「ポセイドン」

  Poseidon

 (2006/06/12)


  

見る前の予想

 あのポセイドン・アドベンチャー(1972)のリメイクが製作されている…と聞いて、ついに来るべきものが来たかと思わずにいられなかった。何にしろハリウッドはリメイクばやり。韓国映画イルマーレ(2001)ですらキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロック主演のハリウッド映画に化けるご時世だ。これだけオイシイ題材を、ハリウッドがリメイクしないわけがない。しかも前作ではミニチュアで処理していた特撮場面を、今回はCGという武器でよりリアルに見せることが出来るのだ。これならイマドキの観客にもアピールすること必至だろう。

 だが「ポセイドン・アドベンチャー」は、僕にとって「黄金バット」(1966)や「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1964)に匹敵する、個人的にエポック・メイキングな映画だ。これによって僕がマメに映画館に通うことになったようなもの。この映画がなければ、このサイトもない。中学2年生の春にこの映画を見なければ、僕はこれほど映画好きにはならなかった。だから、こいつは特別だったわけだ。

 できればリメイクなんかされたくない。正直な話をすれば、それが本音だ。監督がウォルフガング・ペーターゼンと聞いても…確かにこの人は「海洋モノ」は強いかもしれないが、やっぱり多くを期待できない。予告編が劇場にかかり始めても、まだ僕の不安は消えなかった。確かにCGの津波はスゴイけど、それだけが「ポセイドン」の売り物じゃない。何でもかんでもCG、シージーっていうのもどうもねぇ。

 それに…何だかやけにキャストが弱いではないか。見たような顔は2人か3人しかない。これって本当に大丈夫なのか?

 案の定…と言うべきか、一足先に公開されたアメリカでは、どうも興行成績が芳しくない。やっぱりダメなのか、思った通りの惨敗なのか「ポセイドン」。

 おまけに試写で見たらしい人々の評判も、あまり芳しいものではなかった。先行レイトの評判もヒッソリとしたもの。これだけの大作にして、あまりと言えばあまりな扱い。

 そうは言っても、やっぱり気になる作品のリメイクは、自分の目で見届けない訳にはいかない。だから初日に慌てて駆けつけたわけなのだが…。

 

あらすじ

 大海原を行く超豪華客船ポセイドン号。その甲板をジョギングしているのは、この船の乗客の一人ディラン(ジョシュ・ルーカス)。彼はこの客船内のカジノでポーカーに興じ、ほろ酔い加減の客から小金を巻きあげるギャンブラーの端くれだ。

 一方、客室では元ニューヨーク市長のロバート・ラムジー(カート・ラッセル)とその娘ジェニファー(エミー・ロッサム)が一触即発。ラムジーはジェニファーと恋人のクリス(マイク・ボーゲル)が昼間っからイチャついているのが気に入らないが、ジェニファーは何事にも高圧的な父親がもっと気に入らない。クリスはクリスで、ジェニファーが父親ラムジーに二人の婚約について打ち明けないのがこれまた気に入らない。

 そんな豪華客船の船内を、ウロウロ歩く女が一人。彼女が船内のアレコレに疎い事から、たまたま鉢合わせしたディランは彼女が「密航者」であると見抜く。そんな密航者の女エレナ(ミア・マエストロ)は、自分の船に乗せてくれたウェイターのマルコ(フレディー・ロドリゲス)の元に退屈を訴えて押し掛ける。だが「密航」がバレたらクビのマルコは、そんな彼女の行動に気が気ではない。

 また、ディランはまだ若い母親マギー(ジャシンダ・バレット)とその幼い息子コナー(ジミー・ベネット)の母子とも遭遇。彼女がシングル・マザーと知ったディランは何を思ったか、柄にもなく自分がしがないギャンブラーである事を打ち明けたりする。

 その夜は大晦日。巨大なボールルームに乗客たちが集まり、ブラッドフォード船長(アンドレ・ブラウワー)の音頭取りでショーやギャンブルや酒や食事を大いに楽しんでいた。ジェニファーとクリスも船内のディスコで大はしゃぎ。父ラムジーはカジノでポーカーに興じていたが、その相手の中にはディランの他、もう一人ケチなギャンブラーのラッキー・ラリー(ケビン・ディロン)もいた。

 そんなこんなでみんな華やぐ中、一人冴えない表情なのが蝶ネクタイの紳士ネルソン(リチャード・ドレイファス)。彼はこの船旅の直前「彼」と別れ、自ら命を絶ちたいと思うほど落ち込んでいたのだ。

 ところがそんな人々の思いをよそに、海上では何らかの異変が起こっていた。船長から操舵室を任されていた航海士以下クルーは、遙か彼方からとてつもない特大の大波が押し寄せてくるのに気づいた。慌てて舵を切って逃れようとするが、もはや間に合うものではない。焦り狂う操舵室の面々の努力も虚しく、大波はさらにさらに巨大なその全容を見せつけて、ポセイドン号の右手より迫ってくる。たまたま船のデッキで死を選ぼうと決意していたネルソンも、いきなり目の前に迫ってきた壁のような大波に唖然呆然。慌てて船内にとって返す。操舵室ではいまだに努力が続けられていたが、もはやどうにもならなかった。

 大波はポセイドン号の向かって右手からぶつかってきて、船を物凄い力で押しまくった。当然のごとく船内はメチャクチャ。操舵室には巨大な水のカタマリが突っ込んできて、カジノもディスコも厨房もボール・ルームもいきなり傾きだして回転を始める。激しい傾斜によって人々は倒れ転がり転落し、滑り落ちてきたさまざまなモノの下敷きになった。あるいは突然の出火によって身体に火がついた。それでも船の傾きは止まらない。ますます回転する船内では、阿鼻叫喚の中で犠牲者が後を絶たない。

 やっとこれが落ち着いたのは、船が180度逆さまになった後でのこと。つまりポセイドン号は転覆してしまったのだ

 一旦は真っ暗になった船内も、非常灯が灯って再び明るくなった。最も多くの人々を収容していたボールルームでは、多大な犠牲者を出しながら生存者たちが落ち着きを取り戻し始めた。

 だが例のシングルマザーのマギーは、息子のコナーがいないのに半狂乱。実はコナーは床に据え付けのピアノにしがみつき、そのまま天地が180度回転してピアノが天井にくっついた状態になってしまった事から、下に降りるに降りられない状態になってしまっていた。ここで張り切ったのがラムジー。彼はニューヨーク市長になる前は消防士をしていて、人命救助はお手のモノだった。カーテンで即席のクッションをつくったラムジーは、そこにコナーを飛び降りさせて一件落着だ。

 こうして人々は、最大の危機を乗り切ったかのように思っていた。船長のブラッドフォードも、乗客たちに呼びかける。「我々は安全です。もうすぐ救援隊も来ます。それまでここを動かないように!

 だがそんな船長の呼びかけをよそに、ディランは納得がいかないようだった。彼は壁に貼り付けてある船の構造図を見ながら、何やら考え事をしていた。実はネルソンも、腑に落ちないモノを感じていた。おまけにラムジーは娘を捜しにディスコに行きたくてウズウズ。この場を動くなと命令するブラッドフォード船長に反旗を翻し、ボールルームを脱出して上に…つまり船底の方へ行こうと考えた

 特にディランはこの場にいても助からないと直感的に判断し、船底のスクリューシャフト孔から脱出しようと考えていた。ネルソンも設計士としての見地から、船が沈むのは時間の問題と語る。元々が娘を捜索したいラムジーも、彼らの意見に同意した。それを聞いたマギーとコナー母子も、彼らと同行を望んだ。実は足手まといのいない単独行を望んでいたディランだが、こうなると仕方がない。船内の事情に強いウェイターのマルコを連れて、無理矢理ボールルームからの脱出を試みる。

 一方、ディスコでも地獄絵図が展開していた。倒れて来た重たい照明器具などにつぶされたり、侵入してきた水と切断された電気ケーブルによって感電死したりで死体がゴロゴロ。そんな中、クリスも鉄骨に足を挟まれて身動きできない状態だった。それを必死に助けようとするジェニファーは、たまたま通りかかったエレナやラッキー・ラリーの協力を得る。

 ボールルームを出たディラン一行は完全に破壊された厨房を通り抜け、エレベーター・シャフトの向こう側へと移動しようと四苦八苦。目もくらむような高さのシャフトにスチール板の「橋」を渡し、何とか一人づつ向こう側へと渡っていく。ところが最後の一人マルコの番になった時、スチール板がはずれて遙か下に落下。マルコはネルソンの足にしがみつく格好でぶら下がる事になってしまった。これにはネルソンも、彼の腕を掴むディランも真っ青。しかも今度は頭上では、停止していたエレベーターの箱そのものが落ちかかっているではないか。このままではネルソンとマルコの二人とも助からない。ディランはネルソンに大声で叫ぶ。

 「奴を振るい落とせ!」

 必死に耐えていたネルソンも、グッと目をつぶってマルコをふるい落とした。「すまない!」

 叫び声を上げて落ちていったマルコ。だが間もなく、頭上のエレベータが物凄い勢いで落下。間一髪でネルソンだけは助かった。凍り付いたような表情のネルソン。

 だが、それも致し方ない。生きるか死ぬか。紙一重の極限状況で、彼らに選択の余地はなかったのだ…。

 

前作「ポセイドン・アドベンチャー」とその時代

 この映画のオリジナル作品にあたる「ポセイドン・アドベンチャー」については、僕は「Time Machine」残照のパニック野郎アーウィン・アレンの巻と、タワーリング・インフェルノの特集でもかなり触れている。それらと重なってしまう部分も多々出てくるが、ここはどうかご容赦いただきたい。

 さて問題の「ポセイドン・アドベンチャー」が生まれた1972年とは、どのような時代だったのか?

 当時は、アメリカン・ニューシネマが終わりを告げていた時代。ハリウッドがその試行錯誤からそろそろ抜け出そうとしていた時代だった。そもそも1950年代末から始まったハリウッドの斜陽が、行き着くところまで行った果て…それがヨーロッパ映画の影響をモロにかぶったアメリカン・ニューシネマの時代だった。「俺たちに明日はない」(1968)、「イージー・ライダー」(1969)、「明日に向って撃て!」(1969)などは、すべて既存のハリウッドのメソッドからは生まれなかった作品群だ。

 一方で切羽詰まったハリウッドは、「スーパーフライ」(1972)など黒人観客向けの「ブラック・エクスプロイテーション・ムービー」や、エロ映画製作者ラス・メイヤーを起用してのワイルド・パーティー(1970)などを製作。これらの作品にしてもアメリカン・ニューシネマにしても、往年のハリウッドだったら絶対に手がけなかったに違いない。ついでに言えば、おそらくブルース・リーを香港から起用した「燃えよドラゴン」(1973)もこうした影響下の最後の作品だろう。このように、当時はハリウッドの既成概念が完全に覆された時代だった。

 むろん、時々「らしくない」王道作品が「揺り戻し」のように忽然と出現しないでもなかった。例えば「ある愛の詩」(1970)や「大空港」(1970)は、そうしたオールド・ハリウッドの復権の試みだったかもしれない。しかしそれら にしても、「ある愛の詩」にフランスのクロード・ルルーシュ映画の音楽担当者フランシス・レイが参加していたように、もはやかつてのハリウッド「そのまんま」ではなかった。あるいは常に「点」に留まり、決して「線」や「面」にはならなかった。結局それらは「ハリウッド原点復帰」という潮流も別の新たな映画の流れも、生み出しはしなかったのだ。

 それが本格的に変わったのは「ゴッドファーザー」(1972)の大ヒットから。

 圧倒的に若い映画人のフレッシュな作品ながら、アーティスティック一辺倒ではなくエンターテインメント性も重視。過去の作品群へのリスペクトも伺える。過去への回帰ではないが、全くの新感覚作品でもない。ある意味で、新しいカタチのハリウッド娯楽映画再生産となったこの作品を核に、アメリカ映画の体質は徐々に変わろうとしていた。「ゴッドファーザー」のフランシス・コッポラ「ラスト・ショー」(1971)のピーター・ボグダノビッチ「フレンチ・コネクション」(1971)のウィリアム・フリードキンがこれらの「波」の中心人物たちだ。

 ここまで書くと、みなさんはもうルーカス=スピルバーグの時代にまっすぐ突入するように思われるだろうが、実はそれほどハリウッド復興は平坦な道のりではなかった。将来を嘱望された前述の若手たちのうち、コッポラは「地獄の黙示録」(1979)製作に没頭してしばしの沈黙を守ってしまい、ボグダノビッチとフリードキンはわずかな成功の後に次々と凋落。ハリウッドに若手の活躍と新たなエンターテインメントの道筋をつけながら、彼ら自身はすぐに表舞台から去ってしまう(コッポラはその後しばらく次の世代であるルーカス=スピルバーグ一派とツルんで生き長らえるが、結局凋落したのはご存じの通り)。では、次の飛躍の時までの間に、ハリウッドを活気づけ支えたものは何だったのか?

 一方の雄は…骨っぽくて大胆で社会性のある男性映画たち。サスペンスやアクションに形を変えながら、アメリカン・ニューシネマが持っていたリベラリズムを体現していたり、どこかカゲキなアナーキーさをはらんだ映画たちだ。これらを今に再現している作品たちが、例えばスピルバーグのミュンヘン(2005)などであると言えばお分かりいただけるだろうか。

 そしてもう一方、豪華さでこの時代にハリウッドを活気づけたのが、「ポセイドン・アドベンチャー」に始まるパニック映画群だったのだ。

 昔ながらの大作主義、テレビに対抗するようなスペクタクル映像重視、オールスターで見せるグランド・ホテル形式のドラマ構成…それだけを取れば、「ポセイドン・アドベンチャー」はオールド・ハリウッドの復権としか言いようのない娯楽超大作だ。だがよくよく見てみるとこの作品は、従来のハリウッド大作とはどこか一線を画していた。それはプロデューサーであるアーウィン・アレンの資質によるモノが大きい。

 アーウィン・アレンは元々はSF映画のプロデューサーとして、20世紀フォックスでさまざまな作品づくりを続けていた人だ。「失われた世界」(1960)「地球の危機」(1961)などの映画作品や、「宇宙家族ロビンソン」「タイム・トンネル」(1966)や「巨人の惑星」(1968)などのテレビ・シリーズ…で知られるそのフィルモグラフィーは、まさにSF一筋。実は「スター・ウォーズ」(1977)でハリウッドにSF映画ブームが到来する以前において、SF畑専門のメジャーな映画人といえばジョージ・パルやレイ・ハリーハウゼンなど、ごく限られた存在だった。アレンもそんな珍しい存在の一人だったわけだ。それが一体どういう風の吹き回しかどんな事の成り行きか、非SFの娯楽大作「ポセイドン・アドベンチャー」を手がける事になった

 だが一般のハリウッド娯楽大作をつくるにあたっても、そのアプローチの仕方はあくまでアレン流だった。彼は「ポセイドン・アドベンチャー」制作のコンセプトに、SF映画の方法論やSFテイストを盛り込んだのだ。それはもちろん、津波の直撃や船の転覆シーンなど特撮を大きな見せ場にしている点である事は言うまでもない。だが、それ以上に…天地がひっくり返ってテーブルが天井側に回ってしまう状況や、そのテーブルから乗客たちが必死でぶら下がるという奇妙な光景を映画に盛り込んだあたりが、アレンの培ってきた奇想天外なSFマインドの表われだった。SF映画の魅力、すなわち絵の面白さ…センス・オブ・ワンダーだ。一見昔ながらのハリウッド娯楽大作に、こうしたSFテイストを注入したところが新しさだった。

 アーウィン・アレンはこの後、「ポセイドン・アドベンチャー」の方法論をさらに拡大させた豪華大作「タワーリング・インフェルノ」(1974)でハリウッドの頂点に立った。これらが呼び水となって、ハリウッドにパニック映画ブームが押し寄せたのは、みなさんもご存じのことと思う。

 この時期はアレンの資質と時代の要請がピタリと一致した、アレンにとって実に幸福な時期であったに違いない。ただ、それが同時にアレンの悲劇でもあった。彼は成功を偶然と幸運の産物とは思わず、自らの戦略の勝利だと思い込んだ。そこで次々と延長線上の作品スウォーム(1978)、「ポセイドン・アドベンチャー2」(1979)、世界崩壊の序曲(1980)を発表していく。だが、それらはことごとく大コケして一作ごとにジリ貧。アレンはたちまち時代のメイン・ストリームからズリ落ちてしまった。

 その理由についてはいろいろ考えるが、やはり時代が変わったとしか言いようがないだろう。ハリウッドは新世代の映画作家…ルーカス=スピルバーグの時代に入ったのだ。彼ら若い世代の映画づくりと比べると、アレンの娯楽大作群…昔ながらの大作主義、テレビに対抗するようなスペクタクル映像重視、オールスターで見せるグランド・ホテル形式のドラマ構成…というスタイルは、もはや決定的に古色蒼然と見えるシロモノだった。また、その「新味」であったはずのSFテイストについても、「スター・ウォーズ」未知との遭遇(1978)などの「本格派」がすでに登場していたこの時点においては、もはや中途半端でヌルいSFセンスでしかなかった。つまりはアーウィン・アレンのパニック超大作とは、時代の徒花的なハリウッド変革期の過渡的産物だったに違いない。

 だがそれでも…アレンの成功作「ポセイドン・アドベンチャー」と「タワーリング・インフェルノ」の2本には、ハリウッドの伝統と新しいセンスの一種独特な絶妙のブレンドを見ることができる。ゆえにこの2作は、時代を超えて色あせない魅力に満ちているのだ。いまだに何だかんだ言っても、DVDを見ながら思わず手に汗にぎってしまう。そんなストレートな面白さが、アレンのパニック2大作にはギッシリ詰まっているのである。

 

「ポセイドン・アドベンチャー」という作品と僕との関わり

 そんなハリウッドの金字塔である「ポセイドン・アドベンチャー」が日本公開されたのは、1973年3月のこと。アメリカでの大評判を受けての、満を持しての登場だった。実はこの時までにテレビなどで場面の一部が紹介されたりして、「デカい映画」という知識は観客に入っていた。公開間近の映画の内容をテレビで大量露出するという派手な宣伝のハシリにあたるのが、確かこの「ポセイドン・アドベンチャー」だったように思う。

 先に僕はこの映画のことを、「黄金バット」や「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」に匹敵する、個人的にエポック・メイキングな映画…と評していたが、それは決して大げさな表現ではない。僕はこの時には中学の2年生。クラスメイトがなぜか「ポセイドン・アドベンチャー」の試写会に当たって、事前に「面白かった!」とさんざ僕に吹き込んだのだった。見たくて見たくてたまらなくなった僕は、封切りと同時に今はなき有楽座へ。さらにこの時には、ほぼ同時に隣の日比谷映画でスティーブ・マックイーン主演のゲッタウェイ(1972)も公開されていて、結局この作品もすぐに見に行く事になった。そんなわけで「ポセイドン・アドベンチャー」は、僕が頻繁に映画館に足を運ぶキッカケとなった作品なのだ。

 とにかく、僕がどれほど入れ込んだかと言えば…映画館に2度足を運んだのも当時の僕としては異例だし、何と主題歌である「モーニング・アフター」のシングル盤レコードも買ってしまったほど。要は「ポセイドン・アドベンチャー」絡みなら何でも欲しかったのだろう。この時以来、ジーン・ハックマンは大のごひいき俳優となった。僕にとっては、そういう因縁の映画ではある。

 余談ではあるが…「ポセイドン・アドベンチャー」「スケアクロウ」(1973)によってごひいきになったハックマンと同じように、「未知との遭遇」(1977)とグッバイガール(1977)で大好きになったのが僕のもう一人のごひいき俳優リチャード・ドレイファスだ。だからハックマンが主演したオリジナルから今回のリメイクが生まれ、そこにドレイファスが出演するという事は、僕にとってまさに因縁めいた出来事のように思える。この作品を無視する事など、僕には絶対にできないのだ。

 さて話を戻して…「モーニング・アフター」のシングル盤と言えば、これもよくよく考えると実に奇妙な「主題歌」だ。劇中では出演者の一人キャロル・リンレーがバンドの一員として歌う設定になっており、昼間のリハーサルとニューイヤーズ・イブ・パーティーの場面の2度登場する。だがシングル盤は「サウンドトラック盤」と銘打たれているのに、歌っているのはモーリン・マクガバンという聞いたことのない歌手。一聴して分かる通り大がかりなオーケストレーションが聞かれ、映画のものとは明らかに別テイクだ。そもそも映画の中ではちゃんとフルコーラス歌われることもない歌だから、「主題歌」というのもいささか恐れ入る扱いなのだ。 ところが、これがアカデミー賞の主題歌賞を取ってしまったからビックリ。まぁ悪い歌じゃないんだけど、これほど映画の中で影の薄い「主題歌」ってのも珍しいんじゃないか?

 ところがこれに味をしめてか、アーウィン・アレンは「タワーリング・インフェルノ」にも「主題歌」を挿入。「モーニング・アフター」と同じ作詞・作曲家チームに歌を書かせた。今回は映画の中でもモーリン・マクガバンご本人が登場して歌ったが、扱いはビルの落成式パーティーでのバンド演奏…と、「ポセイドン・アドベンチャー」での「モーニング・アフター」と五十歩百歩。歌の出来栄えは…と言えば、メロディからアレンジに至るまで、「モーニング・アフター」のパクりとしか思えない曲になっているので二度ビックリだった。ところが、これまたアカデミー主題歌賞を取ってしまうから呆れる。この時期のオスカーは、よっぽど主題歌候補がお寒かったのだろうか。毎年主題歌賞と言えば名うてのポップス界のスーパースターが出てきて、そこだけグラミー賞かMTVアワードみたいな賑わいになっている昨今とは雲泥の差だ。ま、それはそれでどこかヘンと言えなくもないのだが…(笑)。

 そもそもモーリン・マクガバンという人、一体何者でその後どうなったのか(笑)? 他にレコード出してたんだろうか? ナゾだ。

 それはともかく、今では「タワーリング・インフェルノ」の一種の原型と考えられている「ポセイドン・アドベンチャー」。それはあながち間違いではないが、よく見ると両者には微妙に位置づけの違いがある。例えばグランド・ホテル形式のオールスター・キャスト。「タワーリング〜」はマックイーン、ニューマンを筆頭にオールスターの名にふさわしい豪華な顔ぶれ。だが「ポセイドン・アドベンチャー」に関して言えば、オールスターはオールスターながらオスカー受賞者の名前を並べるという意味づけも強かったようだ。ここではジーン・ハックマン、アーネスト・ボーグナイン、レッド・バトンズ、シェリー・ウィンタース、ジャック・アルバートソン…が受賞者。正直言ってバトンズやアルバートソンはこの時点でも地味で忘れられかけた存在だったから、過去のオスカーの実績がキャスティングの決め手になった可能性大。スタッフもオスカー受賞者で固めたこの作品は、ある意味で「質の高さ」で勝負というのが売りだったのだ(オスカー受賞者だから質が高い…というのはあまりに安易な発想ではあるが)。

 だから実物の映画を見てもらっても分かる通り、かなり「グランド・ホテル」形式のドラマに力が入っている。逃げるメイン・キャストの中でも、かなり濃厚な葛藤がある。ハックマンとボーグナインなど最初から対立しっぱなし。意外なまでの人間ドラマの濃さに驚かされる。正直言って「タワーリング〜」では、ここまでの描き込みはないのだ。

 また、余談ではあるが…今では「裸の銃を持つ男」シリーズでバカ役者のイメージがこびりついたレスリー・ニールセンが、もっともらしい顔をして船長を演じているのが面白い。もっともニールセンはこっちの方が本来のイメージで、SF映画の金字塔である禁断の惑星(1956)においても、宇宙船の「船長」を演じているくらいだ。

 そして興味深いのは、ヒーローであるハックマンの役柄が珍しや「牧師」であること。パニック映画の超大作は数多くあるが、消防士、パイロット、設計技師…などなどが並ぶ主人公の職業の中で、「牧師」というのはいかにも異彩を放っているではないか。ポール・ギャリコの原作がそうなので仕方がないのだが、それにしたって不思議な設定だ。

 さすがに「フレンチ・コネクション」のポパイ刑事を演じていただけあって、ハックマンの牧師は「神に依存せず自力で道を切り開け!」…と叫ぶタイプ。教会でもいささか異端の人という設定だ。そんな独自の宗教観が色濃く出ているお話には、だからキリスト教的暗喩もチラつく。

 中でもハッキリ出ているのは、一同がボールルームからの脱出に使用するクリスマスツリーだろう。こういうお話にクリスマスツリーが出てきたら、まるっきりの偶然ではあるまい。また、他の乗客たちに脱出を呼びかけるハックマンは、彼らから蔑まれ罵倒を浴びる。結局ボールルームはその直後に浸水し、ハックマンを非難していた連中はすべて天罰のごとく溺れ死んでしまうのだ。このくだり、まるでハックマンが「十戒」のモーゼのようではないか。あげく終盤近くでも、ハックマンは神を激しく非難して死んでいく。僕はキリスト教信者ではないのでハッキリと指摘できないのだが、おそらくもっともっと暗喩が埋め込まれているのだろう。監督のロナルド・ニームが以前「クリスマス・キャロル」(1970)の映画化を手がけていた事も、おそらく偶然ではないのではないか?

 これらの事だけでもお分かりの通り、「ポセイドン・アドベンチャー」は単なるスペクタクル・アクション映画とは一線を画しているのだ。

 なおアーウィン・アレンはその後、「ポセイドン・アドベンチャー2」(1979)を発表。転覆したポセイドン号から前作の生存者が救出された後、たまたま積み荷を頂戴しようとして潜入したサルベージ業者たちが、やはりナゾの積み荷に目を付けていた悪漢たちに狙われるというお話。マイケル・ケイン、サリー・フィールド、テリー・サバラスらの出演でアーウィン・アレン自身が監督したが、いかにも取って付けたようなお話も災いして大コケしたのはご存じの通り。何でこんなもんつくっちゃったのかねぇ。失敗作「スウォーム」に続くこの「2」の失敗で、アレンのジリ貧は決定的なものになってしまった。

 事のついでに言うと…今回調べていて偶然に知ったことだが、「ポセイドン・アドベンチャー」はテレビ・ムービーとして一足先にリメイク(2005)されていたようだ。アダム・ボールドウィン、ルトガー・ハウアー、スティーヴ・グッテンバーグ、ブライアン・ブラウン、ピーター・ウェラー、C・トーマス・ハウエルという少々お懐かしい面々の出演によるこの作品、役名に前作と重なる名前が目に付くことからも、どうも原作やオリジナル映画に忠実なリメイクである可能性が濃厚だ。果たしてその出来栄えはどうだったのか?

 ともかくアメリカ娯楽映画史的にも重要な位置を占めており、オリジナル作品の制作者ですら「夢をもう一度」の野望を満たす事のできなかった「ポセイドン・アドベンチャー」。そのリメイクを今製作するとなれば、僕みたいに思い入れのある人間でなくても大いに気になるところ。いや…ハッキリ言ってうまくいく訳ないと思えるのが当然だ。

 今回のリメイク監督ウォルフガング・ペーターゼン「U・ボート」(1981)、パーフェクトストーム(2000)と「海モノ」「船モノ」に強い、さらにトロイ(2004)など超大作もお手のモノ…という点を買われての起用なんだろうが、この人ってその「U・ボート」の直後に「ネバーエンディング・ストーリー」(1984)を撮っちゃう節操のなさが何となく信頼できない。おまけにカート・ラッセル、リチャード・ドレイファスはいいとして、その他はジョシュ・ルーカス、エミー・ロッサムあたりしか知った名前がない…というキャスティングの弱体さも気になった。そして海の向こうから届いた「大コケ」の報。さすがに僕が「やっぱりな」という気になったのも無理のないところだ。

 公開前に試写などで見た連中の意見をネットで探してみても、やけにひっそりしているのが気になる。たまに見つけても、およそロクな事を言われてない。まぁ、いろいろな要素を総合しても絶望的な状況だ。

 だが、それでも…あの「ポセイドン・アドベンチャー」のリメイク作品が公開されるとなれば、見に行かずにはいられない。それは僕の「映画好き」としての原点を訪ねる旅なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

見た後での感想

 映画が始まっていきなり、カメラが海底から水上に上がって航行中のポセイドン号の全景をとらえる。さらにヘリコプター撮影のように豪華客船の上を旋回。途中で甲板をジョギングするジョシュ・ルーカスの姿を捉えては、またしても上昇して船全体をアングルに収め、再び甲板のジョシュ・ルーカスに戻ってくる…。

 この現実には撮影不可能なワンショットを見て、ビックリする人間がイマドキいるだろうか?

 まるで「タイタニック」(1998)の一場面を思わせるフルCGショットだが、「素晴らしいCG」に感激するお客などもはや皆無に近い。「CG」は、どこまでいってもあくまで単なる「CG」。どんな不可能に近いショットでも、撮れて当たり前。有り難みなど全くない。こんな「これみよがし」のCGショットを出されても、別にすごくも何ともないのだ。開巻いきなりそんなフルCGのショットを見せつけられ、たちまち僕は不安になった。やっぱり安易なリメイクをつくっちゃったんじゃないか?

 ところがさらに映画を見ていくうちに、僕はこの作品に対する見方を180度変えていた。

 面白い!

 とにかくあの手この手で、休むヒマなく主人公たちは追い立てられる。テンポが全体的にスピードアップしているだけでなく、余計なところ無駄なところもほとんどない。何しろオリジナル版は117分あるのに今回の映画はたったの98分! 元の作品より20分も短い。大体イマドキの映画じゃ異例の短さなのだ。こりゃスピードアップするわけだ。

 だから前作と違うのは、まず全体のテンポ。何と映画が始まってすぐに大波が襲って来て、アッという間に転覆。主人公たちがボールルームを立ち去るのもすぐだ。

 オリジナルでは大波の理由が海底地震と説明されるし、船主のセコい要請によって船のバランスが悪かったという事も説明される。起きるべくして起きた「人災」としての位置づけがなされているのだが、新作ではそんな事も一切語られない。考えてみれば被災して脱出する人々にとっては、転覆の原因が何であれ「人災」であろうとなかろうと、全く関係ない。だから今回はバッサリと切ったのだろう。

 さらに驚くべきは、メインの登場人物さえもバックグラウンドがほとんど説明されないこと。一応主演級のジョシュ・ルーカスがギャンブラーでカート・ラッセルが元ニューヨーク市長などと説明され、ラッセルは娘と折り合いがイマイチ良くないらしい、リチャード・ドレイファスはゲイで恋人と別れたばかりらしい…ぐらいは分かるようになっているものの、これらは比較的まだ説明されている方。他の登場人物に関してはほとんどどんな人物か分からない。それぞれの設定もロクに活かされない。それらの人物のキャラクターに根ざした感情の動きも、ほとんど映画には描かれない。

 だからオリジナルにあったジーン・ハックマンとアーネスト・ボーグナインとの対立のような、感情のうねりもない。せいぜい酔いどれギャンブラーのケビン・ディロンがそんな「問題人物」として出てくるだけ。しかも彼はウダウダ言い出したとほぼ同時に、サッサと画面から退場させられてしまう。不満分子に言いたい事を言わせてる余裕はない…とでも言うべき呆気なさなのだ。

 実際のところ、この映画にはそんな事をやっているヒマがない。何しろ水はどんどん背後から迫って来て、この先どうするのか?…なんて迷ったり悩んだりしている余裕が全くない。立ち止まってもいられない。ともかくほとんど何も考えずに、思いつく事は何でもやって乗り切っていくしかないのだ。これは本当に息つく暇ないサスペンスだ。

 だから、確かに前作と比べると味気ないとかドラマがないとか…その手の批判を浴びる可能性は多分にある。ゆったり構えた物語の妙味などは味わえない。グランド・ホテル形式のドラマなんて望むべくもない。よくよく見ると脚本の人物設定にも少々破綻があって、これだけしかいないメイン・キャストにギャンブラーの役柄の人間が2人もいるというのは何かヘンだろう。カート・ラッセルが元ニューヨーク市長で元消防士であるという設定も、ほとんど活かされていないように思える。自殺志願者のドレイファスが「何が何でも生きよう」という心境に変貌するあたりも、殊更に描き込まれてはいない。

 だが、だからこそ…息せき切ったようなホントのパニックの緊迫性が出た。浸水のスピードも増していれば、生存者が通るダクトも閉所恐怖症ギリギリの狭さ。こういう緊迫感の醸成は、前作よりも明らかに増量している。だからこんな時にチンタラとドラマやっている場合でない…という判断だろう。

 試しにオリジナル「ポセイドン・アドベンチャー」を見てみたら、一同がボールルームを脱出し終わるまで何と50分が経過していた。この時点で、まだ本筋は始まっていない。このゆったりさ加減を考えれば、今回の作品のテンポの速さ、密度の濃さがお分かりいただけると思う。前作は前作で、あのテンポはそれなりに意味があった。だが今回の作品は、これはこれでちゃんと今回の語り口に意味があるように思える。ドラマがロクにない、殺伐としたただのコケ脅し映画とは思わない。

 あまり活かされてないカート・ラッセルの元ニューヨーク市長で元消防士という変な経歴も、おそらくはこの映画が「9・11」以後の作品…市民生活が危機と隣り合わせの時代の産物であるという事を強調しての設定だろう。リチャード・ドレイファスの「生への回帰」も、あえてクドクド言わなくても映画を見ていれば想像はつく。むしろそういう描写ははぶいているからこそ、かえって伝わる部分もあると思うのだ。

 そして今回賛否両論ありそうなのが、ドレイファスが同行者を振り落とす事になるくだり。脱出行が始まっていきなり、こんな場面が出てきてしまうのがちょっとショッキング。おそらくヒューマンな感動やらキリスト教の暗喩が強調されたオリジナルでは、およそ考えられないであろう描写だ。ズバリこんなシビアな状況を逃げずに描いたあたりが、今作の性格を如実に表している。

 不思議なのは…現代にこの「ポセイドン」をリメイクするならば絶対にCG多用するはずだろうと思えるし、現実に冒頭場面から超長回しのCGショットを据えて、全編CG技術をガンガン駆使することを予感させながら…実は意外にもどこか「手作り」感が漂っていること。確かに大波の襲来場面は怒濤のCG技術で見応え十分。確かにこのスゴさはオリジナルでは望むべくもなかった。これは素直にCG技術の勝利と言っていい。だが主人公たちの脱出のサスペンスそのものは、ほとんどが巨大セットの中での俳優によるライブ・アクションにかかっている。だからロクにセットも建てない昨今のハリウッド映画の中で、異例のライブ・アクション重視…アナログ感の充満する作品になっているのだ。これは本当に意外だった。

 いささか弱体と思っていたキャスティング…何しろトップ・ビリングがあのステルス(2005)のジョシュ・ルーカスなのだから、全体的にどうしても小粒感は避けられない。だが、これもかえって良かった。ハッキリ言って誰が死んでもおかしくない。…死んでも惜しくないとも思えるが(笑)。おまけにメイン・キャストの中で「大物スター」と言えるのはカート・ラッセルとリチャード・ドレイファスだけなのに、片方のラッセルまであっけなく死んでしまう。これは見ていてハラハラせざるを得ない。だから、よりリアリティがあるキャスティングだと前向きに考えたいところだ。

 唯一残念な点を挙げるとすれば、船が転覆した事で生まれる180度天地逆転の世界…その奇想天外さがあまり感じられないこと。オリジナル「ポセイドン・アドベンチャー」では、床に据え付けられたテーブルに多くの乗客がぶら下がってしまい、力尽きた者から墜落する…という恐怖が強調された。脱出行途中でも、例えば逆さになった男子トイレの便器など…珍妙な風景がいろいろ出てきた。その奇妙さが、今回の「ポセイドン」にはあまり感じられない。そもそも慌ただしくて忙しくて、とても周囲の状況を見ている余裕はないのだ。それを考えると、天地逆転の奇妙さがあまり描かれなかったのも致し方ない事なのかもしれない。

 ともかく何しろ98分だ。だから目まぐるしい展開は避けられない。おっとりしたコクや味わいも期待できない。何かをじっくり見せる時間もない。

 だが同時に、贅肉も全くない。構えばかりデカくてダブついた大作が多い中、それだけでも評価に値するではないか。確かに大作感は乏しいかもしれないが、この映画は最初からそんなものを目指していない。

 パニック映画にして初めて、本当の硬質でリアルなサスペンスを狙った作品なのかもしれないのだ。

 

見た後の付け足し

 そんな意味で、まるでオリジナル「ポセイドン・アドベンチャー」とは別物と考えた方がいいような今回の「ポセイドン」。しかしそんな本作のクレジットを見ていたら、何と「アーウィン・アレン・プロダクションズ」の文字があるではないか。

 オリジナルの制作者アーウィン・アレンは、すでに失意の中で亡くなっているはず。よくよく見てみると今回の作品、制作総指揮者(エグゼクティブ・プロデューサー)の中に「シーラ・アレン」の名前が…。なるほど、 アーウィン・アレンの未亡人が製作に参画しているのか。

 シーラ・アレンはその名を元々シーラ・マシューズといい、「ポセイドン・アドベンチャー」では冒頭で船酔いに苦しむステラ・スティーブンスを船医と共に診察に来る看護婦、「タワーリング・インフェルノ」ではグラス・タワー落成記念パーティーに出席したサンフランシスコ市長夫人…の役で出演していた女優だった。すでに当時結構いいトシの、それこそシェリー・ウィンタース体型(笑)のオバサンだった。

 そんな彼女がアーウィン・アレン夫人になったのは、おそらく「タワーリング・インフェルノ」完成直後のこと。「タワーリング〜」の制作中は、フェイ・ダナウェイがJ・ガイルズ・バンドのボーカリストであるピーター・ウルフと結婚、脚本家スターリング・シリファントもベトナム人女優と結婚…というスタッフ・キャストの「結婚ラッシュ」状態。アーウィン・アレンとシーラ・マシューズも「タワーリング」撮影中に婚約…と、当時の劇場パンフレットに書いてあった。その後もアレン制作の「世界崩壊の序曲」に火山島の住民の一人として出演していたが、彼女の女優としての姿を僕がスクリーンで見たのは、確かそれが最後だったはずだ。そんな彼女が今回の作品のプロデューサー…こう考えると、何となく感慨深いものがある。

 そのせい…というわけでもないが、まるっきり様変わりしたリメイク「ポセイドン」なのに、所々にオリジナルの痕跡が伺えないでもないのだ

 例えばオリジナルのパメラ・スー・マーティンエリック・シアの姉弟の設定は、今回のジャシンダ・バレットジミー・ベネットの母子に移行。エリック・シアとジミー・ベネットがそれぞれメイン・キャスト中で唯一の子役であることも共通項なら、この二組のペアの片方が天井に取り残されている点(「ポセイドン・アドベンチャー」では姉のスー・マーティンがテーブルに取り残され、「ポセイドン」では息子のジムー・ベネットがピアノに取り残された)も同じだ。船が転覆して乗客が脱出する以外はすべて新しくした…とペーターゼンは主張しているようだが、脚本家は結構オリジナル版を配慮して要素を取り入れているように思える

 もっと些細な点を挙げれば、「ポセイドン・アドベンチャー」と同じく今回もボールルームに歌手が登場。脱出行には参加しないまでも、ちゃんと歌を披露しているではないか。面白いのは…今回の船が巨大化したためにボールルーム内をエレベーターが動いている設定なのだが、このエレベーターが「タワーリング・インフェルノ」に出てくる展望エレベーターそっくり(笑)! これってたぶん偶然じゃないだろう。

 無念に野望が潰えたアーウィン・アレン…まるでその遺志を継ぐように、リメイクに埋め込まれた要素の数々。オリジナル版に並々ならぬ愛着のある僕としては、そんなリメイク版の配慮がちょっと嬉しかったんだよね。 

 

 

 

 

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