、フォスターばかりじゃない。他にもウィレム・デフォークリストファー・プラマーなんて名優が出てくるとは、何と豪華な顔ぶれだろうか! 彼らの激突ぶりを眺めているだけでワクワクする。

 お話もよく出来ていて、ナゾがナゾを呼んで単なる銀行籠城物語の域を超えていくスケール感はなかなかのもの。実は正直言って「犯人がどうやって銀行から脱出するか?」というドンデン返しに関しては、僕は映画の中盤あたりで分かってしまった。だが例えオチの一つが早々に割れても、この映画の面白さはビクともしない。脚本を書いたラッセル・ジェウィルスはこれが第一作との事だが、大した馬力ではないか。

 そして何より僕が嬉しかったのは、この映画に脈々とあの1970年代アメリカ映画のテイストが流れていたこと。ヤバいテーマ、社会性のあるテーマに果敢に挑みながら娯楽性も忘れなかった、あの時代の映画に共通する空気を感じたからだ。

 

アメリカ映画の良質な部分の継承者スパイク・リー

 スピルバーグのミュンヘン(2005)、オスカー作品賞受賞作クラッシュ(2005)、さらに問題作シリアナ(2005)などなどなど…どうも最近、ハリウッドには1970年代回帰現象が強く感じられる。これに加えてポセイドン(2006)、「オーメン」(2006)などのリメイク作品も見てみれば、何となく僕が映画を見始めた「あの時代」に戻って来たかのような錯覚を覚えてしまう。これは、決して気のせいではないだろう。

 そしてこの手の1970年代映画の特徴については…僕が以前「ミュンヘン」感想文で書いた通りだ。それはどこか骨太で大胆で、題材的には社会性のある映画群だ。それでいてサスペンスもアクションもふんだんに入っている…熱い心意気を感じさせる映画。

 時代的には、これらはアメリカン・ニューシネマが氾濫した直後にあたる。さすがに若者のハートを捕らえはしたが、飽きられ色あせるのも早かったニューシネマたち。後を追いかけたのは、その精神を受け継ぎながらエンターテインメント色を濃厚に打ち出した男性映画たち。サスペンス・アクションの色合いを濃く持ちながら、どこかで骨っぽく社会性を帯びていたのがこれらの映画たちだ。その「骨っぽさ」や「社会性」とは、アメリカン・ニューシネマ直伝のリベラリズムやアナーキー性であろう。

 シドニー・ルメット、シドニー・ポラック、アラン・J・パクラやジョン・フランケンハイマーたち…ちょっと作風は異なるが、そこにロバート・アルドリッチドン・シーゲルを加えてもいい。彼らの中にいわゆる「ニューヨーク派」と呼ばれる人々が混在しているのも、これらの映画群がリベラリズムと少なからぬ関わりがある事を伺わせている。テレビ出身の映画作家が目立つのも、おそらく作品のジャーナリスティックな特性と関係があるだろう。この中ではドン・シーゲルだけが少々異色で、「ダーティ・ハリー」(1971)などで当時は強権発動の「保守派」「ファッショ」とまで言われていた、だが、今となってはそれが誤りである事は明らかだろう。確かにドン・シーゲルをリベラルであると言うのは無理があるが、それでもこうした当時の映画状況、社会状況と呼応した映画づくりをしていた事は間違いない。

 だがそれらの映画についてもっと源流を手繰ってみると、実はニューシネマより以前のアメリカ映画の伝統に根付いている事に気づくはずだ。

 それは少々意外に思われるかもしれないが、フランク・キャプラに代表されるアメリカ映画本来の理想主義だ。

 自由と民主主義の理想をうたいあげて、まるで照れる事を知らない無垢な美しさ。冷笑的な風潮がはびこる現在では、まったく考えにくい作品群。だがキャプラはその作品の中で、しばしば資本家の横暴や社会システムの不備、拝金主義の空しさを説いていた。確かにツッコミが甘いと言えば甘い。しかし戦前のアメリカで、これだけの事を堂々と娯楽映画のカタチで言っていたキャプラは、やっぱりかなり骨っぽかったと言わざるを得ない。何ならこの系列にジョン・フォードチャプリンを加えてもいい。

 実はアメリカの理想主義とは、一旦はベトナム戦争とウォーターゲート事件で消滅したかに見えて…この1970年代男性映画群でカタチを変えて復活していたのだ。むろん、もはや無垢の理想主義はあり得ない。だから必ず主人公が勝利するとも限らない。それでも主人公たちは、なけなしの勇気を振り絞って巨悪と対決する。大統領の陰謀(1976)もマラソンマン(1976)もそうだ。あるいは、彼らは社会に踏みつけられながらも必死に生きている。「スケアクロウ」(1973)や狼たちの午後(1975)はそれだ。特に前者においては、根底にはフォードの「怒りの葡萄」(1940)やチャプリンの諸作などが影響を与えているはずだ。

 アメリカ理想主義なんて「偽善」だ…などという政治的な話はひとまずこっちへ置いておくと、この時代にはまだそんな気骨が生きていたのだ。

 そして1970年代初頭にベトナムの停戦やウォーターゲート事件があったように、現在のアメリカは泥沼のイラク戦争にハマっている。またしてもアメリカの理想は地に堕ちた。

 映画を知り尽くしているシネアスト=スティーブン・スピルバーグが、この時点で「ミュンヘン」を発表した事の意味は極めて大きい。同時にスパイク・リーが今この「インサイド・マン」を放った事は、彼がスピルバーグと同じく、アメリカ映画の良質的な部分の伝統を担っている人物である事を表しているように思う。

 スパイク・リーがスピルバーグと同じ?…などと言うと頭から湯気を立てそうな「政治的」映画ファンが山ほどいそうだが、ここはひとつアンチ「ダ・ヴィンチ・コード」派同様に(笑)頭を冷やして聞いていただきたい。

 確かにスピルバーグ=キャプラ、フォード、チャプリン…という路線なら、みんなスンナリ受け入れてはくれるだろう。だがスパイク・リーもこれらに源流を求めていると言うと、ラップ・ミュージシャンみたいな怖いオニイサンたちが中指おっ立てて「YO ! YO !」とかわめいて来そうだ(笑)。ついでにトリノ・オリンピック拍子抜けの今井メロまで出てきそうだが(笑)、ここはどうか冷静にお願いしたい。

 そもそもスパイク・リーのこれまでのフィルモグラフィーを見渡して欲しい。「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」(1986)では「黒いウディ・アレン」と言われ、「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989)ででゃ人間群像劇に挑戦。「モ’ベター・ブルース」(1990)はミュージシャンもので、「ジャングル・フィーバー」(1991)は大人の恋愛劇。「マルコムX」(1992)は、前半は青春ミュージカル風、後半はまるでデビッド・リーンの超大作のような構えさえ見せている。オモテ側には黒人側の主張というアジテーションがベッタリ貼り付けられているから気づかれにくいが、実はスパイク・リーはさまざまな作品でアメリカ映画のあらゆるジャンルを横断する映画づくりを続けていた。つまりはアメリカ映画の王道だ。ラップ・ミュージックと黒人俳優をはぎ取ってみれば、スパイク・リーほどハリウッド映画らしい映画をつくっている映画作家はいない。その意味では、ひょっとしたらスピルバーグ以上かもしれない。

 つまり、スパイク・リーこそハリウッド伝統の真っ直中にいる男…「インサイド・マン」なのだ。

 この映画では犯人が刑事に向かって「セルピコ君」と呼びかける。そもそも銀行強盗の籠城をテーマにした時…しかも、それがニューヨークを舞台にした時、映画ファンや映画関係者で「狼たちの午後」を意識しない者などいない。アラブ人と間違われテロリスト扱いされる人質やらアルバニア語の演説テープで盗聴を煙に巻くくだりなど…人種のるつぼニューヨークという土地柄と「9・11」以後という今の時代が反映した感覚も、まるでシドニー・ルメット作品みたいなシャープさだ。さらにそれがナチス時代の暗部にも触れてくるあたり、「マラソンマン」を想起される方も少なくないだろう。これは、そんな1970年代映画の直接影響下にある事は間違いない。

 だが、それにとどまらない何かを感じないだろうか?

 銀行強盗の犯人が黒人少年の「ぶっ殺し」テレビゲームを見て「問題だ」とつぶやくあたり、刑事が恋人と結婚できないと聞いて「愛は金じゃない」とつぶやくあたり…このあまりに真っ当な感覚…あまりに真っ当すぎて今では誰も言わなくなってしまったような「正しさ」に、みなさんはお気づきになられただろうか?

 忌まわしいナチスへの荷担によって財を築いた大銀行の会長に、最後の最後痛打を浴びせた刑事の気骨を見よ。相棒刑事と喜び勇んで、「あの悪党のケツの穴に、靴の先っぽ突っ込んでこじ開けてやったぜ!」と大騒ぎするくだりの痛快さを見よ。これを甘いと言わば言え。これこそがキャプラやフォードやチャプリンからの伝統である、アメリカ映画の良質な理想主義ではないのか。

 実はそんな心意気を、スパイク・リーもどこかで信じているのではないか?

 

見た後の付け足し

 「血が流れると、金儲けする奴が現れる」…だったか、ジョディ・フォスター演じる敏腕弁護士は、そんな事を口にして憚らない。これはむしろ、実際に悪に荷担してボロ儲けした奴よりも罪が重い。「儲かればいい」「勝ちゃいい」「人を踏みつけにしても自分さえ良ければいい」…そんな価値観を体現しているのが彼女なのだ。

 いや、それは我々の今の社会全体を体現している。そもそもどこかの政府の指導者たちがヒルズの成金どもをホメそやしていたって事は、「勝ちゃいいんだよ」が正しいとお墨付きを付けたようなもんだろう。だがそんな事は、決して公言されるべき言葉ではないはずだ。そもそも知性と良識ある人間が口走る言葉じゃない。本当だったら、口にするのも恥ずかしい言葉のはずなのだ。

 それがあたかも「本音を言う」ことと誤解され、容認…あるいは時として賞賛されてしまうあたりが、僕らの社会の最も病んでいる点なのだ。

 

 

 

 

 to : Review 2006

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME