「アンジェラ」

  Angel-a

 (2006/06/05)


  

見る前の予想

 リュック・ベッソンの久々の監督作が来る…と聞いて、みんなどう思っただろうか?

 何しろ最後の作品から6年ぶりだ。ではそれまでの間、リュック・ベッソンの名はまったく聞かれなかったのかと言えば、逆にむしろ前より頻繁に聞かれていたはずだ。この監督としての長い「不在」の間、ベッソンはもっぱら「リュック・ベッソン・プレゼンツ」作品をせっせとつくり続けていたのだ。それがまた、どれもこれも駄菓子みたいなヨーロッパ製娯楽映画ばかりだったから、彼のイメージはすっかり一変してしまっていた。そのおかげで…かつてはフランス映画の新たな旗手とまつり上げられていた彼の名は、すっかり映画ファンからバカにされるシロモノになっていたのだ。

 案の定、今回の新作について感想らしきモノはどこからも出てこない。映画そのものもあまり当たってないようだし、どこでもその評判を耳にしない。一応は知られた監督の久々の新作なのに、まるでテレンス・マリックのニュー・ワールドみたいに誰も語ろうとしない。これはどうした事だろう?

 それが映画ジャーナリズムの上だけの事ならありそうな話だが、ネット上の映画ファンですらこのテイタラク。何となく最近話題になる映画とそうでない映画が、激しく画一化してきたと思うのは僕だけだろうか? 一握りの話題作については山ほど語られるのだが、それ以外は一切無視ってのは果たしてどんなものだろう? 以前からそういう傾向はあったと思うが、こうもワンサイドになってしまうと何となく違和感を感じるのだ。

 そういう僕も、実はベッソンの新作なんぞ大した期待もしていなかった。だから見ないで済まそうと思った。ちょっと底が浅そうなお話だな…とも思っていたからだ。だって、何となく見る前にネタが割れていたからね。まぁ、もっともベッソンの底の浅さは今始まった事じゃない(笑)。

 ただ…こうも映画ファンから黙殺されると、どうも気になる。かえってどんな映画だか気になって仕方がない。罵倒されるならまだしも、黙殺ってのはどういう事なのか。何だかんだ言ってもかつてはそれなりに実績があった人なのに、ここまで無視されちゃうってのは実に奇妙だ

 それも、ここへ来てみんながみんな一斉に右へ倣えしてるみたいな気持ち悪さがあるからイヤなのだ。これは決して気分だけの問題ではないんじゃないか?

 ならば決まりだ。ヘソ曲がりの僕は、あえてベッソンの新作を見に行く。これは僕の「心の問題」なのだ。

 

あらすじ

 アメリカの市民権を持ってはいるが、実はいまだに根っからフランス人のチンケな小男アンドレ(ジャメル・ドゥブーズ)。本人としてはニューヨークを住まいにして、世界各地に手広く商売を広げているのが理想の姿。しかし実際には、本人はこうしてパリの街ではいずり回るように暮らしていて、やることなすこと裏目に出てばかり。安易に重ねた借金が積もりに積もって、セーヌ川のほとりでチンピラどもにドツかれるかと思えば、エッフェル塔でヤクザに脅される。そのあげく、誰も彼もが決まり文句のようにこう彼に言い渡す。

 「今日の12時までに金をつくれ、さもないと命がねえぞ」

 だが今さらアンドレに金策のアテなどない。ただただ焦り狂うだけで夜が明けてしまった。アメリカ大使館に助けを請おうとしても、元々が抽選で当たって転がり込んで来たアメリカ永住権。逆にさまざまなケチな余罪を暴露されて追い出されてしまう。ブタ箱にしばらく匿ってもらおうと警察署に駆け込んでも、結局は体よく叩き出されてしまう。

 もはや万策尽きた。追いつめられたアンドレは、橋の欄干から乗り出して今にも身投げしようという体勢になった。そして「これが最後」とばかり、天に向かって恨み言…。

 「オレがこんな目に遭っていても、何もしやしねえ!」

 ところが…ふと横を見ると、アンドレのすぐ隣の欄干にも一人の女が身を乗り出しているではないか。それも金髪で背も高くどこかゴージャスな美女。これから身投げしようというには、あまりに「らしくない」女なのだ。これにはアンドレも我が身を忘れて驚いた。

 「おい、アンタ何をしようっていうんだ?」

 「あなたと同じ事よ」

 「何でそんな事をしなきゃならないんだ?」

 「あなたと同じ理由よ」

 そんな訳の分からない禅問答みたいなやりとりをしているうち、女は川に身を投げてしまった。これにはアンドレもビックリして、思わず後を追ってダイビング。必死に泳いだあげく、彼女を助けて岸へと泳ぎ着いた。

 まったくこの男が人助けなど「らしくない」。ついでに言えば、そんな事をやってる場合でもないし、そもそも彼は泳げないのだった

 助けたら助けたで、引き続き禅問答みたいなやりとりを続けてくる女…彼女の名はアンジェラ(リー・ラスムッセン)と言った。いっそ死ぬならオレのために生きろ…などとアレコレ言っているうちに、何と彼女は「アンドレの言うことをきく」と言い始めるではないか。ますます訳が分からなくなってきたアンドレではあるが、 行きがかり上今さら彼女を見捨てる訳にもいかない。それより、いつの間にかアンジェラはとても「死にたい」という風情にも見えなくなってきた。そんなこんなで…チンケで冴えない小男と背が高くプロポーション抜群の美女は、なぜか行動を共にすることになった

 不思議なことにアンジェラはアンドレを叱咤激励し、彼に考え方から生活態度まですべてを改めるよう説得し始めた。それをうるさがりながらも、不思議な説得力を感じてしまうアンドレ。しかも彼女といると、根性なしのアンドレも何か勇気づけられる気がするのだ

 金貸しの手下たちに見つかっても、彼女と一緒だからなぜか怖くなかった。こうして金貸しのフランク(ジルベール・メルキ)と「ビジネス上の話し合い」をすることになったアンドレ。その場にも、アンジェラはそのゴージャスな姿で同席することになったわけだ。ところがアンドレはまったく「話し合い」になってない。それでもアンジェラの存在のおかげか、その場は丸く収まる。そしてアンジェラは、フランクと二人きりで別室へ…。

 すぐに戻ってくるやその手に札束をにぎっていたアンジェラに、アンドレはすっかり穏やかならぬ気分。その金をどうにも素直に受け取れない。そうは言っても、そんなえり好みをしている場合でもないのだ

 ともかく、もっと金が要る。するとアンジェラは、小汚いアンドレを連れてシャレたクラブへ。そこでアンドレを店内バーのカウンターに待たせたまま、踊っている男性客を片っ端から口説き始めた。アンジェラの囁きに陥落した男性客は、いきなりカウンターのアンドレに金を差し出す。そしてアンジェラと一緒にトイレに消えてしまった。これにはアンドレもたまらない。すっかり頭から湯気を立ててトイレに駆け込むが、アンジェラはまるでアンドレを相手にせず、「個室」内でえっさえっさと忙しい。

 こうして次々「客をとる」アンジェラのおかげで、アンドレの手元には札の山ができあがる。だが気持ちはどんどん落ち込むアンドレは、浴びるほど飲んだ酒のおかげでぐでんぐでんだ。

 ともかくその金を掴んで金貸しの一人を訪ねると、すこぶるゴキゲンになった金貸しはアンドレに耳より情報を教える。何ととっておきの競馬情報で、絶対イタダキ間違いなしの話だと言うではないか。そうなると居ても立ってもいられないアンドレ。アンジェラが「全部スルわよ」と言っても止まらない。よせばいいのに彼女が稼いだ金の残り全部を、残らず問題の馬にブチ込んだ。

 思った通りスッテンテン。

 業を煮やしたアンジェラは自らの正体を明かし、与えられたミッションをアンドレに告げた。それをにわかに信じられないアンドレはアンジェラをさんざ笑いモノにしたが、目の前でその「証拠」を突きつけられたら大人しく信じるしかない。

 そしてアンジェラは、アンドレに告げた。「あなたは本当は内面にとても美しいモノを持っているの。それに自分で気づかなくては…」

 

日本におけるリュック・ベッソン作品の紹介ぶり

 リュック・ベッソンの作品で日本に最初に紹介されたのは、彼の監督第二作「サブウェイ」(1984)。それは1986年の12月のことだった。公開は東京・渋谷のシネセゾン渋谷での単館上映。今ではとても信じられないだろうが、ベッソンの日本デビューは何と「ミニシアター」で実現していたのだ。

 この時代が映画にとってどんな時代だったかについては、同時代的に日本初紹介された映画作家たちやその作品群を紹介していけば、何となくお分かりいただけると思う。例えば今ではすっかり有名になったコーエン兄弟のデビュー作「ブラッドシンプル」(1984)が、直後の1987年3月公開。確か俳優座シネマテンで、細々と公開されたはずだ。さらに今をときめく問題児ラース・フォン・トリアーの日本紹介作品「エレメント・オブ・クライム」(1984)の公開が同年4月。これは東京・渋谷の旧ユーロスペースでの上映。さらにこの年のアカデミー賞レースを賑わしたために公開となったものの、それまでは全く日本に作品が入ってきてなかったジェームズ・アイボリー監督の日本紹介作「眺めのいい部屋」(1986)の公開は同年7月。これもどこかミニシアターでの単館上映だったと記憶している。初紹介ではないものの、シネヴィヴァン六本木を舞台にエリック・ロメール作品が本格的に紹介されていったのも、確かこの前後のことだ。こうした面々と共に「ミニシアター」で日本に初めて紹介された映画作家だった…とご承知いただければ、当時のリュック・ベッソンの位置づけがお分かりいただけると思う。

 こうしたヨーロッパやアメリカ・インディーズ系の映画作家が、これほど相次いで同時期に日本紹介されたのには、ちゃんとそれなりの理由があった。それは1970年代以降の日本における、ヨーロッパ映画やマイナー映画公開の偏りに端を発していた。

 1970年代に入ってすぐにアメリカ映画は娯楽大作主義で息を吹き返し、たちまち日本における外国映画マーケットを席巻してしまった。特にこのあたりからアメリカ映画のヒット作は、「エクソシスト」や「タワーリング・インフェルノ」など次々に全国拡大公開を実施。これによってヨーロッパ映画を初めとするマイナー作品は、日本の市場からほとんど閉め出される結果になってしまった。ヨーロッパ映画と言えばアラン・ドロン主演作とポルノだけ。何とこの時期には、ルキノ・ヴィスコンティやフランソワ・トリュフォーの作品ですら満足に公開されないという事態になっていたのだから、これがいかに不自然な事だったかお分かりいただきたい。

 ところがサタジット・レイ作品上映などに始まる岩波ホールの成功により、ヨーロッパなどのアート系映画やマイナー映画公開の道が細々とではあるが形成され始めた。ちょうど世の中にバブルが蔓延するや、「衣食足りて礼節を知る」ではないが誰もが文化・芸術的な志向を持ち始めるようになった。早い話が鈍くさい田子作も少々気取り始めた(笑)。映画もまた、その例外ではなかったのだ。マーケットにもその余裕が出てきた。

 さらに決定打が、ホームビデオの登場。これによってアッという間に映画のソフト不足が加速化し、それまで日本のマーケットからは冷遇されていた類の作品まで漁られる事になったわけだ。「ミニシアター」はその受け皿にもなった。

 そうなると、ヨーロッパなどの手つかずの映画作家にも、どんどん日本のバイヤーの食指が伸びることになる。かくして「日本初紹介」の映画作家のフレッシュな作品群が、次々と日本のスクリーンに登場。そんなさまざまな映画作家たちの中に、あのリュック・ベッソンも含まれていたというわけだ。当然、受け入れる僕らの側も、彼らを同じようなポジショニングで受け止めていた。この時点では、僕らにはコーエン兄弟やトリアー、アイボリーなどと大差ない存在にしか思えなかった。

 ともかくこの時点で「サブウェイ」が日本のスクリーンにかかった理由はいくつかあって、まずはフランスでの興行的成功、そして日本でも知られているスターのイザベル・アジャーニ主演映画という事が大きかったはずだ。クリストフ・ランベールはともかく、今では大物であるジャン・レノ、リシャール・ボーランジェ、ジャン=ユーグ・アングラード、さらにジャン=ピエール・バクリなどもこの時点ではほぼ無名。何の吸引力もなかったはず。結局、日本には「アジャーニ主演の風変わりな映画」として入ってきた事になる。

 ただこの時期、フランス映画に何か新しい動きがあるのでは…というムードが高まっていたのは確かだ。「サブウェイ」出演者として先に挙げた中の一人ボーランジェの出演作、ジャン=ジャック・ベネックス「ディーバ」(1981)がすでに日本公開されていたし、レオス・カラックス「汚れた血」(1986)も一部のファンの間ではそろそろ話題にのぼりつつあった。そういう面々と一緒に、リュック・ベッソンもまたフレンチ・ニューウェーブの一角を占めると思われていたのだ。今考えてみれば少々ズレた位置づけだった訳だが、この当時の僕らの認識はそんなところだった。

 そんな実際の作品「サブウェイ」に接して、まず目を見張ったのはいきなりパリの街でのカー・アクション。そして主人公が入り込む地下鉄駅のアンダーグラウンドな世界。こうしたダイナミズムやストレートな発想が、非建設的な屁理屈をこねくり回したり、台所でゴキブリ追い回すようなチマッとした従来型のフランス映画とは違って、僕らの目にえらく新鮮に見えたのだ。例えば地下鉄駅のアンダーグラウンドな世界はフランカ・ポテンテ主演の近作イギリス・ドイツ合作映画O:34/レイジ34フン(2004)にも描かれていて、僕はこの作品を見ながら「サブウェイ」を懐かしくも思い出したりしていたが、どっちかと言えば「サブウェイ」の方がスケールも大きいしファンタジー的度合いも大きかったように思う。つまり従来のフランス映画のカテゴリーの中では、非常に珍しいタイプの映画だった。僕も、「これは面白い新人が現れた」と興奮して見た記憶がある。生意気にも迂闊にも「前途有望」なんて思っちゃったわけだ。

 こうして日本の映画ファンにとっても僕にとっても、フランス映画の若き俊英として位置づけられたリュック・ベッソンは、たちまち次の作品が待たれる存在となった。だが次に日本のファンの前にお目見えしたベッソン作品は、実は新作ではない。それは1987年6月に日本公開された、「サブウェイ」に先立つ監督デビュー作「最後の戦い」(1983)だ。核戦争で文明が崩壊した後の世界を描いたSFという時点で、従来のフランス映画にはまず見られない企画。しかも戦争の影響でか、みんな声が出ないという設定。つまりは台詞でなく映像で勝負したいという、ツバル(1999)などと同じような 疑似サイレント映画企画なのだ。それでいてドルビー・ステレオの音響、モノクロなのにシネマスコープ…と自由なんだか不自由なんだか分からない表現フォーマットを駆使しているあたりも野心的だ。

 だからこの当時のベッソンは、アート・シアター向けの映画作家と思われても何ら不思議はない。実際、このデビュー作も小ホールみたいなところで公開された記憶がある。最近の「ベッソン・プレゼンツ」作品だけ見てバカにしている今日びの映画ファンには、想像もできないのがこのあたりの作品なのだ。

 そしてベッソン映画は、またしてもひょっこりと日本に流れ着いた。いや、実は僕は映画雑誌のカンヌ映画祭記事で、その作品「ザ・ビッグ・ブルー」の存在を知っていたのだ。海を舞台にした超大作で、なぜかアメリカ女優ロザンナ・アークェット主演。元々がフランス映画のワクを飛び越える映画づくりの兆候を見せていたベッソンだが、ついにここでそれを実現してしまったのか。そのカンヌの第一報を追いかけるように、パリでの空前の大成功というニュースも入ってきた。これはぜひ見たい!

 ところが日本にやってきたその作品「グレート・ブルー」(1988)は、やけにひっそりとした佇まいで公開されてしまった。それと言うのも、この作品の特異な成立事情があったのだ。

 この映画自体はフランスのゴーモンが制作した純然たるフランス映画だが、アメリカのロザンナ・アークエットが主演し世界を股に掛けたコスモポリタンな作品。そこで多額の制作費回収の意味もあって、英語で台詞が話される作品となっていた。そのため題名も「THE BIG BLUE」。大作であり本国フランスでも大ヒットし前述アークェット主演ということで、世界配給は20世紀フォックスが行うことになった。つまり日本での配給もフォックスが担当することになったのだ。

 フォックスとしては大作ということで大劇場を押さえ、何と70ミリ・プリントに焼いての満を持しての公開。それ自体は、この映画の扱いとしては間違っていなかったと思う。しかしフォックスは、日本のマーケットの特殊事情を考慮に入れてなかった。ベッソンはまだ日本では一部のマニアックなファンにしか知られていないフランスの映画監督。アークェットもいわゆるビッグスターではない。浸透させるための事前の宣伝もロクにない。これでいきなり大劇場にかけても、客なんぞ来るわけもない。

 例えば新宿歌舞伎町では、このエリアで東宝系最大の劇場・新宿プラザが押さえられたが、ここは本来が「スター・ウォーズ」や「ダイ・ハード」などハリウッド系娯楽大作が上映される映画館。そこにいきなり渋谷のミニシアターでやっていたベッソンの映画がかかってしまうのだ。無理がありすぎる。

 ミニシアターでベッソン映画を見ていた従来のファンも、この映画には足を運ばなかった。元々ミニシアター・ファンは数が少なく、キャパが小さい劇場だからこそソコソコ一杯になる。それが大劇場でガンガンやったら、場内がパラパラになるのも仕方ないだろう。おまけにミニシアターの観客はスノッブな人種で、彼らは「他の一般大衆が見ないハイブロウな映画」だと思うからミニシアターの映画を見に来る。大劇場でやる映画など、ハナからバカにして見に行かないのだ。こうして、ただでさえ少ないファンも見に行かなかった。

 フォックスもフォックスで、1988年8月という「夏休み興行」の作品にしては宣伝に力を入れてなかった。…というより、ほとんど宣伝していなかった。この映画が「ビッグ・ブルー」でなく「グレート・ブルー」になってしまったのも、同時期にフォックスがトム・ハンクス主演の「ビッグ」(1988)を抱えていたからだと聞けば、力の入れようも伺えようというもの。

 かくして「グレート・ブルー」は東宝系洋画の主力館で上映されながら、記録的な不入りになってしまう。かくいう僕も予想外に早い打ち切りの報にビックリ。慌てて新宿プラザに駆けつけたが、その時のあまりの館内のガラガラぶりに唖然呆然。平日の最終回とは言え、1044人のキャパに対して入っていた観客数が…あれはおそらく10人もいなかったのではないだろうか? 僕はこの時以上に、新宿プラザがガラガラになっていた時を知らない。

 だが映画そのものは…これは真面目な話、本当に素晴らしかった。おざなりに人間のドラマらしきモノがあることはあるが、そんなものはハッキリ言ってどうでも良かった。ただただ青い海が画面一杯に広がるのを見ていれば良かった。70ミリ大画面いっぱいに真っ暗な青。そこにドルビー・ステレオ音響で、潮騒や水の流れやエリック・セラの音楽が流れる。ハッキリ言って、僕にとっては「2001年宇宙の旅」(1968)以来の体感する映画だったのだ。観客もほとんどいない冷房が効きすぎの新宿プラザだからこそ、あの深海の暗さ静けさが体感できた。僕にとって「グレート・ブルー」とは、映画を超えた映画だったのだ

 こんなに素晴らしい映画なのに、日本ではほぼ黙殺されたも同然。僕にはそれが理不尽でならなかった。

 こうして日本におけるベッソンは極めて地味〜な存在に逆戻りと思いきや…ここで極めて日本的なミーハー現象が起きて、ベッソンと「グレート・ブルー」に一気に注目が集まったから世の中は分からない。その発端は一体何だったのか僕はよく知らないが、例の「グレート・ブルー」をたまたま見る機会があったギョーカイ人が、自分の「先見の明」をあちこちで自慢した…というような事なのだろうか? それとも輸入ビデオ・ソフトの映像が「そのスジ」の連中にBGVとしてバカ受けでもしたのか?

 ともかくなぜか「グレート・ブルー」の評判が一人歩きして、一種のセンスのいい「おしゃれアイテム」のように話題にのぼるようになった。何とも不思議な話だ。実際に見た人間はほんの一握りなのに、まるで「伝説の作品」のように名前だけがモテはやされる。当然のごとくベッソンも、スター・ディレクターとして名を知られることになった。

 えっ、スター・ディレクター?…何じゃそりゃ?

 

日本におけるベッソン映画評価の栄光と転落

 だから1991年の1月にベッソンの新作「ニキータ」(1990)が公開された時、上映館が「ミニシアター」でなくて一般のロードショー劇場に格上げされていたのにはさすがに驚かされた。ハッキリ言って一般のロードショー劇場と言えば、アメリカ映画の娯楽作品の独壇場。イマドキは韓国映画などもロードショー劇場で華々しく公開されるが、この当時は(そして今でも)まずヨーロッパ映画の出番はなかった。それが一気にA級大作化しての公開というのは、やっぱりパリでの大ヒットや内容が分かりやすいアクションだった事だけではないだろう。リュック・ベッソンという名前がミニシアター・ファンを突き抜け、一気にミーハー・メジャー化したという事が大きかったはずだ。

 映画そのものも、なかなか面白かった。ただし、今までで最も通俗的な「マンガ」みたいな話。これまでもベッソン映画はストレートさが売り物ではあったが、これはその中でも最も分かりやすい単純な話だ。それでも、映画そのものに力があったから見ていて面白かった。そして今までになく主人公のキャラも立っていた。最初に「サブウェイ」を見た時には想像もできなかったが、ベッソンはフランス映画界でアメリカ映画に対抗でき得る唯一の人物のような気がしていた。

 だが同時にこのあたりから、僕は何となく違和感みたいなものを感じ始めていた

 何しろあの「グレート・ブルー」が一人歩きして、訳の分からない人気を呼んだバブリーさが胡散臭かった。これってみんな、ベッソン映画を本当に見て気に入っているのだろうか? 何だか怪しい。

 そんな「ニキータ」が初めて当たって、ようやくベッソンは日本において興行的成功を収めた。一般の映画ファンに至るまで、みんながリュック・ベッソンという名前を認知したのも、たぶんこの時だ。そんな余勢をかって、あの「グレート・ブルー」が1992年8月に装いも新たに再登場。今度は前回の失敗から学んでか、“ちゃんと”渋谷のミニシアターでの公開だ。その「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」(1988)は、フランスでオリジナル版公開後に発表されたロング・バージョン。しかもロング・バージョンは国際版と違って「おフランス語」に吹き替えられていたから、「知る人ぞ知る映画」としてミニシアターのスノッブさにもピッタリ(笑)。このへんのインチキっぽさが、いかにも日本の映画ファン事情を象徴していた。以降、この映画のことを誰も「グレート・ブルー」と言わず、「グラン・ブルー」と呼んでいるのもそんな胡散臭い事情からだ。

 ついでに「グレート」もとい「グラン・ブルー」の余録でできたような海洋ドキュメンタリー「アトランティス」(1991)まで公開。結局、これがミニシアターで上映された最後のベッソン映画となった。

 そんな背景を知っているだけに、僕はあの映画を「グラン・ブルー」とは呼ばない。恥ずかしくて呼べないし呼びたくない。日本における「グラン・ブルー」は単に「グレート・ブルー」の長いバージョンとは思えない。それはもはや全く別のモノとして存在している気がするのだ。何かもっと別の…いかがわしくて安っぽくてインチキ臭いモノ…。

 そしてベッソンは、続く「レオン」(1994)で長年の盟友ジャン・レノを完全な主演に据えた。舞台はニューヨーク。台詞は英語。一見、完全なアメリカ映画に見える作品。実際にはフランス・ゴーモンの出資による映画なのだが、ベッソンのアメリカ映画志向はここで一つの結実を見たと言えよう。

 そもそも当初からフランス映画らしからぬスケール感とダイナミズムを持っていたベッソンは、実際に「グレート・ブルー」からアメリカ映画と接点を持ち始め、「ニキータ」は100パーセントのフランス映画ながらハリウッドにリメイク権が売れて、ブリジット・フォンダ主演「アサシン」(1993)となった。だからこの人が完全にアメリカに上陸するのは、もはや時間の問題だったのだ。

 それは日本におけるベッソン映画のミニシアター時代に、確実にピリオドを打つことを意味していた。アメリカ娯楽映画を見る人種とミニシアター映画好きとは、この国では相容れない。ベッソン映画はスノビズムの呪縛を逃れた代わりに、徹底的なミーハー路線を突き進むことになったのだ。

 実際のところ、これらの事情は単にわが国の映画興行と映画ファンの志向によるものだし、それもたまたま起きた変化でしかなかった。ましてベッソンが、「これからはミニシアター路線はやめよう」などと考えてやっていた訳ではない。だが不思議とベッソンの場合、分かりやすすぎるほどにこの路線に乗っかってしまった。このあたりの単純ぶりや分かりやすさに、実はベッソン映画の本質があったと分かるのは、この後のことだ。

 「レオン」の世界的大成功によって、ハリウッドでも知られるようになったベッソン。僕も「レオン」は嫌いな映画じゃない。とても気に入ってはいるのだが…何となく奥歯にモノのはさまったような気分が残った。後に、「レオン」の物語がほとんどジョン・カサベテス「グロリア」(1980)のパクりであることに気づいて、僕のこの疑問は氷解したわけだが…。

 そのイヤな予感はさらに続いた。何でもベッソンの新作が、さらに大型予算のSF大作だと知ったからだ。しかもベッソンを無名時代から支えて来たジャン・レノが起用されないということも、不安に拍車をかけた。そしてベールを脱いだ新作「フィフス・エレメント」(1997)は…。

 くっだらねえ〜〜!

 悪いけど、30年は感覚がズレてる未来のお話。エアカーのイエローキャブ運ちゃんブルース・ウィリスが主役ってのも、何だか冗談みたいだ。「マンガ」なんだよ、やっぱり。ただマンガはマンガでも、幼稚でガキくさいという意味での「マンガ」。お話も面白くないし、設定からして中学生みたいな発想だし、ひでえシロモノ。見ていて口をアングリ開けてしまうほどあきれ果てた。こりゃ一体何なんだ?

 映画全編に漂う、単純さ、幼稚さ、バカっぽさ…まだどこか「ミニシアター」時代のリュック・ベッソンの残骸みたいなものを引きずっていた僕は、猛烈に違和感を感じていた。これはベッソンのハリウッド化のせい…という訳でもないな。ハリウッド映画もバカっぽいし幼稚だけど、このベッソンほど知能指数が低くはない。本当に子供がつくった映画みたいだ。それも無邪気や無垢っていうんじゃなくて、単に頭が悪いって意味で(笑)

 そんなこんなですっかり映画ファンを当惑させたリュック・ベッソンの次の作品は、何とジャンヌ・ダルク(1999)と来たからハッタリもいいとこ。しかもキャストにはジョン・マルコビッチ、フェイ・ダナウェイ、さらにダスティン・ホフマンまで引っ張り出すハリウッド志向。まぁ、大作映画監督となったのはめでたいことだ。だが映画の出来栄えやいかに。

 さすがに今回は「フィフス〜」に懲りて覚悟していたせいか、それほど酷いと思わなかった。それでも単なるヒステリー狂信女にされたジャンヌ・ダルクにはゲンナリさせられたし、思ったほど酷くはなかったけど面白くもなかった。

 おまけにベッソンは何を血迷ったか、あと2本撮ったら監督を辞めるとか1本撮ったら辞めるとか…ジョージ・ルーカスみたいなふざけたコメントを発したからたまらない。あと2本と言わず今すぐ辞めてもいいよって気分になってしまった(笑)。

 実際その言葉を裏書きするように、ベッソンは「ジャンヌ・ダルク」を最後に監督業をストップさせてしまった。その代わり、始めたのがプロデューサー業。そのあたりもルーカスっぽいのだが、驚いたのはその作風の変貌ぶり。

 いや、変貌…とは言えないな。むしろ近年どんどん傾斜していった方向に、さらにまっすぐ突き進んだと言うべきだろう。いわゆる「リュック・ベッソン・プレゼンツ」の作品群に共通するテイストは、ハッキリ言って「バカっぽさ」だ。

 元々ベッソンは当初からプロデューサー業にもスケベ根性を見せていて、「サブウェイ」直後に早くも「神風」(1986)なるヘンテコなSF映画をつくっていた。これなども「フレンチ新感覚派」の一人として、ちょっと風変わりなところを見せたんだろう…ぐらいに受け取られていたが、今にして思えば「バカ映画」の片鱗がすでに現れていたのだろう。「つめたく冷えた月」(1991)などのマトモな(笑)「プレゼンツ」作品もあるが、その真価が発揮されるのは「フィフス・エレメント」直後の「TAXi」(1997)。イキがよくて笑えるアクション・コメディながら、問題なのは冒頭に流れる曲。「ミザルー」なる懐かしサーフィン・サウンドの曲をテーマ曲のように使っているのだが、これってクエンティン・タランティーノが「パルプ・フィクション」(1994)で発掘してきた曲ではないか。ハッキリ言ってベッソンは、それまでこの曲のことは知らなかったはず。そんな曲を臆面もなくパクって使っちゃう神経が、およそ中学生以下としか思えない(笑)。そんないいかげんな作品に続編TAXi 2(2000)をつくるぐらいならまだしも、「TAXi 3」(2003)とか「TAXI/NY」(2004)とかってシリーズ化や英語版リメイクまでデッチ上げてしまうんだから、何をか言わんや…。

 そして「ジャンヌ・ダルク」の後には監督業から解放されたせいか、ベッソンは「プレゼンツ」作品を乱発することになる。ミュージカル仕立ての「ダンサー」(1999)とか、広末涼子に手を出すためにつくったともっぱらウワサのWASABI(2001)、なぜかジェット・リーと組んでのキス・オブ・ザ・ドラゴン(2001)、ジェイソン・ステイサムとスー・チーという東西意表を突いた顔合わせのトランスポーター(2002)、カーレース・マンガの映画化「ミシェル・ヴァイヨン」(2003)、他人の大ヒット作品の続編にまで手を出すクリムゾン・リバー2/黙示録の天使たち(2004)、再びのジェット・リーに名優モーガン・フリーマンを組み合わせるという異色作ダニー・ザ・ドッグ(2005)…とまぁ、これ以外にもいろいろあるが、撮りも撮ったりの作品群。それらを一つひとつ検証する気はないが、どれをとっても「マンガ」的なお話、中学生的単純発想、バカっぽい作品群なのに恐れ入る。

 ただ僕にとっては元々垢抜けなくて泥臭いヨーロッパやフランス製の娯楽映画が好きなので、これらの映画が放つ「駄菓子屋」的臭いがキライになれない。第一これらの作品には、最後の頃のベッソン監督作に漂っていた「オレは大物」とか「この映画は大作」というような鼻につく偉そうな傲慢さは見受けられない。最初っからテメエで「これは大した事のない映画」と自覚してつくられたような、愛すべき謙虚さがあるから憎めないのだ。

 ただし、確かにここにはとてもじゃないが、「ミニシアター」作家ベッソンの面影なんぞカケラもない。だからイマドキの映画ファンがベッソンと聞くと頭からバカにするのも、それはそれで分からないでもない。彼らはこうした「プレゼンツ」作品しか知らないのだ。ベッソン=バカ映画と考えても、それは仕方がないのかもしれない。でもねぇ…。

 そこから調子に乗って「ニキータ」「レオン」あたりをケナすならまだしも、勢い余って「グレート・ブルー」(繰り返して言うが「グラン・ブルー」ではない)、「サブウェイ」「最後の戦い」あたりまでコキ下ろすに至っては、「ちょっと待ってくれ」と言いたくなる。それって…誰も見てないくせにウワサだけで盛り上がった「グラン・ブルー」によって、ベッソンが実体のない名声にまつり上げられた時とどこが違うのだろう? ホメると来ればホメ一辺倒、ケナすとなれば坊主憎けりゃ的に徹底的にケナす。しかもその根拠たるや、実はほとんどの人がちゃんとは目撃していない。実体のないあやふやなイメージや、偏った先入観のみで評価している。あるいはかつてはベタホメしていた連中が、そんな事はなかったようなフリをして口汚くケナす。「最初っからオレは大した事ないって思ってた」なんて言うんだよね。じゃあホメてた奴はみんなどこに行っちゃったんだ(笑)。一体何なんだろうね、日本の映画ファンって?

 つまり日本におけるリュック・ベッソンという映画作家は、終始このような実体の伴わない毀誉褒貶にさらされ続けていたのだ。それが彼をいつも胡散臭くバブルな存在にもしていたし、実体よりも無駄にリッパに見せてもいたし、必要以上に蔑まれる雰囲気をつくってもいた。実はベッソンって、日本では本当の「等身大」で見られた事が一度もない。ある意味では、そこが彼の悲劇的なところと言えなくもないのだ。

 とは言っても、監督作「フィフス〜」や大量の「プレゼンツ」作品でハッキリしたベッソンのバカっぽさは、今にして思えばその当初から存在していたとも言える。改めてベッソンの「監督作」を検証していくと、そんな一種の暗号…「ベッソン・コード」(笑)がハッキリしてくる。それは当初から、ベッソンの女性観や恋愛観に如実に出ているのだ。

 例えば「最後の戦い」の女を求めてのオデッセイは、動物的・性的な「それ」というより何となく「あの娘が欲しい〜」という「花いちもんめ」的なモノとは思えないか(笑)。何だか女を求める気持ちの発露の仕方ってのが、いかにも童貞のガキっぽい。「サブウェイ」も空き地の秘密基地でガキが遊んでるみたいではないか。あれは子供の夢だ。「グレート・ブルー」の最後なんて、女とイチャつくよりボクは遊んでいる方が楽しんだも〜ん…とでも言いたげな、中学生通り越して小学生みたいな発想だ。これまた童貞くさい。そんな見方でどんどん見直していくと…「ニキータ」ってやっぱり「マンガ」だよなと思えるし、「レオン」も前述したようにカサベテスの「グロリア」のアッケラカンとしたパクりぶりが大人のやる事じゃない。そして「ニキータ」も「レオン」も、そこに流れる女性観はかなりガキっぽい。後者「レオン」に関しては、大人の主人公が守るべき女の子に投げかける視線もかなりアブないのだ。このロリコンすれすれのテイストは、主人公=作者の男性としての未成熟ぶりを表してないだろうか?

 また「フィフス〜」のガキっぽさも言わずもがなだが、「ジャンヌ・ダルク」にしたって後半はいかがなものか。いきなりダスティン・ホフマンの「良心」が出てきて、ジャンヌ・ダルクが神がかりになった理由をいちいち検証していく。その言葉が、そのまま画面に何の芸もなく「絵解き」として出てくるところの単純な発想が…よくよく見るとちょっとセンスがなくて恥ずかしくはないか? やっぱりいいトシした大人の映画作家のやる事じゃないのだ。

 だからリュック・ベッソンは、実はそのごく初期「ミニシアター時代」から“あのベッソン”だった。終始一貫して幼稚で単純でバカっぽかった。ただし…当初は彼の権力も限られたものだったから、それを前面に出す事はできなかった。それが彼の作品に、絶妙のブレンド感を出していたのだ。そうなれば、彼の幼稚さバカっぽさも「隠し味」になる。それが彼にフランス映画にして異色の題材を選ばせ、明快さとダイナミズムを与えたのだ。その意味では、幼児発想は決して悪い事ではなかった。そこそこ出しているぶんには作品を引き立てる味になったのだ。だから、僕も含めてみんなその「ベッソン・コード」に気づかなかった。

 だが映画がヒットして徐々に好き勝手な権力を振るえるようになると、今度はその 幼稚な発想を前面に出すようになる。だから映画そのものは、ベッソンが偉くなればなるほど徐々に破綻の兆しを見せ始めたのだ。

 自分の趣味を全面展開できるようになった彼が、バカ映画を量産しているのも当たり前のことだ。それを心ゆくまで楽しみたいなら、責任負担を軽くするために監督を降りるのも当然だろう。面倒くさいことをせずに指図だけできるプロデューサーというポジションなら、自分が好きなこと「だけ」やっている事ができる。監督さえ降りちゃえばラクになれると思っているあたりが、そもそも中学生的発想なのだが…。

 そんなベッソンがなぜかまた監督業に復帰したと聞くと、どうにも不思議な気持ちがする。一体いかなるモチベーションで、監督業に復帰したのかと疑ってしまう。何よりかつて監督をやっていた時とは、彼を取り巻く周囲の空気もまるで違うのだ。

 とりあえずあのジャン・レノと…今回に至っては片腕だった作曲家エリック・セラとの関係まで断ち切って、リュック・ベッソンは一体どうするつもりなのか? 調子こいてるのはいいが、決してテメエ一人で偉くなったわけじゃないと思うんだけどねぇ…。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 タイトルを見た段階で、ヒロイン「アンジェラ=ANGEL-A」が天使であることはミエミエ。ならば思わせぶりな扱いをしなけりゃいいのに…とちょっとシラける。どっちにしろまたもや女を生身ではなく「天使」として美化して崇め奉っちゃうような、童貞中学生視点の映画なのか…と思っていささかゲンナリ。それと同時に、ベッソンが「まだ見てない人には黙っていて」ともったいつけてるエンディングについても、あらかた予想はついてしまった。だとしたら、何だか恐ろしく凡庸な話だよなぁ

 で、見てみると、まったくその予想通りだったからビックリ(笑)

 何というかひねりがないというか工夫がないというか、ベッソンは短期間で脚本を書き上げたと豪語しているが、そんな事まったく自慢にもならない。「もっと時間かけろよ!」と怒鳴りたいところだ。ハッキリ言って努力が足りなすぎるよこの男は。

 幕切れにしたって何の仕掛けもどんでん返しもアイディアもなく、天国に戻っちゃったと思っていたアンジェラ=天使が、主人公への情にほだされてか地上にとどまっちゃいました…だけでオシマイ。どうして彼女が地上にとどまれたのか、主人公の根性が勝ったのか、何か神様と取引でもしたのか、彼女が地上にとどまれる天国の法の抜け道でもあったのか…そういう工夫や仕掛けやアイディアは一切無し。「その方がハッピーエンディングでいい感じだからそうした」…って言いたげな、あまりに頭の悪い終わり方だ。そんな調子なのはエンディングだけではない。途中のお話にも、別に面白いエピソードや驚きは何もない

 では、恐ろしく退屈でウンザリする映画か…というと、これがそうとも言い切れないから映画は不思議だ

 それはなぜかと言えば…主役二人のキャラクター造形とキャスティングに成功しているからだろう。アメリ(2001)やミッション・クレオパトラ(2002)でも笑わせてくれた小男で冴えないコメディアンのジャメル・ドゥブーズと、ファム・ファタール(2002)でいきなりヘビ型の装飾ブラを付けて出てきたのっぽのゴージャス美女リー・ラスムッセン。この二人のコンビネーションが何とも奇妙。この凸凹コンビの出で立ち…彼らがすっとぼけたやりとりをしているだけで、何となく微笑ましくなって来る。これは配役の勝利だろう。というか、ほとんどそれで救われていると言っていい。ドゥブーズの愛すべき個性と二人のコンビネーションの妙で、何となく巧まざるユーモアが漂ってくるのだ。これはベッソンの想定内だったのか、それとも偶然そうなってしまったのか分からないところがベッソンの危うさだが、ともかくこの主人公二人のキャスティングは映画の愛すべき魅力になっている

 それにしても、このお話の他愛のなさと言ったら…。

 テメエの自業自得でドツボに追い込まれた冴えない男に、絶世の美女がやってきてアレコレと面倒見てくれる。厄介事をすべて解決してくれる。おまけにキスしてハダカまで見せて、あげくの果てに自分に対して惚れてもくれる。

 正直言ってこの映画のお話は、男の都合のいい夢だ。それも中学生男子あたりが考えそうな、「こんな女いいな、会えたらいいな」…ってなドラえもん的願望としか言いようがない。途中でアンジェラがベッドでしきりに誘惑してくるのに、主人公がムキになってそれに抵抗するあたりもガキ的潔癖性だ。大人はこんな甘ったれた映画はつくらない。

 そのへん作品に一貫しているベッソンの中学生的体質=ここで言う「ベッソン・コード」全開と言えそうだが、それがなぜか今回はジャメル・ドゥブーズの個性と、主役二人のコンビネーションのおかげで中和されていたのかもしれない。幼稚で見るに耐えないとまでは、僕も今回は思わなかったのだ。

 それどころか、一箇所ひどく共感したところもあった

 アンドレの性格的欠陥を指摘したアンジェラは、彼に愛の必要性を説く。自分を愛するには、まず人から愛されなくてはいけない。そして自分のことも愛さなくては、人を愛せない…。

 このシーンには、なぜか妙に実感がこもっていた。それはベッソンの本音の部分が含まれているからではないか。実は外見は冴えなくて発想は中学生のベッソンは、自分の理想の女にこう言ってもらいたいのではないか

 そんな場面にいささかなりとも切実な何かを感じてしまう僕も、どこか中学生体質でテメエに都合のいい夢を抱いているのかもしれない。

 

見た後の付け足し

 正直言って他愛なさすぎでドラマとしても凡庸。何ら工夫も売りもインパクトもない映画になっちゃったこの映画だが、先に述べたように僕にはちょっと愛すべき点もある映画に思える。これで「監督復帰」とはいささかムシが良すぎるベッソンだが、それでもこの映画、僕にとっては予想していたよりもまだマシな出来映えだった。…っていうか、よっぽどヒドイと思ってたのか(笑)。

 ただ、見ていて何となく…鮮度がないというかありきたりというか、これってどこかで見たような映画だなぁとは感じていた。果たしてこれって何に似てるんだろう?…とアレコレ考えたあげく、あったあった、ありました。ブチ当たったのが、つい数年前に公開された一本のフランス映画。

 それはパトリス・ルコント橋の上の娘(1999)だ。

 ヴァネッサ・パラディダニエル・オートゥイユという二人が主演のこの作品、若く美しいパラディと冴えない中年男のオートゥイユという組み合わせの妙で見せるが、橋の上で今にも身投げしようとするパラディが、オートゥイユに呼び止められるところからドラマは本格的にスタートする。結局パラディは川に飛び込み、はずみでオートゥイユも飛び込んで彼女を助ける…というパターンがまず同じだ。そして「徹底的にツキがない」と嘆くパラディを勇気づけるために、オートゥイユは次々と奇跡を演出して見せてやる…。この簡単なストーリーを見ても分かる通り、「橋の上の娘」は「アンジェラ」と酷似する点がかなり多いのだ

 オートゥイユはパラディを自分の女とはしようとせず、彼女が男を引っ張り込んでも忸怩たる思いを抱きながら見て見ぬふり。そのあたりのガキっぽい潔癖性ぶりも共通するものがある。何よりこの作品が、イマドキ珍しいモノクロ・シネマスコープの作品であることが何よりの証拠。ここまでくると、これは単なる偶然の一致とは思えない。「橋の上の娘」がベッソンの前作「ジャンヌ・ダルク」と同年の公開であることも、こうやって考えると関連性の一つに見えてくる。

 果たしてこれほどのポジションの映画監督が、そんな臆面もないパクりをやるか?…とは思ったものの、何しろ「パルプ・フィクション」で使われた曲をシレッと「TAXi」でまんま使っちゃったり、「グロリア」をパクって「レオン」を平気でつくっちゃうベッソンだ。それを考えたら、いかにもやりかねないではないか

 ただしルコント作品はさすがに大人の映画で、ヒロインを「男には御しがたい」パラディに演じさせているあたりが秀逸。男にとって女とは、決して都合良く優しい存在ではない。むしろ思うに任せない、どうにも始末に負えないままならない存在である事の方が多い。そのへんをちゃんとわきまえているだけルコントは大人だ。あくまでテメエ勝手な甘い夢を見ているベッソンとは大違いなのだ。どんなに一生懸命パクっても、「中学生」ベッソンには到底太刀打ちできないところが哀しい。太刀打ちできないくせに、それでもパクっちゃうところがまた哀しい。すごく頭悪そう(笑)。

 そんな毎度お馴染み「ベッソン・コード」に気づいたら、またまた気持ちがどんどん萎えてきちゃったんだけどね。 

 

 

 

 

 

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