「ニュー・ワールド」

  The New World

 (2006/05/22)


  

見る前の予想

 テレンス・マリック久々の新作である。もっとも前作から7年程度のブランクでは、この人の場合「久々」などという言葉は相応しくないかもしれない。何せ前の映画シン・レッド・ライン(1998)は20年ぶりの作品だった。ボチボチやってるという感じではないか。

 幻の巨匠の最新作。そりゃ映画ファンなら見逃せない。もちろん僕だって…と思いながらも、なぜか腰が重くなる。実は何となく見たい気がしない。なぜだろう?

 おまけに今回のお話は、あの「ポカホンタス」だと言う。う〜〜〜む、アンタこれ本当に見たいか?

 

あらすじ

 1607年、豊かな土地アメリカのヴァージニア入植地。イギリスからはるばるやって来た帆船が、この未開の土地に勇姿を現した。ニューポート船長(クリストファー・プラマー)ははやる気持ちを抑えきれない。船員たちも、目の前に広がる雄大な光景に興奮気味。何をやらかしたか牢に閉じこめられていたジョン・スミス(コリン・ファレル)も、新大陸の気配に熱くならざるを得ない。

 だが落ち着きを失っていたのは、イギリス人たちだけではなかった

 陸から「侵入者」を遠巻きにして見ていた、先住者たちの目があったことを忘れてはならない。彼らは遠い昔から営々と築かれてきた生活を、今日もこれまでと変わらぬように続けていたのだ。その鼻先に、「侵入者」たちは現れた。

 案の定、この両者の遭遇はまもなく現実のものとなった。ニューポート船長は小競り合いを好まなかったので、最悪の衝突は避けられた。先住者を刺激しないように、彼らはささやかな砦を作り始めた。

 しかしこのままで満足しようというイギリス人でもなかった。彼らはさらに自らのテリトリーを広げようとしていたのだ。ただし、それには物資の補給がいる。ニューポート船長は船ですぐにイギリスに取って返して、再び物資を持ってこの地に戻ってくることを約束。それまで残された者たちで、砦を守るように厳命した。

 さらにここに根付くには、現地を支配する王と交渉する必要があった。それは川を遡った奥地に暮らす偉大な王。そこでニューポート船長は、例のスミスをその先遣隊の隊長に任命する。何かと札付きのスミスはアクの強い人物で、それゆえ敵視する者も少なくない。だがニューポート船長は、その行動力を高く評価していたのだ。新大陸に魅せられていたスミスも、この任務にまんざらでもないようだ。

 早速ボートでどんどん川を遡っていく。ボートで上れないほど川が浅くなったら、今度は岸に上がって前進だ。ところが深い岸部の草むらで一同とはぐれたスミスは、やがて一人深い森に入り込む。そこで襲ってきた先住民の戦士たちに組み伏せられ、彼らの集落まで連れて行かれるハメになってしまった

 連れて行かれた先は、間違いなく「王」の住処に違いない。アレコレと詮索がなされた末に、どうやら「侵入者を殺せ」との沙汰が下ったようだ。ところがその瞬間、一人の娘がスミスの前に立ちふさがったではないか

 その娘…まだ幼さの残る清純なポカホンタス(クオリアンカ・キルヒャー)は王の末娘だ。

 結局、彼女の命乞いによってスミスの命は助けられ、彼はこの集落の捕虜となった。しかし捕虜といってもクサリでつながれるわけではない。彼はほとんど自由に歩き回れたのだった。

 そしてスミスと親しくなったポカホンタスは、それぞれお互いの言葉を教え合う。言葉が分かるようになって、互いの親しさがますます増していくのは自然の理だ。父王はそんなポカホンタスを心配するのだが、彼女の気持ちは止まらない。一方スミスも打算やねたみや虚栄などといった発想のない先住民たちに畏敬の念を抱き、さらにポカホンタスに惹かれていく。それはまるで夢のような生活だ。

 だがあまりに親しくなる二人を見かねて、王はスミスを釈放することにした。それは、「春にはイギリスに帰る」という約束でもあった。これで晴れて自由の身のはずのスミスだが、ポカホンタスと別れ別れになってしまう事を考えるととても喜べない。複雑な表情で、砦へと戻るスミスだった。

 そして砦に着いてみると…あの素晴らしい先住民の集落での日々は夢のまた夢。飢えと疫病で一同は荒みきっており、砦の指揮を執っているウィングフィールド(デビッド・シューリス)は、元々スミスを好いていなかった。いきなり「反乱罪」だと銃を突きつけられるスミス。一触即発。だが横暴なウィングフィールド自身が一同に恨みをかっていたからマズかった。たちまちウィングフィールドは撃ち殺され、スミスがこの砦の指揮を任される

 だが、だからと言って状況が好転する訳でもない。飢えはなくならず病で倒れる者も後を絶たない。死体を食う者まで現れる。スミスもこう思わざるを得なかった。あれは夢だった。そして夢から覚めた。

 やがて冬がやってきて、飢餓が極限まで達したある日。先住民族たちが食料を持って、スミスの砦を訪れるではないか。何とあのポカホンタスがスミスたちの身を案じて、父王の目を盗んでコッソリ差し入れを持ってきてくれたのだった。

 そして春。スミスとポカホンタスは、ひそかに再会して愛を育んだ。だが、王はスミスたちが帰国しない事に怒りを露わにし、砦めがけて一気に軍勢を送った。血で血を洗う激しい戦闘。犠牲者が続出。そんな中、「敵に通じていた」ポカホンタスを父王は断腸の思いで追放する。

 するとポカホンタスの身柄を引き受けた彼女の叔父は、砦側にシチュー鍋一個と彼女との交換を申し出る。もし彼女を砦が受け入れたら、さすがの父王も攻撃はすまい。砦が陥落するのも時間の問題となっていた中、一同は彼女を受け入れることを決意する。唯一反対したのは、彼女の立場を案じたスミスだけ。それが災いして、スミスは指揮官の地位を剥奪された。

 そうとは知らぬポカホンタスは、単身イギリスの砦へと赴く。そこにニューポート船長率いるイギリス帆船も戻ってきて戦況は一変。戦いは一気に収束へと向かった。

 こうして「平和」がやって来た。

 先住民族の「王女」として受け入れられたポカホンタスは、英国からやって来た世話係の手で、徐々に英国流の生活様式を学び始める。窮屈な服、靴、マナー…名前も英国流に「レベッカ」と名付けられた彼女に、スミスは困惑を隠せない。

 一方ニューポート船長は、反逆罪として苦役を課せられていたスミスの地位を回復。そして国王からのインド新航路調査の要請を伝える。しかしこの話を受け入れるということは、「レベッカ」との別れをも意味していた。

 結局スミスは、ある日突然彼女を置いて去って行った。さらに知人に頼んで、彼は任務途中で死んだと彼女に伝える手はずもとった。すべての望みを失って独りぼっちとなった「レベッカ」は、すっかり魂の抜け殻と化してしまう

 そんな彼女を、妻子を亡くしてイギリスから渡って来た貴族ジョン・ロルフ(クリスチャン・ベール)がじっと見つめていた…。

 

寡作家テレンス・マリックとの不幸な出会い

 寡作で知られる映画作家テレンス・マリックの名は今でこそ日本でも知られているが、紹介されるまではかなり時が必要だったし、紹介されてからもしばらくは忘れられた形になっていた。つくられた作品は、今回の「ニュー・ワールド」を含めてたったの4本。いずれも「傑作」としての評価が定着している作品ばかりだが、実は僕にとってテレンス・マリックという映画作家は、イマイチ掴み所のない人という印象があった。

 まず最初は「天国の日々」(1978)。リチャード・ギアの出世作の一本ともなったこの作品、人殺しを犯してしまった青年が恋人と妹を連れて逃れ、大農場に雇われる…というお話よりも、まずはトリュフォー組の撮影監督ネストール・アルメンドロスによる圧倒的な撮影で評価が高かった。日本には「デイズ・オブ・ヘブン」という原題名がかなり早い時期から入っていながら、どちらかと言えば地味めなお話に配給会社が敬遠。公開されたのは5年後の1983年となってしまった。

 だが「天国の日々」の公開が先送りになっている間、実は日本ではもう一つのマリック作品が、ひっそりと人の目に触れていたのだった。

 それが彼の監督デビュー作地獄の逃避行(1974)だ。

 おそらくタイトルは主演のマーティン・シーンが「地獄の黙示録」(1979)の主演者だったため。それ自体が、当時のマリックの日本での知名度を示している。というか作品が公開されていないのだから、一部の映画ファン以外知る由もなかったのだ。逆に作品未紹介の映画監督が、限られた形でとは言えある程度知られていた事こそ、極めて異例と言うべきだろうか。

 僕も偶然、この1980年5月16日のテレビ放映を見ていた。ちっちゃいカラーテレビの画面を通しても、その映像の素晴らしさは十分伺えた。殺人を繰り返しながら恋人と逃亡を続ける無軌道な若者のお話。恋人役はシシー・スペイセク。ナレーション多用の演出は当時から一貫しているスタイル。ボンヤリ見ていた僕でも、これは傑作だと興奮した。むしろ全くどんな作品か予備知識がなかったから、この映画に素直に圧倒されたのだろう。

 そんなわけで、「地獄の逃避行」の素晴らしさが、またまた「天国の日々」への期待をいやが上にも増したのだった。

 「天国の日々」公開までにはリチャード・ギアは「アメリカン・ジゴロ」(1980)あたりで一気にスターになっていたし、この作品で話題のブルック・アダムスも「SFボディ・スナッチャー」(1978)や「さらばキューバ」(1979)などでヒロインぶりを発揮していた(その後ジリ貧になってしまったのはお気の毒だが)。この作品の存在感だけは、映画雑誌などなどで肥大するだけ肥大していた。ロサンゼルスでは70ミリ公開されたという映像美も、僕の脳裏ではものすごいイメージとして勝手に増殖していたのだ。日本のミニシアター・ブームの甲斐あって、ようやく実物に接することが出来た時の僕のトキメキをご想像いただきたい。

 しかし実際のところ、人間の想像力に勝るイメージはこの世にはない。「良い映画」だとは思った。だがバケツの底が抜けるほどの衝撃は受けなかったし、一生心に残る感銘も受けなかった。そりゃそうだ。こっちは5年間ぶん溜め込んだ濃厚なドラマと、ロサンゼルスのシネラマドームで上映されたであろう70ミリ・バージョンの素晴らしい映像のイメージが勝手に出来上がっていた。それが実際の制作から何年も経って鮮度も落ちて、しかも物語はさまざまな媒体で語られ尽くして、シネラマドームとは極北の都内の狭いミニシアターのスクリーンに登場したのだ。落差が大きすぎる。

 かくして僕にとってテレンス・マリックは、「拍子抜け」の映画作家として刻印される事になったのだ。もちろん世評の高さから、「ガックリした」とは口が裂けても言えない。だけど、やっぱり「この程度」のものか…という失望はどうしても隠せなかった。これをこんなに待ったのかオレは。

 そしてマリックは、この後まったく作品を発表しなかった

 それは日本に作品が来ないという事ではない。そもそも映画を撮っていないのだ。例えばキューブリックなんかも寡作で知られているが、それでも3年に1本、5年に1本ぐらいは撮っていた。テレンス・マリックは寡作どころか、たった2本撮っただけで消えてしまった。それも失敗作を撮って、その後撮れなくなったわけではない。僕にはイマイチだったが、「伝説的」成功作を撮った後でかき消えてしまったのだ。こんな映画作家、他には聞いたことがない。

 もっとも僕は先にも述べたように「天国の日々」がイマイチだったから、別に消えても惜しいと思っていなかった。そして、マリックの新作は二度とスクリーンに現れないだろうと思ってもいた。…というより、正直言って完全にその存在を忘れていたのだ。

 ところが20年ほど経ったある日、マリックが再び始動するとのニュースが入って来たではないか。それも戦争映画の大作。いまや伝説的映画監督のマリックには、ハリウッド・スターからの「出演したい」という声がひっきりなしにかかっているという。それを聞いた僕は、映画ファンとして当然の「見たい」という思いとともに、何となく妙な違和感も感じていたのだ。

 オールスターの戦争映画…それってテレンス・マリックの映画らしいだろうか?

 何となくオールスター戦争映画と聞いて「遠すぎた橋」(1977)みたいな作品を連想した僕には、「地獄の逃避行」「天国の日々」との落差に困惑してしまった。それでも20年ぶりの新作。期待しない訳にはいくまい。先に公開されたアメリカでも、早くも怒濤の好評ぶりが伝えられていた。日本でも先に見た批評家たちが絶賛を繰り返していた。期待するなと言うのが無理だ。

 こうしてスクリーンで対峙した新作「シン・レッド・ライン」(1998)は、ガダルカナルでの米軍と日本軍との戦闘を描いたもの。興奮に胸躍らせていた僕だったが…。

 これもやっぱりダメだった

 なぜダメだったのか…当時の自分の感想を読んでもサッパリ分からないのだが(笑)、おそらくどこが良いのか「分からなかった」という事に尽きるのではないか。少なくとも僕が期待を膨らませ過ぎた事が、最大の失敗だったのだろう。そして、これは今でも覚えているのだが…途中でヒョイヒョイと顔を出すスーパースターたち、ジョン・トラボルタとかジョージ・クルーニーとか…が、思いっ切り作品世界から浮いていてシラケを誘ったのは間違いない。何となく、映画全体が新装開店のパチンコ屋とそこに飾ってある花輪みたいなイメージに見えたのだ。こりゃ「作品」じゃねえなって気がした。テレンス・マリック復帰記念パーティーってことかい。

 しかし世評では「シン・レッド・ライン」は大絶賛。これまた伝説的作品になってしまった。そして僕は沈黙した。何となくスッキリしない拍子抜け映画…僕にとってのテレンス・マリック作品というのは、そういうイメージだった。

 だからそのマリックが、わずか7年で新作をコッソリ発表。しかも、それが世間的にも騒がれずに静かに公開されたのに驚いた。むろん期待なんかする訳もない。ただ、自分の中でのマリック評価に決着を付けるために見に行ったようなものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

見た後での感想

 そんな自分の中で評価が割れるマリック作品。今回映画ファンの話題にものぼらずヒッソリとした中での公開。果たしてその出来映えは?

 実は、かなり気に入った

 とりとめもない印象をポロポロ述べる事しか出来ないのだが、「未開の地」アメリカにスミスたちが乗り込んでいくあたり、突然僕はまったく別の映画を連想してしまった。

 それはウェルナー・ヘルツォーク監督の「アギーレ・神の怒り」(1972)だ。スペイン人による黄金郷「エルドラド」探険の旅を描いたこの作品、川を遡る悪夢のような旅を描いてコッポラの「地獄の黙示録」のヒントにもなったと言われる。僕は今回のマリック作品の前半部分を見ていて、どうしてもこの「アギーレ」が脳裏に浮かんで離れなかった。「未開の地」新大陸の偉大さや得体の知れなさに対する畏敬の念みたいなものが、両者に共通するような気がするのだ。そして僕にとって「アギーレ」は大好きな作品だ。だから、それだけで今回のマリック作品は大いに気に入った。

 そして、この映画にはいろいろな切り口があるし、いろいろな見方も出来るだろう。何だか今ひとつとりとめもない語り方で申し訳ないが、この作品の場合にはこれが正直な印象だ。

 ただ興味深いのは、この映画が「悪」であるヨーロッパ文明が「善」である先住民族を悪辣に滅ぼした…といういささか手垢がついたステレオ・タイプな描き方を、極力避けていることだ

 むろん先住民族の「無垢」ぶりは大いにうたいあげられているし、イギリス人たちの「俗」…権力闘争やらつまらない権威やマナーや形式、とめどもない欲や無神経ぶりは容赦なく暴かれている。それが両者の悲劇的衝突の一因にもなっている。だが、だからと言って両者の衝突は、「悪役」と「善玉」との対決、憎むべき悪行とはまったく描かれていない。誤解を恐れずに言えば、避けられない運命や自然の必然のように描かれているのだ。まるで2種類の動物たちが衝突する様子を、じっと目撃している感じ。この淡々とした感じ…しかし決して冷徹に「観察」するわけでなく、いくばくかの「達観」を込めて描いているのが、実にユニークだ。その衝突を、衝突によって生じた悲劇を…白人が悪いとか悪党だなどと今の視点で火の見櫓から見下ろして語っても仕方がない。肉食獣が草食獣を襲って食うように、人間はそういう生き物なんだから仕方がない…というような、冷たくはないが醒めた視点。それが、他の映画とは一線を画するところだ。

 そんな人間たちの衝突の舞台となる「新大陸」が、実は本当のアメリカ、ヴァージニアで撮影されたと聞いて、僕は本当にたまげてしまった。いや、だってすごい大自然が、まるで手つかずのような状態で残っている。CGなんかの誤魔化しもなしだ。よく残っていたなぁというか、よく探したよなぁと感心してしまった。ともかくこの大自然が圧倒的でないと、「新大陸」への畏敬の念も出てこない。この映画ではロケ地はすごく重要な位置を占めているから、実際のアメリカにそれがあったというのは極めて重要な気がする。

 そんなわけで、圧倒的で豊かで得体が知れないほどの「新大陸」の大自然を描きながら、そこに自然の営みを描いたドキュメンタリーのような視点で淡々と人々のやりとりを見つめていく。これは非常に珍しいアプローチだし、そもそもアメリカ=ハリウッド映画的なモノから最も極北にある態度だ。それなのにハリウッド資本の力でそれを実現してしまうというのが、テレンス・マリックのほとんど奇跡的な手際。他の人にはちょっとマネの出来ないところだろう。

 

見た後の付け足し

 今まで述べたのは、確かにこの映画の魅力の大きな部分に間違いない。そしてそれらは、今考えてみると「天国の日々」「シン・レッド・ライン」にも感じられたことだ。だが、それらがこの映画の横糸だとすると、もう一つ「ラブストーリー」の縦糸がある。言うまでもなくディズニーでアニメにもなった、かの有名な「ポカホンタス」のお話だ。

 ただしこれも、それこそディズニー・アニメみたいに「前向きにひたむきに生きる」ヒロイン像なんかを期待したら大いにはぐらかされる。むしろマリックとしては、ポカホンタスよりも彼女を取り巻く二人の男たちの方こそを描きたいようなのだ。

 まず最初の男、ポカホンタスの「誘惑者」となるジョン・スミス。映画へは「謀反人」として獄につながれての登場というあたりからしても、ルールやワクに囚われない規格外の男。よく言えば「自由人」というやつだ。だから先住民族の暮らしの素晴らしさを素直にストレートに受け入れられるし、野生の女性ポカホンタスにも何の邪念もなく魅了される。その「自由人」ぶりが冒険や探険向きだと見込まれてか、なぜかニューポート船長に贔屓にされるし、さらなるインド航路の発見に駆り出されるわけだ。そして、その「自由人」としてのサガが災いして、結局ポカホンタスを「捨てる」ことになってしまう。アウトロー臭もプンプンして、何となくカッチョイイ男性像だ。

 だがこの男、ホントにそんな「自由人」なんてカッコいいもんなんだろうか?

 先住民族の集落に囚われ、彼らの生活に魅了され、ポカホンタスの虜となっていたスミス。それを「夢のような生活」と表現していた彼は、イギリス人の砦に戻って来て、真っ先にこうつぶやかざるを得なかった。

 「夢は終わった」

 ねたみ、恨み、虚栄、虚勢、偏見、悪意…などなど、およそ人間のネガティブな感情という感情がない先住民族の暮らしから、一転してネガティブ要素だけで固めてしまったようなイギリス人砦の暮らし。スミスが「夢は終わった」とつぶやきたくなる気持ちも分かるが、実際のところスミス自身も「やっぱり自分はこっち」と納得づくで割り切っているように見える。

 昔、1970年代に「いちご白書をもう一度」とかいうショボい歌が流行った時がある。お察しのいい方ならタイトルを見ただけで予想されるように、それは気持ちの悪いノスタルジーに彩られた歌。長髪を伸ばして自由を謳歌していた若者がいざ就職が迫るや思いっ切り世俗にまみれるカッコ悪さを、妙に自己憐憫に溺れながら正当化してうたったイヤ〜な歌だ。それはいわゆる「団塊の世代」あたりの連中の、押しつけがましさとテメエ可愛さにも似ている。

 そこで歌われた“就職が決まって髪を切って”…云々という歌詞ではないが、「自由人」であるはずのスミスが“夢は終わってここからは「現実」”…と妙に分別を持った「大人」の選択をしているようなのが、見ているこっちにはどうにも気になる。「自由人」ぶっているスミスではあるが、実はそのへんが限界なのではないか。というより、ホントにこいつ「自由人」なのか? この恐るべき小賢しさと打算ぶりはどうだ。

 妙に「飼い慣らされないぜ」とか「ルールはおかまいなしだぜ」とかスゴんでみても、所詮は「就職のために髪を切る」類の人種ではないのか? そう考えてみると、途中からの彼の変節ぶりもうなづける。何とかスミスの世界に溶け込もうと西洋の服に身を包むポカホンタスを見て、当のスミスは当惑を隠せない。一つには、「オレが魅了されたワイルドなポカホンタスは、こんな西洋服に身を包んだ女じゃない」という男の正直かつエゴイスティックな思いがあるだろう。だが、もう一つは?…窮屈な西洋服のポカホンタスを見たスミスは、理屈抜きで自分が一人の女の人生をねじ曲げてしまった事に気づいたのではないか? そして、彼はこう思ったのではないか?

 「こりゃ、オレには責任とりきれねえ」

 かくして三十六計逃げるにしかず。幸い都合良くインド航路発見の任務も命じられたので、「オレの冒険の血が騒ぐ」という言い訳も立つ。スミスは卑怯にも、まるで自分が本物のアウトローで苦渋の選択をしたかのように大見得切って、せいぜいええカッコしながらも保身に走って退場したのではないか。どう考えても、この男かなりセコいのである

 それでいて彼女がイギリスにやって来たとあれば、「別れても好きな人」とでも言わんばかりにその前に現れて恥じない。一体どういうつもりでツラを出せるのだこの男。

 ではでは、一転してポカホンタスの前に現れた第二の男、ジョン・ロルフはどうだ?

 確かに傷心のポカホンタスをじっと我慢の忍耐強さで見守り、愛情の深さは人一倍あるように見える。彼女の心がいまだジョン・スミスにあると知るや、彼と会う機会をつくる度量の広さもあるように見える。心が広い優しい男に見えることは見える。確かにそう思えなくもない。

 だがスミスが死んでいない事など、この男が知らないわけはあるまい。それを意識的に黙っていたとすれば、この男はポカホンタスの気持ちなど尊重していない。自分のエゴを断固として押しつけて、これはこれでリッパに確信犯なのだ。

 どう考えてもイギリス流など合うわけもない彼女を、イギリス流に仕立て直して何ら疑問を感じない。女王陛下からのお呼びとあらば、彼女が望んでもいないイギリス行きを押し通す。この無神経ぶり。さては鈍感なのか?

 いやいや、こいつは全部分かっているのだ。分かっていながらエゴを押し通す。それも「自分は忍耐強くて心が広くて優しい」という、錦の御旗みたいなエクスキューズをちゃんと用意してやっているからタチが悪い。結局こいつが一番可愛いのは、ポカホンタスではなく自分なのだ。

 この映画では、ポカホンタスを巡って二人の対照的な男が描かれる

 だが彼らは対照的ながら、どちらも卑小でテメエ勝手な点だけは一致する。ポカホンタスはイギリス流に染まっていくうちにみるみる生気を失っていきながらも、常に自分の選択を悔やみはしないし恨み言も言わず振り返らない。自分の流儀ではないイギリス流も、とにかく生きていくために受け入れていこうとする…いわゆる「清濁合わせ呑む」だけの度量もある。ところがそんなヒロインとは対照的に、男たちはええカッコしたり善人ぶったりする割には実体が極めて脆弱だ。そしてこれこそが、男というものの本質なのではないか。

 フォーン・ブース(2002)での俗物臭プンプンぶり、アレキサンダー(2004)で「大王」にも関わらず世界の果てで誰も部下がついてこなくなるキャパの狭さ…まさにコリン・ファレルが小物感ムンムンで好演しているジョン・スミスは、そんな今までのキャラと同様のセコい男だ。対して、優しくてフトコロが広そうに見えるジョン・ロルフは、あの危ないアメリカン・サイコ(2000)を演じたクリスチャン・ベールらしく、その内面に歪んだエゴと無神経を隠している。この二人ともどっちもどっち、最大公約数的な男のセコさを体現している。

 そう、男こそ「男らしく」ない。自己保身と正当化に必死な「女々しい」生き物なのである。

 

 

 

 

 

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